私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

山崎 整の 西播磨の山城

2019-10-15 22:00:30 | 歴史探索
 10月15日(火)   天気:晴れ   室温:22.7℃

 ある人から 「山崎整の西播磨の山城」(発行:西播磨県民局 (県民交流室 地域づくり課))
というパンフレットをいただきました。 「ラジオ関西」 パーソナリティーの山崎 整が、西播
磨の山城について、播磨・摂津・備前・美作などの守護職を務めた赤松一族の興亡を軸に 分か
りやすく解説しています。 相生の大島山城跡は まだ行ったことがないので また いつか行っ
てみます。 坂越浦城跡は 行ったことはありますが 写真がありません。
※10月16日に 坂越浦城跡と 相生の大島山城跡へ行き 写真を追加しました。
 
 中世の播磨を代表する名族・赤松氏
 村上天皇の子孫と称する源則景が 鎌倉初期、播磨佐用荘の地頭となり、末の息子・家範が、
 住んだ村名から赤松氏を名乗ったのが始まりとされます。 家範の曽孫円心が 倒幕で活躍
 したにもかかわらず、建武政権で冷遇されたため 足利尊氏に呼応して 後醍醐天皇に反旗を
 翻し、尊氏が建てた室町幕府で 播磨国守護に就きました。
 息子3人うち、三男則祐の系統が 飛躍し、播磨・備前・美作などの守護を兼ねる絶頂期を
 迎えましたが、1441年 則裕の孫・満祐が 将軍足利義教を殺害する 「嘉吉の乱」 を
 起こして 断絶。 後に 満祐の弟・義雅の孫・政則が復興するも、家臣・浦上氏に 実権を
 奪われ、秀吉の播磨攻めで 弱体化しました。 西播磨には ゆかりの山城が 多数あります。
 西播磨は 相生市、たつの市、赤穂市、宍粟市、太子町、上郡町、佐用町の4市3町で
 構成され 兵庫県の約5分の1に当たる面積を有しています。

◆白旗城跡
  赤松円心の手配で 三男・則裕が 海抜440mの山頂に 築城。1336年、円心や足利尊氏と
 敵対する建武政権の新田義貞軍による 50日余りの包囲作戦に耐えて 尊氏の防波堤となり、
 円心は 後に 室町幕府の播磨守護職に。 『播磨鑑』 では 築城は 平安期としています。



◆感状山城跡
  赤松則祐が 父・円心のこもる白旗城と連携し 新田義貞軍を撃退、後に 室町幕府を開いた
 足利尊氏から 手柄の照明 「感状」 を拝受し 瓜生城を改称。 築城は 則裕とも、鎌倉期の
 瓜生左衛門尉とも。 1577年の秀吉による播磨攻めに屈した際、三つの落城秘話があります。
     



◆上月城跡
  1336年、赤松系の上月景盛が 築城。 4代目の時、嘉吉の乱で 嫡流が 滅亡。 播磨・
 備前・美作国境の立地から 1483年以降、山名・尼子・大内・浦上・陶(すえ)らに
 相次ぎ攻められ、戦国末期、赤松氏の後、尼子勝久が 城主の時に落城。 配下の山中鹿之介も
 護送中、殺されました。



◆大島山城跡
  相生湾の大島山頂に 1104年、矢野荘別名下司職の海老名家季が 築城。 後に 赤松円心に
 属し 白旗城籠城の際、留守にした大島城は 新田義貞軍側に落とされました。



◆城山城跡
  古代と中世にまたがる西播磨唯一の複合遺跡。 赤松円心の三男・則裕が 築城。 満祐まで
 3代継承されましたが、嘉吉の乱(1441年)で 落城。 赤松氏も一時滅亡しました。


◆龍野古城跡
  1500年ごろ 鶏籠山(218m)に 築城、4代 約80年にわたり 赤松村秀・政秀・広貞・
 広英(秀)が 城主を務めましたが、秀吉に降伏。 城は 蜂須賀小六へと渡りました。



◆室山城跡
  赤松円心の長男・範資の時、新田義貞により落城。 後に 浦上則宗が入り、兄の曽孫・政宗の
 次男・清宗と黒田官兵衛の妹の婚礼日、赤松政秀に急襲され 廃されました。



◆坂越浦城跡
  大避神社の西側にあり、今は 公園となっています。 茶臼山城麓の海抜約50mの丘城で、
 室町期に 山名氏が 築城。 後に 龍野城主の赤松村秀の通い城となり 付近を支配しました。
 城跡は 坂越浦砦とか 坂越城とも呼ばれ 江戸時代には 赤穂藩の御番所が置かれ 坂越浦に
 出入りする船の監視をしていました。


◆篠ノ丸城跡
  3.5km北の長水城(ちょうずいじょう)と連携した典型的な中世山城(325m)。
 1340年ごろ、赤松円心の叔父・釜内範春が 築城、約100年 続きましたが、嘉吉の乱や
 尼子氏の来襲で 落城しました。



◆波賀城跡
  西播磨では珍しい非赤松系の波賀七郎が 鎌倉初期に築城、3代約50年 統治後に 失脚。
 関東から中村光時が入り、20代350年続いた後、秀吉の播磨攻めで 落城。



◆楯岩城跡
  1330年代、赤松円心の長男・範資の子・則弘(広)が 城山に 築城。嘉吉の乱で 落ち、
 後に 円心の次男・貞範の曽孫・貞村から 5代居城後、秀吉による播磨攻めで 落城。




◆利神城跡
  1349年、赤松系の別所敦範が 築城(373m)。 嘉吉の乱で 落ち、1467年、
 治定が 再興。 1578年、山中鹿之助により落城。 江戸初期、池田輝政の甥・由之が
 城主になりました。



 西播磨には 山城のほかにも、多くの史跡が残されています。 足を延ばして、歴史を肌で
 感じてみてください。
  羅漢渓谷、山崎城跡・山崎の町並み、龍野城・龍野の町並み、斑鳩寺、坂越の町並み、円心館、
 平福の町並み。






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