私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路の旧街道を歩く 浜街道篇3(阿成~津田)

2019-10-14 12:24:43 | 歴史探索
 10月14日(月) 体育の日   天気:晴れ   室温:23.9℃

 きょうは 先日入手した FMゲンキのフリーマガジン ”秋号” の ”気まぐれ途中下車
姫路の旧街道を歩く 浜街道篇3(阿成~津田)” を紹介します。 見所は 22ヵ所
あります。 以前 飾磨津辺りを 散策したことがあり 1回目は 2015.12.22
2回目は 2015.12.29 に歩きました。
         
  
1.道しるべ地蔵
   「左 かめやま 右 ひめじ」 と示す道標の上端部に 地蔵尊が 彫られています。
  安政年間 阿成の渡し場にあったものが、昭和43年に 現在地に移されたとのこと。
2.早川神社
   阿成の氏神。 速川神社とも。 速川は 市川の下流を指します。(飾磨郡誌)
  阿成という地名は 「播磨国風土記」 の倭穴無神の神戸社があったことに 由来。
3・南通り遺跡
   市川西岸の中島辺りは、江戸時代から前の記録がないことから 近世以前は 人が住んで
  いなかったと考えられていましたが 発掘調査により 室町時代の集落跡などが確認され・・
4.道標
   西側 「右 曽根 高砂 左 御着 野田」、南面 「左 室津 あぼし道」、北面 「左 ひめぢ」。
  東面は 風化が激しく、「文久」 の文字のみ判読可能です。
5.飾磨津
   飾磨津は、古代以来 瀬戸内海水運の拠点の一つで、「播州円教寺記」 で 書写山参詣の
  花山法皇下船の記述がみられるなど、古代中世を通じて 湊町としてにぎわっていた。
6.飾磨津町会所跡
   寛延4年に 飾磨津町の年寄りから 町奉行に提出された飾磨津の歴史書 「飾万里基解録」には、
  池田輝政のころの飾磨津には 曽祢村、夷村、細江村の三つの村があったとされ 飾磨津の整備発展・・
7.有本芳水生家跡
   詩人、明治19年 玉地生まれ、関西中学校(岡山) 在学中から詩作を行い、早稲田大学卒業後は、
  実業之日本社に入り、雑誌 「日本少年」主筆となり 発表した少年詩は 大正時代の・・
8.船繋ぎ岩(東堀)
   向島の御船役所の対岸の東堀は、近世初頭の飾磨津の中心で、大坂方面・兵庫方面への
  船着き場として栄えました。 元々 水深が浅く、大型船が入港できず、小型船が用いられ・・
9.御船役所跡
   御船奉行所とも呼ばれた、池田輝政によって創設された姫路藩水軍の基地で、御船手と呼ばれた
  士族が常駐し、藩の水運業務を行っていました。 保有船舶は 約60隻、定員は 200名。
10.御幸橋(橋西・橋東)
   寛和元年(985)、花山法皇が 書写山行幸の折、飾磨津で上陸し ここを通ったので 「御幸町」
   といい、橋を 「御幸橋」と呼んでいます。 橋東の岡手三町と浦手三町を 「橋東」、・・
11.恵美酒宮天満宮
   橋東8地区の氏神。 元は 漁業の神として 戎神を祀っていたので 恵美酒宮と称され、のちに
  天満神(菅原道真)を合祀したため この名称になったようです。
12.飾磨御蔵跡
   姫路藩内6ヵ所にあった米蔵のうちの一つで 数万石の米を保管していました。 御幸橋西詰
  一帯は、船場川から宮堀川を通って領内の米を運んだ高瀬舟の船着き場でした。
13.浜の宮天満宮
   橋西10地区の氏神。 祭神は 菅原道真。江戸末期の郷土誌「村翁夜話集」 に よると、昔は
  現在の宮町に祀られていたが、「大浜の清き汀が良い」ということで 池田輝政により遷座された。
14.物揚場跡
   生野鉱山で必要な機械や工具、石炭や火薬などを 荷揚げした専用貨物港 「飾磨津物揚場」の
  跡です。 荷揚げした物資は、「生野銀山寮馬車道」 と呼ばれた輸送路で 生野まで輸送された。
15.姫路藩浦手番所跡
   飾磨津川口御番所とも呼ばれ、姫路藩が 船舶の出入りの多い浦手に設置した番所。
  室津、高砂、家島にも置かれました。 番所の仕事は 燈籠台の管理、出入船舶の検問、取り締り・・
16.旧飾磨港駅
   明治9年に 生野銀山寮馬車道が 運用を開始しますが 明治20年になると 飾磨と生野を馬車
  鉄道で結ぶ計画が発案され、さらに馬車を蒸気動力に変更した鉄道計画が 明治22年に出願され・・
     
17.湛保(たんぽ)
   飾磨津は 浅瀬で 200石程度の船の出入りしかできなかったため、沖合に停泊した大型船に
  瀬取船で 物資を輸送していました。 弘化3年、大浜の藤田らが藩に願い出て、港を築きました。
18.姫路藩御台場跡(飾磨砲台跡)
   文久3年、姫路藩は 海防のため 湛保の南側に砲台を築きました。 半円形に 1mほど盛り土をし、
  伊伝居の新在家山麓で 鋳造した大砲4門を配備して、砲手を常勤させ、射撃訓練をしました。
19.思案橋
   古代から港として利用されたとされる 「津田の細江」は 山部赤人が詠んだ歌が 万葉集に
  見られることなどから 実在したのは 間違いない。 思案橋は 菅原道真が 陸路・海路を思案した。
20.津田天満神社
   「綱敷天神」 とも言われる。 これは 菅原道真が 敷物代わりに 船のとも綱を敷いたという
  伝承に由来しており、当然に 菅原道真を祭神として祀っています。
21.今在家の薬師堂
   元は 明願寺という大きな寺があり、かって 「津田千軒」 と言われた町の中心にありましたが、
  秀吉の英賀城攻めにより 津田は 戦火に包まれ 明願寺は 灰燼に帰します. 
22.細川地蔵
   地蔵は 二体あり、右側のものが 室町時代のものと推定されています。
  境内には 古い五輪塔や小さい石像が集められています。
  
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