10月12日(月) 体育の日 天気:晴れのち曇り 室温:23.4℃
きょうは 西国街道を 自転車で 歩いてきました。
FMゲンキのフリーマガジン “秋号” の 気まぐれ途中下車 姫路の旧街道を歩く 西国街道篇②
車崎~今宿~下手野周辺 です。 西国街道篇①で 大手前通り~車崎 は 9月4日に めぐりま
した。 西国街道といっても 街道筋には ほとんど 見るべきものがないので 街道から 少し 離れ
た 高岳神社などを めぐります。 最後 夢前川のところへ 帰ってくるので 帰り道ついでに 青山
を歩いて 山田峠を通り 太子町に下りました。 が 青山に入ると 空が 一転 にわかに かき曇
り 雨が 降りそうになってきたので 急ぎ足で 歩きました。 これで 西国街道を歩くのも 最後?
今回のスタート地点・1:車崎という地名は 花山法皇が 書写山に行幸された折に 車で通った
ことに 由来するとか・・。

9:20 出発。 県道を東へ走り 夢前川を渡り 英賀保駅の前を過ぎて 棚田で JRの踏切を
渡り 荒川小学校の横へ。 のどが渇いたので 茶くれん寺(法輪寺)へ寄って 茶を所望しますが・・。
茶は くれません。 仕方ない 自分のお茶で 我慢しましょう。 R2の西行き道に突き当たり 右折
して 土山大橋を渡り 次の信号で 左折して 北へ行くと 名古山トンネルの南、車崎東の交差点で
ここが 本日のスタート地点です。 10:10 着。
名古山トンネルの手前の道を 西へ進みます。 これが 西国街道。 広い道を越え 少し進むと
水尾川に架かる 2:車崎橋。 水尾川は 以前は 細い水路のような川だったそうですが 平成
22年に 改修工事が 竣工しました。

つぎは 3:今宿の牛市。 明治の初め頃から戦前まで この辺りに 牛市がありました。 遠方
から 牛の買い付けに来たそうですが 今は 何もありません。 当時 牛市で 仕事をされていた
お宅(松本さん)には 珍しい牛の瓦が 保存されています。 どこにあるか 探せるもんなら・・・。

5:髭題目塔は 街道から 20mほど 北へ入ったところにありました。 手前の散髪屋さんに
聞きました。 この塔は 日蓮上人の四百回遠忌の1681年に 建立された。 南無妙法蓮華
経の六字の”はらい”が 髭のように 長く書かれている。
4:神子岡山は 街道から 坂道を北へ上がったところの山です。 自転車では登れないので
下に置いて 歩いて登りました。 この山は 播磨国風土記の14丘のひとつ、甕丘(みかおか)
と言われています。 山頂には 気象観測所と 面白山児童センターがあります。 面白山は
字(あざ)に 由来する?

行きすぎて 引返していると 西源治の手前(西)に お地蔵さんがありました。 現在地に 山名
四郎三郎が開いた 寺子屋があり その門弟が 崇敬する山名四郎三郎の石像を造り 明治11年
地蔵菩薩を祀りました。

地蔵さんの先が 7:西源寺。 西源寺は 1533年 今宿の五郎左衛門によって開かれた 浄土真
宗の道場が 由来という 真宗大谷派のお寺です。 1859年 親鸞上人の六百回遠忌に 寄進され
た 東山焼の燈籠は 大変珍しいもので 現存するものは 2基しかない。
安政6年(1859)作の素焼の東山焼の燈籠は 笠の部分が 壊れ 補修されています。
ここで 白髪の女性に お会いしましたが この方は 85歳だったか かなりのお歳ですが 目も耳
も 足腰も達者で 毎日 この辺りを徘徊している・・。 なにより 口が 達者なのには 参りました。
延々と 虎視眈々?と 30分くらい お話ししました。 私は まだ あちこち行かないと 行けないのに・・。

西源寺の100mほど 東が 6:東今宿薬師堂。 別名子供薬師。 子どもたちによって 組織
された 薬師子供の活動拠点でした。 さっきの女性が 花山法皇が なんとか言っていたので
奥のお寺を 見に行くことに・・。 薬師堂の奥にあるお寺は 天台宗の昌楽寺でしたが 何のこ
とはない、花山法皇が 立ち寄ったというだけのことでした。 また 時間を ロス。

ここ 今宿という地名は 古代山陽道の草上駅家が衰えた後 新たにできた宿場ということが 名称
の由来と言われているそうで 交通の要衝で 後醍醐天皇の隠岐配流の記されたものもあるとか・・。
西国街道を西へ進むと 8:高岳神社の道標があり 側面には 北在五丁 と刻まれています。
少し先には 9:道祖神の祠があります。 地元では 「茶屋の地蔵さん」 と呼ばれていて 地蔵尊と
道祖神が 祀られています。 この辺りは 村境の茶屋や 宿屋があったそうです。

国道の南には 10:姫路西消防署があります。 無火災安全祈願だるまが有名? ついでに 西に
ある姫新線の播磨高岡駅を 覗いてみました。 ちょうど 上りの電車が ホームへ入ってきました。

高岳神社の道標を見たので 北にある高岳神社へ行きます。 きのう 祭りだったようで 後片付
け中です。 高岳神社は 延喜式(10世紀)に 記載された古社。 「播磨国内鎮守大小明神記」
には 太神二十四社の中に 高岳太神、播磨国内八所明神の第五の宮とあり 安室郷の総氏神
だった。 初め 安室郷新在家八丈岩山 「鳶が巣」 に 鎮守されたが 蛤山に 移した。

高岳神社のすぐ北の山頂にある 高さ10mにもおよぶ大岩は 蛤岩と言われ 大石の上の
少しくぼんだ所に たまった水が 潮の干満と同じように 上下するという話が伝わる。
また この岩山や その周辺で 蛤の化石が 発見されたという・・・。
コンクリート舗装の急坂を 北へ登ると 広場があり さらに 北へ登ると 岩場があり この辺り
から 姫路市街が見渡せ 東には 姫路城も。 船越山と土器山が 見えにくいのが 残念です。

西国街道へ戻りましょう。 途中にある 西今宿地蔵堂に寄ります。 ここでも 祭りの片付け中。
観音堂の南に地蔵さんがあり その前に 5個の力石があり その一つ、右の一番大きな石に
「明治27年2月 当村 八ツ頭勇太郎持之」 と刻まれています。 下の地蔵堂は 観音堂です。

西国街道を西へ進み 12:土器山(瓦山)へ行きました。 山裾に 船越神社があり ここも
片付け中で 大くの人が出ています。 船越神社へお参りし 上の金比羅社のところまで行き
ましたが きょうは 山登りの日ではないので 土器山へは 登りませんでした。 ヤブ蚊が・・。
土器山の山頂は 青山の合戦で 官兵衛が 布陣したところです。 陣跡からは 青山方面も
姫路城も 望めます。 姫路城は 見えたかな・・? 空模様が 怪しくなってきました。

どの道を通ったのか 覚えていませんが 路地の奥にあった? 下手野地蔵尊へ行きました。
下手野町中央に 鎮座する地蔵尊は 古くから町民の尊崇の中心で 心のふるさと。
昭和16年に 来法寺から 現在地に 移転したと思われる。

ついでに 来法寺へ。 法水山来法寺は 元和3年(1617)10月 大圓により開基され
寛文年中(1660年頃) 貞照院にしたがい 東派に帰した 真宗大谷派の寺院である。

さらに 西へ行くと 右に 下手野の道標があります。備前道(西国街道)・因幡道・龍野道の
分岐点にある道標で 右 第一番みまさか誕生寺道 左 たつの道 と刻まれています。
誕生寺は 円光大師二十五番霊場のひとつで 法然上人の生地です。
県道の角に 下手野の常夜燈があります。 ここは 西国街道が 夢前川に差し掛かる旧堤
防上で ここには 夢前川の渡し場があった。 常夜燈は 桔梗屋という旅籠が 寄進した。

ここが 本日のゴールで 西国街道篇②の終点ですが 網干へ帰るので ついでに 青山を
巡ります。 夢前橋を渡ると 右手 国道29号線の角に 青山の道標があります。 ここは
西国街道と因幡街道の分岐点でした。 道標は 安政2年の建立です。 さらに西へ進みます。
この辺りは 官兵衛ゆかりの地巡り・青山編 で 歩いたことがあります。 2014.1.3
でした。

少し先に行くと 右奥に稲岡神社がありますが 空模様が 怪しくなってきたので パスして
先を急ぎます。 稲岡神社の裏山・稲岡山は 風土記に 稲牟礼の丘との記述がある山です。
青山製紙組合の碑は 明治中期から大正にかけて この地で 和紙の製造が盛んだった頃
の顕彰碑です。 (山名)宗全寺跡は パス。

青山ゴルフ場の脇にある 青山古戦場跡へ。 官兵衛が 初めて指揮し 龍野城主・赤松政秀と
戦い 赤松軍を撃退した古戦場。 永禄12年(1569)のこと。 敵兵3000に対し 300の兵で
奇襲をかけ 勝利した。 石碑は 藤棚に埋もれています。

国道を南へ渡り 坂道を 自転車を押して上がります。 坂を上がると 山田峠。 ここは
切り通しになっていて 薄暗い。 西国街道は 峠から降りて 国道へ合流して 太子町へ
進みますが 私は 帰る都合上 新幹線の高架下へ出て 高架下を 西へ戻りました。
なんとか 雨の被害を最小限に食い止め 14:20 家に帰り着きました。

西国街道は 太子町山田から 国道を越えて 太子町黒岡へと続きますが 以前 歩いてい
るので 西国街道歩きは 今回で 一応 終了となります。 FMゲンキのフリーマガジンの
”冬号”には 西国街道篇③が 載るのでしょうか?
以前 何回かに分けて 太子町黒岡から西の西国街道も 相生辺りまで 歩いたことがあります。
。。。。。。
。。
。。
。。。。。。。
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きょうは 西国街道を 自転車で 歩いてきました。
FMゲンキのフリーマガジン “秋号” の 気まぐれ途中下車 姫路の旧街道を歩く 西国街道篇②
車崎~今宿~下手野周辺 です。 西国街道篇①で 大手前通り~車崎 は 9月4日に めぐりま
した。 西国街道といっても 街道筋には ほとんど 見るべきものがないので 街道から 少し 離れ
た 高岳神社などを めぐります。 最後 夢前川のところへ 帰ってくるので 帰り道ついでに 青山
を歩いて 山田峠を通り 太子町に下りました。 が 青山に入ると 空が 一転 にわかに かき曇
り 雨が 降りそうになってきたので 急ぎ足で 歩きました。 これで 西国街道を歩くのも 最後?
今回のスタート地点・1:車崎という地名は 花山法皇が 書写山に行幸された折に 車で通った
ことに 由来するとか・・。


9:20 出発。 県道を東へ走り 夢前川を渡り 英賀保駅の前を過ぎて 棚田で JRの踏切を
渡り 荒川小学校の横へ。 のどが渇いたので 茶くれん寺(法輪寺)へ寄って 茶を所望しますが・・。
茶は くれません。 仕方ない 自分のお茶で 我慢しましょう。 R2の西行き道に突き当たり 右折
して 土山大橋を渡り 次の信号で 左折して 北へ行くと 名古山トンネルの南、車崎東の交差点で
ここが 本日のスタート地点です。 10:10 着。
名古山トンネルの手前の道を 西へ進みます。 これが 西国街道。 広い道を越え 少し進むと
水尾川に架かる 2:車崎橋。 水尾川は 以前は 細い水路のような川だったそうですが 平成
22年に 改修工事が 竣工しました。



つぎは 3:今宿の牛市。 明治の初め頃から戦前まで この辺りに 牛市がありました。 遠方
から 牛の買い付けに来たそうですが 今は 何もありません。 当時 牛市で 仕事をされていた
お宅(松本さん)には 珍しい牛の瓦が 保存されています。 どこにあるか 探せるもんなら・・・。



5:髭題目塔は 街道から 20mほど 北へ入ったところにありました。 手前の散髪屋さんに
聞きました。 この塔は 日蓮上人の四百回遠忌の1681年に 建立された。 南無妙法蓮華
経の六字の”はらい”が 髭のように 長く書かれている。
4:神子岡山は 街道から 坂道を北へ上がったところの山です。 自転車では登れないので
下に置いて 歩いて登りました。 この山は 播磨国風土記の14丘のひとつ、甕丘(みかおか)
と言われています。 山頂には 気象観測所と 面白山児童センターがあります。 面白山は
字(あざ)に 由来する?



行きすぎて 引返していると 西源治の手前(西)に お地蔵さんがありました。 現在地に 山名
四郎三郎が開いた 寺子屋があり その門弟が 崇敬する山名四郎三郎の石像を造り 明治11年
地蔵菩薩を祀りました。



地蔵さんの先が 7:西源寺。 西源寺は 1533年 今宿の五郎左衛門によって開かれた 浄土真
宗の道場が 由来という 真宗大谷派のお寺です。 1859年 親鸞上人の六百回遠忌に 寄進され
た 東山焼の燈籠は 大変珍しいもので 現存するものは 2基しかない。
安政6年(1859)作の素焼の東山焼の燈籠は 笠の部分が 壊れ 補修されています。
ここで 白髪の女性に お会いしましたが この方は 85歳だったか かなりのお歳ですが 目も耳
も 足腰も達者で 毎日 この辺りを徘徊している・・。 なにより 口が 達者なのには 参りました。
延々と 虎視眈々?と 30分くらい お話ししました。 私は まだ あちこち行かないと 行けないのに・・。




西源寺の100mほど 東が 6:東今宿薬師堂。 別名子供薬師。 子どもたちによって 組織
された 薬師子供の活動拠点でした。 さっきの女性が 花山法皇が なんとか言っていたので
奥のお寺を 見に行くことに・・。 薬師堂の奥にあるお寺は 天台宗の昌楽寺でしたが 何のこ
とはない、花山法皇が 立ち寄ったというだけのことでした。 また 時間を ロス。



ここ 今宿という地名は 古代山陽道の草上駅家が衰えた後 新たにできた宿場ということが 名称
の由来と言われているそうで 交通の要衝で 後醍醐天皇の隠岐配流の記されたものもあるとか・・。
西国街道を西へ進むと 8:高岳神社の道標があり 側面には 北在五丁 と刻まれています。
少し先には 9:道祖神の祠があります。 地元では 「茶屋の地蔵さん」 と呼ばれていて 地蔵尊と
道祖神が 祀られています。 この辺りは 村境の茶屋や 宿屋があったそうです。



国道の南には 10:姫路西消防署があります。 無火災安全祈願だるまが有名? ついでに 西に
ある姫新線の播磨高岡駅を 覗いてみました。 ちょうど 上りの電車が ホームへ入ってきました。



高岳神社の道標を見たので 北にある高岳神社へ行きます。 きのう 祭りだったようで 後片付
け中です。 高岳神社は 延喜式(10世紀)に 記載された古社。 「播磨国内鎮守大小明神記」
には 太神二十四社の中に 高岳太神、播磨国内八所明神の第五の宮とあり 安室郷の総氏神
だった。 初め 安室郷新在家八丈岩山 「鳶が巣」 に 鎮守されたが 蛤山に 移した。



高岳神社のすぐ北の山頂にある 高さ10mにもおよぶ大岩は 蛤岩と言われ 大石の上の
少しくぼんだ所に たまった水が 潮の干満と同じように 上下するという話が伝わる。
また この岩山や その周辺で 蛤の化石が 発見されたという・・・。
コンクリート舗装の急坂を 北へ登ると 広場があり さらに 北へ登ると 岩場があり この辺り
から 姫路市街が見渡せ 東には 姫路城も。 船越山と土器山が 見えにくいのが 残念です。



西国街道へ戻りましょう。 途中にある 西今宿地蔵堂に寄ります。 ここでも 祭りの片付け中。
観音堂の南に地蔵さんがあり その前に 5個の力石があり その一つ、右の一番大きな石に
「明治27年2月 当村 八ツ頭勇太郎持之」 と刻まれています。 下の地蔵堂は 観音堂です。



西国街道を西へ進み 12:土器山(瓦山)へ行きました。 山裾に 船越神社があり ここも
片付け中で 大くの人が出ています。 船越神社へお参りし 上の金比羅社のところまで行き
ましたが きょうは 山登りの日ではないので 土器山へは 登りませんでした。 ヤブ蚊が・・。
土器山の山頂は 青山の合戦で 官兵衛が 布陣したところです。 陣跡からは 青山方面も
姫路城も 望めます。 姫路城は 見えたかな・・? 空模様が 怪しくなってきました。






どの道を通ったのか 覚えていませんが 路地の奥にあった? 下手野地蔵尊へ行きました。
下手野町中央に 鎮座する地蔵尊は 古くから町民の尊崇の中心で 心のふるさと。
昭和16年に 来法寺から 現在地に 移転したと思われる。



ついでに 来法寺へ。 法水山来法寺は 元和3年(1617)10月 大圓により開基され
寛文年中(1660年頃) 貞照院にしたがい 東派に帰した 真宗大谷派の寺院である。



さらに 西へ行くと 右に 下手野の道標があります。備前道(西国街道)・因幡道・龍野道の
分岐点にある道標で 右 第一番みまさか誕生寺道 左 たつの道 と刻まれています。
誕生寺は 円光大師二十五番霊場のひとつで 法然上人の生地です。
県道の角に 下手野の常夜燈があります。 ここは 西国街道が 夢前川に差し掛かる旧堤
防上で ここには 夢前川の渡し場があった。 常夜燈は 桔梗屋という旅籠が 寄進した。



ここが 本日のゴールで 西国街道篇②の終点ですが 網干へ帰るので ついでに 青山を
巡ります。 夢前橋を渡ると 右手 国道29号線の角に 青山の道標があります。 ここは
西国街道と因幡街道の分岐点でした。 道標は 安政2年の建立です。 さらに西へ進みます。
この辺りは 官兵衛ゆかりの地巡り・青山編 で 歩いたことがあります。 2014.1.3
でした。



少し先に行くと 右奥に稲岡神社がありますが 空模様が 怪しくなってきたので パスして
先を急ぎます。 稲岡神社の裏山・稲岡山は 風土記に 稲牟礼の丘との記述がある山です。
青山製紙組合の碑は 明治中期から大正にかけて この地で 和紙の製造が盛んだった頃
の顕彰碑です。 (山名)宗全寺跡は パス。



青山ゴルフ場の脇にある 青山古戦場跡へ。 官兵衛が 初めて指揮し 龍野城主・赤松政秀と
戦い 赤松軍を撃退した古戦場。 永禄12年(1569)のこと。 敵兵3000に対し 300の兵で
奇襲をかけ 勝利した。 石碑は 藤棚に埋もれています。



国道を南へ渡り 坂道を 自転車を押して上がります。 坂を上がると 山田峠。 ここは
切り通しになっていて 薄暗い。 西国街道は 峠から降りて 国道へ合流して 太子町へ
進みますが 私は 帰る都合上 新幹線の高架下へ出て 高架下を 西へ戻りました。
なんとか 雨の被害を最小限に食い止め 14:20 家に帰り着きました。



西国街道は 太子町山田から 国道を越えて 太子町黒岡へと続きますが 以前 歩いてい
るので 西国街道歩きは 今回で 一応 終了となります。 FMゲンキのフリーマガジンの
”冬号”には 西国街道篇③が 載るのでしょうか?
以前 何回かに分けて 太子町黒岡から西の西国街道も 相生辺りまで 歩いたことがあります。
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