私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

エルミタージュで 『峯相記』

2016-07-27 15:01:56 | 歴史探索
 7月27日(水)   天気:晴れ    室温:33.0℃

 きょうは 朝日谷のカフェ・エルミタージュへ 行きました。 今週は ”創作人形” が展示されていま
すが 写真禁止! こんなことは 初めてです。 泣く子と 写真禁止には 勝てません・・。  ところ
が カフェに 福井さんがおられ いつも 水曜日の11時半に行く 私を 待っておられました。
 この前 FMゲンキの資料 ”姫路の旧街道を歩く 因幡海道篇” を お渡ししましたが 福井さんが 持
っておられる ”播磨の中世を読む 口語訳 『峯相記』(西川 卓男 播磨学研究所)” を持ってきていただ
いたのです。  今回は この 『峯相記』 の内容について 少し書きたいと思います。 著作権のことも
あるので 詳しく書くことはできません。
 この本は 目次、原文のコピー(毛筆の底本)、毛筆の活字体、通訳 に分かれていますが ここでは
分かりやすい 通訳の 私の関心のある部分のみを 抜粋します。
 新宮の埋蔵文化センターで ”「峯相記」の考古学” の展示を見たのは 2012.10.24 です。

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 貞和四年(1348) 十月十八日 私は 播磨の峯相山鶏足寺に 参詣した。 ざっとこのお寺の有様を述
べてみると 人里からは遠く離れていて 俗世間から隔離された 静かで おくゆかしい雰囲気の草深いとこ
ろである。 長い年月を経て 仏法が 徐々に東の国へと(伝えられていく わが国での)最初の地であった。
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 25ページには 老僧宗々格別之談として 花厳宗、真言宗、天台宗、禅宗、涅槃宗・・・・について書かれ
ています。
 39ページには その後も 心閑かに お話をしなさった。 「この寺の起源は 遠い昔です。 神功皇后(第
14代仲哀天皇の皇后・第15代応神天皇の母)が 三韓(新羅・百済・高句麗) を治めなさった時に 新羅の
王子を 人質として 連れて帰りなさった。    その王子の言うことに 『海を渡る間 波風が穏やかで 日本
に着くことが出来ましたら 伽藍を建てたい』 と。 ・・・・・ 王子は 峯相山によじ登り 草ぶきの小屋を
作り 千手観音菩薩陀羅尼を 声を出して 一心に唱えなさる。 ・・・・・・

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 41ページには 性空上人が 一夏 この寺に籠って 法華経を一部 永延(987~989)年に 施入なさ
った。 このお二人の聖人の筆写したお経は 今も残っていると言います。 ・・・・ よく覚えていません
が 書写山(円教寺) と言いますのは 性空上人が 開山なさった時 花山法皇が 行幸なさった所です。
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 ぺーじは はっきりしませんが 「所々之霊場ノ縁起ヲ尋ヌ」 のところで 播磨(天台)六山が 出て
きます。
1.書写山円教寺 2.増位山随願寺 3.法花山(法華山)一乗寺 4.八徳山八葉寺 5.妙徳山神積寺
6.蓬莱山普光寺  について書かれています。
 47ページには 次に法華山一乗寺は 法道仙人の建立。 孝徳天皇の御立願です。 仙人は 天竺で 金
剛摩尼の法を会得されました。 しばしの間に 十方世界に往来します。 空の鉢を飛ばせて お供え物を受
け取り 大化元年(645) の頃 紫雲に乗って 新羅、百済を通り過ぎて 我が国まで飛んできました。
 そして 播磨の国の印南郡の法華山に 留まりなさいました。  谷は 蓮華の花のようで 峯は 八つに分か
れ 蓮の葉のよう めでたい印の雲が 絶えず 峯にかかっています。・・・・
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 此外  粟賀ノ犬寺(金楽山法楽寺)や 白国 亀井寺などの記述があります。
また 答云神明ノ事ハ として 55ページあたりから 播磨五の宮 と言われる 一宮・伊和大明神 二宮
・荒田大明神  三宮・酒見大明神  四宮・白国大明神 がありますが  五宮・高丘神社は?
 一の宮 伊和大明神は 素盞男尊の第一子が 白山神社の神の化身として現れ 神功皇后が 古代朝鮮半島
南部を攻めなさった時 副将軍として戦場へ向かいました。 ・・・・ 副将軍は この国に留まりました。
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 63ページには 魚吹八幡神社は これを推察すると 八幡大菩薩が はじめて御上りの時 この国の神々が
加古郡にお集まりになって揖保川の辺りに ご集会。 御神楽奉納など 祭礼の儀式をしました。  その跡地に
八幡大菩薩を崇敬し奉る(神社を建てた)という由来があります。 それが 魚吹八幡でいらっしゃいましょうか。

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 67ページには また 大石を割って 従わない他の部族の者に見せて 投げたものが 奈良の三輪川から
生駒山を越えて 播磨の国のユスルノ山に落ちた と この伝記に書いてあります。 すなわち 太市の破磐
明神が これです。・・・・これは 神功皇后の三本の矢伝説とは 異なりますが・・・・。
 神亀年間(724~29)に 播磨国 揖保郡 矢田部村に 俗名を武吉丸と言う者が居ました。 出家して 仏
門の道に入り 名を徳道上人と改め 行基僧正に 法相宗について 学問を受け 役の行者が 伝えてきた真言
経を修行して ひそかに三輪山に行っていました。
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 69ぺーじには 広峯神社の記述があり 虚しく下山して 麓の禅寺で 一泊しました時に 老僧が お話しく
ださったことには 「元正天皇の御代 霊亀二年(716) 右大臣吉備真備が 遣唐使として 入唐して 18年
学んだことは 13道 殊に 陰陽道を極め尽しました。 聖武天皇の御代 天平五年(733)に 帰国。
 広峯山の麓に 一泊なさいました。 そこで 夢でもない 現実でもない時に 高貴な身分の人が出てきて
・・・・牛頭天王が その方です。 数年後 平安京が造られたとき 東の方角を守護のために 京都・祇園の
荒町に この神の分霊を請じ 迎えて お祭り申し上げました、との事情があります。 おそらく ・・・・
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 73ページには また 阿倍晴明と 芦屋道満は 一条院の御代 好一対の陰陽道のすぐれ者です。 ですが
道満は 藤原伊周公の言葉に依って 御堂関白道長を呪い申し 道長がお出ましの道に 呪書封した物を 埋め
ました。
 晴明が 勘で 見顕わし 掘り起こしなさいました。 それは すぐに白鷺となって 飛び去ってしまいました。
この罪によって 道満は 播磨国に流刑になり 佐用郡の奥地に住み 帰郷を遂げること無く 亡くなりました。

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