私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

和久 関ノ口遺跡 現地説明会 資料

2018-04-21 13:49:54 | 歴史探索
 4月21日(土)    天気:晴れ    室温:26.9℃

 4月14日(土) 網干区和久の関ノ口遺跡 第3次発掘調査 現地説明会が行われましたが
14日を 日曜日と勘違いして 説明化に参加することが できませんでした。 ところが 火
曜日の歴史教室で ある人が 現地説明会の資料 「関ノ口遺跡の調査」 をもらってきてくれま
した。 せっかくなので いただいた資料を 紹介しておきます。 2017年(平成29年)
2月18日(土)の関ノ口遺跡(2区) 発掘調査 現地説明会の様子は <こちら> を。

 「関ノ口遺跡の調査」 ~弥生時代中期・古墳時代初頭の集落跡の調査~
   席の口遺跡 第3次発掘調査 現地説明会資料  平成30年4月14日(土)

 関ノ口遺跡 は 姫路平野の西側、大津茂川の右岸に位置します。 区画整理事業に伴って
平成25年度から実施してきた 発掘調査により 遺構密度の高い遺跡であることが わかりま
した。 さらに、平成28年度に実施した 第1次発掘調査では 2基の埋没古墳や 大型の堀
立柱建物をはじめ 弥生時代中期や 古墳時代初頭の集落、中世の畑跡を確認するなど 多く
の成果を得ることができました。

 今回紹介する調査区(3区)では 弥生時代中期後半(紀元前1世紀から2世紀)と 古墳
時代初頭(3世紀末)の集落を確認しました。 弥生時代の集落は 円形の竪穴住居によって
構成されていましたが 継続して生活が 営まれることは なかったようです。 その後しばら
くして 古墳時代に入ると 再び 竪穴住居が建てられたことが わかりました。 この集落は
2本の川跡に 挟まれた小さな微高地を利用していました。

 川跡は 最初の集落が営まれていた 中期後半に起こった 比較的大規模な洪水によって 一気
に川床が 上昇したようで 中世に完全に埋没したと考えられます。 このように 具体的に
当時の集落の景観が復元できたことが 今回の調査における 最大の成果といえます。

 平成29年度は 2・3次調査を実施しました。
 2次調査では 調査区の南端で 地形の落ちを検出し その南側で行った試掘調査では 谷
地形を確認したことににより 遺跡の南端を 確定することができました。
 3次調査では 4か所で 調査を行いました。  1区では 中世の堀立柱建物や 弥生時代の
土坑などを 確認しました。 2区では 昨年度調査した円墳の周溝の続きを確認するとともに
当初 想定していた地山のさらに下層で 古い地山を検出し 弥生時代前期の土坑を見つけるこ
とができました。

 4区では 中世の畑地とともに 建物の柱穴の一部を確認するとともに 弥生時代中期後半
に埋没した谷地形を調査することができました。
 2年目の本発掘調査でしたが 関ノ口遺跡の具体的な姿を知るうえで 重要な成果を得るこ
とが できました。  発掘調査は 2年目ですが 今のところ 弥生時代前期と 中期、そして
古墳時代初頭の遺構・遺物は 検出したものの 弥生時代後期の遺構や遺物については 確認で
きていません。
 弥生時代中期から 後期にかけては 全国的にも 集落立地や土器生産の仕組みが変化するな
ど 社会に大きな動きがみられます。 関ノ口遺跡の人々も そのような 時代の変化を目の当た
りにしたのでしょうか。

 2区で検出した 2基の古墳の周溝の続きを確認し 周溝の底を 部分的に 浅く掘りくぼめた
ところから 須恵器の杯身と 杯蓋が まとまって出土しました。 なかには 蓋が身に被さった
状態で 出土したものもあり その内部には 僅かに泥が入っていました。 今後の内容物の分
析が期待されます。 出土した須恵器は その特徴から 古墳時代中期後半(5世紀後半)のも
のと考えられます。

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コメント
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