私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

後藤又兵衛ゆかりの地めぐり

2016-11-17 14:56:10 | 歴史探索
 11月17日(木)   天気:晴れorうす曇り+モヤ   室温:19.7℃

 きょうは ”後藤又兵衛ゆかりの地めぐり” ということで 姫路市山田町の福田寺と 加西市尾崎町
の多聞寺まで 約93km ドライブしてきました。 久しぶりに 姫路バイパスを走りましたが 車が多く
以前に比べ 走り難くなっていました。
 最近 大河ドラマ 「真田丸」 で 大坂の陣が 放映され 後藤又兵衛(1560~1615)が 出てきます。
「軍師・官兵衛」 でも 出ていましたが 結局 脇役で 主役ではありません。 でも いい機会なので
又兵衛のゆかりの地を 訪れてきました。

 9:45 出発。 姫路バイパスから 播但道に回り 10:18 船津ランプで降ります。 県道81号線を
東へ走り 南山田辺りで 福田寺の表示を見て 右折。 細い分かり難い道を 何とか進み 福田寺へ。
 10:34 福田寺の駐車場に 到着。 船津ランプから 3.3kmでした。

 藤原鎌足より 14代目の子孫である公卿が 後藤姓を名乗ったのが この姓の始まりと言われる。
後藤又兵衛は 春日山9代目城主・後藤基信の弟・基国の子として 永禄3年神東郡山田村に生ま
れた。  又兵衛は、黒田官兵衛、豊臣秀頼に仕え、安土桃山時代から 江戸時代初期に 活躍した
武将で 「黒田二十四騎」、「黒田八虎」、「大阪五人衆」 の一人に数えられる。 又兵衛は、「槍の又
兵衛」 の呼び名を持つ男となりました。

 父は、小寺政職の下にいた後藤新左衛門基国。 父の基国は、又兵衛が 幼少の頃に 亡くなり
姫路城の城主であった 黒田官兵衛の元へと預けられ、青年期を 過ごしました。  後に 因縁深い
間柄となる長政とは 兄弟のような関係で 育ったと言われています。  聞いた話では 又兵衛は
長政より 2、3歳年上で 身体も大きく 頭もよかったので 官兵衛は 自分の息子・長政より 又兵
衛を かわいがったとか・・。  この頃から 長政と 又兵衛の間に 確執が生まれたのでしょうか・・。
 ある戦いで 長政が やられそうなのを 傍で見ていた又兵衛に 長政が なぜ 助けてくれないのか
と言うと 又兵衛は あの程度の相手にやられるようでは 仕方ないわ・・・。

 福田寺は、孝徳天皇の大化元年 法道仙人による開基で、慶長年間、教順大阿闍梨が 本寺を中興された。
当時 南山田城に在った 後藤又兵衛基次は 深く当山を信仰し、帰依したと言われ、また 後藤一族の菩提寺
であったとも言われています。
 その後 嘉永年間 延暦寺山内より 別勅大僧都慈恵法印が 本寺の住職に任ぜられ 当山発展に尽されまし
た。 現本堂は 昭和十一年 真道法印によって 再興されました。 ご本尊は 木造阿弥陀如来像、文正元年(
1466) 室町時代の作、他に 如意輪観音像、室町初期の作も 祀られている。
 寺の境内には 「一石一字法華塔」 が 二基あり 詮隆法印と 貫通法印が 市川の河原から 小石を拾い 洗っ
て 一石に 一字、法華経を書いて 俵に入れ 埋められ 供養された塔と 伝えられています。

 本堂の裏手の墓地の奥に 又兵衛の父母の供養塔があります。 駐車場の脇に 又兵衛の顕彰碑が
あり 顕彰碑の後方に 見えるこんもりとした丘が 南山田城跡です。 車を置いて 歩いて行きます。

 南山田城跡 : 約100m四方のこの小丘は 南半分が 整地されて 児童公園になっているが 北側から
東側のヤブには 三段の平坦地と 周囲に土塁跡も認められる。 ここは 後藤又兵衛基次の居城 「南山田
城跡」 といわれ 基次の父・基国が 16世紀後半に 築いたと伝えられる。 父・基国は 三木城主・別所氏の
家臣。 丘の上は 竹藪で 古い祠がありました。

 城跡の北にある 「又兵衛田」 は 1611年(慶長16年) 以降 姫路城・城主 池田輝政の配慮で
又兵衛の扶持米を作ったとされる田で 「又兵衛田」 と言い伝えられる。 黒田家を出奔後の又兵衛の
命をつないできた貴重な田である。
 県道の北にある 「蛇塚」 は むかし 南山田の池田という所におった大蛇が 田畑を荒らし回り 村人を
苦しめていた。 近くの射場という所で 弓の稽古をしていた 又兵衛が 拙者が退治してやろうと言った
そうで 射場から弓を射て 見事に大蛇を退治した。 それで この辺りを 「蛇塚」 というそうな。

 県道81号線にでて 東へ向かいます。 ところが いつの間にか 県道117号線を走っています。
81号線は 途中で 右に曲がっていました。 81号線を まっすぐ走り 王子町の交差点で 左へ折り返し
県道43号線に乗り 北へ。 北条鉄道の踏切を越え 橋を渡った先で 幟がはためいているところで 右
折。 保育園の隣が 多聞寺でした。 11:43 広い駐車場に 車を停めました。 福田寺から 10.2km。

 曹洞宗 祝融山 多聞寺は 大坂夏の陣、河内道明寺の戦いにおいて 又兵衛が討ち死にしました 翌年の
元和2年(1616)に 又兵衛の三男佐太郎が 父と兄を弔うために 尾崎村、岩本官兵衛から 土地の施しを
受け 又兵衛の一周忌に合わせて 父を弔うため 建立しました。 又兵衛の菩提寺である多聞寺は 現在も
又兵衛の真牌(位牌)を本堂に 奉安しています。  なぜか 水子供養のお地蔵さんが 多い・・。

 本堂の左側に 首なしキリシタン地蔵尊があります。 これは 地中より出土したのもですが 黒田官兵衛
が クリスチャンだったこともあり 又兵衛も キリスト教を 信仰していたのではないか・・。 それを隠すため
地中に埋められていた・・。




 帰路 播但道近くまで帰って 少し北へ行き 飯盛山を見てきました。 飯盛山には 又兵衛の伯父?の
後藤基信が 城主をつとめた 春日山城があったようです。 2008年3月に 飯盛山に登ったことがあるので
すが なにも覚えていません。 当時は まだブログを書いていないし・・。 探せば 写真はあるかも・・。

 探せば あるもので 写真が出てきました。 2008年3月9日に 登っていました。 飯盛山山頂(春日山城跡)
にあった説明板には 春日山城は 建武年間に築城され 播磨守護・赤松氏の幕下であった 後藤基明が 初代
城主として 統治していました。  応仁の乱には 赤松政則の部下として 出陣し 山名の軍勢を破って 軍功を
立てました。 天正6年(1578) 9代目 後藤基信のときに 中国征伐に向かう 羽柴秀吉によって 城は 攻め
落とされました。  飯盛山 山頂には 三角点があり 標高197.9mとなっていますが・・・。 


 12:45 船津ランプから 播但道に入り 姫路バイパスを走り 13:38 家に 帰ってきました。 本日の走行
距離は 往路:福田寺まで 35.5km 多聞寺まで 10.2km 復路:47.6kmで 計:93.3kmでした。

 家に帰り テレビを見ながら ブログを書いていると NHK BSニュースで 後藤又兵衛に関する書簡
が見つかったと・・・・
 夕刊には ”後藤又兵衛の最期 記す” とあり 大坂夏の陣での又兵衛の最期の様子を書いた書簡が
見つかった とあります。 致命傷を負った又兵衛が 秀頼から 拝領した脇差で 家臣に 自らの首を斬る
よう頼んだことが 記され・・・。 長四郎は その脇差しで 首を落とせず 脇差しを 秀頼に渡したという内
容が 書かれているという・・・・。


 。。。。。  。。。  。。。。。。  。。。  。。。。。。。  。。。  。。。。。。  。。。  。。。。。。。  。。。  。。  。。。。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする