私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

名城ミステリーSP

2012-12-29 17:12:10 | 歴史探索
 12月29日(土)  天気:晴れ   室温:17.6℃

 きのう BSジャパンで 「名城ミステリー!!」 が 再放送されました。 江戸VS.名古屋VS.
熊本城 を 訪れ 加藤清正・暗殺の謎を探る という番組です。 2時間番組で 三名城が 詳し
く紹介され 面白い番組でした。 ただ 江戸城、名古屋城での 清正の謎は よく分かりませんでした。


 1611年 京都・二条城で 徳川家康と 豊臣秀頼が 会見し 同席した加藤清正と池田輝政が
会議の直後 謎の変死。 毒入り饅頭で 毒殺されたのでは? 秀頼は 秀吉と淀君の間の第
二子で 大坂城で生まれ このとき 18歳。 会見で 家康は 立派に成長した秀頼を見て 将来
徳川の強敵になると感じ 豊臣を滅ぼす決意を固め 大坂夏の陣、冬の陣で それを決行する・・。
 加藤清正は 豊臣秀吉に仕え 賎ヶ岳の合戦で 七本槍の一人として 戦功を挙げ 秀吉から
肥後の国19万石を与えられ 秀吉の朝鮮出兵に同行し 8万の大軍に囲まれ 援軍が来るま
での 13日間 食料も無く 苦労するのです。
 清正は 築城の名手とも 言われますが 恩義ある豊臣家に逆らって 関ヶ原の戦いでは 東
軍方に付き 九州を制圧し 家康から 肥後・熊本52万石を与えられ 江戸城、名古屋城 築城
に 貢献したのは なぜでしょう。 その秘密は 熊本城にある・・・。

話は 江戸城から始まります。
 江戸城は それまで 一大名の居城にすぎなかった城を 徳川幕府の城郭のするため 大拡張
工事が 天下普請(ふしん) で 行われ 1603年から 約30年 徳川三代に及ぶ大修築で 完成。
西国大名は 石垣を担当し 関東の大名が 天守閣などの建物を担当した。
 江戸城は 本丸、西の丸、北の丸、吹上 の4つのブロックで 構成され 周囲は 17.5kmもあ
りました。 大奥は 本丸御殿にあった? 城門が多く 多種多様で 大手門、坂下門、清水門、
田安門、半蔵門、平川門、桜田門 などがありました。 天守閣は 明暦の大火で 焼失。
 加藤清正が担当した富士見櫓は 大地震にも耐えた。 清正は 本丸下の石垣を造り 石に
加藤肥後守の銘が・・・。



熊本城へ行きます。
 熊本城は 加藤清正が 1601年から 7年の歳月をかけて 築いた城です。 明治10年の
西南戦争で 破壊されましたが 後に再建。 小天守と大天守がつながる連立式天守。
東西を川で挟まれ 南北は 絶壁の高さ50mの茶臼山丘陵にあります。
 北西にある宇土櫓は 築城時のまま 完全な状態で 残っています。 石垣のそり、傾斜が
上にいくほど 急になる ”清正流” と呼ばれる石垣が 特徴で 城造りの神髄といわれていま
す。 狭間が多く、登れない石垣、迷路のような通路、242mもの 日本一といわれる 川に
沿った長い塀・・・。 熊本城は 戦いに備えた城なのです。


 清正が 朝鮮に出兵したときの経験から 戦いになったとき 長期間 籠城できるよう
年貢米は 城内に保管し 40mほどの深い井戸が 城内に120ヵ所もあり 堀には ハス
を植え 城内には ギンナンを植え 別名 銀杏城とも呼ばれたそうです。 水、食料の
確保には 苦心したようです。 



名古屋城は 金のシャチホコで有名ですが
 家康が 九男・義直のために 天下普請で建てた城で 1610年に築城を始め 4年かけ
て 完成しました。 尾張徳川家の城として 17代続きます。 大坂から江戸を守る意味合
いも あったようです。 また 尾張藩は 朝廷派で 幕府として 牽制する意味もあった?
 天守閣は 連結式で 高さは 江戸城の方が 高いようですが 1、2階の床面積が 同じで
総床面積は 江戸城より広く 日本一の広さとか・・。 天守閣は 戦時中の空爆で 焼失し
後に 再建。  ここでも 清正は 天守台の石垣を担当したようで 清正石が残っている。 


 現在 本丸御殿を再建中で 平成30年完成する予定。 清正は 大天守と小天守の石垣
を担当し 巨石を使った算木積で 石垣の強度を増しています。 石垣の総延長は 8.2km
もあるそうです。 ここにも 清正の銘のある石が使われている?


 11あった櫓も 現存するのは 3つだけ・・。


 尾張に生まれた清正は 家康に従いながら 同じ尾張で生まれた 恩義ある秀吉の豊臣家
の再興を じっと 窺っていたのでしょうか。 腹黒いたぬきオヤジの家康は それに気づいて
いながら 清正の築城技術を利用した・・・。


 話は 最後に 熊本城に戻ります。 難攻不落の熊本城の地下の暗闇をたどり・・・。
大広間には 殿様・清正の若松の間があり さらに奥には 絢爛豪華な一段高い 招君の
間があります。 王招君は 中国の絶世の美女で 壁画に描かれていますが 君子を招くと
も読めます。 清正にとっての君子は 秀吉の子・豊臣秀頼にほかなりません・・・。
 熊本城は 豊臣家の再興を願い 秀頼を招くための清正の ”野望の城” だったのです。
襖の引き手金具には 豊臣家の桐の紋があります。


 二条城の会見では 面白い裏話があり 家康が飲み干した盃を 秀頼に渡し 酒を飲ま
せ お前は わしより格下だと示し 毒饅頭を勧めます。 秀頼が ためらっていると 横から
清正が うまそうだな と言って 横取りして食べてしまい・・。 熊本へ帰る船で 体調を
崩し そのまま亡くなってしまう・・。 享年50歳・・・。

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コメント
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