5月 9日(月) 天気:晴れ+うす曇り 地図:佐用
きょう 佐用町延吉の 播州平福「しゃくなげの里」へ行ったついでに 陰陽師の里・江川地区を訪れま
した。
3月12日 コスプレ・イベントのとき もらった資料には
佐用町江川地区には 平安時代の陰陽師 芦屋道満と安倍晴明の塚(宝篋印塔)があります。 陰陽師
は 天体の動きや地の気により 世の中の異変を察知し 国事の決定に 携わっていた人のことです。
道満と晴明の話は 1600年代から仮名草子、人形浄瑠璃や 歌舞伎になり 広まってきました。
晴明は 宮廷を舞台に 活躍しており 道満は 在野の陰陽師集団に属していて 二人は 官と民のシンボル
ということになります。
江川地区に残る言い伝えとして
道満塚がある乙大木谷集落では 時の朝廷・藤原道長が建立している法成寺が 私利私欲で 建立し
ており それを諌めるために 呪詛しようとした。 道満は 正義の味方で 江川に流されてからは 陰
陽 道を 世のため人のために 役立てようとした。 道満没後 村では 富くじを発行するような 盛大な
お祭りを行っていた。
晴明塚のある甲大木谷集落では 時の朝廷・藤原道長を呪詛しようとした罪で流された江川で 呪詛を
続ける道満を晴明が追ってきた。 お互いに 式神をはなち 戦いを繰り広げたが ついに 晴明が
道満の首を取った。 道満の首を洗ったところを おつけ場といい 戦いの途中 矢が飛んできた橋を
鑓飛やりとび橋という。 地元では 毎年 晴明塚で 盛大なお祭りを行っている。
江川地区は 古くから開けた地で 1000年以上の歴史があるとされており 地域の地図を作って
初めて分かったことは 陰陽道にのっとって 地域が形成されているようです。 地域内には 陰陽道の
守り神である四神 東に 青龍(竜田大明神)、西に 白虎(甲大木谷・八幡神社)、南に 朱雀(薬師観
音堂)、北に 玄武(亀大明神)が 配置されています。 四神の中央にある地域を日裏といい 日と裏
まさに 陰と陽ではないでしょうか? ・・・とあります。
下の地図が 本日の概略図ですが 龍田大明神や亀大明神には 行くことができなかったので
位置は 明確では ありません。
きょうは これらを訪れましょう。 少しは パワーが身に付くかも・・・。
ちょうど お昼になりました。 佐用に来たら ホルモン焼きうどんを食べないと・・。 しゃくなげの里で
お店を聞くと 佐用IC北の味扇が いいと 教えてもらいましたが 味扇は お休み。 すこし南の国道沿
いに お店が ありましたが そこも お休み。 国道179号線に出た 橋の袂の「お多福」で 焼うどん(6
10円)を食べました。
まず 西河内(がいち)の八幡神社へ行きます。 地図にある神社の印を頼りに 西河内に来ると 薬
師観音の標柱が 目に入り 右折して 細い道を進むと お堂があり お参りしました。 このお堂は 額に
○○寺?とあり とても 四神のひとつ 朱雀が祭られている薬師観音堂には 見えませんし 朱雀も・・。
後で 近くの民家で 尋ねると あれが 観音堂です と言われ・・。 良かったァ・・。
隣に鳥居があったので 寄ると 八幡神社でした。 この八幡神社は 北の晴明塚を頂点とする 二等
辺三角形を 形成する場所なのです。 もうひとつの場所は 道満塚。 せっかくなので お参りしましょ
う。 長い階段を上がり 随身門を潜ると 本堂があります。 階段や随身門が 立派な割に やや お
粗末な感じの本堂です。
西へ向かうと 道路が分岐する手前に 「鑓飛やりとび)橋」がありますが うっかりすると 通り過ぎてし
まうような 小さい橋です。 晴明と道満が 戦ったとき 矢が飛んできたと言われる橋です。 分岐を左に
進むと 乙大木谷の棚田があります。 まだ 稲が育った青々とした景色では ありませんが 「日本の棚
田100選」に 選ばれた景勝地です。 細い急な坂を登り 小高い丘にある道満塚に 行きました。
道満は 現在の加古川市の大地主・芦屋道継の息子として生まれ 子供のころから 占いに興味を
持ち 青年になると 式神を呼び出し 修行していたと言われ 智徳法師に付いて修業し 後 京都に
行き 賀茂保憲に 師事した。 安倍晴明も 保憲の弟子で 智徳法師とは 仇敵だったようで これが
道満:晴明の争いの元になった?
陰陽師のつながりは 法道仙人ー智徳法師ー芦屋道満 と 吉備真備ー賀茂保憲ー安倍晴明 の
二つの流れに なるのでしょうか?
その後 貴族社会と結びついた 賀茂・安倍家が 二大陰陽道の宗家として 天文道を 安倍家が
暦道を 賀茂家ー土御門家が 世襲していくことになった・・・・。
道満塚から 乙大木谷の棚田が見えます。 晴明塚へ行く前に 「おつけ場」へ行ってみましょう。
しかし おつけ場へは 道標はなく パンフレットの案内図に描かれた 大体の位置しか分かりませ
ん。 苦労して たどり着いた「おつけ場」にも 何の表示もありませんし・・・。 諦めて 帰ろうとする
と 近くの民家の老人が 帰ってこられ お話を伺うことができました。 橋のある所が おつけ場で
昔は 小川に 水溜りがあり ウナギを 捕ったりしていたそうですが 水害により 跡形もなく 流さ
れ・・・。 木橋だけは 新しく 架け替えたそうです。
おつけ場は 江川に流された道満と 追ってきた晴明が 戦いを繰り広げ ついに 晴明が 道満の
首を取り その首を洗った所で あまり 気持ちのいい場所では ありません。
新しい木橋を渡り 山道を登ると 道満塚へ行けるようです。
晴明塚へ上がりました。 ここも 小高いところにあり 甲大木谷の棚田を 見ることができます。
西には さっき行った おつけ場の谷も見えます。 が 晴明塚と対峙する道満塚は 見えないよう
です。 パンフレットには 幾つか 謎が書いてあり 晴明塚は 「君子南面す」の諺通りに 南を
向いているが 道満塚は 西方浄土の西を向いている。 これは なぜか?
晴明塚を頂点として 70度の角度で 晴南西に道満塚、 東南東70度の角度で 地元の随身さん
と呼ばれる八幡神社があり これは 陰陽道における結界(悪霊などが入らないようにするエリア)で
ある 二等三角形を形成している。 これは何か?
また 晴明塚の真南には 晴明が星を占ったと言われる円山が 隣接し その真南の延長線上に
西はりま天文台がある。 これらは 晴明塚を頂点とするダイヤモンド型を形成する。 これは 何か?
四神の 北の玄武(亀大明神)と 西の白虎(八幡神社)と 東の青龍(龍田大明神)を見に行きま
しょう。 南の朱雀は 最初に行った 薬師観音堂の欄間にあるそうです。
パンフレットに描かれている四神の位置が 曖昧なので 苦労しました。 西の白虎は 江川小学校
へ抜ける北東の道にあるかと 思いましたが 探しても見つかりません。 諦めて 小学校前の県道
240号線に出て 北へ廻ります。 県道161号線を西へ進みながら 亀大明神を探しましたが 見
付けることが できませんでした・・・。 この辺りの地名に 亀ヶ逧 がありますが・・・。
淀から南へ戻り 八幡神社へ行きます。 地図に神社の印は ありますが 参道が分かりません。
民家の人に尋ね やっと分かりました。 県道524号線沿いに 幅1mほどの細い階段があり 八幡
神社の石柱が あります。 石柱がないと 民家への入口のようです。 鳥居の前にでると 西河内の
八幡神社と雰囲気が そっくりです。 随身門はありませんが 長い階段を上がり 本堂へ。
この神社が なぜ 白虎なのか分かりませんが お参りしました。 随身があれば 虎に跨っている
かも・・・。
江川小学校に戻り 県道240号線を南へ戻ります。 明神橋を渡ったところで 左上に 龍田大
明神の石碑があるのを見逃しません。 道路脇に車を停めて 石碑の所から 山へ歩いてみました。
右の竹林には なさそう・・。 金網の扉を開け 山道を登ってみました。 しばらく登ると NHKのア
ンテナの表示があります。 ここは 左に進みましたが 行けども 大明神に出遭えまません。
もっと行けば 大明神があるという確信もありません・・。 諦めて 途中で 降りてしまいました。
もうすこし 先だったのに・・・。 このまま帰る気にはなれず 前の民家を 訪ねました。
奥さんが出てこられ お話を伺うことができました。 大変 親切な奥さんで わざわざ 橋の先まで
行き 山の上の黒い杉の木を指さし あの辺りにあると言われ あの辺りまで登ったのに・・・。
この辺りの何軒かの隣保で 管理しているが 年寄りが多く 行き届かないとか・・・。 行っても 荒れ
ているので がっかりするでしょう と言われました。 龍田大明神ですが 祭られているのは 蛇だそ
うで むかーし 平福の南の宗行?に住んでいた蛇が ここへ遊びに来て 夜になり 急いで帰ろうと
川を泳いで帰ったので 川の水が濁ってしまった。 そのため この辺りを 濁淵 と言うようになった。
奥さんも 子どもの頃 この川(江川)で 泳いだりして 遊んだそうです・・・。
四神を訪れるつもりでしたが 亀(玄武)と 龍(青龍)に 会うことが できませんでした・・。
残念ですが 帰路につきます。 国道179号線に出て 三日月に戻り 学研都市へ登り 播磨道を
走り 17:20 家に帰りました。
本日の走行距離は 往路:しゃくなげの里まで 50.1km 江川地区を回り 最後の龍田大明神ま
で 25.3km 復路:49.5kmで 計:124.9kmでした。
。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。
きょう 佐用町延吉の 播州平福「しゃくなげの里」へ行ったついでに 陰陽師の里・江川地区を訪れま
した。
3月12日 コスプレ・イベントのとき もらった資料には
佐用町江川地区には 平安時代の陰陽師 芦屋道満と安倍晴明の塚(宝篋印塔)があります。 陰陽師
は 天体の動きや地の気により 世の中の異変を察知し 国事の決定に 携わっていた人のことです。
道満と晴明の話は 1600年代から仮名草子、人形浄瑠璃や 歌舞伎になり 広まってきました。
晴明は 宮廷を舞台に 活躍しており 道満は 在野の陰陽師集団に属していて 二人は 官と民のシンボル
ということになります。
江川地区に残る言い伝えとして
道満塚がある乙大木谷集落では 時の朝廷・藤原道長が建立している法成寺が 私利私欲で 建立し
ており それを諌めるために 呪詛しようとした。 道満は 正義の味方で 江川に流されてからは 陰
陽 道を 世のため人のために 役立てようとした。 道満没後 村では 富くじを発行するような 盛大な
お祭りを行っていた。
晴明塚のある甲大木谷集落では 時の朝廷・藤原道長を呪詛しようとした罪で流された江川で 呪詛を
続ける道満を晴明が追ってきた。 お互いに 式神をはなち 戦いを繰り広げたが ついに 晴明が
道満の首を取った。 道満の首を洗ったところを おつけ場といい 戦いの途中 矢が飛んできた橋を
鑓飛やりとび橋という。 地元では 毎年 晴明塚で 盛大なお祭りを行っている。
江川地区は 古くから開けた地で 1000年以上の歴史があるとされており 地域の地図を作って
初めて分かったことは 陰陽道にのっとって 地域が形成されているようです。 地域内には 陰陽道の
守り神である四神 東に 青龍(竜田大明神)、西に 白虎(甲大木谷・八幡神社)、南に 朱雀(薬師観
音堂)、北に 玄武(亀大明神)が 配置されています。 四神の中央にある地域を日裏といい 日と裏
まさに 陰と陽ではないでしょうか? ・・・とあります。
下の地図が 本日の概略図ですが 龍田大明神や亀大明神には 行くことができなかったので
位置は 明確では ありません。
きょうは これらを訪れましょう。 少しは パワーが身に付くかも・・・。
ちょうど お昼になりました。 佐用に来たら ホルモン焼きうどんを食べないと・・。 しゃくなげの里で
お店を聞くと 佐用IC北の味扇が いいと 教えてもらいましたが 味扇は お休み。 すこし南の国道沿
いに お店が ありましたが そこも お休み。 国道179号線に出た 橋の袂の「お多福」で 焼うどん(6
10円)を食べました。
まず 西河内(がいち)の八幡神社へ行きます。 地図にある神社の印を頼りに 西河内に来ると 薬
師観音の標柱が 目に入り 右折して 細い道を進むと お堂があり お参りしました。 このお堂は 額に
○○寺?とあり とても 四神のひとつ 朱雀が祭られている薬師観音堂には 見えませんし 朱雀も・・。
後で 近くの民家で 尋ねると あれが 観音堂です と言われ・・。 良かったァ・・。
隣に鳥居があったので 寄ると 八幡神社でした。 この八幡神社は 北の晴明塚を頂点とする 二等
辺三角形を 形成する場所なのです。 もうひとつの場所は 道満塚。 せっかくなので お参りしましょ
う。 長い階段を上がり 随身門を潜ると 本堂があります。 階段や随身門が 立派な割に やや お
粗末な感じの本堂です。
西へ向かうと 道路が分岐する手前に 「鑓飛やりとび)橋」がありますが うっかりすると 通り過ぎてし
まうような 小さい橋です。 晴明と道満が 戦ったとき 矢が飛んできたと言われる橋です。 分岐を左に
進むと 乙大木谷の棚田があります。 まだ 稲が育った青々とした景色では ありませんが 「日本の棚
田100選」に 選ばれた景勝地です。 細い急な坂を登り 小高い丘にある道満塚に 行きました。
道満は 現在の加古川市の大地主・芦屋道継の息子として生まれ 子供のころから 占いに興味を
持ち 青年になると 式神を呼び出し 修行していたと言われ 智徳法師に付いて修業し 後 京都に
行き 賀茂保憲に 師事した。 安倍晴明も 保憲の弟子で 智徳法師とは 仇敵だったようで これが
道満:晴明の争いの元になった?
陰陽師のつながりは 法道仙人ー智徳法師ー芦屋道満 と 吉備真備ー賀茂保憲ー安倍晴明 の
二つの流れに なるのでしょうか?
その後 貴族社会と結びついた 賀茂・安倍家が 二大陰陽道の宗家として 天文道を 安倍家が
暦道を 賀茂家ー土御門家が 世襲していくことになった・・・・。
道満塚から 乙大木谷の棚田が見えます。 晴明塚へ行く前に 「おつけ場」へ行ってみましょう。
しかし おつけ場へは 道標はなく パンフレットの案内図に描かれた 大体の位置しか分かりませ
ん。 苦労して たどり着いた「おつけ場」にも 何の表示もありませんし・・・。 諦めて 帰ろうとする
と 近くの民家の老人が 帰ってこられ お話を伺うことができました。 橋のある所が おつけ場で
昔は 小川に 水溜りがあり ウナギを 捕ったりしていたそうですが 水害により 跡形もなく 流さ
れ・・・。 木橋だけは 新しく 架け替えたそうです。
おつけ場は 江川に流された道満と 追ってきた晴明が 戦いを繰り広げ ついに 晴明が 道満の
首を取り その首を洗った所で あまり 気持ちのいい場所では ありません。
新しい木橋を渡り 山道を登ると 道満塚へ行けるようです。
晴明塚へ上がりました。 ここも 小高いところにあり 甲大木谷の棚田を 見ることができます。
西には さっき行った おつけ場の谷も見えます。 が 晴明塚と対峙する道満塚は 見えないよう
です。 パンフレットには 幾つか 謎が書いてあり 晴明塚は 「君子南面す」の諺通りに 南を
向いているが 道満塚は 西方浄土の西を向いている。 これは なぜか?
晴明塚を頂点として 70度の角度で 晴南西に道満塚、 東南東70度の角度で 地元の随身さん
と呼ばれる八幡神社があり これは 陰陽道における結界(悪霊などが入らないようにするエリア)で
ある 二等三角形を形成している。 これは何か?
また 晴明塚の真南には 晴明が星を占ったと言われる円山が 隣接し その真南の延長線上に
西はりま天文台がある。 これらは 晴明塚を頂点とするダイヤモンド型を形成する。 これは 何か?
四神の 北の玄武(亀大明神)と 西の白虎(八幡神社)と 東の青龍(龍田大明神)を見に行きま
しょう。 南の朱雀は 最初に行った 薬師観音堂の欄間にあるそうです。
パンフレットに描かれている四神の位置が 曖昧なので 苦労しました。 西の白虎は 江川小学校
へ抜ける北東の道にあるかと 思いましたが 探しても見つかりません。 諦めて 小学校前の県道
240号線に出て 北へ廻ります。 県道161号線を西へ進みながら 亀大明神を探しましたが 見
付けることが できませんでした・・・。 この辺りの地名に 亀ヶ逧 がありますが・・・。
淀から南へ戻り 八幡神社へ行きます。 地図に神社の印は ありますが 参道が分かりません。
民家の人に尋ね やっと分かりました。 県道524号線沿いに 幅1mほどの細い階段があり 八幡
神社の石柱が あります。 石柱がないと 民家への入口のようです。 鳥居の前にでると 西河内の
八幡神社と雰囲気が そっくりです。 随身門はありませんが 長い階段を上がり 本堂へ。
この神社が なぜ 白虎なのか分かりませんが お参りしました。 随身があれば 虎に跨っている
かも・・・。
江川小学校に戻り 県道240号線を南へ戻ります。 明神橋を渡ったところで 左上に 龍田大
明神の石碑があるのを見逃しません。 道路脇に車を停めて 石碑の所から 山へ歩いてみました。
右の竹林には なさそう・・。 金網の扉を開け 山道を登ってみました。 しばらく登ると NHKのア
ンテナの表示があります。 ここは 左に進みましたが 行けども 大明神に出遭えまません。
もっと行けば 大明神があるという確信もありません・・。 諦めて 途中で 降りてしまいました。
もうすこし 先だったのに・・・。 このまま帰る気にはなれず 前の民家を 訪ねました。
奥さんが出てこられ お話を伺うことができました。 大変 親切な奥さんで わざわざ 橋の先まで
行き 山の上の黒い杉の木を指さし あの辺りにあると言われ あの辺りまで登ったのに・・・。
この辺りの何軒かの隣保で 管理しているが 年寄りが多く 行き届かないとか・・・。 行っても 荒れ
ているので がっかりするでしょう と言われました。 龍田大明神ですが 祭られているのは 蛇だそ
うで むかーし 平福の南の宗行?に住んでいた蛇が ここへ遊びに来て 夜になり 急いで帰ろうと
川を泳いで帰ったので 川の水が濁ってしまった。 そのため この辺りを 濁淵 と言うようになった。
奥さんも 子どもの頃 この川(江川)で 泳いだりして 遊んだそうです・・・。
四神を訪れるつもりでしたが 亀(玄武)と 龍(青龍)に 会うことが できませんでした・・。
残念ですが 帰路につきます。 国道179号線に出て 三日月に戻り 学研都市へ登り 播磨道を
走り 17:20 家に帰りました。
本日の走行距離は 往路:しゃくなげの里まで 50.1km 江川地区を回り 最後の龍田大明神ま
で 25.3km 復路:49.5kmで 計:124.9kmでした。
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