アナーキー小池の反体制日記

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#863 中学生時代①

2011年11月23日 | 昔の思い出
先日、昭和42年に郷里の中学校を卒業した人たちの同窓会を催す旨のお知らせが届きました。
もちろんすぐに参加すると返事をしました。
このブログでは中学生の頃の記述が余りありません。
この機会に中学生時代の思い出をまとめて記そうと思います。

昭和39年に三石町立本桐(ほんきり)小学校を卒業しました。
そして卒業生全員が三石町立東中学校に入学です。
東中学校はボクたちの本桐小学校のほか、隣接する集落にある蹴舞(けりまい)小学校も一緒です。
ボクたちの集落,本桐は農業が主で米作と軽種馬(競走馬)繁殖育成がほとんどでしたが、蹴舞は漁業の集落です。
二つの集落とも小さなもので、小学校卒業生は本桐が40名足らずで蹴舞が20名足らずだった思います。
合計50人くらいが東中学校の入学生となり、ようやく2クラスを組めました。

蹴舞地区を説明します。
ボクの家から3kmほど離れた集落です。
沿岸を漁場にした漁業を生業にしていますが、その他コンブを採っていました。
ボクがまだ小学校に上がる前(昭和29年1月?)だったと思いますが、その蹴舞地区を災害が襲いました。(全道的な海難だったようです。)
大しけで多くの漁船が遭難したのです。
一人か二人乗りの小さな漁船です。
何艘も転覆し、10人くらい亡くなったのです。
遭難転覆する様子は陸からも見えたと聞いています。
何の手立てもできず、しけが収まるのを待つしかなかったのです。

蹴舞地区には港が無かったのです。
漁業者が少なかったためなのでしょうが、事故後,港があったら犠牲者は少なくて済んだのにとの声が上がりました。
その地区の小学生だと思いますが、どこかに(北海道なのか放送局なのか定かではありません。)手紙を出したのです。
蹴舞に港を造ってほしい、港があれば船が転覆せず犠牲者も出なかったかもしれない、と切実な思いがこもっていました。
その手紙,ラヂオで紹介され、大きな反響を呼んだのです。
その後すぐに、小さな漁港造りが着手されました。
それから遭難騒ぎを聞いていませんので、漁港は立派に機能しているのでしょう。

ボクの小学校は40名足らずでしたので、1学年1クラスです。(ボクたちのちょっと上は2クラスだったと思います。)
1年から6年生まで同じメンバーでした。
初めてクラス替えの経験をしました。
中学校校舎はボクたちの本桐地区にあり、距離も小学校と同じくらいの数百mです。
木造平屋の簡素な校舎でしたが、前庭に立派な樹木があったのを記憶しています。

続きます。
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