母が亡くなってもう5か月を過ぎ、遺骨は骨壺に入っているんだけど、納骨はまだできず、ボクの自宅に安置してます。コロナ禍が収まらず、納骨できずにいるんです。
20年前に札幌平岸にある納骨堂を求め、父の遺骨を納めているんです。当時ボクは、老後は札幌へ移り住もうかな?なんて思ってもいたんです。そしてその納骨堂のある霊園は地下鉄南北線の“霊園前”って駅の近くだっらもんだから、気を取 . . . 本文を読む
浄土真宗は仏壇へのお供えなども自由で簡素なものが推奨されます。他宗派で団子をピラミットみたいに積み上げるのを知っていますが、そんなのは不用で団子無し、ないしは平たい団子を数枚重ねておくのが精一杯です。水と欠けた茶碗に野の花一輪で十分なのだそうです。
無神論者のボクですが、お寺にはお彼岸とお盆と命日にお経をあげてもらうよう頼みました。そして今年の一年忌と来年の三回忌は執り行おうと思っています。
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ボクはこのブログで公言してるとおり無神論者です。宗教には否定的な思いを抱いています。
母がこの地に来た19年前に、この地の浄土真宗西本願系のお寺にお経を読んでもらうよう頼みました。母の持ち物に仏壇があったからです。ボクの父が亡くなった際、購入したものです。
父はけっこう熱心な仏教徒でした。父の両親も熱心な門徒衆で、ボクが記憶している祖母は、虫も殺してはいけない、と言い実践していました。父は郷里 . . . 本文を読む
母が亡くまでの1年半はコロナ禍により施設も病院も面会禁止でした。転院時とかに何度か顔を合わし、会話も出来ましたが計数回でした。母にとって寂しい最娩年だったと思いますし、言い残したこともあったのかもしれません。
でもこのコロナ禍の中では仕方がありません。日本中で起きている現象なんです。
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この頃、昔の母のことを思い出します。ボクには4歳年下の妹と6歳下の弟がいます。ボクが幼少のころ、妹と . . . 本文を読む
カテゴリー“ボクのルーツ”は、ボクの先祖を知る限り書き記したものです。ボクの曾祖母から祖父母、両親と両親の兄弟を対象に記しています。
#174,2008年10月29日から#1495,2014年7月17日の間に、全ての対象者を書き終えていたんです。その終わりまでに生き残っていたのは#1495,2014年7月17,18日に記したボクの母 甲子のみだったんです。当時、母が86歳 . . . 本文を読む
ボクが物心ついたころには、美野和は一面の水田でした。
入植してから半世紀で、一面の湿地が水田に変貌を遂げたのです。
米の増産がうたわれ、農村に活気がみなぎっていたころです。
不作の年もありましたが・・・美野和は米の収量は良かったのです。
でも幼少のころの記憶をたどると、美野和は米の収量が多いけど旨(うま)い米ではない、と言われていたんです。
泥炭地産の米はまずい、と真顔で言う人がいました。
でも . . . 本文を読む
排水溝を造ることなどは、共同作業です。
集落民総出で、泥炭を掘り、埋もれ木を切り出し、立木を切り倒し根を掘り上げたのです。
集落の民の団結心が無ければ、成されるものではありません。
記念誌によると、明治40にはすでに和寒別貯蓄組合が設立されています。
開拓途上の恵まれない生活環境を改善しよう、と意図したものでしょう。
他にも先進的な取り組みが行われており、美野和の民の強い団結心・協調心が窺(うか . . . 本文を読む
三石町に今年 大雪が降って大騒ぎをしていましたが、2年前には大雨で大きな被害を蒙(こうむ)っているのです。
2年前の大雨は、地元の同級生も経験したことが無い、というほどのものだったのです。
湿地帯だった美野和にも戦後大規模な排水溝が造られ、水に悩まされることが無くなった、と思いきや、この記念誌に昭和56年の台風による水害の記録が記されていました。
ちょうど滝川市が石狩川河床から糞便を噴出させた事件 . . . 本文を読む
ボクが幼少のころ、美野和のことを和寒別(わかんべつ)って言うのを聞いていました。
ここの東滝川を幌倉とかポンクラとかと呼ぶのと同様に。
ボクは個人的には、アイヌの人が使っていた地名を尊重すべき、との思いでいますが。
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美野和は入植時にアイヌが住んでいなかった、と記されています。
一部に大昔住んでいた形跡があった、とされ、その場が飲料に適する水があった、と記されています。
そうなんです。
ワ . . . 本文を読む
福井県大野郡(現大野市)からは三石町に多くの入植者がありました。
“上美野和百年”によると、明治28年から29年に福井県大野地方を襲った集中豪雨とその後に続く大恐慌が農村地帯どん底状態の背景にあった、と記されていますが、本当は国の殖民政策が農民の後押しをして、成されたのであろうと推認します。
最初に入植したのは明治31年(1898)とあります。
“上美野和百年”は、百年後の1998年を記念して作 . . . 本文を読む
タイトルは“かみ みのわ ものがたり”って読みます。
久しぶりにカテゴリー“ボクのルーツ”です。
ボクの個人的な書き込みです。
興味のない人は読まないでください。
上美野和とは明治時代にボクの祖父が北海道に入職した、その地名です。
そして、ボクの父が生まれ育ったところなんです。(ボクが生まれ育ったところはその隣です)
日高管内の三石町(現 新ひだか町)の東端に位置します。
美野和(みのわ)という . . . 本文を読む
先日、母の弟の竹中昭永が亡くなり、人となりを#1477”しょっちゃん"逝去に記しています。
昭永(しょうえい)との命名、何か現代風です。
昭和の始めに生まれた人は”昭”の字が入った名が多いのです。
叔父昭永も昭和6年生まれです。
父の弟 昭一は昭和2年生まれでした。
二人とも”しょっちゃん”と呼ばれていました。
昔、家族で話をしていて、どちらの”しょっちゃん”なのか混同したことが度々でした。
で . . . 本文を読む
育児が一段楽した頃、母は編機で軍手を編む内職を始めました。編機のザーザーいう音を聞きながら、そばで遊んでいた記憶があります。近所の農家の手伝いに行ったこともありましたが、あまり役に立たなかったようです。子供たちに手がかからなくなった昭和30年代後半、近くにある農機具販売会社で事務員として働き始めました。55歳まで勤めたといいますから、約20年間の事務員生活です。事務員を辞め、その後、夫の勉も数年で . . . 本文を読む
”ボクのルーツ"シリーズに戻ります。
いよいよボクの母です。
先月、母の弟・昭永が亡くなりました。
兄2人は先に亡くなっていますので、弟の死で母が兄弟で唯一の生き残りです。
父のほうも、父を含め全ての兄弟が亡くなってしまいました。
ボクももう今年63歳になりますので、そんなものなんでしょうが、寂しさが募ります。
ボクの母・甲子(こうこ)は、昭和3年(1928)6月3日、竹中鍋太郎・さとゑの長女と . . . 本文を読む
母には、兄2名と弟1名の兄弟がありましたが、今回の勝美は次兄です。
大正14年(1925)6月6日様似町鵜苫に生まれました。
地元で義務教育を終えると、函館師範学校へ進学、音楽のピアノを専攻します。
ところが終戦間際、学徒出陣で中国大陸へ送られるのです。
終戦と同時にソ連軍に捕縛せられ、シベリア抑留です。
2年間の抑留生活の後、日本に帰還しました。
帰還後、師範学校(北海道学芸大学と改称)に復 . . . 本文を読む