こんにちは! ただち恵子です

政治と社会、日々の暮らしの小さな喜び。思いつくままに綴ります。

「戦争のない世界」を願って生きた母

2018-12-13 23:40:42 | 父・母のこと
後援会ニュース12月号を作りました。


「戦後73年 平和への思い」はシリーズ23回目。

戦争の時代を生きた方々の経験を書いていただいたり、お話を聞かせていただいたりして続けてきました。


9月~11月は、途切れました。


今回は、私の母のことを書かせてもらいました。

母が、私と当時、まだ幼かった子ども達のために、住み慣れた家を離れて、ここ泉大津に来てくれた歳に私自身が近づいています。

私以外の身内は皆、横浜と東京にいる中で、「大阪に行く」というもの、「横浜へ帰る」と言うもの、決めるもの、行動するもの早かった。

そんな母が言っていたこと、していたこと。思い出して、今、気が付くこともあります。


母のことを書いた部分を、ここにも残しておきます。良かったら読んでください。


戦後73年 平和への思い㉓ 大正生まれの軍国少女が日本共産党員に

 2015年3月21日未明、義姉からの電話を受けて母の暮らす横浜へ向かった。「間に合わなかった」という知らせを聞いたのは新大阪駅のホーム。突然の別れだった。
 母が生前に書き残したノートが、今、私の手元にある。
 母が19歳で教職についた1941年、日本は太平洋戦争に突入。ある日、戦地に向かう同僚教師を見送った。壮行会で勇ましい挨拶をしたその人は、母と二人になった時「行きたくないよ。人殺しに行くんだよ・・・そして自分も殺されるんだ」とつぶやいたと言う。軍国少女として鍛えられた当時の母にとってそれは「口に出してはいけない。考えることも許されない言葉」だった。「彼は戦地に到着する前に輸送船とともに海の藻屑と消えた。人殺しすることのないまま戦死したのは、彼にとってむしろ幸せだったのかもしれない」と母は記している。
 母のノートの結びのページ。「最後に、どうしても言わなければならないことがある。かつての教え子たちに私が言った言葉。『職業に貴賤はない。ただ共産党のような考えを持つ人にはなるな』この後半の部分については、私の不明を詫びて訂正しなければならない。時の流れとは言え、自分の偏見を正論と信じ込んで若い頭脳に刻み込んだ罪は大きい。」
 父を看取った後、母67歳の秋、住み慣れた横浜を離れ、市会議員選挙に立候補する私の元に来てくれた。7年間、私と幼い娘たちの暮らしを支えてくれた。平和や暮らしを守る運動に参加し多くの仲間と出会い、横浜に戻ってからも92歳で命尽きる最後の時まで「戦争のない世界を」と願い、行動した。
 「共産党は怖い」「反社会的な危険分子」「共産主義には自由がない」・・・刷り込まれた偏見の壁を鮮やかに乗り越えて、晩年を日本共産党員として生きた母。母の中に燃え続けた平和への思いを胸に刻んで、母と一緒に歩いた道を行く。    ただち恵子
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