こんにちは! ただち恵子です

政治と社会、日々の暮らしの小さな喜び。思いつくままに綴ります。

「平和憲法の申し子」さんの投稿

2019-01-18 23:10:35 | 憲法・平和
ここ数日、市民の方からのご相談の電話が、立て続け。

その対応に大半の時間を費やしながら、2019年1月の「後援会ニュース」の編集作業。


印刷をお願いした方に、曜日の間違い見つけていただいて助かりました。

市政報告会の、金曜日を木曜日としていました。

いつものように自分で印刷したら、気が付かないところでした。


以下は「戦後23年 平和への思い」のシリーズ、24回目に寄せられた投稿です。


戦争末期、空襲の火の海を、胎内に新しい命を宿し大きなおなかで逃げ惑う女性の姿を想いながら読んだ。


戦後73年 平和への思い㉔ 
 生き残ったいのち これからも仲間と楽しく

 1945年(昭和20年)8月15日の終戦記念日。それから1ヶ月もたたない9月8日に私は生まれました。母の胎内にいた9ヶ月を含めると、この73年間は平和憲法の申し子といえるでしょう。
 父は広島の呉軍港で軍艦を作っていた労働者だったので、軍隊にとられませんでした。しかし、結婚して新居を大阪に定めたときに1945年の大阪大空襲です。3月13日から8月14日まで8回にわたってあったようで、もう大きなお腹になっていた母が火の中を逃げまどったという話を聞いて育ちました。
 母の実家の徳島に避難。そこで生まれました。戦争が終わってからも、大阪へ帰る汽車の中、といっても屋根のない貨物車です。トンネルに入って煙が幼い肺を襲い、呼吸停止で死にかけました。その後何度も死にかけることはありました。医者から「生まれてこなかったと思ってください」と言われたそうです。その後もずっと虚弱体質でした。
 何度も死にかけた私。何も怖くありません。これからは平和でおだやかな社会を作るため長く生きていきたいと思っています。
コメント
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