マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

中白木高龗神社のマトウチのオコナイ

2017年10月23日 09時22分51秒 | 桜井市へ
桜井市の山間部地域。

それぞれの大字ごと。

今もなお行事を継承してきた。

大字中白木にオコナイのマトウチがあると知ったのは平成27年2月20日のご挨拶がてらの訪問時に拝見させてもらった高龗神社拝殿に保管していた鬼の的を見つけたときだ。

その際に中白木の年中行事を教えてもらった。

それからというものは幾度となく訪れるようになった。

中白木の村行事を始めて拝見したのは平成24年11月10日

その日の行事は山の神に供える行事であった。

話題はオコナイ行事に戻すが、かつての行事日は1月14日であった。

いつしか日程は12日になった。

山麓から急な坂道を登ってきたら集落に入る。

山間の道は急なカーブの連続。

道沿いのそこにあったトタン屋根。

被せていただけであるから、その下に何があるか、すぐわかる。

今でも飲用に使うこともある村の井戸である。

その左側に青竹を土に埋め込んでいた。

しかもそれに松と梅を挿している。

後から村の人に聞いてもわかったこれは松、竹、梅の三種。

まぎれもなく正月を迎えた村の井戸にも門松を立てたということである。

それからさらに登っていけば高龗神社に着く。

当日は年当番の人が神社拝殿にお重を供えておく。

中身を拝見させてもらうために承諾願い。



蓋をとって写真を撮らせてもらった御供の一つは煮豆。

以前に拝見したマツリのときもパンダ豆だったから、これも同じであるが、料理人は替わっているから味は違うという。

もう一つのお重はゴボウ煮。

太目に切ったゴボウを醤油などで味付けする。

正月初めの行事だけにお節に近い様相の御供である。

予め、これもまた年当番が作っていた木製枠の鬼の的。

木製枠は毎年に使うものだから、毎年に貼りかえるのが鬼の的。

矢を射る弓はカシの木。



弦は農作業に括るバインダー紐で作ったという。

今回はバインダー紐にしたが、本来であれば神聖な麻緒で作るそうだ。

チンチロ付きの松は苗代に立てる稲に見立てた松苗である。

松苗は村の戸数の9本。

実際は数本プラスして今年は11本にしたそうだ。

松の軸はワラを巻いている。

本来は粳米の藁であるが、今年は餅藁にしたという松苗に白紙に包んだ洗い米も括り付けた。

矢はススンボの竹。

半紙を切って1/4折りした矢羽根を挟む。

矢の本数は9本。

これも数本プラスした11本を準備した。

不思議なのが、矢羽根は尖がっている矢の先の方に挟んでいることだ。

だが、実は矢羽根に文字がある。



右から「平成廿九年度 牛玉 中白木 」である。

一枚、一枚のごーさん札を墨書して朱印を押す。



相当古くから伝わっていると思われるごーさんの宝印。

印もベンガラ器も木製。

虫食いの数が中白木の歴史を伝えているようにも見えてくる。

今では神社行事になっているが、かつては寺行事であったと思われるオコナイ行事に欠かせないごーさん札である。

神社社務所は村の会所でもある。

座敷奥には本尊を納めていたと思われる厨子もあるが、何年にも亘って無住寺が続いた。

村の人の記憶もないが、厨子横に立てかけていた棟札が気にかかる。

墨書の一部は黒ずんで読み難い。



文字は不鮮明だけに判読できる範囲で調べてみれば、「奉再建 極楽寺一宇□二世安楽 天下泰平 五穀豊穣 □年三月十五日」だった。

年号の一部が黒ずんで読めないが「□保十三年寅三月十五日」までがわかった。

キーは「保十三年寅」。

その時代で年号を紐解けば、天保十三年が壬寅であった。

そうとわかれば西暦1842年。

今から176年前に再建されたことがわかる極楽寺。

その当時の僧侶名は二世・安楽で、再建の功労者であったろう。

その文字の下にも小さな文字で何かが書かれているが、まったく読めない。

写真に撮って拡大してみる。

ある程度が判読できた。

右端列より「式上郡小文□ 大工長右□門 ・・・」。

ほとんどが判読できなかったが、大工とあるから棟梁たちの名前を記していたのだろう。

昭和36年に発刊した『桜井市文化叢書 民俗編』には“座“のことは書いているが、オコナイ行事については触れていない。

ところがよくよく読めば”白木の宮座“の項に書いてあった。

”白木“は元々一つの村。

それが分割されて北白木と中白木に南白木に分かれた。

『桜井市文化叢書 民俗編』に”北白木“、”中白木“と区分けして書いている項もあれば単に”白木“としているケースと判断し、その記事中の内容から判断して”白木の宮座“は”中白木の宮座“のことを書いてあると断定する根拠となる文に「長男が座人になる。その年に初めて長男に生まれたものが座を受ける。十一月九日座人を呼んで御供つきをする。十日にお供えする。カニの餅といって蟹の形にした餅を高龗神社の本社と加津が大明神、金毘羅大明神の三神に供える」とある。

この文だけでもわかる三神社は北白木にはなく中白木に存在する。

平成24年11月10日に行われた山の神御供行事にその三社に供えたガニノモチが証明してくれる。

次の文は「一月十四日の弓打のおこない行事がある。桜の弓にすすだけ七本をつくり天地東西南北を打ち終わりに鬼うちする。これは一老がする。北白木は昔は僧侶が行った。これを行った安楽寺は北白木も中白木にもある」である。

調査、報告に記事を書いた人には失礼だが、前述した棟札の表記を見れば一目瞭然。

寺は安楽寺でなく、僧侶が安楽。

寺名は再建した極楽寺であったのだ。

いつもであれば一老が弓を射る役目に就く。

しかし、である。

一老は現在入院中。

そのため息子さんが役目に就いた。

取材させてもらったときの頭屋祭は二老の他、何人かの男性たちも来られていて賑やかであったが、今年は寂しい状況になったという。

中白木マトウチのオコナイには神職の出仕がない。

村人だけが集まって行われる。



それぞれがやってきて神社参拝。

落ち葉を燃やしたトンドにあたって暖をとる。

これだけ揃ったからとおもむろに始まったマトウチ所作。



一老代役の息子さんが務める矢打ち。

はじめに天をめがけて矢を射る。



その次は地に向けて矢を放つ。

そして東西南北。

坦々と進行するマトウチ。

打つ度にその先に村人の目が集中する。

ごーさん札の矢羽根がなんとなく可笑しいように見えるだろう。

弦側でなく弓側にある矢羽根が不思議な感覚をもたらす。



7本目の矢は鬼の的。

見事に貫いて穴が開いた。

そのあとも矢を射ろうとしたが、勢いがついて弦が切れてしまった。

鬼を射止めるにはもう少し。



手で投げる矢で傷められた鬼は降参した。

正月初めに行われたマトウチのオコナイをもって村の安全祈願、五穀豊穣を願ったわけだ。

放たれた矢を拾い集める村人たち。



籠に入れていたチンチロ付きの松苗も持ち帰る。

これらは4月末の祝日から5月連休の祝日期間中に苗代に立てる。

昔はそうであったが、今は早成り。

そのころは田植えどきになるから「植え初め」を祈念して立てるようになったそうだ。

そのころは村の桜樹に花が咲く。

これを「桜花立て」と呼んでいる。

植え初めにかつてはフライパンで煎った糯米の玄米を半紙に包んで田んぼの畦に供えた。

煎った玄米はアラレ。

桜が咲くころだから、これを花咲きアラレの名で呼んでいた。

今はお菓子のアラレをパラパラと撒く。

中白木の植え初めを是非拝見したいものだ。

だが、日にちや時間は固定していない。

各家がめいめいにしているから、という。

外は寒い。

暖房を入れている会所に温もりの直会が始まる。



お神酒もよばれる直会の肴は神さんに供えたお決まりのことこと煮の甘いパンダ豆と醤油と味醂で炊いたたたきゴボウだ。

お神酒はどぶのにごり酒に盛りあがる。



「貰い物やけど、これも食べてね」と云われて口にした手造りパンも美味しい。

(H29. 1.12 EOS40D撮影)
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箸中下垣内の愛宕さん

2017年04月10日 08時32分38秒 | 桜井市へ
前月の平成28年の7月19日に土用入りの土用餅買いに立ち寄った和菓子屋さんが話していた箸中の垣内。

下垣内、中垣内、車谷垣内の三垣内にあると聞いていた。

なかでも下垣内はダイジングさんもあれば地蔵盆も。

そして愛宕さんの行事も行われている。

光背に三輪山を配した処に建つ三つの石塔群。

左から大神宮、右に地蔵石仏。

中央に愛宕山の文字を刻印した愛宕さんを配置した場である。



この年に当番する人は会所に保管していた提灯をぶら下げる。

当番の人の都合の良い時間帯に設営される。

この写真は昼頃に撮ったもの。

おそらく朝の時間帯に設えたと思われる。

垣内の人たちが集まってお参りされる時間帯は午後4時と聞いている。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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山田奥垣内の愛宕さん

2017年04月05日 08時44分19秒 | 桜井市へ
桜井市山田の奥垣内に愛宕神社がある。

社もなく「石」そのものでできている。

石垣の上に三柱、といえば良いのかどうかわからないが・・。



中央は庚申さん。

左が愛宕さんである。

右にある屋根型は何であろうか。

考えられるのはお燈明のヤカタか、それとも山の神か。

山田には各垣内単位で旧暦閏年の庚申行事がある。

川之・東出・上出・西出・茶屋前(東/西茶ノ前)・鍛冶屋他10講中で行われている庚申行事は「モウシアゲ」の名がある。

平成26年4月6日に取材させてもらった垣内はここ愛宕神社がある奥垣内と東茶ノ前垣内の2垣内だけだ。

他の垣内は未だに取材ができていない。

それはともかく奥垣内のモウシアゲを取材していたときに話してくださったのが、愛宕さん行事である。

愛宕神社がある地にゴザを敷いて数珠繰りをすると話していた。

その様相を拝見したく訪れた。

数珠は箱に納めている。

蓋の裏側に文字があったので拝見させてもらった。

「明治拾貳己卯年七月 百萬遍数珠求之 山田奥垣内所持 連名簿」として12人の名が記されていた。

愛宕さんの行事を紹介してくれたFさんはうちのひい爺さんだと云った。

数珠箱の廻りがある。廻りの当番はヤド。

時間前には場を設えておく。

愛宕神社の前にブルーシートを敷いてその上に大きく広げた畳みゴザを敷く。

この場は村の通り道。

車を走らせるにはちと狭い、その道に名がある。

Fさんがいうにはここはソーレン道。

葬儀における葬送の道だから、そう呼ぶ。

熊野三社に参る参列のように杖を持つ人が先導していたようだ。



広げたゴザに座布団も敷く。

愛宕さんの日は暑い。

真夏の暑さは陽が暮れても冷めやらない。

電灯線を引き込んで場に扇風機も持ち込む。

サカキを立ててお花を飾る。

お菓子を供えてペットボトルのお茶も・・。

一人で世話をするにはなにかと忙しい。

据えてからおよそ20分後。

どっぷりと暮れた時間帯。

一人、二人がやって来た垣内の人。



めいめいが持ち寄るローソクを立てて火を点ける。

ついさっきまでは小雨降る日だったが、営みが始まるころにはやんだ。

はじめに般若心経を一巻唱える。

一同は揃って2礼2拍手に1礼してから唱える。



およそ2分間の心経である。

次が数珠繰りである。

数珠繰りには撞木で叩く伏せ鉦が要る。

ヤド家が持ち込んだ鉦はやや小型。

直径は10cm。

記銘刻印などは見られなかった。

あんたも入ってくれはったら良いのにと云われるが、それでは取材にならないので遠慮させてもらった。

小さな鉦を打つ導師。

打つリズムは早い。

キン、キン、キンと小刻みな打ち方に合わせて数珠を繰る。



反時計回りで数珠を繰る。

大きな房珠がわが身の前にくれば頭を下げる。

白い房だからどこをどう廻っているかはよくわかるが、時間帯は夜。

ライテイングされてはいるもののストロボをあてることは遠慮する。



ローソクの灯りがやけに美しい。

なんまいだ、なんまいだを唱えながら数珠を左に送る。

数珠繰りの回数は数取りの道具が要る。



これもまた数珠であるが、数取り専用。

房が廻る都度に数珠を動かす。

奥垣内の数珠繰りは50回と決まっている。

いつもそうしているという長丁場。

およそ15分間もかけて数珠繰りを終えた。

Fさんが云うには奥垣内には地蔵盆がない。

数珠は7月に寄進されたことから旧暦だったかも。

しかも地蔵盆を合体して今日に続いているのかもしれないと話していた。

心配された雨にもかからなかったが、相も変わらず暗雲が立ち込めている。

愛宕さんの行事は西出垣内もしていると聞いたが、この日は時間切れ。

いずれは取材したいと思って場を離れた。

(H28. 8.23 EOS40D撮影)
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萱森・N家の先祖さん迎え

2017年03月30日 09時26分15秒 | 桜井市へ
朝、仏壇に六斎念仏が祈祷した塔婆を立てる。

2本の藁の松明を門口で焚く。

その場で家の鉦を打ち叩く。

そのとき、家族全員が揃って「先祖さん かえなはれ」と云って先祖さんを迎える。

迎えの日は早く戻ってもらうから午後5時にはすると話していた桜井市萱森に住むN夫妻。

今月の7日にはラントバさんの塔参りを取材させていただいた。

ラントバさんのお参りはお盆はじめと彼岸のときだ。

春に秋に参る墓地はツチバカ(土墓)。

正月前に松竹梅を立てる。

12月31日は仏壇にお供えもする。

ナンテンの実もお餅もするが、参ったら持って帰ると話す。

この日は先祖さん迎えの日。

一週間が経つのが早い。

萱森の山林道を登っていく。

奈良市北部の方角は黒い雲に覆われだした。

もうすぐ雨が降ってくるだろうと思った午後5時直前。

夏も終わりかけになったのかカナカナカナカナ・・と侘しく鳴くヒグラシセミが時期の到来を告げていた。



ガキサンに供える準備をしていた門屋を潜ってお声をかけるN家。

先祖さんを迎える仏間に仏壇がある。

その前に組んだ祭壇の敷物は昔から使っているゴザである。

お盆が終われば来年のために干して乾燥しておく。

昭和41年に嫁入りした奥さんが云うには、それ以前からあったと云うから年代物のゴザである。

午後5時も10分過ぎたころに当主が動き出した。

予め立てていた先祖さんを迎える藁は2束。

それぞれに細い竹に挿す。

地面に押し込んで立てた先祖さん迎えの藁束に火を点ける。

下に点けた火は上に燃えていく。

メラメラと燃え上がる松明の火。

火が落ち着くようになれば家の鉦を打ち続ける。

その音を聞いて家族が集まってきた。



孫さんも一緒になって並ぶ姉妹家族は「先祖さん かえなはれ」。

「先祖さん かえなはれ」を繰り返す家族たちの声が届いたのか煙に乗ってやってきた。

「先祖さん かえなはれ」は「先祖さん 帰りなはれ」である。

燃え尽きたころを見届けて自宅に戻る。

そのときも鉦は打ち続ける。

キーン、キーンの音が山間に響き渡る。

それが合図になったのか隣近所でも鉦を打つ音が聞こえてきた。

戻る際に振りだした雨。

そのころの空は真っ黒けになっていた。

これは雷雲である。

今にもどっと降りそうな雨が肩にあたる。



急いで母屋に上がらせてもらったとたんに激しい雨になった。

仏壇の前に並べたお供えは今にも落ちそうなぐらいの盛りだくさん。



ゴザの上に敷いたハスの葉は何枚もある。

それはお皿代わりでもない。

敷物のように思えたハスの葉である。

なぜかハスの葉は裏側を表に敷いている。

それで色合いが違うことがわかる柿の葉。

一枚ごとにミソハギの軸茎で作ったお箸。

そこに少量の白ご飯や漬物キュウリ。

もう一枚の葉はおかずが違う。

ヒユやダイコン葉にナスビの味噌和えである。

また、もう一枚にはご飯ではなく茹でたソーメンもある。

それぞれに添えたミソハギの箸の数は何人前になるのだろうか。

柿の葉に乗せたミソハギの箸は先祖さんが食べるためにある。

花はどうするのか。

咲いたミソハギの花は墓参りに使うと云う。

そういえばラントバさんの塔参りにあったと思う。

中央に置いた黒っぽいスイカがどでーんと座っている。

トマトに丸々肥えたナスビもあれば黄マッカもある。

果物は赤いリンゴ。

桜井の和菓子屋さん、吉方庵で買って来たいろんな和菓子も供えて燭台に立てたローソクに火を灯す。

和菓子はハクセンコウも要るのだが、この年はハクセンコウ代わりのモナカにしたという。

ここ萱森では他所で見られた線香で先祖さんを迎えるのではなく、燃やした松明の火によって発生する煙に乗って家に帰ってくるが、仏壇の線香は普段と同様に火を点けてくゆらす。

写真ではわかり難いが当主が鉦を打つ位置の前にある。

大きなスイカの前に平たい椀鉢がある。

これはオチツキダンゴと呼ばれる団子である。

前日の13日にも供えたオチツキダンゴは先祖さんを迎えるこの日の昼にも供えていたという。

スイカの右横は乾物のソーメン。

早めに供えていたので水分を含んでだらりと垂れ下がってきた。

鉦を打って唱える念仏は西国三十三番ご詠歌だ。



当主の後ろに並んで座った家族も一緒になって唱えるご詠歌。

7日のラントバさんの塔参りは般若心経。

そのときも家族一緒になって唱えていた。

孫さんも一緒になって唱えていた。

先祖さん迎えのこの日も一緒になって唱える。

信仰も所作も親から子供へ。

育って家族をもった子供は孫とともに・・である。

ご詠歌が始まって3番目辺りだった。

家の周りは真っ暗になっていた。

そこに光った閃光。

光った瞬間にドドーン。

心臓が震えるぐらいの光と音が饗宴する雷などものともせずにご詠歌を唱え続けるご家族。

後に聞いたこのときの落ちた雷に「おっとろしかった」と振り返っていた。

隣近所の被害は停電で済んだようだが、同家では何事もなかったかのように唱えていた。

ご詠歌が始まってから10分経過。

お椀をもった奥さんが祭壇に供えた。



大鉢に盛ったのはサトイモのコイモとゴボウの汁椀である。

おつゆみないなもので、“しゅる”、と呼んだのは奥さんだ。

“しゅる”は“汁”が訛ったのであろう。

この汁椀はご詠歌を唱えている最中に供える。

湯気がまわって温いうちに供えると云った奥さんはここでようやく席につく。



なにかと忙しく動き回る奥さんは先祖迎えの松明火焚きにはおられなかった。

炊事場で先祖さんに食べてもらうお供え料理を作っていったから仕方がない。

ご詠歌は三十三番まで一挙に唱えるのではなく、24番で一息つける。



その間に拝見したカド庭に供えたガキンドサン(餓鬼さん)。

先祖さんと同じように裏向けたハスの葉の上に柿の葉に供えた白ご飯や漬物キュウリ、ヒユやダイコン葉にナスビの味噌和え、ソーメンがある。

もちろんであるがミソハギ軸で作った箸もある。

ガキンドサンにも食べてもらうというお供えである。

ナスビも黄マッカもトマトもある。

お茶もある。



カド庭には石仏のミョウケンさんもある。

ミョウケンさんは妙見さん。

大阪能勢の妙見さんであるのか聞きそびれた。

先ほど降った雷雨にあたった滴が垂れていた。

10分ほど休憩したら続きのご詠歌を再開する。

後半は25番からはじめて番外の善光寺。

これを3回唱えた。

休憩を挟んだご詠歌長丁場。



1時間にも亘った最後に「なむだいし~そくしんじょうぶつ」を3回唱えて「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」を。

10回ぐらい、鉦を打って先祖さん迎えの念仏を終えた。

迎えの14日のアサハン(朝飯)はミソハギの箸を添えた味噌付けキュウリにシラカユ(白粥)。

ヒルハン(昼飯)は同じくミソハギの箸にヒユとダイコン葉にナスビを味噌和えしたおかずに白ご飯。

晩は竹の箸に替わってソーメンにする。

ミソハギから竹の箸に替えるのはソーメンが滑るからである。

なるほどと思った。

供える数は多い。

かつては15人前も供えていた。

少しはすくなくして10人前。

それが8人前に。

いっぱいいらんから減らしたという。

晩ご飯を食べていきと云われたがここは遠慮して退席する。

見送りに出てくれた夫妻が指を挿した場にもお供えがある。



ガキンドサンは裏にもあった。

(H28. 8.14 EOS40D撮影)
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どさくさ餅は八月十四日に販売

2017年03月29日 09時41分54秒 | 桜井市へ
写真の文字を見て「八十四日」と読む人は・・・・八十四夜と思うのだろうか・・。

今年の土用入りは7月19日。

その日だけに限定販売される土用餅を売っていた和菓子屋さんは桜井市箸中にある北橋清月堂。

旧街道に建つ。

毎年の8月14日に「どさくさ餅」を販売される。

見かけ、味は土用餅とまったく同じだと店主は話していた。

当日に買ってみたいが、売り切れ必死のようだ。

それでもなんとかあるだろうと思って萱森に行く途中に立ち寄った。

店主が話していた通りに「どさくさ餅」の文字を書いてガラス戸に貼っていた。



おそるおそる入店したら最後のお一人さん。

その分だけあった。

実にラッキーだった購入時間は午後4時半。

買占めではないが、棚から消えて売り切れた。

(H28. 8. 1 EOS40D撮影)
(H28. 8.14 EOS40D撮影)
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萱森下垣内のラントバさん塔参り

2017年03月16日 09時20分40秒 | 桜井市へ
昭和28年に建替えた家で娘たちが育った。

それ以前は茅葺の家だったという。

門屋から入るカド庭に干してあった梅干し。

8月1日も拝見した土用干しの梅。

染めたシソの葉ものせている箕がなんともいえない。

梅干しは5kgずつ箕に置いて干す。

今年、2回目の土用干しにまたもや遭遇できるなんて奇遇としか言いようがない。

昔は養蚕もしていた。

特別な部屋を設けて蚕さんを飼っていた。

その時代は小学校のころだというからずいぶん前のことだ。

例年であれば午前11時に墓参りをするN家の家族。

昔は親戚兄弟たちも一緒に参っていたが、今は娘家族と参っている。

母親は家の料理作りがあるから参られない。

ラントバは崖の上にあった。

本家筋の墓石のすべてを下ろして参りやすいようにした墓地は下垣内に住む人たちが参る墓。

宮垣内、中垣内、口之倉などの垣内の人たちはその垣内にあるラントバに参る。

口之倉垣内を除く宮、中、下垣内の戸数は24戸。

いずれも小さく纏まった戸数である。

そろそろ出かけようかと車に乗って山の道を行く。

急な坂に急なカーブ道。

山間部特有の車路に難なく軽トラを運転するご主人。

娘家族もそれについていく。

私もその車についていく。

で、なければ迷ってしまう山間の道である。

着いたら直ちに墓参りの設営に入る。

墓石の前に並べるお供え。

大きな葉はハスの葉。

かつては柿の葉を一枚ごとに乗せる御供皿であった。

今ではハスの葉が一枚。



キュウリやナスビにモモ、マッカ、ブドウ、バナナなどの果物にお菓子にプルトップを引いて開けた缶ビールも並べていたら、隣家の人たちもお参りにきた。



手桶を手にして通り抜ける隣家の人は奥に行く。

娘や孫たちは先祖さんの墓すべてにお花を立てる。



家で栽培したお花はダリアにヒャクニチソウ、グラジオラス。

二日前の5日に揃えて束ねていたそうだ。

花を立てるのはこの日のために用意した新竹の青竹。

30本もあるから先祖さんの墓が多いということだ。

桶に汲んだ水墓石にかける。



孫は指示を受けることなく自然体で花も立てるし水もあげる。

線香を立てて持参した家の小鉦を打つ。



皆は墓石に向かって手を合わせる。

先祖代々相法界。

文化、文政から始まる天保、弘化、嘉永、安政、元治、慶応・・・先祖さんに亡くなった兄弟や両親などの供養に戒名を唱える。

それから般若心経を一巻。

最後にやーて、やーてを三回唱えて〆る。

当主曰く、先祖は江戸中期に文化時代より位牌があるという。

ところが、だ。



この日に拝見した墓石の中には天保(1830~)に混じって宝暦(1751~)に寛文(1661~)年代の刻印が見つかった。

墓石年も鮮明に判読できた。



正確にいえば宝暦四年(1754)に寛文十三年(1673)である。

目についたのはそれぐらいだが一面しか見ていないので他にも刻印があるかもしれないが、そのことを伝えたらご主人は驚いておられた。

N家の墓年代は古い。

実は我が家の本家の墓も古い。

場所は三重県の伊賀上野になるが、明確に確認できた年号刻印は宝暦五年亥(1755)、天明年間(1789~)、寛政六年(1794)、文化元年(1804)、文政年間(1818~)、天保二年辛卯(1831)だった。

宝暦五年の墓石が先祖代々の最古。

今から262年も前だったから、N家とは一年違い。

ほぼ同じ時期であったことに驚きである。

その時間帯の墓参りは隣家も揃って念仏を唱えていた。



取材させていただくお家は先祖さんだけでなく親類や無縁仏の墓も参られる。

その場はラントバのまだ上の崖の上にある。

その場にある墓石。

同じように花を立てて水をかける。



線香をくゆらせて鉦叩き。

同じように般若心経一巻を唱える。

もう1カ所はここより先にある。

草むらに覆われた地はラントバが元々あった地である。



無縁さんの墓にも丁寧にお参りをされるご家族に感心するばかりだ。

昼ご飯を食べてヒンネ(昼寝)をしてから参るとも話していたご家族の墓参りは「塔参り」。

ラントバに参ることから「ラントバさんの塔参り」と呼んでいる。

塔参りを終えたご家族は自宅に戻ってきた。



戻れば仏壇にお供えをする。

炊いた白米に一個の梅干しである。

「できあい」の家料理を味わってほしいといわれて座敷でよばれる。

昔は茶粥もあったそうだが、ご馳走じゃないけどと云いながら次から次へと食卓に並べられる料理は盛りだくさん。



ナスビのたいたんに伏見アマナガの煮びたし。

カボチャにナスビの煮びたし。

キュウリのキューちゃんに生姜のきざみもみ。

ニヌキタマゴにコンニャク、イカ、アゲサン、ジャガイモ、キュウリのハンゲツなどは味醂に酒と出汁醤油で煮る。

タラとサワラはフライパン揚げ。

甘い味のトラマメはキビ砂糖で味を調整。

どれをいただいてもとても美味しい家の料理に舌鼓を打つ。

奥さんが生まれ育った地は天理市の藤井町。

実家は存じている。

そこでのお盆は柿の葉の皿を並べてナスビやキュウリ、半切りスイカなどを供えていた。

墓石は30塔。

萱森と同じように花立てをしていたが近年はプラスチック製になったようだが、いずれも県内事例に拝見するお供えの在り方である。

奥さんがいうには同市の福住小野味は8月4日であったそうだ。

(H28. 8. 7 EOS40D撮影)
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中白木・萱森のお礼参り

2017年03月13日 09時03分44秒 | 桜井市へ
一昨年の平成27年、中白木で行われた秋のマツリの3行事を取材させてもらった。

中白木は本日巡ってきた桜井市の山間部。

瀧倉から三谷。

そして中白木に着いた。

この日に訪れた目的は撮影させてもらったお礼である。

10月17日の神明祭に11月9日の宵宮頭屋祭、翌日10日の高龗神社の頭屋祭だ。

頭屋を務めたお家は二老家。

同年の3月1日のオシメ入り座において神さんを迎えた家である。

一連の写真は記念のお礼にもってきたが自宅は不在だった。

仕方なく戻ろうとしたときである。

向かいの家でなにやら作業をしている男性がおられた。

庭の造作に手を休めた男性は一老の息子さん。

マツリのときにもお会いしている。

二老は大怪我をされて入院中。

奥さんがつきっきりで世話をしているようだ。

そういえばマツリのときには一老のお顔も拝見しない日があった。

あれから身体の調子も悪く施設通い。

長老二人がこういう状態になっているという。

そういう事情であれば息子さんに預かってもらうことにした。

そんな話をしている時間帯。

にわかに曇ってきた。

そのうちに鳴り出した雷。

突然のごとく雨が降り出した。

乗ってきた車に戻ろうにも戻れない土砂降りである。

しばらくは一老家の軒先で雨宿りさせてもらった。

中白木の用事を済ませて次に向かう大字は萱森だ。

どちらもそれほど遠くない距離にある。

萱森も昨年の平成27年に撮らせてもらった秋のマツリ。

10月23日の遷しまし頭屋祭の翌日24日の頭屋祭だ。

頭屋祭が始まる午前中は頭屋家で行われた祭り道具の調製。

午後が私祭の頭屋祭である。

なかでもとっておきの写真は神社の鳥居の処で撮った娘さん親子の写真だ。

カメラの前でいろんな恰好をしてくれた孫さんの姿が可愛く撮れた。

久しぶりに顔を合わす。

その後の病状は・・と心配してくださる。

ピンポン押して門屋に入る。

そこに干してあった梅干しは土用干しの梅。

三日三晩に亘って漬けた梅は壺ごと消毒する。

もう少し日が経てば美味しくなると云う。

時間があるならゆっくりしていけと云われて屋内にあがる。

こんな豆を食べてみるかいと持ってきた。

皿に盛った豆はマンズナルいんげん豆。



岩手県のタネを入手して栽培したそうだ。

甘くて美味しい。

さらに見せてくださるヤッコマメ。

コーヒーの汁に砂糖を塗してコトコト炊く。

そうすればもっと柔らかくなるという。

旦那さんも奥さんもいろんな食物に挑戦される。

これまで何度か貰って帰ったこともあるが、いずれも美味しいのである。

奥からもう一品をもってきてくれた奥さん。

パックに入れたヌカヅケキュウリである。



毎日、かき回して作ったキュウリは浅漬けのような感じだ。

始めに塩でもんで洗い。

昆布を乗せて皿に重しを置いた。

それでできたヌカヅケキュウリも口の中で踊る。

美味しい手造り料理をよばれて元気出そ、である。

この月はお盆がある。

N家を訪れたのは数年前に聞いていた家のお盆の在り方である。

8月14日はイショウライサン迎え。

2本の藁松明を門口に立てて火を点ける。

藁火を焚いて鉦を打ちながら「かえなはれ かえなはれ」と云って先祖さんを迎える。

翌日の15日も藁松明を焚く。

鉦も打つが詞は「いにやれ いにやれ」になる。

14日は先祖さんを迎える詞。

15日は送る詞であって時間帯も多少違う。

迎えは早い時間帯に迎えて、送りは晩。

時間帯も遅くにしているという。

先祖さんを迎える日は、朝はアサハンのシロメシ、昼にヒルハン、晩はソーメン。

ハギの葉を箸代わりに添えている。

翌日の送りは川に供えたものを流すらしい。

そこは危険な場所。

取材は無理なようなところのようだ。

かつては8月15日に小学校で盆踊りをしていた。

ここら辺りの上ノ郷は廃校となった跡地で花火を揚げているようだ。

オショウライサンの前にしておかなければならないのが、墓参りである。

萱森の墓はそれぞれの垣内によって異なるが、墓参りは同じ日の8月7日である。

それぞれの家がそれぞれの時間帯で参る。

我が家では昼ご飯を食べてヒンネ(昼寝)をしてから参るという行事名は「塔参り」。

ラントバに参ることから「ラントバさんの塔参り」と呼んでいる。

ラントバは石塔がある墓地。

逆に3月9日の春の彼岸前ではツチバカ参り。

他の町ではミバカに行くようだと云う。

N家では昼前の時間帯に出かけるようだ。

以前はカキの葉に家の料理のナスの田楽、イカのキュウリモミ、キズシにマクワウリなどを供えていた。

今は大きなハスの葉になったようだ。

(H28. 8. 1 EOS40D撮影)
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三谷菅原神社の花つみ参拝

2017年03月12日 09時02分01秒 | 桜井市へ
人は登場しなくとも「花つみ」の状態を見たいと云った写真家がいる。

一般的にはそういうことを云う写真家は少ないように思う。

そこに人がいなくとも撮った写真で「民俗」を伝える。

それができると思っている写真家の希望を叶えてあげたいと思っていたが・・・三谷には夏休みに入った子供たちが遊んでいただけだ。

参拝することもなく鬼ごっこでもしているような感じだった。

桜井市の三谷で行われている「花つみ」を知ったのは平成25年の7月28日の日曜日だった。

この日の行事名は「お庭造り」。

氏神さんを祭る菅原神社の清掃である。

境内などや地蔵院を綺麗にしてお盆を迎える。

三谷のお盆は8月1日より始まる。

1日から毎日に当番の人が菅原神社の拝殿前に設えた木製の台にシキビを供える。

木製の台は大工さんが作ったと話したのは何年か前にトウヤを務めたKさんだ。

かつては毎年作り替える竹製の台だった。

手間を省くために既製品を作った。

それが木製の台であるが、上部は青竹で囲っている。

四隅に丸青竹。

台になる部分は割った竹を並べる。

四隅にそれぞれ互い違いに端っこを乗せる。

本台となる部分は数本の割竹を並べる。

平成26年に訪れたときは7本ほどだった。

びっしり隙間もなく簾のように並べてプラスチック製の紐で固定する。

四方に立てた丸竹に水を入れる。

そこに何枚かの葉があるシキビがある。

形は花立と同じようなものだ。

水平の台に乗せるシキビに決まりがあると聞いている。

軸から外した葉を九枚並べる。

縦であれば今度は横に九枚並べる。

九×九は八十一。

そういうことから八十一枚の葉を並べる。

そうすると聞いていたが、どうしても枚数が合致しない。



この日も数えてみるが60数枚。

風で飛んだのか、それともなんらかの理由で落下したのであろうか。

三谷の行事取材にお世話になったNさんがいる。

FBにあったお名前は間違いないだろうと判断してリクエストした。

それ以来は私が投稿アップする県内行事にいつも「いいね!」をしてくださる。

この日も忙しくボランティア活動をされている。

初めてお会いしたときは天理市のボランティア活動だった。

最近は三重県名張市の活動もされるようになった。

状況を電話で伝えて青い籠にあるシキビの存在を教えてもらう。

籠に入れてあるのは前日の7月31日にしたものであるかもしれないという。

もしかとすれば朝、夕の2回ではなく、朝、昼、夕の一日3回ではないだろうか。

Nさんが云うには当番は一枚のシキビの葉を入れた箱を廻しているようだ。

家から家へと巡る当番箱が玄関口などに置いてあれば廻りが来たという印しになるそうだ。

その家はM家かU家にあるかも知れないという。

あればそのお家に実状を聞けば正確なことが判る。

そう思って探してみるが見当たらない。

他家を廻っているようだ。

電話口で伝えてくれたNさんは名張でボランティア活動をしながら「三谷」のことを調べているそうだ。

桜井市の三谷には古文書が残されていない。

昔のことを知るにも証しが残っていないのである。

それを補完するには同じ地名をもつ他府県にゆだねなければならない。

Nさんが調べている地は三重県の名張市にあった。

大字は「上三谷」に「下三谷」。

江戸時代は桜井市の三谷と同様に藤堂藩だっただけに何がしかの手がかりがあればと思って活動しているという。

当番の箱を探して長老宅に向かう。

その道中に見つけたヤマユリの花。



萱森のNさんが云っていたタメトモユリではないだろうか。

花が大きく重さで垂れさがる。

葉のつき方からたぶんにそう思うのだが、断定はできない。

仕事から帰ってきたばかりの長老はもうすぐ90歳。

元気な姿で迎えてくれたKさんが云うには、昔は朝、昼、夕にしていたというのだ。

そういえば平成26年の8月1日に訪れたときも下の籠に供えたシキビと思われるのがあった。

青い籠に納められていたのは朝に参ったシキビであった。

朝、昼、夕の参拝は聞き間違いでもなく実際にその通りにされていたのだ。

手水鉢に置いてあるのはたぶんにこの日三度目の夕参りのシキビだと話してくれた。

Kさんがいう通りにあった夕参りのシキビは写真に撮っていたが、いつ来るか判らないこの日の当番者を待ち続けるにはいかず、三谷の地を離れた。

ちなみに三谷の「花つみ」については昭和56年に発刊された『桜井市史 民俗編』に掲載されている。

大字三谷に鎮座する菅原神社の年中行事の項に「葛つみ(花つみ)講」がある。

葛つみ講は「毎年八月一日から八月十四日まで各戸から神社に来て、一日に三回樒を供えている。3回目は夕方ゆえ燈明をもあげて拝んで帰る。この講には“花つみ札”といって大字民の名前を書いた札を入れる箱がある。この箱を、十四日の参拝が終わるとその人の家で保管しておき、次の年に隣家へ回して葛つみ(花つみ)の行事をはじめていくことになっている」と記されていた。

三谷の年中行事それぞれに変化があったと聞いている。

この花つみもそうなのであろう。

(H28. 8. 1 EOS40D撮影)
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瀧倉瀧ノ蔵神社の華参り

2017年03月10日 08時56分19秒 | 桜井市へ
朔日参りに御供飯を供えた四老を見送ってからのことだ。

しばらくは瀧ノ蔵神社の拝殿前で佇んでいた。

そろそろ昼の食事に行こうと思って腰をあげたときである。

石段を登ってくる音が聞こえる。

どなたなのか、と思って待っていたら顔馴染みのOさんだった。

さきほどに六人衆の顔ぶれに変化があったと四老が話していた。

Oさんはこれまでずっと二老を務めていた。

私が瀧倉の年中行事を取材させてもらってからはずっとそうだった。

今は前一老のⅠさんの後を継いだ現一老だ。

やってきたのはこの日の華参りである。

華参りは一日から始まって7日まで連続する行事である。

朝、昼、夜それぞれに参って拝殿内にある太鼓を三度打つ。

これを7回繰り返す。

そして、ローソクを灯して三巻の心経を唱える。

鳥居を潜ってやってきた一老はサカキの木を持っている。

それは太鼓を打つ拝殿の祭壇に収める。

これを7日までの毎日を繰り返すのであるが、日にちごとに役目する六人衆は入れ替わる。

8月1日は一老、2日は二老、3日は三老・・・で、6日は六老が務める。

かつては7日から14日までは下の六人衆が役目をしていたが、今はない。

7日は再び役目をする一老がお礼参りとして〆るのである。

時間はきっちり決まっているわけでもない。

朝、昼、晩のそれぞれの時間帯はブレがある。



この日を役目する一老の時間は朝が5時、昼は12時、晩は午後8時というが、ときすでに昼時間は若干のブレで12時半だった。

尤も滞在していた私に説明している間に時間が動いていたのでそういう時間になったのだが・・・。

この日の心経は「心願成就」。



一老は座の最長老。

村の願いごとも含めて唱えさせてもらったと云った。

ちなみに前一老のⅠさんは、拝殿で丸一日籠って唱えていたと云う。

その話しは頷ける。

平成26年の8月1日に訪れたときは、まさにその通りだった。

ときおりO家を訪ねてはさまざまな瀧倉のことをお聞きする。

この日もしてくれた話題は・・。

七日トーヤ(頭屋)は「アカイヤ(閼伽井屋)」に参って水垢離をしていた。

瀧ノ蔵の神社下を左に折れていけば岩がある。

そこは「アカイヤ」で水が湧く。

梵字の版がある。

木の版は「もっぱん」と呼んでいた。

蟲が喰ってボロボロの木版。

何を書いているのかさっぱりわからない。

わからんから判読はやめた。

瀧の「ゾウゴン(荘厳か)」。

龍の絵がぐるりにあった。

天保時代なのかわからないが・・・。

版の様相から3カ所立てて水垢離の行をしていたようだ。

故Mさんの家の下に流れる初瀬川の上流に小川がある。

水垢離の行は冬のトーヤ(頭屋)がしていたという。

冬のトーヤはたぶんに今では中断している二月トーヤ(頭屋)のことだと思う。

その件については昭和54年から56年にかけて発刊された『桜井市史下巻』。

特に昭和56年の『民俗編』に、次のような記事があった。

瀧倉の「七月頭屋 正月頭屋をすました者のなかから、毎年兄弟頭屋二名を選出しておく。そして7月14日の早朝に、字西川の初瀬川の上流、大井堰で、現在と受けの兄弟頭屋四名が、ミソギをして、小石三個ずつ拾って帰り、自宅のカマドの上にのせて祀っておく(もとは旧6月14日で、この四名は前の十三日夕刻に神社で参籠したという)。当日、午前9時ごろ、神主および一老、二老の三人が受け頭屋の兄弟二軒の頭屋に集まり、門口にそれぞれに〆縄を張り、お祓いをしてもらう。次に現在の兄頭屋のオカリヤを受け頭屋の兄頭屋へうつす。午後四時に祭典をして、下の宮の石にて、カワラケ一枚を割り、戻って頭屋渡しの式を行い、一老と二老の酌で頭人四名が三々九度の盃事をして、式終了となる。このあと一同直会にうつる。チソウは現頭屋のうけもちだ」とある。

記事の内容は七月頭屋の式典状況であるが、Oさんが話す禊の作法は正月頭屋(七日頭屋)も同じだったと思われるのである。

(H28. 8. 1 EOS40D撮影)
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瀧ノ蔵神社の朔日参りの御供飯

2017年03月09日 09時10分00秒 | 桜井市へ
この日は朔日参り。

毎月交替する当番のジソウ(寺僧)が枡に盛ったアカゴハンを供える。

但し、である。

お供えをする時間は特に決まっていない。

ジソウの都合の時間である。

お参りを済ませば供えたアカゴハンは持ち帰る。

神社で待っていてもまだなのか、それともすでに参ったあとなのか、さっぱり掴めない。

当地に着いた時間も忘れてしまうぐらいに惚けていた。

そろそろ12時にもなりそうだ。

これ以上待っていても何事も起こらないと思って諦めかけたときだ。

瀧ノ蔵神社へ向かう参道を歩く音が聞こえてきた。

どなたかが登ってこられる。

鳥居を潜ってこられた男性の顔は記憶にある。

かれこれ10年前のこと。

平成18年9月23日に行われた改名祝の名替え行事の日だった。

名替えは対象者がなくともナスビの味噌汁でもてなすことはしていた。

当時はそうだったが、今はしていない。

その味噌汁を大きな鍋から掬って椀に盛っていた人だった。

ご本人は覚えておられないが、私ははっきりと覚えている。

当時は下の六人衆だった。

今はその組織もなくなったが、上の六人衆のうち一老が引退された。

そうなれば二老が一老に繰り上がる。

三老は二老・・・六老は五老に、である。

空白になった六老には下から繰り上がる。

繰り上がるといっても年齢順でもない。

村入りされた男性は高齢者。

受け入れられて繰り上がったそうで、今年の1月にデビューしたと云う。

そんな状況になったが、朔日参りの御供飯はといえば、ここにある。

風呂敷に包んで持ってきた枡盛り。

詰めていたのはアカゴハンである。

賽銭箱の上に乗せてお供えをする。

神さんに食べてもらうおうと蓋を開ける。

しばらくはそのままである。

話は六人衆に戻されて六老の話し。

瀧倉では6月14日、15日、16日の三日間。

毎日の連続で行われている行事がある。

14日はアマ(雨)ヨロコビ。

15日は毛掛ヨロコビ

16日は〆の虫祈祷である。

いずれも太鼓を打たれる。

その太鼓打ちを役するのが六老。

六老を務める期間はどれぐらいにあるのか。

任期に制限はない。

六老であり続ける期間はずっと太鼓打ちが役目。

1月にデビューした六老は初めての所作になったそうだ。

瀧倉のトーヤ(頭屋)は二人。

本ドーヤのアニキ(兄頭屋)とオトウトトーヤ(弟頭屋)が務める。

サバの一本やオモチの準備をしたり、炊きもんの役目をする。

10月1日はお神酒を供えて新しい注連縄を架ける。

その日の行事名は「お酒の口開け」。

瀧倉の年中行事の始まりの日である。

マツリは10月12日、13日。

そういえば近隣村の萱森や北白木、中白木のマツリは拝見したが、瀧倉は未見。

他の行事はなんども伺っていたが、失念していた。

そんなことを話してくださったこの日の御供飯当番は四老さん。

そうこうしている時間がきた。



神さんに食べてもらったアカゴハン御供を下げて戻っていった。

(H28. 8. 1 EOS40D撮影)
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