マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

滝川の十五夜芋たばり

2017年05月13日 09時25分12秒 | 十津川村へ
旧暦十五夜に行われる「芋たばり」の風習がある。

一般的には中秋の名月と云われている「十五夜」である。

その日の夜は観月祭とかの名で行われている各地のイベントが盛ん。

だが、村々では「芋名月」や、と云って十五夜のお月さんを愛でる夜になる。

我が家もときおりふっと思い出したようにススキを立てて和菓子屋が作った月見ダンゴ(月見モチ)を供えたこともある。

村々ではダンゴでもなく、モチ、あるいは饅頭でもなく、「イモ」である。

これまで拝見してきた「イモ」は皮を剥いた丸っこいコイモである。

白い肌をみせるコイモはお月さんに見立てている。

十五夜のころはイモの収穫期。

豊作に感謝してお月さんに向けて供える。

供えた「イモ」は村の子どもが盗っていく風習があるが、廃れてしまったのか、県内事例は多くない。

地域限定の事例に生駒市の高山平群町がある。

高山は子供が多く、今でも継承されている伝統行事であるが、盗っていくのはお菓子である。

和歌山の山間地もしていると、FB知人のKさんが伝えていた。

地域限定であるがゆえ、しかも少子化によって中断となった地域もあり、どこでもしているわけでもない。

それが山間部の十津川村にあった。

少子化の現代において、今でもしていること事態に驚きである。

しかも、である。

毎年訪れる民宿津川(津川の在地は風屋)から滝川沿いの集落でしていたなんて、とても驚いたものだ。

この風習を今でもしていると知ったのは十津川村の内原(ないはら)である。

集落で「ハダ」と呼ばれる何段にも高く揚げる稲架けをしていた83歳の男性が教えてくれたことによるものだ。

30年前、もっと前かも知れないが、子どもたち集落にいた時代は内原でも「芋たばり」をしていたという。

話してくれた男性は、「滝川は今でもしているで」と云った言葉に驚いたのである。

「たばり」は「たばる」こと。

漢字でいえば賜るということでありがたく貰う特有の訛り言葉である。

滝川は五つの垣内に別れていることも初めて知った。

わかりやすいように民宿津川から内原に行く道中沿いに云えば、民宿津川から一番近い集落が下地(しもぢ)垣内。

次は向地(むこおぢ)垣内になるのだが、下地垣内中央に橋が架かっている。

そこを渡ったところが閉校した旧小学校跡地の高原(たこはら)垣内になる。

橋の向こうにある人が通れるぐらいの広さの暗がりトンネル向こうが高原である。

滝川を遡上していけば鉄橋手前が向地(むこおぢ)垣内。

放棄された「ハダ」が残っている。

橋を渡ったところが裏地(うらぢ)垣内。

ここが滝川の中心地になると滝川の総代に教えてもらった。

さらに向地垣内の山を登ったところにも集落がある。

そこは上津野(うえつの)と呼ぶ垣内になる。

大字滝川の集落は45、6戸。

それほど多くの集落が建っていたことを始めて知るが、実際はその戸数すべてに住んでいるわけではない。

何軒かは住居を残して平坦に住んでいる家もあるらしい。

数日前に聞いていた総代の話し。

どこからか子どもが集まってきて山影から月が出たら「芋たばり」が始まると聞いていたが、実際は違った。

この日の月の出は午後5時過ぎであるが、山に隠れて実際に見えるのは少なくとも午後5時半ころと想定していた。

その時間に合わせて向かった滝川。

着いて総代に聞けば午後7時ころになると云う。

つまりは月の出の時間とは関係なく、都合の良い時間に家を出るらしい。

待っている時間は長い。



早めですが、うちのお供えをしておきましょうとしてくれたお月見のお供え。

近くで採取した穂付きのススキ。

旧暦の十五夜は毎年動く。

今年は9月15日だが、平成27年は同月の27日。

平成26年は同月の8日。

平成24年は同月の30日。

平成21年であれば10月の3日になる。

ほぼ一月間の間隔であるだけにススキの成長具合と一致しない。

早ければ穂は出ていない。

遅ければ穂は消えている。

当地では見られないが、平坦部のお月見はススキにハギの花を供えるところが多い。

そのハギも時期によったら蕾どころか芽もない。

咲いた花は散っていることもある。

まことに難しい名月のお供えである。

総代家は採れたてサツマイモに長細い形のサトイモを盛った。

サツマイモはムラサキサツマイモ。

入手したツルを植えて育てたという。

サツマイモは冬の食事に登場する。

収穫したイモを蔵で保存する。

ひと冬越したイモはタネイモにする。

食事にするのは干したイモ。

それを「ホシカイモ」と呼ぶ。

イモは湯がいて縦に切る。

藁で括って干していた。

逆にそのまま切って干すのは「シラボシ」。

炊いて食べると話していた。

子供らに貰って帰ってもらうお菓子を並べて待つが、実際にやってきたのは午後8時であった。

いつ、どこから子供が現われるのか、見つけたらついていって撮らせてもらおうと思っていたが真っ暗になっても誰一人現われない。

不安な予感がする・・・。

下地垣内から裏地垣内までの行程を行ったり、来たりで何度往復したことか・・・。

そのときに見つかったススキ立て。



お供えはまだのようだが撮らせてもらったススキ立ては一升瓶。

これこそ民俗だと思ってしまう被写体に感動した。

時間帯は午後6時半を過ぎていた。

対岸の川向うを見れば、ふと、人影が動いた。

慌ててその場に行けば子供さんと一緒にススキと彼岸花を採っていたお母さんがおられた。

それを持っていることは間違いなく十五夜さん。

子供さんがおられることであれば芋たばりに出かけられる。

そう思ってお声をかけたら「うちの子どもたちは書道に出かけるので少し早いですが、いいですか・・」という。

ありがたいお言葉に甘えて、喜んでついていかせてもらいますと云えば快諾してくださった。



お母さんは出がけに我が家のお供えをされる。

時間帯は午後6時45分だった。

サツマイモに串挿しダンゴ。

赤リンゴに青リンゴなどの果物にお菓子を盛って供えたところで出発する。



まずは隣家に出かけて「芋たばりに来ましたーー」と声をかける。

家人を呼び出してからたばっていく。

それがたばりの礼儀である。

そこから滝川支流に沿って下流に向かう。

家々をたばりに廻っていく。

ひと通り巡ってきて今度は上流にある家に向かう。



ある家はススキを立ててなかったが、塩茹でした皮剥きコイモに蒸しサツマイモがほくほく。

暗闇に照らしたライトでわかるだろうか。



ほくほくのおイモさんに思わず手が出る小っちゃな子どもたち。

兄ちゃんも姉ちゃんも嬉しそうに駆け巡る。

同行取材させてもらっている私も今夜の芋たばりのお相伴にあずかる。

思った以上に甘味のあるサツマイモも美味しいが、私の好みはサトイモだ。

民宿津川のねーちゃんから聞いていた塩茹でしたサトイモはつるっと皮が剥ける。

手で掴んだサトイモはつるっ。

落としそうになったが、おっとっと、で口に放り込んだ。

とても美味い、のである。

民宿津川を継いだ二人のねーちゃんも家で食べていた記憶があるそうだ。

それがこの味だったかはわからない。

塩加減、湯加減で味わいがかわる。

家の料理とはそういうものだ。

それはともかく民宿津川がある在所は風屋(かぜや)。

十五夜のお供えはしていたが、芋たばりの風習はなかったと話していた。

何軒か廻って隣家に向かう。

隣家は明かりが煌々と点いていた。

この家は縁にお供えをしていた。



お月さんを愛でる場は縁とか庭、或は戸口に多く見られるが・・・。

ここも蒸したサツマイモにコイモを供えている。

ガラス戸を開けておイモさんが欲しい子らはここから盗ってもらう。

私もいただいたおイモさん。

とても美味しい家庭の味がする。



大多数の子どもたちは玄関に廻ってお菓子もらい。

お盆に盛ったお菓子に群がるイモ嫌いの子たち。

ここでたまたま遭遇したも一組の子どもたち。

事前に聞いていた子供の数は7、8人だったが、この日は17人にも膨れ上がった。

なんで、であるか。

事情を聞けばこちらに住んでいるお姉さんから、滝川に芋たばりがあると聞いた隣村に住む妹家族が大勢の子供たちを連れてやってきたのである。

あっちへ、こっちへと各戸を巡る子どもたちの後を追いかけるのもたいへんである。



車路に建っているお家は明かりもあるからわかりやすい。

ところが筋を一本入って登り坂の先にあるお家を見つけるには難しい地域外の私。

40年も通っている車路は存じているが、登り詰めた通りはまったく知らない。

しかも暗闇をぬってのあっちへ、こっちへ、である。

車路に面したお家は庭先にお供えを出していた。

ライトを照らしていない庭先。

申しわけないがストロボを当てさせてもらった。



さらに車路を歩いて・・・。

実際は歩きではなく、お母さんが運転する車に子どもたちを乗せて走っていく。

後尾ライトを目印に追っかけをする。

呼び鈴がないお家は大きな声で「芋たばりに来ましたーー」。

大急ぎで用意しておいたお菓子を玄関にもってきてくれた。

その家の向かい側にもお菓子を盛っている。

夕方、陽が暮れた直後に拝見した一升瓶にススキを立てたお家である。

奥さんは大慌てでそこに供えたとたんにゲットする4人の兄弟姉妹たち。



そして高台にある総代家にやっと着いた。

このときの時間帯は夜の8時。

例年よりは1時間遅いという見方もあるが、もう一組の子どもたちはとうにやってきていたのかもしれない。



暗がりであっても踏みなれた石段はひょい、ひょい、ひょい・・。

女児はどちらかといえばお菓子には目もくれずサツマイモに手が伸びていく。



何十軒も同行しておればそれがよくわかる。

60云歳の総代が子供のころの体験談。

イモよりお菓子が欲しかったと云っていたのは真逆になる。

結局はその子の好みであったかもしれない。

総代が云うには、十津川村では折立や上野地、川津で芋たばりをしているようだと話してくれた。

数時間の長時間に亘って同行取材をさせてくださったK親子に感謝する滝川の十五夜芋たばりはこうして終えた。

取材時間は午後8時半を過ぎていた。

ぼちぼち帰ろうと帰路につく。

近年は十津川村の小中学校の閉校が多くなるほどの少子化時代。

隣村の内原や風屋に谷瀬など地域の芋たばり状況を知って、ただただ驚くばかりの滝川風情に浸っていた。

雨は降らなかったが、汗はびっしょりかいた。

滝川より車を走らせて30分ほど。

上野地トンネルに入ろうとしたそのときだ。

トンネル手前十数メートル付近を歩いている集団を見た。

子どももいるし大人もいる。

人数や持ち物ははっきりと認識できなかったが一瞬のこと。

親子連れと思われる集団は間違いなく上野地の十五夜を歩く芋たばりであろう。

来年の旧暦十五夜は10月4日の水曜日になる。

さて、どこへ行くか・・・。

後日、前述した滝川の芋たばりや生駒の月見どろぼうの状況を、9月10日、11日にともに民宿津川に宿泊した連れのAくんに伝えた。

拝読した彼は「まるで、ハロウィンの日本版ですね」とコメントをくれた。

とんでもない。ハロウィンは元来、先祖迎え、もひとつに悪霊祓いである。

先祖迎えの点では日本のお盆の在り方と同じであるが、十五夜の風習にはハロウィン特有の仮装は登場しない。

ましてや悪霊祓いもない。

お菓子を貰うのは似ていても、芋たばりとか月見どろぼうの名で呼ばれる意味はあくまで収穫に感謝する風習である。

お供えを子供が盗っていく村公認の風習は決してハロウィンでもなんでもない。

似て非なり、だと返答した。

収穫祭ともいえる村の行事に野菜で人面を作って供える「御膳」と呼ぶ行事もあるが、大きなカボチャが顔やー、それやからハロウィンやという人も多いのは、本来の日本文化を知らないからそう思うのだろう。

テレビなどが伝えるニュースや報道の影響もあるのかもしれない。

(H28. 9.15 EOS40D撮影)
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再訪、内原のハデ

2017年05月12日 09時38分51秒 | 十津川村へ
再び訪れた十津川村の内原(ないはら)。

数日前の10日に訪れたときと同じように思えたハダ架けの景観がある。

集落戸数は10軒満たない。

うち、ハダ架けをしているのは2軒。

上流の奥里もしていたそうだと聞いている。

急な坂道を車で登る。

そうでなければ壊れた心臓が弾けそうだ。

急な登りはまだ不完全な身体では無理がある。

そう思って車で登る。

家の周りなど、あちこちに点在する多段型のハダ架けに見惚れて巡っていた。

せっかく乾いてきたというのに雨が降りそうな気配である。

雨が降れば天日干ししたお米は湿ってしまう。

仕方なくブルーシートをかけて保護するが・・・。



ご主人のNさんは干して10日ほどもすれば下ろすと云っていた。

下ろす時期は天候状態によって日にちを決定される。

晴れ間が数日間続く場合であるが、今年は長雨。

下ろすタイミングが難しいという。

ハダ架けは刈り取りから始まる。

それも天候次第。

下ろすのも天候次第。

気象状態に左右される作業はカンピョウ干しも同じだと思った。

このハダの竿、支柱は金属ポール。

木造であれば大工さんに作ってもらうが費用はかかる。

金属ポールであれば83歳の私でも組むことができるし費用も助かると云う。

ハダに登って稲架けをするのは旦那さん。

若いときの奥さんは下から稲を投げて渡していた。

年老いたらそれは無理。

二股木に稲藁を架けて下から持ち上げるようにして旦那さんに渡す。

つまりは二人がかりでする作業である。

一人だけでは高い竿に架けるのは無理がある。

谷瀬のOさんが云われた危険回避はよくわかる。

稲架けは9月初めに1回目。

天気が良くなった9月10日が2回目の稲架け。

3回目は15日だった。

一挙に行う作業は老夫婦にとっては負担がある。

天気の具合をみて作業をしているという。

天日干しは天候次第。

降ろす時期もこれまた天候次第でカラカラに乾いた日が三日以上続けば降ろして脱穀するそうだが・・・今年の長雨でいつになるやらと云っていたのが印象的だった。

(H28. 9.15 EOS40D撮影)
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不思議な石積

2017年05月11日 07時44分14秒 | 十津川村へ
何十年も前からこの場を通り過ぎる。

その度に不思議な景観の正体が気になっていた。

気にはなっていても連れたちに申しわけないと思って走り過ぎていく。

この日は単独行動の民俗取材。

こういう機会に一度は尋ねてみたい不思議な石積の正体。

車を停めてその民家におられた男性に聞いた。

その結果は・・・。

「石」の民俗に挙げたかった情景は・・・・・「石」好きご主人の趣味であった。

お話してくださったのは当主の息子さん。

自宅の畑で作業をしていた。もうすぐ父親が戻ってくるから直接聞いてほしいとおっしゃる。

家屋周りにもたくさんの「石」が置いてある。

それらはいろんなところで購入した石。

置物になりそうなものもいっぱい並べて散財したとか・・・。

さて、正体を知りたかったのは門口に積んだ石である。

当主が云うには「面白いから積んでいますんや」だった。

この場は日本の滝百選の一つに挙げられる笹の滝に向かう大通り。

こうしておけば誰かが気にかけてくれるだろうと積んでいたご主人のお遊びであった。

まんまと引っかかってしまったわけである。

(H28. 9.15 EOS40D撮影)
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再訪、滝川のハダ

2017年05月10日 09時21分04秒 | 十津川村へ
この日は芋名月の十五夜だ。

日が暮れて辺りは真っ暗闇に包まれる。

その時間帯がくるまでに見ておきたい十津川村滝川のハダ。

区長こと総代の話しによれば、今では稲作をしていない家もあるそうだ。

稲作はしなくとも稲束を干す構造物はそのままにある。

保存しているわけでもなくそのままにしてある。

そういえば支流滝川に架かる橋の近くに多段型のハダ架けがあった。

これまでの云十年。

二十歳のころからずっとここに来ていたが、あるにはあるという認識だった。

それが何であるかは、この年(歳)になって初めて知った。

二十歳過ぎから数えて四十年以上にもなる。

ずっとこの場に立っていたハダ場がある。

主(あるじ)はいなくともその存在感は大きい。

長年に亘って存在感を示していたものが川向こうにある。



多段型のハダ架けは今でも現役。

4日前に拝見したときと同じ状況である。

干した稲束はいつ下ろされるのか・・・。

この日の夜。

すぐ近くで人の動く姿があった。

時間帯は午後7時半ころだった。

そのことについては後述する。

橋近くにある多段型のハダ架けに見惚れていた。

これより上流に向かう。

車のエンジンをふかせて走らせる。

数十メートルも走らない処で目に入った多段型のハダ架け。

稲刈りを終えた田んぼは点々点………。

その向こう側にあった屋根付きの多段型のハダ架け。



ここ滝川ではどこでも同じであるが、赤いトタン屋根が映える情景もまた良しと思ってシャッターをきった。

段数は6段。

他より少ない段数であるが、これまた良し、である。

ここは十津川村でも無名の大字滝川。

川の名も“滝川”。

最上流にある滝百選の「笹の滝」は有名であるが・・。

滝川の裏地垣内。

ここでは3軒ぐらいがしていた。

私的にはとても素敵な景観である。

川を渡る手前の向地垣内は昔にしていたハダ場。

高齢化によって放置、

それもまた原風景らしい景観を醸し出していた。

(H28. 9.15 EOS40D撮影)
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再訪、谷瀬のハデ

2017年05月09日 09時14分56秒 | 十津川村へ
9月11日に訪れてハデ場に刈り取った稲を架ける状況を取材させていただいたお家が気になって再訪した。

もしかとすれば男性が住まいする家は存じている人がいるかも知れない。

毎年届く年賀状の住所は谷瀬(たにぜ)。

ご主人はお会いしたときはすでに高齢だった。

住まいは吊り橋を渡った向こう側と話していた。

賀状に住所が書いてある。

ネットの地図で検索したら11日に訪れた家を示していた。

どんぴしゃの当たりである。

ハデ架けをしていた男性はたぶんに息子さん。

年齢的にそう思えた。

自宅に掲げる表札はまさにその通りだった。

お声をかけたら奥から声が聞こえる。

もしかとしたらOさんと云えば、私の顔を覚えているという。

懐かしい顔を見せてくれたご主人は国王神社の祭り取材でお世話になった元総代だった。

国王神社の祭りは平成21年11月1日に取材した。

お渡りの先頭を行くのが元総代のOさんだ。

ほぼ7年ぶりのご対面にびっくりしたという。

最愛の奥さんを亡くされたこともあって年賀状は取りやめたいと伝えていたが、なぜか気になるご主人には毎年送っていた。

それが功を奏したのであろうか、すぐさま記憶が蘇ったようだ。

この国王神社の大祭は連載していた産経新聞の「やまと彩祭」記事に掲載した。

祭りの謂れなど教えてくださった。

それを参考に平成22年11月10日発行の新聞に掲載した。

感謝の電話とともに新聞記事を送ったように記憶するが・・・。

実はというOさん。

11日の取材に応対していたのは息子さん。

定年退職をされて神職になられた。

国王神社の祭主もしているという。

先日に聞いていた谷瀬の芋名月の夜に供える場は門口のここだと話してくれる。

そうこうしているうち息子さんが戻ってきた。

実はお父さんとは国王神社の祭り取材でお世話になっていたことを伝えると驚いておられた。

ハダ場取材で繋がった不思議な縁は親子繋がり。

まことに不思議である。

この日も普段着姿で作業していた畑仕事からの戻りだった。

昨年の国王神社のお渡りは中止された。

上野地の公民館を出発して国王神社に向かうことはない。

風の便りでそう聞いていると云えば、今年は元の状態に戻すと云う。

お渡りは長丁場。

かなりの距離を巡行する。

途中で休憩する場が利用できなくなったことが中止の理由だったが、お渡りは復活すると云う。

久しぶりに拝見させもらうつもりだったが、事情で実現しなかった。

話しを伺った神職は旧大塔村の伝統行事にも出仕されている。

引退された前神職から継いで務めているという。

11月になればハデ場から降ろして脱穀と聞いている谷瀬をゆっくり巡る散歩道マップがある。

タイトルが「谷瀬の里はつり橋につづくゆっくり散歩道」。

大字の上野地から谷瀬の吊り橋を渡った先が谷瀬である。

渡ったついでに散歩してくださいと云うマップをもって歩くのも良かろう。

谷瀬側に就いたらトイレ休憩もできるつり橋茶屋がある。

そこからなだらかな道を歩けば集落に着く。

谷瀬は手前にある民宿杉の原がある平地地区に上地地区、中切地区、西坊地区の4地区。

道なりに歩いていけば大きな水車が見える。

新設された施設のようだ。



その手前にあるのは休憩もできる「こやすば」。

その名の通りちょっと休んでくださいというようなネーミング。

空き家民家を利用したこれもまた施設は奈良女子大の先生や学生が荒れていた民家を修復して利用できるようにしたらしい。

(H28. 9.15 EOS40D撮影)
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風屋・内原・滝川・谷瀬の十五夜情景

2017年05月07日 09時18分46秒 | 十津川村へ
十津川村で今尚されているという情報がどこやらに書いていた。

そのどこやらは覚えていないがメモが残っている。

平成20年のメモだからずいぶん前のことだ。

場所は十津川村の折立。

中秋の名月に行われる芋たばりと呼ぶ地域の行事である。

芋たばりの「たばり」は賜るから訛った言葉。

山添村の切幡では芋ならぬ豆たばりという行事がある。

切幡では子供たちが村の各戸を巡って豆を貰ってくる。

豆はアゼマメ。

すぐに食べられるように塩湯につけて湯がいた食べ物。

全国的どころか飲み屋に行ってちょい飲みのアテに食べるエダマメである。

そのエダマメは大豆。

大豆の枝に実がついているからエダマメ。

大豆は田畑周囲に植えるとアゼマメの呼び名になる。

つまりは畑の畦に植えているから畦豆。

所は代わってもそう呼ぶ。

何故に今頃なのか。

豆たばりも芋たばりも畑の収穫野菜。

中秋の名月に豆や芋を供える。

それを貰っていただくことができる。

つまりは収穫に感謝しつつありがたくいただくのである。

話は十津川村で行われているという芋たばりに戻そう。

折立の芋たばりを聞いたのは平成20年8月15日に行われた西川の大踊り取材の際かも知れない。

それはともかく吊り橋で名高い谷瀬(たにぜ)にあると知った日はいつの日であるのかまったく覚えていない。

中秋の名月を十五夜とか、供える収穫野菜から芋名月或は豆名月と呼ぶ地域もある。

場合によっては栗名月の名で呼ぶ地域もある。

もしかとして、と思って内原の「ハデ」取材をさせてもらったご主人に尋ねた。

結果は30年前まではしていたという芋たばり。

「昔、子どもが大勢いたころ。9月の十五夜に家のカド、三方に皮付きのサツマイモとサトイモを供えていた。サトイモはコイモ。皮を剥いて載せていた。イモは甘辛う炊いた。ススキとかは立てなかった。日暮れともなれば、村の子どもたちがやってくるので、お菓子なんぞを渡していた。競争になってしまうので、不公平にならんようにもって帰らせた。今でもしているのは隣村の滝川や。内原は子どもがいなくなってやめた」。

そう話してくれた内原のNさんの話しはかつての十五夜の様相である。

その夜に宿泊していた風屋(かぜや)の民宿津川のねーちゃんに伝えたらこう話してくれた。



「生前、母親がしていたお月見。塩茹でしたサトイモは皮がつるっと剥けた。それを食べていた。コメコ(米粉)挽いてダンゴを作っていた。ツキミダンゴ(月見団子)は三方に盛って供えていた。ススキの穂は立てていたが、ハギの花はなかった。子どものころの記憶はあやふややけど、他家へ出かけて芋たばりをしていたように思う。家には“ハダ”があった。利用することもなくなって倒したが結構しんどかった」。

芋たばりは風屋でなく滝川でしているのなら総代さんは知っている。

家はここら辺りやと地図を書いてくれた総代家は下地のFさん。

バナナの木がある所やからすぐにわかる。

そこにも“ハダ”があるはず。

いっぺん聞いてみたら、どう、と言われてお家を訪ねる。

ちなみに民宿津川のねーちゃんが云うには折立は知らないが、谷瀬(たにぜ)ならしている可能性があるという。

下地のF家は民宿津川よりそれほど遠くない。

バナナの木を見つけて立ち寄った。

滝川の十五夜はかつて全戸でしていた。

戸数は少なくなったが毎年の中秋の名月の十五夜にしている。

その日は今年が9月15日。

4日後に行われるという今年のお供えはススキの穂立て。

かつては空になった一升瓶に立てていた。

立てる場所は屋外の縁。

子どもたちがたばれるように外縁に立てる。

供える家によって異なるが、食べられるように蒸したサツマイモ、または、サトイモはススキを立てたところに供える。

そのお供えをいただくことが「芋たばり」だという。

例えば、であるが、キャッチボールを受ける場合も「ボールをたばる」というのである。

各戸の住民は芋名月の夜に村の子どもたちがたばりにくるので準備するらしい。

各戸を巡って秋の収穫をいただくという風習である。

ちなみに滝川の芋たばりはサツマイモがメインになると話していた。

秋の収穫は果物の梨もあれば柿もある。

畑をしていない家では芋でなくお菓子になるようだ。

総代さんが子供のころの芋たばり。

芋はどこの家にもあった。

芋よりもお菓子の方が子どもの好み。

お月さんが出るのを待ってうろうろしている時間帯。

やがて山影からお月さんが顔を覗かせる。

出てきたら、行けっていう感じで各戸を廻った。

最近は小中学生が7、8人ほどやってくる。

かつては団体行動ではなくバラバラやってくる。

ちょっと間は中断していた時期もあったが、村で決めるわけでもない芋たばり風習の復活は自然にやってくるようである。

お菓子は取り合いの競争になって公平さを欠いたらいかんと考えてやってきた子どもに配っている。



十五夜に芋たばりをしていたのは風屋、内原、滝川だけでなく、谷瀬にもあった。

あったのは20年ほど前のことである。

この日に訪れて「ハダ」場の取材させてもらった谷瀬の男性の話しである。

芋名月の夜である。かつては大勢の子どもがいた。

その子らは村中を巡って芋たばりをしていた。

父親もしていたし各戸もお供えをしていた。

蒸したサツマイモをもらっていく子供たち。

いつしかサツマイモはお菓子に移っていった。

家の前とかにお盆盛りしたお供えである。

谷瀬も少子化になった。

谷瀬の子どもに小学生はいない。

たった一人の中学生も寮生になったから芋たばりはすることもないようだ。

対岸の上野地は10年前までしていたというから十津川村の各大字で今でもしている可能性があるということだ。

滝川は確実性がある。

それぞれの違いはあるかもしれないが、4カ大字で話してくださったおかげで十五夜の情景を思い描けることができた。

(H28. 9.10 EOS40D撮影)
(H28. 9.11 EOS40D撮影)
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谷瀬のハデ場

2017年05月06日 08時45分59秒 | 十津川村へ
十津川の谷瀬(たにぜ)は、内原(ないはら)、滝川、風屋(かぜや)からの帰り道に立ち寄った。

吊り橋があまりにも有名だが、奥まで入ったことはない。

民宿津川のねーちゃんが話していた十五夜に谷瀬がやっている可能性があると聞いて立ち寄った。

谷瀬に架かる吊り橋を越えて集落に向かう。

尤も越えたのは吊り橋を歩いたわけでもなく、トンネルを抜けた直後の廻り道。

そこには吊り橋でなく、石橋があった。

車はそこそこ走る橋の幅はそれほど広くない。

向こう岸に車があればどちらかが優先しなくてはならない橋渡りである。

そこより登って行けば吊り橋の対岸に出る。

谷瀬の集落はそこよりもう少し。

距離はそれほど遠くない処に大きな構造物が目に入った。

内原や滝川で拝見したハダ同様の多段型ハサ架けであるが、屋上が物干しにしている一階部分に、であった。

この場であれば雨が降っても大丈夫、だと思った。

谷瀬に多段型のハザ架けがあるとわかってさらに奥を目指す。

バタバタと音がするキャタピラタイプの運搬機に刈った稲藁を乗せて運ぶ男性がいた。

お声をかけて運ぶ様相を撮らせてもらう。



奥まった所がご自宅だ。

これまで運んだ稲藁は田んぼに積んでいた。

奥の田んぼは一本竿に稲架け。

もうすぐ雨が降りそうだからといった男性は、運搬車を操作してさらなる奥に進んでいく。



見事な多段型のハザ架けがここにもあった。

男性が云うにはこれを「ハデ場」と呼んでいた。

前項に挙げた滝川や内原では「ハダ」と呼ぶ。

同じ滝川でも下地垣内は「ハデ」と呼ぶ。

地域によってさまざまな呼び名があることがわかった。

男性は「ハデ場」に稲束を架けていく。

見ればわかるが、4段目まで。



下の段から上の段へ架けていく。

一段を積んだらもう一段上に架けていく。

見ての通り、これ以上の段には架けることはない。

少なくとも上にはまだ4段もあるが、何もしない。

理由は二つ。

梯子を架けて登るのも可能だが、万が一の事故に安全性をとった。

もしも梯子から落ちればたいへんなことになる。

危険性は避けるということだ。

もう一つの理由は作業が一人でしかないからだ。

一人で上の段まで架けるには無理がある。

一人作業では手が届く範囲までしか架けることができない。

残った稲架けは一本竿にする。

これなら一人でも架けることができる。

作業を支援する者がいなければそうするしかない多段型のハダ架けの残りは四方形に組んだ一本竿。



横並び一直線に設えた稲架けは大風吹けば倒れる。

そうなったら起こすのがたいへん。

それもあるが泥田に塗れて一からやり直し。

そう零していたのはカメラのキタムラ奈良南店の店員さん。

かつて住んでいた淡路島はそれが一般的だった。

そういえば平成29年1月7日に訪れた大阪能勢町住民も同じように云っていた。

横一列の一本竿は横風に弱い。

しかもや。

一本倒れたら将棋倒しや・・と・。

それはともかく「ハデ」場に稲架けをする順序がある。

内原でも聞いたように下から上へと順番に架けるのである。

こうして架けて干した稲は何時下ろすのか、である。

お仕事の関係もあるかもしれないが、翌月の10月末まで干していると云った男性が作付け・栽培している品種は三重県購入のアキニシキ苗。

これもまた早稲品種であった。

(H28. 9.11 EOS40D撮影)
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内原のハデ

2017年05月04日 08時05分30秒 | 十津川村へ
石川県能登の千枚田をテレビが放映していた。

その映像に刈り取った稲穂をハデに架けている姿が映し出される。

干す竿は10段くらいある。

そこに架けている稲架けの名は紹介されなかった。

名は何というのだろうか。

ネットで調べてみれば「ハザ干し」だった。

能登のハザ干しのような形態は日本各地で見られるようだと伝えていた。

現況は知らないが、長野県の北部・木曾谷(木曽福島町黒川谷)・伊那谷南部。

支える木材は「ハザアシ」と呼ぶ地域もあるが、伊那谷では「ハザクイ」だった。

水平の竿を「ハザ木」と云うのは石川県能登。

「ハザ」は漢字の「稲架」を充てているようだ。

能登の放送から数日後。

またもや多段のハザカケを報じる映像があった。

場所は山形県のとある地。同じように10段くらいの竿が並ぶ。

ここは十津川村の内原(ないはら)。

滝川よりほんの数km走ったところにある集落地。

山間地の道は近いようで遠い。

深い渓流に沿ってアスファルト道が続く。

かつては砂埃が舞う地道だった。

奥へ行くにつれて谷間は深くなる。

その最上流にある集落が内原(ないはら)である。

その手前に奥里(おくさと)の集落がある。

奥の里よりもさらなる上流が内原。

そこより数kmも行けば笹の滝に入る分岐路に着く。

入るといっても車路ではない。

歩きで滝を目指す。

今回の目的地は滝ではなく「ハダ」である。

支流滝川に架かる橋を渡れば急勾配に建つ集落がある。

稲刈りを終えた集落に点在する多段型のハザ架け場。

ずっとこの場に佇んでいたい原風景がここにあった。

2年前の平成26年8月末に訪れたときだ。

山間傾斜地に建つ集落にある構造物の用途はなんであろうか。

それを確かめたくて訪れた内原(ないはら)。

今では使うことのない橋を渡る。

その橋は朽ちていないがなんとなく故郷を思い出す情景を描く。

その橋を入れて対岸にある稲架けを撮る。

近くまでいけば架けた稲穂がよく見える。



2年前に拝見した構造物は稲架けをする道具であった。

水平に何本かの竿がある。

太目の支柱に水平の木材もあれば金属ポールで設えた構造物もある。



また、稲架け構造物はあるが、稲架けがまだのところもある。

想像していた以上に感動する景観に引き寄せられるように足が動く。

民家の奥に畑がある。

そこで腰を屈めていた老婦人に声をかけた。

83歳のおじいさんが数日前に梯子を架けて刈り取った稲を架けていたという。

しばらくすれば旦那さんが戻ってきた。

実はこの場にくるまでに出合っていた。

対岸に軽トラが停まっていた。



何やら作業をしていたが、離れていたので声はかけられなかった。

そこでされていたのは稲刈り。

午前中もしていたが、ついさっきも見にいっていたという。

ご主人がいう干した稲の色である。



青い色は今朝刈り取ったばかりの稲。

青い色という稲の色は実際には緑色。

全国どこへ行っても、或はニュースや報道で伝える色は緑色ではなく、常に「青々としている」表現だ。

それはともかく稲を架けて干す構造物、或はその作業をご主人は「ハデ」と呼んでいた。

稲穂があるのは稲刈りバインダーのおかげ。

「ハデ」は9段か7段が基本。

偶数はないと言い切る。

木製の「ハデ」は大工さんに作ってもらった。

費用がかかるので金属パイプを買ってきて組んだという。

青いのは今朝に刈り取ったが、他は先週やその前に刈り取った稲穂。

なるほど。

稲刈りして架けた時期は干す期間によって色変わりするのである。

「ハデ」に稲を架ける順序は下から、である。

上からであればいちいち垂れた部分を手で避けて架けなければならない。

そんな面倒なことは誰しもしない。

見て当然の順序である。

ところで、だ。

梯子に登った旦那さんに稲束を渡していたという奥さん。

手が届かなくなる高さになればどうしているのか。

高齢者には無理がある手渡し。

どのようにしていたのか、それから5日後に訪れた際に知った。

「ハデ」に架けて天日で干す稲架けは昔からこの地でしている。



ここ内原の集落では当家を含んで2軒である。

かつては奥里もしていたらしい。

ここより下った滝川。

そこでもしていると話すが、それは拝見していた。

奥里はかつて7戸。

今は5戸になったという。

ここ内原集落は11戸。

昔は30戸もあったというから相当数の人たちが住んでいた村。

他家がしているという「ハデ」の景観も撮っておこうと思って急な坂道を歩いてみる。

以前は3軒でしていた「ハデ」架けも今は2軒。

ご主人が作付け、栽培してきた稲の品種は粳米のアキタコマチ。

糯米の方はヒデコだそうだ。

これらは早稲の品種。

十津川村はどこでも早稲になるらしい。

こうして干した藁はどうされるのか。

ほとんどは貰われていく。

なんでも十津川村の玉置から貰いにくるという藁は玉置神社の注連縄用途である。

この稲はカオリマイ(香米)。

藁が長いので用途に向いていると話す。

そう話すご主人は内原の氏神さんに注連縄を結って架けるという。

氏神さんはどこにあるのか。

この山奥に神社があるとはまったく気づかなかった。

氏神さんは矢高(やたか)神社。

あのトイレがある地より下った処に鎮座するという。

ついさっきまで飲食していた場より下った処にまさかの神社である。

この日はそこへ行くことはなかったが、ご主人曰、く民宿津川のご主人も縄結いにきていた神社である。

また、1月7日は山の神。

奥山にある山の神でゴクマキをしているという。



ところで干していた「ハデ」の稲穂は何時頃に下ろすのか。

たいがいは9月の彼岸過ぎ。

下ろすには天候による判断がいる。

天気の良い日が連続するころを見計らって下ろすと話していた。

(H28. 9.10 EOS40D撮影)
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滝川裏地のハデ

2017年05月03日 08時14分52秒 | 十津川村へ
かれこれ云十年も通い続けている十津川村の滝川渓谷。

最上流に滝百選に選ばれている笹の滝がある。

初めて訪れたのは40数年前になる。

地道の林道を走っていた。

覆いかぶさるように生い茂った山の木々の葉がキラキラと光っていた。

天井がオープンできるワンボックスカーの座席から眺めた景色は最高のロケーションだった。

数年後、奈良交通の路線バスを乗り継いでやってきた滝川にある民宿。

二十歳代半ばもまだいっていない年齢だった。

当時勤務していた会社の人たちとやってきた滝川。

会社の人たちと連れだってやってくるこの地はいつしか寛ぎの地になった。

仕事のストレスから開放されて静養する地でもある。

2年前の平成26年8月末に訪れた際も上流に向かう林道を走っていた。

山間傾斜地に建つ集落がある。

いやがおうでも目に入る集落を停車してまで撮ったのは初めてだ。

ここにある構造物の用途はなんであろうか。

この年、平成28年の9月10日に訪れてわかった。

これまでずっと盆があけた8月末の土曜、日曜に訪れていた十津川村の滝川。

風屋(かぜや)ダムから下った地に支流の滝川がある。

そこにある民宿は二十歳代のときから毎年のように利用している泊まりの宿。

始めて訪れた時の印象は今でも残っている。

今でこそ車で行くようになったが、最初はバスで出かけた。

風屋のバス停留所を下りて村落まで歩いた。

今、思えばまあまあの距離である。

泊まりの宿、朝日が昇る前に渓流釣りをして遊んでいた。

短パンでは寒かったぐらいの避暑地である。

泊まりはいつも8月末の土日。

決まっていた。

平成27年の7月に身体を壊して大手術。

入院加療を経てなんとか生きている。

車の運転もできるようになった私の身体や連れたちの事情を考慮して9月の第二週目にした。

向かう先は笹の滝のちょっと手前。

そこへ行くまでにアユ釣り人で賑わう滝川に架かる橋を渡る。

渡ってすぐさま停車した。

こんなところにもあったんだ。



連れたちにちょっと待って、といってシャッターを押し続けていた。

あまり待たせるわけにはいかない感動の場。

広がる青空を背景に撮っていた。

多段型のハザ架け竿は何段あるのだろうか。

先を急がねばならないから数えている余裕はない。

(H28. 9.10 EOS40D撮影)
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国王神社大祭

2010年12月03日 08時10分14秒 | 十津川村へ
心配された台風14号が過ぎ去ったというのに雨が降ってきた。

国王神社に向けてお渡りが出発するころのことだ。

一週間前から実行委員長はやきもきされていた。

台風が直撃するようなら中止もやむなしと判断されていたが、台風のコースが南下と気象庁の情報に変化があったことから開催の決断をされたのだ。

昼間ではもつだろうと思っていたが降り出した。

丁度そのころは出発の神事の真っ最中。

竈の廻りを三周している間に雨つぶが大きくなった。

国王神社のいわれを説き、伊勢、春日、住吉の大明神、吉野蔵王、大峰などの権現に御(ご)幣(へい)を奉る表(ひょう)白(びゃく)の詞。

「そもそも当社は…」「河津に国王 大明神は…」と唱えれば、行列一行が「万(まん)歳(ざい)楽(らく)」と唱和する。

20名ほどの裃(かみしも)姿の警固役に宮司や神職も大きく唱和して大合唱。

1km先の神社まで長い列のお渡りだ。



上野地の山々は雨で煙っている。

車の往来も気にせず表白の詞は十津川村上野地にこだまする。

神社に着いても表白は謡い続ける。

舞殿の周りを出発と同じように三周する間も謡っている。

一文字笠を被っていても裃衣装はしっとりと濡れている。

心配なのは太鼓だ。

鼓の皮は水分が大敵。

御幣も扇も何もかもがしたたり落ちる雨天の祭典となった。

昨年も神事が始まったときから降り出した。

2年連続の雨となったが祭典は執行された。



黒袴の河役童子は背中に挿した扇子を取り出して、正面に向けて一歩前に差し出す。

詞は発しない。

次ぎに御幣を持った緑袴の津役童子。

御幣を差し出し、扇ぐような所作で上下に振る。

これらの所作は7回繰り返される。



国王神社に祭られた七社の御神霊に捧げる所作だという。

このあと河役童子は右回りして正面、右面、左面へ交互に扇子を3回ずつ振る。

その際、初回だけは「氏子中に御幣をあげましょう」と口上する。

これは河津の宮が元々、上、中、下地区の河津の祭礼であったことに所以しているもので御幣を9回振る。

青袴の宮役童子は立ったままの姿勢で所作はない。

一連の所作を終えて御幣は本殿に供えられた。



神事を終えて奉納餅つき踊りが始まった。

踊り子は女性、カラフルな千本杵を持つのは男性たち。

保存会の人たちだ。



女性は目立つ赤色の着物にたすきがけ。

前列はお櫃、後列の女性はモチを模したモノを持つ。

それは箕に入れてある。

その後列は扇を2枚持つ。

唄い手は伊勢音頭の囃子唄を歌い出した。

太鼓を打つ人は二人を先頭に出発した一行は境内で餅搗き踊りを踊る。

雨のために衣装は法被になったが踊りはリズミカルで見ていてとても楽しい。

その後も歌謡ショーや餅撒きなどがあったが家路を急いだ。

(H22.10.31 EOS40D撮影)
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