マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

高原・Ⅰ家の節分

2017年11月28日 08時51分53秒 | 川上村へ
この日の山間部は寒い。

前日までに降った残雪は溶けることなく山々だけでなく集落民家の屋根も白色に染めていた。

冬場は寒い。

外には出ずに割り木の薪を燃やして暖を取る。

こたつはつけっぱなしになるという。

2月3日の節分の日はスコンニャクを作っていた。

水を切って油を落として炒めていたと話す川上村高原に住むⅠ家。

スコンニャクは酢と味噌を塗して胡麻を振って作った。

もう一つのご馳走はニンジンにコンニャク、ダイコンを煮たお煮しめ。

もう一品が節分の日に食べる主食の巻き寿司。

朝から作って晩には食べていたと話していたのは昭和12年生まれの奥さんだ。

親父さんは昭和5年生まれ。

平成15年に訪れて十二社氏神神社行事を取材していたときにお会いした人。

当時は総代・大目付を務めていた。

その後の村の行事に何度も訪れて行事のことを教わった。

川上村辺りに来たときは必ずといっていいほどご自宅を伺った。

その度にお茶してくれるのでついつい長居をしてしまう。

節分の日のご馳走もあるが、習俗もしているというからまたもや訪れた。

昨年の夏の大祭に訪れた際に顔をだしたら、畑作業の手を止めて6年ぶりの語らいになった。

そのときに話してくれたのが節分の日のご馳走と習俗である。

神社行事は午後6時半と聞いているし、それが合図であるのか、「鬼は外 鬼は外 鬼の目うと」の台詞を囃しながら豆を撒く。

村の各戸は大声で遠くへ向けて「オニノメウトー、オニノメウトー」と叫ぶ。

それを聞いた隣家もオニノメウトーと叫ぶと話してくれた。

県内の節分行事は数々あれどこのような台詞は初めて聞くものだ。

「オニノメウトー」を漢字で書けば「鬼の目 打とう」である。

鬼の目を打とうというのは豆撒きにおける所作に発せられる台詞であるが、「鬼の目」を打つにはもう一つ道具が要る。

メツキバの異名があるヒイラギの木である。

メツキバを漢字で充てたら「目突き葉」である。

鬼の目を突いて追い出そうとする節分の習俗を拝見したくなって訪れたのであるが、それは昔のことで今はしていないと云った。

えっ、である。



神社行事も廃れたが、各戸の習俗も消えてしまっていたが、メツキバはⅠ家の玄関脇に挿してあった。

中身の腹や背は焼いて食べる鰯。食べずに残すのが鰯の頭は生魚。

生臭い鰯の匂いで鬼を入らせないようにするまじないである。

メツキバも玄関にさして鬼の目を突いて追い出す。

全国各地で見られる節分の習俗である。

Ⅰ家の玄関脇にはメツキバ以外に、村のお寺である岡室御所・高峯山福源寺で授かった大般若の祈祷護符もあれば、県消防協会が頒布する火の用心の護符もある。

大般若の祈祷護符は1月17日に行われた観音初祈祷行事。

大般若経典六百巻の写経会がなされると聞いているが、未だ拝見していない。

生鰯の頭の匂いが強いので逆に家人が困らんようにラップで包んだのか、それともハエが寄ってこないようにしたのか、聞かずじまいだった。

節分の豆は夜に撒く。



それまでは神棚のエビス・ダイコクさんに供えていた。

煎った大豆は一合枡いっぱいに盛った。

そこにはきっちりメツキバも添えていた。

話しによれば、本来は一升枡で供えるようだ。

供えた一升枡の豆。

二人一緒に手を突っ込んだらあかんと云われて、一番少ない一合枡にまずは移し替える。

その枡にある豆を歳の数だけ数えて取り出す。

豆はほうらくで煎った。

かつてはそうしていたが、今は市販品の豆である。

前述した「オニノメウトー」の豆撒きは孫でも来ておればするかもしれんが、今年はなぁという。

昨年末の12月26日に電話を架けたことがある。

架けた理由はⅠ家の正月習俗であるイタダキゼンの取材願いである。

このときも今年はなぁ、であった。

事態はなんとなくわかったが、奥さんが云うには娘婿が亡くなったというのだ。

服忌だから正月の餅も搗けない。

親父さんは心労で寝込んだままだと云っていた。

孫は年末に見舞いに来るし、イタダキゼンは喪が明けた来年にしてや、と伝えられていた。

この日の親父さんは年が明けても元気なく、打ち拉がれていた。

声をかけても目も開けない状態で炬燵に潜っていた。

うとうと居眠りする親父さんはそっとしておきたい。

その間に巻き寿司を作り始めたのは奥さんだ。

撮らしてもらっても良いですか、と声をかけた承諾願いもお許しがでた。

巻き寿司の具材は四種類。

コーヤドーフに三つ葉とニンジンにシイタケ。

黄色は玉子焼き。

三つ葉は湯がいただけだが、コーヤドーフにニンジン、シイタケは味付けしておいた。

アジシオに隠し味の砂糖を少し塗して焼いた玉子焼きも午前中に作っていた。

ニンジン、シイタケはやや太めに切っておく。



酢飯も予め作っておいて寿司桶で冷ましておいたので準備万端。

Ⅰ家を訪れることは先に電話をしておいた。



私が来るのを待って仕掛け始めた巻き寿司作り。

お皿にそれぞれ5本分の具材を並べて作り始める。

こうしておけば足る、足らないことにはならない。

そういえば、寿司飯も5等分にしていたな、である。

簾巻きを拡げた上に寿司海苔を一枚。

分量測っておいた寿司飯を手で拡げる。

具材を置く順番は特にない。



5本分ずつ並べたから、残り具合がわかる。

巻き忘れも、重複することもないのである。



具材を載せたら一気に簾巻きで巻いていく。

5本の巻き寿司はおよそ十数分で終えた。



子どもが小さかったころは何本も作っていた。

親戚に送る本数も作っていたが、今年は5本。

少なくなってしまったという。

今ではご近所3軒だけがしているという手造り巻き寿司。

Ⅰ家は1合の寿司飯で2本の寿司を巻く。

あんたも食べてや、と差し出された作りたての巻き寿司。



海苔の香りに酢飯の丁度いい具合の味加減が奏でる絶妙のハーモニー。

具材の三つ葉はシャキシャキ感が利いて美味しい。

三つ葉がないスーパーで売っている巻き寿司は巻き寿司ではないと思っているくらいに、三つ葉の存在が大きい。

シイタケもニンジンも口の中でわーっと広がる。

旨い、美味いを連発していただくⅠ家の巻き寿司。

味付けは、昔、我が家で作っていたおふくろ以上の味かもしれない。

ご馳走になってしまったⅠ家の習俗は見られなかったが、巻き寿司作りを見せてくださって、この場を借りて厚く御礼申し上げる次第だ。

Ⅰ家を下って夏の大祭を務めたO家を訪ねたが不在だった。

仕方がないから持参した大祭写真は玄関口にある郵便受けに入れておいた。

それから2日後。

電話を架けたら、すまんことしたと云ってくれる。

実は昨年末の12月に10年間も治療をしていた奥さんを亡くして見送ったというのだ。

辛い話しは2件の訃報も続く。

その訃報に合掌する。

Oさんが云うには、神社のマツリは年に4回だけになったという。

1月7日にしていた七草粥の「トウト トウト」もしなくなったし、豆撒きの「オニノメウトー」もないのが寂しいと電話口で話してくれたのも辛かった。

しかも、Oさんは宮さん勤めをする人が少なくなって、再び、この年も神主勤め。

ご苦労さまですとしか言いようがない。

15年ぐらい前の時代はお伊勢参りに村を代表してお札を授かりに行く伊勢代参もあった。

配る村の戸数が100軒であったからお札の数も100本。

戻ってきてほうぼう散らばっている各家に配っていた。

(H29. 2. 3 EOS40D撮影)
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久しぶりの再会

2016年12月24日 08時57分17秒 | 川上村へ
夏季大祭に拝見した神饌所に真っ白な石があった。

「シラス」と呼ばれる神聖な石である。

清流にある真っ白な石を拾ってきて本社に供える。

本社に着くまでに一旦停止する処がある。

神社よりすぐ近くに小川が流れる。

小さな川に跨る橋がある。

欄干はコンクリート製だ。



そこに拾ってきた「シラス」石を一旦は置く。

「シラス」石は108個も集める。

揃ったところで本社周りに敷き詰める。

これを「コオリトリ」と呼んでいる。

充てる漢字は県内事例から考えて垢離取りに違いない。

決まった日でもないときに行われる「コオリトリ」。

例えば、宮参りに詣でるときにしていると云う。

「シラス」石を一旦置く場の向こうにかつて総代・大目付を務めていたⅠさんが住まいする家がある。

6年ぶりに訪れた高原。

顔を出さずに帰ってしまえば失礼にあたる。

そう思って上がって来た。

もしかとしたらと思って畑に向かう。

そこに奥さんと一緒に作業をしていた。

元気な黒光りのお顔を拝見してオォと声があがる。

懐かしい場で寛がしてもらった。

Ⅰさん夫妻とばったり出会ったことがある。

大淀町の土田(つった)をお互いが逆方向に走っていたときだ。

眼前に浮かんだ車の運転手の顔。

同乗していた奥さんの顔も判った。

クラクションを鳴らしたら気づいてくれた。

大慌てでUターンして手渡した本は出版数か月後の奈良本。

著書の『奈良大和路の年中行事』である。

著書に高原の行事を収録している。

お盆行事の「法悦祭(ほーえっさい)」である。

珍しい作法があるマツリもあったが、誌面の都合でこれ一本にさせてもらった。

そんな話も懐かしいし貴重な特別な山野草に思い出話の花が咲いて村の風習などを話してくださる。

6月7日は山の神さん。

それからヨウカ竿立てでひと月遅れのコイノボリをする。

ヨウカ竿はいわゆるオツキヨウカのテントバナと同じ形態であろう。

それは6月8日に立てるというから違いない。

一本の杉の木を山から伐り出す。

葉を少し残す。

残す場所はてっぺんである。

その葉の下にボタンの花やヤマブキを飾ったヨウカ竿は高原で一番遅そうまでしていたと云う。

ヨウカ竿は一日限り。

これを倒してコイ竿を立てた。

コイ竿はコイノボリを揚げる木材の支柱だ。

その日は笹の葉に包んだチマキを作っていた。

チマキの原材料は米粉。米を挽いて粉にしたものを熱湯で練って蒸した。

笹の葉で包んだチマキの形は尖がっていた。

その日はホウの葉でくるんだアンツケダンゴを作っていた。

朝から作業をしていたと述懐されるホウの葉包みのアンツケダンゴは高原では「デンガラ」の名があった。

※参考 高原の「デンガラ」と呼ばれる朴葉包みのダンゴ

4月3日はオヒナサンのヨモギがあった。

ヨモギ摘みをしたヨモギは昨年に採取したものと今年のものとで2升5合。

タンサンを入れて作るようだと聞いたがあやふやだ。

それをヒシモチの形にする。

オヒナサンに供えたら「はよたたまなあかん」とよく言われたことを思い出すと云う。

年末の12月28日は家の餅を搗く。

30日は朝から大掃除。

注連縄(たぶんにコジメ)をかける場所は戸口などあらゆる処に架けるので15ケ所にもなるそうだ。

午後は正月迎えにイタダキ作法をするイタダキの膳を作る。

膳の盛りは洗米にサトイモ、葉付きダイダイミカンや吊るしカキなど。

これらを三方に載せて大盛りにする。

昔は二段重ねの鏡餅に老寿の伊勢海老も立てたそうだ。

イタダキの膳にはお金を入れたのし袋も供える。

なお、イタダキの作法をするのは元日の朝になるが、作りは拝見したいものだ。

そのイタダキの膳はお寺の先祖さんにも供えると話していたI家の在り方は村神主が話していた神社行事の節分まで詳しく話してくれた。

神社行事は午後6時半より節分の豆撒きがある。

撒く場所は小宮さんに鳥居、御供所、拝殿である。

そこで撒くときに行う詞章がある。

「鬼は外 鬼は外 鬼の目うと」と云いながら撒く。

神社ではそうしているがI家も節分の日に家の行事が行われる。

その日は奥さんがスコンニャクを作る。

水を切って油を落として炒める。酢と味噌を塗して胡麻を振って作っていると云う。

また、ニンジンやコンニャク、ダイコンの煮ものもあれば、巻き寿司も作る。

すべてが自家製である。

料理はそれぐらい。

節分の作法につきもののイワシヒイラギがある。

生イワシの頭はメツキバラ(ヒイラギ)の枝木に挿す。

戸口とかトイレなどに立てる。

さばいた生イワシの腹や背は焼いて食べる。

これも料理であるのかと云えば、ちょっと違って残り物のおすそわけだ。

肝心かなめの節分の作法といえば豆撒き。

そのときの台詞(詞章)が「オニノメウトー、オニノメウトー」だ。

「オニノメウトー」は前述した「鬼の目うと」。

つまりは鬼の目を打とう、ということだ。

時間ともなれば村の各戸で節分が行われる。

それぞれの家々で行われる節分の豆撒きに「オニノメウトー、オニノメウトー」と大声が響き渡る。

(H28. 6.10 EOS40D撮影)
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高原十二社氏神神社の夏季大祭と神主カギ渡し

2016年12月22日 08時39分08秒 | 川上村へ
実に6年ぶりに訪れた川上村の高原。

平成22年9月30日に行われたマツリの宵宮に搗くモチツキ。

翌日のマツリも訪れたが、その日はマツリを終えた午後4時過ぎ。

前日のお礼を兼ねて訪れたのを最後に高原行きは永らく中断した。

その理由は台風12号襲来によって起こった巨大な深層崩落による土砂崩れだった。

崩落の規模は高さが300mで幅は100mにもおよぶようだ。

人的な被害はなかった崩落だったので救われるが、高原入りが遠のく一因でもあった。

遠のく因はもう一つある。

遠出がなかなかできなくなった時代を迎えたのだ。

翌年の平成23年1月に奈良県教育委員会文化財課職員から奈良県緊急伝統芸能調査を頼まれたことである。

県や在住する大和郡山市から委嘱された調査は3カ年。

精魂込めて調査した。

すべてが終わって分厚い報告書が発刊されたのは平成26年6月。

調査員の仕事はやっとのことで解放された。

が、翌年の平成27年は大病。

長期間に亘る闘病生活が待っていた。

完全復帰でもない身体になったが、動ける範囲内で調査取材を続けていくことにした。

思いもかけない写真家Kとの出会いが端を発してこれまで伺った取材先に再訪する機会が与えられた。

この日に訪れた高原もその一つである。

昭和44年の高原住民は480人になっていた。

それより10年前の昭和34年9月。

伊勢湾台風によって800人も住んでいた高原は壊滅的な被害に遭遇した。

土地が崩落して土砂で埋もれた神社傍の谷会いに被害にあった村人が静かに眠っているという。

そのような経緯もあった高原。

当時の戸数は73戸。

正月のときに一軒、一軒に御供を配っていたという。

高原は曹洞宗派。

曹洞宗、臨済宗などの中国禅宗五家の一つ。

日本では曹洞宗の他に日本達磨宗、臨済宗、黄檗宗、普化宗がある。

本日、行われる高原の行事は十二社氏神神社の夏季大祭に村神主の引継ぎがある鍵渡しである。

神社には4人の男性がおられた。

うち、一人のお顔は存じている。

かつて行事取材にお世話になった元区長のUさんだが、すっかりお忘れになられたようだ。

他の3人は初めてお会いするが、一人は顔を覚えている。

何度も、何度も繰り返して拝見していたマツリのときに行われる人寄せの御供撒きである。

掛け声をかけながら先頭を走る男性の顔はすっかり目に焼き付いている。

もしかとして平成15年10月1日に撮っていた携帯電話の動画を見てもらう。

なんとなくそうだと云う男性はNさんだった。

ところでこの日に渡したい写真があった。

それは平成22年9月30日に行われたマツリの宵宮に搗くモチツキの様相である。

搗いたモチを棒のような長細いモチにしている写真である。

それを見たOさんが云った。

「その棒モチは「ネコモチ」と呼ぶ。ネコモチを包丁で切断しているのが私だ」と云った。

良き出会いの写真に喜んでもらった。

この日、夏季大祭後に引継ぎされるアニ神主。

オトウト神主のUさんとともに一年間の神社行事に祭祀される二人だった。

そういう話しをして旧来から取材していたことに納得された現アニ神主のOさんは区長も兼務されている。

もう一人は現オトウト神主のOさん。

アニとオトウトと呼ぶのは年齢が単に年上・年下であるということだ。

かつては55歳になれば神主役を務めていたようだ。

許可をいただいて取材に上がらせてもらった参籠所。

この部屋だけは絶対に入ってはならないと釘をさすその場は神饌などを調製する部屋。

神聖な場所は神主しか入ることのできない神饌所である。

「干時文久二歳(1862)壬戌 祝 八月新調」の墨書文字が見られる御供箱。

オカモチ風の御供箱は寄進した三人の名(神主 善兵衛 長右衛門 四□左衛門)がある。

その反対側には12人の名を墨書した十貮人の連名がある。

驚くべきことに12人とも名字があったからそれぞれが特定家であったようだ。

それはともかく、神饌所は炊事場でもある。

大きな炊飯器で炊いたご飯は器に詰め込む。

器の形は尖がりのない三角錐。

径の広い側から詰め込む形になっている。

詰め込んだ器は高坏に盛る。

これを「タキゴク」と呼ぶ。

「タキゴク」を充てる漢字は「炊き御供」に違いないが、枠に詰め込んで型をとる形態から申せば、多くの県内事例でみられる「モッソ」である。

充てる漢字は物相。地域によっては「モッソウ」の呼び名もある「モッソウ飯」である。



「タキゴク」を運ぶための道具がある。

いわゆる御供箱であるが、それには江戸時代末期の「干時文久二歳(1862)八月新調」の墨書があった。

オカモチ風の取っ手があるから運びやすい。

三つ作ればもう人揃えの「タキゴク」も調製する。

これら六つの「タキゴク」は上に低い高坏、下に高い高坏を並べて本殿下の祭壇に供える。

御供は他にもある。

前日に4人の村神主が搗いた餅は大鏡餅に小鏡餅がある。

本殿は大鏡餅であるが小宮さん、八幡さんなどの末社は小鏡餅になる。

これらの餅は神主家で搗いた。

前日の餅搗きは杵搗き。

宵宮の場合と同じの杵搗き。

用意したモチゴメは9kg。

二臼も搗いたと云う。

御供にもう一つ。



県内事例ではあまり見ることのない「カケダイ」がある。

充てる漢字は「掛鯛」。

そのものであるが、同じような形態で行事の際に供える地域は極めて少ない。

私が拝見した事例は2地域。

一つは奈良市川上町の祇園社ならびに川上蛭子神社の蛭子祭

もう一つは田原本町蔵堂の恵比寿社の三夜待ち

いずれもエビスサンを祭る行事である。

高原の氏神神社には恵比寿社の存在がないようだけに特別なものを感じる。

カケダイの姿も含めてご厚意で撮らせていただいた。

なお、カケダイはこの日の夏季大祭だけでなく元日祭祀の元旦祭やマツリの秋季大祭にも供えられるようだ。

かつては11月の霜月大祭にもあったが、である。

こうしてすべての御供の調整が終われば本社、末社など神饌御供を並べて夏季大祭の神事が行われる。

参拝者の姿は見られず四人の村神主が粛々と行われる。



その際にはカケダイを供えた本殿に御簾を下ろされる。

一人の現神主が本殿に上がって神事をする。



神主はアニにオトウトの二人。

神事ごとは交替しているという。

本殿に向かって一同は拝礼する。

始めに拝殿で禊ぎ祓い。

次は本殿に登って大祓詞。

本殿に登るさいには草履を脱いで左足を先に社殿に登り、御簾を上げる。

次は夏季大祭の大祓奏上。

次は「皇社皇宗遥拝所」の場に移って「天地一切清浄祓」を奏上する。



村神主曰く神武天皇以下の第五十五代文徳天皇までの天皇を遥拝する場であると云う遥拝所前に供えた二段重ねの小鏡餅は六つ。

小宮は六社。

太政大臣、中納言、少将、中将・・など六人を祀る。

そこも同じように六つの二段重ねの小鏡餅を供えていた。

「皇社皇宗遥拝所」の次は小宮に移る。

唱える詞は「六根清浄大祓」。

次は二社さんと呼ばれる社殿に移って「一切成就祓」になる。

こうして神事を終えた四人は揃って直会の会食。

頼んでおいたパック詰め料理でお神酒をいただく。

十二人衆のミナライに4人の継後(けいご)が存在する。

4人は年齢順に繰り上がって十人衆を務めていた。

今日の勤めをした四人の神主は平成12年に務めた十二人衆。

年齢が近いこともあって四人の仲が良いという。

それから数時間後。

直会を終えた神主は鍵渡しをする。

とはいっても神事は夏季大祭と同じように大祓などを奏上するだけある。

始まるまでの空いた時間。

神饌所にある今では使っていない器があると棚から下ろしてくださったコジュウタに「上平四□(郎)右衛門寄進」の墨書がある。

何代も前の上平家の名だという。



その箱にはさまざまな形、大きさがある陶器を収めていた。

色合い、くすみの様相から材は明らかに古いように思えるカワラケがある。

裏面を返せば墨書文字があった。

「天正十三年(1585) 自天親王神社甲 五個ノ内四号」であろうか。

「乙酉」の文字でもあれば実証できるのだが・・・。



後年に書かれたような筆跡であるように見受けられるが、否定も肯定もこの段階ではできない。

同じ大きさのカワラケに「天正十三年(1585) 自天親王神社 五個ノ内三号」があることから5枚であったろう。

他にも古い器があるが年代を示すものはなかった。

なお、この箱の蓋に「薬師御□帳入」の墨書があった。

もしか、であるが、「薬師」の文字から思うに、薬師観音本尊を安置する福源寺の什物であるかも知れないが、たぶんにお盆に「ちゃんごかご」行事をされる神社隣接の元安楽寺の薬師堂である可能性が高い。

なぜなら、福源寺に伝わる本尊薬師如来座像は神仏分離令が飛び交う明治時代に元安楽寺薬師堂から移したという座像。

胎内に「藤原宗高大施主 仏師僧禅大法師 応徳二年(1085)十一月日」と書かれた墨書があるそうだ。

その本尊を尊ぶ薬師観音大祭の営みがある。

平成20年の4月8日に取材させてもらった行事である。

歴史を知るかつての什物に感動しておれば「予定していた時刻を過ぎてしまった」という神主。

そろそろ始めたいと云って鍵渡しの神事に入った。

神事に大祓などを奏上するのは現村神主のオトウト。

夏季大祭と同じように神事が行われるが、一般的にみられるサカキは高原に登場しない。

夏季大祭に供えた御供は下げずに行われる。



粛々と始められる鍵渡しの神事であるが、夏季大祭と同様に拝殿に向かって大祓の奏上。

「皇社皇宗遥拝所」の場に移って「天地一切清浄祓」を奏上。

小宮に移って「六根清浄大祓」。

二社さんに「一切成就祓」を奏上して終える。

本殿などの鍵はこうした神事を終えて引き受ける次神主に引き継がれる。

かつては神事があったという。

この日の夜中にしていた。

本殿の前に座って黙々と引き継がれた。

この日まで務めた神主は引退する旨を引き受ける神主に言い渡された。

鍵渡しと呼ぶ神主の引継ぎはこの日の夏季大祭以外にもうひとつある。

それは11月に行われる霜月大祭の日。

アニとオトウト神主揃って引継ぎではなく、例えば1回目は夏季後にアニ神主とすれば2回目の霜月後はオトウト神主となる。

もっとややこしいのは夏季大祭に受けた神主が次に引き渡すのは翌年の霜月大祭の日。

の霜月大祭に受けた神主が次に引き渡すのは翌々年の夏季大祭。

つまり一年間でなくそれ以上の期間を勤める二人神主制なのだ。

滞りなく引継ぎされると『高原氏神正一位十二社権現 神主記録』帳に日付、曜日、天候、氏名、特記事項などを記載されて役目を終えた。

ところでこの日に引退されたアニ神主のOさんは「ゲー」を切る作法があったと云う。

それは「ゲイキリ」とも呼んだ作法。

三日三晩、清めに籠った。

三日間とも籠るに食事がいる。

その料理は籠る神主が作った。

一人で調理して一人でいただく潔斎籠り。

サカキの葉を口に銜えて高原にある地域の神さんすべてを巡ってお参りをする。

衣装は裃と決まっていた「ゲイキリ」の作法であるが、今は見られない。

(H28. 6.10 EOS40D撮影)
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入之波・節句に揚げる軍神幟旗

2016年11月07日 11時27分03秒 | 川上村へ
この日は朝から熱い。

奈良市での最高気温は29.7度。

北部もそうだが県内南部も高かったほぼ夏日。

吉野川では海パン姿の男性たちがいた。

ニュースで伝える公園の水場は小さな子供も同じように水着ではしゃぐ姿を報じていた。

写真家のNさんが教えてくださった幟旗。

その地は懐かしくもある川上村。

豪雨による崖崩れ以来、足が遠のいている。

期待していた稲渕の苗代作りは翌日持越し。

ここまで来ればもう少し。

足を伸ばすことも大事だが道を思いだす絶好の機会を探索にあてた。

当主がおられるかどうかは別として実態があるのかどうか。

これを確かめたくて車を走らせる。

行先は入之波(しおのは)だ。

入之波へ出かけるのは何年ぶりになるのだろうか。

記憶から蘇る秋の景観。

初夏のころに度々でかけた北股川に本沢川が流れる大迫ダム。

その辺りの川は濃い青色。

秋の色が水面に染まっていた。

そこから奥に行けば三之公川。

平成15年11月27日に訪れた入之波は晩秋の彩だった。

それ以前の入之波といえばアマゴを求める釣りの川。

釣果はそれほどでもなく、渓流に居られることに幸せを感じていた。

そのころの年齢は30歳前後、だったと思う。

30歳になったときは現住居の大和郡山市に引っ越していた。

それまでの暮らした家は大阪市の市営住宅。

年に何度かを出かけた奥吉野の渓流。

なぜか川上村にある渓流がとても気にいっていた。

釣り行きはいつも一人だった。

北股川、本沢川、三之公川以外に伯母谷川、中奥川、上多古川、下多古川があった。

そんな随分と昔のことを思いだしながら169号線を南下する。

大滝ダムから寺尾、対岸の白屋、人知、井戸、武木、下多古、上多古、柏木を通過してやっとことで大迫ダム。

入之波はそこから湖岸沿いの道を走らなければならない。

距離にすればたいしたことはないが、なぜか遠くに感じる。

13年間の月日がそうさせるのかも知れない。

短いトンネルを越えれば集落が見える。

右手に折れればたしか民宿があったように思える。

ゆっくり走らせる車。

走るというよりも歩くような速度だ。

そこに現われた大きな幟。

Nさんが教えてくださった幟旗は二人の軍神を描いている。

到着した時間帯は午後5時50分。

日暮れ近い時間帯は西日。

もうすぐ山影に遮られようかという時間帯は逆光。

雰囲気だけでも、と思って撮った。

撮ってから呼び鈴を押す。

奥から女性の声が聞こえる。

出てこられた女性に幟旗を尋ねるも、それはたぶんに無理がある。

外国の人だった。

女性に奥に居られた男性に声をかけた。

男性は当家の主。

孫が生まれたときに探した蔵にあった軍神の幟旗に感動して揚げたという。

軍神は二人。

上に描かれているお顔は陸軍大臣の大山巌元帥(1842・天保十三年~1916・大正5年)。幟旗には「大山君」とある。

その下に描かれているのは海軍大臣の東郷平八郎元帥(1847・弘化四年~1934・昭和9年)。

「東郷君」の文字がある。

当主のSさんが云うには明治42年生まれの祖父が誕生したときに旗屋で作ってもらったらしい。

大山巌元帥が凱旋帰国した年は明治38年。

一方、東郷平八郎元帥は明治38年から42年にかけて海軍軍令部長。

大正2年に元帥となった。

陸軍、海軍の軍神を描いた幟旗はおそらく日清(1895・明治28年終結)日露(1905・明治38年終結)の戦勝記念に製作されられたのであろうか。

お爺さんの誕生祝いに揚げた年は明治42年。

日露・戦勝に湧きかえった4年後のことである。

当主の親父さん、昭和18年生まれの当主が生まれたときに立てた幟の支柱。

ずっと残してあった支柱に揚げたのは軍神幟ではなくコイノボリだった。

当主の息子が誕生した時もコイノボリだったという。

ところがだ。

孫が生まれた平成25年。

探した蔵から幟旗が出てきたのである。

コイノボリを立てていた支柱に揚げた軍神二人の幟。

その後の平成25年、26年、27年。

孫の誕生は立て続け。

その都度、孫の名前を旗に追記した。

今では4人の孫の名が連なる幟旗。

もう一人、追加になるかもしれないと云う。

幟旗には家紋がある。

作ってもらったときに染めた家紋は「まるにけんはなびし(丸に剣花菱)」。

戦に勝つようにという願いを込めた家紋であれば、話しは合うが・・・。

この幟旗は5月1日に立てる。

ずっと立てたままで、旧暦節句の6月5日まで。朝はだいたいが9時に幟を揚げる。

下ろすのは夕方の午後5時ぐらいの毎日であるが、雨が降ったときや強風の場合は下ろすと云う。

ちなみに当主は何代も続く木材の生産者。

植えてから百年経ってやっと利用できる木材作り。

孫の時代になってようやく材の木材が“財”になるということだ。

当主の三男坊が代継ぎをしてくれた。

今は隠居の身でもあるが、頼まれた吉野林材振興協議会の仕事は重い腰を上げて引き受けたと云う。

川上村といえば御朝拝式がある。

筋目衆の在り方は将来も永続できるよう村行事として継承することになった平成19年2月5日の550年祭。

そのときは私も取材させてもらって発刊した著書にも収録させていただいた。

当主はその事業の副会長でもある重鎮だ。

来年の平成29年が560年祭。

あれからもう10年も経っていた。

ちなみに材関係者であることから山ノ神を祭る行事の有無を尋ねた。

それは二つの系統がある。

一つは村全体で山ノ神に参る行事がある。

例年は1月7日。

県内事例で一番多い日である。

それとは別に家の山ノ神をマツリがある。

6月7日と11月7日の固定日。

お神酒や塩なでの神饌を供えるらしい家の行事。

都合がつけば伺いたい行事である。

(H28. 5. 2 EOS40D撮影)
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高原十二社氏神神社宵宮餅搗き

2010年10月29日 07時27分42秒 | 川上村へ
一日中小雨が降る日だった。

川上村高原は標高千m以上の山々に囲まれている。

急峻な山道は濃いガスで前方が見えない。

まるで山の神に覆われているように感じた。

それを越えるとさっと消える。

ある一定の標高だけに発生する現象だという。

十二社氏神神社では明日の秋祭りに際して役員たち総出でモチを搗く。

一石二斗のモチ搗きは長時間要する。

雨の夜でもテントを張れば支障はない。

餅米は4基のガス釜で蒸す。

かつてはクドさんと呼ばれる竈で蒸したそうだ。

大きなゴトクに釜を乗せ薪木でくべた。火に勢いがあったという。

蒸した餅米は木臼に入れる。

ほっかほかで湯気がでる。

杵でぺったんぺったん搗いていく。

できあがったモチは棒モチに伸ばす。

これをネコと呼んでいる。

婦人たちに混じったモチ切りの男性は巧みな包丁さばきで切っていく。

これをキリモチと呼ぶ。

それらはザルに入れて草履を履いた神社役員が本殿前に持ってあがる。



何度かキリモチを作られたあとモチ搗きは神主に替わった。

白装束を身につけた神主はモチ搗きの前に祝詞を奏上された。

本殿や小宮さんに供える神聖なモチ搗きは神主の役目。

合いの手の声が聞こえないと搗く息が合わないという。

ぺったんぺったんのモチ搗きの音。

そのうち伊勢音頭が飛び出した。

バチを手にした大目付が太鼓を打つ。

くりだす唄は伊勢音頭。声を揃えて大合唱になった。

「けさのでかけた ヨー(ヨイヨイ) おうぎをひろた おうぎもめでたい ヨー(ソウリャ) ありゃすえひろいよ (ヨーリャーヨートコセー ヨイヤノ アレワイヨーイ コレワイヨーイ ソリャヨーイントセー」の囃子が搗くリズムに心地よい。

掛け合いをして唱うのが伊勢音頭なんだと村人はいう。

その伊勢音頭は伊勢参りの道中歌だった。

向こうの白屋山(しらややま)を越えて井光(いかり)や武木(ぶぎ)の尾根つたいに越えて、伊勢街道を歩いて行った先は三重県だったと話す。

道中で唱っている人に出会ったら掛け合いをしたそうだ。

伊勢音頭は根太のような石を打つ際にも唱われた。

それは石搗き唄とも呼ばれたそうだ。

新築のときに歌う唄だ。

嫁はんに来てもろうたとき、逆に娘を嫁入りさせるとき。

結納のときもそうだ。

祝うときに必ず歌うのが伊勢音頭だと話す。

「伊勢と大和の境の松はホダは大和で根は伊勢」と歌ったそうだ。



そうこうしているうちにモチが搗きあがった。

これを大きなモチと小さなモチに丸めていく。

二人の神主は手際よく作っていく。

大きなモチは鏡餅。本社に供える。

カサモチと呼ばれる小さなモチは小宮さんに供える。

すべてが出来上がったのは夜遅く。

後片付けをして明日の祭りの準備に移った。



今夜の婦人も交えてのモチ搗きだった。

かつては男性だけで行われていたモチ搗き。

当時は十二人衆制度によるものであったゆえすべての段取りは男性だけだった。

十二人衆の上に神主。

その上は大目付。

それはデンガミさん(デンガンとも呼ぶ)と呼ばれる頂上人。

漢字で「先神」と書かれる。

平成6年を最後に解体したその制度。

その名残はモチ切り人に残されているようだ。

(H22. 9.30 EOS40D撮影)
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続、丹生川上神社上社例大祭舞楽

2008年11月26日 08時40分25秒 | 川上村へ
くじ付きの餅。

(H20.10. 5 Kiss Digtal N撮影)
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続、丹生川上神社上社例大祭舞楽

2008年11月26日 08時39分49秒 | 川上村へ
神輿担ぎ。

(H20.10. 5 Kiss Digtal N撮影)
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続、丹生川上神社上社例大祭舞楽

2008年11月26日 08時39分06秒 | 川上村へ
納曽利の舞。

(H20.10. 5 Kiss Digtal N撮影)
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続、丹生川上神社上社例大祭舞楽

2008年11月26日 08時38分24秒 | 川上村へ
双龍の舞。

(H20.10. 5 Kiss Digtal N撮影)
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続、丹生川上神社上社例大祭舞楽

2008年11月26日 08時37分44秒 | 川上村へ
神振舞楽。

(H20.10. 5 Kiss Digtal N撮影)
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