マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

西増の地蔵盆

2017年04月19日 08時59分31秒 | 大淀町へ
“みかん蔵”をテーマに挙げた写真家Sさんが取材した地域に野菜造り立て御膳を供える地蔵盆があると話していた。

その場はどこであるのか前月の7月23日に下見した大淀町の西増(にしまし)。

「増(まし)」の文字をもつ大字は大淀町の三地域。

「増」に入る口は「増口」。

そこより山間部奥に「増」があるその中心部に想定される「中増(なかまし)」。

そこより西寄りにあるのが「西増(にしまし)」である。

西増の地蔵盆は6、7カ所の地蔵尊があると聞いていた。

うち1カ所は吉野山の桜守家が祭る地蔵さんだ。

前月に訪れた際に場所を確認していたからすぐにわかる。

当地へ着いた時間帯は午後5時10分。

明るいうちに地蔵尊の場を見つけておく。

初めに拝見した祠の地蔵さんに野菜造りの立御膳があった。



バットと思われる棒を持つ人形。

スイカを土台に串挿ししたと思われる人形の胴体の野菜はなんだろう。

腕はインゲンマメで顔はプチトマト。

周りを彩るのもプチトマトだ。

その下に置いてある紙箱に「51」とあるからイチローであるが、右利きバッターだったっけ。

それとも鏡に映ったイチローかも・・・。

その場から坂道を登っていく。

そこにあった地蔵さんは蓮の座に両手を合わせて座っていた。

珍しい形式の地蔵さんは集落全域が見える高台にある。



そういうことから高見の地蔵さんと呼ばれている。

地蔵さんの下にある立御膳は誰が見てもわかる浦島太郎だ。

「au」の文字に「by浦ちゃん」とある。



auのコマーシャルに登場するお伽噺の三太郎。

桃太郎、金太郎に浦島太郎であるが、この場に登場したのは浦島太郎だ。

トウガンの皮部分が亀の背中。

足はキュウリで頭はナスビ。

口を開けた亀は実によくできている。

そんな亀さんに跨った浦ちゃんの顔はドロイモ。

笑顔が綻ぶ浦ちゃんの髪の毛や髭はトウモロコシの毛。

胴体は白ナスビで足が白ネギで作った。

高見の地蔵さん下はテーブルを出してもはや宴会前の状態。

夕刻になればもう少し人が集まるらしい。

西増の地蔵盆は大字の専念寺の僧侶が地区を巡ってそれぞれの地蔵さんに念仏を唱えて法要するという。

その巡拝には子供たちが随行する。

午後6時半、子供たちが専念寺に集まって練習をするらしい。

廻り法要は午後7時から始まる。

西増にあるすべての地蔵さんを廻り終える時間帯は午後9時ぐらいになるそうだ。

「auの浦ちゃん」から一旦は下って村の道を上がっていく。

道は狭いから車を対向するにはちと難しい。

どちらかが下がるか、登るしかできない狭隘な道を抜けていく。



その先にあった辻にある地蔵さんは立御膳を作り終えて提灯を吊る作業をしていた。

地蔵さんを納めている祠は昭和50年9月12日に再建された。

そのときに銅板葺きに替えたようだ。

提灯を吊るす仕掛りに葉付き竹を立てる。

そこに水平に架けた竹に電灯線をひいて点ける提灯を吊るす。

ここの立御膳は今夏にヒットしたシン・ゴジラ。



細く長いカボチャを胴体にゴーヤの手足。

飛び出す目ん玉はプチトマト。

火を吹く舌は赤ピーマン。

迫力ある姿で立っていた。

そこより右回りに下って桜守家が祭る地蔵さんを拝見する。

ここも同じように水平に架けた竹が提灯吊るし。

御膳は立御膳でなく野菜を盛った御膳であった。

さらに下っていった辻に地蔵さんがある。



立派な屋根瓦もある祠は地区一番の大きさであると思った。

高さもあるから子供の身長では手が届かないくらいに高い石段組に建てている。

お参りにくる子どもたちにあげるお菓子を乗せた祭壇向こうに立御膳がある。



まん丸いスイカに貼り付けたゴーヤは五輪の印。

選手なのか観客なのかわからないがさまざまな野菜で作った顔ぶれが並んでいる。

ニンジン、ナスビ、キュウリ、ヒモトウガラシ、ジャガイモ、シイタケで作った顔に愛嬌がある。

土台下は金、銀、銅。

こればっかりは野菜で埋めることはできなかったようだ。

提灯吊るしは道路一杯に亘って架けていた地蔵さんなど地区を周回して5カ所の御膳を拝見した。

あと2カ所あるようだが、時間切れ。

午後5時半には一旦この地を離れる。

再びやってきた時間帯は午後7時50分。

廻り法要をしていた僧侶や子供たちの姿を見つけたがついていけなかった。

車を停めた処に一番近かったリオ・オリンピックを表現した地蔵さんに立ち寄る。



灯りが点いた立御膳は雰囲気が違うように見える。

まるで夜間開催のオリンピックの場のようだ。



小さな子供さんはお母さんに抱っこされて参拝する。

次から次へと参拝する子供たちに役員さんがお菓子を手渡す。



ここの地蔵さんはほぼ終了する午後9時に垣内におられる導師が般若心経を唱えるそうだから、そのときに燈明をあげるのだろう。

今は一巻であるが、かつては三巻も唱えていたという。

それも拝見したいが、他所も拝見したい。



イチローはどういう具合になったのか。

電灯線をひいた明かりの提灯に照らされてバットを振っていた。



そんなわけはないが、そう見えるのである。

時間も夜8時ころになればここも子供たちが参拝する。



小さな子供は親御さんがついての参拝だ。

そこより坂道を登って高見の地蔵さんを目指す。

その通り道は竹を刳りぬいた明かり窓がいっぱい並ぶ。



手造りの竹明かりはさまざまな形がある。

スイスイ泳ぐ金魚にホタルの灯り。

顔もあればお月のような形もある。

思うように作っているからなんでもあると作り手の男性が話していた。



竹明かりはそれだけでなく盆踊りの情景もある。

躍る姿は女性ばかり。

団扇を手にして踊る姿は実にさまざま。

これだけでも和ませるのにまだまだある。



うーさぎ、うさぎ、何見て跳ねる・・十五夜、おー月さーん、見て、跳――ねるではなく、ぺったこ、ぺったこの餅搗きだ。

何の鳥かわからないが、それらしい鳥の明かりもある。



燈花会も負けるぐらいの力作は地蔵盆を幻想的にしてくれた。

竹明かりを見下ろす高見の地蔵さんも孫を抱っこした婦人も参拝する。



この浦ちゃんはよくできているなぁと云っているんだろうか。

県内事例の多くは提灯そのもの奉った子供の名前が書かれているが、ここでは風鈴のようなお札に名前があったと付記しておこう。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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中増の地蔵盆

2017年04月16日 07時43分51秒 | 大淀町へ
大淀町中増に着いた時間帯は午後5時。

地蔵さんにはお花を飾っていたが人気はなかった。

お話を聞く人がなければ仕方ない。

写真を撮らせてもらって次の土地に向かう。

前月の7月23日に下見した中増。

地区に貼ってあった案内によれば浄土宗安養寺の住職が地蔵法要をするらしい。

時間帯は午後1時過ぎというから既に終わっていたのだ。

また、大淀町調査によれば、増原から陽原にわたる地区で数珠繰りをしているようだ。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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増口下ノ町・上ノ町の地蔵盆

2017年04月13日 08時50分32秒 | 大淀町へ
この日の行事取材先は吉野町と大淀町。

各地の地蔵盆の在り方を拝見したく車を走らせる。

ここは大淀町の増口(ましくち)。

吉野川沿いの国道を走っておれば地蔵盆は見つからない。

そう思って旧道を行く。

雨が降るやもしれないと判断されたのだろう、地蔵さんの前の処にブルーシートで設えたタープ型屋根をしていた。

地蔵さんを拝見すればすでにお供えがある。

このときの時間帯は午後3時半だ。

地蔵盆に集まる時間はいつであろうか。

走り去る単車には追い付かない。

仕方なく地蔵さんに手を合わせて供えている状態を拝見する。



奥のほうにあった膳に盛った野菜作りのお供え。

カボチャを土台に挿してある品物はプチトマト、サツマイモ、トウモロコシ、オクラ、ゴボウ、赤トウガラシに乾物のシイタケやコーヤドーフがある。

よく見ればソーメンの束もある。

向かい側の施設には手造りの行燈もある。



アンパンマンにアルプスの少女ハイジなども。

シールを貼ったものもあれば色鉛筆で描いたものもある。

この手造り感がなんとも可愛い行燈があるということは陽が暮れてからの時間帯であろう。

先を急ぐ旧街道はここ下ノ町から中ノ町、上ノ町へと続く。

下ノ町からそれほどの距離もない地に水分神社がある。

その場に大勢の人たちがおられた。



上ノ町の地蔵盆を設営している真っ最中であった。

地蔵さんの祠に屋根を設けている。

幕をかけて祭壇を設ける。

午後3時に提灯を吊るす。

それから御膳を供える。

下ノ町ではカボチャに挿した立て御膳であったが、上ノ町はそうではないようだ。



拝見すれば折敷にたくさんのミョウガやプチトマトなどが見える。

お話しによれば上ノ町の地蔵盆に地区の専立寺住職が念仏を唱えるらしい。

時間帯は午後6時半というから今年は間に合わない。

椿井神水」もあると云ってたが・・・。 

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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上市六軒町の立山

2017年03月05日 08時24分20秒 | 大淀町へ
吉野町の上市に今もなお立山をしていると知ったのは何時なのか。

覚えてないが、それを知った発端は何かのキーワードでぐぐっていたときだ。

キーワードは何なのか、さっぱり記憶にないが、目に入った「立山」に飛びついた。

その情報は「吉野町上市花火大会」だったと思う。

頁文を精査すれば六軒町商店街主催の「たてやま(立山)」が行われているとある。

平成18年は7月末の土曜日。

平成24年は尾仁山から立野まで周回コースの記事もある。

ここで書いたが半信半疑のことである。

奈良県内で今もなお「立山」をしているのはごく僅か。

平成27年2月4日、拝見した奈良町正月行事の春日講企画展示の古文書から発展した「立山」記事を書いた。

再掲したいが長文になるのでこちらを拝読していただきたい。

要は現存する立山行事は御所市東名柄、広陵町三吉、橿原市八木町の3カ所である。

文中記事にも書いたが、探しているのは吉野町上市である。

それも六軒町とはどこなのか、である。

その場が考えられるのは旧街道。

川沿いにある県道ではなく少し奥に入った旧街道であった。

近鉄電車の大和上市駅より下ったところが旧街道。

ここら辺りであろうと思って店屋を探す。

商売をしている店屋さんは地域に配達するから事情がわかるはず。

そう思って訪ねたお店は中久保米穀店主。

上市に各大字がある。

ここは尾仁山(おにやま)。

旧街道沿いに東に向かう。

順に六軒町(ろっけんちょう)、本町(ほんまち)、横町(よこちょう)、上ノ町(かみのちょう)。上ノ町の上に轟(とどろき)。

旧街道に戻って立野(たちの)になるという。

店主が云うにはかつて街道沿いの大字それぞれが立山をしていたそうだ。

ここ尾仁山もしていたが、今では六軒町だけがしていると云う。

米穀店より東へ向かう。

ほどよい距離に人だかりがある。

その手前に貼ってあった3枚の観光案内ポスター。



中央がこの日の花火大会。

午後8時から始まるが、今回の目当ては花火ではない。

右側のポスターは花火大会が始まる時間までに行われる吉野川の灯籠流しであるが、六軒町の立山のことはどこにも書いていない。

左側にあるポスターは翌月の8月に行われる大盆踊り大会。

いずれも場所は同じであるが、このポスターに書いてあった催しに炭坑節、河内音頭に続いて「祭文語り」がある。

民俗を取材している私にとっては必見である。

今年は地蔵盆の日と重なっているので取材はできないが、来年の課題としておこう。

人だかりのある場所に話を戻そう。

そこにおられた人たちにお聞きすれば、今まさに最後の調整をしている最中だと云う。

取材の主旨を伝えてこの地にできる限り滞在したい。

この近くに駐車場・・・といえばうちの向かいに若干停められる場所があるからと云われた。

ありがたいご厚意に感謝する六軒町の第一歩はこうして始まった。

今年の立山の出し物は「仮面ライダーゴースト」。



作業場は区の倉庫。

この場を借りて設営する見世物は六体もある。

主役はもちろん仮面ライダーゴースト。

戦う相手は誰だ。

孫でもおればわかるだろうが、我が家の息子たちは未婚。

それ以前であるだけに、これは何々といわれてもピンとこない。

たぶんに左端が仮面ライダーゴースト。

その後ろに立っているのが闘魂ブースト魂。

右の奥に立つ電気眼鏡。

その前は槍剣魔だろう。



さてと。

中央はなんだろうか。

どうやら恐竜をイメージしているらしい。

それがなんと動くのである。

ガォーと叫ぶうなり声は聴けないが・・・ぐぐっと前に迫ってくる。

動きを調製している男性は製作者。

作業場は暑い。

後方に設置してある風起こしの舞台設定は扇風機。

工夫を凝らした舞台は大道具もあれば見えない道具もある。

六軒町の立山は吉野町の花火大会期間に展示される。

製作は何か月も前から始まっている。

立山を造る会は15人。

元々は婦人部もある商工会の青年部だった。

仕事を終えて集まること何日間も。

構想から始まってテーマ決め、デザイン設計、材料調達。

夏休みも返上する毎晩の7時から10時まで作業をしてきた。

最修の完成は花火大会の初日を目指して日夜ガンバッテきた。

動く部分は専門家の出番。

ここが要の立山に苦労があると云う。



迫力ある仮面ライダーゴーストに集まってくる近所の子どもたち。

ずっと見ている子どもおれば、たまたま通りがかった親子連れも。

何かが始まる期待感をもたせる仮面ライダーゴーストに目が点だ。



今回の立山の引き立て役は植物がある。

前面に何もなければ単なるウィンドウディスプレイ。

そこに工夫する恐竜が生存しているかのように繁みをみせるのは茅である。

吉野川に生えている茅を刈り取ってきた。

しなしなに枯れてはなんにもならないので直前までは水を溜めていた廃棄風呂桶に浸けていた。



川にはとにかく多い茅がある。

いくら刈っても減ることはないという。

それほど多い茅の葉。

それがなくて茅の輪の設営ができなかった神社がある。

困っていたのは奈良市の大安寺八幡宮(元石清水八幡宮)。

もし良ければもらって帰っても・・。

この日の余りではなく自然に生えている川原の茅(上市の橋の下)を、である。

それならどうぞ、どうぞである。

たくさん刈り取ってもらってくれれば私どもも助かるというのだ。

区長に頂戴したいと連絡いただければ、ということに、その件は後日になるが、存じている大安寺八幡宮の宮司に繋いだ。

ところで毎年の立山。

工夫して製作した前年のものを保管しているという。

ベランダから見下ろす人形たちは、すぐにわかるだろうか。



孫がいない私はピンとこなかったが妖怪ウォッチの三体。

中央の少年は主人公のケーター。

両脇の2体は・・・。

右がジバニャンで左はフユニャン。

こういう機会でもなけりゃ覚えることはないだろうが、たぶんにすぐ忘れてしまう。

ちなみに前々年は北海道丸山動物園だったそうだ。

その年、その年ごとの流行りのものを造る。

その昔はその夜限りの登場であったが、今では花火大会が終わってからでも展示している。

7月21日からは子どもたちが楽しみにしている夏休み。

今年は8月5日まで飾っているという六軒町の立山はかつて他市の人たちに引き取られて、そこで展示していたそうだ。

行先の詳しさは現地に行ったことがないのでわからないが、どうやら橿原市の八木町だったようだ。

引き取りに来た人は六軒町で展示したそのままの状態で運んだようだ。

そのころはと云ってもはっきりした年代はわからないが、毎年に現われては譲ってもらった立山を持ち帰ったそうだ。

向こうで展示した六軒町の立山は八木の愛宕祭に再利用。

展示場は小学校の傍だったか、それとも商店街だったか・・。

祭りが終われば引き取った人が処分していたそうだ。

そういえばいつのまにか来ないようになった。

割合、歳がいった人だったのでやめたかも知れないと話す。

造った立山は壊すのが惜しいが残して保管する場所もない。

引き取り手があった時代は復活しない。

昨年の妖怪ウォッチは今でもベランダにいるが、いつまでもというわけにはいかないのである。

ちなみに立山会場前にはテントを張って写真展を開催していた。



納涼懐古写真展テーマは「たてやまと上市の風景」。

およそ65年前の六軒町の懐かしい風景写真を展示していた。



昭和26年の夏祭りに六軒町商店街仮装行列に羽根つきの様相。



昭和26年といえば私が誕生した年でもある。

そういえば区長さんも同い年。

地域は違うが、育ってきた年代文化は同じだけに話が弾む。

河川敷でしていたとんど行事は昭和32年。



吉野川では納涼なのか、鵜飼いもしている。

先頭に松明を掲げて船を動かす鵜匠の衣装に腰蓑も写っている。

貴重な写真に感動を覚える。その頁には捕鮎もある。

網を投げる子どもはふんどし姿にように思える。

さまざまな懐古写真で回顧する。

ところで翌月8月の盆踊りである。

そこで披露される「祭文踊り」は8月13日、14日、15日のいずれかの午後7時から夜の10時まで。

一夜限りの盆踊りに吉野町の祭文踊り保存会の皆さんが出演するという。

保存会の人たちの大多数は同町の国栖や楢井に住む人たちのようだ。

若い女性の踊り子を引き連れるのは年寄りの男性。

同町の龍門にある体育館で日夜の練習を重ねているらしい。

昔はその地、この地からかってくる踊り子たちが乗用車に乗って駆けつけたようだ。

それほど盛り上がっていたという盆踊りも拝見してみたいと思った。

(H28. 7.30 EOS40D撮影)
(H28. 7.30 SB932SH撮影)
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西増の地蔵さんを探す

2017年02月25日 09時12分38秒 | 大淀町へ
たまたま明日香村下平田の地蔵まつりに合流した二人の写真家。

今年も奈良県立民俗博物館で「私がとらえた大和の民俗」写真展に出典する。

今年の大テーマは「住」だ。

“みかん蔵”をテーマに挙げたSさんの話しによれば、8月24日に明日香村から山を越えた大淀町西増の地蔵さんに野菜造りの御供があるという。

これは必見になりそうだと思って現地を下見しておく。

大淀町には「増(まし)」の漢字を充てている大字が3カ所もある。

一つは紹介してくれた「西増」だ。

もう一つは「中増」。

三つ目が「増口」である。

元々の「増」はなんとなく・・・。

増に入る口は「増口」。

奥の奥にある「増」が「中増」。

そこより西寄りが「西増(にしまし)」と想定するのだが・・・。

入口と想定した「増口」から北上する。

本来ならばそうしたいが明日香村から当地にやってきた。

芦原トンネルを抜けて東西を走る旧街道を行く。

旧街道といっても現代に敷かれた車道である。

畑屋から比曽に馬佐を抜けたら「増」の「西増」。

実は誤ってというか、見逃して東へと向かっていた。

ここら辺りだと思った地は「増原」だった。

何故か住居表示に出てこない「増原」で彷徨う。

ここより西の方角にあると気づいて車を走らせる。

谷筋両側にある道を登る。

とても狭い道は里道を広げたのであろうか。

対抗車を避けるには多分に苦労するだろうと思った。

「西増」の地蔵さんは数か所あるとSさんが話していた。

そこがどこなのか詳しくは聞いていない。

狭い道を走らせる車の窓から覗いて場を確かめるが・・・。

ぐるっと回って下りかけの道にあった地蔵さんの祠。

ここにあったが果たしてそうなのかである。

近くの畑から出てこられた婦人の話しによれば間違いないという。

帰ってきたご主人は吉野山の桜守。

なにかと話をしてくださる。

ご夫婦の話しによれば村に6、7カ所の地蔵尊がある。



その一カ所がK家の地蔵尊である。

この村では隣組の家々が立御膳作って供えて祭りをしているという。

時間帯は夕方。

陽が落ちるころに村の子供らを随行した専念寺の僧侶が村の地蔵尊を巡って廻り法要をしているという。

野菜造りの御供はそれぞれになるらしい。

(H28. 7.23 EOS40D撮影)
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上比曽のイノコ

2014年03月17日 07時44分34秒 | 大淀町へ
稲の藁を手にした子供たちが地区を巡っていく。

大淀町の上比曽の子たちだ。

出かけた先は新婚さんの家。

前庭で持ってきた稲の藁を振り上げて地面を叩く。

そのときに唄われる詞章は「ここの嫁さん いつもろた 三月三日の朝もろた イワシさんびき 酒五合 しんまい藁で祝いましょ」。

これを繰り返して、地面を打った稲の藁は家の屋根に放り上げる。



なぜにこのような行為をするのか判っていない。

屋根に上げられた稲の藁は自然に返るまでそのままにしていると云う。

婿さんをもらった家では、「ここの婿さん いつもろた 五月五日の朝もろ」の詞章に替るらしい。

新米藁で叩くのは村の収穫を祝った作法。

新婚さんの家でするのは、子供の誕生の願い。

いわば村の子孫繁栄を願う行為である。

新婚家の繁栄は村の繁栄に繋がる、いわば、収穫を祝う農村の生産は地区の繁栄でもあるのだ。

叩く稲の藁は「どてんこ」と呼ばれていた。

「・・・祝いましょ」に続いて、「どてんこ どてんこ」と囃していたことを思い出す。

前日の村の人が集まって「どてんこ」を作っていたそうだ。

中にはダイコンの葉を詰めている。

稲の藁だけであれば、軽くて地面を叩くには力が要るし、叩いたときには音が出にくい。

そういうことでダイコンの葉を詰めている上比曽の「どてんこ」。

この年は大勢の子供たちで3軒の新婚家を祝ったが、新婚家がなければイノコ行事は行われない。

数年前は新婚の家はなかった。

前年は3軒だったが、私が初めて取材した平成19年は1軒だった。

数年間なくて、平成23年、24年、25年と続く新婚家。

旧村でありながら、これほど新婚さんが多いことに希望がもてる村の繁栄。

稲の藁には地下に潜む悪い霊魂を鎮める力があるとされる。

地面を叩いて田畑が豊かに実るよう祈っていた。

多産のイノシシにあやかり子宝に恵まれるように、新婚の家の繁栄に願いを込めるイノコ行事は県内各地の多くにあったが、今は数少ない。

桜井市の高田で行われている「いのこ暴れ」もその一つだ。

高取町の佐田や森にもある。

高取町では薩摩や兵庫も行われていたと聞いている。

明日香村の下平田も継承されている。

田原本町の味間では藁棒で叩くデンボ突きが中断したが、新婚家の祝いは今でも続いている。

桜井市の箸中においても新婚家を祝う亥の子祭があった。

「亥の子の晩に 餅のつかん家は 煎茶のどんぶり粥 嫁さんと婿さんとさねててかへ 起きててかへ 新米藁を祝たろわ」と囃していた。

夕暮れの頃、中垣内の子供たちは嫁さんをもらった家とか婿養子をとった家に出かけて、藁棒で地面を叩いていた。

少子高齢化の時代。

いつしか子供もいなくなって、新婚家も見られなくなった。

この年もなかったと聞いている。

昭和36年に発刊された『桜井市文化叢書 民俗編』には笠地区で「笠の亥子」があったと記されている。

12月22日のことである。

サトイモのズイキを稲藁に包んだ棒を子供が持って集落を巡った。

夕方に各家の門を叩いて始めたイノコの所作。

囃していた唄は「いのこの晩に 餅搗かぬ者は せん茶のどぶどぶ ここの姉さん寝てか 起きてか 新米藁で祝たろけ 千夜来い万夜来い 大鼓のほそねじしよないから 大根からい 人参しよ人参あるまい一本しよ」であった。

村の人に尋ねてみたが、見たことも聞いたこともないと云うから随分前に途絶えたようである。

かつて田原本町の味間でも同じように「イノコの晩に モチの搗かん家は・・・云々」と囃子たてて新婚の家を巡ってデンボで叩いていた。

「イノコの晩に モチ搗かん家は おうちのねーさん起きなはるか 寝てはるか・・・」と思い出す農家の人もいた。

同町の笠形ではホウデンと呼ばれる藁ズトで地面を叩きながら「嫁はん起きてるけ 寝てるけ 新米わらでいぉたろけ」と囃していた事例が『田原本町の年中行事』に残されている。

同本には「亥の子の晩に 餅つかん家は せんちゃのどんぶりこおきみやん(人名)起きてるけ 寝てるけ 新米わらでいぉたろけ」の東井上地区。

「亥の子の晩に 餅つかん家は ・・・ ここのねえさん起きてるけ 寝てるけ」だった多地区などもあった。

平成18年に発刊された『続 明日香村史 中巻』によれば、檜前地区にもあったようだ。

子供たちがデンボと呼ぶ稲の藁を作って「亥の子の晩に 餅つかん家は 箸でいえ建てて 馬のフンで壁塗って ボボの毛で屋根葺いて ここの嫁さんいつもろた 三月三日の朝もうた イワシ三匹 酒五合 しんまい藁で祝うたろう もうひとつおまけに祝うたろか」と囃していた。

平成11年に発刊された『奈良県立民俗博物館だより』にも明日香村下畑地区で行われていたイノコまつりが書かれている。

各家を巡って「ホーレン」と呼ぶ稲の藁で打ちつけていた。

内部には「クワエのヤ」を入れていたとある。

詞章は「いのこのばんに おもちつかんいえに はしでいえたて かやでやねふき うしのくそでかべぬって ここのよめさんいつもらう 三月三日のあさもらう」であった。

かつては旧暦の11月15日であったが、12月1日に移ったとあるが、戦時中に中断したようだ。

上平田ではデンゴロモチと呼ばれる藁棒であった。

「いのこのばんに もちつくいえは はしのいえたてて うまのけで やねふいて ここのよめさん いつもろた 三月三日のあさもろた いわし三匹 さけ五合 しんまいわらで いおてやる」と囃して新婚の家を中心に各戸を回っていた。

越(こし)でも同じくデンゴロモチと呼ばれる藁棒だった。

「いのこのばんに もちのつかんいえは はしのいえをたてて うまのくそで やねふいて しんまいわらでいおてやろ ここのよめさんいつもろた 三月三日のあさもろた いわし三匹 さけ五合 しんまいわらで いおてやろ」と囃して新婚の家を巡っていた。

ここで気になったのが屋根に稲藁を放り投げる上比曽の在り方である。

各地域の詞章に見られた「屋根葺き」である。

「ボボの毛で屋根葺いて」とか「かやでやねふき」がある。

もしかとすればだが、稲藁はカヤ葺きに際して投げられるカヤの束ではないだろうか。

カヤ屋根を補修する場合に行われるサシガネ。

屋根に上がった職人は一本、一本を挿し込んでいく。

一旦下に下りることなく、屋根に揚げて補給する。

その作業を模しているのでは、と思ったのである。

このようなイノコの行事にはイノコノモチ、アンツケモチ、ボタモチなどとよばれるモチがつきものであった。

「モチツクイエ」、或いは「モチツカンイエ」の台詞がそのモチを意味するのであろう。

東山地区では餅を搗かない家を「いのこのばんに もちつかんうちは・・・・」と囃した。

それはとんでもないケチであると揶揄されたという台詞であった。

また、天理市の藤井でもかつてイノコもあったそうだ。

男の子が村中を歩いて「いのこのばんに モチつかんいえは・・・しんまいワラでいおぅたれ ぺったんこ ぺったんこ」の囃子言葉があったことを六人衆が思い出された。

家の門口をワラ棒で叩いたあとは菓子をもらったそうだ。

昨年に取材した故郷の大阪南河内郡の河南町では「いのこ いのこ いのこのばん(晩)に じゅうばこ(重箱) ひろて(拾うて) あけて(開けて)みれば きんのたま はいた(入った)ったー ちょこ(しっかりの意)いわい(祝い)ましょ ことし(今年)もほうねん(豊年)じゃ らいねん(来年)もほうねんじゃ おまけ」であった。

その昔はもっと卑猥な台詞があったことを聞いた。

重箱と言えば天理市の楢町にあった興願寺の亥の子の十夜。

「十夜の晩に 重箱ひろって あけてみれば ホコホコまんじゅう にぎってにれば 重兵衛さんの キンダマやった」と歌ったそうだ。

それは如来さんのご回在の日であって如来イノコと呼んでいたと『楢町史』に記されている。

重兵衛さんの台詞は消えた河南町であるが、重箱といい、キンノタマは同じだ。

遠く離れた大阪と天理に繋がる詞章があったことに驚きを隠せない。

昭和28年に発刊された『奈良縣総合文化調査報告書』では吉野川流域・龍門地区のイノコ行事の一節が紹介されていた。

亥の子の日にはイモモチを作った。

ダダイモと呼ぶサトイモをご飯とともに搗き混ぜる。

小豆の餡を塗したオハギである。

作るのは慶びごとのあった家だ。

この日に若衆(子供)が祝いに行くと云って、ボテと呼ぶ新米藁で作った藁棒。

内部にはクワイ(慈姑)の「ヤ」というところに入れた。

そうすることでよく音がするとある。

それがどの地区であったのか記されていないが各地区の詞章が書かれてあった。

吉野町香束では「いのころもちの おねさんわ ねててかな おきてかな しんまいわらで いわいましょ」。

同町峯寺では「ここのよめさん いつもろた さんがつみつかのあさもろた しんまいわらで いわいましょ」だ。

同町西谷では「ここのよめはん いつもろた いわし三匹 酒五合 しんまいわらで いおたろか」である。

かつて行われていた県内各地のイノコ行事は史料に残るだけとなったが、山間、平坦問わずこれほど多くの地域で行われていたのである。

(H25.11. 3 EOS40D撮影)
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馬佐牛滝社の牛滝まつり

2014年01月16日 07時50分24秒 | 大淀町へ
「牛滝まつり」を「うったきさん」と呼んでいる大淀町馬佐(ばさ)の住民たち。

牛滝まつり行事の場は牛滝社。

親しみを込めた「うしたきさん」が訛って「うったきさん」と呼んでいるようだ。

「うったきさん」の日は飼っていた牛を引き連れて参っていたと云う。

大淀町教育委員会が編集された『おおよどの地域文化財を学ぶ』によれば、高取町山間より壺坂街道を経て田口、馬佐、比曽、上市へ向かう道は旅人や修験者が頻繁に通っていた江戸時代、馬屋を建てたとか、「うまみち」の呼び名もあったそうだ。

『大淀町の伝説』には「うまみち」のことが記されている。

それには「馬をたくさん引き連れてきた太閤秀吉が馬佐峠付近で演習をしていた。いざ帰ろうとした際、一頭の馬が足らなかった。付近を探したが見つからなかった。もっと探せば一つの谷のどんづまりに馬がいた」とある。

探していた馬が見つかった馬佐。

つまりは「馬さがし」が転じて「馬佐」の地名になったというのである。

見つかった谷のどんづまりや周りの山々を「うまみち」と呼んだのである。

なるほどと思わせる伝承である。

昭和28年に発刊された『奈良県総合文化調査報告書-吉野川流域・龍門地区-』によれば、牛滝社は馬佐だけでなく、高取町の壺坂、大淀町の山口・比曽、吉野町の志賀にもあったようだ。

壺坂峠を越える壺坂街道、さらに東進する街道は吉野町へと繋がっていたのだ。

志賀の鷹塚の牛滝祭りでは、赤い首輪をつけて飾った牛を連れて参っていた。

寄り合い角力や御供撒きで賑わったそうだ。

その後において創建された山口、比曽、壺坂の牛滝社であるということから、馬佐も同時代の創建であったと考えられると思ったが、そうではなく山口の社を明治45年に合祀して八阪神社と称すようになったようだ。

馬佐の牛滝まつりは9月15日に行われていたが、ハッピマンデー法令によって敬老の日の祝日になった。

この年は台風18号の影響で明日香・高取から芦原トンネル入口手前の国道169号線は泥まみれになっていた。

ほぼ通行止めである。

ほぼというのはわずか数台を通らせていたのである。

芦原を通過した直後に閉鎖されたトンネルを見届けて一路。畑屋、越部を抜けて馬佐に着く。

滝のように山から流れる水量は大量で牛滝社は水浸しの状況であった。

牛の守り神とされる牛滝社は天照皇太神宮の境内社で八阪神社とも称される。

この日はまさに「牛滝さん」が呼び込んだと思えるような滝の様相であった。

牛滝社の社殿に神饌を供える村役やトヤの人たち。

神饌はナンキンカボチャを土台に竹串で挿したニンジン、マンガンジアマトウ、ナガナス、シイタケ、サツマイモ。

村人たちが「御膳料」を払って、トヤが作った神饌御供である。

神饌は八つの盛り。

挿した野菜は特に決まりもなく、馬佐で採れた野菜もの。

年によっては異なると云っていたが、昨年に行われた村の記録写真と同じだった。

「御膳料」を記されたお札は志納した村人の名を添えている。

神饌には名前が無いと云われたが、おそらく「御膳」であろう。

そのころは公民館で敬老の祝いを終えた人たちもやってきた。

急な坂道を歩いてきたと話す。

社殿前は水浸し。

仕方なく、神職が立つ位置に板を置いて神事を執り行われた。



特別なことはなく、祓え、祝詞奏上、玉串奉奠で神事を終えた。

神事を終えればゴクマキであるが、この日の境内は水浸しのぬかるみ状態。



やむを得ずトヤから受け取る村人たち。

ありがたく受け取って家路を急ぐ。

50年ほど前のことだと話す長老は82歳。

土俵を作った境内では、上半身裸で、晒しで巻いたフンドシ姿の小・中学生の子供や成人が競っていたそうだ。

腕っ節を試そうとやってきた下市の成人男子も加わって競っていたと云う。

かつては藁で作った土俵があった。

土俵の砂は馬佐川から揚げていた奇麗な砂だった。

その土俵の角に三角台が置いてあったと云う。

そこには「牛」そのものの形の版木を押した紙があったと云う。

参拝者はそれを持ち帰り、餌を与えるカイバ口がある牛小屋の柱に貼っていたと云う。

大切な飼い牛が病気にならんようにという願掛けのようなお札だったと云う。

農業一本だったころの牛を引き連れて「うったきさん」に出かけた。

神社前にある樹木や電信柱に牛綱を結わえていた牛参りは記憶に残るだけとなった。

馬佐のマツリは10月第二日曜日。

かつては10月15日だった。

前日の土曜日には盛大にマツリごとをしていた座講(ざぁこう)の行事である。

「昔はマツタケのすき焼きがあってよばれていた」と話す。

マツタケは普通にあった。

お弁当にもマツタケがあった。マツタケを入れて炊いたマツタケメシだった。

小学校での通学路にもマツタケが生えていたくらいに多かった。

多いから棒で叩いて潰して遊んでいたと笑いながら話す。

いつしかマツタケがないすき焼きになったが、それは一老、二老だけがよばれる座であった。

トヤ受けのときにもヨバレがあった。

朝、昼、夜に翌日のマツリの昼も食べて飲む座だったそうだ。

かつては20~23軒で行われていたが、今では村から出ていった家もあって13軒の営みとなった。

マツリにはお渡りがある。

早朝、トヤの家に集まった講中は始めにお茶をいただく。

トヤは衣装に着替えるが、どのような装束であるのか聞きそびれた。

幟を持つトヤを先頭にお渡りが向う先は天照皇太神宮だ。

それにしても台風の影響は各地で被害にあった。

後日に聞いた大和郡山額田部住民の話によれば、吐田の油掛け地蔵さんも水浸しになったと云う。

油でもなく、泥でもなく、田畑も溢れた水だったそうだ。

(H25. 9.16 EOS40D撮影)
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大淀町馬佐の行事

2014年01月14日 08時12分36秒 | 大淀町へ
御所から次に向かったのは大淀町。

新しい道もできて早くなったが、それほどでもない。

目指すは馬佐。「ばさ」と読む。

8月には同町の弘法井戸を探していた。

帰り路に選んだのが馬佐である。

馬佐口から山の方に向かえば集落がある。

家から出てこられた男性に声を掛けた。

探していたのは牛滝まつりだ。

その答えは、「あった」であるが、かつてあった相撲は随分前に途絶えていた。

40、50年も前のこと。「牛滝さん」にやって来た子供たちは上半身が裸で晒しのフンドシ姿。

大人も混じっていたそうだ。

もう一人の男性によれば、吉野じゅうから相撲を取りにきたというから相当賑わっていたようだ。

小学生のときだったから60年も前だという。

いつしか怪我をするからと意見が出て中断した。

その後は「シシマワシ」に移り替った。

話しの様相からすれば伊勢の大神楽。獅子が舞う神楽獅子だったと云う。

「手品もあったし、傘を回す曲芸や“シシマワシ”をしていたのは“池田神楽”だった」と話す。

子供時代に見ていた神楽獅子は面白おかしく舞っていたという講社の人は自動車でもなく木箱を乗せた台車のようだったと話すAさん。

「アホ役の人がおって、漫才をしていたのが面白くて」と話す牛滝さんの日は、いつしかそれもなくなった。

その後になったまつりはゴクマキ。

神主が来られて神事をする。

その後のゴクマキは固定日の15日だった。

それは今では敬老の日の祝日なった。

公民館で敬老祝いの昼食を摂る。

それが終わってから坂道を歩いて神社に向かう。

そこは天照皇太神宮の境内社である牛滝社。

牛を象った守り神が置かれている「うしたきさん」は訛って「うったきさん」と呼んでいる。

農業一本だったころの牛を引き連れて「うったきさん」に出かけた。

神社前にある樹木や電信柱に牛綱を結わえた。

まさに牛参りである。

神社には享保三年(1718)十一月、天明六丙年(1786)六月吉日に寄進された燈籠がある。

(H25. 9.14 SB932SH撮影)
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畑屋八大龍王社夏祭り

2011年08月17日 06時47分31秒 | 大淀町へ
畑屋の集落には山の頂辺りに鎮座する八大龍王社が祀られている。

天水分神社とも呼ばれている神社を守っているのは東の講と西の講の宮座講の人たち。

畑屋川を跨るカンジョを正月前に掛けた人たちだ。

毎月初めの太鼓叩きがたいへんだ。

朝は4時半のことだ。

神社に登って太鼓を叩く。

月参りの日は村の人に参りにきてやといって「マイレー、マイレー」と叩く触れ太鼓。

叩くのは一年間もそれをするタイコタタキの当番の人である。

一年間きっちりとこなす二人には「座」にあたるそうだ。

この日は夏にお供えを供えて営む夏祭り。

かつては18日だったが集まりやすい第三日曜にされている。

両講のトヤは神饌に8個のモモと8尾の開きトビウオを供える。



カンジョと同じように夏祭りには「八」の数が絡んでいる。

お供えは山盛りのハランキョ(スモモ)やゴボウ、ナスビ、キュウリも供える。

それらは三方に置かれて献饌を待つ。

急坂を登ってやってきた氏子たち。

息が切れるころにようやく辿りつく。

それまでに草刈りをして参道を奇麗にしていたトヤ。

こうして参拝者を迎えるのだ。

「昔からそうしていると」いう。

桧垣本の八幡神社から来られた宮司が神事をされる。

祓えの儀を経て揃えた神饌を御供上げする。



そして村の安全を祈って祝詞を奏上されて玉串奉奠。

撤饌をして夏祭りの神事を終えた。



これらの御供はそれぞれの講中に分けられる。

宮司と禰宜は自社へ戻っていった。

その日の夕刻には八幡神社での夏祭り。

大淀町の他、川上村、五條市などに亘り数十社も兼務されている。

夏を含め秋が一番忙しい祭りどきだと話される。

戻られたあとは両講の語らいの場。

西の講の拝殿床下には空っぽになった酒ビンが残っている。

東の講にはそれはない。

そんなことで西の講を「のみ講」と呼ぶのだとくったくなく笑って話す。

それでは東の講はと尋ねれば「飲まん講」だとこれまた笑っている。

こうしてオツマミを肴にお酒が空いた。

秋にはマツリを営む畑屋の人たち。

そのときに供えられるエダマメを育てられている。

今じゃエダマメというがアゼマメと呼ぶのが本来なのだと話す。

そういや「畔に植えてないもんもアゼマメと呼ぶなぁ」と笑って話す。



そのアゼマメは「カンジョカケにあるし、あっちこちにもあるで」と仰ったので探してみた。

(H23. 7.17 EOS40D撮影)
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畑屋カンジョ

2011年01月13日 08時07分18秒 | 大淀町へ
本居宣長が江戸時代に書き記した畑屋の街道。

吉野の土田から大淀町の畑屋を抜けて高取の壺阪寺に向かったとあるそうだ。

往古を忍ばせる畑屋の細い道には年末にカンジョが掛けられる。

カンジョとは、勧請縄のことであろう。

集落から下ったその場所はカンジョと呼ばれている。

左右の崖に植生する樹木に縄を括り付け川から畑へ掛ける縄はとても長くおよそ60メートルにもあるという。

カンジョを作るのは山の頂に鎮座する天水分神社の宮座講の人たちだ。

宮座講は東の講と西の講に分かれている。

それぞれの講の地区に分かれてカンジョを作る。

東の講は5軒。西の講は6軒。

それぞれは8軒、9軒だった。

転居や継ぐ家長が居なくなりいつしか軒数も減っていったそうだ。

午前中の2時間もかかってカンジョをこしらえる。

モチ藁を撚って長くしたカンジョは30メートル。

川、道巾が広いのでそれでは足らない。

カンジョはそれぞれの地区が作って継ぎ合わせて60メートルにするのだ。

その縄には八つの房を取り付ける。

房は長く垂らした足が4本。

その間に杉の枝葉を4本通す。

一番下には幣がつけられる。

村を守っている八大龍王を祀るから房は8本だと話す東の長老。

その房はコカンジョと呼ばれている。小の字を充てるのであろう。

コカンジョを作るのは長老。

特に決まりはないが「不器用やから編むのはしっかりした人でないと」と話した。そう言うのは東の講も西の講も話すことに違いがない。

出来上がればカンジョをグルグル巻きにして中央にコカンジョを置く。

床の間の前に置いて洗い米、塩を供えて灯明に火を点ける。



ところが西の講はできあがると梯子に載せる。

ユニークな場所に置かれるが灯明やお供えはない。

東の講では村の安全を祈ってからパック詰め料理の会食をよばれる。

そこは年番のトーヤの家だ。

トーヤの漢字は当屋が充てられる。

毎年交替するトーヤ、東は5軒だから5年回り、西は6年回りだ。

軒数が少なくなってきたので回りが早くなったという。

平成11年に改正されるまでは会食は高膳だった。

コンニャクなどを炊いた煮染め料理もあったそうだ。

カンジョの日は1月5日だった。

それは改正されて、新年会が重なる年始を避けて集まりやすい年末になった。

会食を済ませた講衆。

同期をとるために東の講へ「西の講が出発する」と伝えてカンジョの場で落ち合う。



そのときには若い人たちも加わった。

崖に登って括り付けるのは力仕事。

電柱までよじ登らなければならない。

若い力が必要なカンジョ掛けなのだ。

樹木に端を括り付けて中央で拠って合わせる。

コカンジョはそれぞれ等間隔で括り付ける。

東は東、西は西のコカンジョを取り付ける。

その辺りで良いだろうと声が掛かれば一方の端を引っ張ってカンジョの縄が一直線になった。

日差しを浴びてコカンジョが風に揺らぐ。

村の共同作業は1時間ほどで終えた。



昔に疫病が流行った。カンジョを掛けたら畑屋の村だけは疫病が来なかったという伝説があるカンジョ掛け。

「若いもんがおらんようになったらやめようか」と思ってはいるものの、「止めたら何が起きるかわからん」から継承してきた。

これからの行く末が心配だと話す両講の長老も掛け終われば満足げな顔で自宅に戻っていった。

(H22.12.19 EOS40D撮影)
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