マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

20年目の榛原雨師丹生神社の造営祭典

2016年10月12日 08時59分51秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
前月の3月19日に立ち寄った宇陀市榛原の雨師(あめし)。

20年ぶりに丹生神社の造営祭典が行われることを知った。

詳細ではないが、たまたまお会いした村の大工さんが話してくれた。

造営祭典の主役は宮大工が務める。

新しくなった本殿などを祝う上棟祭である。

朝8時に始まると話していたKさんは若くして棟梁を務めている。

雨師に造営があると教えてくれたのは隣村の笠間に住むSさんだ。

Sさんは同市榛原角柄(つのがら)の高龗(たかおかみ)神社に20年ぶりの式年造営竣工報告祭があったと話していた。

その様相はメデイアネット宇陀が記録したビデオ映像でネット放映している。

当日は土砂降り。

祭典は雨音が激しく聞こえるテント内でされていた。

雨師もそうならないように当日は降らないで欲しいと願っていた棟梁の心配もよそに晴れあがった。

着いた時間は丁度の8時。

神社が鎮座する場は前月に伺っていたのですぐ判る。

心配だったのは駐車場があるものの稚児の行列と重ならないか、である。

着いたときに行列があれば神社に向かう道は塞がれてしまう。

写真を撮るどころではない。

出合いは心配をヨソに免れた。

というよりもその後に判った時間帯。

2時間半後だった。

神社の駐車場は今回の造営に合わせて広げられた。

相当数の車を停めることができる。

神社に向かう道は参道。

幟を立てて祭典を盛り上げる。

そこをやってきた村人たちは正装姿。

モーニングまでとはいかないが白のネクタイを締めた礼服である。

真新しい鳥居を潜って登る。

神社に着いてすぐさまこの日の取材をお願いする。

先日、伺った大工棟梁もおられる。

代表者は村の総代であるが、近々にあった事情によって参列することができなくなった。

紹介してもらった代理総代のNさんに挨拶および取材主旨を伝えて撮影に入る。

8時に開始と聞いていたが、それは祭典ではなく参集時間であった。

舞台装置など、大掛かりな設営は前日までに終えていたが、細かい設えはこの日の朝からだったのだ。

祭典舞台から一本の紅白綱が張られていた。

それを緩めて大きな鯛を吊るそうとする男性がおられた。

そこには穴あき五円玉がぎっしり。

連珠のような形にしている五円玉も吊るしていた。

五円玉を挟むようにもう一尾の鯛も吊るす。

これまで県内各地(奈良市誓多林町八柱神社・奈良市長谷町日吉神社・奈良市都祁南之庄町国津神社・奈良市上深川町八柱神社・奈良市都祁藺生町葛神社・奈良市都祁小山戸町町山口神社・山添村桐山戸隠神社・曽爾村小長尾天神社)の造営祭典を拝見してきたが、生の鯛を曳綱に吊るす行為は初めて見る。

これは一体何なのか。吊るす男性や村人に尋ねても答えは判らない、である。

造営祭典は各地域にある。

そこに出仕される宮司さんであればご存じであろうと思って尋ねた結果は、名前はない、である。

この日に務める斎主の宮司さんは宇陀市榛原萩原字天野に鎮座する墨坂神社の太田静代さん。

お顔を合すのは初めてだ。

民俗写真記録の関係で当地を伺ったと話せば、奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏の名を挙げられた。

宮司が云うには「鹿谷勲さんや菅谷文則先生には神社についての執筆で協力をいただいている」ということだ。

それはともかく五円玉を挟んだ2尾の鯛に名前はないが、曳綱の飾りとしか云いようがない、ということであるが、目的は「元気な身体を現し、健康や安全に商売繁盛を願うものでしょう」と話していた。

ちなみに今回は五円玉になったが、前回の20年前の造営では古銭の八文銭だったという。

八文銭がどのようなものか判らないが、収納してあったとされる蔵などを探しても見つからなかったそうだ。

蔵でなければどこであるのか、所在が掴めず行方不明になった八文銭代わりに五円玉にしたという。

ちなみに宮司さんが云うには宇陀市榛原や大宇陀などでは多くの地域で曳綱飾りの鯛吊りが見られるという。

平成23年10月2日に行われた宇陀市榛原額井・十八神社の予行上棟祭がある。

翌日の本祭に向けたリハーサルである。

造営舞台から長く伸ばす紅白の曳綱を設営していた。

その曳綱である。

予行では見られなかったが、本祭にはこの綱に生の鯛を吊るすと話していた。

神職は太田静代さんではないが、同じような形であったろう。

ちなみに当地と同じような紅白の曳綱に2尾の鯛を吊っている映像を紹介していた村の人のブログが見つかった。

鯛の上に広げるような形のモノがある。

これは何であろうか。

造営の民俗に興味が湧いてくるが、現地は断定できない。

本殿の設えなどに忙しく動き回る神職や造営委員の人たちの邪魔にならないように気配りしながら撮らせてもらう。

20年ぶりの造営には後世に残すべき記録が要る。

撮影者は村のカメラマンに応援を願った三重県伊賀市在住のA氏。

二人は村の記録係り。

存在が判るように腕章をつけている。

ヨソから突然のごとく現れた私の存在も知ってもらっておいたほうが良いだろうと思って名刺交換する。

氏曰く、知り合いの写真家の名を告げる。

それがどういう意味をなすのか判らないが有名な写真家である。

懇意にしているという写真家は私もよく存じているKさんだ。

A氏は風景写真を主に撮っているらしい。

民俗どころか行事の撮影はたぶんに経験未知数と思えた。

それは曳綱に吊っていた鯛で判った。

村の人が鯛をぶら下げて綱を調製していた。

氏の目の前であるが、関心を寄せることなく動き回っていた。

重要な造営祭典の一つがそこにある。

これを落としてはなにもなるまいと思ったのは私だけだろうか。

記録といえばもう一組ある。

宇陀市の行事取材でときおり同席することもあるビデオ収録グループである。

それは宇陀市全域を対象に地域の伝統行事やまちの話題を取り上げ収録した情報をネット配信しているNPO法人メデイアネット宇陀だ。

こちらの取材陣にも声をかけてお互いの共有化を計っておく。

こうしておくことが大事だと思うのである。

ちなみに前述した曳綱に吊った生鯛のことも映像造りが効果的になるものであると伝えておいた。

拝殿に置いてあった紅白の餅を撮らせてもらった。



盛った桶の数量はそうとうな数である。

上蓋のように載せている大きな餅は「カサモチ」と呼ぶ。

手尺で測ってみれば直径はおよそ20cm。

コモチよりも薄く伸ばしたようなモチである。

これらのモチは一石八升も搗いた。

3月の31日に搗いた餅は70臼。

丸一日の作業だったと話す。

ちなみに御供桶に「丹生神社 上棟祭」の文字がある。

今回の造営に作ったものと思える新しい桶もあれば古くから使われているような桶もある。

さて、本日の造営祭典は三部構成である。

一部は拝殿内で行われる造営竣工報告祭。

二部は舞台が主な上棟祭。

三部も舞台で行われる竣工式である。

造営竣工報告祭の式次第は修祓の儀、宮司一拝、献饌の儀、宮司の祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌の儀、宮司一拝。

主とする上棟祭は修祓の儀、宮司一拝、降神の儀、棟札の儀、献饌の儀、宮司の祝詞奏上、四方祓の儀。

そして、宮大工の大工棟梁が主役を務める上棟祭の主軸の儀式。

文中では判りやすい大工棟梁としておくが、式典での呼び名は工匠長である。

はじめに工匠長の祝詞奏上。

次が振幣の儀。

次が工匠長盃の儀。

その次は丈量の儀、墨入れの儀、手斧の儀、鉋の儀。

工匠長道具が登場、所作する四つの四器の儀である。

次は雨師の里の巫女が奉納する巫女神楽の舞。

次は六組に分けて行われる槌打ちの儀である。

主たる式典の後は玉串奉奠、撤饌、昇神の儀、宮司一拝で終える。

三番目は竣工式。

祝いの造営に至った経緯の報告や祝辞・挨拶。締めは御供撒きである。

祭典が始まってからでは舞台に登ることはできない。

式典が始まる前に撮らせてもらった大工棟梁が用いる四器の道具。

サシガネやペンチなどもある。

横には里の巫女が棟梁に酒を注ぐ長盃もある。

祭壇は鶴が舞う扇で作った日の丸御幣が五本。

桶に盛った御供餅や神饌もある。

また、槌打ちの槌もある。

絵柄は白梅だ。

一旦は仮宮で暮らされた神さんは美しくなった本殿に坐います。

朱塗りの本に前拝殿ともに鮮やかな色具合だ。

拝殿には幕が張ってあった。

紺に白抜きの文字。

「昭和五十一年四月吉日 丹生神社」の文字から判るように40年前に寄贈された造営を祝する幕である。

また、社務所には前々回、前回の記念に撮られた祭典関係者一同の写真が掲示されていた。

左右の弓矢の位置や御幣を立てる場所も同じだった。

式典次第にない祝杯が始まった。

樽酒の鏡開きだ。

上蓋を木槌で打って割るのは宮司と長老。

お見事に割れた樽酒。



柄杓で汲んで酒枡に注いで渡す。

目出度い日の目出度い酒を飲み干す氏子たちは笑顔に包まれていた。

天候良しの祝いの日を彩る桜色。

神社付近などを染めていた。

造営竣工報告祭が始まった。

予定通りの午前10時。

拝殿に登る神職に続いて氏子たちが参進する。

そのころともなれば礼服などで身を固めた村人たちが集まってくる。

祝いの日は正装。

子どもたちも正装している。

村の中央辺りから打ち鳴らす太鼓の音が聞こえてきた。

公民館を出発した稚児行列だ。

先頭を務めるのは代理総代のNさん。

後続につく宝船の速度に合わせて先導する。



下見に聞いていた宝船の名称。

お稚児さんとともに集落を巡るとK大工棟梁が話していたのはこれだった。



聞いていたイメージは夢枕に出るような宝船を想定していたが・・紅白幕を垂らした稼動台車はキャタピラで動く三菱製パワーカート。

荷台に積んでいたのは桶に入れた紅白餅の御供だった。

宝船を迎える村の人の列を抜けて神社に向かう。

そろりそろりと歩む稚児行列は神楽を舞う4人の里の巫女さんが先頭。

後続に外孫も入れた稚児26人の行列に親御さんや爺ちゃん婆ちゃんもつく。

雨師の里山はなだらかな田園。

ある地点からは急坂になる。



横から撮った写真でその角度がよく判る。

一歩、一歩を踏みしめるような足取りで神社に向かう。

新しい鳥居の下で記念の写真。

ゆっくり撮っている間もなく、神職に向かえてもらったお稚児さんたちは神社に参進する。

鳥居を潜っても急な坂道。高低差はご覧のとおりだ。

先に参集していた役員たちも境内から見下ろして迎えてくれる。

一同が揃えば境内で記念写真。

前々回、前回どおりに配置することは不可能に近いごった返し方。

雨師集落の戸数は20戸。

これほど多い子どもたちの姿を見るのは20年ぶり。

それとも秋のマツリ以来かも知れない。

とにかく多い状況に腕章をつけたカメラマンは一苦労。

いうことを聞いてくれないと零されるが、小さなお稚児さんたちでは無理がある。

親もついていくわけにはいかない記念写真の並びを撮るには大声を出すしかない。

私はなんどもそう対応してきた。

慣れないこの日限りの臨時的、しかも動きのない景観を撮っている風景写真家では土台、無理がある。

村のカメラマンも同じようなオタオタ感は申しわけないが不慣れな証拠だと思った。

ちなみにお稚児さんの装束は貸衣装だ。

商店名を縫い付けていた名札は「阿部稚児衣装店」。

三重県津市で商売をされているようだ。

お稚児さんの記念写真の次はもっと大勢になる。

神職、棟梁たち、巫女さん、氏子一同の並び。子供さんと違って大人。

整然と並んでハイ、シャッター。

専属カメラマンだけでなく氏子を撮る外氏子家族も、である。

こうした記念写真を撮り終えたらようやく祭典に移る。

神職、大工棟梁、造営委員は舞台に登って厳かに上棟祭が営まれる。

前述した次第とおりに進捗する。

午前11時20分。

ほぼ予定とおりだ。

まずは修祓の儀に始まって宮司一拝、降神の儀、棟札の儀、献饌の儀、宮司の祝詞奏上、四方祓の儀、である。

四方にキリヌサを撒くが、その際に合わせて撒くモノがある。

紅白の紐をつけた五円玉の銭撒き。

いわゆる撒銭の儀である。

写真では判り難いが、赤い印が見られるのが撒銭である。

そして、宮大工の棟梁が上棟祭の主役を務める儀式に移る。

はじめに棟梁の祝詞奏上がある。

大工にとっては誉れある祝い日。

高らかに口上される。

次が振幣の儀。棟梁はひときわ大きい幣を手にして左右に振る。

いわゆる奉幣振りの儀式であるが、舞台の柱で棟梁の姿が見えなくなってしまった。

次は工匠長盃の儀。

里の巫女女児たちは四人。

うち二人が盃を手にして工匠長の前に立つ。

朱塗りの酒杯を手渡して湯とうを持つ巫女が酒を注ぐ。

いわゆる献酒の儀式は始めの小さな酒杯に三度注ぐ。

工匠長が飲み干して次に大きい酒杯に替える。

これもまた三度注ぐ。

さらに大きな酒杯に替えて三度注ぐ。

遠目で断定はできないが三々九度のような所作であった。

次は丈量(じょうりょう)の儀。



棟梁と副棟梁の二人が登場する。

太い棟木の両側に分かれて端を抱える。

始めに「よろしいか」と声をかけられた棟梁は「オウ」と声をだして棟木を持ち上げた。

続いて、「よろしいか」の声を合図に反対側に居る副棟梁も棟木を持ち上げる。

次の「よろしいか」に「オウ」と応えた棟梁が持ち上げる。

棟木を床に降ろすときはドンと音を鳴らすように下ろす厳粛な作法にしばし見惚れる儀式は棟木の長さを測る儀式である。

次は墨入れの儀だ。

今度も棟梁と副棟梁が登場する。

手にする大工道具は墨壺。

副棟梁が墨糸を手にして棟木の端に動く。

棟梁は墨壺を持って端につく。

棟梁は墨糸を持って上方に揚げる。

「よろしいか」の声がかかれば「トウ」と声を出して糸を下ろす。

これで一直線の墨痕が棟木につく。

これを三回、繰り返す。

次は手斧の儀だ。



手斧と書いて「チョウナ」と呼ぶ。

今度も棟梁と副棟梁が登場する。

二人が手にした手斧は模したもの。

この日の祝いに金色に塗った手斧だ。

棟木中央に登場する二人は向かい合わせ。

「よろしいか」の一言に心あわせて振り上げて下ろす。

棟木を削るような所作は三回、繰り返しながら後方に動く。

この日に参拝していた大宇陀野依住民のTさん。

孫さんを連れて祝いの場に立っていた。

Tさんは野依で行われた2月の豆占いや5月の節句オンダ取材で世話になったお方だ。

Tさんが云うには「チョウナ」ではなく「チョンナカケ」と云っていた。

「チョウナ」が訛って「チョンナ」。

手斧を振り下ろして削る。

それを表現するのが「チョンナカケ」になるようだ。

次は鉋の儀。

目立って大きい金色塗りの鉋が登場する。

手にしたのはもう一人の副棟梁だ。

「よろしいか」の声がかかって「オウ」と応える副棟梁は大きな鉋で棟木を削る。

綺麗に磨きをかける鉋削りに笑いはでなかった。

こうして四つの大工棟梁の儀式が連続して行われた次は雨師で生まれ育った里の巫女が奉納する巫女神楽の舞である。

名前を呼ばれて会釈する巫女さんが可愛い。

榊を手にして一礼。

雅楽が奏でられて唄う神楽楽曲は宮司の太田静代さんの生声だ。



演奏は生ではないが、浦安の舞であろうか。

棟梁の儀式も神楽の舞も柱や手すりに遮られてうまく撮れなかった。

上棟祭の〆を飾るのは槌打ちの儀。

大勢が参加されるので六組に分けて行われる。

脇についた副棟梁は曳綱を持つ。

始めの組に登場するのは宮司に長老ら。

副棟梁に後ろについたのは御幣を持つ棟梁だ。

槌をもって棟木の前に位置する。

そして、声がかかった。



「セーンザーイ トウ」と大声をかけた棟梁は幣を左右・上方に振り上げてトンと下ろす。

そのときの発声は「トウ」である。

それに合わせて「オウ」と応えた人たちは槌をトンと三回打つ。

続いて「マーンザーイ トウ」で幣を振り下ろす。

先ほどと同じように槌をトンと三回打つ。

続いて「エーイ エイ トウ」だ。

「セーンザーイ」は「千歳」。

「マーンザーイ」は「万歳」。

「エーイ エイ」は「永々」。

それぞれ漢字で表せば意味が判るだろうか。

千歳、万歳の目出度い詞に永々。

「トウ」は「棟」。

つまり、造営の上棟祭を祈念に今後も将来に亘って神社も村も永遠に栄えるようにということだ。

ところで曳綱役の副棟梁はどうしていたか、である。

「トウ」の掛け声のときに曳いていた綱を離すのだ。



それに連れて吊られていた鯛が揺れる。

実は生の鯛は吊るしたときから汁がポタポタ落ちていた。

その下に氏子さんがおられたら鯛の滴がかかってしまう。

それを避けたくて鯛にはナイロン袋が被されていたのである。

鯛は袋で見えなくなったが、綱を放つ都度揺れていたことに気づく人は少ない。

次の組は氏子総代や自治会長、篠楽の氏子総代に外氏子代表も並んで「セーンザーイ」、「マーンザーイ」、「エーイ エイ」に合わせて槌を打つ。

三組目、大工棟梁や瓦工務店、建材店の人たちも打つ。

四組目、造営委員の人たちも。

五組目、四人の里の巫女さんも打つ。

六組目はお稚児さんたち。

母親とともに参上した幼子だ。

七組目、大きいお稚児さんも参上する。

八組目もお稚児さん。

九組目もお稚児さん。

大勢であるだけに行列していたお稚児さんは四組に分けて槌を打った。



この子たちの20年後。

槌を打ったことを覚えているだろうか。

年長者は記憶があるかもしれないが、幼児はたぶんに記録した写真で蘇ることであろう。

時刻は12時を過ぎていた。

予定より30分遅れで始まった竣工式。

宮司や造営委員長の挨拶。

3年前に立ちあげた造営委員会。

平成27年8月より造営工事が始まったなどと話す祝いの造営に至った経緯の報告や祝辞を経て閉会した造営祭典の締めくくりは紅白餅の御供撒きだ。



造営祭典を村では「ゾーク」と呼んでいる。

「造営」がどのような経緯があって「ゾーク」と呼ぶのか、未だに判っていない。

この日に斎主を務められた太田宮司も何故でしょうという。

これまで数か所の地域で造営愛典を取材してきたが、どの村も「ゾーク」と呼んでいる。

まだ拝見していない村も同じように「ゾーク」と呼ぶ。

訛ったのかどうか判らないが経緯が読めない。

県内特有の呼び名でもない「ゾーク」。

奈良県の西に位置する御所市や五條市・葛城市・生駒市には云十年に一度の式年遷宮は見られない。

見られないだけに「ゾーク」という詞も存在しない。

盆地平たん部や吉野など県内南部も同じである。

「ゾーク」があるのは県内東山間ばかりに、である。

御供撒きに多くの餅を手に入れた氏子たちは神社道を下って戻っていったが、造営委員の人たちは撤去作業がある。

奇しくも神武さんの日だったという4月3日。

それも大祭であるのなら、雨師も造営も20年に一度の大祭である。

歓びを感じる大祭に斎主となられた宮司は笑顔で応える。

それを象徴するのかどうか判らないが、舞台に飾った大きな弓矢を降ろされた。



よく見ていただければ判ると思うが、矢にあるのは「鶴」と「亀」の絵柄だ。

村の長寿を願う「鶴」と「亀」。

永遠に繁栄が続くことだろうと思った。

すっかり片付いた神社に揃って手を合わせる家族が居た。

村を出た次男坊であるが、住まいする大阪市西淀川の鎮守社に毎月の1日、15日は欠かさず参っているという。

1日参りに15日参りは村に住んでいたときも同じであるという。

片づけはまだまだあるが、御供を盛った木桶を持って階段を下る二人の婦人がいた。

この桶は前述したように「丹生神社 上棟祭」の文字がある。

「昔は竹で周りを縛っていた」という婦人たちは年配者。

造営委員でもある。

前回の造営は20年前の平成8年。

そのときに村が作った木桶は村全戸に配られた。

それを持ち寄って御供盛りをした。



次回は20年後。

私が生きておれば85歳。

いなくなっても上棟記念の桶は代々継がれていくだろう。

(H28. 4. 3 EOS40D撮影)

ゾーク(造営)直前の榛原雨師丹生神社

2016年10月02日 07時45分26秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
宇陀市榛原笠間桜実神社のゾーク(造営)は平成25年10月に行われた。

20年に一度の記念すべきゾーク祭典には多額の費用がかかったと聞いた。

次の20年後を考えて費用賄いは出(外)氏子に求めなかったという。

時代を想定しての決断に氏子捻出の費用は増額で賄ったそうだ。

そういえば昨年の11月に訪れた伊勢本街道沿いの同市榛原檜牧に鎮座する御井(みい)神社の拝殿にゾーク事業で納められたと思われる大きな弓矢があった。それには平成8年の年号が記されていた。

当地のゾークは20年おきならば今年である。

ご存じであるかどうか尋ねた結果は・・判らないということだ。

その件で思いだされたSさんは同市榛原角柄の高龗(たかおかみ)神社のゾーク(式年造営竣工報告祭)があったという。

この年ではなく前年の平成27年11月8日に行われたそうだ。

帰宅してネットをぐぐってみたらあった。

「宇陀市メディアネット」が収録した動画である。

その祭典映像に上棟祭を祝う棟札奉献、四方祓い、散銭、散餅、棟梁祝詞、振幣の儀、巫女による棟盃の儀、大器の儀(墨壺線引き・手斧・差金)、手斧の儀、鉋の儀、槌打ちの儀(6組)があった。

槌打ちの儀における詞章は「千歳の棟、万歳の棟、永遠の棟」である。

雨天決行の祭典の様相を届けていた。

榛原角柄の高龗神社は江戸時代に九頭大明神と呼ばれていた。

それを示す灯籠に「享保元年(1717)十一月吉日」の刻印があるようだ。

古老に云い伝えや灯籠の年代記から今回で16回目のゾークが推察されると伝えていた。

榛原笠間の隣村は榛原雨師。当地においてもゾーク(造営)が行われると聞いているというのだ。

神社名は何であったのか覚えていないが、今年、それも建替え工事をしていたから近々のようだ。

その言葉に聞いたら急がねばならない。

カーナビゲーションにポイントした榛原雨師。

Sさんが指さしした地よりもまだ先を指示する。

そこは行き過ぎの同市榛原高塚に鎮座する八咫烏(やたがらす)神社だった。

まるで逆方向に案内するカーナビゲーションに面食らう。

Uターンして戻る。

この付近と思うところに着くのだが、入り道が判らない。

雨師の地区を表示する看板もない。

ここだろうとアタリをつけて細い道を登る。

軽自動車程度の車であれば楽々であるが、神社はどこであるのか・・・。

そういえば榛原笠間のSさんは山のてっぺんにあると云っていた。

下から見上げれば鳥居が見える。

そこに違いないと車を走らせる。

路肩を外せばやっかいなことになる細い道。

細心の注意を払って運転する。

到着した鳥居の右手には最近になって広げられたと思われる駐車場がある。

そこに停めて真新しい鳥居を潜る。

鳥居には扁額が、鳥居前は石塔がある。

それらを見れば神社名が判った。

式内「丹生神社」とある。

奈良県内で丹生神社といえば、奈良市丹生町の丹生神社がある。

ここより離れた遠隔地。

そこよりも、遠くない川上村や東吉野村の丹生川上神社を思い浮かべる。

それはともかく鳥居が真新しいのが不思議である。

もしかとすればゾーク(造営)はすでに終わっているのかも知れないのだ。

急峻な参道坂や階段を登っていく。

登り切ったところに拝殿や本殿があった。

拝殿の前柱や回廊手すりなどが新しい。



本拝殿は古いままの状態である。

一部修復のゾーク(造営)ではないだろうか。

拝殿の向こう側に建つのは本殿である。



鮮やかな朱塗りが美しい。

周りを囲む板塀も真新しい。

拝殿に長い脚立があることを考えれば工事中であるかもしれない。

場所や神社が判明したのでそこより下っていく。

そろそろ下れば木材関係の作業場があった。

人影が動いたので声をかけたら地元の大工さんだった。

お話を伺えば2週間後の4月3日にゾーク(造営)の式典をするようだ。

朝8時に始まる稚児行列は集落巡る。

随行する神輿もある。

雨師の集落は25戸であるが、氏子数は20戸になるそうだ。

当地に住んではいるものの身体の具合とかで氏子を辞退した家もあるらしい。

そういう状況下にあるが、大工棟梁のKさんの話しによれば一戸、一戸巡って御供餅をいただくようだ。

神輿に積んで神社に戻る。

それからゾークの式典が始まるようだ。

式典は子どもや役員が槌打ちをするという。

村の大工さんは薬師寺の納骨堂や奈良市の菅原神社の社殿などの修復に修業を積んだ宮大工だったのだ。

棟梁が行う祭典にエイエイトーの詞章もあるという。

この日の夜は正遷宮の儀式をするようだ。

それまでに神輿は神社に運ばねばならないという。

ちなみにゾークをすることが決定されたのは昨年の秋だった。

それから本格的な工事を進めてきたようだ。

神社周囲に植生する材を伐採して修材に利用した。

鳥居もそうだが、乾かすこともできなかった短期間工事。

生乾きのままで建てたそうだ。

綺麗になった石垣がある。

これもまた緊急工事だったと話す。

記念の槌や大きな弓矢もできあがった。

2週間後には20年に一度も村の一大行事が行われる。

ちなみに同神社のゾーク式典に前述した「宇陀市メディアネット」が取材に入るという。

うーーん、そういうことか。

しかもだ、地元住民のカメラマンは式典専属に記録の写真をも撮るという。

そういう状況下ではあるが、体調が良ければ取材したいものだ。

ちなみに当地の神社を尋ねる人が度々やってくるという。

その人たちは決まっていう。

こちらの神社は古来より知られている丹生神社で、川上村や東吉野村の神社よりも古く、由緒ある神社だと云うそうだ。

村の人よりも詳しい人はこうして在所の人に教えるらしい。

(H28. 3.19 SB932SH撮影)

桐山戸隠神社造営奉祝祭

2016年01月14日 09時40分05秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
20年に一度の造営奉祝祭が行われた山添村の戸隠神社。

先週の3月29日に行われた正遷宮もそうだが、雨が降るやもしれない週刊天気予報を大きく覆して晴れ間になった。

桜が咲いた絶好のお天気日和になったのだ。



天が認めた神さんのお住まい。

朱塗りの本殿が美しく眩い。

村人らが神社に登って来る前の時間帯。



神饌を予め本殿や末社に供えていたのは宮司とオトナだった。

造営奉祝祭に相応しい弓・矢は両側に建つ朱塗りの鳥居辺りに括り付けていた。



これがあれば否が応でも造営祭典を意識するのである。

奉祝祭の主役は秋のマツリにウタヨミやオドリコミをされる5人の渡り衆だ。



烏帽子被りの素襖姿で登ってきた。

桐山の全戸数は20戸。

20年に一度の造営奉祝祭に参列する外氏子が150人にもなると話していた。



受付を済ませた内・外氏子は家族揃って氏神さんに拝礼される。

その様相を参籠所から温かい眼差しでみるオトナに渡り衆。



ハレの日に相応しい絶好の天気になったので嬉しさがこみ上げてくる。

しばらくして始まった奉祝祭。



オトナに続いて渡り衆も拝殿に登る。



祝いの祭典に祓えの儀が行われる。

それから行われた氏子幣を奉献する奉幣神事。

渡り衆の弓矢の儀に続いて槌打の儀が行われた。

棟梁が幣を大きく揚げて「せんざい とー」と掛け声をかけて幣を下に降ろして打つ。

その作法に合わせて渡り衆は「おー」と云って槌を打つ。



次は「まんざい とー」。

同じように合わせてトンと槌を打つ渡り衆。

最後に「えいえい おくとー」でトンと打つ。



棟梁の親父さんであるオトナ最長老の一老が玉串を奉奠して祭典神事を終えた。

造営奉祝祭を終えたら直会に移る。

場は境内である。



奉納された弓矢が見守るなか始まった直会の場。



参籠所どころか境内にブルーシートを敷いて家から持ってきた座布団に家族それぞれが座っていく。

雨天であれば公民館と考えていたがその必要はなくなった。



造営委員長の乾杯で顔はほころび、桜が咲く場に笑顔が咲く。

県内事例のいくつかの造営を拝見してきたが、このような場面は初めて見る。

まるで「レンゾ」を思わせるような情景になった。



パック詰め料理の膳もあれば家で作った栗入りセキハンを食べる家族もいる。



直会の場では宴を盛り上げる落語(笑福亭由瓶)もあれば、布目和太鼓演奏も、だ。



参籠所屋内からもこれらを拝見して楽しんでいた。



参籠所が建つ場は山影。



満開のサイシンスミレも祝っているように思えた。



撮影を依頼された造営委員会のご厚意で取材人も膳があると運ばれたパック詰め料理。

料理の膳は東鮨調製。



どれもこれもお味がよろしく、とても美味しくいただいた。

造営奉祝祭の直会にカラオケ大会がある。

内氏子に外氏子が揃って村の祝いに余興が弾ける。

宴を〆るのは桐山の「ウタヨミ」。

秋祭に奉納される場は本殿前だ。

氏子たちは見ることもできない場である。



これだけ集まった外氏子に見ていただこうと渡り衆が披露されるが、姿は礼服になっていた。

扇子のようなモノを見ながらの「ウタヨミ」。



壱番は「やっとん とんとんとん」、「おうまへなる おうまへなる(囃子 ワッ) 鶴は鶴(囃子 オッ) 亀は亀(囃子 オッ) 鶴こそふれて舞いあそび(囃子 オッ) 鶴の子のやしゃまごはそらとうまでも 所は栄えたもうべき(囃子 ワオッ) 君が代はかねてこそ久しかるべき 住吉の(囃子 オッ) 松やにゅうどうーー」で右回りに拍手喝采。

カンニングペーパーは祝いの箸に書いてある造営記念の披露はたいそうな盛り上がりになった。

神社奥にそそり立っていた大杉は伐採されて本殿などの改築に利用された。



余った材木は箸にされた20年に一度の贈り物になった。

弐番、参番と続いて外氏子も参加して中締め。

座布団を抱えて帰る老母は顔が弾けていた。



数分後には小雨が降りだした造営奉祝祭に委員はほっと安堵した。

(H27. 4. 4 EOS40D撮影)

桐山戸隠神社造営正遷宮

2016年01月08日 09時32分17秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
20年前の平成7年3月28日に正遷宮を行っていた山添村の大字桐山。

氏神さんを祀る神社は戸隠神社だ。

現宮司は隣村の奈良市丹生町の新谷忠氏。

前々回の仮殿遷座は昭和50年2月26日。

本殿遷座は昭和50年3月28日であった。

当時の宮司は奈良市丹生町の新谷一氏。

現宮司の父親であろう。

前々回の昭和30年3月に仮殿遷座が、同年4月2日には本殿遷座された印の棟札が残されている。

当時の宮司は前儀一郎の名であった。

それより以前の明治43年12月15日に仮殿遷座。

本殿遷座は明治44年3月7日であった。

社掌の名は谷垣傳重郎であった。

こうした史料から丹生町の新谷家宮司による祭祀に移り変わったのは前回々の昭和50年辺りである。

戸隠神社には遡ること280年前の棟木が残されている。



元文二年丁巳(1737)の棟木に書いてあった神社名。

当時は九頭大明神社と呼ばれていた。

同棟木に「阿闍梨法印宥盛」の名が見られる。

かつては僧侶によって行われていた証しである。

大正四年の宮座調査によれば明治の神仏分離までは隣村の奈良市北野山の明王院住職が遷宮をしていたようだ。

奈良県東部山間では20年ごとに本殿を建て替えるゾーク(造営;式年造替)儀式を行う地域は数多い。

山添村桐山では20年目だが、同村大字広代は10年おきだという。

同じく大字菅生は12年ごとだ。

旧都祁村の上深川では18年。

山添村大字片平も同じ18年周期だ。

地域によって周期が異なるゾーク(造営)祭典には村を出た外氏子も参拝され賑やかになる。

この日は天手力男命を祀る戸隠神社の正遷宮。

翌月4日には造営奉祝祭も行われるので、是非来てほしいと造営委員長らに願われて撮影に入る。



風雨にさらされることのないように建て替えた簀屋根で覆った本殿は天手力男命を主神に春日大神も相殿する。

末社は春日若宮神社、秋葉神社、杵築神社の三社。



一の鳥居や二の鳥居など、鮮やかな朱塗りが美しい。

昨年のマツリにはまだできていなかった玉垣も綺麗になっている。



下遷宮が行われ、一旦は社務所におられた神さんはこの日の夜の正遷宮斎行によって戻られる。



正遷宮神事は、はじめに修祓、斎主一拝、仮殿開扉、仮殿祝詞奏上。

次に本殿遷座祭が行われる。

還幸準備に粛々と氏子が動く。



白い手袋をはめて白いマスクをする。

耳にかける部分はヒモロギ。

予め配られたときに調整をしていたから手際よく進められ、氏子たちは難なく境内に降りた。

社仮殿がある社務所前に設えた神隠し。

白い布で覆ったヒトガキは4人がもつ。



神遷しは社務所などすべての灯りを消す。

足元を照らすのは懐中電灯だけ。

かつては提灯だったと話す。

氏子ら一同が「ヲーー」と警蹕を発声しながら本殿下の拝殿に移動する遷幸の儀式は撮影禁ず、である。

この映像は神遷し前の状態。

神さんは写っていない。

神さんは氏子が持つ白い幕のヒトガキに隠されて遷される。

神職が伝えていた神さんを遷していく際の衣笠。

それも準備されていたが見ることはできなかった。

主神(天手力男命)、春日大神の四柱(茨城県鹿嶋市鹿島神宮/千葉県香取市香取神宮・大阪府枚岡神社<天児屋根命・比売御神>)、末社三神(春日若宮社・秋葉神社・杵築神社)も本殿に戻されてようやく点灯する。



本殿献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、御扉閉扉、斎主一拝、退下されて正遷宮を終えた。



神さんは本殿に遷られたあとの仮殿には、後日に本殿内に納められる天蓋が吊るされていた。

神事を終えた氏子たち。



いつものように御供モチを押し切り機械の大きな刃で切り分ける。

炭火に火を点けた囲炉裏でモチを焼く。



そこにはこれもまたいつものように大きなサバを焼く。

これらをいただき直会に移る。

来月の4日は「造営奉祝祭」が行われる。

(H27. 3.29 EOS40D撮影)

長谷町日吉神社造営上棟祭

2012年05月30日 06時34分22秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
縁があって拝見することになった奈良市長谷町の日吉神社造営上棟祭。

神社は急な坂道を登ったところだ。

駐車場はあるものの、そこは氏子さんの場所。

しかも、当日は上棟祭に集まる家族も大勢でいっぱいになる。

ソトウジコも居るだけに相当な人数の祭りは20年に一度の村の大祭典。

街道沿いの集落付近に停めざるを得ない。

そこからは氏子が運転する車でピストン輸送。

そこへ登場した本日の役者たち。

山添村中峯山(ちゅうぶせん)の大神楽保存会の人たちだ。

ここでお会いするとは思ってなかった神波多神社天王祭りの演者たち。

獅子舞や地増方デンデンの笛吹きをされていたSさんもいる。

日吉神社の由来は定かでないが、近江の日吉神社の大山咋神を勧請、或いは口碑によれば、紀伊の国、熊野、権現に三十三度の参拝をした一人の僧が分霊を勧請したとも伝えられている。

上棟祭を営まれる神社には鳥居を繋ぐ紅白の綱を張っていた。

境内を埋め尽くす椅子の数は相当な数量だ。

受付を済ませたウチウジコにソトウジコたちはおよそ160人。

圧倒される村の人たち。

久しぶりに会う顔と顔に会話が弾む。

美しくなった神殿に朱塗りの築地塀も映える。

そこにはこの日の祭典日が記されている五色の御幣が立ち並ぶ。

また、槌打ちの儀式で用いられる槌もある。



白く塗られた槌にはカラフルな文様がある。

海老錠の絵であろう。

槌の両側の縁には五重の楕円模様。

当日は気にもかけなかった模様だが、よくよく見れば炎のように見える。

もしかとすればだが、それは宝印ではないだろうか。

同神社には神宮寺の塔尾寺が存在していた。

明治時代には廃寺となったが、その名残を示す牛玉宝印の模様ではないだろうか。

形がとてもよく似ている。

斎主の神職は二人。

ともに先月24日に誓多林の八柱神社で上棟祭を祭典されたお二人だ。

昨年の6月にチョウナハジメの儀式が行われた日吉神社。

それから10カ月に亘って神社を建て替えられた棟梁も並ぶ。

まずは神事。

始めに修祓。

そして降神乃儀、献饌、祝詞奏上が続く。

そのあとは棟梁によって執り行われる上棟祭の儀式に移る。

始めの儀式は曳綱乃儀。綱を曳いて棟木をあげる。

神殿が永く栄えるように、また、氏子たちが氏神さんと永く結びつき、縁を深くする意味合いがある曳綱の儀式である。

斎主から大御幣を受け取る棟梁。

神殿前の鳥居下に立つ。

紅白の綱を持つのは大人衆を先頭に氏子らが続く。



「エイ エイ エイ」と掛け声をあげた棟梁は大御幣を大きく左右左の順に上方へ向けて揚げて振りおろす。

そのとき大御幣はトンと音がする。

盤木の音だ。

それを聞いた氏子たちは「オー」と応えて綱を曳く。

その際には「エイ エイ エイ」と三度発声する。

曳綱の儀式で掛けられる「エイ」は「永」。

永く栄える仕草を氏子全員で行ったのである。

次に行われたのは槌打乃儀。

曳綱によって曳き上げられた棟木。

それを納める儀式が槌打乃儀である。

槌は9本。

副斎主から受け取る男性たちは老人衆。

それぞれの持ち場に着く。



神殿を囲うように組まれた櫓に上がる人、天照皇大神社、春日神社、八幡神社、稲荷神社それぞれの末社や鳥居上に着いた。

白い槌を抱える老人衆は棟梁の掛け声に合わせて槌を打つ。

「せんざーい とー」が発声されてトンと大御幣。

「オー」と応える老人衆は軽く槌を振りおろす仕草をする。

2回目は「まんざーい とー」で3回目が「えんえーい とー」となる掛け声は「千歳 棟」、「萬歳 棟」、「永々 棟」の目出度い詞なのだ。

続いて行われる弓引乃儀。

櫓に上がり本殿の表鬼門(東北)、裏鬼門(南西)に向かって矢を放つのは棟梁だ。

天の矢、地の矢を放つ悪魔を祓う儀式である。

次も棟梁の儀式。

矢を放った天(あま)地(つち)の四方(よも)の神に餅を供える散餅(さんぺい)乃儀である。

そして、寿詞(よごと)を進上する棟梁。

神殿に向かって長谷の大神さまの名を唱えて栄え祀る。

厳かに祝いの祝詞を進上された。

その後は再び斎主が執り行う神事。

玉串奉奠、撤饌乃儀、昇神乃儀で終えた。



しばらくすると片手にササラを持って登場した赤ら顔の天狗。

もう一方の手には棒がある。

それでササラを擦りながら現れた。

奉納神楽の始まりだ。



村人たち一人、一人に寄ってきては頭の上に捧げるササラ。

怖がって隠れてしまう子供もいるが大方は頭を下げて受ける、ありがたい祓いである。

この時間は大神楽の演者が登場する間の取り方でもあるが、祓い清める時間でもある。

そうして現れた神波多神社獅子舞保存会。

前回の上棟祭にも奉納された方々だ。

それから20年。

長谷の情景は少しも変わっていないという。

左右の立ち位置には鬼が立つ。

黒面と赤面の鬼はそれぞれの色衣装を身に付けている。



長老たちは前席の特別席。

笛や太鼓の音に合わせて神殿から下ってくる。

奉納を演じる場は境内。

鞘から剣を取り出して舞う獅子舞。

演戯に見入る氏子たちの視線は獅子舞に集中する。

剣を納めた獅子舞。



天狗がちょっかいをするように眼前に迫る。

ササラを打ち鳴らして獅子と舞う。

あたかも天狗が操っているように見える獅子が動く。

最後の演技はシデを鈴を持つ獅子踊りだ。

連獅子とも呼ばれる。

こうして目出度い日の目出度い奉納を終えれば造営に際しての祝いの言葉。

委員長、来賓、外氏子らの挨拶である。



そして鏡開き。

代表者は一斉に槌を打ち下して酒樽の口を開く。

祝いの酒が配られて乾杯した。

閉会の後は20年に一度の記念写真。

村に暮らす人々の明るい顔が収められた。

宮司、大工棟梁、板金、塗装、絵師らの名が記された「奉遷宮札」が置かれた仮の社。



祭典を終えた氏子たちは神さんに向かって拝んでいる。

この夜は20時から遷宮式。

仮の社へ一時的に遷されている神さんを元のお社に戻される。

関係者だけが集まって神事を執り行ったそうだ。

(H24. 4. 8 EOS40D撮影)

誓多林八柱神社正遷宮

2012年05月14日 07時41分28秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
昼間に八柱神社の上棟祭を終えた奈良市の誓多林町。

夜は仮宮に遷されていた神さんを神殿に戻ってもらう正遷宮が行われる。

ライトアップされた神社境内が浮かび上がる。

参列する大人衆と氏子たちはテント内で見守りながら神事が始まった。

修祓を経て遷宮の儀に移った。

そのときは全ての灯りが消される。

辺りは真っ暗闇になった。

役員が照らし出す行燈の明かりだけがときおり闇夜に動く。

白いマスクをした宮司が発する「おおーー おおーー」の声だけが聞こえる静寂のなかでの遷座の儀式。

それは正遷宮(しょうせんぐう)と呼ばれるミタマウツシの儀式である。

八柱神社、三十八神社、八阪神社、宗像神社、大国神社、水神社など一つずつ神さんは遷される。

そうして全ての神さんが遷されたら氏子たちは玉垣に入って献饌、祝詞奏上、玉串奉奠で正遷宮を終えた。

11月から半年間、永い間も仮宮に納まっていた神さん。

窮屈であったろう。

明日は水神さんを遷宮されることを伝えて直会を終えた。

大人衆たちはこれからの毎月。神社の清掃に勤められる。

(H24. 3.24 EOS40D撮影)

誓多林八柱神社造営上棟祭

2012年05月13日 08時27分35秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
前日からの雨は降りやまない。

夜半には強い風が吹き荒れた。

春一番であろうか。

気象庁では立春から春分の間に初めて吹く強風を春一番と呼ぶ。

春分を過ぎた数日後はそうとは呼ばないからこの日は強い風の日としか言いようがない。

そんな雨もあがった奈良市誓多林町。

田原の里にある一つの村だ。

西の誓多林を上誓多林、東にもある誓多林は下誓多林と呼ぶ。

その真中が中誓多林の三つの村が誓多林町となる。

白砂川沿いの旧柳生街道に鎮座する八柱神社は中誓多林。

20年ぶりの造営上棟祭が行われる村の一大行事。

集落に住む人は町へ出ていくことが多い。

現在住む人は少しずつ減っているという。

村に残った人、村を出て行った人も久しぶりに20年ぶりの造営事業に顔を合わす。

社務所でゆっくり寛いでくださいのアナウンスを聞き流して会話を境内で交わす。

婚姻関係にある隣村の長谷町からもやってきた。

受付を済まして和やかに談笑する人たちで境内は膨れ上がった。

舞殿で行われる式典はすでに神饌も供えられた。

前年の11月3日に行われた「チョウナハジメ」の儀式で使用されたヤリガンナ(槍鉋)、チョウナ(手斧)、サシガネ、スミツボ、スミサシも並べられた。氏神さんに捧げられる日の丸御幣や彩りの小幣や紅白のモチもある。

そうして始まった上棟祭。

始めに修祓。

そして降神の儀、献饌、祝詞奏上と神事が続く。

そのあとは棟梁によって執り行われる上棟祭の儀式に移る。

まずは曳綱の儀。

綱を曳いて棟木をあげる。

神殿が永く栄えるように、また、氏子たちが氏神さんと永く結びつき、縁を深くする意味合いがある曳綱の儀式である。

斎主から大御幣を受け取る棟梁。

神殿前の鳥居辺りに立つ。

紅白の綱を持つのは大人衆を先頭に氏子らが続く。

「エイ エイ オー」と掛け声をあげた棟梁は大御幣を大きく上に揚げて振りおろす。

そのとき大御幣はトンと音がする。

それを聞いた氏子たちは「オー」と応えて綱を曳く。

その際には「エイ エイ エイ」と三度発声する。

これを三回繰り返す。

これが曳綱の儀式である。

「エイ」は「永」。永く栄える仕草を氏子全員で行ったのだ。

次に行われるのが槌打の儀。

曳綱によって曳き上げられた棟木。

それを納める儀式が槌打である。

白木の槌には「上」の文字がある。

また、打ち出の小槌や海老錠の絵が描かれている。

大阪羽曳野市の野々上遺跡や平城京跡など各地の遺跡からも出土している海老錠。

古来から使われてきたセキリティキーの錠前である。



それはともかく槌を打つ仕草をするのは大人衆だけだ。

神前で副斎主から受け取った長老たちは7人。65歳以上になれば大人衆と呼ばれる。

「築(つき)立つる柱は 比(こ)の大神の 大御心(おおみごころ)の 鎮也(しずめなり) 千代に八千代に 栄へゆべし 千歳棟(せんざい)・・トー」と発声する棟梁。

大きく御幣を振り上げて降ろせばトンと音がする。

それを合図に「オー」と応えて六人衆が槌を打つ。

その数はトン、トン、トンの三回。



二番目は「取揚(とりあ)ぐる 棟梁(むねはり)は 比の大神の 大御心の栄なり 萬代(よろずよ)に 八萬代(やおよろず)に 栄へゆべし 萬歳棟(まんざい)・・トー」と発声し、槌を三回打つ。

三番に「取り置ける 槍僚(そうりょう)は 比の大神の 大御心の祝なり 天地(あまち)と共に 無窮(むきゅう)に 栄へゆべし 永々棟(えいえい)・・トー」で槌を打った儀式は三回繰り返す。

続いて弓引の儀。



本殿の表鬼門、裏鬼門に向かって矢を放つ。

「エイ エイ エイ」と棟梁は放った表鬼門は上方で裏鬼門は下方に向けてだ。

天と地に向けて放つ引矢は悪魔を追い払う儀式である。

散餅(さんぺい)の儀は矢で悪魔を祓った天(あま)地(つち)の四方(よも)の神に餅を供える儀式である。



表鬼門は棟梁が、裏鬼門は造営委員長が供える。

そして棟梁が祝詞を奏上する寿詞進上(よごとしんじょう)、玉串奉奠、撤饌、昇神の儀の順で神事を終えた。

その後は、田原自治連合会、田原神社協議会、造営委員長の挨拶で締めくくられた。

その頃降りだした雨は本降りになった。

それを避けてテントの内側に入る氏子たち。

記念撮影のときはおかまいなしの土砂降りだが、大人衆に造営委員は12人、ウチ氏子は52人、ソト氏子たちが21人の大所帯集合写真は困難な状況であった。

その後も降りやまない雨。

水の恵みもほどほどと思いたいが、自然現象に行事は待ったなしだった。

雨乞いをしなくともお参りに行けば雨が降るという水の神さんは萬福寺の裏山。

農耕や生活にとっても必要な命の水は欠かせない。

(H24. 3.24 EOS40D撮影)

誓多林八柱神社造営上棟祭リハーサル

2012年05月12日 08時33分22秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
翌日の造営上棟祭を前にリハーサルをされる奈良市誓多林町の造営委員会。

昨年の11月3日に行われた「チョウナハジメ」の儀式から半年を経てようやく造営の日を迎えることになった。

尾田組の手によって新しくなった宮さんは7社。

真新しい朱塗りの神殿が美しい。

鳥居も築地塀も真っ赤だ。

翌日の本番は雨の様相が濃い。

テントを張って決行しなくてはならない。

式典は舞殿内がほとんどだが参拝者は雨除けのテント内となる。

神殿は左から水神社、八阪神社、大国主命神社、八阪神社、本社八柱神社、宗像神社、三十八神社が並ぶ。

それぞれに絵が描かれている。

氏子が書かれた絵はそれぞれの神さんを具象化した絵柄で水玉、壺、相撲、牛、神楽獅子、午、虎。

神地を囲む築地塀内には燈籠がある。

一つは「元文二年(1737)五月吉祥」とある。

境内下にある燈籠は「文政七年(1824)八月 八王子御宝前」とあった。

永正11年(1514)の創建だという八柱神社は、明治初めまでは八王子社と呼ばれていた。

さて、造営の上棟祭は20年おきに行われる祭典である。

前回は平成四年の四月十九日。「奉正遷宮札」には社老たち16人の名が記されている。

もう一枚は「献」。年寄の文字がある。

ねんにょと呼ぶのかとしよりなのか、13人の名がある。

式典は曳綱、槌打ち、引矢、散餅(さんぺい)の四儀式。

いずれも棟梁の儀式である。

曳綱は棟梁の合図で大人衆や氏子たちが揃って紅白の綱を曳く。



「エイ、エイ、エイ」の掛け声合わせて綱を曳く。

本来は棟木をそれで引き上げるのだが、誓多林は採用しなかった。

次の槌打ちは大人衆が神殿前に立つ。

棟梁が合図する。



「せんざい」・・「トー」で槌打ちトントントン。

「まんざい」・・「トー」で槌打ちトントントン。

「えいえい」・・「トー」で槌打ちトントントン。

いずれも三回である。

その次は棟梁一人で式典される引矢。

表鬼門と裏鬼門に向けて矢を射る。

最後の散餅も棟梁一人で同じように鬼門にモチを供える儀式である。

これらの確認をしたのは明日本番の撮影に際する撮り位置をどこにするかを目的としていた。

造営委員長から頼まれた儀式の記録写真の撮影だ。

氏子たちは儀式のリハーサル。

撮影者もリハーサルであったのだ。

(H24. 3.23 EOS40D撮影)

都祁南之庄国津神社20年ぶりのゾーク

2011年12月25日 09時25分52秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
春日大社では平成27年11月5日に第六十次の式年造替(ぞうたい)が行われる。

明治時代に社殿が国宝や重要文化財に指定された関係から江戸時代の造替を最後に破損に応じた修理を重ねてきた。

そのような形式で造営(ぞうえい)を繰り返す大和奈良の寺社が多い。

多いがそれは奈良の東側。西側に位置する葛城辺りではそれは行われていないそうだ。

神職が集まる会合でそのことを知った友田や針の宮司。

その宮司が管轄する神社ごく当然なように造営をしていたのでとても驚いたと話す。

葛城の笛吹神社や長尾神社の宮司がいうには「葛城は大阪寄り。東側は伊勢に近いからそれがあるのでは」と話す。

その造営の式典を大和奈良では「ゾーク」と呼ぶ人が多い。

奈良市都祁南之庄に鎮座する国津神社は20年ぶりにその造営が行われた。

「これを拝見するのは20年ぶりで足腰も弱くなった年齢になったけどありがたいことだ。」と話した老婦人。

それだけ健康でおられた証しであろう。



造営の祭典が行われるのは高く組み立てられた舞台。

本殿の屋根まで届く高さで紅白の幕が張られている。

中には大御幣が3本、鶴紋入り日ノ丸御幣は40(42)本ぐらいもある。

さらに小御幣は66本もある。

日ノ丸御幣は造営委員ら神社役員が、小御幣は村の人が祭典後に貰って帰る。

その場には紅白の餅が桶に入れられている。

これは祭典の際に撒かれる御供モチで2石4斗も搗いたという。

その桶には造営の証しがある。

裏側に墨書された文字にはその都度寄進された年月日が記されていたのであった。

祭典が始まるころには続々と集まってきた村人たち。

普段の神社では役員たちだけだが、この日は見たこともない人数で瞬く間まもなく埋まっていく。

境内は溢れて外までいっぱい。

目出度い日であるだけにキモノ姿の婦人も多い。

子供も多く境内は寿司詰め状態である。

それを見守るかのように並べられた槌が36本。

槌の両側には牛玉宝印の印であろう炎のような朱印がある。

神仏混合の名残であろうか。



この造営を記念して新たに作成された略記。

「天延二年(974年)、社の傍らに御堂を建之し、薬師、釈迦像を安置したとされる観音堂があった」と記されている。

その印しは神仏混合の時代の名残であるかも知れないと宮守たちは話す。

(H23.11.12 EOS40D撮影)

誓多林八柱神社下遷宮

2011年12月20日 08時50分33秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
手斧始めの儀式をされた奈良市誓多林の六人衆たち。

夜には氏子らも入って再び八柱神社に集まってきた。

永正11年(1514年)の創建だという八柱神社。

社殿を造営するにあたっては神さんを遷さなければならない。

いわゆるミタマウツシ(御霊遷し)をされる宮司は闇夜のなかで神事を行っていく。

祓えの儀や祝詞奏上では電燈が照らされていたが御霊を遷す際にはすべてが消燈される。

辺りは真っ暗になった。

役員が照らし出す行燈の明かりだけがときおり闇夜に動く。

白いマスクをした宮司が発する「おおーー おおーー」の声だけが聞こえる静寂のなかでの遷座の儀式。

それは下遷宮(げせんぐう)と呼ばれる儀式である。

八柱神社、三十八神社、八阪神社、宗像神社、大国神社、水神社などひとつずつ神さんが遷される。

厳かな情景となった誓多林。

静寂のなかで遷座の儀が営まれる。

神さんが遷されたあとは再び電燈が点けられた。

そして玉垣に入っていった氏子たち。

ライトはあるもののやはり暗闇だ。



これもまた厳かに献饌される。

玉串奉奠で終えた下遷宮の儀式。

本殿はここで塗り替えられるのだが、小型になる七つの末社はオーコで担がれて工房に持ち帰るそうだ。

半年後の上遷宮が営まれるまでは仮の宮に遷された。

(H23.11. 3 EOS40D撮影)