マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

窪田のアートな案山子

2017年03月24日 08時57分57秒 | 安堵町へ
この日は朝から夕方まで県内各地・各家で行われているお盆の在り方を拝見してきた。

明日香村の一角にカンピョウ干しをしていることもわかった。

商品として作っている形態ではあるが、安堵町においてもあることがわかってきた。

足で稼ぐ民俗もあるが、風物詩にもなる夏の景観にも巡り会えた。

もうないだろうと思って帰路につきかけたそのときだ。

目の前に出現した人形・・・というか案山子だ。

今にも動きそうな案山子に思わずブレーキを踏んだ。

踏んだのは私でなく運転手のKさんである。

二人とも目が輝きだした。

そうだ、思いだした。

数年前というか、つい最近の、といえば昨年。

ここら辺りを走っていたときに案山子が立っていたことを思いだした。

息子が出かける仕事先は目と鼻の先。

そこに至る道中はお米畑。

青々と稔った稲穂が輝いていた。

送迎していたときはカメラを持っていない。

写すこともなくすっかり記憶が消えていた。

そのときに見かけたときよりもさらに人間らしく見える案山子に育っていた。

その姿を隠れて撮ろうとしているカメラマン姿の男性がいる。



後ろから見れば、ほんまにそう思うぐらいデキの良い案山子。

なぜかツルが一声鳴いた。

案山子のカメラマンが狙っている被写体はツルだけでなく人物もいる。



浴衣姿で踊るカップル、それとも親子・・・・。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)
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岡崎・アラタナがある家の先祖迎え

2017年03月23日 08時09分27秒 | 安堵町へ
岡崎には地蔵尊が二つある。

場所は北に一カ所。

もう一カ所はそこより数百メートル南に下った処にある南の地蔵尊だ。

そこでは7月23日に地蔵盆が行われている。

取材は未だできていないが、いずれは出かけたいと思っている。

その南の地蔵尊が建つ集落筋からお二人の女性が向かってきた。

行先はどうやら川堤のようだ。

手には3本の線香がある。

一本は煙が出ている。

2本は火を点けていない。

先ほど北の地蔵尊で当番さんが話してくださった岡崎の先祖迎えの在り方が目の前を通る。

歩きながらであったがお声をかけさせてもらった。

取材・撮影の主旨を伝えたら承諾してくださった。

ありがたいことであるが、かつて大和郡山市内でたまたま遭遇した婦人に声をかけたら断られた。

先祖さんの迎え・送りの最中は決して口を開けて受け答えをしてはならないと云われたことがある。

そういうものだと思っていたが、二人の婦人は断らずに受けてくださった。



先祖さんを迎える場に着いたら持ってきた火の点いた線香を川堤に立てる。

柔らかい地面でないと線香を立てるのは難しいが、なんとか探りあてて立てた線香は煙が流れていく。

これが清めの線香である。

持ってきた空の線香に火を点けたご婦人たち。



二人そろってその場で手を合わせて拝む。

先祖さんを迎えた二人は自宅に戻っていく。



清めの線香は川堤に挿したままにしておいて戻っていく。

川堤は何人かの人たちがいる。

同じように清めの線香を立てて拝んでいる。



家族揃ってきている人たちもいる。

見かけた人たちは何組もいる。

北の地蔵尊の当番の婦人が云っていた時間帯は午後5時。

今まさに集中しているのである。

取材・撮影を許可してくださった婦人が云う。

我が家ではアラタナを祭っているというのだ。

なんなら見てくださっていいですよと云ってくれた。

アラタナは8月7日に祭壇を組んで祭っている。

アラタナは新仏。

しかも、である。

新仏は旦那さんだというのだ。

辛い状況であるにも関わらず、たまたま出合った私に撮ってくださいと頼まれるTさんは82歳。

一緒に先祖さんを迎えたMさんと別れてお家に向かう。

Tさんの話しによれば、8月14日は融通念仏妙法寺住職が各家にやってきて先祖供養をしてもらう。



今年は5軒もあったというアラタナがある家は8月17日にタナアゲ(棚上げ)をする。

昔は五つの小さな葉に供えていた御供。

今は大きなハスの一枚葉に盛って供える。



この日に供えた御供はサツマイモ、ナスビ、ウリ、トマト、ササゲマメ、カキ、ミカンにハクセンコウである。

その向こうにある線香立て。

先ほど川堤から大切に持ち帰った先祖さんを迎えた線香がある。

仏壇に火を点けたローソクを灯している。

小さな湯飲み茶わんは三つ。

朝、昼に白ご飯。

お皿は五杯もしていたそうだ。

8月7日は七日盆と云って妙法寺でお勤めがある。

そのときに2枚の経木に戒名を書いてもらった。



亡くなられた旦那さんの遺影を飾ったアラタナに数々のお供えがある。

ハスの葉に乗せたのは脚を付けたナスビとキュウリ。

キュウリは馬。

先祖さんは急いで戻ってきてほしいという願い。

ナスビは牛のようにノロノロを帰ってもらう。

いわゆる精霊牛・馬である。

中央にあるのは5品の御膳。

アラタナの御膳は仏飯にお茶。

ナスビの漬物にジャコと炒めたトウガラシ、ナスビのおひたしだ。

その御膳にオガラ(アサガラ)の箸も添えている。

その横に立てたのはオガラ(アサガラ)の梯子。

梯子の上には旦那さんの戒名経木が2枚。



水鉢にシキビを浸けていた。

Tさんが云うには御膳は満中陰志にでる。

本膳のときはカシワンもあればオヒラもある。

アゲやゼンマイ、シイタケの煮ものもある。

いろんなことを話してくれるTさんは1月中旬には念仏講があるという。

ここらは伊勢講もあるし六斎講もある。

六斎講の寄り合いには掛軸を掲げる。

岡崎に2枚ある掛軸だそうで、三界万霊の掛軸のようだ。

連れだって先祖さんを迎えたMさんの他、Kさんらとともに安堵町の灯芯、特産品を受け継ぐ灯芯保存会の一員として活動しているそうだ。

短時間であったがアラタナさんを祭るT家にお礼を述べて再び岡崎川の川堤に向かう。

時刻は午後6時を過ぎていた。

そこにあった数本の線香は火が点いていた。



先祖さんを迎えた痕跡である。

岡崎には先祖さんの送り迎えに持っていく線香について説明した史料がある。

それによれば1本は道中清めの線香で清浄香(しょうじょうこう)である。

これは川堤に立てた線香である。

その場で火を点けて持ち帰る線香は2本。

1本は先祖さんの迎えの線香で名を佛使香(ぶっしょうこう)と呼ぶ。

もう1本は先祖さんの食べものに添える飲食香(おんじきこう)とあった。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)
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岡崎の北地蔵尊で聞く

2017年03月22日 08時49分03秒 | 安堵町へ
東安堵の大寶寺六斎講のナナトコ参りを拝見して再び戻ってきた岡崎川の川堤。

昼間に拝見したカンピョウ干しの景観があった北の地蔵尊である。

平成19年の8月13日のことである。

夕方の4時ころに遭遇した先祖盆宵迎えがある。

場は東安堵の東の辻。

道路際の歩道のところに線香を灯して先祖さんを迎えていた。

ここ岡崎も同じような時間帯に村の人が来るのでは、と思って散策していたら堤防沿いの道端に人がおられた。

祠の前に腰を屈めた婦人は北の地蔵さんの当番さん。

7月23日の地蔵盆は南の地蔵さんで行っている。

ここは北の地蔵さん。

地蔵盆は共同で5人が当番にあたっている。



婦人がいうには今夕は岡崎川堤の南北地蔵尊辺りで各戸が先祖さんを迎えるという。

火点けに清めの線香を1本持って岡崎川に出向く。

その場で別に持ってきた2本の線香に火を点けて自宅に戻るが、清めの線香は川堤に挿したままにしておくそうだ。

迎えは午後4時ころから始める家もあるが、たいがいは午後5時辺り。

家に招いた先祖さんは翌々日の15日に戻っていく。

夕方になれば仏壇のオヒカリから移した3本の線香を迎えた川堤に挿しに行くという。

この日の朝はお寺さんが各戸に参ってくださる。

そのお寺さんは妙楽寺だと思う。

平成24年の11月9日に電話が鳴った。

自然観察会でお世話になっているHさんが融通念仏宗派の妙楽寺で行われているブゼンサンがあると話していた。

ブゼンサンは豊前さんであろうか、岡崎川を改修した豊前守溝口信勝の報恩供養があるらしいと話していたので調べにきたが、寺本堂の改修工事で関係者が見つからず断念した。

そのときに集落を歩いて見て廻ったら南の地蔵尊があった。

平成25年の7月22日に訪れた際に見た地区の行事案内。

南の地蔵盆は7月23日に行われると掲示していた。

話題を先祖さん迎え・送りに戻そう。

婦人の話しによればお供えにナンキンやカンピョウ、オアゲサンなど3品、5品、7品。

詳しく聞けなかったのでわからないが、仏壇に飾ったお供えのすべては捨てるそうだ。

捨てるのは辛いが現代はゴミ収集車。

先祖さん送りに作った弁当やオニギリも捨てていたというのはかつての在り方。

たぶんに岡崎川に捨てたと思われるのだが・・・。

そこで話を聞いていた川向うの岸に人が動いた。

なにやら手にしているのは・・と思って急いだが、人はいなくなった。

橋が架かっていた場のすぐ近くに痕跡があった。

何かを燃やしたような痕跡である。

線香の灰もあった。

今、まさに先祖さんを迎えられたのであるが、聞取りはできなかった。

先ほど話してくれた婦人が云うには橋の向こう側は出垣内。

岡崎は北、東、西、南垣内の四垣内。

出垣内を入れて五垣内になる。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)
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窪田阿土墓・大寶寺六斎講のナナトコ参り

2017年03月21日 09時04分49秒 | 安堵町へ
平成19年8月13日に取材した安堵町大寶寺六斎講のナナトコ参り。

9年ぶりに拝見いたしたく再訪した。

参られるのは六斎念仏を伝承、唱えている大寶寺六斎講である。

月に一度は大寶寺本堂で念仏の練習をされている。

一度、伺いたく夜に集まって練習されている状況を取材させてもらったことがある。

今でもそうされていると思うが確認はとっていない。

9年前に取材したときと同じ時間帯に居た。

ここで待っておれば六斎講の人たちが自転車に跨ってやってくると思われ佇んでいた。

この場は墓地。

阿土(あど)墓地は郷墓である。

在地は窪田であるが、窪田の他に東安堵や西安堵、岡崎に隣村の大和郡山市額田部南方、椎木町、さらに大和川対岸の南にある川西町の吐田、下永の共同墓地。

地域は融通念仏宗派も多いが浄土宗もある。

待っている時間が惜しい。

それならと思ったのは墓地に供える在り方だ。

阿土(あど)墓地入口に石の鳥居がある。

このような形式の墓地は珍しいが他所にもある。

私が知る範囲内では大和郡山市に2カ所。

一つは野垣内町に。

もう一つは九条墓地である。

調べてみればもっとあるかもしれない。

右手に並ぶ石仏は迎えの六地蔵。

墓地には少なからずある光景である。

夏の日差しはきつい。

燦々と浴びる日差しに汗が止まらない。



墓石前にあったお供え。

シールが見え隠れするからスーパーで買ったものだろう。

昨今はどこの店でも売っているお盆のお供え。



アサガラやコウヤマキまで売るようになった。

習俗文化まで変容していく時代になったものだと感心する。

ナスビにキュウリ、サツマイモ、サトイモ盛りにプラスチック製の花びらが一つ。



もうひとつの赤い色はホオズキだ。

さすがにホウズキは生ものだ。

いずれはこれもプラスチック製になっていくのかもしれないが、それはそれで困ったことになるが予想される。

隣にあった墓石に仏花。

菊花にコウヤマキ。

そこにもホウズキの赤い実がある。

これらのお供えはいつ供えられたのだろうか。

カラカラに乾燥したお供えに短めの箸もある。

家人の優しさを感じる先祖さん参りの御供である。

それにしてもだ。

いつまで待つのか、である。

もしかとすれば、と頭がよぎった。

以前に取材したときに云われた台詞。

夏は暑い、である。

暑さを避けて時間帯を遅くしてのでは、と思った。

念のために急行した極楽寺。

ナナトコ参りは極楽寺本堂でお念仏をしてから阿土(あど)墓地に行く。

平成19年に取材したときはいつもこうしていると話していた。

で、あれば極楽寺におられる可能性が高い。

そう思って車を走らせた。

駐車場に停めて寺に向かう。



門の前に数台の自転車がある。

自転車籠には麦わら帽子がある。

これがあることでわかった六斎講の居場所。

お寺の奥さんと話し込んでいたら長くなってしまったという。



大急ぎで自転車にまたがる講中を車で追っかける。

車よりも早い講中の自転車に追いつくのも難儀する墓地近くの民家道。

狭いので安全に留意しながらノロノロ運転。

慌てることはない。

到着した場は窪田の小字六道に位置する阿土墓である。

かつての阿土墓は地域の火葬場として利用されていた。

火屋と斎場があったが、近年に撤去された。



講中ははじめに入り口にある六斎念仏始祖長治郎の墓の前で「シンバンドー」を唱える。

鉦を叩きながらナムマイダー ユーズーネンブツ ナムマイダーと繰り返す「シンバンドー」である。

「シンバンドー」を充てる漢字は新坂東である。

次は向きを替えて北向き。



鳥居手前横にある六地蔵の前に並んで唱える。

一曲が約三分半の「シンバンドー」の鉦の音。

安土墓一帯に聞こえるように響き渡る。



鳥居を潜って北側に建つお迎え地蔵立像においても一曲。

次は墓地内を少し歩いて山積みしたような処に向かう。

そこは無縁仏。



東に向かって念仏を唱える。

そして墓地のほぼ中央に位置する六斎講墓に向かう。

その場は枯木がある処だ。



ここも同じように東に向かって唱える。

いずれも唱える念仏は「シンバンドー」。

六斎念仏始祖長治郎の墓の前から始まってここまでの一曲は四番である。

「シンバンドー」は一番から九番まである。

そのうちの四番を唱えていると講元が話す。

最後の〆は歴代の大寶寺住職を納める集合墓。



ここでは一番から九番まで、すべてを唱えあげる。

数えてみればナナトコでもない六箇所である。

かつては入り口付近にもあった無縁仏をここより移して纏められたことによって一場が減ったということである。

その場数は七つ。

それぞれに参ることからナナトコ参り。

もっと以前は、この阿土墓以外に大和郡山市椎木町、額田部町、今国府町、小林町などの周辺近隣の共同墓地の七カ所を巡っていたそうだ。

私も調査・報告を担当した『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』(奈良教育委員会2011~2013調査・報告)に七墓参りの報告がある。

講中が所持する大正11年から昭和44にかけて記帳された「算用覚書」によれば、かつて巡っていた近隣村共同墓地参りのことが記されているそうだ。

昭和恐慌や太平洋戦争の影響に若者が少なくなったことにより現在の参り方に落ち着いたとある。

こうしてナナトコ参りを終えた講中はまたもや自転車に跨って帰路につく。

戻りのコースは行きと同じだ。

先に車を走らせて田園で待つ。



疾走してくる状態をこうして撮らせてもらった。

講中がいうには10日に講中家の墓参りを済ませていたそうだ。

墓地は浄土宗派もある。

先に拝見していた干からびた先祖さんのお供えが残っているのはその名残であるようだ。

また、昔はお店が出ていたという。

タコ焼きにみたらし団子、綿菓子、飴屋もあったというぐらいに賑わいをみせていたようだ。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)
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岡崎のカンピョウ干し

2017年03月20日 08時09分51秒 | 安堵町へ
明日香村から安堵町にやってきた。

取材先は大字窪田の阿土墓。

ここで大寶寺六斎講がナナトコ参りをされる。

時間はまだまだ早い。

しばらくはここら辺りで先祖さん迎えがあるやもしれないと思って岡崎川辺りを散策する。

北の地蔵尊辺りは青々に育った稲田が広がる。

川堤から東を見ていた稲田の向こうに白いモノが見える。

風はなかったがヒラヒラ感がある白いモノはまちがいなくカンピョウ干しである。

民家のカド庭に2本の物干し竿がある。

一本は赤いテープを巻き付けている。

もう一本は竹竿のようだ。

近づいてはみるが稲田の向こう。

通じる道はない。

畦道を歩くわけにはいかない。



水をいっぱい張ってあった稲田が稔るのはまだまだ先のようだ。

断念して集落内を散策するが訪ねてみたい家が見つからない。

北の地蔵さんにオヒカリをあげていた婦人の話しによれば昔はしていたという。

今では作ることもなくなったが、ご近所で道の駅で販売するのに作っているらしいと聞いた。

たぶんにこの家のカンピョウ干しはこのことであろう。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)
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東安堵大寶寺六斎講のタカ塚参り

2015年03月16日 07時29分48秒 | 安堵町へ
六斎念仏は空也を始祖として発生したと伝えられ、県内では奈良市八島町と並んで東安堵の2地域が最も伝承・実践されている。

念仏は途絶えたものの収録したカセットテープが唱える念仏に合わせて鉦を打つ地域に奈良市池田町、大和郡山市白土町・大江町、桜井市萱森がある。

講中がお一人になったことからやむなく中断している御所市東佐味もある。

『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』によれば、かつて奈良市には八島町・池田町の他に藤原町、山町、法華寺町、佐紀東町、北椿尾町、大安寺町、富雄中、法蓮町、鹿野園町、横井町、三条町、西大寺、秋篠町、古市町、北之庄町、大池水郷、忍辱山町、西九条町、紀寺町、瓦町、藤之木町が・・・。

大和郡山市では白土町、大江町の他、今国府町、額田部北町、額田部南町、長安寺町、柏木町、上三橋町、横田町、小林町、小泉町。

近年の調査では井戸野町にもあったことが判った。

生駒市は乙田、小瀬、高山。

安堵町は東安堵の他に西安堵、岡崎。

斑鳩町は西里。

川西町は下永。

御所市は東佐味の他、西佐味、高天、伏見。五條市は小和町、久留野町、近内町、出屋敷町、居殿町、住川町、北山町、岡町・・・に講中の存在があった。

いずれも大正時代から昭和戦後まであったと伝えられている。

これら講中があったのは融通念仏宗派の地域だ。

尤も地区全戸が融通念仏宗派でなく、宗派以外の檀家もあるのだがが・・・。

平成18年、19年の取材以来、久しぶりの訪問となった東安堵の大寶寺六斎講。

東安堵の融通念仏宗檀家は103戸。

講員は昔も今も8人であるが、顔ぶれは数人が入れ替っていた。

この日は早朝から100戸余りの檀家参りをしていた。

新仏の家も参る檀家参りは休憩を挟むことなく昼過ぎに高塚にやってくる。

高塚(墳丘)と呼ばれる地は集落の南側。

西名阪国道下の信号付近になる南垣内。

地区が案内する立て看板によれば、塚に大きな栴檀の木があった。

だが、昭和28年の台風で倒れたと伝える。木の根元に大石があり、その下に昔、タカ狩りをした殿さんがタカを埋めたからタカ塚とも、或いは聖徳太子が可愛がったタカを埋めたとか・・・書いていた。

1991年(平成3年)安堵町史編纂委員会発刊『安堵町史 Vol.史料編 下巻』に『明治七年八月 鷹塚並道満墳取調書控』があるようだ。

すべての檀家参りを済ませた黒衣に袈裟姿の講中は高塚にある観音堂の前にゴザを敷いて座る。

例年、14時ぐらいになるそうだ。

予め花を立てていた観音堂。



ローソクと線香に火を点けてから始める六斎念仏。

始めようとすれば風が吹いてローソクの火が消えてしまう。

六斎鉦を叩きながら念仏を唱える。

念仏はシンバンド(新坂東)と融通回向の2曲だ。

1曲目はおよそ7分間のシンバンド(新坂東)。



打つ鉦はすべて新調されているので新しいが、享保十五年(1730)六月九日が刻印された鉦が伝わる。

続けて2曲目の融通回向を唱える。

高塚の前は公道で往来する車も多い。

ときには信号待ちの車もあった。

鉦の音を聞いて車窓から眺める人もいたが「何してんのやろ」というような感じ。

きょとんとした顔で眺めていた。この日の気温は33度。

汗びっしょりになるカンカン照り。

講中はタオルで汗をぬぐいながら念仏を唱えていた。

(H26. 8.14 EOS40D撮影)
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苗代に飽波神社の松苗

2014年11月25日 08時07分02秒 | 安堵町へ
3日の17時には見られなかった安堵町飽波神社の松苗。

一日あけた5日に行けばあった。



後日に聞いたご主人の話しによれば、配られたイロバナの前にちょんと挿したそうだ。

時間は拝見した直後だったようだ。

後方に見える山々は矢田丘陵。

風除けに立てた黄色い袋の色で印象的に映しだす。

イロバナは先月の29日に立てた。

それから数日経った今も美しく苗代田を染めている。

同家以外にも苗代の水口まつりをしているところがあるのか、調べてみた。

東安堵の田園は広い。



場所を探すには農家の人に尋ねるほうが早いと思って声をかけた。

「すみませーん。ちょっとお尋ねします。ここら辺りの苗代にイロバナを添えているお家を教えてくれませかー」。

声を掛けても振り向いてくれない。



よくよく見れば・・・農婦姿のカカシさんであっただけに、応えてくれるわけがない。

仕方なく、付近を散策すれば苗代田があった。



知人と同様にイロバナに飽波神社で祈祷された松苗を立てていた。

もう一カ所あった苗代。

そこではイロバナは見られず、松苗だけを立てていた。



知人の話しによれば、3日に苗代作りをしていたそうだ。

それぞれ家の在り方によって祭り方が違っているようだ。

(H26. 5. 5 EOS40D撮影)
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飽波神社春祭りの御供

2014年11月21日 09時21分23秒 | 安堵町へ
天理考古学・民俗学談話会聴講を終えて急行した東安堵。

この日は飽波神社で祭りがされると聞いて出かけたのである。

到着した時間帯は午後1時前。

宮さんの関係者は祭りを終えて社務所で直会をされていた。

お声をかけて、取材目的を伝えて許可を得た撮影は拝殿に奉っていた松苗である。

芯から外した松葉は二十数本。

それを束にして「飽波神社」と書いた小片を括っていた。



本数は相当な数量である。

松苗を盛った三方はもう一つある。

白モチも供えたこの日の行事名は春祭り。

別名に八十八夜祭と書いてあったが、詳しいことは聞けずじまいだった。

拝殿前に神職の名があった。

なんと、大和郡山市の小泉神社の宮司さんである。

神事を終えて、直会が始まったころには帰られたと云う。

時間帯は不定であるが、その日のうちに村各戸に配られる春祭りに祈祷された松苗・お札。受け取った各戸は苗代に立てると聞いていたが、3日の17時には見当たらなかった。

(H26. 5. 3 SB932SH撮影)
(H26. 5. 3 EOS40D撮影)
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東安堵の苗代水口祭

2014年11月19日 07時19分38秒 | 安堵町へ
早いところでは4月20日ぐらいに苗代作りをされる矢田町、月末近くになれば山田町も始まる。

あちこちでされているが、予定していた日が雨天ともなれば順延するところもある。

家族が応援しないことには苗代作りが始まらない家がほとんどのようだ。

雨が降り続けた「29日は仕方なく作業場でモミオトシをしただけや」と話していた東安堵の住民。

翌日は苗床を作って、苗箱をひとつずつ並べていた。

その様子を拝見したく、送迎の仕事を終えて直行した。

家から運んできた運搬車に積んだ苗箱は190枚。

品種は奈良産のヒノヒカリである。

改良が加えられ高品質になったそうだ。

モミオトシをした土は肥料付き、本来なら山土であるが、手間を省くために市販品。

溢さないように、そろりそろりと手渡していく。



このころの田んぼには花が見当たらない。

付近に咲いていた野の草花をあしらって撮らせてもらった。

1時間半ほどの苗箱置き作業は中腰体制の連続。

作業はドロ田を歩いては、一枚、一枚下ろしていくが、急げば波立つ。

「そんな歩き方したら苗箱の土が崩れてしまうやないか」と叱咤も入った。

鳥除けの金属ポールを立てて曲げていく。



そのころ、徐にお供え準備しはじめたのは奥さんだ。

洗い米、塩、お茶にお菓子類をお盆に盛っていく。

苗代作りをする男性は送迎仕事の相方さん。

私が出勤すれば、彼は休みで家の仕事ができるということである。

苗箱作り、苗箱落としは彼がしているが、「お供えは奥さんがしているので、詳しくはそっちに聞いとくれ」と云う。



お供えの準備ができれば、旦那とともに鳥除けポールを立てていく共同作業。

この日の苗代作りに応援していたのは旦那の兄弟。

そのうちの一人は生駒高山の「前座」の座中であった。

苗代作り取材から民俗モードになっていた。

鳥除けポールを立てたら幌を被せる。

白い幌であるが、彼は寒冷紗と呼んでいた。

苗床は水路から水を引いてヒタヒタの面一にしておく。

「根が張ってしまっては、苗箱を取り出すときにやっかいになるから」と云って、穴開きシートを一面に覆っていく。



作業が始まっておよそ2時間後、奥さんが苗代のドロ田にイロバナを立てた。

倒れないようにドロで周りを固めていく。

幌も風で飛ばないように数十カ所にドロを置いていく。

お供えはイロバナ付近に置きかけたが、お盆が濡れてしまうと云って、畦に移した。



そうして、すぐさまお菓子をばらまいた。

かっぱえびせんでしょうか、お菓子が大きかったので撒く様子がよく判る映像になった。

後日に聞いた話しによれば、かつてはキリコ(キリコアラレ)であったと云う。



塩、洗い米も同じように苗代に撒いていく。

神事のように見えるが、お祈りはすることもなく淡々と進められる。



そして、イロバナの手前に2本のローソクを立てて火を灯した。

これまで県内各地の水口祭を拝見してきたが、このような祭り方は初めて見る。

一昨年までは弟さんが住む生駒高山で苗代作りをしてきた。



その地では「けっこう見られる」と話す苗代の祭り方ではあるが、東安堵のご主人曰く、「ここではおばあさんがずっとそうしていた」と話す。

供え方、祭り方はこのような在り方であるが、拝見した東安堵では「水口祭り」という呼び名もない。

祭り方はこれで終わることもなく、まだ続きがある。

この場で撒いたお菓子を食べられるのだ。



すべての作業を終えて帰路につくころ、ご主人と生駒の弟さんだけは手を合わしていた。

お二人は「豊作の願いや」と云っていた。



ところで、5月3日の午後に飽波神社役員が各戸に、この日の午前中に奉った松苗を配られると云っていた。

受け取れば、あらためて苗代に松苗を立てると話していた。

ご主人主人が云うには「一杯飲んでからや」と云っていたことから、午前中に祈年祭若しくは御田植祭があるのではと思った。

松苗には小さな紙片もあったと云うから、お札であるかも知れない。

同家では田植えも早くしていると云う。

6月に入れば池水を利用するが、早めにされる同家の田植え時期には、まだ出水はしない。

そのような状況であることから、富雄川の水を使うと云っていた。

(H26. 4.30 EOS40D撮影)
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安堵町飽波神社なもで踊り

2009年11月17日 07時51分56秒 | 安堵町へ
県内で行われてきた雨乞いの踊りの様子は神社などに奉納された絵馬に残されている。

安堵町のなもで踊りは飽波(あくなみ)神社に伝わる宝暦六年(1756)の「なもで踊り図絵馬」にその様式を見ることができる。

衣装や鼓、団扇などの道具類、歌詞本が現存するが、明治33年の以降の歌詞本は見つかっていない。

このころが最後に行われたものではないかと推測されている。

平成7年、町商工会の提案で復活したなもで踊りは舞踊家が考案した創作踊りで、絵馬に描かれた状況を再現したという。



その当時から踊ってこられた会員はそのまま平均年齢があがった。

まるで老人会のようになったと踊り子さんは笑う。

その踊り子に孫のような女子高校生が加わった。

夏の暑いときから練習を重ねてきた。

初のお披露目は先達の動きを見つめながら、調子を取って踊っていく。



太鼓が打たれると踊り手は輪になって登場する。

善鬼が現れて雨を降らせると、早馬(はやうま)と呼ばれる鼓を持った人が加わって喜び踊る。

平成のなもで踊りが終わるころは今にも雨が降りそうな雲行き。

雨水の気配を感じる夕刻になった。

(H21.10.24 Kiss Digtal N撮影)
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