マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

指定史跡郡山城跡 日本さくら名所百選 〜 第63回 大和郡山 お城まつり 〜

2024年03月21日 07時43分35秒 | 大和郡山市へ
第63回大和郡山お城まつりの入場門が設置されたら、もうまつり気分だよ

所用に車を走らせたこの日

近鉄電車の踏切待ちに数台

午後4時前の時間帯

踏切待ちに大概の車が停止する

真上に見た「第63回 大和郡山 お城まつり


そう、ここはお城まつり会場に向かう入口

雪洞・行燈なども据えた

ただ、ここ数日間の寒さで桜のつぼみは、閉じこもり

名勝の枝垂れ桜にお城の桜も、そのうち咲くでしょう

待てば海路の日和あり・・・


期間は、3月24日(日)から4月7日(日)まで

お城の会場は終日通行止めの駐車禁止

目玉イベントの時代行列・白狐渡御は3月31日(日)・・・雨天中止

大和郡山市役所を出発する時代行列は、出陣式を経て午後2時

先に出発する白狐渡御は、午後1時半に源九郎稲荷神社から


時代行列・白狐渡御の関係上、正午の12時45分から午後4時過ぎまで行列ルートは完全通行止め

南北に走る幹線道路の藺町線は全面通行止め、不便をおかけしますが迂回協力お願いします

また、城ホールなどの駐車場は入庫もできません

※ 今回の時代行列から、公募により市内の小・中学生が武将に扮して騎乗されるようです

(R6. 3.18 SB805SH 撮影)

2021矢田の里は原風景③~雲の切れ間に燦燦と注ぐ光眩しく~

2024年02月01日 08時00分24秒 | 大和郡山市へ
朝から気持ちいいほどすっきりした青空に、気持ちも高ぶる。

パソコン作業もひと段落してからの出発。

時間は、正午前。

晴れの日に訪れたい、と思っていた矢田の里。

柿の色づきに風情ある薬師堂の情景を見たくて目指した矢田の里の原風景。

その地に、行きつく前に必ずや目に入る燻作業。

あれから田主さんはどうしているのか。

この日は、快晴であったが、東部の山々の上空は雲が広がりつつある。

天候は、今のところ佳しであるが、風の勢いは予想以上にキツイ。

北から吹く風は南へ。

左から右へぶっとぶ強風下に燻炭焼きの煙は右に水平、一直線。

その速度は、身体を立てるのも難しい。

動画で撮れば、右に一本の煙の筋が見えるが、静止画像では、ソレが消えている。

イチガンカメラであれば、シャッター速度を操作すれば煙の航跡が見える。

今日は、持ち合わせていないイチガンカメラ。

ガラホケータイがとらえた燻炭の煙は、正味静止画。

突風状況では、煙もぶっとびだ。

真っ黒に焼けた燻炭も右に飛んでいきよる。

これまでの状態は13日16日の記事を参照くだされ。

さて、目的地はここより数分で着く。

迎えの地蔵さんは三叉路の辻にいらっしゃる。



あれから4日も経てば、寄せる花に変化あり。

おそらくお家で育てたお花であろう。

今日もありがとう、と手を合わせて奥に行く。

4日前とはまったく違う青空に映える景観。



前回では、気がつかなかった景観も、ぐんと近づき視界に入ってきた。

薬師堂も青空に映える、スカッとする日に来れたのが嬉しい。



右手の柿の樹。

青空の下に稔りの色がいっぱい。

柿の実の重さが垂れる場に願う薬師参り。

こちらの薬師さんにも花を立てていた。

ときおり来て下さる村の人。

出逢えなかったが、お気持ちは拝しましたよ。



足元の位置を替えて撮った一枚も素敵な情景。

矢田の里は、ほんに原風景。



さらに引いて撮った一枚。

矢田の山々も・・・

さてと、急な里道を上って行くか。



そうだ、稲刈りを済ませていたんだ。

辺りを見渡しても見つからない。

この地に、ハザカケはしていないようだ。

ぐっと引いて撮った薬師さんへの参拝道。



真昼の時間帯では照りがキツイ。

写真を撮るなら、午前9時ころまでだろうな。

地蔵さんに、薬師さんの導きに感謝する秋の風情。

こんなに素晴らしい景観があるとは・・・

僅かな時間、雲の切れ間に燦燦と注ぐ光に眩しく・・

ちょっとした時間のお出かけに出合った場からさ・よ・な・ら。

行きしなに撮っていた突風下の燻炭焼き。

薬師撮影から戻った時間帯の田主は水を放水していた。

一連の作業を終えた行動であろう。

(R3.10.17 SB805SH 撮影

今回も出かけた奈良蘭友会第49回秋の蘭展

2024年01月24日 08時26分43秒 | 大和郡山市へ
奈良蘭友会からの案内状が届いた。

初期は存じていないが、ここ数年前から、毎度の春、秋に開催される奈良蘭友会の蘭展の案内。

会場いっぱいに広がる可憐な蘭花に、香りも拡がる蘭展。

おまけに格安な販売価格で提供する蘭類の販売もある。

何十年にも亘って、蘭に興味を捧げる気は縮小した。

降ってわいた案内状のおかげで、お安いセッコクなどを手に入れるようになった。

これまで、度々目にする地産地消売りに道の駅がある。

そう、道の駅でも日本の蘭類を売っているが、ふところと一致しないから、購入までは至らない。

指をくわえて、セッコクや風蘭を見るだけになっちまった。

云十年は、見るだけの日本の蘭類。

それが500円程度で売っていた。

何鉢も要らん。

たった一鉢でも心を癒される日本の蘭類。

と、いうワケで、今回も拝見第一、第二に和蘭買い。

春、秋の楽しみがひとつ増えたのだ。

いちばん先に目がいったその洋らん。

赤い花をつけている洋らん。



なに系・・どことなくふうらんのような葉つき。

それらよりも、目逢って仕方ない容器である。

我が家にもあるコペンハーゲン・ストックフォルム・ヘルシンキ・・・。

おんなじやー、と思わず声が出た。

我が家ではペンシル立てに利用しているが、この方、巧いことしてはるな、と感心た次第。

紫の斑点に目がびっくりしたように見える洋らん。



代表的なフォルムの洋ラン。

香りがとても素敵なカトレヤ。



ほぅ、これも木つけの洋らん。



ピンク色の花のカタチが数珠つなぎ。

見ごたえある洋らんにためいきばかり。

まぁ、見るだけでも愉しめるから、私にとってはおいしい時間だ。

ところで、蘭展会場は、大和郡山市の施設。

市の南部地域に暮らす市民の生活に供する馬司町・昭和地区公民館。

洋らんに癒された会場。

受付しているすぐ横にあった展示物。



当時、使われていた鉄製のレールがあった。

そのレールは、廃線になった天理軽便鉄道のレール。

解説に1914年(※大正3年)製、とある。

今では、当時運行していた新法隆寺駅から天理駅までの天理軽便鉄道の路線は、軌跡もなく寂しい限りであるが・・・廃線を探訪される人が稀におられる。

1915年(※大正4年)の運行からはじまり、終焉を迎えた1952年(※昭和27年)まで、地域の人たちの足だった鉄のレールが拝見できる。

ここ昭和地区公民館にいちばん近い駅は額田部駅。

現在の近鉄戦の平端駅に相当する。

鉄レールだけでなく、当時描かれた絵とセピア色の写真に解説文も添えている。

スケッチ画作者は辻本忠夫氏、画に添える写真・撮影は、氏の家族さんであろう辻本奨大氏。



実は、辻本忠夫氏が遺したスケッチ画展があった。

展示会場は、ここより西にある安堵町歴史民俗資料館


できるなら、後世に伝える歴史・文化スケッチ画集を発刊してほしかったのだが・・

話題は、蘭展に戻そう。

さてさて、本日のお買い物は・・・。

出展のランは、高額。

私のサイフに見合った頒布のランは、どれどれ・・・

散々、迷って購入にいたったランは、和蘭の「銀竜」。



昔、昔にあったけど消滅した代わりに買った800円売りの銀竜。

花がつかない葉もののラン。

もうひとつは、500円売り原種のセラトスティリス レティスクアマ ルブラ



栽培しやすい洋ランとして知られるケラトスティリス属の常緑多年草。

花は朱赤色の星形が特徴のようだ。

※ セラトスティリス レティスクアマ ルブラは、一年ももたずに枯れた。
   我が家の環境下に馴染まなかったようだ。

(R3.10.16 SB805SH 撮影)

2021矢田の里は原風景②

2024年01月20日 08時19分43秒 | 大和郡山市へ
今日、16日も矢田山の田園地を車に乗って散歩する。

3日前の13日に見た燻炭焼き。

田主さんの姿は見られない。

そのワケは・・・

見てのとおり。

燻炭焼きの山すべてが真っ黒。

全体に焼けができたんだ。

なかなか見ない状態に、この景観も撮っておいた。

この日は、方角を替えて北に向かう。

回り道になるが、矢田坐久志玉彦神社傍の里道を走行する。

道なりに巡り合えた稲刈り後の田。



なんとススキを立ててあった。

その先に見えた燻炭焼き。

相当な量をつくっていた燻炭。

さらに走った道なりの道。

距離はそんなにない。

短い距離に大きな建物。

そこは北矢田地域のスポーツ会館。



その裏側に見つかる女王・卑弥呼の里。

未だ立証はされていないが、観光協会が認めたある学者の私見・学説を取り込み、決めた卑弥呼の里。

発掘調査は、されたもの卑弥呼の里を示す明らかな事実根拠もない、あくまで想定、伝承地の里に訪れる人も・・

そこで出会った2基のススキ。



数年前に訪れた自然観察会にも出会えた稲藁干し。

三本の足を組んで立てたススキ。

矢田の里の風景にそっと寄り添い、佇んでいた。

ここ卑弥呼の里に出合った男性。

風景写真を撮りにきた、という。

先日は、なんと新潟県の糸魚川まで足を運んだそうだ。

この日は、県立民俗博物館の駐車場に停めて、ここまで歩いてきた、という。

私と、同じく里山の景観を求めて撮影。

えーとこだ、と思った景観地。

車では気がつかない散策道に見つかる。

撮る被写体は、時季をみてコスモス畑や、走る近鉄電車も・・

この地では、向こうに見える竹林。

林立する竹林の並びがいい、とさっきまで撮っていたようだ。

実は、風景写真を撮るのは手段であり、目的はリハビリ。

還暦間近に、病に伏した。

退院した今は、毎日がリハビリ運動に1万歩目標にしている、と話してくれた。

実は、私もだ。

平成27年に心臓・弁を壊して、大手術した。

リハビリ運動に丸一年かけたが、元の身体・状態に戻ることはなかった。

目標は、決めることなく歩ける範囲にとどめた。

その男性、根を詰めたら身体が動かんようになるから無理はしない。

勤めは近鉄タクシーの運転手だった。

お客さんを乗せて、ここ矢田の丘まで来ることもあったが、歩くのは初めて。

速度は、自然の景観を見つけるスピード。

病のおかげで、こうして自然を感じるようになった。

話によれば、住まいは奈良市七条・三松寺付近のようだ。

割合に近い、ご近所さんだったんだ。

男性と別れて、再び歩だした矢田の里。

遠目に見つけたあの場所にもあったススキ。



ハウス手前のススキ。

ここら辺りは、みな同じカタチのようだ。

あれは、と思って畝に降りたそこに見たことがある花が見つかった。



秋の草木。

フジバカマの花は、ご存じの方も多い「秋の七草」に数えられる中のひとつ。

名前は知っているが、花そのものは見たことがないという人も多い。

アウトドアで見つけたときのうれしさ。

そんなことから記憶に遺る花になっていく。

七草に数えられるフジバカマに特徴がある。

花のカタチとかでなく、海を渡る蝶が関係しているのだ。

自然観察会に、このフジバカマが見つかったら、間違いなく解説される蝶の旅。

その蝶こそ、アサギマダラ


そこに飛んでくれば、大ヒット。

出逢いにカメラマンは、感動するであろう。

私が、ここでずっと待つわけにはいかない。

一応、この畑にフジバカマが咲いていた状態は記録しておく。

さて、と。

腰を上げて帰り道。

垣内の集会所を迂回して車に戻ろう。

そう、時間も遅くなってきたから、お家に帰ろう。

と、ここまで登ってきたら・・・・

これは何だ。

まさか、お晦日に撒く神さんが通る砂の道か

ずっと続いている砂の道には違わないが、はて、これは何だ。

よくよく見た砂の道・・・ではなかった。

目を凝らしてみたソレはもみ殻だった。



題して、「もみ殻落としの道」。

この季節にあるあるでもない光景に出会えた。

(R3.10.16 SB805SH 撮影)

2021矢田の里は原風景①

2024年01月19日 07時41分45秒 | 大和郡山市へ
今年も、この時季になれば矢田山山麓下の田園地に出かける機会が生まれる。

今年度も開催される大和郡山市の芸術祭がある。

展示会場は、三の丸会館。

ときおり出かけては、ペダル漕ぎの器具に跨り、リハビリ兼ねた運動をしているトレーニングルームも利用できなくなる大和郡山市芸術祭。

写真、日本画、書、工芸など多彩な芸術が観覧できる。

会場は多目的利用ができる体育館。

その部屋を利用している三の丸クラブは、すべて利用できないが、代わりに利用できる施設。

今や世界的に知られるようになった全国金魚すくい選手権大会が催される会場でもある。

その会場はその名も「金魚スクエア」。

三の丸会館から移ってくる短期間利用の「金魚スクエア」に、家人の送り迎えがはじまった。

昨年に続く、この時季の矢田の里探訪。

今回もまた、季節を愉しんでいきたい。

本日、13日の行先は裏矢田寺方面。

正面からの参拝であれば車は途中まで。

降りて階段を登る気力がない。

身体的都合により、車で向かった裏矢田寺の駐車場。

自然観察会でもお世話になった駐車場。

そこから見下ろす田園の地が美しい。

今日もそのつもりに矢田行きの登坂を・・・

指標にしているお地蔵さん。

三叉路でもなく四叉路でもない、右折れカーブの地点。

普段見なかった献供の花。

どなたが、献花されたのか、存じないが手を合わせたくなり、車を一時停車した。

上に登る道は畑道。農家さんが軽トラで侵入する私道。

左に顔を向けた方角は南。



ぬぁんと土壁の小屋すぐそばに柿の実成り。

細い道は村の里道。

轍に単車が往来しているのでは、と思った。



向こうに見える勾配の強い坂道が見える。

少し歩んで見上げた柿の木。

重さ感じる枝ぶりの実成り。

ここの場から、見れば一目瞭然。

下る坂道に、登り道が向こうにある田園地に繋がる。

坂をほんの少し下って、見返した実成りの柿。

アンダーから撮ってみたが、空がやや曇り。

その状況であれば、晴天の後日に、また来るよ。

引き返し、戻りの道。



実成りの柿の左に薬師堂がある。

名もなき?お薬師さんを安置している「薬師如来」堂。

ここへ参られたら唱えてほしい薬師様へのご真言「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」

早い話が、「痛いの 痛いの 早く飛んでけ」だ。

辻の地蔵さんの導きに稔りの柿に、お薬師さんにもお詣りができた。

そうそう、本来、見たい景色を忘れていた。

行先は、駐車場。



そこから見下ろす田園カーブ。

このラインが大好きな景観。

四季巡りに来てみたいと思っているんだが、つい日々の暮らしに埋もれてしまう。

里道の向こう側にある稲作地。

手前は刈り取った状態だからわかるが、その向こうは雑草に覆われている。

田主を失った畑地は、もう戻ることはないだろう。

近場のお出かけ車乗り散歩はここまで。

戻った道に見た稲作地。



柿の実成りは見られるものの稲刈りは、まだまだのようだ

色濃くなってきた柿の実成り。



甘柿のように見えるが・・さて、さて。

さらに下った、そこに見た燻炭焼きの姿。

誘われるようにハンドルを回す。



今、はじめたばかりだ、という燻炭焼き。

煙の香りを嗅ぐのは、後日。

田主さんの撮影許可を得てシャッターをきった。

一旦は、ここを離れて自宅に戻り、クラブの終わる時間に再び戻ってくる。

(R3.10.13 SB805SH 撮影)

筒井町・北垣内東の地蔵祭り

2023年12月10日 08時12分17秒 | 大和郡山市へ
知人のNカメラマンが、FBに伝えていた「・・大和郡山市のある地区の一角。三叉路真ん中のお地蔵さま・・」

実に狭い三叉路の道に、愛車の通行に無理がある。

そう、気がつかずに通り抜けようとしたが、通行禁止だった。

その三叉路の地蔵尊に地蔵祭りをしている、とわかった。

翌日の2月1日に控えていた取材先は、大和郡山市筒井町菅田比売(すがたひめ)神社境内で行われる地区の大とんど

ご挨拶に伺った日は平成27年の1月31日。

大和郡山市にある二ノ正月とんど撮影に遁走していた。

菅田比売(すがたひめ)神社境内の大とんども二ノ正月とんどに入る伝統行事。

大和郡山に多くある二ノ正月とんどの取材日に出逢えたのが三叉路に立地している地蔵尊だった。

不思議な場所にぽつん、とあった地蔵尊に手を合わせていた女性を見た。

思わず、その姿に手持ちしていたカメラのシャッター。

急いで駆けつけて、名刺を渡し、お礼を伝えた。

なんでも、今日は辻地蔵の清掃。

月当番に掃除していたそうだ。

そこで尋ねた地蔵盆。

ここの地区では、毎年の9月1日にしている、と。

いつかは訪問したい辻の地蔵さん。

その年の7月、突然に発症した心臓の大手術。

退院したもののリハビリ運動の毎日。

今も欠かせないリハビリ運動に、あれこれしているうちにコロナ禍に突入した。

発生から、2年の経過。

未だ収まらないコロナ禍であるが、こういうときだからこそ、地蔵さんの祭りは、もしかしたらされているかもしれない。



そう、思って早めに家を出て、着いた三叉路に建つ辻の地蔵さん。

午後4時半の地蔵さんには、どなたもおられない。



ただ、提灯を掲げているから、そのうち・・

10分ほど待っていたら何人かが来られて、一輪車に載せてきた供物を置いていく。



ここは、筒井町の北垣内。

組単位で廻りしている地蔵さんの当番。

そのときの当番していたMさんらが動く。

本来なら子供もやってくれる数珠繰り。

地藏堂の前にゴザなどを敷いて行う数珠繰り。

また、法要を終えてからは、専念寺本堂にてビンゴ・じゃんけんゲーム。

帰りにお菓子をもらう子どもたちの楽しみ。

昨年に続いて、コロナ禍の地蔵祭りは法要のみの実施を決めた。

月当番も掃除をしているが、ここすぐ近くに住まいされているM家にD家の高齢婦人が、なんと、近くだからと云って毎日に掃除をしている、という。

また、この辻の地蔵さん5体は、土中から出現した、という。

えっ、と驚くが、市内の地蔵さん。

地蔵盆取材によく聞く地蔵さんの出現。

土砂崩れの山から、或いは洪水の際に、川の上流から流れついたとか・・

土中から出てきた、というのは土地の開発に道路拡幅などの工事から出没したのかもしれない。

また、出現したそれぞれの地蔵さんを、まとめて建てた地蔵堂に収めるケースも多い。

地藏堂を建てた年代はわからないが、傷んだ屋根の補修は昭和61年8月吉日とあったから、その当時は、8月23日、24日に地蔵盆を営んでおられた、と推定したが、違った。

9月1日なら、八朔行事では、と思ったがそれも違っており、以前は7月23日にしていた、という証言にすっきりした。

地蔵さんの涎掛けは、毎年に新しく掛けかける。

今は赤だが、次は白色に替えるようだ。

午後5時半ころに法要していただく浄土宗専念寺のご住職。

実は、かつて専念寺住職は尼僧であったが、亡くなられたそうだ。

後任に就いたご住職は、近い親戚筋にあたる方。



地蔵祭りの準備が整ったので、お呼びにあがる。

毎月の1日に、夕方5時から本堂で朔日詣りをしている浄土宗寺院称名山専念寺



地藏堂から南に歩いてすぐ近く。

当番の女性が案内してくれた境内にある石仏は地蔵菩薩立像。



なんでも、室町後期の作風。

高さは128cm。

像高が66cm。

肉厚彫りの地蔵立像に笠石をもつ




支度を整えたご住職を、地蔵堂まで案内に就いた当番さん。

そして、はじまった法要に、地蔵菩薩真言を唱えられる。

毎月の朔日詣りもしている今日の当番の女性とMさん。

その日は、朝5時に出かけて参るようだ。



コロナ禍にマスクを着用し、手を合わせていた。

地蔵堂を建てた地に生育した大きな樹木はモチノキ。

毎年に赤い実をつけるようだ。



十数分の法要時に、この通りを往来する人たち。

車に単車、大型バイク、自転車で往来する人多いが未だに衝突事故など見たことがない、という。

たしかにそれほど多い交通量に散歩する人もおれば、白い杖をついて行き来する人たちの姿も見られた生活道路。



かつては賽銭代わりに白いおにぎり飯と赤飯(赤ごはんかも・・)を供えていた人の姿もあったそうだ。

元々は賽銭という考え方がなく、昔の人は米の方が大事と考えて、ご飯を供えていたのであろう。

法要を終えて解散。



今日は、雨が降らんでよかった、といいながら、あと片付けにも忙しい当番役に、念のため聞き取りした砂の道の習俗。

と、いうのも筒井町に住んでいる何人かの人から、教えてもらった砂の道は、してたで・・・

ずいぶん前のことであるが、この日の当番者だけがしていたという。

砂はどこから運んだかわからないが、家の前の道から、家の庭、玄関前まで撒いた砂の道は、氏神さんの菅田比売(すがたひめ)の神さんが通る道でしょ、と話してくれた。

(H27. 1.31 EOS7D 撮影)
( R3. 9. 1 SB805SH/EOS7D 撮影)

郡山城跡入口付近・コロナ禍の地蔵盆

2023年10月27日 08時24分12秒 | 大和郡山市へ
ほぼ毎日出かける市の施設。

車を走らせる往路は、毎度同じコース。

奈良県大和郡山市・郡山城跡を通り抜ける石畳道。

大きな石垣をぐぐっと廻ったそこは近鉄電車が通過する踏切。

線路を渡れば、その右手にある大きな地蔵堂。

内部には、天正四年(1576)の記銘が見られる双頭石仏地蔵尊を安置している。

横断歩道に人待ちなし、南北を走る車も往来無しを確認して右折れしよう、としたそのとき。



左手にある地蔵祠。

地蔵盆に吊るす提灯が一つ、二つ、三つ・・・。

水平に架けた竿に提灯は9張。

箱もの御供もあれば茄子、人参、ピーマン・・。

昨年も同一日に拝見していた地蔵盆。



コロナ禍にお供えだけをしていたが、提灯も御供も昨年より数が増えちょるがな。

(R3. 8.23 SB805SH撮影)
(R2. 8.23 SB805SH撮影)

スカッとな、大空の下に・・四方を展望する郡山城跡

2023年10月07日 08時26分05秒 | 大和郡山市へ
スカッとジャパンじゃなく、すっきりスカッとな、青空にぽっかり浮かぶ白い雲。

自宅を出た午後5時半。

西は、山焼きの地の春日山から、天理の龍王山。

歴史上有名な語りの山から、その向こうは東吉野。

南を向けば、吉野の山々に天川まで見通せるくらい。

東南の方角を見たら、十津川まではいかなくとも、旧西吉野の山々に金剛山、葛城山が・・・

そして、矢田山、生駒山も・・

くっきり、はっきり。

稜線どころか、山麓に植生する木々の状況まではっきり見える。

双眼鏡で見たわけでなく、肉眼で見えた緑なす山々。

一年に、一度、二度、三度くらいでしょうか。

おそらく10号台風の影響であろう、と思われる。



時間があれば、城下町の大和郡山を。

綺麗に整備された城跡の展望台から見る、四方を山々に囲まれる奈良の位置がわかる。



大和の山々から、いつ攻めて来るやもしれない戦国時代に築造した郡山城。

展望台の昔は、敵の動静を知る場であった。



夜は、夜に午後8時ころから30分間。

あっちこちから聞こえてきた花火の音に誘われた地域住民。

高台を走る大和中央道の歩道に30人ほどが・・。

子どもたちとともに、みなはパジャマ姿の恰好で、見上げる大玉打ち上げの情景を愉しんでいた。

遮る建物すくない、富雄川の方が、よく見えるだろうと移動したが、着いたとたんに終わった。

(R3. 8. 7 SB805SH撮影)

コロナ感染対策に締めていた大和郡山観光VGC観光案内所を再び開放

2023年07月19日 07時03分05秒 | 大和郡山市へ
先月の5月23日にも訪れていた大和郡山観光VGC観光案内所

常時、開放しているのではなく、大和郡山観光VGC(ボランテイアガイドクラブ)が、滞在される火・木曜に日曜日と祝日。滞在時間は、午前10時から午後3時まで

所在地は、旧城下町の一角。

大和郡山市今井町。

南北を貫く藺町線(※いのまちせん)・中央に立地している。歴史的に使命を果たした由緒ある「箱本十三町(※はこもとじゅうさんちょう)」。

箱本」は、江戸時代の郡山藩・郡山町中に設けた町人の自治組織。

地子(※土地に対する税金)免除の特権を与えられた本町・今井町・奈良町(ならまち)・藺町(いのまち)・柳町(やなぎまち)・堺町(さかいまち)・茶町(ちゃまち)・豆腐町(とうふまち)・魚塩町(うおまち/しおまち)・材木町((ざいもくちょう)・雑穀町(ざこくまち)・綿町(わたまち)・紺屋町(こんやまち)の箱本十三町。城下町の中心部。

本町、魚塩町からはじまった城下町形成。

全国津々浦々にある城下町も同じような町名で形成されている。

のちに箱本組織が地区拡大したため、最初の組織を内町十三町と呼び、新たに追加組織された地区組織を外町と称した。

ちなみに、車町蛭子神社の十日えびす行事を取材した際に、拝見した重要古文書

天正拾九年(1591)十一月十五日のお定書『車町家持定之事』に、極めて重要なキーワードを見つけた。

車町は、後に免除となった外町のひとつ。

その件、「天正15年11月30日に倒れ、天正19年1月22日死去後に中納言こと秀保が城主になる時代に、地租を免除した」とあった。

いわゆる箱本制度である、箱本十三町・地子免除の一端を示す重要な古文書である。

『車町家(※本家家持16軒)約定之事』については「大和郡山城ばーずあい ―図説 城郭と城下町― 城下町百話【町 寺社地】上」が詳しいので、参照されたい。

その名称を冠に付与した「箱本十三町案内所」。

HPに大和郡山市内、特に城下町を中心に巡る観光マップを装備している。

来訪される場合は、目的に見合ったマップ資料を選び、足を運んでいただきたいが、予めダウンロードし、目的地のルートを頭に描いておけば、より効果的だが、旧城下町内は、一方通行が多く、不慣れな方は迷うこと度々。

12年前まで勤めていた市営の施設、市民交流館に電話が鳴った。

「ここがどこだかわからない。どこをどういけば・・・いいのでしょうか」など、問い合わせ電話がしょっちゅうかかった。

一方通行を逆進していた車内から求める電話。

当時のカーナビの精度もあるが、難儀される方のほとんどが、カーナビの指図を無視して走行していたようだ。

現在は、スマホ情報を活用されるのが、いちばんであろう。

マップを参考に、予めポイントを決め、駐車場の位置も確認しておくことも大事だろう。

なお、もっと、もっと詳しく知りたい方は、「大和郡山ばーずあい」が最も詳しい。

情報の多さ、さまざまな角度、視点から提供してくださった「大和郡山ばーずあい」に感謝するしかない。

観光案内所が開放されたなら、隣接する付属施設の「語り部の館」も入室できるのでは、と思って出かけた。

訪れた観光案内所。入室し、ご挨拶したらお久しぶり。

なんと、平成25年12月に取材した元藩医家の神農さん行事の家族さんだった。

第5期大和郡山観光VGCの一員であるKさん。

雑穀町にお住まいするお家行事。

年中行事は数々あり、いずれも丁寧にされている。その一部も取材させていただいた。

年末・大晦日は三宝飾り

正月の元日に行われるサンニンサン。

「サンニンサン」と呼んでいるお家の神さんに正月迎えの三膳御供。

8月のお盆は、先祖迎え

懐かしい話題に盛り上がり。

今日の来訪目的は、「語り部の館」に展示している鍛冶町発掘調査報告である。

語り部の会が、管理する報告資料を展示している。

本日は、代表不在であったが、応対してくれた8期性の男性が、開錠。



入館させてもらった。

2階の会場いっぱいに拡げた展示物品は、鍛冶町発掘調査に出土した土管などを解説したパネルだ。

都市計画道路建設に伴う発掘調査。

その場は、城下町を取り囲んでいる外堀の内側辺りの東南角地。

郡山城と城下町を取り囲んでいた外堀跡付近の発掘調査で、外堀の内側に築かれていた近世の土塁(御土居(おどい))や、素焼きの土管をつないだ排水施設が見つかったと発表した。

排水施設は現在も機能しており、市は「当時の土木技術や土管の製作技術の優秀さを示している」と評価している。

都市計画道路の建設に伴う発掘調査。

現場は外堀の東端部分にあたり、調査面積は計約240平方メートル。

土塁は幅約15メートル~約18メートル、高さは約2.5メートルあり、出土品などから17世紀前半に築造され、18世紀前半に大がかりな修復が行われた可能性が高いという。



土管をつないだ排水管は2カ所で確認され、土塁の中を直角に貫くように通した暗渠(あんきょ)。

土管は常滑焼(愛知県)とみられ、江戸後期~幕末に製造されたもの。

2カ所とも造り替えた形跡があり、使われなくなった古い方の排水管が残っていた。

土管1本の長さは約49~64ンチ、直径は約14~19センチ。

一部は漏水防止のため、土管の継ぎ目部分を漆喰で固めてあった。

排水管は、城下町の家々の生活排水などを外堀に流すためのものだが、現在も雨水が流れていることが分かっている。

市都市計画課文化財保存活用係は「排水施設が、およそ160年から200年もの間、現役で機能しているのは驚き。土塁の状態も良く、郡山藩がちゃんと維持管理をしていたのだろう」としている。

旧郡山城下の東端(※同市北鍛冶町)で、江戸時代後期から幕末ごろ(約200~160年前)に土塁の下に敷設された地下排水施設の土管が見つかったと発表した。

愛知県の常滑焼とみられ、今でも排水機能を果たしている現役の土管だった。

市は「当時の土木技術や土管製作技術の優秀さを示す貴重な資料」と評価し、現地説明会も開いたそうだ。

道路整備に伴う発掘調査で確認された外堀に水を流す地下水路(※暗きょ)があると想定し、調査を進めた。



大和郡山市都市計画課文化財保存活用係が郡山城御土居から発掘調査した江戸後期・幕末のころに製作した2本(赤焼きと真焼き)の「常滑焼土管」現物を展示していた。

その他、資料として「地籍図で見る大正時代の鍛冶町」、「戦後の鍛冶町の変遷」、「絵図で見る江戸時代の鍛冶町」、「郡山城御土居の発掘調査」、「春日若宮神社と鍛冶商人(春日若宮神社の遷座/鍛冶町と春日若宮神社のつながり)」、「鍛冶町について(鍛冶町の位置/鍛冶町に住んだ人/近代以降の鍛冶町)」、「鍛冶町大門の構造」を一枚、一枚を拝見。

















自ずとわかってくる城下町における鍛冶町の役割が見えてくる。

なお、発掘調査は、鍛冶町にある年中行事には触れていない。

数年間に亘って調査した、鍛冶町と関係が深い外堀外、東側の地になる野垣内町に鎮座する春日若宮神社の年中行事。

両町に氏子総代が就き、行事を執行する両町の鎮守社である。

一部ではあるが、年中行事は、私が取材した伝統的行事をここにリンクしておく。

その一つに、大和郡山市内に今も継承している大晦日の夕刻までに行われる砂の道習俗がある。

県内においても、数少なくなった貴重な習俗である。

その砂の道習俗を担っているのは、北、中、南の鍛冶町自治会の人たち。

そう、野垣内町に住まいする人たちでなく、鍛冶町に住む鍛冶町自治会の人たちである。

その砂撒きをする前日の晦日は、しめ縄かけ

中央に、伊勢海老を掲げるのも珍しい。

また、かつては多くの鍛冶仕事をしていた鍛冶師が住まう町。

近年にはたった1軒になった、という鍛冶町。

県内事例では珍しく、鍛冶師の祭り行事にフイゴ(※鞴)の祭りがあったようだ。

今は、完全に廃れてしまったが、私が取材した平成21年12月8日のフイゴの日。

鞴の文字も消えていたが、崇める「正一位八要姫稲荷大明神」の幟を立てる

鍛冶師の儀礼は消え、幟旗だけを立てるようにしたのだろう。

参考までに挙げておくが、12月8日は、鍛冶師のまつり

仕事休み、感謝する日でもある。

今も現役の野鍛冶師が行うフイゴの祭りを参照していただきたい。

尤も、城下町での暮らしに必要な刃ものは、包丁、鋏などの生活用具に江戸時代のころからは、戦乱のない時代の武士が携行する刀。

農の営みは、城下町の外。

引き合いは多かった、と思われるのだ。

ちなみに、春日若宮神社の行事取材は、平成19年10月12日に行われた秋祭からはじまった。

さて、発掘調査である。



中には大量に出土した生活用具。

実用的に使われていた絵付け茶碗にプリント茶碗。



子供の遊ぶ道具のおはじきにサイコロとか陶製のままごと道具もある。

他に、目的がわかる稲荷社に用いられたと推定できる狐形土製品。



金属製の蓋とか、さまざまな文様のタイル。



多数のガラス製品にゴム栓付き目薬容器。





白磁の祝い杯は春日若宮神社の正遷宮記念に配布されたもの。

地区名の野垣内・三鍛冶(※北・中・南鍛冶)の記銘があった。

この記念杯は、他の資料から大正十三年(1924)とわかっている。

また、資料に鍛冶町に暮らす職人、商人らの諸職。

※鍛冶屋・鉄屋・金物屋・綿屋・壺屋・油屋・米屋・豆腐屋・畳屋などもあった。



実際、郡山城下町の諸職人は63種にもなるそうだ。

会場から階段を下りたところにも展示物を並べていたが、これらはどうやら、直接関係するものではなかった。

滞在した時間帯は、午後12時半から1時過ぎ。

短時間であったが有意義な資料を拝見。

室内は明るくなく、暗いがため、私のガラホ携帯画像では、ここまで・・・

ご容赦願いたい。

(R3. 6.20 SB805SH撮影)

大和郡山観光VGC観光案内所に珍しい植物“金魚葉椿”

2023年06月17日 07時40分13秒 | 大和郡山市へ
FBに紹介していた大和郡山観光VGC観光案内所。

先月の4月1日から展示が始まった「近世・近代の鍛冶町 ~御土居を背に住んだ人々~」企画展。

始まってから、ずいぶん日にちが経過した。

拝見したい、したい、と思いつつも足が向かわない。

えいやっ、と気持ちをかえて車を走らせた。

施設建物に掲示していた件の企画展。

扉の締まった施設に、駐車場も閉めていた。

そうか、そういうことか。



よく見たそこに貼ってあった「コロナ感染拡大防止のため、案内所を休所します」、とあった。

奈良県緊急対処措置に符丁し、5月末まで営業停止措置である。

企画展ポスターには最終期日の記載はないが、コロナ対策の休所については、「5月末日迄」とある。

6月になれば、企画展は再開されるのだろうか。

仕方ない、といえばそれまでだが、ここに来たなら、もう一つ紹介していた珍しい植物“金魚葉椿”を観ておこう。



椿の木であるが、葉っぱの形がまるで金魚のような姿。

型紙に抜いたような形の金魚姿の椿の葉。



ネットによれば「錦魚葉椿/金魚葉椿(きんぎょば つばき)は、変わり葉椿の代表種」、「江戸時代、突然変異によって生まれたヤブツバキの園芸品種」、「葉の先端が金魚の尾鰭のように、三つに分かれたユニークな形の品種」、「花は、中輪。桃紅色の一重」、「苗木が小さいうちは、金魚葉の出現率は低いが、木が大きるにつれ出現率は高くなる」、とあった。

(R3. 5.23 SB805SH撮影)