マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

外川町八幡神社の神さんが通らはる参道の砂の道

2017年10月05日 08時45分56秒 | 大和郡山市へ
天理市の檜垣町から同市の遠田町を経て田原本町の唐古八田などの正月飾り状況。

参拝を兼ねて拝見してきた。

福粥」から始まって、大和郡山市の民家の砂撒き状況から、天理市、田原本町のごく一部も調査してきた。

ラストは住まいする大和郡山市。

本日の〆を飾るに相応しいと思って選んだ地は大和郡山市の外川町。

鎮座する八幡神社に砂の道が現存していたことを知ったのは平成25年の1月2日だった。

あれから4年も経った。

消滅している可能性も考えられるし、継続していることも・・。

それを現認しておきたい、と自宅に戻る途中にある外川町。

時間はたっぷりの余裕綽々で立ち寄った八幡神社

この年もされていた砂の道があった。

鳥居のところから一直線。

参拝に登る階段も一直線の砂の道が続く。



登っていけば直会殿の間を通って本社殿がある拝殿前までに繋がる砂の道はここで右折れして方向を替える。



その奥に行けばまたもや直角折れ。



その先は石段も据えている小社がある。

その小社はコミヤ(小宮)と呼んでいるようだが、調べてみれば大鷦(しょう)鷯(りょう)社ではないだろうか。

大鷦鷯(おおさざきのみこと)を祀る、いわゆる若宮さんであろう。

直会殿に数々の絵馬がある。



一枚は明治四拾貳年九月三日に「當村」名で寄進された外川町八幡神社を配置した様相である。

もう一枚は色落ち甚だしく一部は擦れた絵馬であるが、とても興味深い姿を表現していた。

「奉納 御神前 □□天□(たぶん神武天皇であろう)即位紀元貳千五百・・蔵」であろうか。

そうであれば明治時代初期の5年、或いは6年辺りが相当するであろう。



右手に居る女性と思われる人は筵に座ってなにやら作業をしている。

お米の選別であろうか。問題は左に立っている男性の姿だ。

山で伐ってきた薪を担ぐ男性の姿の像を見たことがある。

それがあったのは高取町の丹生谷である。

因光寺境内に建つ清九郎会館の間に建つ銅像は好好人で名高い大和清九郎。

そうであれば、右手の女性は母親である。

その絵馬に奉納したと思われる人の名がある。

判読し難いが「當村氏子 辻本清太郎」のようだ。

その人物は外川町八幡神社と、どのような関係があったのか知る由もないが、何故に大和清九郎の姿を絵馬にしたのか、できるならご本人の“思い”を聞いてみたいものだ。

大和清九郎に関しては社会人だったころの上司であるKさんが纏めた史料があるので、そちらを参考にしていただきたい。

これらの貴重な絵馬を拝見していたときだ。



階段を登ってくる足音が聞こえてきた。

お名前を伺えば氏子のSさん。

長年に亘って宮役員を務めているという。

役員は10人。

仰せつかって15年も役員をしているSさんは一番の年寄りになったという。

砂の道造りは12月25日の日曜日に一度したが、大雨で流れてしまったそうだ。

その関係もあるが、例年は大晦日の31日。

午後のはじめに神社・境内の清掃をし終えてから砂の道をするそうだ。

かつての砂の採取地は神社下にある富雄川。

護岸工事をしていない時代である。

川に下りて川砂を掬った。

それをモッコに入れて担いで運んでいたという思い出はSさんが子供のころ。

鮒もタナゴもいっぱい泳いでいた護岸工事をしてからは川の様相はすっかり変わって綺麗な砂が採れなくなるし、魚も消えた。

そういうこともあって今ではスーパーで売っている川砂を用いている。

砂袋は4袋。

量は多い。

外川町の宮役員は1~6組の選抜。

3年任期の宮役員であるが、Sさんは7組。

ずっと継続、継続を引退するまでが任期。

もう75歳にもなったというSさんは相談役みたいなものだという。

Sさんがいうには砂の道は神さんが歩く道。

「八幡神社の神さんが通らはる参道の砂の道だから、踏んだらあかん」という。

盛り砂は神さんが鎮座する。

鳥居とかにも盛り砂するのは神さんを迎えて降りてきてもらう門松。

今では極端に小さくなった松一品になってしまったという。

今では高台に鎮座する八幡神社であるが、かつては富雄川にもっと近い農協辺りの地であった。

いつの時代かわからないが、富雄川の氾濫に見舞われて神社は流された。

そういう大水害の影響は甚だしく、高台に遷したという。

田中町に堤防を作ったのはその関係であるという。

富雄川の決壊によって神社を遷したというのは田中町の氏子らも話していた。

その氾濫年は延宝年間(1673~)のようだ。

氾濫の影響を受けて神社を遷した地域は外川町、田中町の他、隣村の小南町、池之内町、満願寺町にもおよんだ。

氾濫の影響が広範囲に亘ったということだ。

ちなみに外川町には特定家による宮座がある。

奈良県庁文書の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』資料によれば、外川町は8戸・八人衆の宮座であったが、時代は不明だが、20戸に膨れ上がった。

かつては八人衆が一般座衆の上位にあった。

15歳で入座した宮座とある。

Sさんの話しによれば、12~13軒の宮座は今も継承しており、座の営みはあるが、神社行事を務めることはないそうだ。

続けて話す外川町の年中行事。

昔は1月30日にしていた大トンドがある。

小正月の1月15日に移ったが、サラリーマン構成が多くなった今では第三日曜日の午後2時から3時。

かつては富雄川の河川敷であったが、現在は郡山西中学校向かいのゲートボール場である。

そこで行われる大トンドに振る舞いのぜんざいがあるというから一度は訪れてみたい。

神社行事の八朔祭は9月1日であったが今は第一日曜日。

かつては10月1日だった本宮(ほんぐう)祭も日程が替わって第一土曜日。

午後2時の神事に巫女さんが参席される。

今では三郷町に住む坂本家であったが、ほんの少し前までは大和郡山市若槻町に住む加奥家だった。

それ以前はといえば、村の女児が務めて神楽を舞っていたという。

その後の12月1日の新嘗祭も日程を変更されて第一日曜日。

時間帯も午後3時から2時に移ったというから、3行事すべてが午後2時である。

覚えやすくなった行事日・時間は記憶しやすい。

外川町の座中の一人であったYさん。

座の営みも教えてくださっていたが、平成22年の2月4日に他界されたこともあって行事取材は遠ざかっていた。

この日にお会いしたSさんにもそういうことがあって遠慮するようになったといえば、是非来ていただきたいと云ってくれた。

ありがたいお言葉に、できうる限り、機会を設けて寄せてもらうことにした。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)
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アスファルト舗装の砂道

2017年09月30日 10時07分23秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市に砂撒き風習が残されている。

今でも実施されている箇所は5カ所。

いずれも神社である。

これまで何人かの人からは「家の砂撒きをしていた」と聞いていたが、随分と前のこと。

神社付近は継承されてきたが、地区の各家がしていた砂撒きは消えたと思っていた。

神社の神さんから家に招き入れる砂撒きは砂の道。

家から家へと砂の道で繋がる。

集落全戸を見守るかのような砂の道はひっそりとどこかに残っていたら・・・あった。

この日は正月二日。

大晦日に砂撒きをしたとすれば2日目。

砂の量はそれほど多くはないが、撒いたとされる痕跡がある。

直線状に結ばれた砂の道が数本ある。

旧家と思われる建物の前の道はアスファルト舗装。



他の舗装路にはなかった痕跡である。

なんとなく、足で蹴り散らしたかのような痕跡もある。

たぶんにここであろうと思ってやってきた地は大和郡山市の筒井町。

今でも当地にお住まいの市職員は「昔は家の前の道から砂を撒いて砂の道を繋いでいた」というのはここでないかもしれないが、あるにはあったのだ。

なぜにここにあるのか。

お正月の三が日に家を訪ねるのは遠慮したいと思ったからはっきりとしたことはわからないが、あるにはあった。

ようやく見つかったここの砂の道。

知ったのは平成24年である。

あるブログに載っていた砂の道の在り方にはびっくりしたものだ。

当然ながら在所地は記載することのない個人ブログである。

さまざまな記事がある中に、ここはもしかとすれば大和郡山市内であるように思えた事項があった。

その方とは偶然にも奈良市称名寺の珠光忌の日にお会いした。

住職に著書の『奈良大和路の年中行事』を献本しに来たときだった。

見知らぬ女性が訪ねておられた。

要件はご住職にブログ掲載の許可願いである。

その時点ではきちんとした人だと思っていた。

その後にその経緯をアップされたブロガーさんの記事を拝読して、ご挨拶をネット経由で自己紹介をさせてもらったことを思い出す。

そのブロガーさんが住まいすると書きたいとところだが、書くわけにもいかないので町名を伏せて紹介しておくアスファルト舗装の砂の道。

今年の年末前には訪ねてみたい。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)
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観音寺町・葉本家の正月の福粥

2017年09月29日 09時15分32秒 | 大和郡山市へ
正月二日に「福粥(ふくがゆ)」を取材させていただいた葉本家。

「福粥」はお家の行事。

しかも正月早々の取材のお願いに伺ったのは昨年末の12月29日だった。

呼び鈴を押して玄関から出てこられたご主人。

時期も近づいてきたのでお電話をしようと思っていた、という。

そろそろ来られるのでは、と思っていたそうだ。

正月二日に「福粥」をしていると聞いたのは、平成27年の11月28日だった。

その3年前の3月のことである。

「大和な雛まつり」会場の一つにある葉本邸に訪れて取材させてもらった。

葉本家は、それこそ大和な歴史を紡いでこられた旧家である。

蔵にあったお宝もんを整理されて展示されている。

それは葉本家の暮らしの歴史でもある。

再び訪れた平成27年。

そのときにお母さんと娘さんがぽつりと口から洩れた「フクガユ」である。

正月二日に供える「フクガユ」は正月祝いの料理。

朱塗りの椀の盛って供えると話していた。

「フクガユ」の件を初めて知った書誌がある。

帯解郷土研究会が昭和28年4月1日に発行、昭和56年7月10日に再販、平成4年4月に加筆されて再編した『語りつごう、くらしの文化 帯解町郷土誌』である。

奈良市の帯解地区(田中町・山村町・(下)山町・池田町・今市町・窪之庄町・本町・柴屋町)における町内の年中行事から生活行事の文化面から歴史をとらえた文化史にかつての民俗が書かれてあった。

中断されて今では見られない行事記録もある。

興味深く読んだ行事は類事例として大いに活用している。

その『帯解町郷土誌』によれば、「福粥(福沸かし)」を「正月二日は福沸かしの日である。雑煮の他に、朝、小豆粥を食べるが、この準備も元旦と同じように、その家の主人がする習慣がある。然(しか)し最近では少なくなった。雑煮と同じように餅を入れる家もあるが、だいたい茶粥に小豆を入れて炊く。神棚や先祖さんにも供える」と解説してあった。

葉本家の二人の婦人が話していたのは、このことであろう。

記事にあるように、昭和28年ころの帯解界隈では、すでに“最近では少なくなった”状況になっていたのである。

その件を覚えていたから、思わず取材を願った次第である。

その経緯もつらつらとブログに書かせてもらった。

その文面を読んでいたご主人が気にされていたのだ。

訪問したのは平成27年の11月28日。

記事を公開したのは平成28年の8月13日だったから、その年の1月2日は取材に至っていない。

本年はたぶんに来られると察知されたご主人は電話で伝えようとしていたところに私はお願いにあがったというわけだ。

ご承諾をいただいてありがたく正月二日にお年賀を持参して訪問する。

早速、上がらせてもらってご先祖さんを祭る仏壇に供えている「福粥」を拝見する。



その仏壇のことを「ごぜんさん」と呼んでいたのが興味深い。

「ごぜんさん」を充てる漢字は「御前さん」である。

「御前さん」は、つまりご先祖さん。



一代前の大おばあさんは福粥を供えていたという話しの展開から考えて、敬意を表して、仏壇におられるご先祖さんを、「ごぜんさん」と呼んでいるような気がした。

仏壇正面に阿弥陀如来立像。

その段に2段重ねのコモチにダイダイ(ミカンかも)を供えている。

それより最下段に一杯の福粥を供えている。

前夜から小豆にお米を水に浸していた。

午前中から夕刻にかけて、少し柔らかくなったところで炊く。

お米は小豆色に染まる。

小豆の粒も潰れずに炊くのが難しいと、他所で聞いたことがある。

正月に「福」をいただく「福粥」。

朝一番のお祝いに家族揃って「福粥」をいただいた、という。

「福粥」は脚のある御膳に載せた。

盛った椀は紋があるそうだ。

男は朱塗りの椀。

女性は黒塗りの椀に盛る。

家の雑煮は朱塗りの椀に盛る。

雑煮は白味噌仕立て。

昔は主人のお爺さんが竃に火を点けて薪をくべた。

一番の年寄りである家長が朝6時から作っていた雑煮を思い出された。

昭和元年、京都で生まれ育ったお母さんは父親が京都で、母親は奈良。

東京暮らしもあった。

正月につきもののクワイにボウダラはなかったという。

先に話題提供してくれた椀にあった紋は京都の里の紋のようである。

そこで配膳してくださった正月の特別接待膳。

葉本家のお味をいただいてくださいと数々の品を盛ってくれた。



右上の福粥は仏壇の先祖さんに供えたものと同じ。

その左上の小椀は黒豆の煮たもの。

飴の蜜に浸して京都風の砂糖水で煮た黒豆は、その通りの甘い味。

黒豆は柔らかくて、粒がほくほく。

正月らしい落ち着いた味であるが、出汁はシロップの味がした。

その下の大きな椀に盛った4品。

伊達巻に紅白カマボコ、昆布巻きカマボコ、タツクリに自家製の柚餅子(ゆべし)である。

柚子の実を刳りぬいて、皮を干す。

カツを節に胡麻を入れた味噌和え。

唐辛子も入れて作った柚餅子である。

その右下にある盛りはカキナマス。

千切りのニンジンにダイコンを塩もみ。

甘酢で和えてできあがるが、奈良県の特徴はそこに細かく刻んだホシガキを載せて、お味を一層甘く引き立てる。

葉本家のカキナマスはさっぱり感がある。

酢そのものはあまり感じない。

そう思っておれば違っていた。

底には思いっきりあった「酢」感がすごかった。

どれもこれも美味しくいただいた葉本家の正月祝いの品々。

我が家では味わえない料理にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。

ちなみに柚餅子(ゆべし)は十津川村の郷土料理。



作る家によっては調味がそれぞれ異なるので、それぞれの味になる。

参考までに葉本家のレシピを拝見させていただいた。

材料は柚子が30個であるが、簡単なレシピメモなので予めご了承いただきたい。

材料は柚子の他に味噌、マグロフレーク、干しシイタケ、かつお節、胡麻、餅米、一味に砂糖である。

味噌、砂糖、マグロフレーク以外はミキサーにかける。

餅米は1/3ずつミキサーにかけて潰す。

一味は練って1/3をミキサーに入れる。

ちょっと辛目になる。

これをミキサーから取り外して団子状に丸める。

蒸し時間は2~2.5時間。

干すは2週間とあるから、間を補えば丸めた柚餅子の中身は刳りぬいた柚子に入れる、である。

30個作ってこれを蒸す。

蒸し終えたら天日に干す。

それで出来上がり。

蓋がどれであるのか、わかる線が見える。

柚餅子の皮はしわ皺。

風格ある焦げ目のついた黒皮である。

よばれた柚餅子はむちゃ美味い。

酒飲みにぴったりのアテになる。

見た目は奈良漬けであるが、口に入れたら美味しいのである。

がっつり食べるわけにはいかない柚餅子はちょっと噛んでは口内に放り込む。

食感は良いし、味も濃い。

ちょっとずつ食べてちょびちょびいただく柚餅子は酒が進むくんであろうが、葉本家でよばれるわけにはいかない。

次の取材先に向かうには車の運転がある。

法令は遵守しなければならない。

実は、かつて柚餅子を食べたことがある。

そのときの味は拒否するほど個性が強かったが、葉本家の柚餅子は美味しくいただける。

どこで買ったのか覚えていない強い個性があった柚餅子は観光物産の土産だったように思える。

何が違うのかと云えば出汁である。

先にレシピを挙げたが、出汁のことはどこにも書いていない。

お話を聞けば味噌が手造り。

お姉さんが作っている自家製の味噌が利いているようだ。

ときおりピリリと感じる柚餅子。

一味がいい具合に利いている。

ところで何故に葉本家に十津川名物の柚餅子が登場するのか。

お聞きすればご主人の生まれ育った地が十津川村。

しかも、である。

大字は風屋。

親戚筋にあたるのが民宿津川と聞いて腰を抜かすほど驚いたものだ。

母親は今でも暮らす津川姓。

近い親戚筋だというから、民宿津川の元猟師のおっちゃんも亡くなったおばちゃんも二人のねーちゃんも皆、知っているというのにはまいった。

毎年の旅というか、会社時代の仲間たちと訪れて泊まる宿が民宿津川である。

今度、泊まる際には伝えておきたい巡り会いエピソードである。

まさかの十津川話しになるとは思わなんだ葉本家の正月二日。

ゆったり寛いでいまいそうなところに「お臼」もいただく。



益々、お尻が離れにくくなってしまう。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)

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矢田町・東明寺の大般若会

2017年08月02日 08時35分14秒 | 大和郡山市へ
平成22年より始められた鍋蔵山東明寺の大般若会。

舎人親王の勅願寺として名高い東明寺は大和郡山市の矢田町にある。

矢田町は市内でも一、二を争う広大な地区。

矢田丘陵に沿って点在するお寺は東明寺から南に下れば矢田山金剛山寺(通称、矢田寺)。

さらに南下した地に建つのは補陀洛山松尾寺である。

松尾寺は舎人親王の開基と知られるお寺。

宗派は真言宗醍醐派である。

東明寺、矢田寺はともに高野山真言宗である。

三つのお寺は市内寺行事取材になにかとお世話になっている。

なかでも毎年の大般若会を通知してくださる東明寺はかつて東明寺地区の観音講を取材させてもらったことがある。

場はお寺の庫裏内であった。

その月は東明寺が接待する当番の家だった。

そのことがきっかけに薬師法会や平成22年に始められた大般若会に参列させてもらえるご縁をもらった。

東明寺地区の観音講の取材に感謝、さまさまである。

その後は毎年のように恒例行事となった大般若会の来山案内葉書を届けてくださる。

平成23年24年は取材・撮影目的で参拝させてもらった。

平成25年は住職の晋山式の撮影依頼があったことで遠慮した。

平成26年は曽爾村小長尾の造営祭典が重なり失礼した。

平成27年は病後の状態が芳しくなく失礼した。

そのときの返信に「ご案内いただいたのに、今年もまた、「大般若経転読法要」は行けそうにもありません。手術してから4カ月以上も経過したのに、身体の動き、特に足がもうひとつ。動ける範囲内のボチボチ取材であります。完全復帰は来年の今頃かも・・・」と書いていた。

今年はどうか。

完全復帰ではないが、特に問題もなく普段の暮らしをしながらリハビリ運動もしている。

民俗取材は身体に支障をきたさないような状態でこなしている。

返信に書いた「・・来年の今頃・・」がやってきた。

この日は雨天。

天気予報は見事に当たった日になった。

送迎の仕事を辞めてからは矢田の里に出かけることがなくなった。

かーさんを会場が一時的変更となった卓球会場の送迎ぐらいのものだから実に2年ぶり。

山里の景観が懐かしい。

懐かしいもあるが雨天の急な山道を車で走らせること事態が久しぶりだ。

矢田坐久志玉比古神社を抜けて山側へハンドルを切る。

これまでなかった新築の家もあれば建替えの家もある。

それだけで景観がずいぶん変わったものだと思ってしまう。

東明寺垣内の集落を抜けようとしたときに傘をさして歩いている婦人に遭遇した。

もしかとすれば東明寺の会式に参詣される人では、と思って声をかけた。

まさに、そう思った通りの二人の婦人。

道に迷ってこのまま歩けばどこに行くやら不安にかられていたそうだ。

足元はびしょびしょで助かりますと云われた。

東明寺へ行く途中の道に難儀されている方を放っておくにはいかないのである。

駐車場に向けて上がっていく。

車内のバックミラーを見れば後続の3台も同じであった。

駐車場に着くなり乗せたお二人を下ろして3台の車を大慌てで誘導する。

何とか停めてもらったご婦人たちは大阪の泉大津から来られた信者さん。

顔は覚えてないが気心はなんとなくわかる。

応援僧侶らの応対をせわしなくしていた住職のお母さんも久しぶり。

元気なお声を聞くと気が落ち着く。

今日も元気が貰えそうだ、と思った。

雨のなかを庫裏と本堂を行ったり来たり忙しく駆けずり回っていた住職にもご挨拶だ。

身体のことを心配してくれていた住職の気遣う詞が嬉しい。

先代の仏壇にも手を合わせて辺りをみれば懐かしい男性もおられた。

4年経っても変わらないお顔。

逆に言われたのは来る度に存じていた方々の顔を見なくなる。

4年も経てば殆ど知らない方ばかりになったと話す。

そこへ登場した私は思わず手を握る。

再会がある場というのはとてもありがたいことだと思った。

先に本堂におられた二人のカメラマン。

一人は東明寺のHPを製作している男性だった。

もう一人のカメラマンは新聞社の記者のTさんだった。

法会が終わってからお互いが云う。

どこかでお会いしませんでしたか、である。

思い出したのが山添村の毛原だ。

田の虫送りの取材にきていた記者さんだった。

奇遇なことはもう一つ。

先に雨の中で難儀していた二人のご婦人である。

名刺を渡せばすぐ近く。

民俗博物館がある東側の新興住宅地。

写真家の野本さんの名で判った切り絵の先生である。

野本さんともどもFBに繋げてもらっているが、婦人の一人は切り絵作家の奥さんだった。

ご縁はこうしていろんな方とも繋がっていく。

私にとっては今回で4回目の法会。

雨の日は始めてだ。



本堂へ登っていく僧侶。

それぞれが法螺貝に口をあてて貝吹きをしている。

ボォー、ボォーの鳴り物が響いて大慌て。

撮る位置も定まらずにシャッターを押すが・・・。

石段は雨で濡れている。

つるっと滑らないか、不安になるが、いとも簡単に登ってこられた。

本堂下に見える楼門が雨で霞んでいる。

いつも見事な鮮やかな紅葉を見せてくれるモミジも雨に打たれて敷き詰められたしっとり感がある。

本尊の前に座った住職が導師役。

応援を受けた僧侶たちはその周囲に座った。

蝋燭を灯されて大般若経の転読法要が始まった。

お経が唱えられてしばらくすれば散華(さんげ)を撒かれた。

散華を大まかに言えば仏教儀式における供養に捧げる道具である。

僧侶が儀式中に撒く散華の一般的な形は蓮の花。

蓮花の形の色紙にそれぞれが工夫する紋様、飾り付け。

生花の代わりに広く使われているが、この年の東明寺の散華は色がない。

白いというか透明感のある木の葉そのもの。

法会が終わってから聞いた散華は本物の菩提樹の葉脈葉そのもの。



住職の奥さんがインドで手に入れた天然の葉は華葩(けは)。

昨年からこれを使っているという。

華葩(けは)は花びらを意味する。

そうだ、住職は新婚さんであった。

何の祝いもしていないが、この場を借りておめでとうである。

そして始まった大般若経の転読法要。



中国の唐の国の僧侶であった三蔵法師玄奘がインドの天竺から持ち帰ったとされる大般若(波羅蜜多)経は六百巻の大経典。

60億40万字からなる経典である。

導師が唱える間、僧侶たちは経典一巻を箱から取り出してパラパラとめくる。

めくるというよりも空中から下にあるいは左右へ広げ流すような作法で「だーいはんにゃはらみたきょう・・・ とう(唐)のげんじょうさんぞう(玄奘三蔵)ぶじょやーく だーいはんにゃはらみたきょう・・・」と大きな声で読誦(どくじゅ)される。

それは経典の流し読みの様のようで転読と呼ばれている。

60億40万字の経典を短時間で誦(ずうず)するのだ。

それはあたかも大経典のすべてを読んだことになるという。

般若心経は270の文字。

おそろしいほどに凝縮された。

大声をあげるのは煩悩を押し出し、清浄な心と身体になる、という。



一巻を終える度に経典をバシっ、バシっ、と勢いをつけて机を叩く。



身も心も引き締まる。

およそ40分間をかけて転読された大般若経の次は太鼓が打って般若心経を唱える。

すべての法要を終えたらありがたい大般若経の経典のご加持。

首から肩へ。

バシ、バシと打ってくださる。

身も心も引き締まるご加持に思わず手を合わせる。

(H28.11.27 EOS40D撮影)
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豊浦の地蔵尊

2017年04月09日 09時35分52秒 | 大和郡山市へ
この日の取材地は吉野町大淀町

向かう道すがらに拝見しておきたい地域がある。

地元、大和郡山市豊浦町の地蔵盆である。

今夜の午後7時ころに提灯を吊って地蔵盆の数珠繰りをすると聞いている。

場はどこか、である。

以前から知っているので迷うことはない。

集落の東側を走る近鉄橿原線がある。

西側はJR大和路線である。

集落の南側を走る車路の通行量は多い。

多い上に踏切がある。

そこで停まらざるを得ない路線である。

昨年の12月までは接骨鍼灸院の患者さんを送迎するドライバーをしていた。

ここら辺りは週に3回も通る道。



仕事以外にも度々利用する車路の北側に豊浦の地蔵尊がある。

この地を訪れた奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏が執筆した記事が毎日新聞にアップされている。

なお、豊浦の地蔵盆数珠繰りは雨天の場合は場を公民館に移して行われていると聞いている。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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大和郡山市内の地蔵盆はとにかく多い

2017年04月03日 07時00分58秒 | 大和郡山市へ
8月23日、大和郡山市内の各地域で行われている地蔵盆はとにかく多い。

小泉町の楠地蔵尊は朝8時からだ。

郡山城を下った近鉄電車踏切傍にある地蔵尊もあれば雑穀町、高田口町の釈尊寺北郡山幸町、同町木屋ノ口塩町柳町東、柳町6丁目、箕山町、紺屋町、植槻町、代官町、茶町。

城下町における外堀の枠内の町である。

外堀の外側。

つまりは旧村にあたる地域がある。

天井町、杉町、丹後庄の松本寺、小泉町の不動院、外川町、矢田町東村垣内、同町北村、同町山田原。

南部に額田部北町額田部南板東、昭和町がある。

南郡山町の大織冠仲仙寺、城町の主水山は住まいする処である。

主水山は自治会が違えども区域内。

九条墓地すぐ傍の九条町水込地蔵尊も地区は違うが住まいする自治会の境界にある。

町内から近鉄九条駅に向かって下る道沿いにある。

通った時間は午後だったから地蔵盆はとうに終えていた。

営みを終えた婦人たちはもういないが、営み前に替えたと思われる地蔵さんの涎掛け。

昨年は赤色だったが、今年は白色になっていた。

赤から白へと移りゆく清楚な姿を見て下った地区。



すごい数で吊っていた地蔵盆の提灯に見入る。

夕方、陽が暮れてからの営みは拝見できずに先を急ぐ。

(H28. 8.23 EOS40D撮影)
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小泉町不動院愛染さんのご開帳

2017年01月10日 09時43分08秒 | 大和郡山市へ
2年前に伺ったときは住職一人でお経を唱えていた。

法要中にお声をかけるわけにはいかない。

終わってからそうした。

不動院や愛染さんのことなどいろんなことを教えてくださった。

特にというような理由はないが、印象だけが記憶できればいい。

むしろ夏の日差しを浴びるご開帳の様相を外から拝見する。

それが一番だと思ってシャッターは一枚だった。

気になっていたのは入院先から一時的に退院をされた住職のお身体が気になっていた。

不動院前の道路は生活道路。

年に何度、通るか数えきれない。

それほど多い生活道路に車の往来が激しい。

通るたびに住職のお身体は・・。

気にはなるがお声をかけるまでには至らない。

万が一のことを想定するようなことには巡り会いたくない。

そう、思って避けてきた。

知人にその件は伝えていた。

そのことも考慮しながら伺ったら、どうぞ撮ってくださいと云われたそうだ。

2年前もそうだったが、法要は住職お一人、である。

奥さんもついてはおられるが、ご近所の方々や一般の参拝者はみなかったという。

今、ここにいると連絡があって車を走らせた。

法要は終わっていたが、愛染さんは撮ってもかまわないということだった。

記憶にある愛染さんの表情は柔らかい眼差しである。

優しいお顔を愛染さんももっぺん見せていただく。

合掌して見上げた。

今日のお顔は優しい憤怒であった。

2年前はじっくり拝見する余裕もなかった。

お供えもあったことにも気がつかなかった。

あったのか、なかったのかは別として、今年のお供えはスイカ、キュウリ、ナスビにトマトにお酒なども。

お参りに行けなくなった方の名前を書いたお供えがある。



外の地蔵さんもお供えしてあるが、ここにはピーマンに果物などであった。

お参りを済ませて奥さんにお礼を伝えた。

ご住職は法要を終えて身体を休めていたようだ。

(H28. 7. 1 EOS40D撮影)
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椎木町の苗代に米御供

2016年11月18日 09時05分56秒 | 大和郡山市へ
連休が始まる日に苗代を作ると聞いていた。

連休の初日は4月29日もあるが、ここでは5月の連休といえば3日から5日のことだ。

そう、聞いていたから立ち寄った3日。

明日香に出向く前に通りかかった朝10時ころ。

一カ所は水を張っていたが人影はなかった。

時間帯からいえば遅いほうなのでたぶんに今日ではないだろうと判断した。

向かい側は、といえば畑地を耕した状態のままである。

苗代の場はできあがっていない。

もしかとすれば連休明けの土曜、日曜辺りに換えたのではと思って後にした。

気になってはいるものの毎日はその状況を確認する時間もとれない。

この日は近くまで来た。

今国府町にあるソフトバンクのお店に、である。

おかしな症状は発生したので店員さんに診てもらった。

原因は不明だがSIMカードの経年劣化と判断されて新品に交換してくださった。

そこでふと思いだした苗代状況。

その場はここより1kmもない近距離。

車を走らせた。

苗代はあった。

白い幌を被せているからすぐ判る。

イロバナを立てていた。

じっと水面に目を落とす。

大きなフキの葉を広げている。



そこにあったのは数十粒の稲籾だ。

昨年に拝見したときとまったく同じ場所の同じ祭り方であるが、向かい側は3日に拝見したときと同様で進展していない。

一旦、自宅に戻ってカメラを持ち込む。

心躍る苗代のイロバナに米御供の様相である。

何枚かの写真を撮らせてもらって辺りを見渡す。

遠目であるが、南の農小屋に婦人の姿があった。

度々お世話になっているMさんの奥さんだ。

久しぶりというか、昨年の9月27日以来である。

その日は西椎木の弁天さんの祭りだった。

あれから半年以上も会っていなかった。

そんな話しをしていたらご主人が畑から戻ってきた。

午後の3時、昼寝の時間やと云っていたが、移った苗代の場を案内してくださる。

M家の苗代はここに移った。

これまでしていた場から移転したこの場は水の心配もいらない。

以前の場は長年に亘って苗代田にしてきたが水どころかいろんな面で気を遣わなければならんかった。

場を移した処には簡易的な農小屋もある。

荒起こし、代掻きもした大型のガソリンエンジン耕運機もあれば、手動型のデイーゼルエンジン搭載の耕運機もある。

Mさんが云うには5月3日の朝からモミオトシをした苗箱を下ろしたそうだ。

90枚の苗箱を2列。

合計で180枚になる。

品種は県推奨のヒノヒカリ。



午後3時、4時ぐらいに春日大社で買ってきた松苗を立てた。

イロバナを添えて御供を置く。

御供は洗い米に塩。

弁当などに入れる小分けのカップに入れて供える。

風で飛ばされないように苗代の泥田に埋めていた。



どこにあるのかさっぱり見えなかったが、やってきたMさんがここやと手を添えてくれた。

(H28. 5. 7 EOS40D撮影)
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番条町北垣内のお大師さん

2016年10月27日 09時03分52秒 | 大和郡山市へ
一旦は離れた大和郡山市の番条町。

桜井市の竜谷白河の取材を終えて再び番条町のお大師さんを拝見する。

先に南垣内のA家に立ち寄ったそれからはJR郡山駅に向かう。

ちゃんちゃん祭の調査の際に預かっていた道具の返却と調査情報資料の提出である。

受け渡しの場は判りやすい駅にした。

そこで学芸員と落ち合う。

用事はそれだけだが、時間があればと誘った番条町のお大師さん。

行事などの民俗を調査していいる学芸員の仕事にプラスになるかどうかは判らないが、僅かであるが見聞きするだけでも良かろうと思って誘った。

着いた時間は午後3時20分。

午前中は雨であるにも関わらず巡礼する人たちは多かった。

雨が降ってなければもっと多いがこれくらいがいちばん良いと思う参詣人数。

雨天であろうがなかろうが、村の人はお接待やと云ってヨモギダンゴやモチを置いている。

今年は少ないと集落に住む人々が口々にいう雨の日。

降りが激しくなった午後はまったくといっていいほど人影を見ることはない。

人は見ないが、村の人はお大師さんを開帳している。

学芸員とともに参拝するお家は数軒。



お大師さんにお厨子と台飾り。



門屋、或は玄関口に作業場もある各戸さまざまな開帳の場を見て回る。



お花飾りもあるが御膳の椀。



料理の内容の詳しさは調べている余裕はない。

1時間も経てばそろそろ仕舞われる家もある。

急いで巡礼する北垣内。



ヨモギモチは色で判るが薄い茶色のように見えたモチもある。

もしかとしたらトチモチではないだろうか。

あるお家のお大師さんにこれまで見たことのないようなお札があった。



阿弥陀如来坐像に「第二番極楽寺」とある。

その下にあるお札は全容が見えないが、「弘法大師 報恩謝徳」、「□□□太平」・・「□□□八十八カ所霊場巡拝 息災延命 域内安全 仏法興隆」、「四国 第二十二番 白水山平等寺」の文字が読める。

その下にあるのはおそらく般若心経のご真言であろう。

朝に縁をもらった南垣内のⅠ講中や阿弥陀院住職のKさんから聞いていた。

この日は特別に本場の四国からある一寺の僧侶が巡拝に来られると話していた。

番条町に来られる詳しい経緯は存知しないが、市役所を通じて連絡があったそうだ。

それがこのお札の寺であるのかどうか知らないが、奇妙な動きをする二人の男性が村を廻っていた。

二人の手には何枚かのモノを持っていた。

一人が指図をして一人が手にしたモノをお大師さんに置いていた。

二人は僧侶姿でもない白シャツにズボン。

一般的なビジネスマン風の姿である。

番条町に開帳されるお大師さんは88体。

僧侶であるならば一体ずつ真言を唱えると思う。

仮に唱える時間を5分としよう。

5分間の根拠は昨年に参拝された市内小林町の真言宗豊山派新福寺住職は般若心経を唱えられた。

場は北の大師堂。

そのときの時間がおよそ5分間だったのだ。

すべてのお大師さんへのご真言(般若心経の可能性もあるが・・)の合計時間は単純計算では7時間20分。

移動する時間を1分として加えれば9時間40分。

朝の9時から始めたとしても、休むことなく連続であった場合でも午後6時はとうに過ぎてしまう。

もしかとすれば四国に戻られて、お札は代理の人が置いていった。そう思った。

その北の大師堂に立ち寄った。

例年どおりの北の大師講のみなさんに歓迎される。

テレビ番組で取材されたSさんご夫婦

先日に行われた北の大師講の際に心経を唱えられたことを思いだす。

婦人はご主人とともに出演された番組は「綾小路きみまろの人生ひまつぶし」。

綾小路きみまろが大和郡山の城ホールでライブをした帰り道に立ち入った地域が番条町だったのだ。

茅葺の豪邸を発見してお邪魔する綾小路の口の聞き方は上から目線のように感じた。

築二百年を超える茅葺家のS家はもともと地元の大庄屋。

当家の茅葺の材はカヤススキであるが、同家では珍しく「ヨシ」を利用する。

「ヨシ」は通気性をもちつつ断熱性も優れている材。

15年に一度は葺き替えをすることで維持していると伝えていた夫妻はふたりとも90歳越え。

耳は遠くなったが今でも元気だ。

北の大師講で最も世話になったのは中谷酒造の会長だ。

一年ぶりにお会いする二人の元気な姿をみるだけで私は嬉しい。

ゆっくり話しを聞いている時間もなく次の家に向かう。

そこは先ほどおられた婦人の家。

下門屋前に立っていたのは友人らを案内していた次男さん。

この日のお大師さんに来てくれるんやろな風のメールが届いていた。

客人を迎えた当主とともに屋内に消えていった。

ここより造り酒屋の中谷家に向かうまでの間にある家がある。



そこは預かりのお大師さんも並べるお家。

納める厨子が一体化したように見える。

馴染みの方らに顔を合せば、近況報告もあってどうしても話しが長くなる。

ここまできての時間帯は午後4時を過ぎていた。

少なくとも何軒かは屋内に戻されていた。

締めは造り酒屋のお大師さん。

会長のご厚意で出開帳したことがある。

門外不出のお大師さんが出開帳した先は奈良県立民俗博物館。

平成22年12月11日から翌年の平成23年2月6日まで開催された企画展「大和郡山の祭りと行事」に一般公開されたのである。

こんなありがたいことはない。

当時、拝観していた数人は手を合わせていたとか・・・。

(H28. 4.21 EOS40D撮影)
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番条町の北の環濠

2016年10月24日 08時18分15秒 | 大和郡山市へ
南垣内に滞在しているときに降りだした雨。

取材を終えて地区を離れようと思ったが、ふと、頭のなかに映像が出てきた。

環濠である。

南垣内の環濠は昨年に整備された。

整備される前の環濠は素敵な情景だった。

訪れる度にいつも思うのが、そこで立ち止まって佇んでいたい、である。

整備工事が終わってすっかり変容した南垣内の環濠。

国の助成金を得て整備したようだ。

いずれは北へ500mの方角にある稗田町の環濠のようになってしまうかも知れない。

稗田町の環濠は教科書に載るぐらいに有名な環濠である。

観光目的に石垣で囲って綺麗になった。

昔の様相はまったく消えてしまった。

それでも名高い環濠は絵描きでもある男性俳優がやってきて絵を描いていた。

テレビ番組で紹介していたから覚えている。

稗田町の環濠の昔を知るには東側に廻らなければならないが、環濠らしさをとらえるには難しい環境になった。

写真に残しておきたいと思う昔ながらの環濠はどこが相応しいのか。

ふと、思いだしたのが地元住民が必ずといっていいほど推薦される地は北垣内の北の端。

東の山間から流れてきた菩提山川が北の平城京跡から流れてきた佐保川と合流する地点。

番条北橋を渡った処の環濠である。

北垣内の集落民家を背にした深い濠。

小雨であれば濠に雨の輪があるはずだ。

大雨であれば撮影どころではない。

このときの小雨状態ならば民家や植物の色合いが映えるのでは、と思ってでかけた。

判断は間違いなかった。

濠に降ってきた雨の輪っかが一瞬に残る。

家屋の濡れ具合も想定どおり。



場を換えたり、カメラアングルを換えたりして、何回もシャッターをきったが、雨足が強くなってきた。

滞在時間はわずか数分。

雨のしずくが肩に感じる。

重くなってきた頃合いを見計らって番条町を離れた。

(H28. 4.21 EOS40D撮影)
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