マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

秋篠町の水口まつり

2019年09月30日 09時34分52秒 | 奈良市へ
天理市中山町で堪能させてもらった水口まつり

されているところが実に多くてお腹は満腹状態になった。

勝手なことを云うが、それほど多い、しかも味のある立て方、景観に見惚れてシャッターを押していた。

中山町を離れた時間帯は午後3時。

夕暮れにはまだまだ時間がある。

探してみたい地域は奈良市の北部である。

前年の5月12日にYさんがアップされた奈良市押熊町の松苗にハナカズラだった。

苗代に立てている情景におそらくあそこであろうと思って探してみたが見つからない。

思っている場所にたどり着かなかったようだ。

諦めて近くを探してみれば見つかった。



その地は奈良市秋篠町であった。

枯れた松苗はどこで授かったのか。カーナビゲーションが示す地が秋篠町であれば、八所御霊神社に違いない。

毎年の1月11日に行われるおんだ祭に奉る模擬苗の松苗である。

ここら辺りを探してみるが苗代田そのものが見当たらない。

作業小屋の反対側に水路がある。



すぐ傍に橋が架かっていたそこに2基の石塔が建っていた。

地蔵仏でもない石塔は五輪塔のようだ。

右の五輪塔に梵字らしきものが見えるが、風化激しく判読不能。

左の石塔は線刻された五輪塔であった。

一般的に上から順に空輪、風輪、火輪、水輪、地輪の5文字。

これもそうだろうと思うが、私は梵字の知識はまったくない。

この線刻五輪塔の下部に刻印文字がある。



誤読であるかもしれないが「永禄」とか「戊辰」、「清雲」、「六月」、「小一日」のように読める。

永禄戊辰年であれば西暦1568年。

450年前の線刻五輪塔になるのだが・・。

(H30. 5. 4 EOS7D撮影)

山城町涌出宮居籠祭・二座の勧請縄かけ

2019年09月29日 09時33分54秒 | もっと遠くへ(京都編)
境内で大松明を作っている最中に始めた二座の勧請縄かけ。

二座は古川座と歩射(びしゃ)座。

歩射(びしゃ)座の勧請縄は前週に涌出宮付近にある小屋内で作っていたようだ。

できあがった勧請縄は涌出宮の倉庫に保管していた。

古川座の勧請縄は、座中の一老家もしくは十老家(※一年ごとに交替するが繰り上がるので同じ家にならない)の作業小屋で作られるらしい。

二座の勧請縄かけをする時間は特に決まっていないようだ。

おもむろに始まった勧請縄かけ。

長く太い勧請縄は歩射座の勧請縄。

数人が担いで運んだ場所は神社の境内地。

意外と気がつかない2本の樹木に架ける。

その場所は戦後に建之された2代目の神馬(しんめ)像がある処。



境内から見れば神馬像の後方に架ける。

大蛇になぞらえている、という歩射座の勧請縄は12房の垂れがある。

間隔が狭い形状だけに房を確認するのも難しい。

勧請縄の材料はヤブニッキ。

神社境内に自生するヤブニッキを伐採して作る。

勧請縄は餅藁縄を依って作り、ところどころにシデを付けていた。

中央辺りによじって作った瘤のような形は男根、と云われたが、どこにあるのか見つけにくい。

房の形態もわかりにくいが、2本の藁依りを垂らしたところにヤブニッキの枝。

うち一本は葉付きのヤブニッキ。

水平に取りつけているように見える。

また、房下も葉付きのヤブニッキ。

翌年に下げる勧請縄を燃やしたときはいい匂いがするという。

良い香りはヤブニッキが焼ける匂い。

機会があれば嗅いでみたいものである。

架け終わったら、予め作っておいた弓矢を勧請縄に括りつける。

曲げた弓も、真っすぐな矢もヤブニッキ。

矢羽根は紙片であろう。

矢の数は12本。

閏年の場合も12本のようだ。



矢は紐で弓に括りつけて外れないようにしていたが、スポっと抜ける矢もあって、目で本数は確認していた。

なお、弓矢は勧請縄の頭と尾、それぞれに括りつけていた。



古川座が与力座に預けた勧請縄がある。

この日の朝に勧請縄作りをしていた古川座。

一老家若しくは十老家(※毎年交互に替わる)で作業をして作り上げた勧請縄は、涌出宮に伺って与力座の一老に手渡す。



受け取った一老は、預かって本殿の裾に置いて一時保管していた。

時間帯は昼前。

大松明つくりを終えて、しばらくしてからだ。

与力座の数人が動いた。

一人の座中が担いだ古川座の勧請縄。



歩射座の大蛇よりは小さめの勧請縄。

大蛇に対して小蛇の名があるのか、聞きそびれた。



古川座の勧請縄は樹木に架けるのではなく、歩射座の勧請縄に被せる、いやそうでもなく巻き付けるような具合で架けていた。

古川座の勧請縄は、房などすべての材は樒を用いる。

また、弓矢は竹製。

座によって材は違っていた。



ちなみに、本日に架けた二座の勧請縄は、翌日に行われるすべての居籠祭を終え、片付けなどをする際に外して勧請縄を移される。

移し先は四脚門の本柱を渡す冠木の上。

参拝するすべての人が頭を下げて勧請縄を潜ることになる。

勧請縄は、一年間に亘って参拝者を清めることになるのだろう。

(H30. 2.17 EOS40D撮影)

あきんどスシロー天理店のかすうどんはカスなうどん

2019年09月28日 09時12分22秒 | 食事が主な周辺をお散歩
さて、午後の12時半。

近くに名高い喫茶カフェがあるというKさん。

私はすぐ近くにある回転寿司を勧める。

本日はGWの真っ只中。

お客さんは行列であろうと、云われたが、ま、とにかく行ってみるべ・・。

着席発行機にボタンを押して待つ。

情報交換に時間を忘れて・・・呼び出しに気がつかなかったのでは・・。

はっと気がついて発券機に視線。

呼び出しが順に行われる番号通知。

決して飛ばされたわけでもなく、後片付けに時間がかかったということだった。

番号を呼ばれてカウンター席につく。

メニューは流れるレーンには手を出さない。

我が意思をもってメニュー画面より選ぶ好みの料理。

にぎり寿司は無用。

何が狙いかといえば、麺類である。

あきんどスシローのメニューに何があるんだろか。

期間限定の肉づくしは目もくれずメニューボタンを押したのは麺類。

それも280円のかすうどんがあったなんて、そりゃ知らなんだ、である。

かすうどんを知ったのは、メニューパネルをひと通り順に押して一巡したとき。

あれっ、こんな料理もあったんだと押したかすうどんである。

かすうどんの“かす”は牛脂。

スーパーでも売っている油かすは食べたくもない。

私が欲するのは「JAならけんまほろばキッチン」の棚で売っている㈱肉匠たけ田の大和牛油かす。

極上の味はとてつもない魅力をもっている。

かすうどんそのもので美味すぎて、他の商品を注文することをしなくなった魚輝本格肉かすうどんがある。

商品名は肉かすであるが、事実上の香り豊かな油かすうどん。

両者とも油かすそのものにゴク旨の味があるから、うどん出汁に馴染む。

食をそそるうどん出汁に変身してくれる油かすが立派に役目をこなす。

それらと同じであれば、と思って期待したあきんどスシローのかすうどん。

くら寿司のような特別レーンでもない、一般的に流れるレーンに特別注文なんちゃらを記したものが廻っていた。

私が注文した前後に、他のお客さんが注文したものが流れていた。

どれが私の注文した商品なのか。

メニューパネルはそろそお到着しますとか云々を機械音声で伝えているが、どれがどれだかわからなくて、見逃してしまいそうになる。

その点、くら寿司の特別レーンは流れるレーンとは別扱い。

注文した商品も目の前で止まってくれるから安心できる。

業界第一というスシローさん。

こりゃもっとがんばらにゃ、と思った次第だ。

これがかすうどんと思って手にする。

尤もにぎり皿と違って丼椀。

違いはわかるが、不安そうにとりあげた。

蓋を開けたら間違いなし。

見た目はまさに油かすうどん。

肉片は麺つゆの上で泳いでいる。

ほのかに香る油かす。

箸を入れてうどん麺を掬って口に入れる。

あれぇ、である。

旨みをまったく感じない。

これって、何と思ったかすうどん。

たしかに肉片は油かすであるが、味がまったくないっていいほど。

旨みもないかすうどん。

味は“かす”としか言いようのないかすうどんであるが、食べつくしてしまったのは、何故に。

ひょっとしたら、であるが、油かすの油抜きをしたんじゃないの、と思えるぐらいに旨みがない。

コクもない。

なんじゃこりゃ、である。

口直しではないが、ほぼ同時にパネルタッチで注文した軍艦巻き。

どこのくるくる寿司でもそうだが、ハズレがない。

一つ頼んだカツオのユッケ。

到着の合図が鳴ってからやってくる。

特別な注文品も同じ流れ、回転レーンでやってくる。

ふと思い出したけど・・。

超特急で配膳されるシステムはあきんどスシローにあったっけ・・。

別に超特急でなくても、普通に流れる寿司と間違いそうになって仕方がない。

特別注文を表示する赤い台をずっと見ておかないと、流されてしまう。

私が注文した寿司は私の席の前に停止してほしいのである。

なぜにそこまで要望するのか。

実は、この日、ずっと観察していたけど・・お客さん、それぞれが注文いっぱいで、どれがどれやらさっぱりわからなくて、特別なものが10皿続けて流れてきたら、印もないから見逃すに決まっているでしょ、といいたい。

売上が業界ナンバーワンらしいあきんどスシロー。

毎週、毎週に新メニューを開発する会議よりも、システムを見直して欲しい、のである。

それはともかくといいたいところだが・・。

肝心かなめの寿司の味である。



カツオユッケの軍艦巻きは好み。

ネタは新鮮。

カツオの臭みなんてものは一切ない。

鶉の生玉子とぴったしの味付けに何を入れているのだろうか。

ネタよりも気にかかるユッケタレである。

一口、二口はあっという間に堪能する。

そのおかげもあって、かすうどんのかす味は口から消えた。

Kさんはいつもくら寿司に行っているという。

あきんどスシローの寿司は初体験。

こりゃ美味いという言葉もなかったが、不味いもない。

いわば際立った特徴がないということなんだろうか。

民俗話しに写真アーカイブまで広がるネタ談義に長時間居座る。

最後に頼んだ寿司はまたもや軍艦巻き。



選んだマグロの山かけにとろろ盛り。

久しぶりに頼んだらとても新鮮な気持ちになった。

とろろ加減が美味しいのである。

山葵をたっぷり盛って食べたらマグロがより一層美味しくなった。

実は、この日の朝番組にあきんどスシローの舞台裏をテレビ番組で紹介していた。

毎週の平日に放送される関西テレビの帯番組。

「よ~いドン!」。

隣の人間国宝さんに登場されるフツーの人に拍手喝采する毎日である。

毎週金曜日は万歳の銀シャリのコーナー番組の「スゴ腕ワーカー」。

この日は南吹田店におられる全国向け商品開発担当者が主役。

毎週の社内プレゼンツに10~15品の商品開発をする発想が凄い。

しかも、2週間に一つの新作を提供しているのも凄い。

その都度というか、2週間に一度は期間限定で入れ替わる新作キャンペーンに厨房職人さんが凄い。

やっと覚えたばかりのころに次の新作が待っている。

この週は肉ネタ寿司。

美味いと云っていたスタジオ。

でもな、それは300円のサーロインステーキでしょ、とぼやき節が口に出た。

(H30. 5. 4 SB932SH撮影)

食前の民俗話題に盛り上がる

2019年09月27日 09時51分49秒 | 民俗あれこれ
中山町の水口まつりの様相を拝見していた時間帯は午後12時半。

田主さんを見送ってようやく昼飯にありつける。

この日は明日香村栗原で取材してきた写真家Kさんと落ち合う。

昨日にやっと見つけた中山町の水口まつり

発端はKさんが伝えてきた明日香村のいずこかの水口まつりの様相である。

鮮明にとらえた様相に、こう撮るべきだと示唆する映像に感動したものだ。

撮った日は平成22年5月11日と知らせてくれた。

某所はどこであるのか記憶にないという水口まつりに松苗がある。

その件について、メールで伝達し合っていた4月14日。

山の辺の道に出かけたKさん。

地元住民が云った台詞は「この辺はけっこうある。連休辺りに来たら、えーで」という言葉だったそうだ。

ちゃんちゃん祭のお旅所と云えば天理市中山町。

苗床はブリキ板で囲っていたと伝えてくれた。

まさか、ここら辺りに苗代を作って、水口まつりがけっこーあるとは、これまでまったく眼中になかっただけにショックを覚えた。

その件は頭の中に想像を張り巡らしていた。

どこにそれがあるのか。

時季になれば、とにかく出かけてみるしかない。

見つかるかどうかは別にして中山町の集落はどこにあるのか、だけでもと思って現地を訪ねてみる。

お旅所に登っていく道がある。

その辺りはないと踏んでいたが、苗床を調えて水を張っていたところがあった。

なるほど、である。

もう少し足を伸ばしてぐるっと周回。

なんと、そこにあった護符にイロバナ。

帰宅してからKさんに電話した。

見つかったときの興奮そのものを報告した。

している場所はわかったが、護符は何時、どこで授かったのか。

これを知らずに、見過ごすわけにはいかない。

そう思ってこの日も出かけた中山町の苗代様相

なんと、場所は思いと違ってはいたが、鳥除け、風除けに紗を被せているときだった。

写真を撮っていいか、承諾を願ったらOKをもらった。

その後も作業していた親父さんに息子さん。

話しているうちに打ち解けたらしくいろんな情報を話してくださる83歳の男性。

ありがたくも家にあるから取りに帰るといって戻ってきた。

そう、護符に松苗である。

詳細は省くが、行事の在り方も聞かせもらって、ほぼ全容が見えてきた。

お見送りはそれからだった。

食事処は満席。

時間待ちの待合室はなんぼほど多いことか。

時期的にどこへ行っても同じだろうと半ばあきらめの境地で互いの報告内容。

Kさんからは5月末は日待ち、6月末はさなぶり、8月末日は八朔日待ちとも呼ぶ風日待ちや秋祭りなど、栗原の年中行事を教えていただいた。

また、聞き取った77歳のTさんの記憶が重要だった。

今では栗原の地では苗代を作ることはないが、Tさんが子どもだったときの記憶に苗代の祭りごとがあったそうだ。

松(※飛鳥坐神社のオンダ祭に奉られる松苗と思われる)にハナと呼んでいたイロバナを立てていた。

さらに、穂のあるカヤ(※カヤススキであろう)も立てた。

しかも、モミダネを撒いたし、お盆に盛ったキリコ(※油で揚げたキリコモチの可能性がある)もあったという。

そのキリコは食べていたというから、焼き米的なものに似ている。

興味ある話題提供にメモをしていた。

また、季節柄のイベントコイノボリがある栢森から隣村の入谷のとんども・・。

私といえば、昨今の現況である。

(H30. 5. 4 SB932SH撮影)

山城町棚倉涌出宮居籠祭・大松明つくり

2019年09月26日 09時51分00秒 | もっと遠くへ(京都編)
正式社名は和伎座天乃夫岐売神社(わきにいますあめのふきめ)。

鎮座地は京都府木津川市山城町平尾里屋敷。通称名は棚倉の涌出宮(わきでのみや)である。

称徳天皇年代の天平神護二年(766)五月。

「天夫貴売尊の神託により平尾邑和岐に遷し奉る・・」とあり、「伊勢国渡会(わたらい)郡五十鈴川の舟ケ原岩部里から、天乃夫岐売命を勧請したのが起こり」とも。

その「勧請した際に、祭神は飛来し一夜に森が生まれた。四町八反余りが、神域と化したことから、世の人は畏れ、その神徳を称えて“涌き出森”」というわけで涌出宮と称した。

たぶんにその字、“涌”水のごとく、当地は地下水が豊かに流れる土地であったろう。

初めて訪れたのは、平成29年の3月15日

「女座」と呼ばれる行事取材のお願いに伺った。

お会いした中谷勝彦宮司が話してくださった涌出宮の年中行事。

主な行事の「女座」に「アーエーの相撲」、「居籠祭り」を説明してくださる。

取材許諾を得て訪れた同月20日が「女座」行事だった。

続いて拝見した行事は饗応(アエ)の相撲。

訪れたのは平成29年の9月24日であった。

そして、いよいよ本日のいごもり祭である。

「恒例の涌出宮の宮座行事(※京都府の重要無形民俗文化財)の一つである祈年祭の「いごもり祭」を、今年も厳粛に執り行いたく・・」と案内する通知葉書が届いた。

祈年祭は、一年の初めに、その年の豊穣を祈る祈年(としごい)の祭り。

祈年(としごい)の年(とし)とは、年穀、稲米の稔りを意味する。

「郷土の伝統文化を継承するため、ご支援をいただきたく賜り存じ、ご参拝お願い申し上げます」に続いて「所願成就、清祓いの御鈴、撤饌を福授させていただきますので、本状を受付に提示」とあったありがたい通知葉書の差出人は連名。涌出宮与力座座衆一同に氏子総代一同、宮司中谷勝彦とある。

神社由緒書によれば、いごもり祭を充てる漢字は居籠祭若しくは齊籠祭。

起源は諸説・伝承あり

「祟神天皇の御代に、天皇の諸兄で、当地山城地方を任されていた武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の軍が、大和朝廷軍と戦い、敗北し、安彦命は非業の最期を遂げた。その後、数多くの戦死者の霊が祟り、この辺りに悪疫が大流行して人々を悩ませた。そこで、村人たちは齊みこもって、悪疫退散の祈祷をし、かくして悪霊が鎮まった」と、日本書紀に記載があり、このことが、いごもり祭の起こり、と伝わっている。

朝いちばんに集まってきた与力座の座衆。

境内に設えるとてつもなく巨大な松明作りが始まった。



ちなみに、「棚倉から見て西側にあたる木津川対岸に鎮座する祝園神社(ほうそのじんじゃ)にも、いごもり祭を斎行されている。伝説によれば、安彦命が斬首されたとき、首は木津川を越えて祝園まで飛んでいき、胴体が棚倉に残ったといわれる」

「祝園神社では、安彦命の首を象った竹の輪を祭りに用いて、涌出宮は胴体を象った大松明を燃やす」との説の他、「昔、鳴子川から三上山(さんじょうやま)から大蛇が出てきて、村人を困らせた。そこで、義勇の士が退治したところ、首は祝園に飛び、胴体が棚倉に残った」説もある。

いごもり祭は、“音無しの祭”ともいわれる。

「昔、村中の人たちは、家に居籠って、年乞い(※おそらくトシゴイと発音する祈年を、“年を乞う”の漢字に充てたのであろう)の祈りが成就されるまで、一切の“音”を立てなかった」、という。

現在は、「室町期の農耕儀礼を伝える豊作祈願(※予祝行事であろう)、春を呼び、村に幸せを招く、除厄招福所願成就の祭りとして大いに世人の注目と信仰を集めている」と、神社由緒書に記している。

祭りの最中は家内に居籠り、静かに終わるのを待っていた。

その居籠りを称して「いごもり祭(※居籠祭)」の名が付いたのであろう。

いごもり祭は、与力座による運営を中心に、古川座、歩射(びしゃ)座、尾崎座が参画して祭祀が行われる。



平成19年より日時改定された居籠祭の現在は2月第三土曜、日曜両日の2日間であるが、以前は、2月15日、16日、17日の3日間であった。

15日は、午後8時ころより、座の饗応になる門(かど)の儀に大松明の儀。

16日は、午後2時ころに、勧請縄奉納の儀。

17日が、午後2時から4時の時間帯に行われる座行事の饗応(あえ)の儀に御田(おんだ)の式の3日間であったが、改定された現在は、第三土曜の午前9時半より、大松明作り。

時間を経た午後7時半より始まる座行事の饗応(あえ)の儀に場を境内に移して行われる大松明の儀。

翌日の第三日曜に、座行事の饗応(あえ)の儀とお田植祭を詰めた2日間にされた。

これらの行事は、一般の人たちが観られる主たる行事であるが、秘儀とされる「森廻り神事」、「野塚神事」、「御供炊き神事」、「四ツ塚神事」は他見をはばかる神事として、所作など、その一切を観ることは禁じられている。

その四ツ塚は祭祀後であれば拝見できる、と云われてそれぞれの場所を中谷宮司が案内してくださったことがある。

朝いちばんに始まった与力座の作業は大松明の調製である。



中谷宮司にお話を伺おうと思って声をかけた社務所・神楽殿の正面口に飾っていたヒイラギイワシ。

2月3日に行われた節分の印しであるが、ほとんどの人は気づいていない。

目の上にある年越しのまじないは神楽殿だけでなく幕を張った居籠舎にもある。



もちろん四脚門にもあるが、視線は上に向かないようだ。

その四脚門にもう一つ。

前年に架けた勧請縄がここにある。

ぐるぐる巻きにした勧請縄。

これもまた気づく人は少ない。

社務所に在して当番していた与力座の婦人たちにお声をかけて上がらせてもらった。

宮司は用事で出ているがすぐ戻って来られるとのこと。



その間に拝見した数々の供え物。

三方、折敷などにそれぞれを盛っている。

手前にある白木の造りものは4種。



榊の木で作ったマグワ(※馬鍬をマングワ或いはマンガンなどと呼ぶ地域もある)にカラスキ、スキ、クワのミニチュア農具。

接着剤や釘は一切使わずに組み立てる。

ホゾ穴を開けて組む差し込み式で造った農具はノミ削り。

見た目も一級品の供え物は前週に作っていたそうだ。

右にあるのは松苗。

その向こうにもたくさんある稲の穂を模擬的に見立てた松苗は56本。

8本ずつに束ねた松苗の軸に紙片を巻き付けている。

文字なのか判なのかわからないが、奈良県内の模擬的農耕の御田祭で拝見したような護符と同じ形式だと思うのだが・・・。

左側に盛ったものは御田式で所作されるモミマキである。



たくさんの洗い米に紫、緑、黄、赤、白色の紙片が一枚。

もう一枚は細かく切った紙片は金色に銀色。

お米は玄米である。

戻ってこられた中谷宮司の所用は、兼務社の祭礼に出仕していたとのこと。

平尾に鎮座する中古川・西古川辺りに鎮座する春日神社に東古川に鎮座する春日神社。

アスピアやましろ(木津川市山城総合文化センター)の前辺りにある春日神社。

大字は平尾の小島に北河原堂ノ上や綾杉であろうか。

現宮司は与力座の一員でもある中谷勝彦宮司。

かつて涌出宮の宮司は中谷家、喜多家、大矢家、土屋家の4軒で廻っていたそうだ。

おじいさんがしていたという女性はこの年与力座一老のKさんの奥さん。

はっちょうなわて(※八丁縄手であろうか)の道にコエダメ(肥え溜め)があって、と言いかけた昔話は棚倉小小学校の生徒たちに話してきた。

コエダメはコエタンゴとも。

懐かしい呼び名は私が生まれ育った大阪・住之江の市街地にもあった。

大方、55年も前のころである。

冬になればカチコチになった表面。

他地区の子どもが学校帰りに遊びふざけてそのコエタンゴにのっかった途端にどぼーん、というかズボっと。

身体全体でもなかったから助かったが・・。

そんな経験は同年配者であればどこともあったようだ。

棚倉駅に市電が通っていて、神社に保育園もあった。

通いの市電の車中で勉強していた、という思い出話。

川越えに「いちひめさん、いちひめさん、いちひめさん」を3回言うて、渡っていた。

「春日さんからお姫さんが出てきて悪さするから、早よ帰ってこい」と云われた“いちひめさん“は市姫の地区であろうか。

さて、本題の大松明作り、である。

作業を始めてからおよそ1時間。

本体部分を束ねて崩れないようにする道具作りがある。

隣村の神堂寺地区の山から伐り出したフジツル(藤蔓)。

使用するのはフジツルの根っこの部分である。

大量に採ってきたフジツルが自生する山は知り合いの山。

了解を得て、伐りだして運んできた。

フジツルの根っこは冬の季節になれば、その存在がわからなくなる。

目印は咲いた藤の花。

5月から6月にかけて咲く藤の花。

その時季に山入りして目印を付けておく。

こうしておけば埋もれている根っこも見つけられる。

根っこは土の中。

掘り起こす作業はたいへんだし、細い根っこもあれば太目の根っこも。

巻きに利用する根っこを伐りだした本数は長短の差もあるが、相当な量である。

根っこはそのままでは使えない。

柔らかくするには槌が要る。



力を込めて打つ槌。

何度も、何度も打って柔らかくする。



皮を剥いだりして根っこを加工する。

使い方は結びである。

太く束ねて作る松明は61束の樫の木。

相当な量である。

樫の木のシバの本数は例年が61本であるが、新暦の閏年の場合は1本増えた62束となる。

なぜにシバは61本であるのか。

翌日に出合った菊約さんのブログによれば、神さんを山にお返す12月行事の森廻しと翌年の2月に迎えるまでの期間日数が61日というわけ。

旧暦の場合は“大“の月が一つ増えることなのだろうか。



力仕事は男の作業。

太さ3cmくらいの長い藤の木の根で締めて崩れないようにするが、見ての通りの機械道具の力も借りる。

ラチェット型万力だと思うがこのあたりは機械締め。

締めて広がらないようにして柔らかくした根っこで縛る。

心棒のような太い木は「アテギ」と呼ぶ。



この木も例年は12本であるが、新暦の閏年の場合は13本になる。

現在は新暦であるが、かつては旧暦であったろう。

一年の月数は12カ月。

旧暦の場合の月数は13カ月になるからだが・・。

旧暦閏年の間隔は2年→3年→3年→3年→2年の繰り返し。

その廻りの年が旧暦の閏年。

月数は13カ月。

明治時代になる前の江戸時代は旧暦であった。

今なお“13“の数で表すことがあれば、江戸時代にもしていた、ということになる。

先祖代々が継承してきた民俗行事に旧暦閏年を示す”13“があれば、江戸時代以前から、であるが、昨今は暦の本を見ることも少なくなり、誰しもわかりやすい4年に一度の新暦閏年に移す地域が増えつつある。

縛って崩れないようにしてから持ち上げる。

下部に這わせていた丸太は長い竿のようなもの。

作業初めから据えていた丸太を揚げて木材をかます。

空洞ができあがって竿は重さでしなる。

そうして空洞が広くなったところで細めの根っこを通す。

作業工程は毎年のこと。

職人気質のベテランの人たちが指図する根っこの締め方にも技術が要る。

力を合わせて引っ張り合う。

下部の木材はチェーンソーで切断。

不要な部分は伐り落として、周りの葉っぱも落として奇麗な形にする。

本体の重要なものができあがれば鉄骨で櫓を組む。

材料は仕事上で使っている鉄骨やチェ-ンブロック。

座中提供の道具は大掛かり。

崩れないように安全性を確保して組み立てたら引き上げる。



その状況を見守る座中の奥さま方。

鉄骨やぐらがなかった時代はどうしていたのだろうか。

たぶんに考えられるのが丸太の3本組。

その中央部にジャリジャリと音を出して引き上げるチェーンブロックを架けていたのだろう。



鉄骨やぐらの場合は足場もある。

これなら安心して作業を進められる。

全容が見えてきた大松明は垂直に立てるのかと思えば違って、斜めの状態で固定する。



最後に化粧と、いうか葉付きの樫の木を挿して埋めていく。

中木以下の葉付き枝を何本も何本も隙間に挿して埋めていく。



大松明の本体(※故伝によれば斬首された武埴安彦命の胴体)は奇麗になったこの状態で完成である。

作業はもう一つある。

昨年に賜った初詣参拝の際に授かった破魔矢や十二支絵馬を付けた矢に前年の居籠祭でたばった稲穂に御田式の所作を描いた絵馬付きの祈祷守護の矢などがある。



氏子たちの家々を守護し終えたこれらは今夜の大松明の儀において焼納される。

よく見れば柳の枝木に結んだ“瓢箪“もある。

その枝木には願い事を書いたと推定される短冊も結んでいた。

こうしてできあがった大松明の出番は、この日の夜である。

古川座に尾崎座(※中世から幕末まで参列することはなかったが、明治期になって参列し始めたものの再び中断であったが、平成5年に復帰)、歩射座を与力座がもてなす座行事である門(かど)の儀を終えてからである。

始まるころには参拝者で境内がいっぱいになる。

作業の合間に中谷勝彦宮司が見せてくださる「かぎ」。

「かぎ」は、「おかぎ」と「こかぎ」の2種類。

与力座の一老が作っておいた榊の「おかぎ」束。

御田式の座に参列される古川座(9束)、尾崎座(3束)、歩射座(3~4束)の座中たちに手渡す「おかぎ」の形に特徴がある。

よく見ていただければおわかりになると思う形。



短く伐った枝付きの葉茎。

その形はまさに「かぎ」である。

「かぎ」で思い起こす囲炉裏の自在鉤。

そう、鍋などを引っかけて吊るす道具の「鉤」である。

そう思えるのは「おかぎ」の鉤形状。

軸中央でなく、いずれも端に寄せており、その形状はまさに自在鉤である。

なお、「おかぎ」は座中一人ずつに手渡されるが、「こかぎ」はばら撒き用にしているようだ。

また、「かぎ」の中に一本の松葉を入れているそうだ。

また、最後の作業に一つ。

この夜に燃やされる大松明。

その松明火から移される小松明。

白衣を着た2人が、この小松明を転がすようにして四脚門にもっていく、と聞いたが・・。

それはともかく最後の調整である。



葉付きの樫の木を巻き付けて落下しないようにきっちり縛るロープ。

力を込めて作業を終えた。

なお、いごもり祭については祭りや座の調査当時に担当された若いころの中村彰氏の調査報告書ならびにブログが詳しい。

また、論文発表から縁が繋がり、昭和61年に京都府の無形文化財1号指定になった経緯も書かれている。

一つは、京都府教育委員会が1979年に発刊した『宮座と祭祀―棚倉涌出宮の場合 京都の田遊び調査報告書』。

また、映像記録された山城ライオンズクラブ・制作解説本の『天下の奇祭 いごもりまつり』もある。

もう一つに1986年に幻想社から発刊された『天下の奇祭 いごもりまつり-涌出宮の宮座行事』もある。

いずれも拝読していないが民俗視点などさまざまな視点で執筆されていると思われ、参考になるだろう。

(H30. 2. 6 SB932SH撮影)
(H30. 2.17 EOS40D撮影)

中山町の水口まつり③

2019年09月25日 09時30分19秒 | 天理市へ
83歳のYさんが話してくれたお旅所で護符を・・。

えっ、である。

これまで何度も大和神社のちゃんちゃん祭を拝見してきたが、そのお旅所に護符を手渡すような建物はあったのか。

今の今まで知らずにいたお旅所を目指して車を移動する。

裏道を通ってお旅所に着くがお堂は見当たらない(※後日に判明)。

歯定神社はわかるが、お堂は・・。

それはともかく件の写真家が云っていた苗代田はどこにあるのか。

辺りを見渡してもそれらしき田園は見当たらない。

一歩、外してお旅所から眺める南側。

その山手側に広がる田畑である。

件の写真家に確かめたら、そこであった。

気持ちが良いほどに広がる風景にまずは感動。

苗代田に水を張っているところもあるので期待ワクワクだ。

ここは中山町集落の北側にある景観地。

つい先ほどまで、苗代作りをしていた地は集落の南側。

北と南では風景が一変する。



歩いていけばいっぱい見つかる苗代田。

いずれもイロバナを添えて護符を祭っているこの日に拝見した水口まつりの数は7カ所にもなる。

昨日か、今日かわからないが、とにかくイロバナが綺麗で新鮮な姿。



どれもこれも写真に撮りたいが・・・できれば、この懐かしい風景も入れて撮っておこうと思ってシャッターを押す。

中山町は現在150戸の集落に拡がった。



大字の元々は旧村。

50軒の集落であったが、いつしか他所から来られて増えた新興住宅に囲まれるようになったというYさん。



また、中山町の一部というか、集落西の縁にある古代の道がある。



いわゆる山の辺の道である。

その道に必ずや通る神域がある。

中山町の氏神さんを祀る歯定(はじょう)神社である。

その歯定神社で水口まつりに立てる護符をいただく。

小正月の1月15日はとんど焼き。

すぐ近くにある歯定神社・観音堂に参って6人組の当番が、予め版木で摺って朱印を押して作っておいた護符を授かる。

歯定(はじょう)神社は橿原市内にもあるが、ここ中山町は4月1日に行われる大和神社のちゃんちゃん祭のお旅所とする重要な役割を担う地である。

大和神社周辺地区に新泉、兵庫、名柄、岸田、成願寺、三昧田、萱生、中山、佐保庄からなる9カ大字がある。

4月1日に行われる大和神社のちゃんちゃん祭にいずれも出仕される各大字である。

その大字の一つに中山町がある。

中山待ちの氏神さんはちゃんちゃん祭の行幸に出向くお旅所にもなる歯定(はじょう)神社である。

中山町からいえば大宮になる大和神社に御田祭がある。

2月10日に行われる御田祭に早乙女たちが広庭で松苗植えをする所作がある。

その松苗である。昔は自然に山に生えていた赤松だった。

いつしか虫に食われて松枯れ症状で全滅した。その後、松苗は黒松に替わった。

今では松苗に利用する松は雄松に限られる。



昔はその松苗の根元を括っていたのは藁紐だった。

今では紙片を巻き付けてセローテープ留め。

時代とともに変容している松苗であるが、いつしか種籾を包んで松苗に取り付けていたものも消えたようだ、とYさんが話してくれた。

(H30. 5. 4 EOS7D撮影)

中山町の水口まつり②

2019年09月24日 08時42分31秒 | 天理市へ
前日に訪れた天理市中山町に水口まつりをしている苗代田が見つかった。

イロバナは綺麗な色具合。

撮っていた時間帯よりほんの少し前に立てていたと思われるイロバナが落ちる夕日に照らされたら、より一層の輝きを増すと思われる美しさであった。

すぐ近くに水を張った苗床があった。

もう少し足を伸ばしたところにも苗床があった。

その様相は今すぐにでもしそうな苗床だった。

この日にされるのかどうかわからないが、車を走らせたら、また見つかった。



期待していた通りの苗代田にイロバナがあった。



その場は前日に拝見したものと同じような大きさ、文字のある護符があった。

2カ所も見つかればまちがなく村で護符を奉って祈祷する行事があると判断される。

ここもまた護符を竹挟みから勝手に外すことはできない。

うわべだけで読み取ることのできない文字になんとなくわかった「堂」の文字。

お堂でされていると推定される護符に胸が躍る。

「堂」の文字がある護符が判明した。

祈祷する時期はいつであるのか。

そしてお堂はどこにあるのか。

ワクワクする中山町の護符情報の散策。



付近を探して歩いていたら、今まさに苗代作りの真っ最中の場にたどり着いた。

年老いた男性とともに作業をする人はおそらく息子さんだろう。

カンカン照りの苗代作りはたいへんでしょう、と声をかけたら振り向いてくれた。

もしよろしければ撮らせてもらってもいいでしょうかと伝えたら了承してくださった。

男性二人はすぐ近くに住む親子。

親父さんが指示される通りに動く息子さん。

苗箱を並べた列は四つ。



一つ目の列に新聞紙を被せたところに、さらに覆う黒い紗。

一人ではできない作業に息子が手伝う。



1列目に紗を張り終えて次の列へ移る。

まずは予め自宅で作っておいた新聞紙ロールを回転させて広げていく。

ところが急に西風が吹いてきたものだから、大慌て。

手で抑えても膨らみのある部分に風が通るものだから捲れあがる。

必死で抑えるも空しく破れる新聞紙。

ところどころに手で掻いた泥を新聞紙にのせて飛ばされないようにしていた。

新聞紙に黒の紗を被せるのは苗の成長具合が見えること。

風通しが、えーから蒸れることもない。



苗代作業をされている親子は3列目に移っていた。

同じ作業の繰り返しに撮影するほうは待ち時間があるから、つい緊張感も解けてくる。

ふと目を置いたところに見たことのある道具があった。



左官屋さんが使っているような壁塗り道具だが、たいがいはステン製か鉄製の金属板のコテだが、これは木製だ。

木コテも左官屋さんが使う道具だが、この道具を使って苗床を平らにしていた、と話してくれた。

残る1列はあるが、時間帯はお昼。

そこで尋ねた苗代田で見かけた護符である。

うちにもそれがあるから持ってきてあげようという。

すぐ近くだからと云われてしばし待つ。

明日香村の撮影から戻ってきた知人の写真家も合流していたその時間帯に案内する付近の苗代田。

1時間前に撮っていた苗代田である。



10分ほど待っていたら戻ってきた昭和10年生まれのYさんが護符を広げてくださる。

そこにあった文字は「中山観音堂」。



わかり難いがなんとか判読できた護符に朱印を押してある。

崩れかけの朱印は2カ所。

新しく作ったものと思われる印もあるが、朱肉はインクスタンプのようだ。

持ってきたから立ててあげようとススンボ竹に挟んだ護符を立ててくれた。



その横に緑色が残っている松苗も立ててくれた。

ありがたいことであるが、手を合わすこともなく去っていった。

かつてYさんはフライパンで玄米を煎ってポップコーンのように弾けるイリゴメ(※炒る米)を作って半紙の上にパラパラと撒いていた。

また、ウルシ棒に挟んでいたが現在はススンボ竹挟みに移ったようだ。



さて、肝心かなめの護符は何時、どこで、である。

わかったのは小正月の早朝にトンドをする。

トンド焼きをした人はちゃんちゃん祭のお旅所に出かけて、年当番の6人組から版木で刷った護符をもらう、ということだ。

詳しいことは聞けなかったが、いつかは取材してみたい中山町の正月行事である。

(H30. 5. 4 EOS7D撮影)

稗田町の水口まつり

2019年09月22日 09時11分19秒 | 大和郡山市へ
天理市中山町に水口まつりが存在していたことに初めて気づく。

感動モノのご対面に心を躍らせながら帰路についた。

夕方の国道は渋滞が常。

避けるためにコース替えした大和郡山市の稗田町。

ここは春日大社の旧神領地である。

どこかにあるだろうと思って窓から探す苗代の白い幌。

目につきやすい白色がポイント。

走行中に見えた小さなモノはイロバナである。



苗代作りを終えたときに立てたと思われるイロバナに近づいたら松苗もあった。

写真ではわかりにくい小さなモノであるが、これは3月15日に春日大社で行われる御田植神事に奉られた松苗。



尤も神事に撒かれた松苗そのものではなく大社受付で1束いくらかで売られている松苗。

稗田町の代参が春日大社で買ってきた松苗である。

町民から遣わされた代参は農家の人たちが注文する本数を纏めて買いに行く役目を負っている。

旧神領地は稗田町以外に多くの地区がある。

上三橋町、下三橋町、美濃庄町、若槻町、発志院町、中城町、大江町、井戸野町、番匠田中町、横田町、石川町である。

稗田町に護岸整備された環濠がある。

稗田町の環濠は、私が大阪で学んだ小学校か、中学校の教科書に載っていたと思うのだが・・。

環濠の歴史を学ぶ学習書であったが、現在は・・。

教科書などにもよく記述されている”と、書いてあるブログ紹介は多く見られるが、どこの出版社が、どの課程に利用されているのか、一向に伝わってこない。

その環濠付近にも苗代があった。



前夜に吹いた風でイロバナも松苗も水苗代に浮かんでいた。

松苗は茶色に変質し、枯れているが豊作を願う形だけに水口辺りに立てる。



イロバナは葉っぱの具合でわかったナルコユリ。

犬の散歩中に一服していたMさんは村の人。

数日前の4月29日か30日ぐらいに苗代をしていたと話してくれる。

昔から農家の家に松苗が配られる稗田の村だという。

稗田は春日の若宮おん祭に出仕する村。

毎年に2人が大和士として出仕されるが、その年ごとに、何の役目にあたるか、抽選で決まるという。

(H30. 5. 3 EOS7D撮影)

中山町の水口まつり①

2019年09月21日 08時13分54秒 | 天理市へ
4月中旬のことだった。

知人の写真家Kさんが伝えてくれた水口まつりの情報である。

場所は4月1日に行われる大和神社のちゃんちゃん祭の神幸祭に向かうお旅所近くの田んぼである。

山の辺の道付近で話す農家さんの言葉が「この辺りは結構している」という苗代作りであった。

お旅所がある地といえば天理市の中山町である。

中山町はちゃんちゃん祭において重要な役割をもつ大字である。

中山町の氏神さんを祭る歯定神社で中山町他大字になる新泉町、兵庫町、岸田町、三昧田町、長柄町、萱生町、佐保庄町の7カ大字は中山町に献供する。

中山町はそのお返しに他の大字に御供を手渡す。

いわゆる「神事渡し」である。

そのちゃんちゃん祭には中山町の苗代作りと直接的に関係するものはない。

あるとすれば中山町独自の村行事であろうと思った。

兵庫町では節分後の日曜日に荘厳とも呼ばれる将軍祭行事がある。

ヤナギの枝木に挟む護符もあれば梅の木弓・ススンボ矢もある。

村の外れに矢を打つ行事に供えるのがヤナギ挟みの護符と餅藁で作ったチンマキ。

この二つの御供は苗代作りの際にイロバナとともに立てる。

その際にもう一つ。

大和神社で行われる御田植祭でたばった松苗も立てる。

この松苗は各大字にも配られるが、新泉町だけは松苗を立てていた。

他大字も探してみたが見つからなかった。

行事を重く受け止めている大字は苗代に立てて豊作を願うが他大字はどうなのだろうか。

苗代を作ると知って出かけた中山町。

思い当たるところを探してみようと出かけたら見つかった。



付近を散策すれば苗床を調えたばかりの苗代田がある。



2カ所も見つかった苗代作り待ち。

明日なのか、それとも明後日なのか期待される中山町。

どうか村の人に出会えるように・・。

(H30. 5. 3 EOS7D撮影)