マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

龍田大社の半夏生

2016年05月11日 09時18分04秒 | 三郷町へ
夏至から数えて11日目ごろが半生夏(はんげしょう)。

だいたいが7月2日で4年に一度ぐらいは7月1日になることがある。

この半夏生の日辺りから梅雨は後半に移り変わり、集中豪雨が多くなる時期になる。

そういう時期は昔から判っており、農家では田植えを終える目安ともされ、「半夏半作(はんげはんさく)」ということわざもあるようだ。

「半夏半作」とは半夏生までに田植えを終えなければ収穫が半分になるということらしい。

半夏生と同じ名がついている植物にハンゲショウがある。

尾のようにくるくる巻いているのが花。



葉っぱは花が咲くころに表面が白くなる特徴をもつハンゲショウ。

裏側は変化しないことから、別名に「方白草(かたしろぐさ)」がある。

その様子からお化粧の白粉(おしろい)を半分塗ったようにも見えることから「半化粧」の漢字が充てられて「ハンゲショウ」と呼ぶようになったそうだ。

植物のハンゲショウはドクダミ科の多年草。

水辺に生える。

三郷町立野南に鎮座する龍田大社では、その半夏生のころに風鎮祭が行われる。

地元ではこの祭りを半夏生の時期に行われることから「ハゲショ」、或は「ハンゲショ」と呼んでいるそうだ。

ところで、ハンゲショウと同じような「半化粧」になる植物はもう一つある。

マタタビである。

マタタビはマタタビ科のマタタビ属。

6月初めころに白い花(雄花)が咲く。

そのころほぼ同時期にハンゲショウと同様に葉の表側が真っ白に変化する。

マタタビとハンゲショウ。

農家にとってはハンゲショウだがマタタビは見向きもされない。

何故なんだ。

(H27. 6.28 EOS40D撮影)
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龍田大社茅の輪作り

2016年05月09日 09時42分44秒 | 三郷町へ
茅刈りを終えれば夏越大祓式に潜られる茅の輪作りが始まる。

龍田大社の境内にブルーシートを広げて刈り取った茅を置く。

置き方は出来上がりの茅の輪を想定して葉は上向き。

下部は芯の部分。左右対称になるように置く。

茅束だけであれば立てたときに崩れてしまう。

それを避けるために心棒が要る。

ベースになる心棒は黒い水道ホース。

バンセンでしっかりと締めて固定する。

下に15束を揃えて見栄え、出来具合を判断して置く位置を調製する。

位置が決まれば心棒のホースを隠すように、上も15束の茅を重ね合して茅束を置いていく。



恰好がついたら荒縄で括ってできあがる。

茅の輪の太さはざっと測って20cm。

全高は270cmにもなった。

茅の輪作りをしていたこの日はお宮参りが多かった。



お宮参りはひと月目。

そんな唄が聞こえてきそうな氏子たち家族の祝いの日。

次から次へと参拝される家族連れ。

赤ちゃんを抱いているのは、だいたいが新郎側の婦人。

つまりは生まれた赤ちゃんから云えば祖母になる。

祖母と云っても、お若い婦人。

書くのも辛い。

お宮参りをされている中の何組かが気になった。

赤ちゃんの祝い着は生んだ新婦の実家が贈るのがならわし。

最近はレンタルも活用しているようだ。

赤ちゃんの正式な祝い着は、肌着の上に白羽二重の内着。

その上から晴れ着の掛け着を羽織る。

首の後ろ辺りにヒモセン(紐銭)をぶら下げる。

我が家もヒモセンを取り付けて宮参りをしたことがあるが、地域によっては張り子の犬とかデンデン太鼓、或はお金そのものをかける風習がある。

龍田大社で見かけたお宮参りの参拝者の何組かが祝いのヒモセンをしていた。

茅の輪作りの僅かな時間帯で参拝された参拝者は五組。

うち二組がヒモセンをしていたことを付記しておく。

さて、だ。出来上がった茅の輪は境内に設えた紅白の支柱に建てるのだ。

茅の輪が支柱の内側になるよう位置決めする。

位置が決まれば支柱を固定する杭を打ち込む。

次は高さだ。

この位置を決めるには作った茅の輪が要る。

梯子を伸ばして数人がかりで茅の輪の中央を抱え込んで高さを測る。

決まれば支柱に印を入れる。

幅や高さ測った茅の輪を下ろして次の作業に移る。



伐採しておいた青竹は水平を保ちながら、印した位置に両端を仮止め。

バンセンでしっかり縛って完成した。



できあがった茅の輪は30日の夏越大祓式が行われる午前中にこの青竹に吊るすように仕掛ける。

その日が来るまでは境内で保管される。

この日より二日間もあることから茅が乾かないように水分を補給しておく。



補給といっても茅全体に水道水をぶっかけておくということだ。

蒸発もしないようにブルーシートを被せてこの日の作業のすべてを終えた。

時間は午後12時半。

作業のすべてを終えた坂根よらん会を慰労する。

大社のご厚意で手配されたお昼の弁当はコロッケにカラアゲ。



豚の塩焼きも美味しくいただいた。

(H27. 6.28 EOS40D撮影)
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龍田大社の茅刈り

2016年05月09日 09時27分28秒 | 三郷町へ
三郷町立野南に鎮座する龍田大社。

6月30日に夏越大祓式をされている神社は数多い。

大祓いは年に二回。

12月末日と6月末日の晦日の日である。

晦日、或は師走の大祓いを大々的に案内する神社は少ないが、夏を健康で無事に越す夏越の大祓は茅の輪の作法もあって特に賑わうし、ニュースなどで取り上げられることもまま増えつつある。

昨今は斎庭に立てる茅の輪の材料集めが難しくなってきている。

材料の茅は大量に採取しなければ参拝者が潜れるような大きな茅の輪にならない。

河川敷、或は緩やかな水流がある砂地にも生える茅はどこにでもあった。

採取は不自由さもなく難なくできたという人も多かった。

ところがだ、いつしか茅が消えてしまった処がある。

護岸工事によって川の流れが変わって消滅した処もある。

茅は何も河川だけでなく、村行事に必要なことから特設の茅場を設けて育てていた地域もあるぐらいだった。

龍田大社の茅の輪は前年の6月30日に潜らせていただいた。

茅を集めて茅の輪を作ると話していた“坂根よらん会”のSさん。

今年は28日の日曜日にすると娘さんが伝えてくれた。

採取の手段、製作などを拝見したいと私の願いに応えてくださった。

集合地は龍田大社だ。

時間ともなれば会の人たちがやってきた。

軽トラの荷台には刈り取る作業に使う鎌などを置いていた。

大社の禰宜さんも作業の一員。

ともに連れだって目的地に向かう。

その場は今でも覚えている大和川の河川敷だ。

平成18年4月3日に行われた瀧祭り。

斉場は磐瀬の杜だ。

磐瀬の杜では放魚祭も行われる。

平成20年4月4日に伺った放魚祭(放生会とも)の主役は大和川に放生する鯉魚だった。

磐瀬の杜は龍田大社の飛び地境内である。

古の杜は大和川の岸辺に広がる豊かな森であったが、河川の氾濫や改修工事などによってすっかり消えて、現在地に遷された。

車を停められる一角はやや広場。

丁度、その場はJR大和路線(関西本線)の列車が走る第3大和川橋梁だ。

磐瀬の杜の前は車が往来する道であるが、元々は関西本線の線路道だった。

社より南に1kmも下れば、「亀の瀬」に辿り着く大阪奈良間の街道だった。

昭和6年に発生した亀の瀬の地滑り大崩落で大和川が埋まった。

昭和7年、南岸へ迂回する線路に付け替えた。

第3大和川橋梁より200m北。

この辺りからは急なカーブを描いて鉄橋は大和川を越えて対岸になった。

亀の瀬の地滑りが発生した時期を遡れば、昭和47年、昭和26年、昭和6年・7年、明治23年、明治36年があった。

昭和34年に地滑り防止区域に指定され、さらには昭和37年に直轄施行区域が指定されて大規模な対策事業工事が始まった。

昭和42年に発生するも、以降、現在まで目に見える規模の地滑りは発生していない。

話しを茅刈りに戻そう。

一昨年は今回と同じ場で茅を刈った。

ところが、降り続けた大雨の影響で茅は泥まみれだった。

水洗いするなど奇麗にするには三日間もかかった。

その関係もあって、前年の茅刈り場は勢野北口に急遽、切り替えた。

宅地造成で運ばれた土に混ざっていた茅を刈った。

茅は「ヨシ」だったと話していた。

その後の宅地造成進捗もあって茅は業者が刈り取ったらしい。

この年は大雨もなく、河川敷に植生する茅は綺麗に育っていたことから茅刈りの場は本来の地に戻された。

茅場に到着すれば早速作業が始まる。



めいめいは鎌を手にして茅刈り作業。

左手で何本かを掴んで右手でザクっと刈り取る。

刈り取っては屈む。

屈んで根株辺りをザクっと刈る。

これを繰り返す。



刈り取った茅は束にして鉄橋下に運ぶ。

運んでいる間も刈り取り作業が続く。

収穫した茅は一挙に増えて行く。



何度も、何度も抱えて運ぶ。

どちらも力が要る作業だ。



刈り取った茅は10cmぐらいの束にする。

市販の荒縄で括って崩れないようにする。

一定の長さで測った茅束は押し切り機の藁切りで切断する。



押し切り機はぐっと前に押し出すように切る。

一定の長さは葉の先から測って90cmである。

その間も茅の刈り取り作業がある。



橋梁の南側も刈れば、北側も刈る。

作業を始めてからおよそ1時間半。



茅の束を綺麗に揃えて芯の部分を朝紐で縛る。

収穫した茅束は軽トラに乗せて、次の作業場所になる龍田大社へ戻っていった。

(H27. 6.28 EOS40D撮影)
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龍田大社の節分祭・御火焚祭

2015年11月12日 08時24分57秒 | 三郷町へ
13時半より節分祭が行われる三郷町立野南の龍田大社。

午前中に立ち寄った際、御火焚祭の護摩壇の設営をされていた。

久しぶりにお会いした上田宮司から「来てや」と云われてこの日は二度目の参拝だ。

年の初めの立春に一年間を無事に過ごせるよう祈願する節分祭が行われる。

始まるころには拝殿前の前庭は人が溢れるぐらい、大勢の氏子参拝者がやってくる。



神事に拝殿も上がれるが、溢れた人は前庭で立つ。

拝殿には御火焚祭に投げ入れられる祈願木がある。

無病息災健康祈願・交通安全など大願成就を願う祈祷木は大量だ。

そこには五色の垂れ・シデで飾った弓と四本の矢も奉っている。

神事は祓いの儀、献饌。



災いを祓う弓矢・・の祝詞を奏上される。

そして始まった弓打ち。

前庭に設えた台に登った禰宜さんが矢を射る。



四方に放つ矢はいわゆる「鬼やらい(鬼遣らい)」である。

周りを囲む参拝者は打つ瞬間を待つ。

すっと放たれた矢は拾って持ち帰ることができる。

家の床の間などに飾って家を守ってもらうのだと手にいれた人は喜んでいた。

次は拝殿で宮司による豆撒き。

「フクハーウチー」と大きく掛け声をかけて福豆を撒く。

玉串奉奠で終えた節分祭の神事だった。



その後は境内では厄除け甘酒が振る舞われる。

生姜も混じった甘酒の香りが境内に広がる。

節分祭を終えた次は御火焚祭に移る。

火焚の場は神社参道である。

右手に矢をゲットした人も火焚の場に移動する。



護摩壇はヒバの木で覆った。

一週間前、山に出かけて伐り出したヒバ。

木のぼり名人が梯子を架けて伐採したという。

同じく伐り出した松の木を六段積みにして設えた壇には大御幣を奉っている。

始めに行われるのは祓えの詞。

祓えは参拝者それぞれの場に移動されて行われる。



次は洗い米、酒、塩を壇に撒いて祓い清める。

塩はサカキの葉で摘まんで撒いていた。

これを四方それぞれにされる。

次は大御幣の前に立つ宮司が祝詞を奏上する。



奏上された御幣を禰宜が受け取る。

そこで交換した灯明箱は本殿前まで運ばれる。



火起こしは火打ち石。

点いたオヒカリは灯明箱内に納める。

丁重に運んで戻ってきた禰宜は壇に火を遷す。



その際には神職たちが袖を広げて見えないようにする。

火打ちの儀式もそうであったようだ。

しばらくすればもうもうと白い煙が立ち上がった。

ヒバの葉が燃えてパチパチと音がする。



二本のバチを手にして太鼓を打つ宮司。

ドン、ドン、ドン・・・ド、ド、ド・・ドドド、ド、ドンドドコドン・・・・。

ダイナミックなバチさばきで太鼓を打つ。



ときには大きく、ときには小さく。

鼓動が叫ぶような音色である。

数分経過したころに火の手があがった。

浄火によって焚きあげる火は煙とともに上昇する。



およそ10分後、祈願した木を火焚壇に投入される。

太鼓は宮司の他、神職が交替しながら打ち続ける。



その間は坂本巫女が鈴を手にして神楽を舞っていたが、鈴の音色は太鼓の音で届かない。



拝殿に供えた紅白のモチは奉納された開運餅撒きの餅。

この年、本厄けのご祈祷を受けた人たちが奉納された紅白餅である。

御火焚祭を終えて再び拝殿に移った参拝者。



福をおすそわけに撒かれる福餅に群がる。

押し合いへしあいに怪我人がでませんように・・・。

(H27. 2. 3 EOS40D撮影)
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勢野薬隆寺八幡神社マツリの御湯

2015年06月20日 08時36分43秒 | 三郷町へ
前日の宵宮は十人衆の行事。

この日は氏子のマツリで御湯が行われる三郷町勢野薬隆寺・八幡神社。

平成24年に第三版を発行された『三郷路(みさとじ)ふるさと散歩-文化財と史蹟のガイドブック-』によれば、昭和26年に解体修理されたときのことだ。

「永正拾壱年甲戌(1514)九月拾九日」の棟木が発見されたという。

この年の平成26年11月には薬隆寺八幡神社の創建500年祭を記念する講演会が催される。

主催は『三郷路ふるさと散歩』執筆にあたって調査された団体だ。

本殿階段下には数多くの燈籠がある。

「宝暦六丙子(1756)十一月吉日 施主赤井氏」が刻まれていた。

そこには天保時代(1830~)や万延時代(1860~)に寄進建之された燈籠もあった。

場を離れて鳥居下にも燈籠があった。

それには「明和七年庚寅(1770)三月吉日 八幡宮永代常夜燈 北垣内連中」が刻まれていた。

勢野薬隆寺八幡神社を訪れたのは7月14日に行われた北垣内の天王祭りの取材に出かけたときにお会いした宮総代のUさんが話した古い湯釜に興味をもったからだ。

前日に下見を済ませた八幡神社には宮総代や氏子たちが集まっていた。

ご挨拶をさせてもらって取材に入る。

その直前に出合った坂本巫女。

三郷町在住の巫女さんだ。

この日は娘さんも同行である。

神社に向かう道すがらに話された隣村の秋留の八幡神社。

坂本さんが幼いころ、母親か祖母についていって秋留の八幡神社に出仕したそうだ。

当時は鬱蒼とした社そうであったと思い出された。

そのころは御湯や神楽も舞っていたという。

いつの時代か判らないが、それはしなくなったと話す。

もしかとすれば湯釜があるのかも知れない。

薬隆寺八幡神社には古い湯釜があると聞いていたが、斎場に設えていたのはそれほど古くもない湯釜だった。

薬隆寺八幡神社はかつて当地鎮座でなく北垣内の東側。

美松という地に元は八幡堂と呼ばれていた場があり、その地が元社の旧鎮座地であったと伝わる。

祭祀を勤めていたのは東の座と呼ばれていたそうだ。

そう話すのはこの日の調査に来られていた奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏だ。

東の座の呼び名はどうしてついたのか、である。

勢野にはもう一つの八幡神社がある。

秋留の八幡神社だ。

同神社は薬隆寺八幡神社から北の方角に鎮座している。

元々の地が北垣内であれば、そこは秋留の八幡神社から見れば東の地。

今尚十人衆と呼ばれる座がある秋留の八幡神社を西の座と仮定すれば、薬隆寺八幡神社を東の座の名がついたのではないだろうかと云うのだ。

本殿階段下に御神燈を掲げた提灯立てがある。

そこより数メートル下った場に斎場を組んだ。

新しい湯釜を設えて、祭壇に洗い米、塩、お酒に幣や笹束を置いた。

巫女さんが御湯をされる場にはブルーシートを広げて敷物を敷いている。

始めに神職が巫女さんともども氏子たちを祓ってくださる。

そして移動した。

提灯を掲げた下には神饌御供を供えた祭壇もある。

普段着姿の氏子たちはその場を見守るかのように境内に立った。

神職らは提灯立て付近に並ぶ。

白装束の人は次の年度に神職を勤める後継者だ。

始めに祓えの詞を唱えて次は神職による祝詞奏上となる。

当地は近鉄電車生駒線の勢野北口駅近く。

駅舎に停車する音が祝詞奏上中に聞こえてくる。

献饌など神事は本殿に登ることなくこの場さ斎行されるのだ。



次は娘さんの巫女さんが舞う神楽に移る。

神楽歌を奏上されて鈴と扇を手にして舞う。

左に一回転して鈴を下げる。

続けて右に一回転する。

一旦、鈴を下げるような所作をしてもう一度、左に一回転。

シャンシャンと鈴を鳴らす音が聞こえる。

拝礼されて「このやおとめ・・・」と謡う神楽歌は母親の坂本さんだ。

「このや乙女」の神楽歌に合せて舞う神楽は娘さん。

親子の競演にしばし立ちつくす。

大きく両手を広げて舞う。

何度か所作をされて水平に保つ。

水平に保ちつつ、左に右に手を動かす。

しばらく舞っている間に謡われる「このや乙女」。

声高らかな神楽歌が境内へ広がる。

なんとも神々しさを感じるのだ。



次は穢れを祓う剣の舞いに移る。

両手に剣を持ちかえて舞う神楽。

度々、拝見する剣の舞いは所作が大きい。

左に一回転して両手でもつ剣を交差するように所作をされる。

まるで空を切るような感じである。

右に三回転されて空を切る。

左に三回転されて空を切る。

四隅を祓って境内側に向かって空を切る。

何度か立ち位置を替えて空を切る。

最後は鈴と剣を持ってシャンシャンと鈴を鳴らしながら舞う。

それらの所作を終えて鈴と剣で祓ってくださる。

「家内安全お守りください 水難盗難 交通事故・・・どうか身体健勝でありますように 祓えたまえきよめたまえ」。



神職の他、氏子一人ずつ丁寧に祓ってくださる。

しかもだ。調査に訪れていた鹿谷氏や取材していた私にも祓ってくださる。

いつもそうしてくださるありがたいお祓いである。

神楽舞の次は御湯神事に移る。



本殿に向かって拝礼される巫女さん。

幣を左右に降る。

ポン、ポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上する。

そして湯に撒き散らすキリヌサ。

立ちあがって酒を注ぎながら「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。

大幣を左右に振って柄の部分を湯に浸けて「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。

「みちのふどうのまつの大明神 この御湯にのり遷し のりかわし」勧請を申す。

「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。

勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転して神楽を舞う。

2本の笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき いずくの国より 天より降りたもう」と告げる。



湯に浸けて上下に動かす笹の葉。

立ちあがる湯のけむり。

「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。

何度か繰り返す笹湯の作法。



そうして湯に浸けた笹も手にして「もとのやしろにおくりそうろう おさめそうろう おんなおれ」と四神に向かって告げる。

四神それぞれに捧げたあとも舞う神楽。

先ほどと同じように左、右、左に一回転する。

シャンシャンシャンと鈴を鳴らす所作は神楽歌のときよりも早い。

履物を履いて提灯下に移動する。



本殿の神さんに捧げる神楽舞は湯に浸けた笹と鈴をもつ。

シャンシャンシャンの音色はいつ聞いてもリズミカルに感じる。

場を移して境内社に浅間(せんげん)社にも捧げられる。



次の場は結界で区切った伊勢神宮遥拝所の前だ。

坂本さんが捧げる御湯の神楽はいつもこうしてあらゆる神さんに献上されるのだ。

そして、娘さんと同様に神職の他、氏子たちに向かう。



そうして氏子一人ずつに「家内安全 水難盗難 交通安全 どうかお守りたまえ もろもろの穢れを祓えたまえ きよめたまえ」と、御湯で浸けた笹と鈴・幣で身体健勝を願い祓ってくださる。

最後に鹿谷氏、私もである。

なんとこの日は親子揃ってのダブル祓いになった。

坂本家が行われる御湯神事は県内地域に広範囲に亘っている。

当地の三郷町の他、平群町、大和郡山市、川西町、広陵町、王寺町、天理市、香芝市、斑鳩町、安堵町などがある。

この年は新たに大淀町も出仕されることになった。

坂本家は龍田大社の神子(巫女)を勤めていた家系で宝暦十二年(1762)に吉田家から受けた裁許状を伝えている。

坂本家に伝わる神楽歌は「神の呼び出し」、「このや乙女」、「すめ神」、「めづらしな」、「千代まで」、「君が代」、「都人」があるが詳しくは三郷町史を参照されたい。

御湯の作法を終えて拝見した古い湯釜。

傷みがあるのか湯が洩れるらしい。

使うわけにはいかなくなったことから蔵に収納されていたのだ。

ありがたくも宮総代の一人が箱に納めていた湯釜を取り出してくださった。



湯釜には刻印があった。

「和平群郡東勢野哩八幡宮御湯釜 貞享二年乙丑九月吉日 和葛下郡五位堂村津田大和大掾藤原定次作」である。

貞享二年は西暦1685年。

今から329年前に製作された代物である。



刻印地名に東勢野哩がある。

勢野の里は今でいう勢野であろう。

ということは東勢野である。

西の秋留八幡神社に対する東の薬隆寺八幡神社と称された証しだと思ったのである。

貴重な湯釜は三郷町の文化財。

御所市蛇穴の野口神社と同じようにガラスケースに収納されて大切に保管されてはどうかと伝えた。



直会を終えて絵馬殿に上がらせてもらった。

宮総代らの承諾を得て撮らせてもらった数々の奉納絵馬。

慶応三年(1867)正月に奉納された「御祭礼の図」や「元寇の図」、「七福神の図」など額装された絵馬は平成3年7月に町指定された有形文化財である。

明治時代の勧進相撲番付額も数点ある。



薬隆寺八幡神社と呼ばれる神社には寺は存在しないが、慶応三年に奉納された「御祭礼の図」絵馬に描かれている。

今では絵馬殿と呼ばれているが、おそらく座小屋であろう。

その右手に描かれていたお堂が薬隆寺ではないかと推定される。

廃仏毀釈のおりに廃寺となった薬隆寺本尊の薬師如来坐像は勢谷寺(せいこくじ)に遷されて客佛・安置されたそうだ。

(H26.10.25 EOS40D撮影)
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勢野の神社を探す

2015年06月19日 08時18分02秒 | 三郷町へ
三郷町勢野西に鎮座する薬隆寺の八幡神社で宵宮が行われることは聞いていたが、時間は知らなかった。

下見を兼ねて午後に出かけてみた。

勢野東の北垣内から近い地にあると思っていたがどうも判り難い。

カーナビゲーションに出現するであろうと思っていたが、意に介さず出力されない。

平隆寺(へいりゅじ)の所在地を示す立て看板があった。

入っていくものの道は狭くて自動車は入ることはできない。

なんとかUターンして侵入口に戻る。

寺所在地の反対側へ向かって付近におられた婦人に尋ねた。

狭い道だが軽自動車であれば通ることも可能だと云う。

ところで神社である。

薬隆寺の八幡神社へは一旦道路に出て右曲がり、左曲がりして行けば着くそうだ。

ここにも立て看板があり表示に沿って道を進む。

神社は見つかったが、駐車場はない。

下った田畑に男性がサツマイモを引いていた。

声をかけさせていただいて神社に向かいたいがどうすればいいのだろうと話せばここへ停めても構わないと云う。

ありがたいことである。

参拝を兼ねた下見。

この日は宵宮と聞いていたが、どなたもおられない。

絵馬殿とも呼ばれる参籠所に掲示してあった年中行事リスト。

氏子用に掲示したものであるが、民俗探訪者にとってはありがたい。

そのうちのいくつかの行事には時間も書いてあった。

この日は朝の8時に宵宮の御湯が行われたようだ。

斉場と思われる処にキリヌサが撒いてあった。

翌日はマツリで9時とある。

仕方がないが、明朝に出かけることにした。

下って田畑の男性に話しをすれば、勢野には二つの神社があるという。

当地は薬隆寺の八幡神社であるが、ここより北にあるのは勢野西地区の秋留の八幡神社である。

男性は秋留の八幡神社の十人衆のひとり。

一老から年齢順にくだった九老だという。

十人衆は神社祭祀を勤める宮守さん。

毎月の初めには境内を清掃していると云う。

この日は秋留の八幡神社のヨミヤ。

朝8時に出かけて清掃をしていた。

それが終わればお供えをして一老が祝詞を奏上していたと云う。

翌日はマツリで同じように清掃をされて神事が行われる。

神職は龍田大社の上田宮司が来られるそうだ。

明日に、ここ薬隆寺の八幡神社に来るなら停めていてもいいと話す。

村の人から「なんで停めているのだ」と云われたら勢野西に住むWさんの名前を告げればいいと話す。

ところで二つの神社の氏子区域はどのような区割りがあるのか尋ねてみた。

答えは二つの檀家寺に別れているというのだ。

秋留の八幡神社の氏子は平隆寺で、薬隆寺の八幡神社の氏子は勢谷寺(せいこくじ)になるという。

そういえば、この年の7月に取材させていただいた勢野東地区の北垣内は勢谷寺が檀家寺だと話していた。

聖徳太子建立46ケ寺院のひとつである平隆寺も勢谷寺も同じ宗派の融通念仏宗派だと云う。

これまで数々の行事取材させていただいたが、勢野の氏子圏区割りは初見である。

男性の話しによれば秋留の戸数は75戸で勢野西は125戸にもおよぶようだ。

勢野の旧村よりも新興住宅が増えたのであろう。

ちなみに勢野東に鎮座する神社に春日神社があるそうだ。

(H26.10.24 SB932SH撮影)
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勢野北垣内天王祭り

2015年01月27日 10時27分36秒 | 三郷町へ
三郷の坂本さんが教えてくださった三郷町勢野の天王祭り。

行事の場は北垣内になる。

「ややこしい場所なので見つけにくい」と話していた。

二週間前、南畑の帰り路に立ち寄ったが、「北垣内」の住居地図があるにも拘わらず、結局判らずじまいだった。

坂本さんの話によれば、「北垣内」は行政町名の勢野東3丁目らしい。

集落内にある成就寺であるが、安寿さんが亡くなられてからは一般的な家屋になったと話していた。

尼寺・成就寺には牛頭さんを祀っている。

7月14日には、その場で行われる御湯神事は自治会主催の行事。

日が聞き間違いでなければ人が集まっているはずだ。

そう思って北垣内を巡ってみた。

民家らしき家にはテントを張っていた。

おそるおそる尋ねた自治会の人の話しによれば、成就寺は曹洞宗の大阪府柏原市本郷の河内薬師寺の末寺になると云う。

で、「どうしてお寺さんであるのに牛頭さんが・・・」と聞けば、昭和14年に焼失した成就寺敷地内の西側に建つ小社がそうだと云う。

小社は牛頭天王社だった。

明治時代の廃仏毀釈のおりに、何らかの理由があって勢野薬隆寺に鎮座する八幡神社に遷されたと云う。

マツリには獅子舞もやってきたと云う八幡神社の境内社に浅間(せんげん)社がある。

そこに元あった社を祀っていると云うのだ。

この件は、10月に訪れた薬隆寺の八幡神社に出仕された坂本さんの話しによれば絵馬殿こと参籠所内に神像があったと思いだされる。

いつしかその場でなく他所に遷したらしいと話す。

八幡神社に寄進された常夜燈の一つは北垣内が建之されたもの。

明和二年(1765)の刻印があるようだ。

成就寺敷地内に建つ牛頭天王社の神像は、気になされていた安寿さんが生前中に新しく木像の牛頭さんを製作して祀るようになったと尋ねた人が話す。

そのことを機会に集落の長老たちが立ちあがり、14日の夕刻にはアゲメシを炊いて地区の人にもてなすようになったと云う。

アゲメシは葬儀のときにだしていた食べ物。

北垣内の東・西それぞれが炊いていたそうだ。

次世代を担う人たちに継承してもらいたいという願いで始まったと云う。

天王さんの祭りには御供がいっぱい供えられている。

ソーメンやスイカなどもあるが、多くはお重いっぱい盛ったお米だった。

社殿下に設えた湯釜は三本脚でもなくレンガ造りの火場だった。

湯釜は記銘もなく、古くでもなく、新しくもない感じだ。

2軒の当家さんは湯焚きさん。

竹の幣も作る。

二本の竹幣は一本が90cmで、もう一本は38cmの長短だ。

北垣内は旧村28戸。

本家・分家の人たちの廻りとなる当家は14年に一度廻ってくるようだ。

かつては母家筋の特定家。

「講のもんやった」と83歳のK当家が当時を振り返って話してくれた。

御湯の神事は坂本さんのお勤め。

神職は登場しない。

いつもながらの作法で行われる。

集まった人たちで「後方からでは写しにくいやろ、前から撮ってもかまへんで」と云われて立ち位置を移動する。

ありがたいお言葉に甘えて撮らせてもらった御湯の作法。



大きな幣で沸かした湯を掻き混ぜる。

二本の笹束を湯に浸けて北垣内に神さんを勧請する。



祝詞とも思える「神の呼出し」の神楽歌である。

左側に座っているのは娘さんの考江さんだ。



御湯の作法を終えれば、牛頭さんの御前で神楽を舞う。

牛頭天王社下の燈籠には「牛頭天王 天保二年卯(1831)六月吉日」の刻印がある。

そして、御湯をされた笹とともに鈴を手にして参拝者一人ずつ湯祓いをされる。

いつもそうされている湯祓いだ。

次は考江さんが舞う神楽舞である。



「すめ神」の神楽舞、「このや乙女」の神楽歌に二本の剣をもち舞う神楽。

鈴ももって舞う神楽が行われた。

今度は鈴と剣で祓えたまえ清めたまえと一人ずつ祓っていく。

神楽を舞う時間と同じぐらいに費やした。



テント後方におられた方は順番待ち。

一人ずつされるまで順番を待っていた。

念仏講もあると云う北垣内。

昔は、天王さんの祭りのときには大勢の子供たちがやってきて花火をした。

集落を巡るキモダメシもあったと話す。

夕方5時から始まる垣内の行事。

今ではそのような様相もないようだ。

ここにおられた婦人が話してくれた出里地域の行事。

天理市竹之内町である。

氏神さんの十二神社では風鎮祭をしていたと云うのだ。

いつなのか覚えておられなかったが、家で作った料理をお重に詰めて神社に参り、ゴザを敷いて食べていたと話してくれた。

(H26. 7.14 EOS40D撮影)
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信貴南畑ハゲッショの神楽

2015年01月11日 09時33分44秒 | 三郷町へ
信貴南畑のハゲッショ神楽を再見したく、今年も訪れた三郷町信貴南畑。

夏至の日から数えて11日目になる日は半夏生(はんげしょう)。

だいたいが7月2日である。

夏越大祓いをされていた龍田大社の神社殿前には白い花をつけた半夏生が置いていた。

半夏生は先端部分の葉が徐々に白く変化するのだ。

花が咲けば梅雨も終わりのころになる。

龍田大社で行われる風鎮祭のことを「ハゲショ」若しくは「ハンゲショ」とも呼んでいるようだ。

県内では半夏生が訛って「ハンゲッショ」。

さらに訛って「ハゲッショ」と呼ぶ地域は割合ある。

信貴南畑も同じようにハゲッショと呼んでいるが、行事ごとをされる地域はどうも少ないようだ。

當麻・香芝辺りでは田植えを終えて梅雨の水の恵みに感謝して小麦と粳米を混ぜた搗いたハゲッショの餅にキナコを塗して食べていたようだ。

各家で作って食べた郷土料理は見ることもないが、當麻の道の駅で売っていた。

吉野町ではさなぶり餅と呼んでいたようだ。

二毛作が衰退した現代では民家におけるハゲッショ餅は作ることなく、橿原市のあるお店で販売しているとか、村起こしイベントで作られているようだ。

信貴南畑の素盞嗚尊神社で行われるハゲッショの神楽。

前年よりも1時間前に着くようにしていた。

神社が鎮座する山に上がる参道を登っていた。

そのときのことだ。

声が聞こえてきた。

村人の声でもなく、声の主は聞き覚えのある三郷町の坂本巫女だ。

遠くまで聞こえる坂本さんの声。

唱えていた詞章は御湯作法の最後のほうだった。

到着していたころには御湯を終えたばかりだった。

この年は坂本さんの都合もあって一時間早めたと云うのである。

二つの湯釜の前で三度行われる御湯が特徴の信貴南畑。

湯気がまだでていた。



御湯を終えたクマザサは狛犬の股下に入れていた。

昔は飼っていた牛に食べさせていたというクマザサである。

忌竹・笹束は終わったから燃やしてしまいたいけどと当番の人が長老に尋ねたが、結果は・・・。

「忌竹は構わないが、笹はそのままにしておけ・・・」である。

かつてあった宮座の一老の言葉に従う始末の仕方。

宮座は平成12年に解散されたが長老の言葉は重みがあるのだ。

御湯を終えた村人たちは参籠所に上がって直会をされる。

前年は6人だったが、この年は倍以上の参拝者になった。

昔は子供もやってきていたので「それ以上の倍ぐらいやった」と口々に話す氏子たち。

その場で坂本さんが神楽を舞う。



昭和6年生まれの長老が打つ太鼓に合わせているのか、逆に舞いに合わして打っているのか判らないが、太鼓打ちは「ワシの役目や」と云ってこの年も打っていた。

リズムは単調でドン、ドン、ドンと叩いていた。

小型の胴長太鼓は「昭和五十九年閏甲子歳八月張替 大阪市芦原駅前太鼓正張替」と書いてあった。

胴長にもうっすらと墨書がある。

その文字は「信貴山畑」だ。

信貴山畑は南畑の旧地名であろうか。

江戸時代は奈良奉行直轄の幕府・旗本領だった「信貴畑村」は明治22年に「西向村・櫟原村・椣原村・上庄村・梨本村・吉新村・三里村・白石畑村・平等寺村・下垣内村・鳴川村・福貴村・福貴畑村・久安寺村・椹原村・越木塚村・若井村・西宮村・椿井村」を集合した平群郡明治村(明治29年に改称されて平群村)になった。

平群郡には大和郡山の今国府・八条・馬司・池沢・椎木の額田部村も含んでいたそうだ。

太鼓にあった「信貴山畑」は現在の平群町信貴畑と思われ、三郷町の信貴南畑に対して「北畑」とされていたように思える。

何らかの形で両村が繋がっていたのではと、思ったのである。



鈴舞い、剣の舞を終えて参拝者一人ずつ、もろもろの穢れを鈴と剣で祓ってくださるありがたい神楽舞は男性、女性ともに、である。

祓ったあとも鈴舞い、剣の舞が行われる。

太鼓打ちの長老にはもう一度祓ってくださる。

このころになれば、直会の膳が配られてお神酒やビールでいただく宴に移るが、そのさなかにも続けて鈴舞い、剣の舞が行われる。

当番さんが膳を配る間も舞っていく神楽舞。

村のマツリの在り方に感動を覚える。

舞いを終えてお一人ごとに身体健勝の祓えたまえ清めたまえのお祓い。

参拝者一人ずつにこれを繰り返すのだ。

太鼓打ちの長老は食べる間もなく坂本さんが舞っておれば太鼓を打つ。



下働きされていた婦人らにもお祓いをされてようやく終了した。

その間の神楽舞はおよそ30分間。

坂本さんは汗びっしょりになった。

体力が要るお祓いに、普段は体力作りにフィットネスに通っていると話す。

坂本さんの話しによれば、川西町の下永・八幡神社で行われるお神楽は参拝者が長い行列になると云う。

延々ぶっとおしの2時間を舞うと云うのだから相当な体力が要るのである。

そのような話しをしてくださった坂本さんは急がなければならず退席された。

その後も宴が続く信貴南畑。

ハゲッショはケツケとも呼ぶ日。キナコを塗したナエサン(苗)を竃の蓋の上に供えていたと話す。

かつてケツケヤスミ(毛付け休み)・アメヨロコビ(雨歓び)・ジュンキヨロコビ(順季歓び)もあったようだ。

(H26. 7. 2 EOS40D撮影)
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龍田大社夏越大祓式

2015年01月09日 07時22分42秒 | 三郷町へ
茅の輪潜りがあると知って久しぶりにでかけた龍田大社。

夏越大祓いは平成25年から始めたという。

先代宮司の親父さんは引退されて名誉宮司に、継いだ上田禰宜は今年の4月から正式に宮司になった。

昨年が始めての茅の輪作り。

その年の茅は大和川で採ってきたが、大雨の影響で泥まみれだった。

水洗いするなど奇麗にするには三日間もかかったと話す。

初めてのことなので氏子の支援は二人だった。

茅の輪を作るには丸一日がかりやったと云う。

今年の夏越大祓いは氏子総代に案内されて大勢の氏子らがやってきて作ったのだ。

およそ2m以上にも組立てた茅の輪作りは総代ら11人が支援する作業だったので半日でできあがったと云う。

ちなみに今年の茅の採取地は勢野北口。

宅地造成で運ばれた土に混ざっていた「ヨシ」だと話していた。

予め受け取っていた人形に名前・数え歳を書いて祭祀受付に祓い料千円を授けて参列する。

今年は式典を終えて貰って帰る小型の茅の輪も用意したと云う。

斎場は拝殿前の境内だ。

斎壇には一般参列に用意した人形もあれば、中央に奉書で包んだ二品もある。

中身は見えない。

左側にあるのはキリヌサのようだ。

式典は茅の輪後方に並んだ参拝者に人形、キリヌサを配られて始まった。



始めに大祓えの詞を奏上される。

次は、参列者の人形祓えだ。



人形で患部をなでて、ふっと息を吹きかける。

そしてキリヌサを撒く。

参列者が祓った人形を封に入れて神職に返す。



そのときに気がついたご婦人の姿。

普段着姿のご婦人と若い女性は、なんと三郷の坂本さん親子だった。

二人の女児はやがて巫女職の後継ぎになる子供さんだ。

「こうして村の行事に参列することがとても大切なのです」と坂本さんは話す。

ここで、突如として始まった祓えの作法。

奉書に包んだ桃の木をバキバキと折られたが、写真では判り難い。



次の布切れを引き裂く作法は8回。

水平に構えてぐっと引き裂く。



繰り返し、繰り返し、細くする。

これもまた一瞬の作法である。

呼吸を読み取ることは難しい。



折った桃の木と引き裂いた布切れは参拝者が祓った人形とともに蓆に包みこむ「はらえつもの(祓えつ物)」の儀式である。

大祓えの詞に祓えつ物の儀のことが書かれてあると云う。

祓えつ物は式典を終えてから大和川に流すそうだ。

龍田大社の茅の輪潜りは「はらえつもの」の儀を終えてからである。



茅の輪の正面に立って軽く一礼して潜る。



潜れば左廻りする。

廻って再び正面に立って茅の輪を潜る。



次は右廻り。

ぐるりと旋回して再び正面に立って茅の輪を潜る。

次はもう一度左に廻って正面に立って潜り、まっすぐ神前に進みでて、2礼2拍手、1礼をされて参拝するという作法である。

まずは神職らが「水無月の 夏越しの 祓いする人は 千歳のいのち のぶというなり」の古歌を唱えながら潜る。

参列者の人数は多い。2班に分けての茅の輪潜りは一列終わって次の潜りをする大きな輪になった。

三度潜って本殿に頭を下げる茅の輪は一列になる。

茅の輪潜りはどこでも同じだと思うが、龍田大社は氏子たちがぶつからないように安全柵で仕切りをしていた。

とにかく多い参列者の人数。

2班に分けての茅の輪潜りは一列終わって次の潜りをする大きな輪になる。

2班の先頭はいずれも総代さんらだ。

坂本さんの旦那さんも潜っていた。



後続についた坂本さん親子も潜っていく。

この日は巫女の出仕ではなく、一般氏子としての参列である。

2組が潜るには時間もかかる。

古来より茅には浄化の力あるとされてきた。

特に伊勢地方が有名な蘇民将来に由来する神話である。



茅の輪を潜ることによって心身を清めて無病息災を願うのである。

茅の輪潜りを終えれば拝殿で風鎮祭前祝の参賀に移る。



茅の輪の横の桶に入れた茅は持ち帰って家内安全・無病息災を祈って玄関に飾ると案内されていた。

多くの参賀者は案内を読まれて持ち帰っていった。

(H26. 6.30 EOS40D撮影)
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龍田大社半夏生の日

2015年01月08日 07時59分01秒 | 三郷町へ
夏至の日から数えて11日目になる日が半夏生(はんげしょう)で、だいたいが7月2日。

夏越大祓いをされていた龍田大社の神社殿に白い花をつけた半夏生が置いてあった。

半夏生は先端部分の葉が徐々に白く変化する。

花が咲けば梅雨も終わりのころ。

龍田大社で行われる風鎮祭を「ハゲショ」若しくは「ハンゲショ」とも呼んでいるそうだ。

県内では半夏生が訛ってハンゲッショからハゲッショと呼ぶ地域がある。

當麻・香芝辺りでは田植えを終えて梅雨の水の恵みに感謝して小麦と粳米を混ぜた搗いたハゲッショの餅にキナコを塗して食べていたようだ。

各家で食べられた郷土料理はおそらく見ることはないが、當麻の道の駅で売っていると聞く。

吉野町ではさなぶり餅と呼んでいたハゲッショモチ。

二毛作が衰退した現代では、民家でハゲッショ餅を作ることもなくなり、橿原市のお店で販売しているとか、村起こしイベントで作られているようだ。

(H26. 6.30 SB932SH撮影)
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