マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

これからもがんばろ会in猿沢荘

2013年09月30日 07時50分08秒 | メモしとこっ!
受付会場は熱気でむんむん。集まった人たちは総勢80人余り。

「おーい、写真屋」と声を掛けてくれたのは上深川のTさん。

いつもの通りの挨拶言葉は嬉しい台詞。

写真家でなくて写真屋だ。

心に響くものだから、ところどころで自己紹介の際に使わせてもらっている。

八島のⅠさん、田原の里のOさん、同田原のOさん、北野のTさん、丹生のSさん、生駒のTさん、同生駒のTさん、白石のFさん、奈良市のAさんら多数が舞っていた、ではなく開始時間を待っていた。

いずれも取材地でたいへんお世話になった人ばかりである。

その場には紅一点の女史もおられた。和田のOさんだ。

存知している人たちは他にも多数おられたがご挨拶もできる時間もなく若草の間会場にあがった。

あがったといっても座敷ではなく洋間である。

テーブルは八つ。それぞれに名前が掲げられている。

「チャンガラカン」、「翁舞」、「火取り」、「大踊り」、「鬼はしり」、「祭文語り」、「題目立」に「太鼓踊り」だ。

行事の名称を付けたテーブル名。粋なものだと感心する。



会場に設えたスクリーンにそれらの行事を示す映像が映し出された。

どこかで観たような映像だと思った。

一枚、一枚、順番に映し出された映像は、県立民俗博物館で平成24年7月から11月にかけて企画展示された『大和の祭りと芸能-神を祭り、歌い踊った大和人のハレの世界』であった。

そのすべてではないがごく一部。

列席者関係の映像だけだったのか主役の鹿谷勲氏に聞く時間もなく始まった会場の猿沢荘は、昭和29年(1954)に地方職員共済組合県支部の保養施設として開業した。



猿沢荘はその名の通り、興福寺階段下にある猿沢池のすぐ近くにある宿泊旅館。

大規模に改修されてリニューアルオープンしたのは平成19年であったが、激化してきた低価格ホテル競争によって客足は伸びなかった。

苦しくなった組合運営での継続は難しく、今年の8月末にはやむなく廃業すると新聞報道が伝えていた。

猿沢池は存じているが、私は県職でもない。

これまで利用することもなかった。

この日の宴は県職員であった鹿谷勲氏の退職祝賀会。

『お疲れさん、これからもがんばろ会』の副題をもつ。



中央のテーブルに広げられたご馳走が並ぶ。

これらはわざわざ東京から取り寄せた江戸前鮒佐(ふなさ)の佃煮商品。

特別に頼んでおいたそうだ。

鮒佐は佃煮専業150年の老舗店。

伝統の江戸風味を味わってほしいと取り寄せたと後日に聞いたが、食べることを失念していた。

鹿谷氏との始めての出合いは三輪の初えびすで行われている「御湯の神事」である。

平成15年2月のころだ。

それまで知ってはいるものの遭遇したのは始めてであった。

鹿谷氏の著書に『やまとまつり旅―奈良の民俗と芸能』がある。

平成13年10月に大和崑崙企画から発刊されたご本である。

発売されたことを産経新聞が報じていた。

その切り抜きは今でも大切に購入した『やまとまつり旅』に綴じている。

平成13年のころの私は大和民俗に心を奪われつつあったころだが、民間企業のサラリーマン時代だった時期でもある。

休日には知った祭りや行事を拝見したくてちょこちょこと出かけていた。

ちょこちょこだから詳しくは知らない大和の祭りや行事。

それがどっさり書かれてあった『やまとまつり旅』に感動したのである。

感激した胸のときめきは礼状にしたためた。

『先月初めに産経新聞に紹介され、本屋さんに注文してやっと手に入れることができました。ならの祭りや行事を解説している本は古本屋さんにもなく、新刊本もなく本当にありがたく思いました。高名な神社や寺の行事は多くの本が出版されていますが、地域や村で行われているものは見つかりませんでした。読んで感じるのは少子化に伴って村々で昔から延々と続けられている行事を、これからも残していくことが難しい時代です。室生田口水分では、小学校が廃校になったので、ますます難しくなりました。今年始めて女性の笛や小太鼓役が担っていることがその一端をあらわしています。私は奈良に移り住んで20年になりますが、これだけ沢山の祭りや行事があることを知ったのは、ごく最近のことで写真にできるだけ残していきたいと思い、撮っては自分のホームページに登載している次第です。ただ現役のサラリーマンなので、撮影活動は休日に限られているので、何十年もかかるのではと思っています。もしよろしければ私のホームページも見ていただければ幸いに存じます。まずは御礼まで。「ならグルグル散歩」』は、いま読み返してみればファンレターのような文面になっている。

自己紹介をして名刺を手渡した祭場の三輪。

礼状を送ったことも伝えたが記憶にないようだった。

送付先は出版社であった。

ご本人には伝えられなかったようだが、大和崑崙企画の編集者からお礼のメールをいただいたことだけは確かだ。

続編が出版されることはなかった『やまとまつり旅』である。

三輪でお会いしたときは県教育委員会文化財保存課であったが、その年の4月には平城遷都1300年記念事業に携わることになっていたようだ。

その後の私は大和の民俗行事に没頭したいがために平成14年9月に民間企業を早期定年で退職した。

鹿谷氏と再びお会いしたのは平成17年に県立民俗博物館に異動してからのことだ。

実はそれ以前にもお会いしている。

川上村の「森と泉の源流館」スタッフからお誘いを受けた第八回いろりばた教室でのことだ。

川上村の民俗芸能をメインテーマに語られた太鼓踊りと盆踊り。

呼称、歴史、編成、絵馬資料等様々な角度から解説され、私にとっては大変勉強になった講演会。

今後の民俗行事取材にたいへん参考になる内容であった。

その年の4月に異動された県立民俗博物館。

長くなったおつきあいは、そこから始まった。

「県立民俗博物館は大和郡山市が所在地。できうる限り集めてほしい」と願われた。

それから数年かけて取材した大和郡山の祭りと行事は、博物館初のロビー写真展になった。

平成20年6月のことだ。

県下一円も取材してきたが、多くは大和郡山。

その後も継続してきた結果が2回目のロビー写真展。

平成21年10月に開催してくださった。

その年の7月に初著書である淡交社刊『奈良大和路の年中行事』に協力してくださった。

この本のことは未だに褒めてくださる春日大社の岡本彰夫権宮司。

恐縮するけどありがたい言葉である。

2回目の大和郡山の祭りと行事展を取材した産経新聞に応えていた鹿谷氏の言葉がある。

「田中さんのきめ細やかな取材活動に基づく情報収集力は、学芸員の数に限りがある博物館ではできないこと」と評価すると報道された。

大和郡山の祭りと行事写真展はさらに発展して企画展となった。

平成22年のことである。

その後は大和の民俗を捉えるカメラマンによる「私がとらえた大和の民俗」に発展継承された。

なにかとお役に立ってきた県立民俗博物館。

平成25年3月を最後に県職員を退職された鹿谷氏とのつきあいは今後も続くであろう。

この日の宴は題して「これからもがんばろ会」。

田原の里の三人が祝いのダイビキを披露してくださった。



これまでにも数か所で拝見したトーヤ家の祝い唄。

この場で拝見するとは思ってもみなかった。

突然のダイビキ披露に、心を引き締めて再びスタートラインに立ったと思ったがんばろ会。

会場をあとにしようと思った場におられた若い男性。

もしかと思って声を掛けたら鹿谷氏の息子さんだった。

おそるおそる聞いた出身高校名。

なんと我が家の次男と同じ高校である。

何年か前に次男が言った。

高校の卒業名簿に「鹿谷」の名があると言っていた。

どうやら同じクラスの同級生。

次男の名を伝えたが覚えていないと話す。

我が家の次男も同じくそう言っていた。

特徴がないのか、お互いに記憶がないようだ。

奇遇な出合いは息子たちには伝わらなかったようである。

(H25. 6. 1 SB932SH撮影)
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無山九頭神社の朔日参り

2013年09月29日 08時24分18秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
6月ともなれば村の人がめいめいでこしらえたチマキを供えていた室生無山の九頭神社。

節句の習わしであったと思われる日は6月5日だった。

今はそれもしなくなったと話す氏子たちは1日に参るツイタチ参りは欠かせない。

ツイタチを充てる漢字は朔日であろう。

村の行事は負担がある。

何年か前に改正されてチマキを作って供えることもなくなったと話す。

挽いた米粉を水で練る。

蒸した米粉は笹の葉(カヤかも)に包む。

崩れないようにイグサ(藺草)で巻く。

5本ずつ作って2束。

合計で10本のチマキを供えた後に食べる。

そのままでは堅くて味気もないから蒸してからゴマシオで食べるのが一番美味いと口々に話す婦人たち。

かつては毛掛けのコモリに供えていた御供があった。

三角の形にしたご飯は、その形から「スズキ」と呼んでいた。

稲刈りを終えて刈りとった藁を積んでいる。

その姿は県内各地で「ススキ」若しくは「スズキ」と呼んでいた。

その形状から名付けられた「スズキ」のご飯であった。

いつしか「スズキ」は洗い米に小豆をぱらぱらと落とした朔日参りでの御供に替った。

かつては「スズキ」に「セキダモチ」もあったと話す婦人も居た。

朔日参りは朝8時半ころに集まって参籠所で歓談をしていた。

4月にはヨゴミ(ヨモギ)でヒシモチを搗いた。

形は二段で上には白い丸餅を置いていたという。

これも村の改正でしなくなったと話す。

隣村の上笠間では田植えを終えた残りのナエサンを広げてカシワモチの葉を置いた。

葉にはご飯を乗せてキナコを掛けていたという。

出里のことだから今ではしていないと思うと云う。

そのような農村の風習を聞いた参籠所には木製の手桶があった。

マツリの際に使われていたと想定される手桶は使っていない。

そこには木で作られた当番札がある。

昭和22年9月1日に作られた当番札には「献燈順番札」とある。

九頭神社の毎月朔日、15日は「さへ」の日。

この日の朔日参りもそうであった。

当番の札が回ってきた家は九頭神社に献火を灯す「サヘの献燈桶」である。

(H25. 6. 1 SB932SH撮影)
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箸中のごーさん

2013年09月28日 08時22分33秒 | 桜井市へ
5年ぶりに訪問した桜井市の箸中座中の一人であるM家。

箸中地区では神道系の主分講(右座)、仏教系の敬神講(左座)の二組(座)で組織されている。

右座と左座の両座は右座が主分講で左座が敬神講だそうだ。

主分講は宮座講とも呼ばれる。

かつては両座の他に中座があったとされる。

ご主人はこの年が最後で、座中の一老を引退された。

本来ならば終身制である座中。

高齢化になったことから若い人たちへ後継の任を譲ったのである。

正月初めに行われる行事は二日正言講(ふつかしょうごんこう)。

以前は莊嚴講の呼称であった。

その名の通り正月二日に行われている。

行事の場は国津神社。

昔から使っている版木でごーさんを刷る。

「牛玉」、「国津社」、「傳御」の版木の文字は墨を塗ってバレンで刷る。

平成19年にその様子を取材させていただいた。

そのお札(ムシフダの呼称がある)なら何枚かを保管しているという当家。

この年は當家を務めたそうだ。

当家夫妻が話すに墨は竃の煤だと云う。

家にある竃に溜まっていた煤を集めた。

それをお酒で練ったのがごーさん文字の墨であったのだ。

竃は今でも使っている現役。

モチツキの餅米を蒸すときやタケノコを茹でている。

大きな釜だけに使いやすいと云う。

かつての竃は円型の四連であった。

竃に火を点ければ煙があがる。

その煙を屋外に排出するのは「ケムリダシ(ケムリガエシとも)」。

そういう構造になっている建物は当家に3棟もある。

航空写真で捉えた母家の棟並びを解説される当主。

愛知三河沖で地震が発生したときに揺れた母家。

ケムリダシの内部が落下して竃が損傷した。

それで現在の2連に作り替えたと話す。

随分前のことだというから昭和21年(1946)の南海地震ではないだろうかと思ったが、そうではなく記された史料に地震のことが書かれてあった。

太平洋戦争末期、昭和19年(1944)の12月7日の午後2時頃に発生した大地震(東南海地震は当初遠州灘地震と呼ばれていた)は桜井市の箸中、太田、辻の他、田原本町の法貴寺、天理市の桧垣までの広い範囲に亘ったようだが被害状況は記されていない。

およそ100年周期の大地震。

今後、30年~40年後にやってくるかも知れない。

国津神社の祭礼の一つに「くにつさい」がある。

充てる漢字は「九日祭」である。

「くにつ」は神社名の「国津」。

宮座講および敬神講の行事は9日改め29日に移したと云う。

かつていただいた史料によれば「九日講」のようだ。

それによれば九日がいつしか二十九日。

その後に十九日に替ったが、今では10月10日になったとある。

国津神社付近の小字名が気になった。

調べてみれば神社東に堂ノ東とある。

西側は宮ノ西で、その先が堂ノ西だ。

南東が宮ノ前で南西が堂ノ前である。

宮と堂が混在する小字名が示すとおりに神社にはかつてお堂があったと思われるのである。

帰り際に気がついた当家の門屋にあった嫁入りの駕籠。



随分と前の道具だから装飾が落ちて・・と話す籠は何代も前に嫁入りしたときのものだ。

万延(1860~)生まれだった大おばあさんというから江戸時代。

たしか、明治10年(1877)に嫁入りしたときの道具だと云う駕籠は今から137年前。

大切に残されている。

門屋はその昔ではなく昭和の時代の建造物。

駕籠を吊るせるように仕掛けをしている。

もう一方の場にも同じように駕籠を担ぐ棒が挿しこめるような四角い穴が開いている。

(H25. 5.26 EOS40D撮影)
(H25. 5.26 SB932SH撮影)
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トライアルの天ぷらそば

2013年09月27日 09時29分00秒 | あれこれインスタント
本日も車中食。

家から持参してきたらーめん、ではなく天ぷらそばを食べる。

もちろんインスタント食品だ。

たまには和の麺も良かろうである。

購入した店はトライアル。

今年の春に開店した大和小泉店はたびたび出かける。

天ぷらそばはトライアルのオリジナルカップ麺。

たしか70円ぐらいやったか。

安価であっても空いたお腹に丁度良い。

湯を注いで3分待つ。

後から乗せ乗せの天ぷらを入れていただく。



出汁はカツオ味。

粉っぽくもない味だ。

天ぷらはサクサク。

そばは一応のちじれ麺。

喉越しがいいのでつるつる入る。

具材はどこにあるのやら判らないぐらいに小さい。

それが安価な正体では、と思った。

お湯は少なめにした方が良いと思った。

(H25. 5.26 SB932SH撮影)
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室生無山サシナエの日

2013年09月26日 06時50分32秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
かつてはオソナエもあった。

田植えを終えれば村人が九頭神社に集まる行事である。

オソナエの形は細長いユキダルマのようなオニギリだったと話したのはN婦人である。

それを「ススキ」と呼んでいたような気がするがはっきりしない。

この日はサシナエの作業をしていた。

この年の5月1日、2日辺りは霜が降りて寒い日であった。

済ませていた田植えの苗は赤い色になって枯れた。

その部分が空いたのでサシナエをしていると云う。

正月初めの無山の行事がある。

牟山寺で行われる初祈祷のオコナイである。

7年間に取材した行事では本堂で鬼の的をめがけて矢を射った。

その矢と祈祷したヤナギの枝木を苗代に挿す。

そのような話を聞いていた7年前。

ご婦人に伺えば、そのようなことをしているのはただ一人だけではないだろうかと話す。

牟山寺から下った田んぼにあるだろうと云っていたが見当たらない。

あるにはあるが、数年前に挿したものであろう、それが朽ちていた。

田植え終いもしていないという婦人は三重県名張の夏見(なつみ)が出里。

青連寺川から名張川へと川名が替る地辺りの山里。

そこではナエサンを束にして、炊いたマメゴハンを入れたフキダワラとともにオクドサン(竃)に供えていたと云う。

今でもしているかどうかは判らないくらいの時代のことのようだ。

お嫁さんとともに作業をされていたサシナエの風景を撮り納めて、九頭神社にあがった。

参籠所では数人の村の人が集まっていた。

この日は毛掛けコモリ。

神事をするわけもなく、風呂敷包みを抱えて参拝する村には参籠所へ上がって毛掛け籠りの会食をする。

ホトトギスが囀るこの日は夏の訪れ。

「田植えも無事に終わって、秋には実りを待つだけ」と伝える区長の挨拶。

パック詰め料理を食べ時間を過ごす。

無山を離れて多田から小倉へのワインディングロードを走行中にクマゼミが鳴いた。

(H25. 5.26 EOS40D撮影)
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我が家のデンドロビウム

2013年09月25日 06時52分19秒 | 我が家の花
中庭にほったらかしにしていたデンドロビウム。

根は鉢から飛び出していた。

何年も放置しているがデンドロビウムは生きている。

空中の水分を得て植生するデンドロビウムはセッコクと同じ種類。

根さえ生きていれば発根して分化する。

自然界の同じようにしていきたいと考えてそうしてきたが、本音はほったらかしである。

そのデンドロビウムが花芽をつけた。

平成19年5月以来のことである。

たしか品種はユキダルマだったと思うノビル系。

ファレノプシス系ではない。

この種は通称がデンファレ。

豪華で美しい花を咲かせるが手入れが難しい。

(H25. 5.26 EOS40D撮影)
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井戸野を訪ねて

2013年09月24日 08時48分18秒 | 大和郡山市へ
O氏は85歳。今でも春日大社の稲を育てている。

昨年末には神官がこられて大注連縄を作られたという。

O氏が作る簾型の注連縄は美しくできあがる。

寄贈していただいた大注連縄は今でも県立民俗博物館にある。

笹の葉っぱも落ちずに、である。

井戸野は60軒。

すべての家が行者講中にある。

廻り講はそのうちの十数軒。

子どもは二十数人もいるという。

ほとんどが女児。

数少ない男児は小学校6年生まで呼出案内の貝吹きをする。

大峯山の龍泉寺の水行は女人禁制ではないが、「結界」から入ることはできない。

いずれは貝吹きも女児が務めるようになる時代がくるであろうと話す二人の講中。

まだ80歳にも満たない講元のMさんが今年の1月に亡くなられた。

講元以外の家では継ぐことができない筋目の家である。

廻り講には影響もないが、山上講ではそういうわけにはいかない。

龍泉寺との直接的な関係がある講元が替えるには難しいと話す。

かつては井戸野に六斎念仏があった。

すいぶんと前のことであるが、今でもそれを「チャンガラガン」と呼ぶ。

「なぁっっぱいだ、なぁあんまいだ」と念仏を唱えていたと口ずさんだのはOT氏である。

新仏の家に参って「チャンガラガン」こと、六斎念仏を唱えるのは7日から14日までの毎日。

今でいう婦人会は尼講であった。

西国三十三番のご詠歌を唱えていた。

14日の六斎は村じゅうを巡っていたそうだ。

新仏の家にはタナがあった。

廊下ではなく屋外に立てた新仏のタナはコモを被せていた。

コモが生えている処は川だった。

それを採ってきてこしらえたタナであったと話す。

(H25. 5.25 聞き取り)
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櫟枝の苗代札

2013年09月23日 07時12分33秒 | 大和郡山市へ
八幡宮が鎮座する大和郡山市の櫟枝町。

年中行事は四つあると云う。

詳しくは聞けなかったが、おそらく元旦祭、祈年祭、秋祭り、新嘗祭であろうか。

この日に訪れた櫟枝町。延久二年(1070)の『興福寺雑役免帳』に書かれた「櫟枝庄」に比定されている。

苗代田は集落の北側と南側に点在している。

苗代に立ててあったお札が目に入った。

2日前に訪れた郡山観光案内所に居られたボランティアガイドから提供された話題にお札があった。

集落から南側。西名阪国道の近くである。

その所在を確かめたくてやってきた。

探してみれば2か所の苗代田にあった。

お札は墨書なのか版木刷りなのか判然としない。

お札を開けてみるわけにはいかないから文字も読めない。

梵字のようにも見えるお札には朱で押した牛玉宝印がある。

まぎれもないゴーサンのお札である。



なんとなくザラついたような感じの墨書は版木であるかも知れない。

付近に居られた二人の婦人に尋ねた結果は、版木刷りのゴーサン札であった。

ゴーサンドーヤは2月の後半。

ヘッツイさんの煤を集めて墨にした。

話しによればどうやら「寶印」の文字らしい。

お札の周りに一本のスジがある。

版木の証しであろう。

ゴーサンドーヤが作るお札はヤナギの木に巻くように付ける。

ゴーサンドーヤでたばったお札は家で保管する。

櫟枝町の苗代作りは4月の後半というから祭日辺りであろう。

6月10日頃には田植えを始めるらしい。

八幡宮の年中行事もお聞きした。

11月は新穀祭、9月16日も祭事があるらしいが、日程的には八朔であるかも知れない。

10月17日は村のマツリであったが、近年においては集まりやすい体育の日に移った。

神社境内の北側にはお寺がある。

元は真言宗であったが、宝暦年間に融通念仏宗に改宗されたようだ。

ゴーサンのお札はかつて真言僧侶がいた名残を示すのではないだろうか。

無住のお寺は尼講の人たちが掃除をして奇麗にしている。

毎週の水曜、土曜日には念仏を申すと云って融通念仏を勤行しているそうだ。

毎週のお勤めは尼講二人が交替して勤めている。

都合が合わないときには日にちを替える。

朝は8時からのお勤めはおよそ1時間だそうだ。

11月には融通念仏の大和ご回在がある櫟枝町。

葬儀も簡略化しつつあると云う。

尼講は7日間、念仏や西国三十三番のご詠歌を唱える。

25年前に嫁入りしたご婦人が話した嫁入りの作法。

実家が用意した青竹を割って家に入ったそうだ。

その作法は嫁入りしても戻ってこないようにということだ。

青竹を割ってタライで足を洗ってから入った姿は白無垢の花嫁姿。

おそらく最後であったろうと話す婦人が話す映像がビデオに残されているらしい。

小林住宅に住む百歳の男性が大和の行事記録として捉えた映像であるようだ。

嫁入りしたときの作法は室生の染田でも同じようなことを聞いた。

白無垢姿の花嫁が嫁入り先の家に上がる前には水を入れたタライに足を浸けて清めたそうだ。

翌月の6月6日では田植えが始まっていた。

苗代のお札は見当たらない。

(H25. 5.25 SB932SH撮影)
(H25. 5.25 EOS40D撮影)
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城廻り線拡張に伴う発掘調査

2013年09月22日 08時16分55秒 | 大和郡山市へ
仕事を終えてひと息をつける場所といえば大和郡山観光案内所。

藺町線沿いにある。

滞在しているのは大和郡山ボランティアガイドクラブのみなさんだ。

6月中旬には2回目の再発見コースを案内される。

実施日は平成25年6月12日(水)で、「横田・和爾下神社を訪ねる」をテーマに近鉄筒井駅から横田(辰巳城跡)、和爾下神社、姿見の井戸を巡るコースである。

話は下見をされた(9日)ときに見つけた苗代のお札だ。

一つは横田町のお札。

これはすぐに判る八幡神社のお札だ。

もう一つあったというお札の文字は判然としないが、まぎれもない朱色の寶印。

いわゆるごーさんのお札の印である。

北方遠景に櫟枝町の鬱蒼とした社叢がある。

こちらも八幡神社であるが、横田町ではない。

うっすらとする墨書或いは版木であろうか。

もしかとすれば寺行事のお札と思われる苗代にはイロバナも添えてあった。

寺であれば極楽寺であろうか。

村人に聞かねばならないミトマツリのお札である。

観光案内所で話題になった横田町や隣町の天理市南六条北方は環濠集落。

横田町はかつての治道村の一つにある旧村。

筒井藩に属する両村。

名高い筒井の三家老として知られる松蔵(倉)氏、森氏が居た。

松蔵(倉)氏は横田家を継いで改名した筒井氏の子であろうとされる松倉政秀。

政秀の子が勝重。勝重の子は重政。

いずれも筒井家の重臣として活躍したそうだ。

地元では松倉右近の名で通っているが、実際は誰なのかはっきりとしない。

架空の創作人物とも云われている。

松蔵(倉)一族である権左衛門秀政がモデルであったという説があるが、地元では勝重と伝わる。

一方、森氏(森志摩守好之)は南六条町北方の元柳生が居住地であったとされる。

北柳生と呼ばれていた横田に対して南の南六条の北方は南柳生であった。

横田、南六条北方はかつての柳生の地。

古字は楊生(やぎう)であった荘園。

延久二年(1070)の興福寺雑役免帳に「楊生庄」の記載がある地域はその後の南北朝~室町時代までその呼び名であった荘園である。

ちなみに森氏は正徳三年(1713)ころ、森吉左衛門の代には平群郡立野村の安村氏より魚梁船株を取得して川舟の支配権の半分を入手したそうだ。

南六条の北方は今でも見事な姿をとどめる大環濠集落。

西側から見ればその姿に感動を覚える。


(H19. 6. 5 Kiss Digtal N撮影)

話題はもう一つ。

南六条の北方と南方を東西に分断する街道がある。

県道を拡張する前の発掘調査。

橿原考古学研究所が担当する。

場所はといえば天理市の喜殿町。

当地には八阪神社が鎮座する。

素明講、八阪講、天皇講による営みである神社の行事を教えてくださった。

今年の1月に聞いた村人の話では「掘れども、掘れども砂地だった。何も出なかったんだろう」と話していた。

発掘調査区域は小字辻、十ノ坪だ。

そこから400mほど北上すれば大和郡山市新庄町の枝村になる鉾立の集落。

江戸・元禄時代以前は逆で、新庄本村が枝村であった。

主客転倒した特異な県内の事例である。

集落東側にある南北を貫く街道は古代の街道である中ツ道。

そこにある姿見の井戸が再発見コースの最東端。

喜殿町の発掘調査はその古代の幹道であった中ツ道が焦点である。

出土したのが、飛鳥時代の瓦、奈良時代の須恵器、平安時代の黒色土器に馬の骨や歯、井戸、柱若しくは柵穴(推定)が含まれる中ツ道の東側溝遺構。

堆積した砂はおそらく川跡。

洪水によるものなのか判らないが、ゆるやかな扇状地を流れて溜まった砂であったと推定される。

側溝の幅は2.2m、深さは70cmで調査区域の30mにわたって発見された。

中ツ道の道路部分は幅が23mと推定されている。

昨年の6月に地元向け説明会が行われたが、現場をすぐに戻さなくてはならないため一般向け説明会は実施されない。

平成23年12月には大和郡山市八条町で発掘された下ツ道の現地説明会に立ち寄ったことがある。

そこでも同じように牛や馬の骨が出土した。

東西の側溝の中心点から測った下ツ道の道路幅は23mと推定されている。

東西の側溝の幅は東が7mから11m。

西が1.2mから1.8mであった。

発掘は何らかの工事がなければ陽の眼をみることがないが、街道は古の姿を現在に映し出す。

ボランティアガイドとの話題はつきない大和郡山の歴史や文化は店じまいで時間切れ。

藺町線を北上して帰る。

信号待ちをしていたときに目に入った機械はショベルカー。



数人の人たちが掘って何かを探している。

掘りだされた物品は箱に納めている。

発掘現場である。

壺もでてきたという現場は城下町の北部。

現場担当者にお話を伺った。

発掘調査を担当するのは橿原考古学研究所。

平成23年5月に開催された特別展「「弥生の里-くらしといのり―」で写真協力をさせていただいた。

特別展とリンクした事業であった「矢田丘陵周辺の(弥生)遺跡と農耕儀礼にふれる」では、巡った矢田の農耕儀礼である水口のお札を解説したこともあった。

画期的な事業であったと話す現場担当者の声。

懐かしい協力の件である。

発掘で出てきた物品は江戸時代のもの。

現場は当時の水路だそうだ。

水路といっても当時の下水道。

なにがしかのモノモノを捨てていた、いわゆるゴミ捨て場だそうだ。

陶器かどうか判らないが破片ばかり出土すると話す。

平城京跡に近いこの場は北郡山の交差点。

絶えず渋滞している。

近鉄電車の踏切で車の行列でつっかえるのだ。

藺町線は近年に南北に貫く道が通過した。

流れはいたって軽やかであるが、ここ北郡山の交差点で停まるのである。

遮断機を越えた西側。

天理町辺りからは長時間も待たされる。

城廻り線の都市計画路線は平成19年に案が出て、説明会、縦覧はすでに済んでいる。

遮断機で阻まれる地域は地下空間を貫く幹線道路となる計画である。

発掘調査は短期間。

当地は近くに小学校もある文化地区。

誤って掘った調査地にはまることなく事業を進めたい早急な対応。

数日間で終えるそうだ。

平成24年度の施政方針で述べた「城廻り線と近鉄橿原線の地下立体交差化など、本市の利便性を高めるインフラ整備などに取り組んでいきたい」とある。

同じようなことを平成22年度、23年度の施政方針でも述べている。

城廻り線の拡幅の影響を受けて地蔵尊を移設しなければと云っていた。

発掘調査をしていた北郡山交差点と近鉄踏切遮断機の間にある北郡山木屋ノ口出世地蔵尊の地蔵盆でのことだ。

平成20年の取材で聞いた地蔵尊の移設は都市計画路線の影響を受けて移設先を決めなければと云っていた。

それから5年後、ようやく拡幅工事の着手になったのであろう。

踏切を越えた地は奈良で年初に幕を開けた直後に行われる一番目のオンダ祭がある植槻八幡神社。

在所の植槻町は平城京の裏鬼門。

北郡山においても痕跡があればと願いたいが江戸時代よりももっと深い地帯。

早急な調査期間では深さの探求は間に合わない。

(H25. 5.23 SB932SH撮影)
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櫟本不動山五月大師参り

2013年09月21日 08時58分22秒 | 天理市へ
毎月21日は不動山を奇麗に清掃している二人の世話人。

始めに梵鐘を搗いて身体を清める。

それが作法だと話すK・Mのご両人である。



不動山は天理市の櫟本町の東部。

高塚公園の奥にある。

かつては学生が住んでいたとされる不動寺があったと話すのは不動山下に住むⅠさん。

侵入しては危ないからとその辺りに張り巡らしたロープ。

住民でなく毎月お勤めをしている二人の世話人である。

ホトトギスやウグイスが囀る不動山には四国八十八カ所を祭る石仏群がある。

いわゆる写し霊場であるが、時代年は判っていない。

正面は不動明王の石塔。

かつては大杉の樹下にあった。

大切にしたいと思って上に上げたと話す両人。

石の燈籠は大樹の杉の内部。

動かすこともできず、である。

石段などが崩れていた不動山の石仏群。

一つ一つを長年かかって整備したと云うKさん。

崩れていた地蔵尊の土台も美しく整備したそうだ。

四国八十八カ所巡りをしてきたMさん。

へんろ路を究め、ご縁があって当地の不動山のことを知った。

自らの意思で始めた毎月の清掃。

枯れた花も取り除き、お水を入れ替えて線香をくゆらす二人は小高い丘に祭られた四国八十八カ所の石仏も奇麗にする。

3時間もかかる奉仕活動の作業は仏さんの導き。

誰に応援を求めることもなく、こうして毎月21日は二人のお勤め。



不動明王、弘法大師像の前で錫杖を振ってご真言を唱える。

「なむだいしへんじょうこんごう」・・・合唱。

弘法大師像の大きな石仏には刻印がある。

「昭和八年八月 奈良市三谷町 森島旅館 掘井徹二郎 寄進」であったが所在は確認できなかった。

廃業されたのだろうか。

(H25. 5.21 EOS40D撮影)
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