マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

飛鳥のミロクさん

2016年12月31日 08時49分52秒 | 明日香村へ
ミロクさんと呼ぶ高さ2mの石仏を探していた。

現状はどうであるのか、調べてみたいと思った行事が載っていた。

昭和61年7月刊の『季刊明日香風19号』に掲載されていた「明日香村の民俗点描」は「飛鳥のミロクさん」。

その記事によれば旧暦の八月五日にお祭りが行われていると書いてあった。

稔りの稲穂がたわわになっている状況にお参りする人が大勢。

服装はそれほど古くもなく新しくもない時代。

割烹着を着ている婦人はいないが、参っているのは婦人と子供たちだけである。

そんな情景をとらえていた一枚の写真。

撮った人は執筆者の大阪城南女子短期大学講師(当時)の野掘正雄氏である。

野掘氏とはお会いしたこともないが、たまらないほど魅力たっぷりに祭りの情景を写している。

はっと気づくのが飛鳥のミロクさんの祠に吊るしている提灯である。

その提灯に文字がある。

「地蔵尊」である。「ミロクさんは」たぶんに弥勒石仏。

地蔵さんではないが・・・そのミロクさんは腰から下の病に効くらしく、願掛けに多数の片足の藁草履が奉納されている。

なんとなく川沿いにあるような気がした。

その日は明日香の地が霞んでいた。

里の向こうはついさっきまで滞在していた大字上(かむら)。

さなぶりの行事をしているときは土砂降りだった。

ここへ下りてきたときは小雨が残っていた。

田植えを終えた田んぼに苗が育つ。

一週間か十日ほど経った状態のように思える。

その向こうにあった祠に藁草履が見えたが、『季刊明日香風19号』に掲載されていた状況とはやや異なる。

“やや”という部分は併設している建物の形状である。

屋根、庇の向きが違う。

どことなく大部屋になった感じである。

近づいた飛鳥のミロクさんに解説板があった。

「弥勒石」は真神原(まがみはら)の西を流れる飛鳥川の右岸に位置する石柱状の巨石であると書いてあった。

石には仏顔面もほとんどないが、わずかに目と口とみられる部分が細工されているとある。

この弥勒石がある大字は岡であるがお祭りは大字の飛鳥が行っているとある。

弥勒石を拝めばわかるようにとてつもなき巨岩である。



目というか、口と云われようがまったくわけがわからない表面は面でないような気もしないではないが・・・たしかに願掛け、若しくは満願に掛けたであろうと思う藁草履がたくさんあった。

新しく吊るしたものもあるが、ほとんどがやや古い藁草履。



一枚だけあった大きな藁草履は柄紋様のある藁草履に囲まれて隠れていた。

これらを撮っていたときに散歩されていた男性がやってきた。

犬の散歩も兼ねてだろうが、弥勒石を参拝されて去っていった。

こうした行為があるということはご利益があることなのだろう。

それにしても霞みは消えない。

肉眼でみればそうでもないが・・・。

はっと気がついたカメラレンズ。

内部が曇っていた。

土砂降りの雨に祟られてレンズ内に浸み込んだようだ。

(H28. 6.19 EOS40D撮影)
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上・気都和既神社雨天の村さなぶり

2016年12月30日 07時41分37秒 | 明日香村へ
一週間前に立ち寄った明日香村大字の上(かむら)。

田植終了後の中旬辺りの日曜日は村の田植えのすべてを終えた村人たちが寄って「さなぶり」行事を気都和既(けつわき)神社で行うと話していた。

この日は朝から雨続き。

田飢えも終わって天の恵みに感謝しようということである。

気都和既(けつわき)神社は茂古(もうこ)ノ森に鎮座する。

飛鳥川支流にある冬野川の上流である。

気都和既神社は江戸時代までは牛頭天王社の名であった。

延喜式神名帳の大和国高市郡に登場する気都和既神社になるそうだ。

神社は上(かむら)に細川、尾曽の近隣三カ大字の神さんを合祀した宮さんであると云う。

それだけに宮総代の他神社役員は三カ大字の人たちである。

気都和既神社の祭神は気都和既命。

大字細川と尾曽、両社に祀られていた祭神は天津児屋根命。

そのようなわけで摂社は春日神社である。

役員関係者は神事が始まる1時間前から準備をする。

一段と高い場に設えた湯釜。

雑木を燃やして湯を沸かしていた。

本社、摂社には先に供える神饌御供。

スルメ、コンブにカマボコは海の幸。

キャベツ、ニンジン、キュウリ、トマト、ナスビにトウモロコシは里の幸。

他に果物も添えた御供である。

本殿より下にある建物は座小屋のようにも思える。

そう、思った通りに座る位置はそれぞれ三カ大字に別れて座るから座小屋であろう。

その座小屋に壁はない。



この日の風は強くはないが土砂降りである。

境内はびしょびしょの泥まみれ。

座小屋の屋根から流れ落ちる雨は滴ではなく落下激しい滝のような状況であった。

ここら辺りは湿り気が多いのか石の鳥居はコケに丸蔦が這う。



苔むした鳥居に段々模様。

願掛けなのか、それとも遊びで放り投げた鳥居の石が乗ったままに苔むした。

随分前のように思える風情である。

定刻ともなれば神職がやってきた。

飛鳥坐神社宮司の飛鳥さんだ。

これより始める神事はさなぶり。



傘をささざるを得ない雨降りの行事に湯釜の湯をかき混ぜる幣をもつ。

一段高い場で行う作法は湯釜の祈祷。

これを御湯(みゆ)と呼ぶのが正式だと話していた飛鳥宮司の御湯作法はこれまで大字上居(じょうご)の春日神社のさなぶりやヨイミヤがある。

隣村の大字越(えつ)の弁財天社の弁天さんのイノコマツリや大字栢森の加夜奈留美命神社の山の神、大字下平田のトンドの火点けに行われる上平田八坂神社の御湯神事で拝見したことがある。

いずれも同じ作法であるが、土砂降りの雨にもめげずに御湯神事をされたのは初めて見た。

飛鳥宮司にそっと傘をさして身を守る神社役員の心遣いである。

御湯の作法を終えた宮司は二社に祓え。



石段を下りてきて座小屋に座っていた氏子たちに湯で清めた幣で祓ってくださる。

それから再び登って祝詞を奏上する。

場を移動しながら神事を行ってきた宮司にはこの場合においても役員の心遣い。

足元まではとはいかなかった。



宮司が帰られた後は三カ大字それぞれの氏子が座ってパック詰め料理をいただく直会だ。

弁当の数は43個。

大勢が座小屋に座って、しばらくの時間をこの場で過ごした。



今は飛鳥坐神社の飛鳥宮司が斎主をされているが、かつては上尾曽のハチベエさんであった。

身長が低かったハチベエさんは神社の左横に建っていた建物に住んでいたと話す。

直会中に上(かむら)の行事を教えてくださったのは主に上垣内の人たち。

8月13日の朝早くに冬野川へ出かけて先祖さんの迎え。

くゆらした線香を持ち帰って仏壇のオヒカリ(ローソク)に火を移す。

御供の置く葉はハスの葉。レンコンを栽培しているお家にもらう。

お供えにつきものだったのはハクセンコウ。

スイカにマッカ。ナスにキュウリなどをおます。

これらは女性がする。

8月14日は大字細川にある浄土宗のお寺さんに参ってもらう。

翌日の15日は午後3時ころに先祖さんの送り。

迎えと同じように線香をくゆらして、その日に送る。

どこかの家では迎えに「ムカエソーメン」も供えているらしい。

ところで上(かむら)で度々口にする言葉がある。

ひとつは「つくねる」だ。

「つくねる」は一カ所に纏めることを云う。

もう一つは「ゲンジ」。

これはゲンジボタルではなく「コクワガタ」のことだけにややこしい。

節句に食べる「ヨゴミダンゴ」。

これは簡単。

県内各地、どこでもたいがいに聞く「ヨモギダンゴ」のことである。

「コムギモチ」は「サナブリモチ」と呼ぶ。

収穫した小麦と保存していたモチゴメと半々にして練った「サナブリモチ」を作って親戚に配っていた。

この座小屋に木製の構造物がある。

なんとなく壇にみえたそれは二段重ねの鏡餅を供える祭壇である。

12月の30日或は31日。

村の各家が鏡餅を持ってきて供える。

それを設える場は拝殿。

座小屋だと思っていた場は拝殿であったのだ。

正月三日間はそこに置いておく鏡餅。

名前を書いたお札があるから間違わずに持ち帰る。

注連縄は12月30日に結って架ける。

特殊な作り方だけに特別な人が作るらしい。

いつにそれを食べていたのか聞きそびれたタニシの天ぷら。

水田なのか冬野川かわからないが村にはタニシがいた。

採ってきたタニシはかき揚げの天ぷら。

玉子とじの料理もしていたという。

タケノコは「たいたん」だった。

昔は料理を家でこしらえていた。

タニシやタケノコを採っていたのは息子が小学校に通うころだというから随分昔のようである。

(H28. 6.19 EOS40D撮影)
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小夫・虫の祈祷

2016年12月29日 09時17分42秒 | 桜井市へ
東垣内と馬場垣内の人たちが東垣内に建つ秀円寺に集まって太鼓や鉦(伏せ鉦・双盤鉦)を打ちながら数珠繰りをしていると話していた。

数珠繰りは虫の祈祷における作法である。

その在り方を初めて聞いたのは一年前。

平成27年6月20日に訪れたときに話してくれた垣内の行事である。

東垣内と馬場垣内がある地は桜井市の大字小夫である。

垣内は他に上垣内や桑垣内もあるが、人数が少なくて数珠繰りはしていないと区長は云う。

虫供養でもある虫の祈祷が行われる場は秀円寺。

薬師籠りが行われた平成27年9月12日に伺ったお寺である。

薬師籠りもそうだが、虫の祈祷にも僧侶は登場しない無住寺である。

昭和35年9月10日に入寺された如実良仙和尚がおられたころは薬師会式が行われていたようだ。

薬師会式があったということは虫の祈祷の法要もあったということだろう。

蔵にあった大きな数珠玉があるお数珠を座敷に広げる。

導師はいないが音頭をとるのは天井から吊るした大太鼓と床に置いた双盤鉦である。

木枠に紐で吊るされた鉦の最大直径は31cm。

内径は26cmである。

薬師会式のときに撮らせてもらった画像を検証した結果であるが、「兼光作」の刻印文字があった。

この日、あらためて鉦を拝見したら「奈坂町清五郎」の名があった。

「奈坂町」は「奈良之坂町」。

現在の奈良阪町ではないだろうか。

だとすれば寄進者の名であるかもしれないが、奈良坂町と小夫との関係性は・・・。

不明である。

謎はまたひとつ増えた。

円座を組むように広がった垣内の人たちが手にしたお数珠。

太鼓に双盤鉦が打たれる。

太鼓は三つ叩いたら双盤鉦も打つ。

「なんまいだ、なんまいだ」と、繰り返して数珠を繰る。

太鼓の音は大きいがその音を打ち消すのは双盤鉦。

キン、キン、キンと三回打ち鳴らす双盤鉦の甲高い音が太鼓の音色を打ち消すのである。

場を離れた処ではそう聞こえていたが、近づけばそうでもなかった。



キン、キン、キンの音に混じって聞こえる太鼓の音色は破れたようなドン、ドン、ドンであった。

数珠繰りの回数は49回。

場合によっては108回とも。

108回であれば除夜の鐘と同じく煩悩を追い払う回数。

49回であれば・・・。

垣内というか、小夫の村では四十九日の法要は涅槃さん。

涅槃仏を掲げる家の葬式に十三仏来迎の掛図も掲げていたという。



ちなみにこの日の回数はどこでどう数えていたのか判らない。

天井に吊るした太鼓を打つのは腕がだるくなるほどしんどくなる。

と、いっても打ち止めするわけにはいかない。

双盤鉦が打ち止めになるまで叩かなければならないという。

(H28. 6.12 EOS40D撮影)
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張り出し御供棚がある神棚

2016年12月28日 08時35分00秒 | 桜井市へ
「テンノオイシキの大草履」に纏わる話題を話してくれた男性宅。

上がらせてもらったお部屋はお座敷。

その天井一角に神棚がある。

旧家では特に珍しいわけでもない一般的な在り方であるが、神棚に張り出し板がある。

これまでいくつかの旧家に上がらせてもらったが初めて見る構造である。

ご主人は笠の笠山荒神社に勤める身であるが、神棚にあったお札は三輪の大神神社や談山神社もある。

その神棚の一歩前にある一枚の板。

天井から下ろした支柱に架けて吊るしている処に注連縄を張っていた。

神聖な場を示す注連縄の下にカップ酒が二杯。

お神酒である。

(H28. 6.12 EOS40D撮影)
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テンノオイシキの大草履

2016年12月27日 09時47分00秒 | 桜井市へ
ご主人と初めてお会いしたのは平成27年の2月15日だった。

神社社務所に勤めるご主人は在所する地域に藁草履吊りをしていると話してくれた。

教えてもらったとおりにあった藁草履に感動したものだ。

その草履吊りは7月のテンノオイシキに縄結いして作る。

それは二種類ある。

一つは神社の鳥居に吊るす牛が履く藁草履である。

もう一つは庚申さんの祠に吊るす藁草履。

長らく途絶えていた藁草履吊りは2年前に復活したと話していた。

翌年の平成27年の5月。

藁草履吊りはいつされるのか気になっていたので電話を架けたが、まだ日程がはっきりと決まっていない、という回答だった。

再度、数週間後経ってから電話したら7月に行うと話していた。

日にちが決まれば、と云って待っていたが電話はなかった。

それからしばらくした7月10日に発病した心臓病で入院・手術した。

連絡がなかってほっとした記憶がある。

それから1年後。

帰り道に立ち寄ってみたくなった。

吊る場は車を停めた処から急な坂道を登り切ったところにある。

最近はようやく歩けるようになったが、坂道はキツイ。

一般の人であっても間違いなく急坂だと思える村の道。

病み上がりの私にとっては悔しいほどに辛い坂道である。

息切れするほど何度か途中でいっぷくせざるを得ない坂道を登り切ったところにあった。

色褪せた鳥居に注連縄が架かっている。

向こうに建つ牛頭天王社の社殿にも注連縄があるが一般的な造りであった。

その鳥居の右側だけに吊るしていたのが手造りの藁草履。

平成27年2月15日に拝見したときと同じような感じである。

注連縄の垂れ方を比較してみればまったく同じ。

状況に変化はなかったのであるが、藁草履はなんとなく色が違うように思えた。

造り、架ける状況はなんとなく違う。

これも帰宅してから比較してみたら・・。

新作であった一足半の牛の藁草履であるが、前年とはうってかわって一般的な人が履くような形になっていた。

牛頭天王社の他にも藁草履がある。

社の右横にある庚申さんの祠の木鼻部に吊るしていた。

これも新作のように見えた風合いである藁草履。

草履は三つ。



小さいのは子供の草履。

その次に垂らしていた草履は女性。

も少し大きいのが男性。

その証拠にアレがある。



どないに見ても男根に見える草履。

それぞれが片足ずつである。

男根であれば女性の草履にもアレがある。

編んだ草履に小さな穴がある。

上手いこと作ったものだと感心する女淫に男根。

男根をよくよくみれば藁でないようなものがある。

以前、話してくれた男性がシュロの毛で陰毛を形作ると云っていたことを思い出した。

平成27年に拝見したとき、それらはなかった、と思っていたが、裏を返せば見つかったかもしれない。

県内事例にこのような藁草履は見たことがない。

あり得ないと思っていたが、事実は眼前にある。

昭和36年に発刊された『桜井市文化叢書民俗』によれば、かつて雄雌の草鞋吊りをしていたのは村の青年たちだった。

5月の田植え前に作って豊作を祈願していたと書いてあったのは「地蔵堂」の項である。

「笠の千森(ちもり)に石の地蔵尊をまつる。八月二十四日は会式である。地蔵堂の境内に石庚申さんがある。雌雄二つのわらじを供えてある。長さは二尺くらいで、中央に雄形、雌形の異様なものをつけてある。五月の田植えの前に村の青年達が集まって賑やかに作りあげる。豊作祈願の大草履である」とあった。

さて、である。

雌雄の藁草履吊りの在り方は、念のために、と思って男性宅を訪ねた。

自然農法で作った水稲栽培。

ハザカケに架けて天日干しをしたお米は玄米の形で売っている。

とはいっても栽培しかけたのは昨年が初めて。

これまで栽培してきたのは豆である。

栽培地は当地でなく東吉野村の鷲家へ行く峠。

大宇陀にあたる地になるらしい。

当地から西へ下った纏向の地もあるが草まめし状態。

どうやら放地しているようだ。

牛頭さんこと牛頭天王を祀る牛頭天王の宮社に架ける。

牛頭さんは流行り病に効いてくれる神さんだという。

神さん・・・神さんのお使いの神さんは斑鳩の龍田川にある牛頭天王社。

そこの行事か・・。

こっちは一足。

こっちの村も一足。

夜は8時ごろともなれば、行こうかと云って出かけようとすれば、「早いぞう、早いぞう」と言い返す。

それから1時間。

このやり取りを7回繰り返す。

深夜の2時。酔いもまわって持ち寄ったゴズさんに一足半を奉った。

天皇陛下の結婚式に着る服に鳳凰の足がある。

その足は三本足。

だからゴズさんは神の使いであるという。

荒神さんに参る信者さんを案内すれば雪が降ってきたという神の里は浅茅ケ原。

神さんがおわす処であるという男性が住まいする地は千森。

荒神さんの山奥深い処にダイジングサンがあるという。

修験道の人が云うには笠の荒神さんは創造神。

火の神さんは後に造られた神さんだという。

まことに不思議な話しをしてくださる。

東大寺の大仏誕生秘話を伝えるテレビ放送があった。

天平十五年(743)、聖武天皇は「生きとし生けるものが共に栄えること」を願い「大仏造立の詔」を発して大仏さまを造立されたことなどを映し出していた。

その映像に、近年に描かれたと思われる聖武天皇の肖像画姿があった。

その映像の着衣の肩辺りに文様がある。

それは黒い鳥。

足は三本である。

それは八咫烏のように思える。

着衣は「袞衣(こんえ、こんい)」の名がある唐風の天皇衣装。

礼服の一種で天子御礼服ともいうそうだ。

もしかとすればだが、男性が云っていた服に鳳凰の足があるのはこれのもとかと思った。

藁草履は1足半。

片足の草履を三つ作るということである。

今年の「テンノオイシキの大草履作り」は7月に実施するつもりでいるそうだ。

7月14日は“天王“を意識する日。

その日は新しい綱でテンノオエシキ(発音によってテンノオイシキとも呼んでいる)を迎える。

村人はおかずを持ち寄って、ミシロ(筵が訛った)を敷いた処で一杯飲んでいた。

一杯は酒のことである。

一杯を飲めない子供たちはお菓子を食べていた。

かつて青年団が藁草履を作っていたが廃れてしまった。

それから随分経った3年前に思い立って「ツナウチ保存会」を立ち上げて藁草履を作って架けている。

話しを庚申さんの祠に架けてあった雌雄の藁草履に戻そう。

その祠に祀った石物は2体。

右が庚申さんで左は先祖供養の石仏になるらしい。

片足ずつ吊るしていた庚申祠に野菜がひとつ。



十円玉は賽銭のように思えるが、野菜はなんであろうか。

幼児が置いたものであるのか。

後日に聞いた野菜の正体。

置いたのは近くに住む老婦人だった。

「初成りの野菜はいつもこうして庚申さんに供えますんや」と云う。

このときは万願寺トウガラシ。

実成に感謝の気持ちを添えて初成り野菜の一つをお礼に供えているということだった。

それはともかく、今では子供、女、男の草履がそれぞれ片足ずつになったが、昔は石仏2体を覆っている祠いっぱいにもなる大型の草履もあったようだ。

昨年の草履は栽培した古代米の藁で作った。

7月14日に架けるおだが、作ったのはその日より前の日。

時間を見計らって作った草履作りは1時間ほどの作業。

おばあさんが拝んでいたらしい。

一年間も架けていた藁草履はトンドで燃やす。

昭和10年に建替えたという地蔵堂。

8月24日は地蔵盆があった。

昼過ぎに寄る地蔵堂。

その日は会式の盆踊りだった。

8月17日からの毎晩。

周辺の村々それぞれの地域で盆踊りをしていた。

天理の仁興に藤井もその村の一つ。

先に出かけて隠れていた。

頭に浴衣をかけて脅していた。

昔の若いもんはそうしていた。

踊りの最後の地が笠。言葉はなかったが県内各地で見られた盆踊り。

会式の日に踊ることから「エシキ(会式)の踊り」が訛って「イセキ(もしくはイシェキが訛ったイシキ)の踊り」と呼ぶ人が多い。

ちなみにこの日に聞いた「テンノオイシキの大草履」。

「テンノオ」は牛頭天王社のことであり、「イシキ」は会式が訛った言葉である。

(H28. 6.12 EOS40D撮影)
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上の家さなぶりを訪ねて

2016年12月26日 08時09分25秒 | 楽しみにしておこうっと
我が家の図書棚にすっかりおさまっていた季刊誌がある。

昭和56年10月号から62年10月号まで揃っている『季刊明日香風』だ。

なぜだか、全巻は揃っていない。

たぶんに買い忘れであろう。

FBで欠番になっていたある号が欲しいという人が現われた。

どうぞ、と云って差し上げたい旨を伝えたが、見つかったらしい。

埃に塗れていた我が家の図書棚にあった『季刊明日香風』はこのことをキッカケに頁を捲ることになった。

当時の主眼は古代のことを知る、ことである。

「民俗」のこれっぽちも興味をもっていなかった。

パラパラと捲る頁に明日香村の伝統行事が載っていた。

えっと驚く行事もあれば、近年において取材した行事もある。

昭和56年と云えば、今から数えて35年前。

出合いは我が家の図書棚にあった。

時期は6月。

現状を調べてみたいと思った行事が載っていた。

昭和62年4月刊の『季刊明日香風』にあった「明日香村の民俗点描」は田植え終わりに供える「サナブリ」である。

記事にあった大字は明日香村の上。

一文字の「上」と書いて「かむら」と呼ぶ大字である。

ここでは6月12日と決めている家もあるようだが、供えものは同じであろう。

三把の苗さんを一つに結ぶ。

アカメシ(赤飯)のオニギリは三つ。

形は丸みのある平太鼓のように見える。

それは燈明やお神酒とともに竃の上に供える、とあった。

いわゆる家サナブリである。

今でもされているのか、それを知りたくて、大字上(かむら)を訪れた。

車を停めた場に近いところにお家が建っていた。

造りは旧家である。

その家の前におられた男性に声をかけた。

物は試しと思ってサナブリの苗さんを尋ねてみた。

「それならうちのばあさんがしている」というのだ。

これには驚いた。

当家の田植えは一週間前。

今年は6月5日に済ませた。

その日に供えたのが三把の苗さん。

家の炊事場に塩、洗米、お神酒とともに供える。

豆腐やお菓子も供えたようだが・・・。

かつては三宝荒神さんと呼んでいた場に供えた翌日は外に持ち出す。

場は当家より急な坂道を登った処にある庚申さんだ。

その場で三巻の般若心経を唱えたというおばあさん垣内の婦人たちとともに参拝したそうだ。

家サナブリをしていたおばあさんは男性の母親だった。

台所の神さん、火の神さんがあるヘッツイさんと呼んでいた竃の神棚に供えていたらしい。

案内してもらった庚申さんはたしかに急な坂道を登った処にある。

一週間前に供えた三把の苗さんは枯れていた。

かつては藁紐で結んでいたと思われる苗さん。

いまではPP紐で結んでいる。

苗は枯れているが、何故か立てた花はまだ花らしさを保っている。

男性は62歳のFさん。

人懐っこい表情にさまざまなことを教えてくださった。

大字上(かむら)に神社がある。

鎮座する地に名前がある。

それは「もうこの森」と呼ぶ。

その名の起こりは大化二年(645)の大化改新。

飛鳥板蓋宮で藤原鎌足が暗殺した蘇我入鹿の首に追われて同地に逃れてきた。

そして、云った。

ここまでは「もうこんやろ」。

関西弁でそう云ったのはFさんだが、おそらくは「もう来ないだろう」であろうが、標準語というのもなんとなく可笑しいように思える。

ちなみに「もうこ」を充てる漢字は「茂古」であるらしい。

ちなみに神社名は気都和既(けつわき)神社。

延喜式神名帳に載る古社は隣村の細川や尾曽(上尾曽・下尾曽)の三カ大字によってサナブリ行事をしているという。

それは家で行われるサナブリに対して村サナブリと云われる村行事。

村の田植えのすべてが終わって豊作を願う村行事である。

大字上(かむら)は一文字。

飛鳥や細川から見れば上(かみ)の村。

こういう事例は県内でよくあることだ。

「上にある村」と考えるのが妥当な線だと思う。

つまりは「かみのむら」。

これが縮まって「かむら」。

そう考えれば納得がいく。

かつて下流の細川で彷徨ったことがある。

細い道を右往左往。

急な坂道に車を前進。

はたまたバックに入れて方向転換しているときに嵌った。

細い水路にタイヤを落としてしまった。

携帯電話もない時代。

近くにある民家に頼み込んで電話を貸してもらった。

救急にすがったのは自動車保険。

レッカー車が当地まで救いに来てくれた。

それ以来、私にとっては危険な地域。

再び人様の世話になってはいけないと思って足は遠のいた。

そのときから上流に向かう新道があったことは覚えているが、全線は未開通だった。

この日に訪れたときは新道利用。

どこまで行けるのか、試したくて走り続けたら桜井市多武峰に鎮座する談山神社の駐車場だった。

お土産も売っている駐車場まで続いていることなんてまったく知らなかった。

Fさんの話しによれば、談山神社へ通じる自動車道は10年前に開通したそうだ。

便利になった反面、「かなわんことも多くなった」というFさん。

田んぼや畑で耕作をしていた息子さんが無断で写真を撮られてしまったという。

勝手に撮られるのは敵わんと云って怒っていたそうだ。

話しは替わるが、Fさんが云う「下の人」。

「下の人」とは都会の人。

大字上(かむら)で育ったFさんがおやつに食べていたのは農作物のトマトやマッカにスイカ。

都会の人はお菓子やったと思うが、ここらでおやつと云えば農作物の果物だったと回顧される。

その大字上(かむら)でもアイスキャンデーを売りに来た人がいるらしい。

急な坂道を押してだと思うが、自転車で売りに来ていたと云う。

10年前どころかもっと前のことであろう自転車売りのアイスキャンデーは私が育った大阪市内の住之江でもあった。

大和川の堤防を走っていたような気がするが、それは映画の世界かもしれない子供の頃である。

ちなみにFさんの家には庚申さんに供えた塔婆の木がある。



かつては旧暦閏年に行われていた閏庚申さん行事に供えた葉なし樫の木の塔婆である。

願文も見られたが文字は判読できないが、お爺さんが書いていたと云う。

降ろしてあげようと云われたが後日に・・とした。

大字上(かむら)は当地4軒がある上出垣内と下(しも)にある下出垣内の2垣内。

庚申講があるのは上出垣内だけのようだ。

閏庚申行事を「モウシアゲ」と呼んでいる上出垣内。

私が知る範囲内であるが、明日香村では「モウシアゲ」と呼ぶ地域が多い。

祝戸、稲渕、平田、奥山、飛鳥、八釣、東山、阿部山、大根田に立部であるが、今でもされているかどうかは存知しない。

また、近隣村の桜井市・高取町の一部においても「モウシアゲ」の呼び名がある。

桜井市は山田、高家。高取町は越智であるが、他村にもあるような気がする。

なお、上出垣内の庚申講は60日おきに庚申さんの掛軸を掲げて祭りをしているらしい。

本来ならば庚申さんの日であるが、今はそれに近い日に廻り当番の家に集まるようだ。

そんな話題を提供してくれるF家は母屋。

垣内に分家のF家がある。

話し具合からやってきたFさんは総代。

3月の第三日曜日に「八講(はっこう)」さんの行事をしているという。

頑丈に建てられた薬師堂が村にある。

小仏の薬師如来さんはヤカタに収めて祭っている。

小仏は藤原鎌足公。

年に一度の開帳に飛鳥神社の飛鳥宮司が祈祷してくれるという。

話題が尽きない大字上(かむら)行事の数々。

1月15日は炊いたアズキガユ(小豆粥)を供える。

粥はビワの葉(入手できない場合はカキの葉)に乗せて供える。

ビワの葉は裏を表にしてそこへ盛るが、その数、なんと50枚にもおよぶそうだ。

アズキガユはアズキメシであるかもしれないが、50枚もあるということから供える処が50カ所。

家の神棚に戸口や庚申さんも。

かつては火を焚いていた竃にも供えた。

田んぼまで供えているというからありとあらゆる処に供えるのであろう。

ちなみにアズキガユは4軒で行っているトンド焼きの火をもらって炊いている。

以前は決まった日であったが、今では村の初集会の日。

おそらく正月初めの日曜日であるかもしれない。

話題は戻すが、『季刊明日香風』に載っていた家サナブリの供え物。

写真をじっくり見ればお札のように見えるモノがある。

おばあさんが云うには、そのお札はタネマキのときにお花を添えてお札を田んぼに立てていたそうだ。

横、水平にあるのがお札。

そこに書いてあった文字は「うるち米」に「もち米」とか。

「早稲」の文字も書いていたとか・・・である。

そのお札は割った竹に挟んでいたという。

もしかとしたら、この写真は我が家であるかも知れないと云う。

ただ、改築する前の様相のようであるが、黒色の戸棚が思いさせないと云う。

それにしても我が家に恵比寿さんの扇はあったかな・・・であった。

(H28. 6.12 EOS40D撮影)
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ホケノ山古墳より三輪山を臨む

2016年12月25日 09時24分55秒 | 桜井市へ
川上村の高原から戻ってきた。

車を停めていた場所は桜井市の箸中。

度々の年中行事にお世話になっている地域である。

6月といえば陽が落ちる時間は午後7時を過ぎてもやや明るい。

付近を歩いてみれば三輪山を臨む地に着く。

周辺に黄色い花が咲き誇っていた。花の絨毯とも言い難いが、日暮れの時間帯に良く似合う色花。

どうやらオオキンケイギクのようだ。

花弁の先が尖がっているように見えるからそうだと思うが断定し辛い。

ただ、花弁が詰まっている。

8枚花弁は同じであるが、先は柔らかい様相のホソバハルシャギクの可能性も否定できない・・・・・。

二日後の12日もここへ来た。



キク花の名前はまだ掴めていないが、美しい色合いを求めての再訪だ。

この日は朝の9時。

初夏であるからとうに陽は昇っている。

三輪山からの朝日も良いが、そんな時間帯は来れやしない。

そう思ってこの時間に撮った。

と、いうのは言いわけ。

これより向かう明日香村の取材時間に合わせただけだ。

(H28. 6.10 EOS40D撮影)
(H28. 6.12 EOS40D撮影)
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久しぶりの再会

2016年12月24日 08時57分17秒 | 川上村へ
夏季大祭に拝見した神饌所に真っ白な石があった。

「シラス」と呼ばれる神聖な石である。

清流にある真っ白な石を拾ってきて本社に供える。

本社に着くまでに一旦停止する処がある。

神社よりすぐ近くに小川が流れる。

小さな川に跨る橋がある。

欄干はコンクリート製だ。



そこに拾ってきた「シラス」石を一旦は置く。

「シラス」石は108個も集める。

揃ったところで本社周りに敷き詰める。

これを「コオリトリ」と呼んでいる。

充てる漢字は県内事例から考えて垢離取りに違いない。

決まった日でもないときに行われる「コオリトリ」。

例えば、宮参りに詣でるときにしていると云う。

「シラス」石を一旦置く場の向こうにかつて総代・大目付を務めていたⅠさんが住まいする家がある。

6年ぶりに訪れた高原。

顔を出さずに帰ってしまえば失礼にあたる。

そう思って上がって来た。

もしかとしたらと思って畑に向かう。

そこに奥さんと一緒に作業をしていた。

元気な黒光りのお顔を拝見してオォと声があがる。

懐かしい場で寛がしてもらった。

Ⅰさん夫妻とばったり出会ったことがある。

大淀町の土田(つった)をお互いが逆方向に走っていたときだ。

眼前に浮かんだ車の運転手の顔。

同乗していた奥さんの顔も判った。

クラクションを鳴らしたら気づいてくれた。

大慌てでUターンして手渡した本は出版数か月後の奈良本。

著書の『奈良大和路の年中行事』である。

著書に高原の行事を収録している。

お盆行事の「法悦祭(ほーえっさい)」である。

珍しい作法があるマツリもあったが、誌面の都合でこれ一本にさせてもらった。

そんな話も懐かしいし貴重な特別な山野草に思い出話の花が咲いて村の風習などを話してくださる。

6月7日は山の神さん。

それからヨウカ竿立てでひと月遅れのコイノボリをする。

ヨウカ竿はいわゆるオツキヨウカのテントバナと同じ形態であろう。

それは6月8日に立てるというから違いない。

一本の杉の木を山から伐り出す。

葉を少し残す。

残す場所はてっぺんである。

その葉の下にボタンの花やヤマブキを飾ったヨウカ竿は高原で一番遅そうまでしていたと云う。

ヨウカ竿は一日限り。

これを倒してコイ竿を立てた。

コイ竿はコイノボリを揚げる木材の支柱だ。

その日は笹の葉に包んだチマキを作っていた。

チマキの原材料は米粉。米を挽いて粉にしたものを熱湯で練って蒸した。

笹の葉で包んだチマキの形は尖がっていた。

その日はホウの葉でくるんだアンツケダンゴを作っていた。

朝から作業をしていたと述懐されるホウの葉包みのアンツケダンゴは高原では「デンガラ」の名があった。

※参考 高原の「デンガラ」と呼ばれる朴葉包みのダンゴ

4月3日はオヒナサンのヨモギがあった。

ヨモギ摘みをしたヨモギは昨年に採取したものと今年のものとで2升5合。

タンサンを入れて作るようだと聞いたがあやふやだ。

それをヒシモチの形にする。

オヒナサンに供えたら「はよたたまなあかん」とよく言われたことを思い出すと云う。

年末の12月28日は家の餅を搗く。

30日は朝から大掃除。

注連縄(たぶんにコジメ)をかける場所は戸口などあらゆる処に架けるので15ケ所にもなるそうだ。

午後は正月迎えにイタダキ作法をするイタダキの膳を作る。

膳の盛りは洗米にサトイモ、葉付きダイダイミカンや吊るしカキなど。

これらを三方に載せて大盛りにする。

昔は二段重ねの鏡餅に老寿の伊勢海老も立てたそうだ。

イタダキの膳にはお金を入れたのし袋も供える。

なお、イタダキの作法をするのは元日の朝になるが、作りは拝見したいものだ。

そのイタダキの膳はお寺の先祖さんにも供えると話していたI家の在り方は村神主が話していた神社行事の節分まで詳しく話してくれた。

神社行事は午後6時半より節分の豆撒きがある。

撒く場所は小宮さんに鳥居、御供所、拝殿である。

そこで撒くときに行う詞章がある。

「鬼は外 鬼は外 鬼の目うと」と云いながら撒く。

神社ではそうしているがI家も節分の日に家の行事が行われる。

その日は奥さんがスコンニャクを作る。

水を切って油を落として炒める。酢と味噌を塗して胡麻を振って作っていると云う。

また、ニンジンやコンニャク、ダイコンの煮ものもあれば、巻き寿司も作る。

すべてが自家製である。

料理はそれぐらい。

節分の作法につきもののイワシヒイラギがある。

生イワシの頭はメツキバラ(ヒイラギ)の枝木に挿す。

戸口とかトイレなどに立てる。

さばいた生イワシの腹や背は焼いて食べる。

これも料理であるのかと云えば、ちょっと違って残り物のおすそわけだ。

肝心かなめの節分の作法といえば豆撒き。

そのときの台詞(詞章)が「オニノメウトー、オニノメウトー」だ。

「オニノメウトー」は前述した「鬼の目うと」。

つまりは鬼の目を打とう、ということだ。

時間ともなれば村の各戸で節分が行われる。

それぞれの家々で行われる節分の豆撒きに「オニノメウトー、オニノメウトー」と大声が響き渡る。

(H28. 6.10 EOS40D撮影)
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亡くなられた場に弔う

2016年12月23日 08時47分37秒 | 川上村へ
昼食を摂っていた場の向こう側に何かがある。

作業小屋の角の処に花を立てていた。

花は甕のようなものに入っている。

白いものもある。

なんとなくオヒネリのように思えた。

これは何だろうか。

近づいてみればカンビールやワンカップの酒もある。

たぶん・・・・。

そこには線香もあった。

火を灯した線香は焼けて灰になった。

何本かの線香の跡が残っていた。

神事をしていた神主に尋ねた結果は・・・。

近くに住む人がこの場で亡くなっていたというのだ。

年齢は老けていない。亡くなるまでは元気な姿でいたという突然の死。

行き倒れのように道端で倒れていたと話す。

外で亡くなれば弔いの場に花を立てて線香を。

福源寺の住職に念仏を唱えてもらったそうだ。

その話しを聞いてあらためて手を合わせる。

(H28. 6.10 EOS40D撮影)
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高原十二社氏神神社の夏季大祭と神主カギ渡し

2016年12月22日 08時39分08秒 | 川上村へ
実に6年ぶりに訪れた川上村の高原。

平成22年9月30日に行われたマツリの宵宮に搗くモチツキ。

翌日のマツリも訪れたが、その日はマツリを終えた午後4時過ぎ。

前日のお礼を兼ねて訪れたのを最後に高原行きは永らく中断した。

その理由は台風12号襲来によって起こった巨大な深層崩落による土砂崩れだった。

崩落の規模は高さが300mで幅は100mにもおよぶようだ。

人的な被害はなかった崩落だったので救われるが、高原入りが遠のく一因でもあった。

遠のく因はもう一つある。

遠出がなかなかできなくなった時代を迎えたのだ。

翌年の平成23年1月に奈良県教育委員会文化財課職員から奈良県緊急伝統芸能調査を頼まれたことである。

県や在住する大和郡山市から委嘱された調査は3カ年。

精魂込めて調査した。

すべてが終わって分厚い報告書が発刊されたのは平成26年6月。

調査員の仕事はやっとのことで解放された。

が、翌年の平成27年は大病。

長期間に亘る闘病生活が待っていた。

完全復帰でもない身体になったが、動ける範囲内で調査取材を続けていくことにした。

思いもかけない写真家Kとの出会いが端を発してこれまで伺った取材先に再訪する機会が与えられた。

この日に訪れた高原もその一つである。

昭和44年の高原住民は480人になっていた。

それより10年前の昭和34年9月。

伊勢湾台風によって800人も住んでいた高原は壊滅的な被害に遭遇した。

土地が崩落して土砂で埋もれた神社傍の谷会いに被害にあった村人が静かに眠っているという。

そのような経緯もあった高原。

当時の戸数は73戸。

正月のときに一軒、一軒に御供を配っていたという。

高原は曹洞宗派。

曹洞宗、臨済宗などの中国禅宗五家の一つ。

日本では曹洞宗の他に日本達磨宗、臨済宗、黄檗宗、普化宗がある。

本日、行われる高原の行事は十二社氏神神社の夏季大祭に村神主の引継ぎがある鍵渡しである。

神社には4人の男性がおられた。

うち、一人のお顔は存じている。

かつて行事取材にお世話になった元区長のUさんだが、すっかりお忘れになられたようだ。

他の3人は初めてお会いするが、一人は顔を覚えている。

何度も、何度も繰り返して拝見していたマツリのときに行われる人寄せの御供撒きである。

掛け声をかけながら先頭を走る男性の顔はすっかり目に焼き付いている。

もしかとして平成15年10月1日に撮っていた携帯電話の動画を見てもらう。

なんとなくそうだと云う男性はNさんだった。

ところでこの日に渡したい写真があった。

それは平成22年9月30日に行われたマツリの宵宮に搗くモチツキの様相である。

搗いたモチを棒のような長細いモチにしている写真である。

それを見たOさんが云った。

「その棒モチは「ネコモチ」と呼ぶ。ネコモチを包丁で切断しているのが私だ」と云った。

良き出会いの写真に喜んでもらった。

この日、夏季大祭後に引継ぎされるアニ神主。

オトウト神主のUさんとともに一年間の神社行事に祭祀される二人だった。

そういう話しをして旧来から取材していたことに納得された現アニ神主のOさんは区長も兼務されている。

もう一人は現オトウト神主のOさん。

アニとオトウトと呼ぶのは年齢が単に年上・年下であるということだ。

かつては55歳になれば神主役を務めていたようだ。

許可をいただいて取材に上がらせてもらった参籠所。

この部屋だけは絶対に入ってはならないと釘をさすその場は神饌などを調製する部屋。

神聖な場所は神主しか入ることのできない神饌所である。

「干時文久二歳(1862)壬戌 祝 八月新調」の墨書文字が見られる御供箱。

オカモチ風の御供箱は寄進した三人の名(神主 善兵衛 長右衛門 四□左衛門)がある。

その反対側には12人の名を墨書した十貮人の連名がある。

驚くべきことに12人とも名字があったからそれぞれが特定家であったようだ。

それはともかく、神饌所は炊事場でもある。

大きな炊飯器で炊いたご飯は器に詰め込む。

器の形は尖がりのない三角錐。

径の広い側から詰め込む形になっている。

詰め込んだ器は高坏に盛る。

これを「タキゴク」と呼ぶ。

「タキゴク」を充てる漢字は「炊き御供」に違いないが、枠に詰め込んで型をとる形態から申せば、多くの県内事例でみられる「モッソ」である。

充てる漢字は物相。地域によっては「モッソウ」の呼び名もある「モッソウ飯」である。



「タキゴク」を運ぶための道具がある。

いわゆる御供箱であるが、それには江戸時代末期の「干時文久二歳(1862)八月新調」の墨書があった。

オカモチ風の取っ手があるから運びやすい。

三つ作ればもう人揃えの「タキゴク」も調製する。

これら六つの「タキゴク」は上に低い高坏、下に高い高坏を並べて本殿下の祭壇に供える。

御供は他にもある。

前日に4人の村神主が搗いた餅は大鏡餅に小鏡餅がある。

本殿は大鏡餅であるが小宮さん、八幡さんなどの末社は小鏡餅になる。

これらの餅は神主家で搗いた。

前日の餅搗きは杵搗き。

宵宮の場合と同じの杵搗き。

用意したモチゴメは9kg。

二臼も搗いたと云う。

御供にもう一つ。



県内事例ではあまり見ることのない「カケダイ」がある。

充てる漢字は「掛鯛」。

そのものであるが、同じような形態で行事の際に供える地域は極めて少ない。

私が拝見した事例は2地域。

一つは奈良市川上町の祇園社ならびに川上蛭子神社の蛭子祭

もう一つは田原本町蔵堂の恵比寿社の三夜待ち

いずれもエビスサンを祭る行事である。

高原の氏神神社には恵比寿社の存在がないようだけに特別なものを感じる。

カケダイの姿も含めてご厚意で撮らせていただいた。

なお、カケダイはこの日の夏季大祭だけでなく元日祭祀の元旦祭やマツリの秋季大祭にも供えられるようだ。

かつては11月の霜月大祭にもあったが、である。

こうしてすべての御供の調整が終われば本社、末社など神饌御供を並べて夏季大祭の神事が行われる。

参拝者の姿は見られず四人の村神主が粛々と行われる。



その際にはカケダイを供えた本殿に御簾を下ろされる。

一人の現神主が本殿に上がって神事をする。



神主はアニにオトウトの二人。

神事ごとは交替しているという。

本殿に向かって一同は拝礼する。

始めに拝殿で禊ぎ祓い。

次は本殿に登って大祓詞。

本殿に登るさいには草履を脱いで左足を先に社殿に登り、御簾を上げる。

次は夏季大祭の大祓奏上。

次は「皇社皇宗遥拝所」の場に移って「天地一切清浄祓」を奏上する。



村神主曰く神武天皇以下の第五十五代文徳天皇までの天皇を遥拝する場であると云う遥拝所前に供えた二段重ねの小鏡餅は六つ。

小宮は六社。

太政大臣、中納言、少将、中将・・など六人を祀る。

そこも同じように六つの二段重ねの小鏡餅を供えていた。

「皇社皇宗遥拝所」の次は小宮に移る。

唱える詞は「六根清浄大祓」。

次は二社さんと呼ばれる社殿に移って「一切成就祓」になる。

こうして神事を終えた四人は揃って直会の会食。

頼んでおいたパック詰め料理でお神酒をいただく。

十二人衆のミナライに4人の継後(けいご)が存在する。

4人は年齢順に繰り上がって十人衆を務めていた。

今日の勤めをした四人の神主は平成12年に務めた十二人衆。

年齢が近いこともあって四人の仲が良いという。

それから数時間後。

直会を終えた神主は鍵渡しをする。

とはいっても神事は夏季大祭と同じように大祓などを奏上するだけある。

始まるまでの空いた時間。

神饌所にある今では使っていない器があると棚から下ろしてくださったコジュウタに「上平四□(郎)右衛門寄進」の墨書がある。

何代も前の上平家の名だという。



その箱にはさまざまな形、大きさがある陶器を収めていた。

色合い、くすみの様相から材は明らかに古いように思えるカワラケがある。

裏面を返せば墨書文字があった。

「天正十三年(1585) 自天親王神社甲 五個ノ内四号」であろうか。

「乙酉」の文字でもあれば実証できるのだが・・・。



後年に書かれたような筆跡であるように見受けられるが、否定も肯定もこの段階ではできない。

同じ大きさのカワラケに「天正十三年(1585) 自天親王神社 五個ノ内三号」があることから5枚であったろう。

他にも古い器があるが年代を示すものはなかった。

なお、この箱の蓋に「薬師御□帳入」の墨書があった。

もしか、であるが、「薬師」の文字から思うに、薬師観音本尊を安置する福源寺の什物であるかも知れないが、たぶんにお盆に「ちゃんごかご」行事をされる神社隣接の元安楽寺の薬師堂である可能性が高い。

なぜなら、福源寺に伝わる本尊薬師如来座像は神仏分離令が飛び交う明治時代に元安楽寺薬師堂から移したという座像。

胎内に「藤原宗高大施主 仏師僧禅大法師 応徳二年(1085)十一月日」と書かれた墨書があるそうだ。

その本尊を尊ぶ薬師観音大祭の営みがある。

平成20年の4月8日に取材させてもらった行事である。

歴史を知るかつての什物に感動しておれば「予定していた時刻を過ぎてしまった」という神主。

そろそろ始めたいと云って鍵渡しの神事に入った。

神事に大祓などを奏上するのは現村神主のオトウト。

夏季大祭と同じように神事が行われるが、一般的にみられるサカキは高原に登場しない。

夏季大祭に供えた御供は下げずに行われる。



粛々と始められる鍵渡しの神事であるが、夏季大祭と同様に拝殿に向かって大祓の奏上。

「皇社皇宗遥拝所」の場に移って「天地一切清浄祓」を奏上。

小宮に移って「六根清浄大祓」。

二社さんに「一切成就祓」を奏上して終える。

本殿などの鍵はこうした神事を終えて引き受ける次神主に引き継がれる。

かつては神事があったという。

この日の夜中にしていた。

本殿の前に座って黙々と引き継がれた。

この日まで務めた神主は引退する旨を引き受ける神主に言い渡された。

鍵渡しと呼ぶ神主の引継ぎはこの日の夏季大祭以外にもうひとつある。

それは11月に行われる霜月大祭の日。

アニとオトウト神主揃って引継ぎではなく、例えば1回目は夏季後にアニ神主とすれば2回目の霜月後はオトウト神主となる。

もっとややこしいのは夏季大祭に受けた神主が次に引き渡すのは翌年の霜月大祭の日。

の霜月大祭に受けた神主が次に引き渡すのは翌々年の夏季大祭。

つまり一年間でなくそれ以上の期間を勤める二人神主制なのだ。

滞りなく引継ぎされると『高原氏神正一位十二社権現 神主記録』帳に日付、曜日、天候、氏名、特記事項などを記載されて役目を終えた。

ところでこの日に引退されたアニ神主のOさんは「ゲー」を切る作法があったと云う。

それは「ゲイキリ」とも呼んだ作法。

三日三晩、清めに籠った。

三日間とも籠るに食事がいる。

その料理は籠る神主が作った。

一人で調理して一人でいただく潔斎籠り。

サカキの葉を口に銜えて高原にある地域の神さんすべてを巡ってお参りをする。

衣装は裃と決まっていた「ゲイキリ」の作法であるが、今は見られない。

(H28. 6.10 EOS40D撮影)
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