マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

丹後庄町八雲神社ヨミヤの御湯

2012年12月31日 06時55分39秒 | 大和郡山市へ
昔から八雲神社のヨミヤは10月21日と決まっている大和郡山市丹後庄(たごんしょ)町。

祭りの日を替えることなく21日、22日が秋祭り。

かつての八雲神社は東の方角にあったという。

現在のモリモト家具の付近だったそうだ。

そこは小字のミヤノシタ(宮ノ下)。

筒井順慶が造ったとされる堤ができて丹後庄は水ツキになった。

そのような事態に陥ったことから現在地に遷されたという。

ヨミヤの日には里巫女の御湯が行われる。

神職を勤めるのが巫女さんである。

7月14日の祇園祭にも祭典されている御湯の儀。

釜湯はプロパンガスの火で沸かす。

十人衆の呼び名をもつ宮守たちは拝殿に座って儀式を見守る。

かつては30戸が宮座だった。

座を2組に分けて年番當屋1戸を選出していた。

明治30年に年長者の10人を十人衆と呼ぶようになった。

お酒、シトギ、塩を湯釜に投入して清める。

四方を廻って作法する神楽の舞い。



それから2本の笹で浸けた湯を飛ばす。

何度も何度も飛ばす作法である。

前半の作法を一旦終えて挿し湯をする。

再び沸かした御湯の釜。

前半同様にお酒、シトギ、塩を入れて清める。

2度もするのは理由があるのだろうが聞きそびれた。

2回目の湯飛ばしも同じように前方である。

御湯された笹を手にして拝殿に登った里巫女。



十人衆に熱い湯を頭上へ翳し身体堅固を祈る。

祓い清めてもらった十人衆は御供をさげて直会。

カマボコ、カキ、リンゴを食しながらお神酒をいただく歓談の場である。

(H24.10.21 EOS40D撮影)
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吉田秋祭りの饗膳

2012年12月30日 08時28分51秒 | 山添村へ
岩尾神社での祭典を終えれば集会所に場を替える。

会所は本尊を安置している自作寺であるが広間の座敷が饗当屋の座となる。

安置されていた不動明王三尊像と千手観音像が盗難にあった。

容疑者は県警に逮捕されて盗難にあった仏像が返還された。

平成21年9月28日のことである。

テレビや新聞などで大々的に報道されたことを覚えている。

3カ月ぶりに戻ってきた佛像は元禄五年(1691)の江戸時代に造られたそうだ。

戻ってきた仏像は心ある仏師によって修理された。

その際に見つかった体内の木片。

「大佛師新八心 申十二月七日」と書かれていたそうだ。

その事件を機会にセキュリテイを設置したという。

村の人たちが参集する会所座敷にはたくさんの膳が並べられている。

餅(ノ)膳と呼ばれている膳である。

膳の盛りは神さんに供えた御供と同じでゴマメに新藁で結わえた乾物イワシ。

3個のサトイモ汁椀とエダマメ。

中央にはキナコを振り掛けた丸モチである。

かつての餅膳にはエダマメをすり潰してヒジキを混ぜたクルビがあった。

温かいヒジキクルビは作るのも難しくゴマメに替えたという。

宵宮の饗膳にはイワシの昆布巻や塩漬けダイコン青菜は小皿に盛り。

ゴボウ、イモ、ダイコンそれぞれ2個の椀。

ナスの味噌汁椀に蒸した餅米を高く盛ったつくねがあったが塩漬けダイコン青菜とともに廃止したそうだ。

会所での餅の膳はずらり。



30膳ほど並べられる。

神饌に供えた御供と同じである。

会所の外には岩尾大明神と記された白い幕が張られている場がある。

その場は会所と同じように座布団が敷かれている。

話によれば昔の座は男性たちだけであった。

婦人たちは縁に並んだという。

村人が多かった時代である。

溢れる人たちで賑わった時代があった。

その頃に設えた外の仮宮の台座に宮幕を張る。

そこも溢れた時代もあったという。

いつしか参拝者も少なくなったが、外の仮宮は今でもしている饗の座。

県内では珍しい光景と思われる座は一般参拝の人たちが座る。

饗の座に座るのは上座にオトナサン。

老大人(オオオトナ)と呼ばれる人たちは年齢順の座に着く。

60歳になれば大人衆入り。

現在は65歳になった人たちは宮さんを守っている。

毎月一日が神社の清掃。

賽餞の管理などをするという宮守さん。

老大人の最長老は一老で村神主。

生きた神さんだと話す。

前日の宵宮では神主を勤めた。

老大人衆は神さんであるという。

大人衆であっても当屋を勤めることもある。

重なった場合はその大人衆の息子が当屋を勤めるという。

この年は座敷にあがる人も少なかった。

婦人も交えた饗の座は上座に詰めて寄り添った。

座は饗当屋が口上を述べる儀式で始まる。

口上は決まっており会所に貼られた「座式目口儀」通りに進められる。



月番が述べる口上は「例年ノ通り 酒ヲ受取リマシタノデ 宜敷クオ上リクダサイ」だ。

下座に正座して口上を述べる。

当屋を勤めるのは6軒。

この年は服忌であった当屋もあって5軒。

男女二人で接待するから10人。

男女は夫婦であっても構わないし親子でも良いという。

婦人たちは台所で下支え。

熱燗の準備もしている。

始めの口上を述べればお神酒を注いで回る当屋たち。



一献の酒杯の儀式である。

次が「燗酒差上ゲノ口儀」で「燗酒ヲ 差上ゲマスノデ 宜敷クオ上リクダサイ」。

同じように口上を述べて熱燗を注ぎ回る。

二献の儀である。

箸をつけてよばれる肴は盛った膳料理。



しばらくすればシメサバと海苔が配られる。



これも饗応の肴の一つである。

次に「ヒスイ差上ゲノ口儀」で「ヒスイヲ 差上ゲマスノデ 廻リマシタラ 宜敷クオ上リクダサイ」。



「ヒスイ」と呼ばれるのは3個のサトイモ汁椀のこと。

そこに味噌汁を注ぎ回る当屋の人たち。

かつては吸い物だったというからすまし汁。

それをもってヒスイと呼んでいたのであろう。



これらの配膳は外の仮宮でも行われる。

一人一人の座に配るのは婦人たち。

饗応の座はしばらくの歓談の場となった。

最後は「受膳ノ口儀」。

「受膳ノ方ハ 落チノ無イ様 オ受ケクダサイ」と口上を述べて餅膳の座を締められた。

こうして饗宴を終えた当屋はようやく食事に着くことができる。

ほっとした婦人たちのお顔がそれを物語る。



御供のセキハンやサトイモのヒスイ椀を配ってお神酒もいただく慰労の場。

微笑ましい情景である。

これを地蔵まつりだと話す当屋の人たち。

自作寺を借りての会食の場は神仏一体。



お祭りをしたからお礼だという地蔵石仏は会所の外。



子安地蔵と呼ばれている場所には参ることなく食事をする。



その右側にあったのが冨士山と書かれた石造りの碑。

かつては富士講があったようだ。

吉田の氏子は村入りした男子。

婿養子の人も認められるが披露をしなければならないという。

(H24.10.21 EOS40D撮影)
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吉田岩尾神社の石売り行事

2012年12月29日 08時37分34秒 | 山添村へ
籠にお金を入れてもらえば石を後ろに投げると聞いていた山添村吉田の秋祭り。

平成5年に発刊された『やまぞえ双書』にその様子が掲載されている石売り行事。

籠は竹籠。

子どもは小学生で男の子である。

お金を入れているのは和服姿の婦人たち。

随分と前の村の様相である。

その行事が行われるのは岩尾神社。

イワクラ(磐座)信仰とされるご神体はまさに岩。

大きな岩は自然石で2体ある。

右側の岩を葛籠(つづら)石、左は長持石と呼ばれている。

急な石段を登れば眼前に迫る。

岩を背にして建てられた社殿。

まるでご神体を遥拝するような形態である。

石売り行事は葛籠石側下の玉砂利石を敷いた一角である。

一段あがった後方にはオトナ衆が座っている。

石売り行事の様子を伺っているようだ。

吉田は36軒の集落。

石売り行事を勤めるのは一歳から15歳までの男の子であったが少子化の波を受けて女の子も参加させるようにしたと云う。

川原で拾ってきた小石を竹籠に入れて参拝者を待つ子どもたちは5人。

決まった額の志納料を籠に入れる。

お礼に石を差し出すと『やまぞえ双書』に記されているが実際は後ろに向けて石を投げたそうだ。

拝見したときは既にその作法を終えていた石売り行事。

拝見していた知人によればそうであったと話す。

こうした行為で玉砂利が増えていくのであるが、そうであるなら増え続けた小石で山のようになるはずだが・・・。

それはともかく本殿では神事が執り行われていた。

丁度終えたばかりの時間帯。

取材の意図を申し出て承諾を得た行事の撮影。

急な申し出に応じていただき感謝する次第である。

石売り行事に続きがあった。

新米五合(やまぞえ双書では二斤)を入れた麻袋を首からぶら下げてお百度参りをするというのだが、それはあっという間の展開。



ぐるぐる回っていたのかどうかも判らなかったが子どもたちは三往復したようだ。

お百度参りを終えた子どもたちは再び石売りの場に座る。

そこに当屋からいただいた駄賃を紙袋に入れた区長らが配っていく。



一人、一人に差し出す駄賃を籠の中に入れる。

お百度参りのお礼のように思えた作法である。

しばらくすれば御供されたモチを撒く。

それを楽しみにしていた参拝者。

放り投げるモチに手をあげる。



モチをゲットするのも楽しいが、投げる方も楽しいと話す。

神さんに供えた神饌御供はゴマメに新藁で結わえた乾物イワシ。

3個のサトイモの汁椀と7粒のエダマメ。

中央にはキナコを振り掛けた丸モチである。



参拝者は御供の一つであるセキハンもいただく。

ネムの木の箸で受けるのは手の中。

手受けは手御供とも呼ばれる地域がある。

(H24.10.21 EOS40D撮影)
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丹生町丹生神社宵宮田楽

2012年12月28日 08時01分41秒 | 奈良市東部へ
2年前までのお旅所は当家の前庭だった。

負担を避けて経費の上限を決めた奈良市丹生町の秋祭り。

お旅所の場はふれあい会館に移すことにしたという丹生神社の祭り。

かつての祭りは10月15日、16日だったが、現在は16日に近い土、日曜。

宵宮の前日までに注連縄を張りかえる。

縄を結うのは高齢者たち。

紅白のモチもこしらえた。

手の掛かる部分は今でもこうしていると話す氏子。

若い人に継いでいきたいと云う。

宵宮は籠りの夜。

ひとときの夜を過ごすのは家から持ちこんだ布団。

何人もの人が泊られるようだ。

籠りと称していても泊りを止めた地域が多い。

東山間ではこのように布団を持ち込んで今尚籠りをしている。

隣村の水間町や山添村の的野で拝見したことがある。

夜も19時になれば子供たちもやってきた。

賑わいが増してくる丹生町の夜更け。

炊き出しに煮込まれたおでんに心が温もる。

おでんは神さんと共によばれる神振りで実行委員会が奉仕する。

村を巡行する子供御輿が置かれた丹生神社の境内。

曳行するのが楽しみだとFさん一家も勢ぞろい。

イッショウモチ背負いのハツタンジョウイタダキの膳三日地蔵などの家の行事を取材させていただいたご家族だ。

初誕生の祝いを受けた子供も大きくなった。

家族に今年も一子が誕生した。

子守に忙しいからと両親は家で待機しているという。



それはともかく宵宮の神事が始まった丹生神社。

宵宮に参集した当家と渡行人(とぎょうにん)は19時に入斎する。

侍烏帽子を被って黒色の素襖姿の着替えた渡行人が並ぶ。



9月1日に執行される八朔祭のフリアゲによって神意が下った7人だ。

神事を終えた一行は田楽舞いを演じる舞殿に登る。



8年前は茅葺きだった舞殿は建て替えられて総ヒノキ造り。

四方で支える構造は開放的で、神さんに見てもらう舞台空間である。

登壇すれば時計回りに一行が周回する。

先頭は大御幣を持つ氏子総代長。

宮司、紺色のソウ(素襖)を着用する当家に続いて渡行人。

ジャラジャラとも呼ぶササラ、鼓、二人の太鼓に三人の横笛役は年齢順で役目が決まっている。

そうして始まった田楽舞は丹生の里人たちが見守るなかで行われる。

舞台中央に登場したササラ役。

ジャラジャラをそうっと置いて立てる。



そして扇子で扇ぐ大きな仕草の作法。

その間に奏でる鼓と太鼓の音色。

ピュー、ピュー、ドン、ドン、ドンと囃子たてる。

右回りに一周して拝礼する。

再び煽いで回る所作はもう一回繰り返して三回廻った。

その作法の際には渡行人たちがササラ役のお尻を押しだしたりして所作の邪魔をする。

舞台床をドンドンさせて立てたササラを倒す。

これは遊びでもなくいじりでもない。

舞いの所作のあり方なのである。

笑いが溢れるなかのササラ役の田楽舞は立てたジャラジャラを前にして右、左、右に横へ跳ぶ。

廻りの作法は三度跳んで一周する三角跳び及び横跳びを総称して丹生町では「横跳び」と称する。

扇を両手で挟んで一礼すれば次の演者に移った。

同じように拝礼して所作をするが中央に立てて置くのは鼓。

ササラと同じように三角跳びで一周する。

この際にも邪魔が入る。

鼓を蹴飛ばすのである。

稲に見立てた楽器を蹴飛ばす、或いは演者のお尻を押しだすのも一連の作法。

扇で楽器を煽ぐのは大風の表現。

育った稲が大風に吹かれる様相を表しているという。

風雨に耐えて稲はすくすくと立派に育つありさまは豊作願いの所作。

神さんとともに祭りを楽しんでいるとも云う。



3人目は太鼓役の登場。

同様に田楽舞の所作を演じた一行は登壇した際と同じように一団となって舞殿を右に周回する。

宵宮ではこのあとにスモウが演じられる。



扇を持つ行事役と二人の力士が舞台に立った。

呼出があったかどうか記憶がないが取り組みが始まった。

「のこった のこった」と行司の台詞も覚えていないが大相撲の取り組み。

舞台の土俵で右や左に寄る力士。



技がかかって上手投げ。

見ていた村の観衆も拍手喝さい。

行司が勝ち伝えてスモウを終える。

実はスモウの勝ち負けは予め決められている。

力士は演者。勝負の取り組みを面白おかしく真剣に演じる。

神さんに喜んでもらう所作なのである。

宵宮の田楽舞いを終えた渡行人は社務所で籠って一泊。

翌日の朝は神社に備え付けのお風呂で入浴する。

身を清める禊の入浴は年長者からの年齢順でつかる。

最後のほうになれば汚れも目立ってくると云う。

シラムシの斎食を済ませてから衣装を身につける。

そして本殿で例祭が行われる。

その後にお旅所に向かう渡行人たち。

2年前のお旅所は当家の前庭だった。

当家の接待を受けて会食する直会の場もふれあい会館に移った。

会食の数時間後には渡行人たちが出発する。

旧社のハチマン、モリヤマ、フルシロの3か所跡へ向かって遥拝しながら本社へお渡り。

横跳びの田楽神事を終えてお渡りを納める。

(H24.10.20 EOS40D撮影)
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興ヶ原町天満神社宵宮祭の翁舞

2012年12月27日 06時43分10秒 | 奈良市東部へ
茅葺き屋根をもつ舞殿がある奈良市興ヶ原(おくがはら)町の天満神社。

布目川沿いに鎮座する。

昭和10年4月吉日、昭和30年5月参日、昭和50年4月20日、平成7年にも正遷宮されてきた舞殿で翁舞を奉納する神事が行われる。

茅葺きの舞殿は能舞台である。

20年おきに造営をしてきた建物は3年後の平成27年には正遷宮を行う予定だと話す氏子総代たち。

天理市福住に住む萱葺き職人にカヤサシを頼むことになるだろうという。

舞殿には神輿が置かれている。

先ほどに行われた神遷しを終えて神さんは神輿に坐ましていると云う。



神さんは衣笠(ヒトガキ;人垣とも呼ぶ・伊勢はキヌガキと呼ぶ)と呼ばれる白い布で覆い隠して遷したそうだ。

天満神社の祭礼は10月16日、17日であったが現在は第二か第三土曜、日曜に替った。

氏子総代は3年任期。

3人の総代が入れ替わりながら勤める村神主(禰宜とも)。

つまり一斉にかわるのではなく一年ずつ繰り上がるのである。

2年目にあたる総代が行事進行役になると話す。

祭典の段取りから諸々の手配などがあり、なにかと忙しく気を配ることが多いと云う。

翁舞はオトナ衆によって演じられる。

オトナ衆は終身制の年齢順。

最年少者でも70歳過ぎで引退する人もおられて現在は9人。

一老を勤めているのは神社宮司の筒井一雄氏。

しかもこの年は当家にあたり、一人で三役を勤める。

筒井氏からは何年か前に是非来てほしいと云われて数年。

今年になってようやく訪れることになった。

久しぶりに元気なお顔を拝見させていただいた。

筒井氏は東山間で度々お会いした。

山添村の春日、中峯山、菅生に吉田などである。

兼務社は多く高齢になられた現在も各地を飛び回っている。

数年前にはお身体に支障がでたと聞く。

代役を勤める神職もまた馴染みのある方ばかりだ。

総代、オトナ衆に自治会長ら参列者はスーツ姿。

かつては和装だったようだ。

舞殿の前には子供御輿もある。

担ぐことはなく村を曳行する翌日の秋祭りに繰りだされる。

かつての興ヶ原は60戸。

徐々に減って今は40戸になったという御輿の巡行である。

神遷しを終えた宵宮神事が始まった。

一同は社務所にあがる。

座敷には当家の御幣などを立て掛けている。



席に着いて祓えの儀。

村神主が斎行される。

座中には村神主と同じような衣装も身につけている男性も座っている。

翁舞の演者である。

かつてはオトナ衆が勤めていた翁役。

継承することが難しくなって6年前の平成19年に保存会を立ち上げた。

その年より若い人が勤めることになったという翁舞は山添村春日の春楽社の指導を受けて今日に至る。

祓えの儀を終えれば斎場は舞殿に移る。



神さんを遷しましされた神輿に向かって宮司が拝礼する。

一同揃って頭を下げる。

祝詞の奏上、神饌の献上、玉串の奉奠と祭祀を執り行う。

舞殿向こうには提灯を掲げている。

屋外の屋根下に注連縄を飾った屋形がある。



それは祓い戸社。

明日の祭りの際にはここに向かって祓えの儀が行われるようだ。

神事を終えれば翁舞。

三方に盛られたオヒネリが数個。



かつては一人ずつ差し出すオヒネリだった。

オヒネリが挿しだされる度に翁が舞ったという。

現在は効率化を考えて三つのオヒネリで一舞を演じる。

面箱から慎重に取り出す翁の面。



踊り子の顔に装着する。

賑々しく行われる。そうして始まった式三番の翁舞。

シテの「とうどうたらり たらり ら たらり ららり ららり どう」。

地謡が詠う「ちりや たらり たらり ら たらり ららり ららり どう」。

陽がときおり挿し込む舞殿の翁が静かに登場する。

シテの「所千代まで おわしませ」。
地 「われらも 千秋さむら う」。
シテ 「鶴と亀との よわひ にて」。
地 「幸ひ 心 に まかせたり」。
シテ 「とうどう たらり たらりら (たらり ららりららりどう)」。
地 「ちりや たらり たらり ら たらり ららり ららりどう」。
シテ 「あげまきや とんどうや」。
地 「ひろばかりや とんどうや」。
シテ 「さかりて ねたれども」。
地 「まろびあいにけりや とんどうや」。
シテ 「千早振る 神のひこじの 昔より 久しかれとぞ 祝い」。
地 「そよや りちやん とんどうや」。
シテ 「およそ 千峯の鶴は 万歳楽 とうとうたり」。
地 「また 万代の 池の 亀は 甲に 三玉を いただきたり」。
シテ 「滝の 水れいれいと 落ちて 夜の月 あざやかに 浮かんだり」。
地 「渚の砂 さく さく として あしたの 日の色 おろす」。
シテ 「天下泰平 国土 安穏の 今日の 御祈祷 なり 有原や なじよの 翁ぞ」。
地 「あれは なじよの 翁ぞや そや いづくの 翁どうどう」。
シテ 「そよや 千秋 万歳の よろこにの 舞なれば ひとまい 舞おう 万歳楽」。
地 「万歳楽」。
シテ 「万歳楽」。
地 「万歳楽」。
シテ 「長久円満 息災延命の 今日の 御祈祷なり」。
地 「これも 当社に たてたまう 願なれば 今日吉日をもって すませ 申す」。
シテ 「五穀成就 息災延命 一切諸願 かいろう満足 何れの 願か 成就せざらん これよろこびの 万歳楽」。
地 「万歳楽」。
シテ 「万歳楽」。



地 「万歳楽」で舞いを一曲終えれば長老の一老がひと声を掛ける。

「もう一番」の掛け声で再び演じる翁舞。

「これも 当社に たてたまう 願なれば 今日吉日をもって すませ 申す・・・「五穀成就 息災延命 一切諸願 かいろう満足 何れの 願か 成就せざらん これよろこびの 万歳楽・・・万歳楽・・・万歳楽の一節を舞う。

詠い仕舞いの万歳楽は「もう一番」、「もう一番」を繰り返してこの年は3回も舞った。

オヒネリはその舞いを望む志納料。

一包みの志納額は決まっている。

宵宮祭の翁舞を終えた人たちは再び社務所に登って直会。

下支えの手伝いさんによって宴が行われる。

(H24.10.20 EOS40D撮影)
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祝いの日の重乃井

2012年12月26日 06時46分06秒 | 食事が主な周辺をお散歩
19日は祝いの誕生日。

寿司を買おうかと誘えば「うどん」と返す。

2週間まえにはらーめんだった。

そのとき話していたのが「うどん」。

息子のお好みはらーめんでなくうどん。

それはこってりとかあっさりとかいうものではない。

トンコツ、ショウユ・・・でもない。

麺が太いとか細いでもない。

ちじれ麺という具合でもない。

ウルサイのである。

「らっっしゃい」とかドアを開けると同時に発せられる掛け声が気に入らないのだ。

そんな話をする息子で思い出すのがたこ焼き屋だ。

郡山駅前商店街にあるたこ焼きの声は轟くぐらい。

送迎している高齢者もたまらんというぐらいだ。

元気が良いといえばそれまでだが・・・。

その点、うどん屋さんは違うと云う。

店内の趣は落ち着きがあるうどん屋さん。

その思いは期待通りの重乃井。

縄のれんを潜って入店した。

平日でもお客さんが多い重乃井。

5月、8月に続いて今月も訪れた。

お目当てはいつも通りの釜あげうどん。

かつお出汁が利いた味にほれぼれする。

家族揃っての好み味だ。

この日は平日。サービスについてくるのはいなり寿司かちらし寿司。

いずれかを選ぶ。



いなり寿司はどちらかと云えば甘酢。

その点、違っているちらし味。



この方が美味しいというかーさん。

それらを食べて待つ釜あげうどん。

登場したのは15分後だ。



今日の出来はうどんらしい。

前回は細切れのようだった手打ち麺。

それがない。

竹の箸で掬いあげるうどんは長い。

ちじれ麺のような感じは変わらない。

店主の話によれば打ったときの麺は真っすぐだという。

それを手で揉んで丸い形にする。

そうしたときに発生する麺の現象。

くるくる丸めるものだからちじれ麺のようになると・・・。

ストレート麺よりもこれのほうは出汁上がりが丁度良い。

(H24.10.19 SB932SH撮影)
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峰寺当家の祝い唄

2012年12月25日 07時48分33秒 | 山添村へ
大正4年に記された『東山村神社調書(写し)』文中の社記によれば祭祀の日は旧九月二十七日が神前で行われる祭儀の日だった。

いつの時期であるのか聞き取りはできていないが、現在は10月15日である。

その調書によれば「祭儀を終えて退社した渡り衆は当家に上がり込む。その際には竹枝に御幣紙を付箋したものを手にした人が当家の家先で出迎える。そのときに御幣付きの竹を一本ずつ渡り衆に手渡す。先導しながら当家の家に上がり込む」。

「あきのくに いつくしまの べんざいてんの ねじろやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまんを繰り返し唱和しながら上がり込む」。

これを「踊り込み」と呼ぶ。

高膳の盛られたお米と小豆を手にする楽人たち。

竹を振りながらそれらを撒き散らす。

「祭り日には毎年能師を招いて能楽を奏する例」とするとある。

翌日の旧二十八日には「帰り夜宮と称して御幣元より当家へ向け楽人を向う為七度半の使いを立て、是より御幣元宅へ楽人着座し大の御幣弐木を調製し、その日の午後は御幣元となる出生男子母と共に先登し、父を御幣を男子の頭上に差掛け、次に楽人の一老が御幣を構え各楽人が次につく。神前に礼拝儀式を行い、終りて帰途に御幣元宅より竹枝に付箋もの10本を構えて出迎えた」。

そして同じように「あきのくに いつくしまの べんざいてんの ねじろやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまんの歌を繰り返し歌いこみつつ座に着いた」。

さらに「座に着いた楽人は酒肴を供させられ一天四海波の謡を唄い、一同起立して御幣元宅を退座した」。

それから「当家へ帰り楽装を脱衣し、生心落としと称して酒肴の饗応を受けた」とある。

六所神社で神さんに奉田楽を奉納した渡り衆は再び来た旧道を戻っていく。

奉納を終えたにも関わらず鳴り物を鳴らしながらである。

渡り衆にとっては祭りはまだ終えていない。

奉納を終えた渡り衆を迎える当家。

親戚筋の人が一人、一人に幣を付けた竹を手渡す。

そして提灯を手にして先導する。

「あきのくに いつくしまの びざいてん ねじろのやなぎ あらわれにけり げにもそよそよ いざやおがまん いざやおがまん」と唱和しながら縁側から座敷に上がり込む。

座敷には高膳に盛られたお米と小豆。

それを手にして右回り。

竹を振りながら「ふーくのたーね(福の種) ご-ざった ご-ざった  なーんのたーね(何の種) まーきましょ ふーくのたーね まーきましょ たからをまーきましょ」と目出度い台詞を詠いながらお米と小豆をばら撒く。



調書に書かれてあった「踊り込み」の様相である。

これは「ウタヨミ」とか「オドリコミ」とされる当家祝いの歌である。

五穀豊穣の目出度い台詞が当家に響き渡ること3周。

隣村の室津や桐山でも同じような所作の「オドリコミ」である。

座敷は福の種が一面に広がった。

その場を奇麗に方付けて慰労の場。

装束も仕舞われた当家の座敷はご馳走の皿がずらりと並ぶ。

奉納のすべてを終えた舞人の席は慰労を込めた膳が盛りだくさん。



当家当主は座席に渡り衆に対して厚く御礼を申し述べる。

渡り衆は当家のもてなしで膳をよばれるが家人はそうではない。

家で作った料理を他の部屋でよばれている。



昆布巻き、アゲとゼンマイの煮もの、コーヤドーフにマツタケメシなどオードブルの盛り合わせである。



宵宮もそうだったが祭り祝いのご馳走もよばれることになった両日の取材。

この場を借りて御礼申しあげる次第である。

渡り衆の慰労の場では大きな皿に盛った焼き鯛も召された。

それはダイビキだったようだ。

大皿に盛った鯛を引くということから「ダイビキ」と呼んでいると話す。

拝見することはできなかったが、その鯛は姿を替えて再び登場する。

半身を食べた鯛に皿は一旦引き上げられる。

それはもう一度焼かれる。

しばらくして出てきた鯛の皿。



そこに並々と熱いお酒を注ぐ。

皿から溢れんばかりの量だ。

それを持っていく手伝いさん。

一老の席に持っていった。

受け取った一老は酒を飲む。

次は二老へ。



八老まで順に次々と回す鯛の皿。

これを「タイシュ」と云う。

飲むときには一同が歌を唄う。



調書に書かれているように本来は四海波などの謡曲であるが唄える人はいない。

歌はなんでもいいのだと大漁唄も出る。

「あれわいせー これわいせー」と手拍子で囃子たてる作法は「ザザンダー」。

祝いの席の目出度い回し飲みの歌唄いは東山中で広く行われている。

(H24.10.15 EOS40D撮影)
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峰寺六所神社のホーデンガク

2012年12月24日 07時46分06秒 | 山添村へ
この年の当家は朝からモチツキをした。

祝いのモチはアンツケモチ。

シモケシの儀式もされたようだと聞いた。

15日の昼膳は柚子釜盛り、コンニャクの白和え、生湯葉、ジャガイモ饅頭、別甲餡、焼油揚げ、キノコおろし和え、貝割、食パンオランダ煮、オクラ、ニンジン、汁物、占地、ミツバ、香物、果物だった。

当家がもてなす昼の膳の料理は決まっているという峰寺の当家。

前日と同様に接待を受けた渡り衆は装束に着替えて身支度を調えた。

当家における稽古の座る位置が宵宮と違った。

宵宮では対面だったが祭りの日は横一列に並ぶのである。

ヒワヒワの一老と二老、グワシャグワシャの三老と四老、笛の五老、太鼓の六老、笛の七老、鼓の八老の順である。

この順はお渡りやジンパイ(神舞転じて神拝と呼ぶ)も替ることなく体制は崩さず披露される。

始めに登場するのは宵宮と同様にヒワヒワを演じる二老。

中央に出て正座する。

ピィ、ピィ、ピィー、ホーホヘと吹く笛の音色に合わしてトンートントン、ポンーーポンポンと打つ太鼓と鼓。

ヒワヒワを右の脇に挟んで右回りの時計回り。

右手に持った扇を左右に振る。

その間の楽奏はピィ、ピィ、ピィとトン、トン、トン、にポン、ポン、ポンと連打する鳴り物。

円の中心部を扇で煽ぐようして回る。

扇の煽ぎ方は風を起こすような「アフリ」の作法。

漢字を充てればおそらく「煽り」。

風を起こしているのである。

三周して元の位置に戻る。

三周目の際には太鼓をポンーーポンポンと強く打って舞人に知らせる。

再び正座して、ピィピィピィーホーホヘ、トンートントン、ポンーーポンポンの三音に合わせてヒワヒワを弓なりに曲げる。

宵宮の稽古もそうであったが、正座した先は神さんが坐ます方角である。

座る位置は異なっても神さんの御前に向かって奉納される豊田楽である。

豊田楽の名は『東山村神社調書(写し)』に書かれてあった名称だが今日現在はホーデンガク(奉殿楽)と称されている。



続けて四老が演じるグワシャグワシャと八老の鼓が舞われた。

こうして最後の稽古を終えた8人の渡り衆。



記念に一枚をと写真館に頼んでシャッターを切る。

当家の当主も入って撮影された。

3年に一度の三カ村の回り当家。

大正4年は95戸だった峰寺、的野、松尾の戸数はそれほどかわりない。

豊田楽人は8人。

回りは何回も担うことがある。

現にヒワヒワを勤める一老やグワシャグワシャの四老、鼓の八老は6年前の舞人もこなしていた。

年齢順であるだけに一番若い八老はこの日も鼓である。

当家はそういうわけにはいかない。

一生に一度の回りは家にとっても一大行事である。

こうして当家を出発した渡り衆は宵宮と同じ道を歩いていく。



先頭を勤めるのは一老。

宵宮のお渡りはヒワヒワであったが大御幣を持っている。

ヒワヒワはどこに所持しているのかと思えば扇と同じ場所の背なかに挿し込んでいる。

他の渡り衆もそういう恰好でお渡りをするのだ。

道中は急な坂道。

鬱蒼とした林の中を行く道は旧道。

笛や太鼓の音が山間に鳴り響く。



ひと目見ようと車を駆り出してきた村人もおられる。

神さんが通っていくように頭を下げる。

25分の行程は前日同様。

長い距離に亘って鳴り物をしてきた。



六所神社に到着すれば始めに当家の親戚筋がオーコで担ぐ八寸の重箱モチを拝殿に供える。

わずかばかりの時間を待って下げたモチは長屋の宮総代に渡される。

そんな様子を拝見している村人たち。



前日の宵宮よりも大幅に増えているが子供の顔は見られない。

前日は日曜日。

学校が休みだったから来ることができた。

その日は男の子がカメラで舞人を捉えていた。

八老の息子さんだったのである。

この日は平日で学校行き。

かつては祭りのときは半ドンだったから見ることもできたと話す村人。

いつしか教育行政もかわって見ることができるのは休日だけとなった。

相当な子供が見にきていた昔が懐かしいと話していたのは20年以上も前のこと。

こうした事例は県内各地で聞くことがある。

いつからそうなったのだろうかと話している間も祭祀は続けられる。



待っていた村人へは当屋からの心配り。

モチやお菓子が配られる。

配っていた人は行事の手伝い。

ドウゲ(堂下)と呼ぶ人たちだ。

また、祭りの後で催される抽選会のクジも渡される。

これも村行事の楽しみだと笑顔で応える当たりは嘘かまことかハワイ旅行に生活用具などなど。

自治会費用で賄われているそうだ。

舞人たちは長屋に登って「お渡りでお参りしました」と挨拶、口上を述べる。

宵宮と同様に宮方総代の歓迎を受けて宵宮と同じ5品盛りの肴とお酒の場。

酒を注いで回る。

それを終えて氏子参拝者に向けてジンパイを披露される。

そうして一旦は鳥居下で隊列を組む。

手水で清めて石段を上がる。

奉納する前には村人で次に神さんへの奉納舞となるのである。

石段を登ってきた一行は本殿左側に入った。

そこには小さな石がある。

サザレ石はと呼ばれる石は百度石とも。



そこを中心に時計回りにぐるぐる回る舞人たち。

大御幣を上下に振りながら右回りの時計回りに三周しながらジンパイをする。

そして一同は拝殿に登っていく。

宵宮と違って本殿と拝殿の間の玉砂利に菰を敷いた場で揃って横一列体制である。

笛や太鼓、鼓の吹奏に合わせて大御幣を上下に3回振る一老は本殿間下。

史料によれば本来は7回とある。



奉田楽を奏した大御幣は本殿に置いて神さんに奉納した。

ちなみに奉納された大御幣はしばらくそのままだ。

月初めに祭祀されている「さへ」で降ろされて参籠所で保管するという。

その後の一年後。

次の当家で御幣を作る際の見本にしているという。

奉納は終えたが祭典はまだ続く。

再び長屋に参進するのである。



宵宮で見られなかったヒワヒワ、グワシャグワシャ、鼓を勤める三役のジンパイ披露である。

神さんに奉納されたあとは宮方総代にもそれがなされるのだ。

こうしてすべてのジンパイの奉納を終えると渡り衆一同は並んで鳥居下辺りに立つ。

整列を見届けた一老が手にするヒワヒワと呼ばれる弓を曲げて放つ。



ぐんにゃりと曲げて放つ先は東の方角の前方の山に向けてだ。

一瞬の作法であるヒワヒワ放ちは弓を引くという。

放った先は次の当家になるというが毎年同じ方角。峰寺、的野、松尾の三カ村で毎年交替するという当家の方角とは一致しない。

史料によれば弓打ちは鳥居に向けてであった。

いつしかこのような作法に替ったのであろうか。

弓打ちを終えた一老はいち早く長屋に赴いた。



8人の渡り衆が被っていた烏帽子。

それには赤紙が取り付けられている。

それを揃えて宮方総代に手渡される。



奉納儀式を終えた証しに渡すのであるが外すことが困難であることから実際は予め用意したものを差し出している。

(H24.10.15 EOS40D撮影)
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筒井町食堂のかけうどん

2012年12月23日 09時52分26秒 | 食事が主な周辺をお散歩
筒井町のフォレオタウン(平成18年、パナソニックの跡地に開設)の前は一週間に何度通ることか。

送迎では週に三回。

取材或いは買いものに通る国道25号線。

古代の官道であった横大路だ。

通るたびに寄ってみたかった筒井町食堂は「まいどおおきに食堂」だ。

この日は急いでいた。

仕事を終えて取材先に向かう。

その前の腹ごしらえはここにした。

となりはCoCo壱番のカレー店。

その隣は得得うどん。

午後2時からはうどんが65円になるのだが、待っている時間はない。

入店したのは筒井町食堂だ。

何度か食べてきたかけうどんを注文する。



他はなにも要らない。

出汁は昆布だろう。

美しく利いた味に細めのうどんが纏わりつく。

つるつるの麺は喉越しが良い。

奇麗な天かすをたっぷり振り掛ける。

針で食べたかけうどんとはまったく違う色合い。

ワカメもトッピングした。

この日は暑かった。

汗をかきながら麺をすう。

うどん鉢も熱くて持てないくらい。

アチィーーと指先が感じたかけうどんは157円。

なんともリーズナブルなうどんである。

(H24.10.15 SB932SH撮影)
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峰寺の奉納宵宮ジンパイ

2012年12月22日 10時04分48秒 | 山添村へ
かつては豊田楽人と称していたガクニンたち。

これより六所神社に向かう。

お渡りをしながらも鳴り物を奏でるのである。

今年の当家は六所神社から随分と離れている。

山間を通り抜ける旧道は急坂。

息切れするような急な坂道の道中である。



ピィピィピィーホーホヘ、トンートントン、ポンーーポンポンの鳴り物三音がこだまする。

およそ25分の行程であったお渡り。

歩数計を示したのは3500歩であった。

六所神社に到着すれば鳥居下で横一列になってジンパイ。

清めの手水をしてもう一回。

そして石段を登る。

拝殿の前で拝礼をするとともにジンパイをする。

峰寺の史料によればジンマイ(神舞)とあるが、一老の話ではジンパイ(神拝)であったかも知れないという。



三カ大字の宮総代らが集まっている長屋(会所とも)の参籠所へあがる。

菰を敷いた席に座って頭を下げる。

「宵宮でお渡りしました」と挨拶、口上を述べてから肴とお酒が運ばれる。



肴の料理は鶏のカラアゲ、カマボコ、コーヤドーフ、コンブ巻きに大きな豆の五種。

現在は鶏のカラアゲだが以前はそうでもなかったようだ。

2本足の鳥獣と決まっているが調理法には決まりがないという。

かつての調理がどのような形態であったのか記憶にないと話す村人たち。



酒を飲むなどしばらくは宮方の慰労の時間。

神酒をいただき、一同は「ご馳走さまでした これよりジンパイ(神舞)をさせていただきます」と伝えて披露する。

これも神事における一連の作法であろう。

こうして三村の宮方に披露をされたあとは拝殿に登った。

中央を空けて着座した楽人たちは神舞の儀式に移る。

拝殿に座る楽人の位置は決まっている。

神さん側から見た順に右から二人のヒワヒワと二人のグワシャグワシャ。

左側には太鼓、二人の笛、鼓となる。



当家の家で練習を重ねてきたジンパイ。

ヒワヒワ、グワシャグワシャ、鼓の三役は心を込めて神さんに奉納する。



拝殿前で一列になって仕舞いの豊田楽を奉納した。

こうして宵宮の奉納を終えた楽人たちはお渡りをしてきた山道を戻っていく。



鳴り物を鳴らして作法をしながらの帰還である。

当家に着けば廊下側から上がる。

決して玄関からは入らないのだ。

その夜は当家がもてなす夜の膳。

慰労を込めて盛りつけられた膳で会食する。



饗応される夜の膳はエノキの梅和え、コンニャクの刺身、生姜添えの茄子田楽、蓮根・海老芋・舞茸・シシトウの精進揚げ、博多高野・三度豆の皿、ソーメンと南京の汁椀、香物、果物だ。

酒を配るのは当家の親戚筋。

接待役をドウゲ(堂下)と呼ぶ。

お酒がはいって歓談の夜は盛り上がる。

(H24.10.14 EOS40D撮影)
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