マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

鵜山・真福寺のオコナイ

2017年10月18日 08時55分18秒 | 山添村へ
山添村の最奥の東に位置する大字に鵜山がある。

同じ大字名の鵜山は名張川を隔てた東の三重県名張市にもある。

両県に跨る同名地の鵜山は明治のころ(と思われる)に行政区割りされ、奈良県と三重県側に二つが存在することになった。

山添村大塩の住民K氏は奈良県側を西鵜山、三重県側を東鵜山と呼んでいる。

三重県側から言えば山添村の鵜山は大和鵜山と呼ぶ東大寺の所領地である。

その地にある寺社は真福寺に八柱神社だ。

当地に始めてやってきたのは平成25年の1月7日だ。

その日にお会いしたご婦人が話してくれた鵜山のオコナイ行事である。

長老が唱える般若心経がある。

オコナイに般若心経では僧侶の姿が見えない。

たぶんにそうであろう。

そのうちランジョーと呼ばれる作法がある。

ハゼノキを縁か何かに叩く。

その間には太鼓も打つ。

ランジョー作法をしているときの各家はどうしているか。

婦人が云うには各家の座敷を掃除するというのだ。

これはどういうことなのであろうか。

一般的にいえばランジョーは村から悪霊を追い出す所作である。

悪霊は家の座敷からも追い出す。

そういうことではないだろうか。

オコナイを終えた村の人は勧請縄を椿の木に架けると云っていた。

同時進行かどうかわからないが、村の初祈祷、つまり修正会にはオコナイにツナカケの両方をしている村がある。

山添村でいえば岩屋である。

興味を持ちづけてから早や5年。

ほぼ時間帯も聞いていたから、とにかく行ってみようということにした。

午後1時前、鵜山に着いてはみたものの誰もいない。

時間帯が違ったのか、それとも日にちが替わったのか不安になる。

どなたかが来られる可能性も捨てきれず、二日前に行われた山の神の痕跡を拝見していた。

前日は暴風雨であった。



雨がいかに激しかったかわかるクラタテに敷いた半紙である。

クラタテは四つ。

いずれも幣を取り付けている竹を四方に立てていた。

その真上にあるカギヒキ。

大木カシにぶら下げていた1本、2本。

いずれも藁で作ったホウゼンもある。

村の戸数は17戸。

山の神の御供は5年前より、また少なくなっていた。

さて、本日に行われるオコナイは真福寺である。

本堂一部の扉を開放していた。



鴨居に注連縄を張っている。

お参りに来られる人のために扉を開放しているのだろう。

賽銭箱があり、その横に松の束もある。

細い注連縄もあり、シキビと思われる葉を挿していた。

そこへ村の人と思われる男性がホンダ製の電動カートに乗ってやってきた。

行事取材のことを伝えたら受け入れてくださった。

男性はこの日に務める話しを堂下(どうげ)さん。

行事進行を手伝う役目にある。

ここ山添村では手伝いさんのことを堂下で呼ぶ地域は多い。

ほとんどと云っていいくらいに多い。

寺の扉を開けるから上がってと云われて入堂した真福寺は村の会所にもなっているようだ。

村の行事を下支えする手伝いの堂下さんの計らいで本尊を安置する場も案内してくださる。

正面は美しい姿の地蔵菩薩立像。

その下にある小像は不動明王であろうか。

右座は弘法大師。

左に阿弥陀仏であろうか。

その並びのさらに右横に役行者に赤鬼、青鬼の二体。



赤鬼、青鬼は前鬼に後鬼であろう。

その右横に架けてある掛図も弘法大師。

同寺は高野山真言宗である。

その弘法大師尊像を描いた掛図は新調されたのか、それとも修復されたのか、真新しい。

もしかとしてと思って掛図の裏面を拝見したら、あった。



表装仕直したときに昔の書を切って貼ったのだろう。

元の書面に寄進されたと思われる講中10人の連名書がある。

寄進年号は享保四亥年(1719)正月□一日。

右写し之講中5人の名もある。

その時代は弘化三年(1846)午六月。

表具云年とあるから表装仕直し。

さらに年月を経た昭和14年は手直し。

続けて平成6年9月に表具とあった。

300年も継承してきた弘法大師尊像の掛図である。

ちなみにお葬式の際にお墓にもっていった傘も残していると話してくれたが、実物を拝見する機会を逃した。

本堂を拝見させてもらって気がつく仏間の清掃時期。

1月はオコナイ行事の前。

3月は春の彼岸前。

5月は月末日。

8月はお盆の前。

秋の9月も彼岸前。

10月は村の祭りの前である。

いずれも掃除をされる人は堂下さん。

行事の日までに清掃されて、美しくしている。

そのような話題提供をしてくれる堂下さんは準備に忙しい。

しばらくすれば区長以下村の人たちもやってきた。

人数が多くなれば準備作業が捗る。

天井に吊っていた太鼓を降ろして床に置く。

太鼓を吊っていたロープを紐解けば緩やかに降りてくる。

手慣れた作業ぶりである。



先に来ていた堂下さんは用意していた注連縄に松葉とフクラソの枝木を挿し込む。

堂下さんが云うには、この注連縄は縄であっても勧請縄だという。

村の入口辺りに生えている太い椿の木がある。

その木に架ける勧請縄は一年間も鵜山の入口に祭られる。

悪霊が村に入ってこないように村を守る勧請縄を架ける地は「カンジョ」の名で呼んでいる。

もう一人は墨を摺る。

おそらくごーさん札の墨書であろう。

そう思った通りの墨書は手書き。

やってくる村の人が一枚一枚書いていく。



書いた文字は右から「牛王 真福寺 宝印」だ。

細筆で書いたものだから文字は細い。

そこに押す朱印は古くから使われてきた宝印。



角がすり減って丸い。



朱肉のベンガラにつけて印を押す。

来られる村の人、それぞれがごーさん札を書いているのが珍しい。

これまで数々のオコナイを拝見してきたが、村の人の各自一人ずつが作るのはおそらくここ鵜山だけではないだろうか。

もう一つの特徴は「蘇民将来」の紙片である。

名前書きの紙片もある。

「蘇民将来」の紙片の文字。

「そうみのしそんなり」の表現もあればカタカナ表記の「ソミノシソンモンナリ」とか「ソミン シソンナリ」というのもあるし、漢字書きの「蘇民生来子孫門也」もある。

何枚かに分けて書かれた紙片は、先を割っためろう竹(女竹)に挟んでいる。

枚数は家族の人数分であろうか、聞きそびれた。

これを見て思い出したのが、隣村になる別れの村の三重県名張市の鵜山・福龍寺で行われたオコナイ行事である。

名張市鵜山のオコナイによく似たものが登場する。

福龍寺本堂の柱に括り付けた紙片がある。

フシの木片の四方に「ソミ」「ノシ」「ソン」「ナリ」の文字がある。

コヨリ捩じりの青、赤色紙を付けて鮮やかな「チバイ」は護符。



紙片には「ソミノシソンナリ」の文字がある。

供えた家族の人数分だという「チバイ」は蘇民将来(そみんしょうらい)の子孫成りというのである。

挟む竹の違いは見られるものの、両鵜山の人たちはいずれも蘇民将来の子孫成り、であった。

平成25年の1月13日に取材させてもらった名張市鵜山のオコナイに感謝したのは言うまでもないが、山添村鵜山の「蘇民将来」の紙片の名称を聞かずじまいだった。

村の人たちはそれら以外に御供する餅2個を持ち寄っていた。

餅は1軒について2個ずつと決まっているそうだ。

もう一つの仕掛りは勧請縄に架ける板書の木札である。

古くから使われてきた木札に文字がある。



右から「記 奉修勧請 天下泰平 村内安全 五穀成就 ☆ 表象 平成二十八年」とあった。

この板書の木札は毎年使ってきたが、年に一度は年号を書き換える。

年号は替わっていないから書き換えるのは年数である。



今年は平成29年であるから、「八」の部分を小刀で削って文字を消す。

消えたら「九」の文字を墨書する。

堂下さんも忙しいが村の人たちもすることがある。

区長も一緒になって朱印を押したごーさん札を竹に挟んでいた。



竹の先っぽは三ツ割。

3カ所の切れ目にごーさん札を挟む。

図で書けばわかりやすいが、文字で説明するには難しい。

三つに割いた2カ所の切れ目に二つ折りしたごーさん札を丸めるように挟むのだ。

挟むと云うか、窄めて丸めて切れ目に入れる感じである。

札は二つ折れのまま二枚重ねで残る切れ目に挟む。

そうすれば抜けることはない。

今では竹挟みになっているが、かつてはハゼウルシの木を三つに割ってそうしていたと推測される。

このごーさん札はオコナイによって初祈祷される。

祈祷されたお札は持ち帰って苗代に立てると云っていた。

時期はいつになるのか聞いていないが、おそらく早植え。

していれば、であるが、JAから苗を購入している場合はおそらく立てることはないと思われる。

こうした準備を整えてもまだ終わらない。

作業は勧請縄作りである。

鴨居にロープを三本垂らす。

それに差し込んでいくモノがある。

松の枝木とフクラソ(フクラシの木)の枝木である。

葉がある松の枝木は2本。

葉はそれぞれが外側になるようにする。



写真でわかると思うが、ロープを一回転させて固定するのは葉側の外のロープだけだ。

中央のロープを拡げて、そこに枝を差し込む。

そうすることで中央のロープに固定する。

その次も同じようにして固定する材はフクラソ(フクラシの木)である。

フクラソは葉っぱ付き。

松と同じように葉が外側になるように固定していく。

上から順に、松、フクラソ、松、フクラソ、松、フクラソのそれぞれを順に三段組み。

それを2セットの一対を作って、間に幣を挟む。



こうして出来上がった勧請縄は壮観に見える。

完成すれば本尊前の祭壇に置いて祈祷する。

女竹に括り付けた「ソミノシソンナリ」のお札にごーさん札も並べる。



お神酒もお餅も供えてオコナイの準備が調った。

堂下さんが下支えされた作業は材料の調達から道具の準備に祭具の調整などに直会後に行われる勧請縄架けまである。

受付が始まった時間は午後1時。

祭具などすべてが調った時間は午後2時半であった。

そうして始まった鵜山のオコナイ。



太鼓打ちを役目する堂下さんも席に着いた。

もう一人の堂下さんは掃き箒を手にした。

太鼓を打つ間に座敷の床を打ち鳴らすダンジョーの所作がある。

かつては内陣であったろう。

今は会所にもなっている場は畳座敷。

畳が傷んでしまってはいけないからと叩かれるめろう竹は横に置く。

叩く木は平成26年までハゼノキであった。

採取するのが難しくなって、翌年の平成27年より市販の丸太材にした。

本尊、祭壇前に座る長老が導師となって般若心経を唱える。

一同も揃って唱える般若心経である。

一同がそれぞれの場に着座されてから始まる。

それぞれの席にはめろう竹と叩く丸太材も並べた。

おりんを打って唱える心経は読本もある。

一字、一字の心経を丁寧に唱えられる。

そのときだ。



大きな声で発せられた「ダンジョー」の合図に太鼓はドドッド、ド・・の連打。

丸太材で叩く人たちもカタカタカタ・・と連打する。



突然に動き出した箒掃きの堂下はせっせと勧請縄を作っていた残骸を掃きだす。

それまで閉めていたお堂回廊側の扉を開放して箒で掃きだす。



このような所作ははじめて見る。

これまで拝見した村行事のオコナイ事例は67行事。

その中でも特筆すべき所作である。

尤も県内事例にオコナイすべてにランジョー所作があるわけではない。

私が取材した範囲であれば42行事。

その中にも類事例は見当たらない。

驚くばかりの箒掃き所作に感動する。

箒掃きは太鼓や丸太材叩きのランジョーが終わるまで掃き続ける。

時間にしてみれば1分間もなかったであろう。

音が消えたらあの喧噪さはどこへいったのだろうと思ってしまうぐらいの静けさの村に戻る。

太鼓や丸太材(かつてはハゼノキ)で叩く音が村内に響き渡る。

その音を聞こえた人も、聞こえなかった人も、聞こえたと想定して、各家に居る婦人たちは家の座敷を箒で掃く。

まるで普段の生活のように座敷を掃除するかのように箒で掃くと堂下さんが話してくれた。



縁側まで掃いて外庭まで掃くような感じで悪霊を追い出したということである。

音も掃除も悪霊を追い出す所作。

板書に書いた「天下泰平 村内安全 五穀成就」の如く、村から悪霊を追い出して村内は安全にと祈祷されたわけだ。

オコナイは未だ終わらない。

ありがたいごーさんの朱印がある。



どこともそうであるが、朱印は額に押して印しを受ける。

ベンガラの朱印だけにベタっとつく。

いくつかの村で押してもらったことのある額押し。

そのまま帰宅したときの家人の驚いた顔が忘れられない。

この額押しを含めた所作が一連のオコナイ行事。

終った時間は午後3時前だった。

それからは直会をしていると聞いていた。

会食を含む直会はだいたいが1時間。

それが終わってから勧請縄架けに行くと話していた。

凡そ1時間と判断して遅くなった昼食を摂る。

鵜山にはスーパーもコンビニエンスストアもない。

何も用意していなかったから近くのスーパーイオン名張店まで。

鵜山からそれほど遠くはないように思えたが、思った以上に時間がかかる。



大急ぎで食べた時間は午後3時半。

落ち着いて食べている場合でもない。

真福寺に戻って直会が終わるのを待っていた。

そこにやってきた堂下さん。

もう済ましたと云うから大慌てだ。

カンジョ場はすぐにわかった。



なるほどここが村の入口。

風景写真家が撮った写真を見たことがある景観であるが、彼らはカンジョ場に架けた勧請縄を知ることはないだろう。

架けた大木は樹齢が何年。



古木のような感じはしないでもない樹木は椿。

3月になれば赤い花を咲かせているのだろうか。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)
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切幡の弓始め

2017年10月17日 09時32分27秒 | 山添村へ
切幡の小正月行事はかつて1月15日だった。

その日は垣内ごとのトンドが終わってからは上出、下出垣内ごとの弓始め行事があった。

今でもしていると思われた弓始めを拝見したくなって、この年の当家がどの家であるのか、教えてもらって行事の家を訪ねる。

小正月行事には違いないが、日にちが替わったのはいつだったろうか。

これははっきりしている。

ハッピーマンデーの施行日である。

週休二日制が全国に浸透し始めたのは平成時代に入ってからであろう。

「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」および「国民の祝日に関する法律及び老人福祉法の一部を改正する法律」が定まって、平成10年に「成人の日」と「体育の日」がハッピーマンデーの月曜日に移った。

「海の日」に「敬老の日」は平成13年になってからだ。

切幡の弓始めがハッピーマンデーの「成人の日」に移行して、早や19年。

月日というものは早いものである。

村の安全や五穀豊穣を願う年初の行事。

初祈祷のオコナイは1月7日の山の神の日。

これは昔も今も替わらない年初の村行事。

7日は山の神行事が終わってからオコナイ行事をされる。

成人の日はトンド行事が終わってから弓始め行事がある。

なんとか間に合うと思われた今年の弓始め行事の場は上出のトンド場の真ん前の家だった。

今、まさに始めようとしていた当家は馴染みのある人だ。

急な撮影にも応じてくださったのが嬉しい。

弓始めは儀式であるが、弓を射る人も当家家族も普段着で行われる山添村切幡の弓始め。

平成22年の1月11日に取材させてもらったときとなんら変わっていない。

射る矢はアマコダケ(ススンボ竹)。

弓は青竹で作ったという。

平成22年に聞いていた弓の材はシンブリの木で弦はフジツルであった。

矢の本数は特に決まっていないが、射る方角は最初に天を。

次が地である。



東、西、南、北に矢を放って最後の〆に鬼を射る。

的の鬼は手書きでなくカラー色の写し。



ダンボール紙に貼り付けていた鬼の絵は平成22年に拝見したときも写しであったが、デザインは違っていた。

矢を射る人は村神主に次年度に村神主を務めるミナライの二人。

打ち終わって二人に問う下出の弓始め。

それについては、今はない、という。

ないというよりも4年前に上出、下出それぞれにあった当家制度を村一本化にした。

そういうことで弓始め場も統合化、ということである。

村行事のあり方は少しずつ変化させてきた。

今後もまた改革することになるだろうと話していた。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)
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切幡のトンド

2017年10月16日 08時12分28秒 | 山添村へ
明日香村の八釣はトンド焼きの翌日に灰を「豊年、豊年」と云いながら畑に撒く。

同村の川原や小山田では灰撒きをしたら田に虫がつかない、と云われていた。

山添村切幡に同じようなことをされている人がいる。

お家で行われている年中行事の数々になにかとお世話になっている。

大字切幡のトンド焼きは平成22年の1月11日に取材したことがある。

あれからもう7年も経っていた。

月日の廻りはとにかく早い。

早いと云っても宇宙の運行は一定であるから、気持ち的に早くなっているだけだ。

かつては小正月の1月15日に行われていた。

15日は成人の日でもあったが、ハッピーマンデー施行によって毎年の日は動く。

トンド日を成人の日で覚えていた人は記憶がこんがらがってしまった人も多い。

いつされているのですか、と問えば、成人の日を応える人もあれば小正月の15日という人も多い。

慣れ親しんできた小正月行事がハッピーマンデー施行によって大きな変革があった。

県内各地のとんど日が変動する成人の日に移した地域があまりにも多くなったから、実にややこしい。

それも慣れてしまえば、覚えられるもの。

慣れとはそういうものだ。

さて、切幡のトンドは垣内単位でされている。

上出、下出、井ノ出谷の他、もっと少ない軒数でされているところもある。

上出は仕掛りはじめ。

調えば火点けをされる。

存知している人が多い地域。

走る車から頭を下げて次の垣内へ向かう。

ここ井ノ出谷は火点けを済ませていた。



ポン、ポンと燃えた竹が爆ぜる音が谷間に拡がる。

もう一カ所は二人だけで行われる小とんど。



以前はもう1軒もあったが、今は村を離れている。

昨夜に降った雨で畑は水浸し。

近くに生えている竹を伐り出して火を点けた。

ここもポン、ポンと音が鳴る。

枯れた竹でも鳴る場合はあるが、青竹であれば必ずや鳴る。

竹の内部に詰まっていた空気が弾ける音を聞くと懐かしい。



火が落ち着けば、家から持ってきた餅を焼く。

竹の先に挿すことなく、網焼きである。

焦げ目がついたら焼き上がり。

ほくほく熱々。

手で転がさないと冷めてくれない。

普段であれば焼いた餅は家で食べる。

今回は特別に焼いた餅をくださってよばれた。



食べ終わってからおもむろに動いた男性は手造りの大型ジュウノ(什能)でトンドの灰を掬う。

灰がジュウノから毀れないように、そのままの状態でもって田んぼに移動する。

豊作を願う灰撒き。



地方では虫が寄りつかないようにというまじないでもある。

田んぼの枚数ごとにこうして灰を撒いている、という男性はかつて味噌を家で作っていた。

焼けた竹を持ち帰って、家にある味噌樽の上にのせておいたら作るのがしくじらんかった、と云う。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)
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ナルカナランカ

2017年10月15日 11時35分53秒 | 山添村へ
O家に寄る前に先に伺ったT家。

庭に長い木を横たえている。

そこに置いてあった小豆粥。



昔は小正月の1月15日にしていたT家の「ナルカナランカ」のお供えであるが、どちらかといえば小正月の小豆粥が色濃い様相である。

これより始まる垣内のトンドの前に伐ってきた木はホウソの木。

ホウの木の名で呼ぶこともあるらしいが、たぶんにコナラの木であろう。

そのホウソの木の本数は家に居る男の人の数を揃える。

お爺さんに息子さんに孫さんにひ孫。

三世帯同居の大家族だ。

長さに決まりはないらしいが、立派な大きさのホウソの木である。

このホウソの木はトンド焼きを終えたら割り木にする。

その割り木は翌年の薪に利用すると話してくれた。

撮らせてもらったときの時間帯は午前9時半。

村にある他の垣内の行事を拝見して戻ってきた午前11時過ぎ。



チェーンソーで切って束ねていた。

間に合わなかった。

山添村でナルカナランカをしているお家は少ない。

聞いているのは先ほど拝見したT家とこれから向かうO家だけだ。

他の村々でも話題に上らなくなったナルカナランカ。

民俗語彙で云えば成木責めである。

編集発行は田原本町教育委員会。

昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に「成木責め」のことが書かれている。

大字矢部のトンド行事に関連する小正月行事の記事に「正月14日に集めた丸太の心棒に藁束。大きなトンドを組んだ翌朝15日の4時に点火する。燃え尽きるころのトンドの火は提灯に移して持ち帰り神棚の燈明に移す。トンドの火はそれだけでなく家で小豆粥を炊く種火にする。炊いた小豆粥は家の神仏をはじめ出入口や井戸にも。宮さんの杵都岐神社に三社、観音堂、薬師堂、ツナカケ場、地蔵尊などにも小豆粥を供える。子どもたちは、トンドで燃え残った竹の棒をもって、家々の成木(※実の成る木で特に柿の木)に向かって、“成るか、成らんか”と声をあげる。次に、それに応えるように“成ります、成ります”と自問自答してあちこち走り回る。これを成木責めという」解説文(※わかりやすいように一部補正して文章化した)がある。

尤も現在は休止中と補足してあることから、昭和59年にはすでに中断している習俗である。

平成3年11月に発刊された中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。

その中に、項目「ナルカナラヌカ」に挙げていた御杖村習俗の解説文に「15日の朝の小豆粥を柿の木に供える。このとき、一人がナタを持っていき、「ナルカナラヌカ ナラントチョンギルゾ」と唱えると、もう一方の一人が「ナリマス ナリマス」と、唱えてから柿の木に粥を供えた」と書いてあった。

「ナラントチョンギルゾ」とは思い切った言い方であるが、同じような台詞を聞いたことがある。

その地は東山中。

奈良市別所町で話してくださったO婦人の体験記憶。

「正月七日の七草の日だった。一人の子どもがカキの木にナタを“チョンしてなるかならんか”と声をあげた。そうすれば、もう一人の子供が“成ります 成ります”と返答した。親から“ナルカナランカをしてこい”と云われたのでそうしていた」という事例の言い方は若干の違いはあるが、まさに同意表現である。

ただ、何をちょん切るのか、曖昧のように思えた。

昭和63年10月、天理市楢町の楢町史編集委員会が発行した『楢町史』がある。

「1月15日の朝、正月の注連縄、門松などを集めてトンドで焼きあげた。トンドの火で焼いた餅を食べると歯が強くなる。“ブトの口も焼こう、ノミの口もシラメの口も焼こう”と云って餅を焼いた。家では小豆粥を炊いて神仏に供えた。また、柿の木にナタでキズをつけて、“この木、成るか、成らんか”と叩いて木責めをして小豆粥を挟むこことある」という記事も注目される。

また、編集・発行が京都府立山城郷土資料館の昭和59年10月に発刊した『京都府立山城郷土資料館企画展-祈りと暮らし-』に、精華町祝園で行われていた成り木責めの習俗が書かれている。

「正月の井戸飾りに使った竹の先に餅をさして、トンドの火で焼いてたべていた。この餅は歯痛のまじないになり、屋敷の乾(戌亥)の方角に立てて蛇除けにした。この他、トンドで餅を焼いた竹で、柿の木を叩いて、成り木責めをしていた」とある。

他にもかつてしていたという地域が多々ある。

天理市苣原町、天理市藤井町、奈良市都祁南之庄町、山添村大塩、山添村毛原、宇陀市菟田野佐倉、宇陀市大宇陀本郷に御所市東佐味などだ。

奈良県内の広い地域に亘って行われていた「ナルカナランカ」は今や絶滅危惧種。

山添村内の一大字で数軒が今尚続けておられたことに感謝する。

先に挙げたT家も昔はナタでキズをつけて「ナルカナランカ」をしていたが、今はそれをしていない。

ただ、ホウソの木に供える小豆粥は今も継承しているのであるが、これから向かうO家はナタでキズをつける「ナルカナランカ」はしている。

両家の在り方を見ることで、一つの事例として記録させていただくのである。

貴重な事例を撮っておきたいと願い出た写真家Kさんの希望を叶えたく訪れた。

O家もT家を同じように伐ってきたホウソ(コナラ)の木を並べていた。



家のオトコシ(男)の数だけ伐ってくるというホウソの木。

「ほんまは4人やけど、今年は5本にした」という。

T家ではここに小豆粥を供えていたが、O家にはそれがない。

これから出かける自前の山。

ご主人が生産している茶畑まで案内されるが、山の上。

急な坂道に軽トラが登っていく。

一面いっぱい広がる茶畑に残り柿がある。

前述した事例のすべては柿の木。

「ナルカナランカ」をするには必須の山の木である。

男性が云うには、ここには柿の木が数種類あるという。

熟しが美味いエドガキにコロガキ、イダリガキがある。



そのうち、一本の柿の木に向かってナタを振り上げる。

カッ、カッと音を立てるナタ振り。

数か所にキズを入れたら小豆粥をおます。

供えるというよりも「おます」の表現の方が合っている。

奈良県人のすべてではないが、供えることを「おます」と云う人は多い。

尤も若い人でなく、高齢者であるが・・・。



小皿に盛っていた小豆粥を箸で摘まんで切り口におます。

キズをつける場所は二股に分かれる部分であるが、この年は幹の数か所にキズをつけた。

キズ口は白い木肌。



そこに小豆粥を少し盛る。

男性は「ナルカナランカ」の台詞を覚えておられないが、おばあさんがおましていたので今でもこうしているという。

「もう一本もしておこう」とすぐ傍にあったカキの木に移動した。

そこでも同じようにナタを振って伐りこむ。

そして、小豆粥をおます。

眺望は山村ならではの地。



美しい風景に思わずシャッターを押した向こう側を高速で走り抜ける車。

眼下を走る道路は名阪国道。

資本経済を運ぶ物流の道でもあるから平日はトラックが多く見られる。

山添村毛原で聞いたトンド焼きがある。

書初めの書も焼くトンド焼きに餅も焼く。

竹の先を割って餅を挟む。

それを火の勢いが落ちたトンドに伸ばして餅を焼く。

焼いた餅は小豆粥に入れて食べる。

餅を焼いた竹は1mほどの長さに切断して持ち帰る。

家にある味噌樽や醤油樽の上にのせておけば、味が落ちないという俗信があった。

焼けたトンドの灰は田畑に撒く。

トンド焼きの前にしていたのが、「ナルカ ナラヌカ」であった。

柿の木の実成り、つまり豊作を願って柿の木の根元辺りの粗い木の皮をナタで削り落として、「ナルカ ナラヌカ」を叫びながら、ナタ目を入れる。

ナタで削った処に持ち帰ったトンドの火で炊いた小豆粥を供えた。

時間帯は早朝だった。

この事例でもわかるように柿の実成りを願う作法なのである。

おます小豆粥はトンドの火で炊く。

二つが揃って成り立っていた「成木責め」は小正月行事であった。

「成木責め」は奈良県特有でもなく、他府県にもあった。

ネットで紐解けば、日本大百科全書どころか、ブリタニカ国際大百科事典や世界大百科事典にも載っている項目である。

なお、同村の知り合いにNさんが居る。

同家も「ナルカナランカ」をしていたが、それはお婆さんが生きて時代だった。

柿の木をナタでキズをつけてアズキ粥を供えていたと云う。



そのときの台詞が「成るか、成らんか 成らんならな、ちょちぎる」だったことを思い出した。

成木責めをもって村起こしをしている長野県飯田市鼎東鼎の事例もある。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)
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大西・チョウジャドンの祝い膳

2017年10月10日 08時54分48秒 | 山添村へ
大きな注連縄を玄関にかけているお家を訪ねる。

元日の朝、お家の正月祝いにチョウジャドンの祝い膳のイタダキをしていると話してくださったのは山添村大西在住の婦人だった。

座祭りが終わりそうなときにお会いした婦人が云ったお家の習俗に思わず取材のお願いをした。

お許しいただければ是非とも取材させていただきたいと申し出た結果は、年明けの1月4日になってからだった。

見てはもらいたいが、家の都合もある。

しかも、腱鞘炎まで起こしてしまって重いものを持ち上げるのに苦労している。

お餅は小さくするなど工夫したと云っていた。

ありがたいお言葉に甘えて出かける大字大西。

オコナイ行事を終えてから寄らせてもらいますと伝えていた。

時間帯は午前11時半になってしまった。

ありがたいお言葉をいただいて、お年賀持参の民俗取材に心が弾む。

弾む心に迎えてくれた形が美しく綺麗な注連縄に「笑門」の木札がある。

伊勢の猿田彦の講に属しているので講中に頼んで入手したものだそうだ。

婦人が初めに案内してくれたのはカドニワに奉っていた門松である。



日にちが経過しているから葉は日焼けでチリチリ感がある。

普段であれば砂盛りをしたところに立てる門松。

今年はそうすることもできない重い道具の持ち運びであるが、松、竹(笹竹)、梅を立てた。

ナンテンもあればセンリョウも。

そこにサカキもフクラソウ(フクラシであろう)も添える。

ただ、今年は入手できなくて代替にビシャコを選んだそうだ。

注連縄は眼鏡型。

ユズリハにウラジロを添える。

これらは第二日曜日の朝8時半にトンドで燃やす。

昔は習字焼きの天筆もしていたが、誰も書くことがなくなった現在は見なくなったそうだ。

松は1月4日になれば穂先というのか知らないが、てっぺんの先っちょを伐って仕事始めをするという。

そのときはシバ(柴)を結う。

山行きして伐ってきた枝を束ねるのであろうか。

そのシバはトンド焼きの心棒にするというから、割合長めであると思われる。

カドニワに立てた門松の前にポリバケツがある。

中には若水を入れてある。

若水は正月の三が日。

元日の朝に柄杓を浸けて若水を汲む。

水が溜まれば顔を洗う。

若水は裏木戸の前にある井戸から汲み上げる。

昔は釣瓶で汲んでいたが、今では水道の蛇口にように捻るとジャーである。

手押しのポンプで汲みだした時代もあったが、いつしか電動ポンプの汲み上げ。

ポンプもやがて消えて蛇口を捻ればでてくる仕掛けになった。

その井戸を拝見して、つい「捻るとジャー」やと口が出る。

婦人も同じように「捻るとジャー」。

同世代ならではの生活文化の語彙が出てくる。

こうした門松立てや若水文化の民俗を拝見したら、祝い膳である。

膳は三種。

正月三が日も終えたこの日までわざわざ残してくださった祝いの膳にあっと驚く。



方形や円形のお盆に盛った品々。

丁寧に、そして綺麗に盛り付けされている。

椀からはみ出しそうな大きなカシライモ(頭芋)。

キナコは雑煮餅に漬けて食べる。

あまりにも大きすぎるカシライモ(頭芋)でその下にあるものが見えない。

婦人に具材を教えてもらわないとわからない。

その答えは豆腐に人参、蒟蒻、牛蒡、大根。

すべてが2個ずつ。



カシライモに載せている人参の形を見ていただきたい。

象って切り抜いた形が松(三枚葉)、竹(三枚葉)、梅(五花弁)。

実にお正月らしい飾り野菜である。

クシガキ(串柿)のニコニコ(2個、2個)。

1個であれば、一人もん。

一対の2個であれば、夫婦仲良く睦まじく、である。

お正月の餅は押し餅。

保存するのに最適な餅である。

かつて我が家も正月の餅を搗いていた。

小餅もあれば鏡餅も。

ひと際大きかったのは太く長い形の餅だ。

これをネコモチと呼んでいたことを思い出した。

小正月に切ったネコモチは厚さが1cmぐらいだったか。

ぜんざいに入れて食べていたことも思い出す。

それはともかく取材地民家の祝い膳。



たくさん搗いた餅を保存する場は「ナナワ」の奥の座敷。

ゴザを敷いて餅を並べているという。

髭のあるトコロイモは長寿の印し。

特に髭が長いのが良い。

トコロイモは家族の人数分の数。

栗は2個。

枝軸付き干柿も2個であるが、普段であれば2個でも1個でも構わないという。

それに葉付きのユズ。

昔はミカンだった。



祝い膳は家族の人数分を盛る。

子どもにあげるお年玉の膳に載せて拝む。

拝む順序は長老からだ。

その年の恵方か、若しくはお日さんが昇ってくる東に向かって拝む。

「ちょうじゃどん」と、一回云って座りながら拝む。

この場は座敷ではなく、玄関土間。



「このような感じでしているのです」と云いながら“形”を再現してくださった。

床の間辺りに並べておいて、「ちょうじゃどん」して長机に置く。

お爺ちゃん、お父さん、男の子の次がお婆ちゃん、お母さん、女の子の順でそれぞれが「ちょうじゃどん」の作法をする。

先祖さんを祀るお仏壇にも同じように供える餅、トコロイモ、栗、串柿、ユズのセット盛りである。

神棚さんは床の間。

かつてはそこには三宝も載せていたというから、その形式は年末に拝見した木津川市山城町上狛・M家や大和郡山市雑穀町の元藩医家の三宝飾りと同じであったろう。

方形のお盆に盛ったそれぞれも同じであるが、異なる形の餅もある。

右下角にある餅はまるで乳房のように見えるが、それは山の神さんの餅。

家ではオカイサン(お粥)を足して祭っているという。

山の神さんの餅は男の人数分を用意する。

炊いたオカイサン(お粥)に七草を入れて食べる。

山の神さんに参る行事を拝見したことがある。

場所は山添村の大塩。

小字キトラデ在住のK家の山の神行事である。

1月7日は山の神。

その日は七草の日である。

山の神参りを済ませた親子は家に戻ってから七草粥を食べていた。

ここ大西の住民も同じようにされていたものと思われる。



山の神さんの餅の左横にあるのが三日月餅。

ちょんと、くっつけているのがお星さんだ。

その左横に並べた餅は小判型。

本来は家の蔵に供える蔵の餅。

広げたシダの葉を敷いて、その上に載せる。そのシダは村の人(子供だった可能性もあるが)に頼んで採ってきたもののようだ。

方形盆の右上角に並べた12個の餅はツキノモチ。

12個あるから一年間の月の数。

新暦の閏年の場合は13個にするというから、元々は旧暦の閏年であったろう。

その新暦の閏年の年は伊勢講が揃って参るお伊勢参りがあるという。

方形盆の左下角に並べた10個の餅はそれぞれ。

恵比寿大黒さんに供える餅は2個。

三宝荒神さんは3個。

井戸の神さんは1個。

門松さんも1個。

山の神さんに参る分に1個。

トンドの神さんは2個。

これは先を尖がらせた竹に挿してトンドの残り火で焼く。

ほどよく焼けたら、その場で食べる。

その際、炊いて作った小豆粥を持っていく。

そのトンドの火の燃え殻。

炭としても役立つ燃え殻を拾って帰る。

それを味噌樽の蓋の上に置けば、味噌が美味しくなると云われてきた。

さまざまな神さんに供える正月の餅の数々。

今年は訪問者のために一つの方形盆に盛り合わせてくださったから、例年とは違う形式である。

しかも餅などの大きさは方形盆に乗せられる大きさであることを添えて紹介する。

昔、お婆さんが「丸い栗はダメ」だと云っていたそうだ。

栗の実は蒸すか、茹でるかにして、それを数珠玉のよう吊るして干した。

通すのは布団針のような太くて長い針だった。

そう話す婦人は冷凍して保存しているようだ。

「カンピンタン」は硬くて食べられないからトンドにあげるともいう「カンピンタン」とは・・・。

帰ってから調べた結果は奈良県の宇陀郡や三重県の南牟婁郡、志摩郡、四日市市の方言のようで、干乾びた状態というらしく、充てる漢字は「寒貧短」っていうのが面白い。

さらに調べてみた「カンピンタン」。

小学館の『日本語大辞典』によれば、まったくお金がない無一文のことを「スカンピン」。

子ども時代から使い慣れている「スカンピン」を充てる漢字は「素寒貧」。

なるほど、であるが、「カンピンタン」ははじめて耳にした言葉。

しかも、尾鷲のようにサンマの寒風干しを製品化する場合においてもそう呼ぶ地域もある。

婦人が提供する話題は次々と広がる。

トコロイモは水に浸けておくと元気になる。

籾も水に浸けておくと芽出しが良い。

トコロイモも同じことだと云うトコロイモはモグラが好物のようだ。

恵比寿大黒さんにはカケダイをする。

カケダイモ新品の大型マッチも紐で吊るして供える。

マッチを供えるのは、火が起こせるからだ。

火を起こすマッチ擦り。

マッチは火起こしに欠かせない道具であるから食べられるようになるということから供えるという。

カケダイは三重県伊賀市治田まで出かけて「まるそうスーパー」の魚屋さんで買ってくる。

山添村からそれほど遠くない地であるが、婦人の家では夏のお盆に乾物のトビウオを供える。

トビウオはホントビもあればアオトビもあるらしい。

そのトビウオは両親が揃っておれば2尾。

片親であれば1尾。

ともに亡くなれば買うことも、供えることもないが、祝いに供える場合は、終わってからそのトビウオを下げて、分け合って食べているそうだ。

山添村の北野津越松尾でされているサシサバのイタダキさんと同じ様相である。

東山間に今も聞くサシサバの風習はサシサバでなくてトビウオもあると聞いていた。

それをしていたのはここ大西の婦人宅であった。

なお、婦人が云うには隣村の菅生もトビウオの風習になるという。

話題は替わってカシライモ。

カシライモは赤ズイキでオヤイモになる。

ズイキは芋がらとも呼ばれる芋茎である。

八ツ頭(ヤツガシラ」とか唐の芋(トウノイモ)などのサトイモの葉柄の部分である。

一方、赤ズイキに対して青ズイキもある。

青ズイキの子芋は食べられるから芋串祭りの御供に出しているが、カシライモ(頭芋)になる部分は食べられない。

他にも竃の三宝荒神さんは松の枝に注連縄などなどを飾るなど豊富な在り方にただただ感動するばかりだ。

その上に別途雑煮の用意までしてくださった。



キナコもあれば雑煮の餅に大きなカシライモも。

ありがたく同家のお味を堪能させていただいた。

この場を借りて厚く御礼申し上げます。

(H29. 1. 6 EOS40D撮影)
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大西のオコナイ

2017年10月09日 07時44分48秒 | 山添村へ
昨年の平成28年10月9日に行われた山添村大西の座祭りの場。

座祭りの場にもなるし、村の会所でもあるその施設は旧極樂寺跡である。

1月の6日にオコナイと呼ばれる正月初めの初祈祷にランジョーされると聞いていた。

一般的なランジョーはごー杖と呼ばれるウルシの木を寺の縁に叩く作法があるが、大字大西ではその作法は廃れて、僧侶が読経中にオリンを打つ、そのものがランジョーになったと云っていた。

作法はある意味、特殊になったわけだが、初祈祷であることには違いない。

この日のオコナイに参集されたのは区長や檀家総代の人たち。

時間ともなれば隣村になる大字春日の不動院住職がやってくる。

その時間を待っていた会所の屋外。

不思議な景観がある。

会所の窓側下になにがある。

よくよく見れば松である。

違いがある2本の松。

右はオン(雄)松で左はメン(雌)松だ。

旧極樂寺跡会所の元日は扉を閉めていたのだろうか。

聞こうと思った男性はおもむろに動いた。

門松と思われる、その場に移動した。



そこに挿していた松を抜いた。

抜いたのは二本ともだ。



それはどうされるのか。

後ろからついていけば会所へ、である。

松を抜いた男性は屋外に咲いていた椿の花を摘んだ。

紅白それぞれの花が咲いている椿も持ちこんで花瓶に立てた。

花瓶を置いていた場所は床の間の前に組んだ祭壇である。

祭壇は座でも利用されていた長机である。

左側に白花の椿。右が赤色の椿の花瓶に抜いた松も立てた。

仏式の花立てに神式の門松を立てた。

村の人らの話しによれば三段の松を伐って立てた門松の先端部分を正月迎えた三が日を過ぎたら、それを伐って、旧極樂寺跡会所に立てるということだった。

珍しい正月飾りの形態に驚くばかりだ。

祭壇に門松を調えたところで不動院住職が到着された。

早速、始められた祈祷札の墨書。



大字大西の『大西修正㑹牛玉ノ書帳』に記されているごーさんの祈祷札の書き方通りの「牛玉 不動院 寶印」文字を墨書する。

寺名は大字大西の旧極樂寺でもなく大字春日の不動院である。

住職の話しによれば随分と前のことであるとお断りを申される。

その昔はわからないが、山添村大字大西のオコナイ作法が廃れたようである。

きっかけはわからないが、不動院が継いで大字大西の寺行事を務めてきたということである。

転記されていた『修正㑹牛玉ノ書帳』には「修正㑹一月五日廣代(ひろたい)云々・・」の文字があった。

3日後のことであるが、山添村の東の端に大字鵜山がある。

そこでもオコナイ行事を拝見させてもらったが、僧侶は登場されずに村の人たちだけで作法をされる。

そのときに拝見させてもらった資料がある。

その資料によれば、山添村の3カ大字で初祈祷とも呼ばれている修正会の日程がある。

1月5日は広代(ひろたい)で6日は大西。

10日が遅瀬である。

オコナイはその3カ大字であるが、涅槃会は大字上津がある。

彼岸会となれば鵜山、広瀬、吉田、広代、上津、菅生、春日、大西、葛尾にも出向かれる。

つまりは、不動院住職が山添村で兼務している大字はそれだけある、ということだ。

広代のオコナイは平成26年1月5日に取材させていただいた。

遅瀬は未だ取材ができていないが、米寿祝いを兼ねたオコナイ行事はハゼの木を用いると聞いている。

縁かどうか記憶にないが、ダンジョーという名の縁叩きをしていると聞いた。

ハゼの木にお札を挟んだごーさんは見たことがある。

平成22年10月10日の神社行事に訪れた際にそれがあったと認識している。

墨書したごーさん札はご祈祷される。



祭壇のローソクに火を点けて始まった初祈祷のオコナイ。

重箱に詰めたお節料理を供えて線香も火を点ける。

この段階では朱肉をつけない宝印は押さない。

ごーさん札の前に置いてあるだけだ。

大西に迎えたお正月の挨拶を述べた住職はこれより初祈祷の法会を行う。



はじめにお清めの作法。

次に仏さんを詠みあげる諸仏勧請。



その次は全国津々浦々の神さんを詠みあげる神名帳詠み、である。



そして、花餅(けひょう)帳に沿って寄贈者の村人名も詠みあげて般若心経に移った。

ちなみに、花餅(けひょう)帳に記載された名前は家族のうちでも男だけだそうだ。

それからしばらくしたら「ランジョ-」のご発声。

オリンを叩く。

それもリンリンリン・・打ちの連打である。

続いて、祭壇の角にあたる部分も叩く。

それもカタカタカタ打ち・・の連打である。

叩くのは住職お一人。

この作法が大西のオコナイのランジョー作法。

他所では見られない作法である。

正月初めに行われる修正会のお勤めは、村人の健康を願い、村内安全を祈願する。

去年の罪を懺悔する。

広島の因島の僧(因島薬師寺)に教えを乞うた。

神さんも仏さんも拝むが、先祖さんを拝む。

先祖さんをずっと辿っていけば、神、仏に近づく。

神と仏の力を借りて命を繋いできた先祖さんを拝むということ。

先祖さんに感謝するとともに、拝むことによって村ともども子孫繁栄に繋がるということであるとお話しされる。



法会を済まされた住職は祈祷されたごーさん札に押印する。



押印は宝印。

水で溶いたベンガラを宝印に付ける。



朱のベンガラは山に出かけて採取したもの。

水は村の湧き水の若水である。

朱印は「牛玉」、「不動院」、「寶印」それぞれに押す。

朱のベンガラがべったり押されたから印の状態がわかり難いが、炎のような輪郭はよく見える。

朱印を押したごーさんの祈祷札は、これも山で採取してきたハゼウルシに挟む。

木肌を削って真っ白になったハゼウルシの木は年々少なくなってきたという。

どこへもっていくこともなく、旧極樂寺跡会所の床の間に立てて残している。

一番古いものから数えて5本目になるそうだが、今年はそのハゼウルシでなく「ウルシ」の木そのもの。

生のうちに木皮を剥いで作っておく。

翌年は再びハゼウルシ。

持ち回りで入れ替えをするという。

祈祷法会を終えて朱印押し。

ベンガラをべったり塗った宝印が動いた。



実際に動いているのは区長であるが、一人一人の席の前に立って額に押す。

べったり塗られた額の朱印はなかなかとれないものだ。

こうしてオコナイとも呼ばれる修正会お終えた人たちは座敷で直会。

初祈祷に供えた重箱を下げる。

小皿に取って箸で摘まむ。

重箱の蓋を開ければお節料理が見える。

甘く煮た黒豆に甘栗もある。

かつお節を降ったカズノコもあればゴマメもある。



供えたお神酒もいただく直会中に明日の大西の行事を聞く。

1月7日に行われる山の神がある。

時間帯は特に決まっていないが、早い人は今夜の零時の鐘がなったら出かけるそうだ。

持ってきた藁束を燃やす。

山の神のオソナエの形はクラタテを表現しているが、村では単にオソナエと呼んでいる。

山の神の地はジンスケの名がある屋敷跡。

大木のケヤキがある地。

急勾配の地に山の神を祀る土段は事前に調えておく。

オソナエをしてクリの木、或いはオツゲの木で作ったカギの木でカギヒキの作法をする。

そのカギの木にはモチ、或いは砂を詰め込んだ稲藁で作ったクラカケをぶら下げる。

他所であるがオツゲの木は、たしか、ウツギの木だったと記憶する。

山の神に奉る土段に山や農仕事に使う七つ道具を供える。

七つ道具は白い木肌を削った農具を象ったカマ、クワ、スキ、ナタ、ノコ、ヨキにクマデの七種。

すべてニスを塗っているそうだ。

やや太めの刀も作る。

それには五穀豊穣、家内安全の文字を墨書する。

これらを作る木材はホウの木。

イモギの名で呼ぶこともあるホウの木で伐り出す刀。

その形からケン(剣)の木と呼ぶ人もいるらしい。作る人は区長。

奉る人も区長。

かつては、というか、昨年までは、毎年に交替する区長が作って奉っていたが、この年から毎年作ることにはせずに、夕刻に引き上げて区長保管。

翌年に再び登場する使い回しに改正したという。

ところで住職が法会の席についた頭上に何かが見える。

村の人のお許しを得て、法会中も扉を開けていたその内側に安置されている仏像を拝見する。

床の間頭上の仏壇と云えばいいのか、わからないが、左側が行者坐像で、右側は毘沙門立像である。

暗がりで判断は難しいが、右隣の毘沙門立像は木造のようであるが、行者坐像は石造りのように見える。

それとは別に左端に大きな縦長の扉がある。

村の人たちがいうには、そこにはお大師さんを安置しているそうだ。

大西には念仏講がある。

その講中が寄進したお大師さんは四国八十八寺霊場の第45番・岩屋寺のお大師さんを祀っているという旧極樂寺のご本尊は阿弥陀さん。

かつては「座っていたはずだ」と云う。

で、あれば、どこに行ってしまったのだろうか。

(H29. 1. 6 EOS40D撮影)
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松尾・H家の正月のイタダキ

2017年09月23日 08時42分44秒 | 山添村へ
通院しているT病院でばったり出会った平成28年6月14日

お会いした人は山添村松尾に住むHさん。

奥さんとともに3カ月おきに検査する診察だった。

医師は違うが循環器内科医師の診察を仰ぐ。

奥さんも足の障害をもっているが、いたって元気に暮らしている。

平成23年のマツリに当家を務めたHさん。

その年よりマツリの度に伺うようになった。

昨年の平成28年の8月14日はお盆の習俗である「サシサバのイタダキサン」も収録させていただいた。

尤も「サシサバのイタダキサン」は平成24年の8月14日にも撮らせてもらった。

前年に撮らせていただいた「サシサバのイタダキサン」の際にも家の習俗取材をお願いした。

何度もお家の習俗を撮らせてもらうは遠慮したいところだが、同行していた写真家Kさんの願い事も叶えてあげたい。

そう思って無理な願いであるが、本日の「正月のイタダキ」も取材させていただくことになった。

この場を借りて厚く御礼申し上げるところである。

昨夏にお願いしたときは息子さん夫婦にしてもらう予定であったが、所用があることから高齢のH夫妻の出番となった。

昨夏にお願いしてそのままでは申しわけない。

そう思って">年末の12月26日に伺った。

正月準備をしている最中であったにも拘わらずお相手してくださるのが嬉しかった。

さて、「正月のイタダキ」とはなんであるか、である。

山添村など奈良県内の東山中で今もなお行われているお家の正月祝いである。

県内平坦では滅多に見られなくなった元日の習俗は過去数カ所において取材させてもらったことがある。

但し、である。

一部を除いてほとんどが祝いの作法を終えたそのお飾りというか、祝いの膳を拝見したにすぎなかった。

本来の作法時間は除夜の鐘が鳴って正月を迎えた直後の時間帯。

地域や家によっては朝日が昇る前の早朝時間帯。

一般的にいえば起床時間のような場は遠慮すべきと判断して無理なお願いはしていなかった。

奈良市長谷町のN家のイタダキの膳は平成23年1月1日だ。

作法時間は例年よりも遅らせてもらった。

天理市福住町別所のN家のイタダキの膳も平成23年1月1日である。

ここは膳だけを拝見した。

奈良市丹生町のF家のイタダキの膳も平成23年1月1日

家族が膳を廻す作法も拝見した。

山添村大塩のK家の祝い膳は平成24年の12月31日である。

除夜の鐘が鳴るまでに奥さんが調理をして配膳した祝い膳。

作ったばかりの祝い膳を拝見した。

宇陀市室生下笠間のⅠ家のイタダキサンの膳は平成22年の1月4日に拝見した。

膳の作法は1月1日であるが、4日もそのままにしているからと云われて撮らせてもらった。

松尾のH家の作法も同じようなものであるが、膳の盛りが異なる。

膳の盛りはこれでなくてはならないというものはない。

家によってそれぞれ、区々なのである。

あけましておめでとうございますと声をかける取材日は元日の朝。

本当にもうしわけないと思う取材日にはお年賀を準備した。

H家の「正月のイタダキの膳」は2種ある。

右にあるのが「十二月さんのモチ」。

一年の月数を表現するモチの数だ。

大の月がある旧暦閏年であっても12個のモチである。

モチは他にも「ミカヅキさんのモチ」に「オツキさんのモチ」もある。

弓なりの三日月の形にしているのが「ミカヅキさんのモチ」。

その上に載せた丸いモチがお月さん。

形どおりの名がある「オツキさんのモチ」である。

「十二月さんのモチ」の餅は家族とともに正月七日の七草の日に食べるが、「オツキさんのモチ」を食べられる男性に限るそうだ。

ウラジロを敷いて数個のミカンも盛る。

そこに“ニコニコナカムツマジク”の干柿10個を串挿ししたクシガキも添える。

これを「十二月さんの膳」と呼んでいた。

左側の膳は「イタダキゼン」の名がある。

白餅は「イタタダキのモチ」。

この餅は1月15日の小正月に食べる。

数個のミカンに日高昆布。

祝い袋はお年玉。

この膳に特徴的なのはサイフに現金、預金通帳があることだ。

これらはお金が貯まりますようにという願いである。

おもむろに始まった正月のイタダキの作法。

まずは当主のご主人が「イタダキゼン」を両手で抱えて前方にもつ。

頭を下げて降ろす。

特に祈りというか願いの詞は述べずに頭を下げる。

ご主人は位置を移動して、今度は「十二月さんの膳」を抱えて、同じように頭を下げる。



その際には奥さんも横について、ご主人と同じように「イタダキゼン」を抱えて頭を下げる。

奥さんは持ち上げる力がないと云って揚げるのが辛そうだ。

少しでも恰好つけたいと思って抱えるが、ここまでだ。



その様子を優しい眼差しで見守るご主人。

二つの膳のイタダキ作法を終えたご主人は退いて、奥さんは「十二月さんの膳」に移った。

これもまた重たい膳であるから持ちあがらない。

「申しわけないことで・・」と云われるが、「もうそこで良いですから・・・」と思わず口がでた。

「十二月さんの膳」はコモチであるが十二月のモチが10個。

三日月のモチもあればお月さんのモチも。

しかもミカンは6個もある。

総量を計ってみればわかるが、若い者なら楽々と抱えられる膳であっても、高齢者や腕に力が入らない人にとっては揚げるのが苦痛である。

息子夫妻がいたら男、女の順で同じように家族全員がする正月の作法である。

「イタダキ」作法をしてからは半帖の紙に包む。

「半帖」は「はんじょう」。

「半帖」が繁盛に繋がる洒落であるが、半帖の紙に包むことによって「家が繁盛」するという願いを込めているのだ。

H家が正月の朝5時に拝む方角は決まっている。

まずは、お日さんが昇ってくる東に向かって拝む。

次は西、その次は南、そして北に向かって拝む。

東におられる神さんは南にもおられるということらしく、四方を拝して拝むと話す。

つまりは東西南北に向かってこの新しき年を祈念して、お日さんが出る前の5時ころに拝む四方拝である。

こうした正月のイタダキ作法を撮らせていただいたH家。

「我が家のお正月のお節や雑煮を食べてや」と云われる。



別室に運んでくれたH家の正月料理の盛りに感動する。

雑煮は云わずと知れたキナコ雑煮。

ご自宅にある井戸から若水を汲んで、その水で炊いた雑煮のだし汁。

昆布出汁で炊いたという。

味噌は白味噌でなく合わせ味噌。



でっかいカシライモ(頭芋)に豆腐とダイコンが入っている。

この中には雑煮餅もある。

これを取り出して添え皿に盛ったキナコにつけていただく。



奈良県特有の、といってもすべての地域でなく、特定地域であるが、こうしてキナコをつけて食べる習慣がテレビで放映されて放送を見ていた全国に激震が走ったようだ。

県民ならどこの家でもしていて、誰もが食べていると紹介された特定地域の風習は放映で特徴づけた。

誤解の放映が全国に拡がったテレビ効果が怖い。

お節も食べてや、と云われるがご主人はもう出なくてはならないと正装姿になっていただけに大慌て。



折角の料理だけにそれぞれの品物を一品ずつ、口に入れて美味しさを味わう。

なかでも美味しかったのは煮凝りのある甘辛く味付けしたエイである。

年末に訪れた室生下笠間のカケダイ作りを拝見したM商店も売っている甘辛味のエイである。

実は初めていただくエイである。



大阪生まれの大阪育ちの私の家ではエイの料理はなかったから初めての味覚である。

こんなに旨いとは、はじめて知った。

舌鼓に感動に浸っている場合ではない。

軽トラに乗って走っていったご主人の行先は峯寺に鎮座する六所神社である。



初詣する姿をなんとかとらえることができた。

大字松尾の氏神さんは松尾に鎮座する遠瀛(おおつ)神社。

地区の神社の初詣は1月3日にしているという。

Hさんが参拝を済ませた午前8時過ぎ。

初詣の六所神社は鎮座する峯寺の他、松尾、的野の三カ大字の神社。

それぞれの大字の宮総代らも集まっての初詣参拝。

みなさん顔を合わせるなり「あけましておめでとうございます」と年頭のご挨拶である。



隣町に住む奈良市丹生町の神職もおいでになった。

神職をはじめとして何人もの宮総代は存じている。

「あけましておめでとうございます。今年も、どうぞよろしくお願いします」と挨拶させていただいた。

(H29. 1. 1 EOS40D撮影)
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松尾・H家の正月準備

2017年08月29日 09時31分25秒 | 山添村へ
6日後に行われる家の正月行事を取材させていただくH家に立ち寄る。

今夏のお盆のときにお願いしていた家の正月行事はイタダキサン。

あらためてご挨拶というわけで訪れた。

Hさんはお家の裏山に登って伐りだしの真っ最中だった。

正月の飾り付けに必要な木材は松やシキビにフクラシの木などがある。



松はチンチロが付いたものでないとおさまらない。

フクラシの木は芽出たい木。



正月に飾るのは赤い実がついているものだ。

神社の門松にフクラシを添える地域もあるが、H家では自宅に、である。

豪華で大層な門松ではないが決まりもの。

集まる樹木はセンリョウにユズリハ、ウラジロもある。

ユズリハは代々継ぐという意味は全国的。

センリョウも祝いごと。

フクラシが赤い実ならセンリョウは黄色い実。



お正月の晴れやかになる。

先日に空いた時間を利用して予め作っておいた七、五、三の下がりがある注連縄もある。



輪っか作りの細いワジメ注連縄は23本も作った。



ユズリハ、ウラジロを取り付けて玄関、小屋など家廻りに神棚、仏壇までも飾るだけにそれだけの数が要る。

これらは31日の大晦日に飾り付ける。

お正月の準備を調えてお正月を迎える。

来年もよろしくお願いしますとお声をかけて失礼した。

Hさんから、これ持って帰りと云われてもらった赤と黄色のセンリョウをブルーベリージャムの瓶に飾った。



チンチロの松も添えたら一層、良うなった。

ところで夏のころに聞いていた話しでは息子さん夫婦も来られてイタダキサンをすると聞いていたが、家族旅行が決まったのでそちらで正月を過ごすそうだ。

(H28.12.26 EOS40D撮影)
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山添村の仕事人が作る竹製茶袋

2017年08月10日 09時11分05秒 | 山添村へ
山添村で唯一、というか、日本国内で唯一、竹製の茶んぶくろ(茶袋)を作る仕事人がおられる。

この年の4月に放映されたNHK奈良放送局の情報番組によってひと騒ぎ。

一時的に販売中止としていたようだ。

その後もテレビ放映や新聞記事で紹介されていた仕事人。

お会いしたことはないが、仕事人が丁寧に作られた「茶袋(ちゃんぶくろ)」は山添村大字大西にある施設「花香坊」で売っている。

花香坊」は地産地消の野菜も売っている。

時間に余裕があれば、品定めに入店する。

先日、取材帰りに立ち寄ったときは閉店だった。

この日の取材は午後4時前に終わったから寄ってみた。

閉店時間ギリギリいっぱいの時間に入店した。

「花香坊」は季節によって閉店時間が替わるので注意しておかないといけない。

訪れる最大の目的は食べたくなる野菜を買うことだ。

買ってからもいろんな商品棚に目を移す。



そこにあったのは仕事人が作った竹製の「茶袋」である。

一個が1200円。

「茶袋」の用途は茶葉を煮出す際に使うときの道具。

可愛いからと買う人も多いから、すぐに売り切れる。

「茶袋」は一個、一個が手造り。

作っては商品棚。

お客さんは良いものを見つけたと云って買っていく。

(H28.12. 4 SB932SH撮影)
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大西稲荷神社の新嘗祭

2017年08月09日 09時08分31秒 | 山添村へ
前日の夕刻から夜にかけての数時間はトンド焼きの火焚き祭りをしていた山添村の大字大西。

行事は稲荷神社で行われたという。

その火焚き祭の翌日は新嘗祭。

かつては陰暦11月中の卯の日に斎行されていたが11月23日の祝日に移した。

その後に移した行事日は12月初めの日曜日である。

かつて祭事日だった卯の日は当月にいくつかの卯のある日。

決め方は12月に卯のつく日が何かいあるか、である。

月に2回ある場合は最初にでてくる卯の日。

3回あれば2番目の卯の日になる。

今年のカレンダー状況であれば「丁卯」の12月11日が初め。

23日は「巳卯」の2度目にあたる卯の日になるから、行事日は12月23日となる。

年末が迫った日に行わなければならない新嘗祭。

当月の卯のつく日によっては行事日程が大きく替わりわかり難い。

或は今年のように日々の寒さが増し、年末の忙しい時期に被ってしまう。

そういうことがあって改められた行事日を11月23日の祝日に移行したのであるが、現在はそれも移した12月の第一日曜日に改定された。

新嘗祭はその年の新穀感謝祭。



収穫した稲穂を奉納して豊作に感謝する日である。

大西の新嘗祭は稲穂だけでなく特徴ある神饌御供もある。

一つは青豆をすり潰して作ったクルミをたっぷり塗したサトイモである。



県内事例に亥の子のクルミモチがある。

同じようにすり潰した青豆を塗すのであるが、塗すのは芋ではなく搗きたての白餅である。

クルミモチは神社に供えることなく各家が作ってそのお家の人が食べる。

いわば郷土料理であるが、亥の日にするのが特徴である。

11月22日の日にすると決まっている室生下笠間の事例もあれば、秋のマツリに当家のふるまいに亥の子のクルミモチを作って手伝いさんらと食べる事例もある。

区々さまざまな亥の子のクルミモチもあれば細かくサイの目に刻んだサトイモを入れてご飯炊き。

餡子で包んで食べる東吉野村鷲家のイモモチ事例もある。

大西の神饌御供のクルミは蒸して柔らかくしたサトイモに塗す。

もちろんであるが、蒸したり、茹でたりしたサトイモは芋の皮を剥がしやすい。

つるっ、と捲れるので剥がしやすい。

そうしてできたサトイモにたっぷりのクルミで塗すのだ。

青豆クルミは若干の塩に砂糖も入れて混ぜて味付けした。

味付け具合はその年の当番にあたる当家の人が作る。

当番が替われば、また違う味になる家庭の味付けである。

大西ではそのサトイモをやや太めの竹の串に挿す。

個数は3個と決まっているが、芋の大きさによっては2個になっても構わないという。

3個の芋を串に挿したらふと口ずさんでしまうのがだんご三兄弟の唄。

NHK教育テレビの「おかあさんといっしょ」の番組で歌われた今月の歌は大ヒットして日本全国どこでも歌われた。

それはともかく大西のクルミイモは串に挿した状態でどっさりと青豆クルミを塗すように盛る。

ドロドロになったクルミは青豆の香りがほのかに鼻に吸い込まれていくが、神饌に供えるがゆえ、清潔さを保つために透明シートでくるんでいる。

神饌に供える芋串は8本。

昔は50本も作って供えていた。

ちなみに当家が云うにはこの日に供えるクルミイモの青豆はミキサーで挽いて潰したそうだ。

かつてはどこの村でも石臼があった。

その石臼に茹でた豆を一粒ずつ穴に投入して臼の重みで潰す。

豆は完全な状態で潰すことはない。

僅かであるが潰し損ねる。

その食感が口にある。

また、ミキサー挽きあれば熱をもつ。

豆は熱をもつことで味わいが変わる。

私がかつて石臼でしていた民家を訪れたことがある。

石臼を廻す木の棒がない石臼だったから臼そのものを抱くように廻して挽いた。

お年寄りにはキツイ石臼挽き。

いつしかミキサーやジューサーで挽くようになった。

挽く道具が文化的になったが、クルミの味はとても美味かった。

これからの時代には石臼の姿は見ることはないが、味わいは継承されていくことだろう。

クルミイモに字数が多くなった。

もう一つの神饌に話題を戻そう。

三方に盛った左側は八つの赤飯握り。

これを「キョウ」と呼んでいる。

よくよく見れば赤飯一つずつに白いものをのっけている。

これは練った上新粉である。

この神饌は先々月に取材した大西の座祭りにも登場していた赤飯饗であるが、大きさ、形は異なる。

座祭りの場合はお茶碗に盛ってそれを逆さにする。

てっぺんに練った上新粉をのせていた。

今では上新粉で作るが、かつては石臼で挽いた粳米の米粉を水か、湯で練って作っていたシンコと思われる。

シンコは、材料、作り方から推定するにシトギ(粢)である。

さて、これより始まる神事は新嘗祭。

奈良市阪原町から出仕された神職が斎主を務める。

前述した2品の神饌や新嘗祭に相応しい収穫した稲穂付きの新穀に新穀で作られた神社庁指定の白酒(香芝市醸造元大倉本家御用酒)なども供えて神事が始まる。

境内には氏子一同揃って参拝する。



まずは祓の儀である。

神前に参られるのは区長に上老人、当家。

拝殿内で斎行される祭典を撮っているときに気づいた印がある。

切妻造り拝殿屋根の鬼瓦である。

それを支えるかのような様式は龍の姿。



もとより目を引いたのは鬼瓦の文様が牛玉の寶印なのだ。

神事の進行中はずっと見惚れていた鬼瓦の紋様。

これはと思ったのが座祭りに見た幕である。

八王子神社の扁額をあしらった幕にあった牛玉の寶印。

「座」の儀式を行った場は旧極楽寺である。

新嘗祭の祭り場は稲荷神社である。

旧極楽寺より相当離れている地に鎮座する。

八王子神社は旧極楽寺のすぐ傍にあるから旧極楽寺は神宮寺と思っていたが、稲荷神社拝殿にあるような牛玉の寶印はなかったと思う。

見逃していたら申しわけないが、旧極楽寺から見れば稲荷神社は鎮守社にあたる。

そう思ったわけはもう一つの建造物だ。

稲荷神社拝殿脇を固める建造物がある。

それは獅子狛犬ではなく稲荷大明神の神使の狐(眷族)さんである。



右に建つ狐の台座に三つの牛玉の寶印があった。

私はこういう建造物を見たのは初めてである。

県内事例はもとよりこのような建造物は他にもあるのだろうか。



狐は左側にも建つが、台座は牛玉の寶印ではなく、巻物である。

しかも彩色がある。

それもまた珍しい。



さて、神事が終われば、奉った稲穂付きの新穀は拝殿の柱に括られる。

これもまた事例が少ない奉りの在り方である。

そして、一同は参籠所に移る。

上座に座るのは左から区長、神職、一老、二老、三老。四老は右列の上座に座る。

一同、着座されたら区長の挨拶と村の諸事項報告。



続く直会に当家が動く。

ジャコと竹輪は上老人の席に運んで下げたお神酒をよばれる。

半時間ほど過ぎた時間帯だったと思う。

お酒を注いでいた当家手伝いの与力(よりき)が右手に銚子。



左手には四つの猪口をもっている。

これは大字大西の返杯の在り方。

他所でも同じような形があるのかどうかわからないが、はじめて見る返杯の在り方。

その様相に猪口をもつ姿を撮らせてもらった。

与力は酒を氏子らに注ぐ。

注がれた人はぐいと飲んで与力に空になった猪口を渡して逆に酒を注ぐ。

一般的な会社の宴会でも見られる在り方。

私は勤めた会社で30云年間も大宴会でそうしていた。

注ぎ側にまわっても注がれる側になっても返杯を要求した。

ごく普通にみる酒宴の返杯である。

大西は一対一の返杯であるが、数個の猪口を片手の指で挟む人もあれば、猪口重ねをする人もいるのは何故か。

話しを聞けば酒を飲めない人のためにあるそうだ。

つまりは飲めない人が酒のみに頼む。

頼まれた酒のみは一個、二個と増える。

人の数だけ猪口が重ねる。



頼まれた人の分だけ飲まなきゃならんといって猪口が増えるようだ。

笑いが絶えない大西の直会は実に楽しそうに思えたが、飲めない人は逆に辛いのかも・・・。

ちなみに与力は本家筋、或は分家筋にあたる家筋の人たち。

当家にあたる家筋であれば自主的に動く。

与力制度はここ山添村のほとんどの大字がその制度組織化している。

今では奈良市に属している旧月が背村もそうであるし、三重県の伊賀地方にもあるという。

探してみたネット資料によれば、「山添村の多くの大字に与力制度がある。隣村の月ヶ瀬村も同じような組織体がある。この辺りの地方は昔から相互扶助の自主的組織として与力制度を確立しているのである。この制度はいわば同族の本家、分家の組織のようなものであり、一般に“縁者は一代、与力は末代“といわれているほど強固な結合関係をもち、今日に至るまで社会生活の上で大きな役割を果している。旧月ヶ瀬村で与力という言葉を使っているのは大字の石打、長引。また、大字尾山、桃香野では同族共同体を一統の名で呼んでいる。一方、大字の嵩、月瀬では組と呼ぶ。一統の中で誰の与力は何某というように互に与力関係を結んでおり、分家が分れるに従って歴史的に自然に決っていくのである。与力は冠婚葬祭などの場合に万事その家の面倒をみる。紛争が起った場合などは当事者の与力同志が話合い折衝してその解決に当り、その決定には異議なく従わなければならない慣習になっている。即ち部落生活の上においてこの制度は極めて有意義なものとされている。なお、与力は同族の代表としての資格と責任をもち、土地売買、借金等の場合にも重要な証人となることもある」ということである。

直会時間はそれほど長くはないが、合間に拝見した参籠所掲げの古い写真に目がいった。



写真に写る大勢の人たち。

撮影地は稲荷神社境内であろう。

大人の人たちすべてが着物姿のように思える。

ほとんどの人は大正時代にみられる特徴ある一文字麦藁帽子を被っている。

前に大太鼓を据えてバチをもつ白装束の子どもたちも大勢いる。

女性は少ないがいずれも着物姿。

幼女もいる一枚の記念写真は「大正十四年九月吉日に奉納された大字中勇踊實況」である。

今から92年前に記録された「勇踊り」の写真は実に貴重である。

直会が始まってから1時間後に動きがあった。



区長が一枚ずつ氏子に手渡すお札である。

お札は神波多神社の護符。



天照皇大神宮の護符とともにお守りも。

もう一つは神社庁刷りの山辺暦も配布される。

そのころ同時進行する神饌御供下げの鯖も直会〆に配膳される。



二枚におろした焼き鯖は脂がのってとても美味しい。

海苔も果物のバナナも配膳されるころは日暮れどき。



幕締めに失礼して場を離れた。

自宅に戻って神饌下げの芋串と赤飯饗(キョウ)を皿に盛る。

供えていたときは透明シートを被せていたので、どういうものなのかわかりにくかったが、我が家の照明で撮ったらよくわかる。



記録の写真を撮ってからはいただき、である。

そのときの感想を綴ってみれば、こういう具合だ。

フォークで切る。

すっと切れる。

難なく切れる芋串はとても柔らかい。

口に入れたら溶けてしまうほどに柔らかい。

噛む歯はいらないほどに柔らかい。

刺してあった竹串は力もいれずにすっと抜けた。

僅かに塩と砂糖の味もあるが、青豆が勝っている。

郷土料理の味の一つに挙げてもいい料理である。

一方の御供の赤飯饗(キョウ)もよばれた。

ご飯はモチゴメで炊いた赤飯だ。

てっぺんにちょこっとのせていた白いものはシトギの名がある。

シトギだけを口にした。

堅い以前にこの味は、と思った。

それは食べたらすぐにわかる味。

片栗粉のようだ。

シトギの本来は米を挽いた粉。

つまり米粉である。

前述もしたが、シンコ作りは地域によって異なるが、水または熱湯を少しずつ混ぜて練ったもの。

奈良市佐紀町にある二条町氏子の亀畑佐紀神社の行事でよばれたシンコは上新粉で作っていた。

米粉と違ってやや甘い。

私はそう思う。

ところがこれは片栗粉の味。

我が家のかーさんもそう感じながらも食べた。

(H28.12. 4 EOS40D撮影)
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