マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

武蔵町素盞嗚神社祇園祭の中日

2013年10月31日 07時20分03秒 | 天理市へ
この日は祇園祭の中日。

天理市武蔵町の素盞嗚神社を勤める宮座五人衆はこの日も般若心経を唱える。

7日と同じように三巻である。

お供えをする地区は東垣内だ。

拝殿には既にお供えが積まれている。

日が暮れるころ、境内を道標のように設えた提灯に明かりが灯る。

7日にあった七夕飾りは撤去していた。



般若心経の終わりを待ちかねた子供たちはこの日もやってきた。

五人衆に預けていた袋にはお菓子をいっぱい詰めて貰って持ち帰る。

祇園さん仕舞の14日は武蔵町の夏祭り。

お供えをするのは西垣内に替るが、宮座五人衆が営む般若心経は変わりなく行われる。

それより2時間前に始まる村の夏祭りは神社前の多目的広場で開催される。

ヤキトリ、みたらし団子、焼きそば、たこ焼きなどお楽しみ模擬店では集まった村人で賑やかになるという。

外孫も連れてくるから広場は溢れるほどになるそうだ。

アイスクリーム、ジュースにビールまで出店するから大人も子供も楽しめる模擬店は手作り店。

ゲームもするからさらに盛りあがるらしい。

(H25. 7.10 EOS40D撮影)
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イズミフードの唐揚弁当

2013年10月30日 08時21分55秒 | あれこれテイクアウト
イズミフード㈱という会社が大和郡山市の昭和工業団地内にある。

惣菜を作って販売している本社・工場が今国府町にある。

工場がある地域も送迎範囲でときおり通る。

2年前から勤めた送迎の仕事。道中で患者さんと話題になった工場に幟や貼り紙に目がいく。

敷地内のプレハブ施設にも貼ってあったお弁当の販売だった。

スーパーで売っている弁当との違いはどうなのか。

価格はどれぐらいなのだろうか。気になっていた。

販売時間帯はいつも仕事中だ。

休みのときに行けばいいのだが、そのときは気が回らない。

とうとうこの日が巡ってきた。

送迎の便が早く終わった。

試しに覗いてみようと立ち寄ったイズミフードの販売施設。

お弁当を売っているようには見えない施設の扉を開けた。

店員さんが一人おられた。

販売は会社が作っている惣菜や弁当類。

時間は12時をとうに過ぎていた。

売っているのはごく僅か。

なんでも11時の開店前からやってくる人も多く、すぐに売り切れてしまうそうだ。

笑顔で話す店員さんの話しによれば作った惣菜やお弁当は高島屋、大丸松阪屋、近鉄、京阪などの大手の百貨店で販売しているそうだ。

イズミフードの名ではなく「まんてん」、「あうん」、「あんさんぶる」、「こころ」というブランド名だそうだ。

最近では三超伊勢丹店でも直販をするようになったそうだ。

ショーケースに残っていた総菜に目がいく。

なんと80円のラベルがある。

おそらく100gであろう。

他にも130円。高くても198円だ。

近くのスーパーで売っているよりも格段に安い値札に驚く。

スーパーであれば夕方時間になれば割引セールのシールが貼られる。

それよりも安いと感じた総菜は後日にしよう。

今日の目当ては弁当だ。

仕事を終えて取材地に行く。

それまでの腹ごしらえを決めた弁当は350円の唐揚弁当だ。



ご飯には黒ゴマが塗してある。

これを見ただけでもお高い弁当。

直販売だからお安い。

見た目にジューシーそうなカラアゲがこん盛り。

イズミフードの弁当は総菜にある。

盛った惣菜はタケノコ、カボチャ、インゲンマメ、菜のおひたしに煮込みのシイタケ。

出し巻きたまごまである。

キュウリを合えたポテトサラダなど見ためは豪華。

さてさてお味はいかがか。

全般的にしっとりとした、やや控えめのある味である。

ご飯はやや硬めでしっとり感がない。

メインのカラアゲはジューシーさがない。

どっちかと云えばカラカラに近い。

総菜は抜群に美味しい。

タケノコ、シイタケはたっぷり味が染み込んで特に美味しい。

カボチャは甘からずである。

皮は固めで歯ごたえがあるように思えた。

なんといっても美味しかったのが出しまきタマゴ。お汁もたっぷりだ。

これで350円とは驚きの価格。

そう思って完食したが、先日に食べたトライアルのカラアゲ弁当の方が遥かに美味い。

ご飯もカラアゲも店内で作っているほかほか版。

ふくよかでジューシーな弁当は作り立て。

イズミフードの弁当もレンジでチンしたがそうは感じない。

消費期限は夕方4時迄とあるシール。

作った時間は何時なのだろうか。

出来立て、作り立てであれば箸はもっと進んだのでは、と思った。

次回は特別惣菜アウトレットを販売する月曜か金曜の夕方5時に行ってみよう。

何故に月曜、金曜なのか判らないが、大袋入りで販売する総菜は何が出るかは来てみなければ判らない。

徳盛りの惣菜を楽しみにしている人も多く順番待ちになるらしい。

その後、とはいっても平成27年4月27日。

あれから2年も経った日に通りがかったときだ。

販売していたプレハブ施設が消えていた。

事業はやめられたようだ。

(H25. 7. 8 SB932SH撮影)
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武蔵町素盞嗚神社の祇園祭

2013年10月29日 09時30分17秒 | 天理市へ
浴衣姿の男性が歩いておられた天理市の武蔵町。

もしやと思って集落を目指す。

そこには神社があった。素盞嗚神社である。

境内にはずらりと吊るされた提灯の列がある。

提灯道のように設えている。

鳥居の横には老人会の人たちが予め作った七夕飾りがあった。

歩いていた男性は拝殿におられた。

この日の行事は何であるのか尋ねた結果は祇園祭。

例祭には法貴寺宮司が来られるが、祇園祭では宮座五人衆が唱える般若心経をすると云う。

宮座五人衆は座入りした年齢順。

毎年、一人が卒業されて、一人が新しく加わる。

一年巡繰りの宮座五人衆である。

そうして5年間を勤めるという五人衆の中から選ばれるトーヤがマツリを勤める。

神社のマツリは10月15日。

前日の宵宮では法貴寺の里巫女が来られて神楽を舞うと宮司から聞いている。

その地であったのだ。

たしか本祭においても里巫女が神楽を舞う鈴で祓ってくださるようだ。

いずれは再訪したい武蔵町の行事に興味を覚える。

武蔵町は35戸の旧村集落。

北、東、西の三垣内に分けている。

それぞれの地区の人たちがお供えを持ってくると云う。

7日が北垣内で、10日は東垣内だ。

14日は西垣内のお供えに替るが、祭典は毎回唱える般若心経だと話す座中。

戦前までは7日から14日までの毎日が祇園さんだった。

戦後まもないころにあったお供えはオニギリに自家栽培のハランキョ、モモ、マクワなどの夏の果物だった。

祭典を終えて御供のお下がりは子供が真っ先に貰いにくる。

戦後はお菓子に替った。

家の紋が入った提灯を持ってきて神社に並べていたが、いつしか一般的な神社提灯になったものの、壮観な姿はあまり変わらないらしい。

今では第三土曜、日曜だけになった田原本町の津島神社の祇園祭もかつては7日から14日の毎日であったと聞いている。

かつては祇園社と呼ばれた津島神社もそうである。

県内、郡山市内の祇園祭を調べていけば、すべてではないが、牛頭天王社の祭りとする祇園祭が行われているような気がした。

江戸時代の神社名は牛頭天王社であった武蔵町の素盞嗚神社。

境内にある燈籠に「牛頭天王 元禄十□(一若しくは六であろう)年五月」とある。

神宮寺になる長福寺は真言宗豊山派。

天正年間(1573~)における松永久秀兵火によって焼失したが、元禄時代(1688~)に再建したと伝わる。

燈籠はそのときに建之されたものであろう。

もう一つの燈籠には」「川東村武蔵」とある。

狛犬は「安政二卯年(1855)十一月建之氏子中」とある。

また地蔵大菩薩の燈籠もある。

それには寛保二年(1742)の刻印があった。

武蔵町を抜ける街道は橘街道。

戦時中は鳥居辺りから出征していた。

焼夷弾が落とされて1軒の家が焼けだされた歴史をもつ武蔵町。

素盞嗚神社拝殿には鉄錆びたロケット弾がある。

武蔵町より東側には柳本飛行場跡がある。

そこからは戦闘機の機銃掃射の弾がザクザクと出たという。

その話を聞いて思い出した送迎者の思い出話し。

矢田に住むⅠ婦人は「学徒動員で柳本飛行場へ毎日出掛けてモッコ担ぎしていた」と云っていた。

額田部住民のYさんは「尋常小学校(小学6年生)のころに柳本飛行場の整地に動員された。近くの農家に置いたモッコとオーコで土運び。整地は人力でローラーを引いた。予科練の人がいて、出撃(特攻隊)に出るときには挨拶してはった。知覧やと思う。戦争に出征するときに片桐の小泉神社に参って竹串に挿したヒトカタを富雄川に流した」と云っていた。



戦時中の件はともかく七夕さんの飾りつけを作っていたのは参拝に来た浴衣姿の姉妹。

小学三年生と幼稚園児の二人の願い事は「もっと絵がうまくなりますように」、「おいしいマカロンが食べられますように」である。

お姉ちゃんは漫画イラストをもっと上手く書きたいと笑って応える。

妹が何時知ったのかマカロンの味。

「家ではまだ食べたことがないのに、どこで知ったのやら」と一緒にいた母親がそう話す。

短冊をもっと長くしたいと云ってわざわざ家まで取りに帰ったおねえちゃん。

愛くるしい二人の会話が境内をにぎわす。

時間ともなれば空っぽの袋を持ってきた。

受け取るのは宮座五人衆である。

般若心経を終えればお供えを貰うことができる。

それを入れていただく袋なのである。

ベビーカーに赤ちゃんを乗せた母親もきた。



上の子は男の子。母親とともに手を合わせる。

家ではいつもそうしているから自然体だと話す母親。

愛おしさを感じる村の子どもたちに感服する。

そうして始まった五人衆による般若心経は三巻。

いぜんは五巻も唱えていたと話す。



沈む夕陽が拝殿を照らす。

掲げられている明治三十八年十一月に奉納された絵馬は日露戦争旅順攻撃占領図。

當村の若連中が寄進したものだ。

他にもたくさんの絵馬がある。

ほとんどが武者絵である。

心経を終えたら再びやってきた子供たち。

袋に入れたお下がりの御供を分けて貰って帰る。

その後は御供の箱を開けてお菓子やジュースなどの飲み物を家数に分ける五人衆。

けっこうな時間がかかる作業である。

分けたころにやってきた御供した北垣内の人たち。

氏神さんに供えた御供は村人がありがたく貰う。

昔ながらの良き風情を保っている武蔵町の行事を拝見して村の温もりを感じたのであった。

(H25. 7. 7 EOS40D撮影)
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椎木町杵築神社祇園さんの御湯

2013年10月28日 07時42分39秒 | 大和郡山市へ
祇園さんの祭りを行う神社はほぼ間違いなくかつては牛頭天王を祀る神社であろう。

大和郡山市の椎木(しぎ)町に鎮座する杵築神社もかつては牛頭天王社と呼ばれていた。

江戸時代までのことである。

同市内で祇園さんの祭りを行っているのは小林町の杵築神社、横田町の和爾下神社である。

いずれも7日に祭事されている。

14日に行われているのは新木町の新城神社、丹後庄(たごんしょ)町の八雲神社、池之内町の八幡神社である。

矢田町の八坂神社(東明寺境内社)はかつて14日であったが、近年にはその日に近い日曜日に移った。

また、15日の小南町の小南神社や16日に行われている満願寺町の古田神社もある。

なかでも特徴的なのが里の巫女による御湯神事である。

新城神社、八雲神社は前日の宵宮に。

八幡神社、小南神社、古田神社は当日に、である。

いずれの神社もかつては牛頭天王、或いは素盞嗚命を祀っている。

椎木町では西地区の厳島神社で行われる9月の弁天さんの御湯もあるが、東地区の杵築神社では7月の祇園さんである。

筒井町に住む宮司による神事が始まった。

祭典の場は本殿と拝殿の間の長床である。

祓えの儀、神饌の献饌、豊作祈りの祝詞奏上、玉串奉奠など厳かに行われる。

かつては神饌を本殿前に供えていた。

その間は参籠所で待機する二人の当屋。

「たいらけく かしこみ」申されて神事を終えれば、御湯に移る。

御湯の作法は市内若槻町在住の里の巫女さんが行う。

湯釜は新しい。

プロパンガスで湯を沸かす手伝いさん。

年中行事によって何回か回ってくるという手伝いさんは二人。

お嫁にきて2日目、姑さんがしていたのを拝見して以来だと話す。



いつものように静かな作法に神事らしさを感じる。

本殿前の回廊に座する座中、自治会長らが見守るなか、淡々と進められた。



御湯を終えれば一人ずつ「身体堅固」。

夏病みをしないようにと巫女さんがありがたい御湯で祓ってくださる。

(H25. 7. 7 EOS40D撮影)
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海知町倭恩智神社祇園祭の七夕立て

2013年10月27日 08時38分50秒 | 天理市へ
この日は七夕でもある。

飾りつけをしている村々を探した結果、天理市の海知町・武蔵町が見つかった。

いずれも祇園さんの日であるが、子供会が立てる七夕飾りとの関係があるのか、ないのか判らない。

この画像は海知町の倭恩智神社境内の樹木に縛って立てた七夕飾りである。

この日の晩は倭恩智神社の祇園さん。

本殿には提灯を掲げて門扉も開放。

何時でもお参りができるようにしている。

後日に聞いた話しによれば19時半ころに集まって般若心経を三巻唱えていると云う。

神社の前には大きな池がある。

海知池(小字は油田)と呼ぶそうだ。

その池に来られたご家族。

手には麩を持っている。

池にばらまけばたちまちのごとく寄ってくるカメの群団はミシシッピアカミミカメだ。

頭の両側にひと筋の色。

象徴的な文様はアカミミ。

餌の麩を池に放つ子供たち。

押し寄せるカメに圧倒される。

数えて見れば80匹ぐらいも。

岸辺に上がって餌を食べるカメの動きに圧倒された。

隣村になる遠田町に住む男性の話では南側はもっと多いという。

(H25. 7. 7 EOS40D撮影)
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鍋屋町弁財天の宵宮

2013年10月26日 07時59分37秒 | 奈良市へ
奈良市鍋屋町においても弁財天の行燈が掲げられていた。

初宮神社本社の傍らに祀る社殿は弁財天。

数個の大きな岩を積んでいる。



それがイワクラの弁財天だと話す初宮講の役員さん。

講中は26軒。

この日の15時には春日大社の神職が来られて宵宮の神事を執り行ったそうだ。

通りがかりの人たちは興味しんしんで写真を撮っていたそうだが、それは巫女さんの神楽舞である。

福引も用意した講中。

夜八時ともなれば参拝者も訪れず宵宮に灯した提灯も下げた。

その直後に降ってきた雨は雷も鳴りだした。

(H25. 7. 6 EOS40D撮影)
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坊屋敷町弁財天の宵宮

2013年10月25日 09時23分15秒 | 奈良市へ
『奈良惣町中諸事覚帳』に記された享保十四年(1729)の坊屋敷町(ぼうやしきちょう)の役家数は22軒だった。

町内の北側は奈良女子大学。

そこは南都奉行人の屋敷跡があったそうだ。

昭和57年に遺跡を発掘調査された奈良女子大学構内。

慶長八年(1603)から九年にかけて掘ったとされる「惣講ノ掘」。

その堀の一部がかかっていた坊屋敷町。

初期の奈良奉行所に任ぜられた中坊氏の旧住居(屋敷跡)に由来すると思われる。

都市部と云ってもいいほどの奈良市の町内を通り抜ける道筋は昔も今も変わらず狭く一方通行の標識に従って車を進めなければならない。

坊屋敷町もその一つで現在はマンションなど新町も増えて45軒になった。

町内の家々には「家内安全 弁財天」の行燈が掲げられている。

この日に行われる「弁財天」の祭りを示す行燈である。

ローソクを灯すのは日が暮れてからである。

坊屋敷町弁財天は氷室神社の末社の一つ。

それより数時間前、弁財天の宵宮に氷室神社から神職がこられて神事が行われる。

発掘調査資料に記された概観図がある。

それによれば近世の町名は田中町で、坊屋敷町はそれより西側にあった奉行所西の法蓮道に沿った南北縦長の町であった。

地図で確認すれば弁財天社は旧田中町内にある。

子供が多くいた時代は翌日の7日も祭りであった。

町内運営の金魚すくいに集まっていた。

弁財天の祭りが終われば夏休み。

それまでは期末試験の真っ最中。

梅雨の半ばは大雨が降ることもなかったそうだ。

宵宮のお供えは自治会や各家から持ってきた。

スイカも供えている。

昨年は氷室神社からの献氷柱もあったそうだ。



町内10数人が集まって神事を見守る。

祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠など神事を終えても参拝者が訪れる。



小雨だった雨も止んだ。

(H25. 7. 6 EOS40D撮影)
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海外で金銭・カード紛失

2013年10月24日 15時16分28秒 | ぽつりと
携帯電話が鳴った。

いつもの連絡であろう。

鳴ったのはかーさんの電話だ。

遥か彼方のニュージーランドからの便りは次男の声。

自転車で闊歩している際に気がついたポケットのサイフ。

いつ、どこで落としたか判らないという。

サイフの中には働いて稼いだ金銭が30万円ほどらしい。

外貨でいえばいくらになるのか知らない。

サイフには銀行カードとクレジットカードも入っていたそうだ。

金銭は仕方ないが、カード類は危険状態。

いつ使われてしまうか、緊急の対応に迫られる。

申請後に受け取っていた通知書を探しまわった。

それがなければ番号が判らない。

暑い部屋を這いつくばって探した。

そうした書類はいろんな処に保管している。

あっちこっち探して見つかった。

そうして連絡するクレジット会社の窓口コール。

事由を伝えてカード利用の停止。

本人確認は契約者の私だ。

今のところの記録では金額操作をした痕跡はないと窓口担当者は云った。

まずは一安心であるが、たとえ親子、家族であってもカードの貸し借りはしてはならないという。

そんなやり取りがあったが、契約者確認を認めてもらって停止した。

加盟しているVISAも同時に停止する。

再発行カードはおよそ一週間以上で自宅に届けるという。

一つの対応を終えて銀行カードも直ちに行う。

カードは次男の口座。

こちらから対応するにもパスワードが要る。

スカイプを繋げて知る本人情報。

これも難なく対応を済ませたが、生活費はどうするのだ。

なにもかもなくせば一文無し。

生活はできないと思ったが、うん十万円はあるという。

それぐらいの金銭があればどうにかなる紛失騒ぎ。

今後のために海外へ金銭送金する手段を調べてみる。

たしかセブンイレブンでいけるような気がした。

日本のコンビニから海外のコンビニへ、である。

あるにはあったが、セブン銀行の口座が必要なことが判ってきた。

送金先はセブン銀行が提携しているウエスタンユニオン。

海外200カ国、48万カ所で受け取ることができるようだ。

方法はいたって簡単。

送金した際に出力される番号。

その番号を伝えて本人が海外で拠出できる窓口で同番号で引きだす。

もちろん外貨通貨に変換される金額であるが、送金額によって手数料に幅がある。

もう一つの手法は海外で銀行口座を設ける方法だ。

これが一番判りやすいし、手数料も少額だ。

どれにするかは次男と相談して上で決めよう。

(H25. 7. 5 記)
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かつてあった信貴南畑の弓打ち

2013年10月23日 09時48分46秒 | 三郷町へ
平成13年ころまで存在していた信貴南畑素盞嗚尊神社の宮座。

一老から十五老までの十五人である。

4月初めぐらいであった弓打ちの名残が拝殿に残されている。

毎年作っていたと思われる弓は竹製だ。

弓打ちの場は神社本殿の裏側。

ちょっとした広場であった。

弓打ちは一老が指名した若い人はたいがいが十五老。

裃に着替えてから刀を持って踊った。

踊ったというよりも舞であったかも知れない。

弓打ちをする前に「コン」をしていたと云う。

「コン」と云うのは若い人に酒を飲ますことであると云うから充てる漢字は「献」であろう。

「コンせー コンせー」とせがむ一老。

その声があがれば酒を飲まざるを得ない。

「なんかやったらコンしよ」と云われて飲んだ。

「全部せなあかん ごくろう」と云われるまで飲まなければならなかった若い座中。

「ただいまから行ってきます」と一老に伝えて弓と矢を持って広場に出向いた。

その途中で声を掛けられる一老の「コン」。

素焼きカワラケのような盃は小さかった。

カワラケを持つ人も若い人だった。

何段も積んでいたというカワラケは数枚の盃であったろう。

始めに「コン」。

向かう途中でも「コン」に飲んでいた酒である。

十五老は矢をもち、十四老が弓を射る。

「今年はどっちの方角や」と云ったことから、毎年方角が替る恵方の方角であったかも知れない。

矢は5本ぐらいだった。

裃姿の若い二人は東西南北の四方に向かって頭を下げる。

所作前の一拝であろう。

その年の方角には鬼の的を置く。

1.5mぐらいの四辺形の的は竹で編んでいた。

半紙を張って中央に三重丸を描く。

中心の円は真っ黒に塗った。

それが鬼の的であった。

最初に東西南北に矢を打つ。

山の方に飛んでいった矢を取りにいったのは子供たちだ。

取りあいになったぐらいに競争が激しかった。

的辺りに待機していた子供は直ちに走っていく。

2本の矢を手にした子供もいたが、分け合った。

それが楽しみだったと話す村人たち。

その矢は一年間も床の間に飾って奉ったと云う。

最後に打つ方角は、「今年の鬼はこっちやな」と指示があって弓を射った。

災いが村に入ってこないようにという願いの方角が恵方であったのだろう。

村を流れる川がある。

「ドンド」と呼ばれる辺りにはオオサンショウウオが生息していた。

手で掴んでいたと云う。

その川の名は「サネモリガワ」。

充てる漢字は「実盛川」だ。

ウナギやケガニ、サワガニ、カワエビがどっさりいたという。

アカハライモリが居たのは川を下った「トックリ池」だ。

今ではブラックバスが増えてバス釣りする若者を見かけると云う。

信貴山下にはダイモンダムがある。

元々堰きとめていた土手を郡山土木が工事して近代的な人工物になった。

堰きの木材は発掘されて年代測定法で判った80年前の造りもの。

そんな話題を話してくれた直会の場。

ありがたいことである。

南畑に多い名字に「実光(じっこう)」がある。

それは前述した川の名の「実盛」と関係があるのかも知れない南畑にはかつて鉄道が走っていた。

信貴山門から高安まで。山の上を電車が走っていたと云う。

村の歴史は近代の話題。昨日に拝見した「南畑歌舞伎一座」や「外のお大師さん」を聞きそびれた。

かつて大晦日に正月の土まきをしていたと県立民俗博物館の鹿谷勲氏が報告する。

東垣内は地蔵さんで西は宮さん。

掘った土は自宅ニワ(家内の土間)に撒いていたそうだ。

(H25. 7. 2 EOS40D撮影)
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信貴南畑素盞嗚尊神社ハゲッショの御湯

2013年10月22日 09時05分04秒 | 三郷町へ
生駒郡三郷(さんごう)町信貴南畑(しぎみなみはた)に鎮座する素盞嗚尊神社。

鎮座地の小字は宮山である。

事後承諾してもらった集落センターに駐車して神社を目指そうとした際に見かけた二人の婦人。

尋ねた結果は「今から始まるのでそこへ向かう」と云う。

ついていった神社には村人が居られた。

この日に行われる行事はハゲッショの御湯である。

信貴南畑は堺・大阪から峠を経て奈良に向かう旧街道にある。

流行り病いは八尾、柏原を経て峠を越えてやってきそうだった時代のこと。

イボ地蔵さんに祈願しればたちまちのごとくピタリと留まった。

大阪の病いが山の上で守ってくれた地蔵さん。

村に流行り病いが入らないようにしてくれたありがたい地蔵さんだと話す村人たち。

集落から南にある長閑な山の中にある。

その場は、昭和55年に奈良県の農地政策の一環として造成を受け、会社組織で運営する「㈱農業公園信貴山のどか村」で、2体もあると云う。

峯のダケと呼ばれる城跡にある地蔵さんがイボ地蔵。

イボはホウソなどとも云われてきたデキモン。

願掛けの地蔵さんだとも云われている。

もう1体の名がお告げ地蔵。

この地蔵さんが侵入する流行り病いを村に入れなかったという。

2体の地蔵さんを拝見するには「のどか村」に入らなければならない。

もちろん入場料はいただいていると話すのは経営者のOさんだ。

代々伝わる過去帳によればO家の始まりは370年前。

そのころ、既に村があったという証しであると話す。

平成13年までの信貴南畑では宮座があった。

それから数年後、宮座を解散されて自治会運営になった素盞嗚尊神社の年中行事。

田植えを終えれば「ケツケ休み」。

ナエダンゴを作った。

苗を三つ寄せて真上にキナコを塗したオハギを乗せた。

オハギは餡でくるんだオハギだったと話す婦人たち。

田植えを終えた後日、雨が降り続ける日であれば「ジュンキ(順気)ヨロコビ」。

天気が良かったら「アメ(雨)ヨロコビ」。

「今日はアメヨロコビや」と云って村をふれて回った。

「今日はケツケ休みやから宮さんに集まってくれ」とも伝えていた。

60、70年も前のことを思い出して話す長老たち。

当時は半鐘を叩いて村中に知らせていた。

宮さんのお供えは重箱に詰めた家の料理。

ズイキイモやエンドマメ、ソラマメを炊いた煮もの。

乾燥したコクフマメは水でもどして柔らかくなれば炊いた。

「なんにしてもコクフマメを手で受けてよばれていた」と話す。

受け皿は樹木の葉っぱだ。

子供のころにはそれが楽しみで貰いに出かけたと云う。

この日の行事はハゲッショの日で御湯を焚かれる。

ケツケを兼ねたハゲッショ(半夏生)の行事には、県内では珍しく、大、中の二つの湯釜を四方竹に囲った斎場に設える。

その場は本殿下の狛犬の前だ。

御湯の作法をする三郷町立野(たつの)在住の巫女さんもそう云う。

シバを燃やして湯を沸かす当番の人。

信貴南畑は七つの組(班)に分かれている。

それぞれの役員(組長)が年中行事の当番にあたる御湯の行事である。

生駒郡三郷町は、かつて平群郡南畑村、立野村、勢野(せや)村の三カ村であった。

明治22年(1889年)に三カ村が合併して三郷村(みさとむら)となった。

町制が施行されて三郷町(さんごうちょう)に改称したのは昭和41年(1966年)のことである。

三郷町立野の巫女さんが出仕する地域は三郷町をはじめとして、平群町、川西町、大和郡山市一円におよぶ広大な範囲だ。

大、中の大きさの湯釜は古いものであるが、刻印は見られない。

はじめに大きな釜で御湯をされる。

蓆を敷いた場に座る巫女さん。

一拝して塩を撒く。

小幣を左右に降る。

ポン、ポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上する。

そして湯の上から撒き散らすキリヌサ。

立ちあがって幣を振る。

その幣を湯に浸けて掻き混ぜる。

「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。

「みちのふどうのまつの大明神 この御湯にのり遷し のりかわし」勧請を申す。

「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。

勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転する神楽を舞う。

2本の笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき いずくの国より 天より降りたもう」と告げる。

湯に浸けて上下に動かす笹の葉。



もうもうと立ちあがる湯のけむり。

「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。

それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。

そうして湯に浸けた笹も手にして舞う神楽。

先ほどと同じように左、右、左に一回転する。

御湯の作法を終えた2本のクマザサの葉は右狛犬の胴体の下辺りに挿し込む。

2回目の御湯の場は中くらいの湯釜の前に移った。

大きな湯釜で祭祀した御湯作法と同じく、ポン、ポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上する。

キリヌサを撒く。

お神酒を注ぐ。

幣で湯を掻き混ぜて御湯の祝詞を奏上する。

神楽を舞って笹を湯に浸ける。

信貴南畑の地に神さんを降りたまい、四神に受け取っていただく。

湯に浸けた笹も手にして舞う神楽も同じ作法である。

執ったクマザサは左の狛犬に置く。



それがどういう意味であるのか、巫女さんも村人も存じない。

そして3回目の御湯が始まった。

次の場では大きな釜に戻った。

幣を振ってポンポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上し、キリヌサを撒く。

お神酒を三滴おとして清める。

幣を振って湯に浸ける。

神さんを勧請して湯を掻き混ぜる。

神楽を舞って笹を湯に浸ける。

「いずくの国より 天より降りたもう」と告げて笹を上下に動かした湯のけむり。

それが神さんの姿であると以前に聞いたことがある。

四神の受け取っていただき、笹を湯に浸けて作法する。

何度も何度も繰り返す作法である。

触れ合う笹と湯の音が混じり合う御湯の作法に心が洗われる。

そうして四神に向かってそれぞれ「元のおやしきに送りそうろう おさめそうろう おんなおれ」と告げて神楽を舞う。

本殿下でシャンシャンと神楽を舞う。

続けて左に鎮座する末社に向かっても神楽を舞った。



最後に「もろもろの穢れを祓えたまえ きよめたまえ」と参拝した一年交替の組当番と自治会長ら、一人、一人に御湯で浸けた笹と鈴・幣で身体堅固を祓っていただく。

実に丁寧な御湯の作法である。

祓ったクマザサは右の狛犬に置いた。

昔は祓い清めた笹を飼い牛に食べさせたと云う。

最後に一拝されてハゲッショの御湯を終えた。

御湯の儀式が終われば拝殿に登る。

窓際にローソクを灯して始まった神楽の舞は二本の剣を持つ。

その際には長老が太鼓をドン、ドン、ドン、ドンと打って調子をとる。

単調な打ち方であるが心地よい音色だ。



その音に合わせるかのように剣を交差する神楽の舞である。

鈴も手にして舞う神楽を終えれば一人ずつ祓ってくださる。

「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓えたまえ、清めたまえ」と鈴を振って祓う。

丁寧な作法に頭の下がる思いがする。



素盞嗚尊神社の拝殿は真新しい。

平成13年10月2日に竣工した拝殿はそれまで建物を壊して新しく建て替えた。

総額が計算できないほどの高額な建て替え費用。

寄付のほとんどがその年を最後に解散した宮座中であったと云う。

増えも減りもしなかった村の全60戸が宮座でなく、特定家筋の15戸であったと云うだけに賄った寄付額を分担しあった1戸あたりは相当な額である。

昭和四年に県内各地の宮座を調べた『大和国神宮神社宮座調査』によれば、当時の宮座は28戸であった。

十数年間の経過で大幅に減少したのであろう。

Oさんの祖父が顕在だった頃に聞いた宮座入りの話し。

座に入れてくれと願った家には注文をつけた。

「家屋敷より宮さんまで、米俵を繋げよ」である。

その家は何俵も繋げて宮さんまで繋げた。

その状態をみて座入りを断った。

知恵を働かして米俵を縦に繋いだのである。

繋いでくれと頼んだのは横に並べる形であった。

縦と横では相当な開きがでる米俵の繋ぎ方であったから却下したというのである。

(H25. 7. 2 EOS40D撮影)
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