マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

的野の宵宮ジンパイ

2014年02月28日 08時02分24秒 | 山添村へ
昼の膳をいただく頃に到着した注文品。

会所に揚げる提灯が届いたのだ。

神社御神燈を見本にして作ってもらった新たな提灯。

当家の証しにと考えて掲げたのである。

改正後に初の場となった会所の出入り口に葉付きの笹竹を立てて注連縄を張った。

これもまた、当家の証しに、である。

出発までは1時間余り、談笑する余裕すら感じる昼の膳をよばれたあとは渡人の衣装替え。



着付けは婦人の仕事であるのはどことも同じようだ。

「オトコ結って難しいんだわ」と云いながら着付けをしていく婦人たち。

正装となる素襖に烏帽子を被る。

慣れない姿で一列に並んだ渡人。



何度も何度も繰り返して作法を覚える。

いよいよ出幸である。

始めの行き先は氏神さんを祀る八幡神社。

一老を先頭にお渡りをする。

その距離と云えば10mほど。



あっという間に着いて鳥居を潜る。

神社拝殿前で一礼をした渡人は拝殿に登る。

拝殿は峰寺六所神社の拝殿と同じような場である。

座る位置も決まっている。



二老の「弓」、五老の「グワシャグワシャ」、八老の「小鼓」を奉納する。

これを「立ち舞い」と呼んでいた。



その様子を見守る手伝いの親戚筋は記念に写真を撮っておられた。

六所神社へ到着する時間は決まっている。



その時間に間に合うように出発する時間を調整する渡人は余裕さえみられる表情になって腰を下ろす。

満願の笑顔はお参りを済ませてから、半分残して出発した。

8人の渡人は決まっている道具を持つ。

一老・二老は弓、三老・四老はグワシヤグワシヤ、五老は笛、六老は太鼓、七老も笛、八老が鼓である。

お渡りは歩いて出向く。

向かう地は的野の地区。

八幡神社が鎮座する南垣内から川沿いの下出、上出の下、大谷出までのお渡りだ。

南北朝時代の作とされる不動明王の磨崖仏がある傍を通っていく。



下駄の音に混じって鳴りものの音色が村に届けば、何人かの村人が見送ってくださる。

大字的野から大字峰寺の六所神社までの徒歩時間はおよそ40分もかかる。

大谷出からは民家も見られない。

前年に当家を勤めた外れ地の峰寺からは急こう配の峠道。

ずいぶんと遠いことから車に乗って移動する。



降りた場所は峰寺の六所神社の付近だ。

六所神社に着いた渡人は鳥居下で横一列になる。



まずはとジンパイをして、清めの手水にもう一回。

そして石段を登る。

拝殿前で拝礼をするとともにジンパイをする。

三カ大字の宮総代らが集まっている長屋(会所とも)の参籠所を登る。

菰を敷いた席に座って頭を下げる。

「宵宮でお渡りしました」と挨拶、口上を述べてから肴とお酒が運ばれる。

肴の料理は鶏のカラアゲ、カマボコ、コーヤドーフ、コンブ巻きに大きな豆の五種。

例年通りの肴である。

酒を飲むなどしばらくは宮方の慰労の時間。

お神酒をいただき、一同は「ご馳走さまでした これよりジンパイをさせていただきます」と伝えて披露する。

これも神事における一連の作法であろう。

こうして三カ大字の宮方に披露をされたあとは拝殿前で一礼・立ち舞いのジンパイを3度捧げて登る。

拝殿中央を空けて着座した渡人たちはジンパイの奉納に移る。

拝殿に座る渡人の位置は決まっている。

神さん側から見た順に右から一老・二老の弓と三老・四老のグワシャグワシャ。

左側には太鼓、二人の笛、鼓となる。

一老は「ジンマイ(ジンパイ)を奉納させていただきます」と口上を述べて作法をする。



これまで会所で練習を重ねてきたジンパイ。

弓、グワシャグワシャ、鼓の三役は心を込めて神さんに奉納する。



拝殿前で一列になって仕舞いのジンパイで締めた。

こうして宵宮の奉納ジンパイを終えた渡人たちはお渡りをしてきた山道を戻っていく。



鳴り物を鳴らして作法をしながらである。

峰寺の住民も手を合わせて見送ってくれる帰還は行きと同じように車で戻っていった。

会所に着けば廊下側から上がる。

決して玄関からは入らないのである。

その夜は当家がもてなす夜の膳。



慰労を込めて盛りつけられた膳で会食する前にお礼を述べる総代。

村の改正をもって初めての場となった経緯も伝えられた。

(H25.10.14 EOS40D撮影)

的野の宵宮渡人

2014年02月27日 07時54分27秒 | 山添村へ
山添村大字峰寺に鎮座する六所神社。

同社にジンパイの名がある田楽を奉納する3カ大字は松尾、峰寺、的野の順の廻り。

一年ごと、毎年替ることから当家制度やジンパイの在り方調査は3カ年を要する。

いずれの大字であっても宵宮は10月14日でマツリは15日だ。

大字松尾の巡拝宵宮およびマツリは平成23年に取材した。

次の年を受け持った大字峰寺の宵宮およびマツリは平成24年に取材した。

ジンパイを奉納するのは各大字の村人が勤める渡り衆。

いずれも8人で構成されるが呼び名が異なる。

松尾は要人、峰寺は豊田楽人で的野は渡人である。

田楽のジンパイの名称も異なって、松尾・的野が神拝で、峰寺・的野はホーデンガク(奉殿楽或いは豊田楽とも)である。

この年に当たっていた当家は7月に家人が亡くなった。

次の当家が受けることになったが、身体が不自由な身を理由に断りかけた。

8月の村の総会で決定した場は村の会所(的野多目的集会所)である。

会所であれば、襖・障子・畳の張替をせずに済む。

揃いの椀も座布団も不要となるから助かるという具合だ。

会所がある地は廃寺常照院跡。

数々の石仏が見られる。

窓越しに拝見した石仏群の向こう。

ご婦人は採れた作物を天日干ししていた。

既に会所に移している隣村の大字北野、桐山に倣ってであるが、奈良市の別所町もそうしたように、今後は増えつつある当家家に見合った会所利用である。

当家家の接待も簡略化してパック詰め料理に移した。

費用も半分ぐらいにして負担感を減らした。

手間がかかる御幣の竹伐りは3人の宮総代が下支えするようにしたと総代から聞いていた。

大字的野は下出、上出(上・下)、大谷出、南出、出屋(敷)の6垣内。

それぞれの大字から選ばれた渡人は宵宮の日の朝に集まった。

渡人役は、戸数から算定しておよそ10年の廻り。

10年もの間隔もあればすっかり作法を忘れていると云う。



朝一番に行われた儀式は「シモケシ」だった。

渡りをするにあたって、酒を一杯飲んで身体を清める意味がある「シモケシ」には一品とお菓子。

それで祝いの酒をいただいたようだ。

渡人の装束は会所の壁や窓辺りに掛けている。

早速とりかかった作業は御幣・笛作りに烏帽子の赤紙付け。

本来は翌日に御幣を作るのであるが、前年の峰寺同様、一挙に作業を進める。

アマツコと呼ばれる竹を3本揃えて御幣の心棒にする。

3枚の日の丸扇を水引で括って取り付ける。

赤と白色の奉書指定の大きさに切って御幣を作る。



ひもろぎの麻緒とともに括りつける。

赤紙は冠と呼ぶ烏帽子に取り付ける。

横笛は枯れた竹。

指定の寸法に合わせて切断する。



二穴を刳り抜いて笛にする。

音を出すのに苦労する五老と七老。

何度も何度も吹くので頭がくらくらすると云う。

三老・四老の道具はグワシャグワシャ。

竹編を揃えたササラとも呼ぶ道具は折りたたむようにして鳴らす。

その音色からガシャガシャと呼んでいたのは松尾の渡り衆だ。

笛はこういう具合にすれば鳴ると云って八幡神社の前でいとも簡単に鳴らしていた三老の姿は誇らしげだ。

鼓は、左の手で持って右の肩におき、ポンと右手で打つ。

太鼓はバチで打つ。

例外もあるようだが、バチで叩く楽器の牛革を張る。

手で叩くものは馬革を張るとされるのは、馬の革は牛に比べて繊維が3倍ほどもあって、耐久性に優れているらしく、薄くても張りのある音が出るようだ。

そういうわけで六老が打つ太鼓はドーンであるし、八老が打つ鼓はポーンと鳴るのである。

鳴りもの道具は以上であるが、アマツコと呼ぶ竹を細く割った道具もある。

松尾・峰寺ではヒワヒワと呼ぶ細い竹は的野では弓と呼び、一老と二老は鳴りものの音に合わせて弓なりに曲げる作法をする。

そういった道具作りや鳴りものの音を確かめた渡人は所定の並び位置に座って音合わせをする。

「ジンパイ」を的野では「神拝」の字を充てているがが、ときおり「ジンマイ(神舞)」と呼ぶ人もおられる。

舞いを演じる人は決まっている。

二老の「弓」、五老の「グワシャグワシャ」、八老の「小鼓」の3人だ。

舞いは2回。始めに扇を右から左へと仰ぐように時計回りに三周しながら作法をする。

その際には役目である弓、グワシャグワシャ、小鼓を小脇に挟んで作法をする。



次は同じく扇を右から左へと仰ぐように反時計回りに三周しながら作法をする。

その場合は、持つ道具を演技の中央部に置いて回る。

1番目の回りは扇で掻きだすように煽ぐので邪気の払い。

2番目の回りは半時計回りになるので、福を呼び込んで招き入れるという意味がある。

所作を見守っている婦人たちは当家の親戚筋。

なにかと忙しい手伝い役である。

始めて、或いは2度目の演技作法に戸惑いながらも形ができあがってきた。

こうした作法を指導されていた前年に渡り衆を勤めた峰寺のMさん。

これまで拝見してきた松尾、峰寺では長老がその指導にあたっていたが、この年の的野のジンパイでは当家の親戚筋だった。



平成8年に八老を勤めたYさんも優しい目で見守る。

隣村の勝原から来られた親戚筋のMさんにとっては初めて見る所作。

勝原にはこのような田楽の所作は見られない。

ひと段落して昼の膳に移った関係者一同。



当家がもてなす摂待料理をいただく。

渡人をもてなす昼の膳はパック詰め料理。

「あんたの分もあるから食べてや」と云われるが遠慮するもの。



かたくなに断るも奨められた昼の膳は的野より南下、8kmも離れた地の都祁白石にある辻村商店さんが作った仕出し膳。

これが実に美味しい。

当家さんの振る舞い接待をありがたくいただいたのである。



手伝いをしていた婦人たちも別室でいただく。

晴れやかな舞台に裏方の婦人たちの嬉しそうな顔、美味しい膳に笑顔が溢れる。

(H25.10.14 EOS40D撮影)

別所町六社権現の宵宮祭

2014年02月26日 07時25分43秒 | 奈良市(東部)へ
奈良県庁の『宮座調』によれば、奈良市別所町は添上郡東山村にあり、宮座があった。

大字に居住する氏子の17歳以上の男のなかで最年長者が神主を勤め、次の年長者二人とともに神事を行うとある。

當人は氏子の年長者が歳の順に4人がなる。

座中の親父さんが亡くなれば、一旦は座を外して出当(でとう)となる。

服忌期間を空けてあらためて座に入る入当(いりとう)に儀式を伴う。

そういう作法をして座につく(参列する)ことができる別所町のマツリ。

数年前に二老から伺っていた六社権現のヨイミヤマツリは宵宮祭とも呼んでいる。

大当家家で氏子がヨバレをしてからお渡りすると話していたが、摂待がたいそうになったことから当家家ではなく、金刀比羅神社の社務所に場を替えた。

別所町の戸数は22戸。

以前は25戸もあったが、少なくなったと云う。

注連縄を張った笹竹を立てた神社社務所。

場は替ったが大当家の印しに氏子たちを迎える在り方は替らない。

日が暮れた時間帯は一段と気温が下がる。

境内にはとんどの場を設けていた。

宵宮祭の座に出仕するのは4人の当家。

一番当が大当家で、二番当・三番当・四番当の3人がつく。

年齢順の一番当、二番当、三番当、四番当である。

時間ともなれば社務所にやってきた氏子たち。

二日後に百歳を迎える長老は上座に腰かけた。

座席は一老を筆頭に二老、三老・・交互の席は年齢順。

氏子たちも座についた。

宵宮祭の座は小・中・大の盃に酒を並々と注ぐ三献の儀だ。

座についた人たちに酒を注ぐのは4人の当家たち。

献の始めに一番当が「よばれてください」と口上を述べる。



「献をする」と云う三献の儀の始めに差し出される二本のゴンボ。

摂待役の当家たちは席についた座中の小皿に盛っていく。

お酒を注いだ小盃でいただく一献である。

酒盃は黒の塗り盃。

並々と注がれたお酒を飲み干す。

料亭並みに酢でしめたゴンボを肴に飲み干す一献である。

しばらくすれば二献に移った。



献の料理は三角に切ったコンニャクだ。

酒盃はやや深めの中盃に替った。

注ぐ酒の量が少しずつ増えていく。

徐々に酔いが回ってきた二献である。



見た目はそうでもないが、トンガラシが入ったコンニャクは酒がすすむ味。

これなら「なんぼでも食べられるから、来年は三角にしなくてもいいんじゃないか」と座中は口々に云う。



「ハシヤスメ」と云って、座の中盤に配膳されたドロイモ・ニンジン・ダイコンの煮ものも座に回す当家たち。

座が始まってから30分後、早くも三献目となるニシンも配膳される。



かつてはカンカンに干したニシンだった。

年寄りには口に合わんという意見がでて今では半生干の焼きニシンになった。

「これが美味いんじゃ」と座中は揃って美味しさを伝える。

ゴンボ、コンニャク、ニシンを差し出す献立、「なんでそのようなものであるのか判らん」と話す座中たち。

思い出したのが桜井市脇本の座の献である。

座中が云うには「ゴボウは男で、コンニャクは女。できた子どもがカズノコだ」と話していた。

座中の子孫繁栄を願う座の「食」である。

別所町においてもほぼ同じであったゴボウ、コンニャク、ニシンの順。カズノコはニシンの子。

成魚の親と子である卵の違いがあっても同じ在り方である。

遠く離れた地域であるが、別所町の座も子孫繁栄を願った「食」に違わない。

県内各地で拝聴した祝詞奏上には必ずといっていいほど子孫繁栄の詞がある。

また、旧暦閏年に行われている庚申講が奉る庚申杖には子孫繁栄の祈願文がある。

いずれも詞や文字である。

「食」に子孫繁栄が込められていることを知った脇本と別所の座の献に感動した夜である。

三献の酒はさらに大きく深めの盃。

酒量が増えていく三献の座に酔いがまわって口も軽やかになっていく。



翌日のマツリでは中盃から始まって大盃。

三献目の盃は飯椀になるので大酒にぶっつぶれるとも話す座中。

三献に出される飯椀の酒を飲み干せば頭の上に揚げて空っぽになった状態を座中に示す。

それで座が終わりの〆の作法。

酒宴では相当な量の酒を飲む。

〆に大量の酒を飲むのがたいへんだ。

助っ人に頼むこともあるが、すべてではないから、ベロンベロンになってしまう〆の作法だと話す。



1時間半も経過した三献の儀の締めはマツタケご飯と手作りの香物が配膳される。

あれほど飲んだお酒であるが、美味しい料理に何度もおかわりをされて三献の座食を終えた夜八時。



当屋接待を支えてきた下働きの家族たちはほっとして笑顔をみせる。

境内に設えたとんどに火を点ければ灯りと暖の場になった。



「とんどは篝火であったのでは」と話すのは一番当の長老だ。

座の接待役を終えた4人の当家は黒紋付袴姿に着替えてきた。

これより始まるのは氏子たちのお渡りだ。



竹で作った金刀比羅神社の高張提灯を掲げて先頭を歩く一人の当家。

何年か前までの提灯の火はローソクだった。

高張提灯を斜めにした際に燃えてしまった。

安全を期してペンライト風の灯りに替えたと云うから電源は電池だ。

お渡りは村外れの家まで歩いていく。

そこからUターンして鳥居を潜って神社に参進する。

出発するときから始まった氏子たちの掛け声は「ホォーーイ ホイ ホイ ホイ ホイ ホーイ」だ。

一人が大声を挙げて「ホォーーイ ホイ ホイ ホイ ホイ ホーイ」と発声すれば、後続の氏子たちは揃って「ホォーーイ ホイ ホイ ホイ ホイ ホーイ」と叫ぶ。

神社に参進する道中はずっと「ホォーーイ ホイ ホイ ホイ ホイ ホーイ」である。

暗闇になった別所にこだまする掛け声が山々に響き渡る。

最初の「ホォーーイッ」の詞章がとてもよく似ている奈良豆比古神社のスモウ

詞章は「ホォーオイッ」である。

もしかとすれば同意語ではないか。

この掛け声に思い出した2事例。

大和郡山市の小林町の「トリオイ(鳥追)」と馬司町の「トリオイの唄」である。

小林町の詞章は「ホーイ」、馬司町の詞章は「オーー」である。

両地区ではどちらも「トリオイ」と呼んでいる作法に発する詞章は、実った稲田にやってきて稲穂を喰い荒らすスズメを追い払う作法に発せられる。

「なんでこんな掛け声を発するのか判らなかったが、意味は通じるな」と話す座中であった。



神社に辿りついた座中は高張提灯を鳥居に括りつけて真っ暗ななかで神事を執り行う。

今年の5月に亡くなった神主のあとを継いだ俄神主が祝詞を奏上する。



お供えは前日にモチ搗きをした二段のコモチと枝付きのエダマメ、味噌和えのダイコバ(大根の葉)だ。

神事を終えた座中はとんどの周りに集まって暖をとる。



当家が座中に配られるエダマメと味噌和えのダイコバ。

特にダイコバはおつな味である。

(H25.10.13 EOS40D撮影)

大塩のマツリ

2014年02月25日 09時45分29秒 | 山添村へ
9月に行われた大塩の塩瀬講に参られていた講中の話題提供は大塩のマツリであった。

マツリにはお渡りがある。

七度半の呼出において、八柱神社の社守さん(村神主)が鳥居辺りから下にある旧観音寺(公民館)に居る寺座の人たちに大声で呼び出してから出発をすると云う。

七度半の呼出役は寺座のドウゲ。

やかんを下げて神社に向かう。

社殿前に座る社守さんに酒を注いで下りていく。

これを七度半も繰り返すというのだ。

寺座のお渡りが神社参籠所前を通りがかる際に「エ、エーイ」と声を掛ける。

これを「馬オドシ」と呼ぶ。

鳥居下の階段辺りは小字「馬場先」だった。

かつてはここで乗馬していた馬から下りて神社へ参ったと云う。

マツリの前日は宵宮。

寺座、宮座のオトヤが社守さんらへ「トーヤ(当屋)を(勤め)させてもらいますのでよろしくお願いします」と挨拶・口上を述べる。

以前は、大安吉日を選んで良い日にオトヤ(大当屋)、コトヤ(小当屋)が揃って挨拶していたようだ。

この年の寺座のオトヤ(大当屋)を勤めるのはFさん。

宮座のコトヤ(小当屋)を勤めるのはKさん。

前年のドウゲを勤めたお二人である。

大塩のマツリは平成22年に取材させていただいた。

主に取材したのはスモウであった。

そのときはお渡りが着いて神事をされている時だっただけに七度半も馬オドシも拝見していなかった。

この年はマツリの始めから拝見したく再訪問したのである。

大塩には二つの座がある。

下座とされる宮座の場は八柱神社の参籠所。

上座とされる寺座の場は神社下にある観音寺を内在する公民館である。

寺座ではさらにオモテ座とウラ座があるようだが、服忌となれば当屋が入れ替るそうで実にややこしい。

宮座、寺座とも大当屋・小当屋がマツリの主役である。

今年の当屋は2年前に大塩の行事の世話人をしていた二人のドウゲだ。

一人は寺座の大当屋で、もう一人は宮座の小当屋を勤めると聞いて、3年ぶりに拝見する山添村大塩のマツリは昼過ぎに始まる。

和装姿で出仕する両座の大当屋・小当屋は社殿下に参集する。



宮総代が見守るなか、社守さんが祝詞を述べている間はその場で頭を下げる。

マツリのはじめにお祓いを受けて清めていただく。

はじめの神事を終えた両座の大・小当屋は場に戻ってそれぞれの座の会食に移る。



社殿に供えた大きなタイを下げる宮座のドウゲ。

およそ60cmもあるタイをさばくのはドウゲだ。

タイは2尾。

一つは寺座に下げられる。



宮座の膳はすり潰した潰したアオマメを塗したドロイモとエダマメである。

寺座の膳はそれより数品多い2段の重ねコモチ、エダマメ、米粉、ドロイモのクルミ、アラメにキナコもある。



パック詰め料理も配膳した席につく座中。

宮座は宮座のドウゲが接待を勤め、寺座は寺座のドウゲが勤めるそれぞれの座の会食。

「本日はおめでとうございます。ただいまより座をはじめさせていただきます」と口上を述べる寺座ドウゲの挨拶。



しばらくすれば当屋の家族も動き出してお酒注ぎに回る。

一方、宮座のほうも座会が始まる。



それから30分ほど過ぎたころだろうか。

座の宴が賑やかになった時間帯。



寺座のドウゲがやかんを手にして八柱神社に向かって歩き出した。

本殿前に一人寂しく待っていた社守さんに酒を継いでお神酒をやかんに注いで座に戻っていくドウゲ。



これを七度半繰り返す。

寺座から神社へ一度。戻りで二度と繰り返す七度の次は半というからこれもまたややこしく回数を数えてなければ判らなくなる。

途中で尋ねたドウゲの返事は「今、何回目だったかのぅ」である。

その回数を数えていたのか存知しないが、宮座と寺座を行ききしていたら上にある神社から「オーイ」の声が寺座に届いた。



八柱神社で待っていた社守さんが声を挙げたのである。

ドウゲがやかんを携えて酒を飲んでいた社守さんが発した声は七度半の呼出である。



大慌てで駆けつけた神社では社守さんに替って代行する氏子さんが「オーイ」と大声で二回もかけた。

本来は社守さんが3度も声をかける呼出であるが、足の不自由さを考えて代行されて声をかけたのである。

それを合図に赤いリボンをつけた区長が寺座に向かう。

挨拶を受けた寺座は裃に着替える寺座の大当屋・小当屋。

支度を調えて八柱神社に向かって出発するお渡りには分霊という考え方はない。

その代わりかどうかは聞きそびれたが二人の当屋は御幣を持っていた。



大当屋も足が不自由な身であるが、ドウゲを勤めた息子さんが介助して階段を登っていく親子の姿。

後方には子どもたちが担ぐ神輿もついていくが、かつてはなく、平成の村起こしに新調したと云う。



宮座の大当屋・小当屋は正座して参籠所で寺座を迎える。

寺座が到着すれば「ウェーイ」とか「イェーイ」のように聞こえる掛け声を揃って叫ぶ。



いつの時代か判らないが、かつては馬に乗って座中がお渡りをしていたときの名残で馬の嘶き(馬追いとも)をあらわしている掛け声。

鳥居下の階段辺りは小字「馬場先」だったと云う。



マツリの神事には御幣を奉殿し、次の年度の大当屋がサカキの木を受け取った寺座は下って拝殿で宮座の大・小当屋を迎える。



宮座も同様に作法されて神事は終わった。

それを見守るかのように拝殿に座る寺座の当屋。



両座の神事を終えた寺座の一行は下っていった。



上がったり、下がったりの寺座の大・小当屋たち。

待っていた寺座の人たちも迎えて「ウェーイ」の掛け声をかける。

しばらくすれば寺座の大当屋・小当屋は白足袋を履き、裸体の褌姿で登場する。

これより始まるのは寺座の神事相撲。

脱いだ裃着衣を下げた刀を持っている当屋力士の二人。

翌年には大当屋を勤める人が行司は扇を手にもつ。

土俵場は箱膳を前に置いた筵敷きだ。

膳の上に刀を置いた力士は見合って、「シャーン シャン」の掛け声と共に両手で手打ち。

すぐさま「シャン」の掛け声がかかって手打ち。

力士は左手を揚げて大当屋の勝ちー。

今度は右手を揚げて小当屋の勝ちー。



行司が持つ軍配の扇があがった。

刀相撲と呼ばれる神事相撲は、大相撲のような取り組みでなく、形だけの所作をする。

こうした相撲の形態は珍しく、県内でも十数例しか見られない神事相撲の在り方は他所では見られない作法で、大塩では「刀相撲」と呼んでいる。

二人の当屋力士は一旦引きさがって、幼い子供たちの相撲が始まる。

本膳を取り払った土俵に呼出を受けて登場する。

幼児の組み合わせもあれば小学生も。

女子も参加する子供相撲。

見合って終わる場合もあれば、組んで倒さなくとも相撲をしたことになる。



両者引き分けー。

褒美にお菓子をもらっていく。

何度か勝負して再び登場する力士の立つ位置は入れ替る。



作法は1回目と同じである。



勝ち負けは大当屋と小当屋、いずれも勝つことになると云う「刀相撲」は宮座になく、寺座だけの作法である。



そのあとも子どもの相撲が何度も行われて座中は夜の膳に移った。

(H25.10.13 EOS40D撮影)

ザ・ビッグ・エクストラ天理店の焼きそば+天童セット

2014年02月24日 07時53分45秒 | あれこれテイクアウト
天丼が消えるとニュースが伝えていた。

天丼の天ぷらは海老天が決め手だ。

それが消えるという。

ロイヤルホールデイングが経営する「天丼てんや」では上天丼の販売を中止したというニュース。

海外から輸入されている養殖エビが高騰しているというのだ。

タイやベトナムなどの主要な養殖場で病害が広まって収穫が半滅した結果が高騰の原因のようだ。

早期死亡症候群(EMS)と呼ばれるウイルスが原因で感染したエビは消化器官が破壊されて成長前に白く変色し死んでしまうらしい。

輸入価格はこれまでの数倍以上にもなっている。

「倍返し」どころではない事態であると報じていたのは焼きそば天童セットをいただいた10日後だった。

鉾立の行事取材を終えて山添村に向かう。

道中で買ったのが、ザ・ビッグ・エクストラ天理店の焼きそば+天童セットだ。

普段の売値は298円だが、この日は特別だったのか、なんと280円。

特別サービスの日らしく、買い物袋は要りませんと伝えれば2円引き。

ありがたいお店である。

焼きそば+天童セットは10か月ぶり。

なんのエビか判らないが3尾も並んでいる。

タレも美味しいエビ天重である。

焼きそばにつきものの紅しょうがも添えてある。

やや濃いめのソースが決め手の味に絡めたシャキシャキ感のモヤシが好のみ。

いつしか食べられなくなるのだろう。

(H25.10.13 SB932SH撮影)

新庄町鉾立神社秋の例祭

2014年02月23日 08時11分55秒 | 大和郡山市へ
鉾立は大和郡山市の新庄町の枝村で、出垣内にあたる出屋敷だとも云う。

鉾立集落は旧村8軒であることから8年に一度が廻りの当家になる。

この年の当家家は親父さんが亡くなられていることから30歳のお孫さんが当家を勤める。

本来であればトーニンゴになるお孫さんがイネカツギをしてついていくのであるが、トーニンゴとなるひ孫はまだ生まれていない。

志願したおじいさんはお渡り前に一人で担いで出かけて行った。



根無しの稲穂は収穫したばかりの新穀。

葉付きの笹竹に二荷ぶら下げる。

笹竹には2本の徳利もある。

かつては水引で括りつけた竹製の徳利だったそうだ。

予めにしておきたいと話すおじいさんはイネカツギを先に納めておいた。



早朝に当家家に参集していたお渡りの一行は玄関前に立てた笹竹の注連縄を潜っておでましする。

神官を先頭に烏帽子・狩衣(鉾立ではソウと呼ぶ)を着用した当家は日の丸御幣を持つ。

御幣は白と紺色の2枚重ね。

当家のお渡りに氏子は下駄履きの和装姿で神饌を抱えて後方につく。

かつては紋付の羽織袴姿だったと話す。



当家家を出発したお渡りは十数メートルも歩けば鉾立神社に着くぐらいの距離である。

かつては当家家を出発する際に「ワーイ」と唱和をしていたそうだ。

提灯を高く掲げたこの日だけのマツリの鳥居を潜って参進する。

朝日を浴びた御幣が神々しい。



日の丸御幣は前日宵宮に納めた本殿に立て掛けるが、宵宮のような当家の奉幣振りの作法は見られない。

宵宮では神官が参進されることがないマツリの在り方。

また、宵宮の御幣には半紙に包んだ御供があったが、マツリの御幣にはそれがないことから鉾立のマツリは宵宮が主体であるような気がした。



神社に到着した一同は手水で清めて社殿下に並ぶ。

鉾立神社は三社ある。

春日神社と熊野神社も祀っている。

祓えの儀、献饌を経て神官が祝詞を奏上する。



その様子を見守る当家の家族たち。

神饌は海の幸のタイ、里の幸のニンジンに山の幸の大きなマッタケも見られた。

大きな二段の鏡餅にスルメ、水引で括ったコンブ、梨、ハクサイも供える三社の神饌は唐櫃に入れて運んできた。

宵宮では当家・氏子とも斎場に上がったが、マツリの場合は神官だけである。



玉串奉奠もそうであって社殿下で奉じる。

撤饌されて神事を終えた一行は参籠所で直会を始める。



鉾立も他所と同じように座料理はパック詰め弁当になったが、カマボコにドロイモ・ダイコン・チクワ・ゴボウの煮ものは欠かせないと云う当家の手料理がある。

マツリの一行に世話を勤めるのは当家家族。

しばらくの時間は語らいの場。

下げた御供や手料理とともにお酒をいただく。

和やか時間が流れていく直会は神さんとともに飲食する。



朝日に輝く日の丸御幣が眩しく鉾立紋・千木が美しい。

鉾立には庚申講もされていた。

掛軸を掲げた前に炊いたアカメシを供えて般若心経を唱える庚申講。

摂待する料理がたいそうだったと話す。

今では料理も出さなくなって、掛軸と徳利を廻すだけになったと云う。

(H25.10.13 EOS40D撮影)

櫟枝町八幡宮の宵宮

2014年02月22日 09時32分56秒 | 大和郡山市へ
「昭和弐年四月吉祥日張之奈良 大字石上太鼓師奥田己弥造張替」の墨書が見られた太鼓を拝殿前に置いてあった大和郡山市櫟枝町の八幡神社。

本殿には提灯を掲げていたこの日は宵宮と思って訪ねたが、参拝者は見られない。

時間帯を誤ったのかもしれないが、この日の突風は冷たい風。

風に揺られる提灯には火が灯されたのかどうか、現認できずに退散した。

(H25.10.12 EOS40D撮影)

愛おしい情景

2014年02月21日 08時26分26秒 | 大和郡山市へ
東明寺の寺務所屋外にあった地蔵石仏。

あったというよりも樹・草木に埋もれていたのである。

美しくなった場に山間から夕陽が挿し込む直前、光の具合に若干の変化が見られた佇まいが愛おしい。



式典記念にいただいた「淨蓮花 ほのか」に火を点けた蝋燭の灯りは我が家の玄関を美しく照らした。

(H25.10.12 EOS40D撮影)

蔵堂須佐之男神社の百味の御食

2014年02月20日 08時07分00秒 | 田原本町へ
村屋坐弥冨都比売神社の守屋宮司に教えていただいた田原本町蔵堂の須佐之男神社の宵宮。

トーヤが供える百味の御食(ひゃくみのおんじき)があると云っていた。

かつては隣村の大字大木で採れたカモウリを台に串で挿した数々の食物。

今では台がカボチャに替ったが、豪華な盛りだと話していた。

その様子を知りたくて伺った大字大木と蔵堂を挟む大和川。

東西に走る街道北に須佐之男神社が鎮座する。

陽が落ちるころになっても集まってくる気配はない。

夕方5時頃には宵宮を案内する蔵堂村のマイク放送が聞こえてきた。

どうやら神社を誤っているようだと思って、街道にあった商店で店番をしてはった老婦人に尋ねた。

話しによれば、そこだと思っていた神社は大字為川の須佐之男神社。

同名であったのだ。

婦人が話すに大字為川南方・蔵堂・遠田(天理市)の三カ大字の講中が持ち回りで行っている数献當(すこんどう)講があるそうだ。

村境の掘り出された壺のご神体として祭る講中の営みはこの日であった。

前年は蔵堂が持ち廻りの大字。

この年は遠田に移ったそうだ。

小字古屋敷と呼ばれる遠田池より南西角で受け取るご神体の受け渡し。

為川は来年に戻ってくる。

戻ってきた当日には「神さんが来たぞ」と云って講中に呼出をする。

以前は15軒もあった為川の講中は11軒。

受け取った当屋家は前日の宵に提灯を揚げておくと云う。

三カ大字で受けもち廻る数献當講はそれぞれの大字によって呼び名や講中の営みが異なる。

「オスコスサン」と呼ぶ為川南方では別称に「餅喰い講」がある。

「赤飯講」と呼ぶのは蔵堂で「スコンドウ」と唱える。

「芋喰い講」とも呼んでいるのは遠田で、数献當講を「スウトンコウ」或いは「スウコントウコウ」とも呼ぶようだ。

つまり呼び名もそうだが、食材は「餅」、「赤飯」、「芋」、それぞれに違うのである。

数献當講の概要を知って探した蔵堂の須佐之男神社は集落内の北側に鎮座している。

村内の辻々には提灯を掲げている。

ヨミヤの印しである。

拝殿前に建之されていた燈籠には文化十年(1815)が刻まれていた須佐之男神社。

社殿は二社ある。左が弁天さんを祀る市杵島姫神社、右が須佐之男神社だそうだ。

かつては神社右横に神宮寺の薬師堂があったと伝わる。

本殿には大きな二段の鏡餅を供える。

両社殿前に設えた斎壇の御供が百味の御食(ひゃくみのおんじき)だ。



半切りしたカボチャは二膳。

それぞれの膳に竹串を挿している。

一つの膳に挿した竹の串は25本。

12本の栗にナツメの実も12本で中央にはショウガを1本とする膳。

これを月の数と云って、旧暦閏年の場合は栗、ナツメそれぞれが13本で合計の本数は27本になると守屋宮司が話す。

かつてはカボチャでなくて、「カモウリ」であった台の膳は扇が開いたような造りである。

宮司の話しによれば、カモウリは万葉植物のレンコンのようだったと云うが、瓜の名があることからおそらくトウガン(冬瓜)であったろう。

ヨミヤが始まる直前に供えたという4軒のトーヤ。

蔵堂の年中行事は四つある。

3月のショウグンサンに8月のオヒマッツアン、ヨミヤに元旦祭のようだ。

元々はオヤトーヤと3人コトーヤで構成されるトーヤであった。

戦後に改正されて4人のトーヤが分業して営むようになった56戸集落の蔵堂は旧川東村。

トーヤ決めはカンの内部に番号札を入れて籤を引いた。

オヒマッツアンにはお米集めもするトーヤ。

ご飯を炊いて村人を待つようだ。

百味の御食と呼ばれる御供は二つの膳の前に並べたサトイモ、ナシ、レンコン、ニンジン、ダイコン、ゴボウ、ナスの七種の品々。

これを7膳並べて7×7=49皿。

仏式の数値となるのは、かつて神宮寺であった薬師堂の名残であると云う御食はザクロ、カキ、スダチも並べる。

ヨミヤの時間ともなれば再びやってきた4人のトーヤ。

宮司と里の巫女さんを迎えて神事が行われる。

本社の提灯に火を灯しても御供の形が判り難い。

祭祀される方々の承諾を得て参拝者が途絶えた際に撮らせていただいた百味の御食の姿に感動する。

こうして始まったヨミヤの神事は暗闇の中で祝詞を奏上する。



トーヤらの祓えの儀を終えて、拝殿で女児巫女が舞うのは平神楽。

東井上(ひがしいね)村屋坐弥冨都比売神社で神楽を舞っていた小学六年生の女児巫女は今回で3度も拝見した。

表情、動きが美しい舞いに見惚れるありさまだ。



そのうち、村人が続々とやってくる。

参拝者は「十二とう」を納めて神楽の舞。

村人が云う「シャンコシャンコ」はありがたいと鈴で祓ってもらう。

在所の禰宜さんも息子を連れて参拝された。

(H25.10.11 EOS40D撮影)

退院祝いに都島裕寿司の海鮮丼

2014年02月19日 07時21分48秒 | 食事が主な周辺をお散歩
献体結果は良性であった摘出手術。

晴々としたこの日も昼食は都島の「裕寿司」。

注文したのは前回と同じく500円の海鮮丼。

この日の盛りはイカ、タコ、マグロ、エビ、ツブツブ、カイワレだった。

前回は玉子焼きがあったがこの日はない。

にぎり等で余ったものを海鮮丼のネタにしているようだと思った。

都島本通りにはたくさんの食べ物屋がある。

交差点付近にある天丼・かつ丼の店。

なんとうどん・そばが250円だ。

セルフサービスならではの破格値だが一度も入店できなかった。

東に数百メートルも歩けば中華料理屋がある。

ランチタイムは激安中華。

カラアゲ定食・トリチリ定食がなんと380円。

ここも入るタイミングを逃した。

心残りだったのはホルモン焼きそばの店。

並みのホルモン焼きそばを380円で売っている店は野江国道筋商店街にある。

(H25.10.11 SB932SH撮影)