マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

エースコックJANJANだし醤油焼そば

2015年05月31日 08時16分57秒 | むびょうそくさい
前夜に8日から吐き戻ししていたとおふくろから電話があった。

これまで度々発症する症状だが、なにせ高齢者。

住む地に近いほうが良い医院へと思ってこの日の朝に出かけた大阪市内の住之江。

市営住宅の4階から下りる姿は痛々しい。

車で5分もかからない医院は畠中医院。

高校生ぐらいまで世話になっていた先生に診て貰ったことがある。

幼児のころからぜんそく持ち。

三男がまだ幼児だったころはおふくろが背中におんぶして出かけたことを思い出す。

祖母、おふくろ、私に次男、三男とも診てもらうことは多々あった。

診療をする医師は先生の次男さん。

親子でお世話になるこの日の診断。

点滴治療に1時間半もかかる。

この日は撮影を依頼されていた山添村松尾に行かねばならない。

待つ時間は大幅にオーバーする。

仕方なくかーさんが立ち会うことにして場を離れて自宅に戻る。

買い置きしていたカップラーメンが昼食だ。

なんでもいいからお湯を沸かす。

手にとったのはエースコックのJANJANだし醤油焼そばだ。

焼きそばカップはタテ型。

奇抜な容器である。

以前もソース焼きそばを食べたことはあるが、美味しいとは思わなかった。

お湯を注いで3分間待つ。



蓋を開ければ香りが漂う。

焼きそば特有の香りではない。

メーカーの謳い文句によれば、カツオやコンブ、それにサバや煮干しも入れた「だし」味に力を注いだという。

とにかく急ぐこの日。

おふくろのことも心配であるのか、味覚を感じない。

そば麺にはコシがない。

醤油味の濃さもなく、美味しくもないだし醤油焼そばを無理やり口に突っ込んだ。

はっきり云って不味いのである。

しかもだ。

麺をたいらげた底に残っただし汁。

底に溜まって麺に絡んでいないのだ。

個性があるタテ型カップではこういう具合になるんだ。

(H26.10.14 SB932SH撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

八田伊勢降神社のヨミヤ神楽

2015年05月30日 08時40分21秒 | 田原本町へ
集落を巡っていた子供御輿が伊勢降神社に戻ってきた田原本町八田(はった)。

オーコで担いだ平太鼓を打つ子供たち。

赤い大きな団扇で煽ぐ。

「わーっ しょっれ」に合せて太鼓はドン、ドンと打つ。



声を掛けて曳いていた神輿は移動車に乗せていた。

ヨミヤの晩に「クヨウモチ」と呼ばれる餅を供えると聞いて訪れた八田である。

「クヨウモチ」を充てる漢字は「九葉餅」だと云う。

ヨミヤの伊勢降神社に張った幕や吊るした提灯に見られる紋がそれであるが、中央に大き目の黒丸、周りを放射線状にした黒丸が八つ。



いわゆる「九曜紋」である。

「九曜紋」は火星(虚空蔵)・水星(弥勒)・木星(薬師)・金星(阿弥陀)・土星(聖観音)・太陽(千手観音)・月(勢至)の七曜に計都(釈迦)、羅睺(不動明王)を加えた九曜曼荼羅の信仰が家紋になったようだが、八田の伊勢降神社の神社紋になった経緯は判っていない。

神社宮守が話した「クヨウモチ」は本社ならびに境内社の道祖神社、市杵島神社、住吉神社、多賀神社、保食神社および祖霊社に供えられる。



ラップで包まれているから判り難いが、べたっとした長い餅を4枚重ねて中央に大き目の餅を乗せている。

「これはハナモチ。ウメの花の形である」と云う人もいる。

似てはいるが花弁の枚数は異なる。

御神木の前にも供えていたヨミヤの夜。

八田では例祭宵宮をヨミヤと呼んでいた。

時間ともなれば氏子参拝者がやってくる。



家族とともに連れだってやってきた人たちは持ってきた懐中電灯で足元を照らして夜の参拝。

境内各社に手を合せるが、供えられた「クヨウモチ」に気がつく人は多くない。

ヨミヤの祭典は3人の宮守さんの他、次年に担う宮守や氏子代表などが参列する。

宮守年長者は白の狩衣を着用している一年神主の村神主。

本殿前で祓えの儀をされて拝殿に登る。



祓えの儀の際には見られなかった3人の女児巫女も同席している。

開扉、献饌、祝詞奏上を執り行われる。

玉串奉奠は氏子一同、老人会、宮守の順で終えた。



そのころともなれば境内社で参拝をされた氏子家族が本殿前に立った。

徐々に伸びて行列となったヨミヤ参拝。

家族単位でやってくる人数は相当なもので行列ができる八田の集落は150戸だ。

行列は長い。



神楽を舞う女児巫女は八田の子どもたち。

小学6年生が二人、「みならい」とされる5年生は一人だった。



なんとなく見覚えがある女児。

平成22年9月18日に行われた「むかしよみや」で神楽を舞っていた子だった。

「覚えている」と言葉を返してくれた女児巫女の任期勤めは2年間だと話す。

参拝者は神楽料を納めて鈴を鳴らす。

そうすれば一人の女児巫女が立って神楽を舞う。

まずは御供斎壇に向けて一礼する。



それから鈴を右手に持って舞う神楽。

シャン、シャンと鳴らしながら左、右、左へと舞う。

参拝者側に向かうときはその都度頭を下げる。

まさにお神楽の舞いである。



そうして参拝者に歩み寄り鈴をシャンシャンと振る。

その音色からであろうか、宮守の一人は「シャンコシャンコ」と呼んでいた。

神楽の舞いは法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社の宮司家が指導にあたっている。



5月から教わってきた神楽を勤めたシャンコシャンコ。

3人が交替して神楽を舞う。



シャンコシャンコで祓い清めてもらった家族は夜店でたこ焼きかリンゴ飴を買って帰っていった。

行列が途絶えて参拝者はもうないだろうと云って神事の続きが始まった時間帯は夜7時50分。



長丁場の神楽舞を終えた巫女たちもほっとひと息つける。

ヨミヤはこうして撤饌、閉扉、宮司一拝で終えた。

(H26.10.12 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

滝本町の稲架け

2015年05月29日 07時28分21秒 | 民俗あれこれ(干す編)
福住から下った街道沿いに稲架けがあった。

たわわに実った柿の色は食べごろ。



このときの時間帯は夕暮れ近く。

美しさは半滅だ。

もう少し下った畑にも稲架けがあった。

9月末に通りがかった天理市滝本ではまだ稲刈りはしていなかった。

その後にされたのであろう。

付近におられた男性の話しによれば滝本では1軒の家がしているという。

1週間、それとも2週間。

天日干しをしておけばお米に旨みがでるという。

場合によっては一カ月間も干すことも。

翌日は台風19号が襲ってくるかもしれない。

雨風にあたれば結局、小屋に納めて乾燥させるらしい。



この記事を書いている時間帯。

雨風が厳しい。

20時半ころには大阪岸和田に再上陸したとか・・だけど・・・速度は50km。

台風の眼はいずこへ向かっているのだろうか。

我が家は洗濯機の渦が巻いていた。

(H26.10.12 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

桐山戸隠神社のマツリ

2015年05月28日 08時19分43秒 | 山添村へ
大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば旧東山村のほぼすべての神社において遷宮や祭祀を神宮寺(別當寺)の社僧が司っていた。

山添村の大字桐山は「本社ニハ別ニ社僧トシテハ無カリシガ旧北野山村明王院ノ住職等遷宮及祭祀ヲ行ヒシ傳説アリ」とある。

かつては隣村の奈良市北野山・明王院僧侶によって神社祭祀が行われてきたのである。

おそらく後述に登場するオトナとともに祭祀を勤めたと想起される社僧祭祀の在り方である。

卍文様に仕立てた鎌の紋がある提灯を吊した山添村桐山の戸隠(とがくし)神社。

このような農具の鎌を象った卍紋は諏訪明神信仰が考えられる。

まさしく長野県・戸隠神社(九頭龍)との関係を想起させる紋である。

この日は桐山のマツリ。

前日と同様に朝9時にはオトナの一老がウタヨミを奉納する渡りの五人衆を御湯で祓い清めた。

神社では4人のオトナ、3人の組頭、2人のドウゲがマツリの準備をする。

幕を張って提灯を吊る。

御供トヤが調達された御供も調える。



一方、オトナはマツリに欠かせない白御供(しらごく)を調える。

口にマスクをして息がかからないようにする。

手袋も白い。

白御供は丁寧に「おしらごく」と呼ぶ人も多い。

四つ調製される白御供は蒸し飯である。



平らな御供台に乗せて、両手で形を調える。

楕円形に盛った蒸し飯の高さはそれほど高くない。

その周りを藁で括る。

一本括って中央で括る。

それを繰り返すこと12本である。

重ねていくのだが、ひっかかりがないから外れやすい。

この作りが難しいと云いながらオトナが白御供を調製される。

12本は旧暦閏年であっても12本。

一年の月数を現していると思われる。



雪うさぎのように見える白御供の姿。

始めて拝見した平成17年の姿もそう思ったことを思い出す。

白御供は四つ調製される。

それぞれ皮を剥いた2個のドロイモに2本のハゼノキが置かれる。

2本のハゼノキは一膳の箸である。

調整を終えた時間ともなれば氏子たちが神社に参拝をされる。



肴をつまみに飲食する宴である。

前日に千本杵で餅を搗いた子どもたちもやってきた。

神社境内を走り回って賑わいをみせる。

年老いた婦人たちも杖を突いて階段を登ってきた。

急な階段は体力が要る。

途中で小休止する婦人たちはいつも元気がいい。

ほぼ毎週の休日には採れたて野菜を売っている売り子さんだ。

15時ともなればオチツキダンゴをよばれた5人の渡り衆も楽奏しながら登ってきた。

先頭をトウヤ(当家)にガシャガシャ(左右五本ずつのビンザサラ)、太鼓(締太鼓)、二人の笛が続く。

公民館を出発した直後は前日同様に山の神と弁財天を遥拝してきた。



手水をされて拝殿前に並んで拝礼する。

一列に並んでピー、ピー、ピー、ドン、ドン、ジャラ、ジャラと楽奏する。

宵宮から何度となく繰り返してきた楽奏の調子は息もあっていた。

三社に小幣を奉って再び拝殿前に並ぶ。

一拝して柏手を打つ。



草履に履き替えた大御幣を持つトウヤ(当家)は本殿に奉る。



その間には三社に白御供を供えていく。



甘酒を入れた柄杓と白御供も本殿に供えた渡り衆はこれより「ウタヨミ」を奉納する。

宵宮と同じように立ったまま2列に並んで始まった。

扇を差し出すように前へ進み出るトウヤ(当家)。

扇を立てて謳うウタヨミは「やっとん とん とん」で始まる。

「おうまへなる おうまへなる」と詞章をあげれば、他の4人は「ハァ」と声を揃えて合いの手で囃す。

以下同様に「鶴は鶴 亀は亀」に「ハァ」。「

鶴こそふれて舞い遊び」に「ハァ」。

「鶴の子のよしやまごはそらとうまでも 所は栄えたもうべき」に「ハァ」。

「君が代はかねてこそ久しかるべき 住吉の」に「ハァ」。

それぞれ区切りに「ハァ」と囃した最後に「松やにゅうどう」と唱えながら時計回りに一回転する。

壱番を勤めたトウヤ(当家)は拝礼して元の位置に戻った。



弐番、参番はトウヤ以外の渡り衆が勤めるが、特に決まりもなく、この年は笛役の二人が勤めた。

「西洋の春のあしたには」に「ハァ」。

「かどに小松を立て並べ」に「ハァ」。

「おさむる宮のしるしには」に「ハァ」。

「民のかまどに立つ煙」に「ハァ」。

「松からまつのようごう おうごうの松」に「ハァ」。

「君が代はかねてこそ久しかるべき 住よしの」に「ハァ」。



「松やにゅうどう」と唱えながら一回転する。

次の参番も笛役である。

「あかつきおきて空見れば」に「ハァ」。

「こがね交じりのあめふりて」に「ハァ」。

「そのあめやみて空はれて」に「ハァ」。

「皆人ちょうじゃになりにけり」に「ハァ」。

「「君が代はかねてこそ久しかるべき 住よしの」に「ハァ」。

「松やにゅうどう」と唱えながら一回転する。

詞章を唱えた三人はいずれも右足を一歩踏み出し、右手に扇を翳していた。

桐山で奉納された「ウタヨミ」詞章は山添村の室津や北野、近隣の奈良市北野山にもみられるが若干の違いがある。

長い年月の間によって多少の訛りが地域ごとに変容してきたのであろう。

また、北野山では「ウタヨミ」を「歌詠(うたよみ)」、室津では「神歌(かみうた)」。

「豊田楽(ほうでんがく)」の字を充てているのは北野である。

この年に拝見した桐山は大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば「神楽歌(かぐらうた)」である。

大きな違いがあるのが桐山の「ウタヨミ」だ。

室津や北野山では奉納をされる際に楽奏をされるが、桐山ではまったく所作がないのである。

北野の所作も違いがあるが、この項では省略する。

言い伝えによれば、永正五年までは桐山、室津、北野山の三カ村がもち廻る共社郷宮の戸隠神社の行事であった。

「ウタヨミ」の詞章は、その時代から変容したのか、それとももっと以前からすでに変容していたのか、検証できるものはない。

「ウタヨミ」を奉納し終えれば白御供を下げる。



渡り衆は参籠所に上がって、オトナから甘酒と白御供をいただく。

オトナは太い2本のハゼノキを用いて蒸しご飯を摘まんで渡り衆に渡す。

手が汚れないようにとされたのか渡り衆はビニール袋を反転して入れてもらう。

いわゆるテゴク(手御供)の作法であるが、清潔さを考えてこのような形式にされたのであろう。



併行して参拝者にも白御供を分けられる。

同じようにビニール袋を広げて入れてもらう。

下げた御供はみなでいただく村の在り方。

行列ができるほどに群がった。



そのさなかに階段を降りていく渡り衆。

楽奏は見られない宮下がりである。

公民館に戻ってきた渡り衆は予め鳥居近くにおいた紙垂れを括りつけた笹を手にする。

かつては帰路の途中で道脇に生えていた竹の枝を持ち帰ったそうだ。

懐に忍ばせていた半紙を手で裂いて枝に付けたという。

上がりこむ公民館の座敷にはブルーシートが敷かれていた。

中央には丸盆に盛った洗米と小豆が置いてある。

笹を手にした渡り衆は玄関から上がってきた。

隊列は円陣になって時計回りに動き出す。

洗米と小豆を手にして回る。

「あきのくにー いつくしま べざいてん王 いざや 宝を拝もをう」と謡いながら撒く。



撒けば再び洗米と小豆をてにして「あきのくにー いつくしま べざいてん王 いざや 宝をおがもう」と謡いながら旋回する。

これを三度繰り返して終えた。

この所作は「オドリコミ(踊り込み)」と呼ばれるのだが、峰寺のような縁側から上がることなく玄関からであった。

また、峰寺で見られるような「何の種をまきましょう」、「福の種まーきましょう」の所作は見られない。

最長老の一老の話しによれば桐山では昔からなかったと云われる。



大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば「当家ノ門前ニ着スルヤ各自 あきのくにのいつくしまのべざいてんのいざやたからをゝがもよを・・・ト返スく歌ヒツヽ家内ニ踊リ込ミ、高膳ニ洗米ト小豆ノ混ジテ盛リアルモノヲ振リマキ竹笹ヲ打振リ舞踊シテ是ニテ当日ハ儀式ノ畢レルモノトス」とあることから、長老が云ったことは当時もそうであったのだろう。

なお、峰寺の「オドリコミ」の詞章に「ねじろのやなぎ あらわれにけり」がある。

以前謡われていた北野の詞章に「川岸の根白の柳」があったそうだ。

大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば大字北野・天神社に「當屋ノ門前ヨリ藤永(栄の誤記か)謡ヲ謡フ。ソノ謡左ノ如シ。川ぎしのーー ねじろの柳ぎあらわれにけり そうよな あらわれてーー いつかはきみとーー わらわらとーー きみと枕さためぬ やよがりもそうよな」であった。

「川岸の根白の柳」の一節は、能の「藤栄」の渡り拍子・小歌による囃しに「川岸の 根白の柳 あらはれにけりやそよの」があり、芸能においては演者が笹を手にする場面がある。

能の一部伝承が「オドリコミ」の祝言所作に取り入れられたのではないだろうか。

(H26.10.12 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

まんぷくするはらぺこ食堂のから揚げ弁当

2015年05月27日 07時35分50秒 | あれこれテイクアウト
荒蒔の取材を終えた時間は12時半。

これより東山間に向かうが、まずはガソリンの補給。

10月に入ってからの取材地は多方面。

東の桜井山間もあれば、西の御所もある。

平坦部もあれば再び山間。

この日は東山間に出かける。

一日かけて走行する距離は増える一方だ。

もうひとつの補給はフィルムだ。

何度も何度も出かけざるを得ない10月の行事は多すぎて、ますます出費が重なり家計費が悲鳴を上げる。

出費を抑えるのは昼食。

カップ麺で過ごす日もあれば、弁当などのテイクアウト。

そんな生活だ。

この日に入店したのは350円弁当シリーズを売っているはらぺこ食堂。

一年ぶりの購入になる。

4月になって消費税が8%になった。

はらぺこ食堂でも値上げをしているのだろうか。

レジの後方にあったメニュー一覧の品々はいずれも350円だ。

アップもせずにしていた350円は消費税込み。

なんとありがたいことか。

いちばんのお気に入りのから揚げ弁当を注文する。

待つこと4分間。



お湯注ぎのカップ麺と同じような時間で出来あがった。

ボリューム感はまったく変わらずであるから揚げの個数は6個。

いずれもでかい。

パック詰めに何やらあるアルミホイル。

開けてみればシオ・コショウ・から揚げにうってつけの添えもの。

パラパラ振り掛ける。

から揚げはそのままでも美味しいのだが振りかければ、なお一層美味しくなる。

我が家で食べるときには甘酢生姜と決めているが、これもまた美味しである。

薄漬けのダイコンにゼンマイかワラビか判らんような煮つけもある。

白いスパゲッテイにはドレッシングが混ざっていた。

以前はポテトだサラダだった。

ポっちゃりサラダも良いが、これも良い。

ご飯は黒ゴマがかかっている。

はらぺこ食堂のご飯は美味しい。

から揚げにぴったり合ってご飯が進むくんだ。

ボリューム感は相変わらず。

まんぷく感に満足する。

(H26.10.12 SB932SH撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

荒蒔勝手神社秋祭当家の渡御

2015年05月26日 09時05分35秒 | 天理市へ
前日の宵宮までにオカリヤを玄関前に立てる天理市荒蒔町のホンドーヤ(本当家)。

長さ60cm程度の社用竹で骨組みを作ったオカリヤの屋根は檜の葉で覆っている。

隙間から光が入り込まないように葉で覆った家型のオカリヤである。

床は5段重ねの芝生だ。

注連縄を立てた土台も芝生である。

オカリヤ内部に小御幣が納められていた。

宵宮のときに勝手神社で「分霊遷しまし」をされた御幣であろう。



オカリヤの横には水を溜めた手水桶がある。

内部に沈めた小石は数個。

1日座を勤めたホンドーヤは石上神宮の神官とともに天理市滝本町にある桃尾の滝へ出かける。

滝壺下を流れる清廉な流れの川にあった5個の小石を拾って持ち帰る。

それを桶に入れておくのである。

注連縄を張ったホンドーヤ家に村神主、五人衆、氏子や石上神宮の神官が集まる。



村神主は白の狩衣。

石上神宮の神官と同じ姿である。

ホンドーヤ(本当家)と次ぎのホンドーヤになるアトドーヤ(後当家)は薄い青色の素襖に着替える。

五人衆は白衣で氏子全員は黒の礼服である。

座敷に並んで座って出発を待つ。

ホンドーヤのK家はホンドーヤ勤めをきっしょに家を建て替えた。

当主の生まれは昭和18年。

生まれた年は戦時中であったが誕生を祝って家を建てた。

建築材料が不足する時代だった。

家の前を通る道路は地道だった。

車の往来も少ない時代である。

付近は近代化の波を受けて町作りも大きく変容した。

いつしか道路はアスファルト。

往来する車は増えていき、昭和18年に建てた家にガタがきたと話す。

Kさんが生まれて初めてホンドーヤを勤めることになった。

祝いのホンドーヤに相応しいと思って決断されたK家は今年の8月に新築した。

新しい畳の香りをほのかに感じる二間続きの座敷にマツリを祝う村人が参集されたのだ。

荒蒔のホンドーヤは新築でなくとも襖や障子は張り替えておくそうだ。

お茶をよばれた一行は玄関先にでる。

大御幣を持つのはホンドーヤとアトドーヤだ。

氏子は予め搗いた大きなモチとコモチを抱える。

大きなモチは三合取り。



4枚それぞれの折敷に乗せている。

コモチは9個ずつ。

2枚の折敷に乗せている。

荒蒔には安永九年(1780)より書き記された『荒蒔村宮座営帳』がある。

文政三年(1820)・十一年(1828)、明治四十三年に改冊された座中記録である。

拝見はしていないが荒蒔には天正元年(1573)以来の『荒蒔村宮座中年代記』もあるようだ。

当時の戸数は43戸。

うち11戸が「座主」と云われる「宮座中間」の営みであった。

明治・大正期間に3戸が減って8戸になった。

昭和11年ころ、新座主を募って24戸の「新座」として再出発された。

このことを書かれていた著書は平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』である。

10月8日は垢離とり。

当家と神官はマツリに備えて龍田川へ出かけ小石を拾って帰った。

いつしか布留川に移ったとある。

その布留川源流が桃尾の滝なのである。

当家と五人衆は拾ってきた小石を入れたお風呂に浸かった。



マツリ始めに身を清める禊祓えであったが、今ではそうすることもないようだ。

玄関先にでたホンドーヤ、アトドーヤ、村神主、五人衆、神官に氏子が立つ。

村神主が云った言葉は「ひと笑いお願いします」だ。

その合図で一同は大きな口を開けて反り返るように一斉に発した「わっ、はっ、はっ、はっ」。



お渡りの出発前にされる笑いの作法であるがチャンスを逃した。

このような儀礼は他でもあるのだろうか。

県内各地で行われている数々の伝統行事を取材してきたなかに笑いの作法があるのは吉野町南国栖・浄見原神社で行われる国栖奏である。

ゆったりとした舞の国栖奏四歌の最後を飾る翁は口元に手を添えて上体を反らす所作をする。

「笑の古風」と呼ばれる所作であるが大きな声はあげない。

荒蒔の笑いの作法はわずか一秒ぐらいで終えた。

こうして作法を終えた一行は隊列を組むのだがどこかがおかしい。

新稲藁を架けた葉付きの細い竹を担ぐ氏子が先頭についたのだ。

それには竹で作った神酒筒をぶら下げている。

県内各地で見られるイネカツギ(稲担ぎ)・ミキニナイ(神酒荷い)が先頭につくことはない。

後方なのである。

お渡り直前に拝見していたマツリ資料では先頭が神官で、次に村神主、ホンドーヤ、アトドーヤ、五人衆、イネカツギ・ミキニナイ、御供持ちの順であった。

そのことを伝えて勢ぞろいした一行は並びを調えて出発した。



街道を歩く一行を見たさに村人たちは玄関先で待っている。

いずれの家も提灯を掲げている荒蒔の街道は旧家が多い。



一行が通る際には頭を下げる人も見られる。

生まれたての赤ちゃんを抱いている女性もおれば、携帯で記念の写真を撮る人もいる。



お渡りを祝う村の在り方だ。

勝手神社に到着すれば、大御幣を神饌所に立てる。

イネ・ミキは本社石垣と拝殿の間へ水平に置く。



そうして始まった神事は祓えの詞、祓えの儀に続いて神官がオォーーと開扉する警蹕。

本殿は二社ある。

右が勝手神社で左は子守社だ。

それぞれの神さんの御扉開きが行われる。



次は神饌の献饌。

神饌所に置かれていた御供を手渡しで献饌するのは礼服姿の氏子。



本来は五人衆が担うそうだが、この年は氏子が勤めた。

御供は鯛、昆布、スルメ、季節の野菜に果物、鏡餅、酒、チクワなどだ。



三合取りのモチは安政四年(1857)に建てたとされる観音堂などにも供えられる。

次は御幣の奉納である。

始めにホンドーヤの御幣を持つ神官。

本殿前に立つ。



御幣を持って左右に振る。

座って拝礼する。

再び立って御幣を左右に振りながら下がる。

またもや座って拝礼される。

この作法を三度繰り返す奉幣振りの神事である。

御幣を本殿に奉って次はアトドーヤの御幣も同じようにされた。



御幣を立てた位置はホンドーヤが勝手神社でアトドーヤは子守社だ。

祝詞を奏上されて玉串奉奠。

座中は一旦席を立って拝殿前に移る。

一人ひとり順に玉串を捧げたら拝殿後方より境内へぐるりと移動する。

珍しい手法である。



撤饌、閉扉、神官一拝で終えた次は午後に出発する子供神輿の巡行に際して安全を祈る祓いが行われる。

こうしてマツリの神事が終われば直会に移る。



下げた御供のスルメ、チクワ、コンブでお神酒をいただく。

しばらくすれば神官、村神主、ホンドーヤは退席されてホンドーヤ家へ向かう。

トーヤ家での摂待直会である。

退席されたあとも拝殿で直会を続けていた氏子たちの声は大らか。

賑わいの直会である。

(H26.10.12 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

台風19号を避ける決断

2015年05月25日 07時23分29秒 | 奈良市へ
台風19号が近畿を襲うと気象庁が予報していた。

奈良市東九条八幡神社の神輿巡行は一日繰り上げて明日の12日にしたと書いてある。

東九条の八幡神社は大安寺の八幡神社。

12日宵宮に花御供神饌、13日は宮座の行事。

トーニンゴに素襖姿で献饌される座行事があるが未だに拝見できず、である。

山添村のトーヤさんは「なんとかなる」と構えていた。

存知している宮司は「避難指示が発令さればやめる」と話す。

とある村の人は「当日の状況を判断して決断する」である。

状況判断はさまざまであるが、台風が通り過ぎるまでは自宅待機。

台風状況を勘案して「出かける」気持ちになっていた。

(H26.10.11 SB932SH撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

桐山宵宮の渡り衆

2015年05月24日 08時09分58秒 | 山添村へ
9月に大久保垣内で行われた薬っさんのボタモチイセキに参拝された長老が大字桐山の戸隠神社で湯釜祓いをすると云っていた。

長老は大正13年生まれの90歳。

大字の最長老は渡り衆をお祓いする役目にあたっているという。

本人や息子さんからは「生存している元気な間に撮っておいてほしい」と願われて伺った。

また、平成23年からはトーヤ家を桐山公民館に移したときから始めた子供が搗く千本杵もあると云うのだ。

これまで山添村桐山で行われる数々の行事を取材してきた。

始めて訪れたのは平成17年10月16日に行われたマツリである。

5人の渡り衆が戸隠神社に参拝されて社殿に向かいウタヨミをされる行事である。

呼ぶ蒸し米で調製した神饌のシラゴクも拝見したが、オドリコミに気がつかず失念した。

桐山の神社行事はその他に、新嘗祭祈年祭

寺行事では観音講大君の十九夜講

その他にハゲッショの寄り合いなどであった。

早朝に集まった神社関係者はオトナと呼ばれる長老衆(一老より4人)、区の組頭や手伝いのドーゲ(堂下)さんらだ。

境内を清掃されて神事の準備を調える。

拝殿横に設えたのが古い湯釜である。



釜縁に「切山庄九頭大明神御宮小谷弥七願勧進弥 永正十一年甲戌(1514)六月吉日七月」の刻印記銘が見られる。

500年間も現役で御湯に使われている。

県内で残される湯釜のうち、二番目に古いものと考えられ山添村の有形文化財に指定されている。

奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調書』によれば、桐山の戸隠神社(当時九頭大明神社)の往古は桐山および隣村の室津、北野山の三カ村の共社郷宮であった。

文亀年間(1501~)から永正五年間(1508)にかけて三村氏子間に感情の行き違いにより軋轢が生じた。

その結果、各村が分離したとある。

紛争の根源は湯釜にあったそうだ。

湯釜は大橋川(布目川)に投げ込まれた。

その処はたちまち「釜ぶち」と呼ばれる淵になり、淵から取り出したと伝わる。

和田、大君、大久保の3垣内からなる大字桐山の戸数は20戸。

ダム湖に沈む以前は48戸もあった桐山。

うち石屋を営む家が5、6軒あった。

石切り場もあったことから桐山は「切山」と呼ばれていた。

湯釜の刻印が当時の村名を伝えている。

足かけ24年間の工事を経てダム本体が完成。

平成1年より灌水が開始され、布目ダム湖ができた。



昭和54年12月に撮影された空撮写真が公民館に掲示されている。

ダム湖ができる前の村の状況である。

湖水に沈んだのは和田垣内。

水車は二カ所。粉挽水車もあった。

墓地もあれば湯釜を投げ入れたことから名がついた釜淵の所在も示されている。



集落に布目川が流れていた。その付近には「中島」があったと指さすK婦人。

旦那さんは、生前にお世話になった前区長だったが平成25年1月に亡くなられた。

婦人が住んでいた地の情景を話してくださった時代は嫁入りのとき。

流れる川の音はザワザワしていた。

水量が多く流れはきつかった。

そんな音を聞きながら弓張り提灯を持つ仲人さんについていった。

Kさんも弓張り提灯を持っていたようだ。

座敷に上がって座る。

「どうぞ見たってください」と障子を開けられた。

障子の向こうにはどっと村の人が集まっていた。

嫁入りした姿を見せるのは5分間。

お菓子を村人にあげたことを思い出す時代は昭和30年。

辺りにはゴンボやクリがあって採っていたと話す。

水没した元の家が建っていた方角を見ていた布目ダム湖には多くの釣り人が訪れる。

和装姿になった渡り衆は当家を含めた5人。

戸隠神社に参拝される。

神社の造営は20年に一度。

平成27年4月に行うと話す。

前回の造営に神社後方に植生する大杉を伐り倒して売った。

それをもって資金調達したそうだ。

大杉の一部は再利用されて参籠所の建てなおしの材に充てたという。

拝殿の脇に設営したのは永正十一年に製作された湯釜だ。

500年間に亘って祓いの湯に使われている村の貴重な文化財。

神社辺りに植生している雑木に火を点けて湯を沸かす。

八足に置いたサカキと数個のドロイモ。

個数は特に決まっていない。

かつては湯釜の羽根に置いていたが錆びると困ることからそうしたと長老は話す。



渡り衆が並んで始まった長老の湯祓い。

オトナ衆の最長老である一老が勤める。

サカキを手にして湯に浸ける。

左右に振って礼をする。

3秒もかからないささやかな作法である。

「おめでとうございます」と祝いの詞をかけて終えた。

湯祓いは翌日のマツリの際にも行われる。

両日とも作法をされる渡り衆の身を清める意味があるのだろう。

この日の公民館はトウヤ(当家)家である。

平成22年までは当たりになったトウヤ(当家)家で行われていた。

畳は張り替えて新しくし、渡り衆が入浴するお風呂も入れ替えた。

宵宮の晩には家で泊りもしていた。

気遣いもしなければならないし、家を修善するなどの費用負担もある。

戦後間もないころにこれらの慣習は廃止された。

さらに負担を軽減する措置を講じて公民館へ転じたのである。



その公民館前には注連縄を張った二本の斎竹を立てている。

下に敷いているのは十二束の稲藁だ。



小豆と洗い米を盛った盆もあるが、これは翌日のマツリにウタヨミを奉納された渡り衆が戻った際に作法されるオドリコミに使われる。

マツリのトウヤ(当家)家になった公民館では千本杵で餅を搗く。

公民館に移ったことがきっかけに始められた餅搗きに子供が集まってきた。

普段では子供の姿がほとんど見られない桐山。

マツリともなれば人数が膨れあがる。

祝い事に紅白のテープを張った千本杵。

千本の名で呼ばれているが5本だ。

トウヤ家がふるまう餅は蒸すことから始まる。

新しく作った臼に入れて杵で潰す。

トウヤ家の手伝いさんはトウヤ家の親戚筋。

山添村など東山中でみられる行事はどこでも同じである。



ほどよい状態になれば搗き者は子供に移った。

真剣な顔つきもあれば、笑顔で搗く子もいる千本搗きに祝いの唄はない。

搗きあがった餅は手で丸めてキナコや小豆餡を塗す。



昔は必ずクルミモチでふるまったそうだ。

クルミモチは蒸した大豆をすり潰した餡でくるんでいた。

そういうことでクルミモチと呼ぶのである。

千本杵の餅搗きは三升で二臼。



搗きたてのモチは搗いた子供たちもよばれる。

甘くて美味しい餅は座っていただく。

小さな子供は母親が手伝ってくれる。

昼に渡り衆をもてなす会食は遠慮して一旦は帰宅の我が家で食事。

その後に再び訪れた桐山では渡り衆が手作りしたアマコダケ(メロダケ)の笛を吹いていた。

紺色の素襖を身につけた渡り衆は紙垂れとつけた烏帽子を被っていた。

二人はピー、ピー、ピーと笛を吹く。

次に太鼓打ちがドン、ドンと打ち鳴らす。

もう一人はガシャガシャ(左右五本ずつのビンザサラ)を振りながらジャラ、ジャラと鳴らす。

ピー、ピー、ピー、ドン、ドン、ジャラ、ジャラの楽奏であるがトウヤに作法はない。

何度か練習をされて楽奏の調子を合わせる。



次がウタヨミだ。

扇を差し出すように前へ進み出る。

握るような感じで扇を立てて謳うウタヨミは「やっとん とん とん」で始まる。

「おうまへなる おうまへなる」と詞章をあげれば、他の4人は「ハァ」と声を揃えて合いの手で囃す。

以下同様に「鶴は鶴 亀は亀」に「ハァ」。

「鶴こそふれて舞い遊び」に「ハァ」。

「鶴の子のよしやまごはそらとうまでも 所は栄えたもうべき」に「ハァ」。

「君が代はかねてこそ久しかるべき 住吉の」に「ハァ」。

それぞれ区切りに「ハァ」と囃した最後に「松やにゅうどう」と唱えながら時計回りに一回転する。

拝礼して元の位置に戻る壱番はトウヤが勤める。

二番、三番はトウヤ以外の渡り衆が勤めるが、特に決まりもなく、この年は笛役の二人が勤めることになった。

こうして幾度かの練習を終えた渡り衆はトウヤを上座に年齢順で座った。



餅入りのすまし汁(オチツキモチ或いはオチツキダンゴと呼ぶ)をいただく渡り衆。

しばらくすれば公民館から出発した。



神社に向かう前は一列に並んで遥拝をする。

始めに山の神に向かってだ。

ピー、ピー、ピー、ドン、ドン、ジャラ、ジャラと楽奏し拝礼する。

次に弁財天に方角を替えてピー、ピー、ピー、ドン、ドン、ジャラ、ジャラと楽奏し拝礼されて神社に参進するのだ。



履きなれない下駄の音がカランコロンと響く。

渡り衆はピー、ピー、ピー、ドン、ドン、ジャラ、ジャラと楽奏しながら急な階段を登っていく。

迎えるのはオトナや組頭だ。

拝殿前で楽奏して拝礼する。

三社にも拝礼をされたら藁草履に履き替えて登壇する。

5人は二手に分かれて並ぶが、特に決まりのない並びである。

この年はトウヤ側にジャラジャラ、太鼓が並び、反対側に二人の笛に別れた。



始めにトウヤが進み出て壱番のウタヨミ詞章を唱える。

次は笛役だ。

作法は同じであるが弐番の詞章となる。

「西洋の春のあしたには」に「ハァ」。「かどに小松を立て並べ」に「ハァ」。

「おさむる宮のしるしには」に「ハァ」。

「民のかまどに立つ煙」に「ハァ」。

「松からまつのようごう おうごうの松」に「ハァ」。



「君が代はかねてこそ久しかるべき 住よしの」に「ハァ」。

「松やにゅうどう」と唱えながら一回転する。

次の参番も笛役である。

「あかつきおきて空見れば」に「ハァ」。

「こがね交じりのあめふりて」に「ハァ」。

「そのあめやみて空はれて」に「ハァ」。

「皆人ちょうじゃになりにけり」に「ハァ」。

「「君が代はかねてこそ久しかるべき 住よしの」に「ハァ」。

「松やにゅうどう」と唱えながら一回転する。

詞章を唱えた三人はいずれも右足を一歩踏み出し、右手に扇を翳していた。

ウタヨミ詞章は大正四年八月四日に書き残された『東山村各神社由緒調査』によれば「神楽歌」とあった。

トウヤは前年に本殿へ奉られていた大御幣を持って出る。

新しい大御幣は神事の際に神職が奉った。

そのときに供える神饌は御供トウヤ(当屋)が供したものだと聞いた。



二本の古い小幣も持ちだされたて渡り衆は注連縄を張った参籠所にあがり一列に座る。

オトナから「おめでとうございます」と挨拶を受けて差し出された甘酒をいただく。



参拝者も同じように用意された甘酒をいただくことになっている。

こうして宵宮参拝のウタヨミを済ませた渡り衆は列をなして公民館に戻っていった。

桐山の行事は数年前までは14日、15日であった。

現在では14日に近い土曜日が宵宮で、日曜日がマツリである。

私が初めて拝見したマツリは平成17年

その年は10月16日であったことから既に変容していたのだった。

桐山の渡り衆が奉納されるウタヨミやオワタリ行事は、元は山添村・桐山を中心に旧東山村の山添村室津、奈良市北野山の三村合同の行事であった。

三村は隣村の山添村峰寺の六所神社に参拝される峰寺、松尾、的野と同様に一年ごとに大字がもち廻りで交替していたように桐山、室津、北野山の大字ごとのもち廻りであった。

言い伝えによれば、永正五年に分離し現在地へ遷した戸隠神社のオワタリ行事は各村で行われるようになったのである。

(H26.10.11 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

嘉吉祭の御食調製③

2015年05月23日 09時07分59秒 | 桜井市へ
三日目は嘉吉祭の神饌・御供作りの最終日。



文様が美しい和稲(にぎしね)と呼ぶ米御供作りは最後の調製に入っていた。

全神経を集中させる作業を撮っていたNHKの取材クルー。

この夜に訪れた二人の写真家に「ストロボを焚かずにお願いします」と伝えて作業の隙間を撮らせてもらう。

果実盛りの御供には最上部に緑、赤、黄に染めた米を乗せる。



薄く切ったダイコン?を敷いて染め御供を手でパラパラと落とす。

落とす直前には米御供が動かないように竹ヘラで糊を広げておく。



子供も手伝っている米御供落としであるが、糊付けや色遣いは大人の繊細さが要る。

一方、主たる4本の和稲(にぎしね)と呼ぶ米御供も最後の調製に入っていた。



赤、黒、黄、白に彩色された垂木餅の一枚、一枚を糊でくっつける。

一周すれば、まるで広がる羽根かプロペラのように見える。

丸切りの餅を挟んでさらにもう一段を重ねて調える。

さらに上にも餅を乗せて赤い実を周囲に並べる。

中央の空間は果実盛りと同じように米の染め御供を落とす。

糊を塗って動かないようにして出来あがる。



取材クルーの狙いは和稲作り。

大部分はこれまで自宅で一人作業。

静寂の宅間で作業をする。

この日は上部の飾り付け。

色付けした垂木餅の小片は息を止めるくらいにそろりと乗せる。

その姿をがっちり撮ってできあがれば製作者のインタビュー。

作る難しさなどを収録して、最後はあーしてください、こうしてくださいの画面作り。

終わったのは夜8時半が過ぎていた。

和稲の文様は多武峯妙楽寺仕様と考えられるの「卍」型や「◇」型、「△」型に六辺形などの幾何学模様。

それぞれが彩色されており、いずれも美しい円柱である。



「ここが難しいのよ」と指さす村の職人たち。

手ほどきを教わってきた作り方。

代々の先人たちから受けて継いできた作りはこうして今年もできあがった。

嬉しさと喜びが込み上げる。



取材クルーが引き上げても、細かい部分を手直しされる婦人の手は食用紅で染まっていた。

なお、荒稲(あらしね)は既に完成している。

自宅で一人、精魂込めて作られた。



長い稲穂の芒(のぎ)を用い、毛は逆立ち、荒々しい形状に見えることから「毛御供(ごく)」とも呼ばれている。

刳り木の台に載せた下部はギンナンにカヤの実。

粳(うるち)を使った白穂にモチ米を使った黒穂の芒(のぎ)が美しい。

天頂にそれぞれ真っ赤なホオズキを添えているが、右は剛毛のように見える。

なお、調製した御供は祭典当日の朝に社殿に移される。

その際だと思うが、果実盛りや和稲の天長にはトウガラシ、ピーマン、スダチなどを挿しておくと話していた。

調査時間がとれず和稲・荒稲とも高さ・直径などを計測し忘れた。

四角い大きな餅は二日目に当家が2升のモチゴメで搗いた。



倉餅(くらもち)と呼ばれる餅は三日目に色付けされる。

緑、赤、黄の彩色は三角形。

祭典後に切り分けて御供提供者に分配される。

六辺形の小片餅は垂木餅と呼んでいる。

これは家が建つほどに富み繁栄するように願った餅であると長岡宮司が話していた。

つまり、「倉(若しくは蔵)」の屋根を支える垂木(たるき)を模した倉餅なのである。

果実盛の御供作りにストロボを炊いたのは取材クルーが去ってからだ。

クルーがとらえた映像は「新日本風土記」で放映される。

1年後或いは2年後にもなるかもしれないと云う。

おそらく四季折々の風景を撮って繋いでいくのだろう。

半年後の平成27年4月7日に「新日本風土記」の取材デイレクターが送ってくれたハガキが届いた。

編集された映像が4月10日に放映されるという案内である。

「その節はフラッシュなどお心遣い、ご協力をいただきありがとうございました」とあった。

これまで何度かテレビ取材とご一緒させていただいたことがあったがお礼のハガキを送ってくださったのはこの人だけだ。

電話をかけて逆にお礼を伝えた。

(H26.10.10 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

鴨神實講の宵宮還幸

2015年05月22日 09時36分27秒 | 御所市へ
戌亥講が会食されている時間帯。

もしかとすれば上頭講が参拝しているかもしれないと思って高鴨神社に向かった。

到着していた講中はネクタイを締めたスーツ姿である。

講中は4人。

宮司の承諾を得て撮らせていただくが、神事であるゆえ邪魔にならないようにと指示があった。

平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』によれば鴨神の宮座講は9講ある。

「土地永住の子孫の組織せるものにして、最も権威のあるものゆえ、決して座外の氏子は加入せしめず。今後、新座を組織する場合も同じ。座の首座を一老または年頭という」と書いてあった。

発刊当時の宮座講は8座から新座を加えた9座である。

内訳は上頭(19人)・諸頭(10人)・戌亥(4人)・実の出座(8人)・冨田(6人)・古捿(3人)・弥栄(7人)・垣内(6人)・実寿毛登(4人)である。

奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』に載っている鴨神の宮座講の内訳は上頭座(19人)・諸頭座(10人)・戌亥座(4人)・實(巳)の出座(8人)・冨田座(6人・上頭座にも加入)・古捿座(3人)・彌榮座(7人)・垣内座(6人・5人は上頭座にも加入)・實壽毛登座(4人)とある。

中田太造著の宮座講の引用は『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によるものであろう。

水野垣内で聞いた「やさか講」はおそらく彌榮座のことであろう。

訪れた時間帯に参拝されていた宮座講は「みのり講(實講)」と呼んでいた。

宮司が一礼されて祓え詞を唱える。

サカキを左右に振って講中を祓い清める。



そして、「ヨロコビノ ヨロコビノ ゴヘイガ マイルーマイルー ワーイ」と発声されて最奥に鎮座する社殿に向かった。

「みのり講」はおそらく實壽毛登座であると思われる。

会食をしていた戌亥講のYさんの話しによれば西佐味の人たちのようだ。



高鴨神社への宵宮参拝は9講それぞれが順に参拝されて夜8時までに終わらなければならない。

それは8時から東佐味・西佐味・鴨神下・鴨神上の4カ大字における寿々伎提灯の献灯があるからである。

なお、大御幣を持って参拝する翌日11日のマツリは朝8時頃から10時過ぎまで各宮座講が順次行われるようだ。

(H26.10.10 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加