マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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2013十津川遊びp1

2013年12月31日 05時25分45秒 | もっと遠くへ(十津川遊び編)
この年も出かけた十津川村の滝川。

ビジネスマン時代に仕事を共にした仲間たちと年に一度が落ち合う地だ。

今年で30回目となる十津川の遊びのコースはいつもと同じ。

朝は8時10分に友人のUさんとAさんとともに我が家を出発する。

ジャスト9時に着いた大和高田でUさんやT夫妻と合流する。

一路、旧大塔村を目指すが、いつも待ち合わせをしていた五條市旧西吉野村の「こんぴら館」が閉鎖中だったことから、この年はそこより先にある天辻峠越えの「吉野路大塔」・「星のくに」だ。

着いたのは10時15分だった。

そこにはいつも遅れてくるSさんが待っていた。

毎年どころか、始まったころから参加していたMさんは、家の事情でやくなく断念。

寂しいことだが仕方がない。

ゆっくりその場で話している間はない。

行先は風屋ダムを越えた滝川だ。

2年前に発生した豪雨・山崩れはあちらこちらに無残な姿。

自然が回復するには何十年もかかることであろう。

毎年世話になっている民宿津川へ着いたのは11時半だ。

国道は舗装されて、トンネル化も多くなったことから、走りやすくなった。

40年前に訪れた頃は、舗装されておらず、地道がほとんどだった。

くねくねの道はワインディングロード。

ワゴン車の後列に座った友人たちは間違いなく酔った。

乾いた砂利道は車が通るたびに砂煙をあげていた。

年々、早くなる国道は快適感で走行できる。

民宿津川に到着すればお二人のおねえちゃんが前庭に生えていた雑草を刈り取っていた。

数年前に母親を亡くしたが、今でも健在のおやじさんの後を継いで営業中だ。

ありがたく今年も、昴の郷の「星の湯」・「温泉プール」、十津川温泉の「庵の湯」、湯泉地温泉の「滝の湯」・「泉湯」で利用できる日帰り温泉「割引券」をいただいて支流滝川の上流へと向かう。

林道内原線を走っていけば「全面通行止め」の立て札があった。

「これより4.5km 崩土および路肩決壊のため全面通行止め」で笹の滝へは通行不可であると十津川村が立てたゲートだ。

ここは最上流の「奥里」。

ぎりぎりいっぱいの村人が利用する生活路である。

40年間も通い続けてきた支流滝川の最上流の笹の滝。

初めて行ったときの村道景観に感動したことを覚えている。

覆いかぶさる樹木の間から零れる光が眩しかった。

キラキラと輝いていた。

いつしかその感動も慣れっこになっていた。

観ることどころか、立ち入ることさえできなくなった滝の景観。

道路復旧のめどはたっていない。

今もまた、台風18号(マンニィ)の影響で奈良南部は激しい雨の恐れがある。

2年前の豪雨にならないよう、祈るばかりだ。

仕方なく昼食の場を求めて川を下った。

何時、雨が降るかもしれないこの日の天候状態。

トイレが設置されている広場としたが、試しに川に下りてみた。

僅かに場があった。



パラソルを設置したものの、ときおり吹く強い風で飛んでいく。

危険な状態を感じて、やむなく外したパラソル。

日中の日差しはまともで暑い。

持ってきたコンロは2台。

1台は新品で、198円で買った徳々盛り乾麺うどんを茹でる。

茹でる時間は10分間。

その間はもう一つのコンロで料理する。

いつも参加しているF料理長が日本のマチュピチュこと、和田山の竹田城跡へ行っているらしく、我こそとフライパンを手にしたTさん。



炒めるぐらいはラクラクとかで、トライアルで買ってきたバジルソテー味付け鶏肉を焼いていく。

大きな鶏肉が3枚も入って298円で売っていた。

シオ・コショウを振ったこま切れゴーヤも入れて焼く。

乾麺うどんはまだ茹であがらない。



もう一つの一品は、これまたトライアルで買った宮崎工房あらびきソーセージ。

400gで298円で売っていた。

味付けは不要のソ-セージのできあがりは早い。

うどんが茹であがるまではパクパクと口に放り込む。

食が進むフライパン料理である。

茹でたうどんは4束ずつを2回。

合計8束を茹でた。

カップ椀に盛りつける前に出汁作り。

出汁はミツカン麺つゆ2倍、プライスカットで178円だった。

トイレ横にある山から湧き出る水道水を汲んできて2倍に薄める。



ショウガ、ネギ、モミノリをトッピングしていただく。

のど越しが良いからツルツルだ。

いつもの味のぶっかけうどんに満足する。

2回目に茹でたうどんの半分はツケ麺で食べる。

その残りの半分はフライパンで炒めてゴーヤチャンプルーうどん。



フライ返しも慣れたものだ。

ブタバラスライス肉800gの1/5ぐらいを予め分けておいた。

それにゴーヤを混ぜて炒める。



フライパンの油はエクストラバージンオリーブオイルだ。

家で使っているオイルを持ってきた。

焦げ付かないし、香りが良いので、最近は安売りであってもサラダオイルは使わなくなった。

うどんを混ぜる際の出汁は創味のつゆ。

うま味を引き立てる出汁である。



毎度、家で食べている同じ味に箸が進む。

ひとときの食事を終えて釣りにチャレンジ。

この川は水コケが貼りついているからアユの生息川。

ときおり、キラッ、キラッと光るが、釣れるワケがない。

小っちゃな魚もいるけど、何なのか。

ザルで掬ったこまっちゃん。

待つことしばし、一尾が中に入った。



どんなんかいなと思えば、アブラハヤだった。

その後もしばらくはここで時間つぶし、ではなく竿を出して釣りをすれどもさっぱりアタリがない。

玉子を持ってきたことを思い出して、玉子焼き。



さすがのTさんは片手で玉子割り。

アルバイトをしていた料理屋で覚えたとか・・・。

ぶっかけうどんの残りのネギも入れて焼きあげる。



味・・・、はない。

シオ、コショウ入れてなかったと笑って返すTさん。

料理長見習いの一日目である。

食事を摂ってから数時間後の15時。

子供のクラブ参加で遅れて到着したW一家もここへ下りきた。

こんな場所でもソフトバンク携帯が繋がるってことに驚いた。



繋がらなければ顔を合わせることもできない、広場の下。

ありがたいことである。

川原で記念写真を撮って、日帰り温泉を目指す。



この日は昴の郷の「星の湯」。

着いたのは16時過ぎだった。

温泉で疲れた身体を癒して、民宿津川に着いたのは18時前。

新しいトンネルが2か所もあって、ここでも早くなった。

あれほど食べたのにお腹が減ったということで食事は18時半にスタートした。

そのころから降りだした雨は降りやまずで、子供が楽しみにしていた花火は断念する。

日帰り温泉で癒した身体は、寛ぎの夜の宴。

一年ぶり、三年ぶり、久しぶりに合う顔ぶれに笑みが自然に零れる。

勝手知ったる民宿津川。

我が家のようで、勝手に冷蔵庫から取り出したビールで乾杯する。

ゆったりした時間が流れていく。



津川名物のシシ鍋は40年間も変わらず、である。

親父さんが射とめたシシ肉を味わった。

昨今はねえちゃん二人が作った料理でもてなし。



田楽味噌のナスが美味しいのである。



昨年はまったくなかったアユも皿に盛られて美味しそう。

すこしずつ戻っているようだが、匹数が少ないのでアユの造りは膳になかった。

青葉、カボチャ、レンコン、ショウガに・・・モロヘイヤの葉の天ぷらだ。



美味しかったのはシカ肉のカラアゲじゃなくて、竜田揚げ。

これが美味いんだなぁ。

美味しい津川の料理で舌が満足に唸る。

いつもの通り饒舌になったAさんのお話に耳を傾ける。

何時間、話しこんだことだろうか、外は雨。

花火もできない夜の宴。

カラオケしたいと申し出て、お願いするも通信カラオケは使用不可。

昨年に出力した契約条項を知らずにそのままにしていたら契約が切れたようだ。

あれやこれやとカラオケ装置をみても判らずじまい。

カラオケマイクならとテレビに繋げて実行開始。

スピーカーはテレビからの音声なのでもうひとつだが、とにかく唄える。

そのころ、21時過ぎ。

出てきた点数は70点そこそこ。

あれやこれやと選曲して唄い続ける唄い手さん。

80点。ここまでくればもっと大台にも、というわけで吠えまくるゴジラマンは私だ。

90点。

こうなりゃ我も我もと勢いがつく22時。

いったい、何時になったら終わるんだろか。

唄い手さんはUさん、りっちゃん、ゴジラマンに続いてとうとう登場したUさん。

おどるポンポコリンで幕を閉じた時間は23時だった。



そのようなことで、飲んだビールはこれだけ。

例年より少ないのは欠場したMさんのお陰であろうか。

(H25. 8.31 SB932SH撮影)
(H25. 8.31 EOS40D撮影)

瀧倉瀧ノ蔵神社風鎮祭

2013年12月30日 08時38分10秒 | 桜井市へ
瀧倉では盆入り前の1日から7日までの毎日、上六人衆が瀧ノ蔵神社へ朝、昼、晩に参って太鼓を打っていた。

かつては12日まであった。

13日は瀧倉の盆入りで先祖さんやガキンドを祀る。

それから2週間後の26日に行われる千灯明。

それをショウリョウオクリ(精霊送り)と呼ぶようだ。

桜井市の山間、上之郷の村落のひとつになる瀧倉を訪れるようになって7年目になる。

ずいぶんと前に聞いていた瀧ノ蔵神社の風鎮祭をようやく拝見することになった。

到着したときには、既に神事が始まっており、六人衆は三巻の般若心経を唱えている最中であった。

参る場は拝殿、前庭の向こうに本殿がある。

ご祭神の三神を祀る三間社・流造は朱塗りの本殿で一段高い地にある。

かつては本殿下の前庭で踊っていた。

中央に踊り場を設けて、その周りを踊る村人たち。

当時は近隣他村からも大勢がやってきて踊っていたという。

一老が若かかりし青年の頃だと云う時代は、今から70年も前のようだ。

いつしか踊ることもなくなったが、その場には四方に笹竹を立てている。

この年は風水害もなく、穏やかだったと話す。

拝殿中央に設えたローソク灯し。

いつもの通りの7本に火を点けて般若心経を唱えていた。



神々しいぃ灯しはそのままにして直会の場となる参籠所に移った。

しばらくの間は村人たちの会食時間。

夜更けの団らん時間の瀧倉は特に冷え込みが厳しい。

それから1時間半余り、「そろそろ始めようか」と村の行事の千灯明が始まった。

場は本殿下である。

二つの狛犬の台座に板を渡す。

そこへ立てたやや小さめのローソク。

参拝者一人ずつが1本、一本を立てて火を点ける。

小さなローソクに点けては次の一本。

ずらりと並んだ3列の灯りはゆらゆらと風に揺れる。

消えれば再び火を点ける。



この日の行事は風鎮祭。

風に耐えるという願いは豊作への祈り。

ローソクは実った稲穂。

揺らす、消す大風は吹き荒れ、稲を倒す。

風には負けなたくないという風鎮めのローソクの灯りは実に幻想的な光景になった。

千灯明はそれほど多いという意。

百灯明とも呼ぶ地域もあるが、瀧倉では「お盆の送り火」だと話す。

「8月1日から12日までの毎日は、上・下の六人衆が交替して神社で太鼓を打って般若心経を唱えていた」。

数日前に伺った二老の話しである。

お盆に入った13日はめいめいが神社に参る。

14日は先祖さんの位牌を座敷に並べ、ガキンドにもお供えをする。

いわゆるオショウライさん迎えだ。

翌日は送りをする。

それは各家で行われる盆迎え・送りの在り方。

この夜の千灯明は村の盆送りだと話す言葉に納得する。

(H25. 8.26 EOS40D撮影)

西里の廻り地蔵の地蔵会

2013年12月29日 08時32分11秒 | 斑鳩町へ
平成22年3月に取材させてもらったことがある奈良市の丹生町。

三日地蔵と呼ばれている地域の行事は祭っていた家から、次の家へ地蔵さんを背中に担いで廻している。

地蔵さんは納めた厨子ごと運んでいた。

同市の中山町でもよく似た廻り地蔵があるらしい。

奈良県内では他所においてもされている処があるのか気にかけていた。

何を調べていたのか思い出せないが、ふとしたことから判った斑鳩町の西里。

県立同和問題関係史料センターが纏めた『リージョナル13号』や斑鳩文化協議会刊の『斑鳩の生活史』で詳しく紹介されていた西里の廻り地蔵さんである。

古くは法隆寺の中院と西里の家々を一日おきぐらいに廻っていたと伝わる。

今では中院とは関係なく、西里の旧村60戸ぐらいで廻していると書き記されていた史料が手掛かりだった。

廻り地蔵さんは一年に一度は公民館に祭られることを知ってその場所を探していた。

雨の降る日であった。

法隆寺駐車場の人や歩いている婦人に聞いても判らない。

地区はここら辺りだと判っていても、知る人と遭遇しない。

何人か目の婦人に尋ねてようやくその場が判った公民館には提灯が並んでいた。

会場に居られたご婦人たちに取材主旨を伝えて、承諾の上、会場に上がらせてもらった。

そこに祭ってあったのが廻り地蔵さんである。

廻り地蔵の始まりは定かでないが、中院の権少僧都千晃が安政六年(1859)に記された文書に、コレラが流行ったが村では誰も発病しなかったとあるそうだ。

それは地蔵さんのご加護であったと、村人が感謝して廻り地蔵さんの厨子を修理したと伝わる。

文書によれば廻り地蔵さんは聖徳太子の御製で、慶長二十年(1615)に起こった大坂夏の陣。

大坂城を焼きつくした際のことである。

理由は定かでないが、法隆寺西郷をも焼きつくした。

西郷は中井正清が居住していた地だ。

中井正清こと中井主水正清は郡山城を建築した大工の棟梁。

その関係で焼いたのであろうか。知る人はいないらしい。

慶長二十年(1615)の四月二十六日。豊臣勢は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて筒井定慶が守備していた郡山城を落とした。

付近の村々に放火したとされる。

西郷が焼き打ちにあったのは慶長二十年(1615)の四月であったと伝わっていることから、この件であったろう。

豊臣勢の焼き打ちによって西里(西郷)が大火に見舞われたが、地蔵さんが中院に飛んできて、法隆寺を火災から守ったと文書にあるそうだ。

今尚、廻り地蔵をされている家は西町の旧家。

60戸の家によって廻しているようだ。廻りをする順は決まっている。

厨子の裏側に設置された板書の順に従って廻す。

この日に来られていた西ノ口垣内のご婦人に聞いた地蔵さんの廻り。

一日、或いは二日おきもあるらしい。

廻る順番は板書に書いてある通りであるが、玄関から玄関へ運んだ家は一軒隣でもない。

ぐるりと裏へ回って廻す場合もある。

距離が遠のくのである。

廻り地蔵さんを納めた厨子は屋根に取っ手がある。

重さは7kgぐらいであろうか。

年寄りには持つことができない重さだ。

大正12年生まれのご婦人は「持つことができないからお嫁さんや若いもんに替ってもらうんです」と話す。

何人かは一輪車に載せて運んでいると云う。

廻り地蔵がやってきたら、お供えをする。

洗い米は基本であるが、その他の品物には決まりがない。

この日のお供えのようにカンピョウ、シイタケ、コーヤドーフがだいたいそうであると云う尼講の婦人たち。

場合によっては家の晩のおかずをお供えにすることもあるようだ。

西ノ垣内では料理でなくお菓子にしたと話す。

長期旅行などで廻りの家が不在と判っている場合には、二日どころか数日間も滞在する廻り地蔵さん。

面倒ではなく、「ありがたいのです」と話した婦人はいつもやってきたら床の間に置いていると云う。

こうした廻り地蔵の在り方を聞いて、この日、再び訪れた西里の公民館。

8月24日の地蔵盆の場は、かつて町内の西福寺本堂での営みであったが公民館に移った。

西福寺の尼講の婦人たちが主体で行われている。



始めに住職による法要が営まれる。

尼講の人たちは地蔵盆だけでなく、春・秋の彼岸、夏の施餓鬼、10月の如来さんのご回在、11月の十夜も、西福寺でお勤めをしているそうだ。

朝9時、公民館に地蔵盆の提灯を掲げるとともに、廻り地蔵さんを座敷に安置した。

全員が揃ってするわけでもなく、来られる人が飾ったと云う。

厨子(高さ42cm・横幅27cm)に納まっているお地蔵さんは高さが20cmぐらい。

はっきりとはしないが、なんとなく石仏のようである。

金色の衣装を纏っている。

お地蔵さんのお供えはカンピョウ、シイタケ、コーヤドーフの三品に洗い米だ。

「なむあいだ なむあみだ」を唱える法要には尼講の他、父親・母親に連れられた子供や赤ちゃんまでも参列する。



法要を終えて住職が退席されたあとは尼講の数珠繰りだ。

「はーい、みんな席について輪になってください」の合図に座った。

導師は二人。お一人だけは地蔵さんに向かってナンマイダを唱えながら数珠を繰る。

もう一人は撞木で鉦を打つ。

一人二役もできないから、こうしていると話す尼講。



生まれたての赤ちゃんも参加した数珠繰りは20回だった。

尼講の一人がその回数を数えていた数取りのお数珠。



それが満願の20回数である。

大玉の念珠が回ってくれば頭を下げる。

子供たちも見習ってそうしている。



「例年は少なかったが、こんなに大勢が参ってくれたのは初めてだと思う」と尼講が云うぐらいに賑やかに行われた数珠繰りを終えれば、ありがたいことに背中を丸めて身体堅固。

一人、一人が重さを感じる大念珠である。

前日の夕刻、西ノ口垣内の地蔵盆ではゴザを敷いて数珠繰りをしていた。

1時間後には東出屋敷垣内でも同じように数珠繰りをしていたと話す。

西里は新福寺(2組)、西ノ口、陵(3組)、業平東、畑ケ中、東大小路、西大小路、東出屋敷、西出屋敷、新西出屋敷の10垣内。

23日の地蔵盆の数珠繰りはそれぞれの垣内ごとに行われているのか、一年後に聞き取ってみたいものである。

ちなみに西里には3組の愛宕講があるようだ。

それぞれの講に厨子があって巡回しているらしい。



その講中の証しかどうか判然としないが、集落内には愛宕山の刻印がある燈明の石塔が立っていた。

(H25. 8.24 EOS40D撮影)

再発した予期しないエラー

2013年12月28日 08時52分59秒 | つうしん
6月25日に再インストールで対応処置したstarsuite表計算シート。

その後は問題もなく使えていたが、8月23日にまたも発生した「予期しないエラーが発生しました。変更したファイルはすべて保存されているので次のプログラム起動で復元されるはずです」。

復元スペックは難なくできるが更新する度に出力する始末だ。

仕方なく再トライ。プログラムを削除して再インストールしたのだが、その際に何かも削除してしまった。

それに気がついたのはstarsuiteインストールが終了してからである。

多数のエクセル表の表示に変化がみられる。

エクセル表であるにも拘わらず、starsuite表になっているのだ。

どうやら間違って削除したのはエクセルに関する何かであったのだ。

これもまた修復するはめになってしまった。

倉庫から取り出したエクセルソフト。

これだけでいいと判断してエクセルソフトだけを再インストールした。

終わってクリックしてみればアツトラインの形式が違っている。

そう、古いバージョンでインストールしてしまったのだ。

使っているソフトは2007バージョン。

最初は不慣れであったが、今では使いやすい。

2007バージョンでエクセルだけを再インストールした。

ところがだ、ワードが開かなくなった。

何らかの作用が働いてワードがおかしくなった。

こうなりゃ2007ソフトはすべてをインストールしなければと再、再トライ。

ようやく落ち着くことができたstarsuiteのトラブルは再発する可能性を秘めているということだ。

ところが4日後にまたもやおかしな事象が発生した。

面倒な処置をしてしまったエクセルソフトだ。

この日の画面は気にならなかった。

いつもの通りにエクセルシートを開けた。

表示が違う。

元の木阿弥になっているのだ。

何がどう影響を与えたのか、さっぱり判らない。

インターネットオプションの詳細設定が戻ってしまうのも気にかかる。

パソコンには何かの疫病が住みついているのかと思うぐらいだ。

(H25. 8.23、26 記)

額田部北町棚ケ崎地蔵講の数珠繰り

2013年12月27日 09時17分00秒 | 大和郡山市へ
13組の人たちが数珠繰りをしていると聞いてやってきた大和郡山市の額田部北町。

公民館の前にある児童公園。

そこには地蔵尊が祭られている。

その地蔵さんは「棚ケ崎(たながさき)」という名前がついていると自治会長が云う。

今では東池を埋め立てた児童公園に佇んでいるが、かつては民家傍にあったと話す。

道路を拡張した際に移された地は旧公民館であった。

「その後も、あっちへいったり、こっちへと、ようやく落ち着いてここへ来ましたんや」と住民が話す時期は30数年前らしい。

どこでも大概の地蔵さんはそういう具合に移動する。

棚ケ崎の地蔵さんの前で数珠繰りをされるのは、13組垣内中の48戸の地蔵講。

戦前に造立されたと云う地蔵尊の証しは、百万遍大念珠を納めている講箱に墨書されていた「昭和拾九年8月23日新調 額田部北方棚ケ崎 地蔵講」が示す。

戦後になって地蔵さんの祠を新調したようだ。

それを示すのは御供を供える板である。

それには「昭和25年8月23日新調」とあり、在地21人の協力者の名が記されている。

御膳と呼ばれるお供えは五椀。

洗い米・小豆椀、瓜を盛った椀、シイタケ・コンブ・ホーヤドーフを盛った椀、麩の椀に茶葉の椀はいずれも生御膳である。

御膳の前にも数々の御供がある。

瓜、茄子、薩摩芋、梨、林檎、葡萄にシイタケ・コンブ・コーヤドーフ・カンピョウ・カツオ粉などである。

例年に倣って当番さんが供えた。

お花を飾って、ローソク・線香に火を灯す。

子供も交えて参列する数珠繰りは輪になった。

この年は16人が集まった。

始めに地蔵尊に向かって法要をする融通寺住職。



輪に入らず手を合わせる婦人も居る。

いつもなら西日が射して暑い地蔵盆の日。

この日の雲行きは怪しい。

一昨年、昨年とも突然の雨に見舞われた。

大急ぎで場を移したのは公民館だった。

近くにできた施設があるのもありがたい。



何回繰り返すか、数珠繰りの回数を数える人はいない。

法要を終えた住職は輪中の人らに向かって鉦を叩く。

数取りは住職が手にしたお数珠である。

11回で「そろそろ終わろう」と云って終えた数珠繰り。

結局のところ、回数は何回であったのか判らないが、おそらく20数回。

なんとか雨も降らずで、笑みが零れた。



数珠繰りを終えれば、ありがたいことに子供も背中を丸めての身体堅固。

一人、一人が重さを感じる大念珠である。

地蔵盆は夕方にされる地域が最も多い。

18時、19時、20時よりも遅い時間帯に営みをされる地域もある。

それらが終わる頃の20時過ぎ。

突風が吹き荒れる大雨になった。

無事に終わったのだろうか。

翌日も雨が降り続ける。

24日に地蔵盆もされる処がある。

どのように対応したのか気にかかる。

(H25. 8.23 EOS40D撮影)

天井町弘法井戸の地蔵さん

2013年12月26日 07時28分47秒 | 大和郡山市へ
弘法大師の井戸替えの際に聞いていた地蔵盆に立ち寄った大和郡山市天井町。

町内の婦人たちが集まってカセットテープが唱える般若心経に手を合わせる。

叩く木魚の音色がポクポクと聞こえる。

シートを敷いてはいるが座ることはないこの日の地蔵盆。

蟻が群がってきたので、立っての営みだと話す。



三巻唱える般若心経はカセットテープだけに終わる都度巻き戻し。

それを繰り返す地蔵盆の営みである。

決まっている一定金額の賽銭は、お参りを済ませて当番の人がその場で回収する。

供えたお菓子などを配って解散した。

(H25. 8.23 EOS40D撮影)

福住町別所永照寺下之坊の地蔵会式

2013年12月25日 07時01分55秒 | 天理市へ
村人19人が参拝された永代供養に菩提を弔う地蔵会式。

福住町別所永照寺下之坊の営みである。

永照寺下之坊本堂前に建っていた地蔵堂は今にも壊れそうだった。

つい2カ月ほど前から村の大工さんが手をつけたお堂の大修理。

「ほんまは土台からしなくちゃならんが、村が出費するには負担があまりにも大きくなる」と、買って出た村の大工さん。

納めてあった地蔵さんの厨子も一旦は分解して元に戻して復元したそうだ。

ボロボロになっていた地蔵さんの輪っかの光背も修理したと云う。

美しくなった地蔵堂は明治14年8月以来の平成大改修である。

実に133年ぶりに輝きを取り戻したのである。



改修の際に蔵から出てきたたくさんの絵馬がある。

同じようなデザインであるが、何を祈願しているのか判らないと檀家総代は話す。

地蔵堂の横に祭ってある十九夜さんの石造仏の祠も奇麗になった。



地蔵堂改修を祈念にたくさん盛った御供を供えて、一旦は本堂に上がった村人たち。

永代供養に菩提を唱えて焼香をする。

それから地蔵堂に移って地蔵会式が始まった。



地蔵堂は狭いだけに境内に溢れて手を合わす村人たち。

バラモン杉が見守るように立っている。

(H25. 8.23 EOS40D撮影)

イオンの焼きそばおにぎりセット

2013年12月24日 08時08分20秒 | あれこれテイクアウト
この日は平坦・山間を駆け抜けるように地蔵盆の取材をしなければならない。

大和郡山市の一部を終えて天理市の山間へ。

そのあとは再び大和郡山市へ戻って第二部となる。

間を挟んだ途中の昼ごはんはどうするか。

時間的な余裕はそれほどない。

短時間でお腹を満たさなければならない。

立ち寄ったのはイオンの大和郡山店。

ほぼ、毎週火曜日の朝には買い物をする。

狙いは安売りの玉子である。

この日は食材を探している時間はない。

昼食を満たす弁当売り場へまっしぐらだ。

手ごろな値段の弁当を探してみるが、お気に入りはない。

あれやこれやと迷っている時間もない。

ふと目についた弁当は盛りだくさん。

298円の焼きそばおにぎりセットに決めた。

一品なので買い物袋は求めない。

そうすれば2円引き。

ありがたいイオンのサービスはいつも通りだ。

焼きそばに4品のおにぎりがある。

赤や黄色のふりかけに海苔を巻いたおにぎりだ。

おかずが盛りだくさん。

ハンバーグ、コロッケ、チクワの天ぷら、玉子焼き、鶏のカラアゲ、半切れのカキアゲ、赤いソーセージである。

メインの焼きそばに豚肉を感じなかったが、全般的に味はまぁまぁ。

おかずが多かったからほぼ満足に点数をつけておこう。

(H25. 8.23 SB932SH撮影)

高田口釈尊寺の地蔵盆

2013年12月23日 07時55分47秒 | 大和郡山市へ
寺伝によれば開基は聖武天皇のころ、明暦二年(1656)に中興の祖である法春大僧都が復建したと伝わる大和郡山市高田口町の釈尊寺。

JR郡山駅下車して西に50mばかりの処で外堀の外れにあり、大和北部八十八カ所霊場の58番にあたる札所。

ときおり訪ねてくる札所巡りの巡礼者がご朱印を求めてやってくるそうだ。

普段は扉を閉めている釈尊寺。

毎月の第二日曜の朝9時から1時間ほど、町内の当番の人が清掃・花飾りをするときだけは開けていると云う釈尊寺の本尊は室町時代作と伝わる十一面観音立像を安置している。

脇仏には鎌倉時代作とされる阿弥陀如来座像や古くからとしか伝わっていない行者像も安置している。

なんでも国宝級の仏像もあったらしく、「アメリカに行きよった」と、この日の当番の人たちが云う。

当番は毎年替る自治会の区単位。

3区あるが守っているのは旧村の2区だけに一年ごとに交替する回りである。

この日の行事は高田口の地蔵盆。

薬園寺住職が来られて法要を終えたばかりだった。

4年前までは善正寺のご住職が勤めていたが、交替したようだ。

お勤めをしていたのは釈尊寺に安置している木造地蔵菩薩立像で、藤原時代初期の作と伝わる。

今日のお参りは驚くほどの人が来られたそうで、下げた御供を貰って帰ったばかりだと云う。

かつてはご詠歌を謡っていた年寄りが集まっていたと云う。

その頃も御供を供えていた。

大勢の子供がいた昔のことである。

「順番に並べ」と云われて御供下げにザルを持ってきたとこを覚えていると話す。

ご詠歌を謡っていたのはおそらく観音講の人たちであったろう。



襖を開けてもらって拝見した講箱には「大正元年拾参年弐月 施主 □□□□ 大字 高田口 観音講中寄贈」の墨書文字があった。

講箱の周りには10人の婦人たちの名も記されている。

蓋を開ければ、数珠と真新しい撞木があった。

ご詠歌を謡っていたと云う講中は、その道具から数珠繰りをされていたと思われるのであった。

(H25. 8.23 EOS40D撮影)

小泉町楠地蔵さんの地蔵盆法要

2013年12月22日 07時51分57秒 | 大和郡山市へ
楠地蔵さんの愛称で呼ばれている地蔵尊は大和郡山市の小泉町にある。

富雄川の小泉橋信号付近にある地蔵さんは小泉町市場の西垣内の婦人たちが管理されている。

当地は富雄川沿いの道路を走る車やJR大和小泉駅に向かう人たちが通る通い道。

通勤、通学の人たちがしょっちゅう通る処である。

「ハイカーも多く通るけど、地蔵さんは見向きもしてくれんでな、宣伝しといてや」と云われて急遽取材することになった。

西垣内の婦人たちは、毎月23日がお勤め。

朝早くからお地蔵さんを奇麗にしている。

婦人は9人、毎月の当番を決めて朝、夕に花を添えている。

座るベンチには座布団も敷いた。

この日の朝もそうしていた。

朝8時には市場の安養寺の住職が来られて法要をされる。

お花を飾って住職を待つ。

時間は刻々と過ぎて朝日が眩しい。

夏の朝日は暑いからと云って、幕ではなくカーテンで日除けした。

そんな話しをしていたときにやってきたご住職。

夏の朝は日差しもきつくて汗が流れる。

地蔵さんの前に座った席はゴザ。

住職とともに婦人も並んで座る。

私らは足を伸ばさなければと、ベンチに座る。

ご住職には団扇で涼んでいただく。

法要はこうして始まった。

往来する人たちは何事かと思われる景観である。

法要をされた一同は揃って手を合わせる。

法要を済ましたご住職はお寺に戻った。



それから、石仏のお地蔵さんに赤いヨダレかけを掛け替える。

婦人たちのお勤めはそれだけでなく、お稲荷さんを祀っている一本松大明神に向かって般若心経を唱える。

かつては当地に立っていた一本松。

枯れて朽ちた後に川沿いに通る道路が拡張された。

その場に建てた社が一本松大明神なのである。



始めに「稲荷祝詞」を奏上する。

「かけまくも かしこき 一本松大神の大前に かしこみ かしこみ申す・・・」。

祝詞の次は三巻の般若心経を唱える。

毎月23日のお勤めも祝詞と般若心経だと話す。

朝の法要は30分で終えたが、婦人たちはこの日の夕刻の一時間前にもう一度集まってくる。

一日に2回目のお勤めは数珠繰りをしていると云う。

(H25. 8.23 EOS40D撮影)