マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

京都下・上鴨から鴨川を巡る食事処

2023年09月07日 07時42分59秒 | もっと遠くへ(京都編)
食事処を決め打ちしてやってきた割りに、なんなん?、と思った「元祖京都らーめんゑびす屋」の背脂だぶだぶの醤油らーめんの味に肩を落とした。

おまけに、見た目がむちゃ美味しそうに見えた焼きめしの味にも沈没。

専ら、私の舌が一致しない味に愕然となった。

近々はないが、また京都の下鴨、上鴨にくる機会があれば、この店は食事処にしたい、と感じたお店の数々をメモっておこう。

まずは、「元祖京都らーめんゑびす屋」か、それとも「熊本ラーメン 肥後もっこす」か・・、と迷いに迷った二者択一。

残り籤になってしまったが、逆に「熊本ラーメン 肥後もっこす」は外せなくなった。

「熊本ラーメン」は、なんどか食べたことはある。

お店が提供するラーメンでなく、3玉個包装袋入り、千円で提供していた箱モノ商品は、熊本ラーメン本店大黒の焦がしニンニク入り豚骨スープ入り熊本ラーメン

これが旨かった。

これこそ熊本ラーメンになった第一歩。

なんで第一歩なのか。

熊本ラーメンの味は黒マー油が決める。

この味、この香りの虜になった焦がしにんにく入り黒マー油のパワーが大きい。

きっかけは、味のマルタイが販売していたカップタイプ麺の黒マー油とんこつ熊本ラーメンだ。

このころ、黒マー油の味にぞっこん惚れた。

次の一歩は、無性に食べたくなった黒マー油。

ラーメンはなんでもいいから、絶対に外せない黒マー油だけがうってないか、と探した通販。

楽天市場に見つかった熊本ラーメン・黒亭が提供する瓶入り黒マー油。

通販のお取り寄せまでして食べた黒亭の焦がしにんにく入り黒マー油。

あるラーメンにちょろっと落とした黒マー油が旨すぎた。

とうとう虜になってしまった。

たぶんにそんな美味しい味を提供してくれる京都市北区上賀茂岩ケ垣内町にある「 熊本ラーメン 肥後もっこす」。

立地場所だけでも頭にいれておこうと車を走らせた。

道路に面している「 熊本ラーメン 肥後もっこす」は、わかりやすい。

2台可の店舗駐車場もあるようだ。

写真展会場の下鴨北山通ギャラリー翔からすぐ近く。

四叉路信号そばにあった「蕎麦料理よしむら」。



外観からみても、また私的乗用車でやってくる高齢者の姿から、良さげな雰囲気に上品さが伺える食事処。

値を張る、目も張る格別料金のおそばに、私は敷居を渡れない。

尤も、お手頃価格のカフェメニューもあるようだ。

ギャラリー翔のすぐ隣にある食事処は、タイ料理を提供する「北山CHANG-NOI(チャン ノイ)」もある。



リーズナブルな千円前後で味わえるタイ料理



メニューも多くある。

下鴨・上鴨の地から離れて南下したある場所。

信号待ちに見た「キラメキノトリ」。



はっきりは見えなかったが、ネットでわかった「鶏白湯らーめん台湾まぜそば」を提供する店。

台湾まぜそばがここにあった。

立地場所は、上京区出水。

探せば見つかるだろう。

なんせ、口コミ数は多く、高評判のお店。

出かける機会があれば、是非とも立ち寄りたい。

ちなみに停められる駐車場は、どこに・・。

口コミにあったコメントによれば、店舗裏側に30分が200円の駐車場があるようだ。

行きしなに目にはいった食事処は、湘南発祥のおしゃれなLONCAFF。



走行中に停止した信号待ちに発見したLONCAFF

立地場所は不明。

ネットを駆使して探してみたがヒットに繋がらなかった。

遠目から見た店名を見間違ったかもしれん。

帰宅後に数日経ったある日。

思い出した京都を代表する麺食。

お店はどこにあるのか存じないが、食する麺の名前だけを思い出した。

その名も、なんと「からしそば」である。

そばでもなく、ラーメンでもない。

焼きそばでもなく中華そばでもない。

独特の味。

麺にからしを絡めたからし餡かけを盛ったからしあんかけそば、である。

(R3. 7.20 SB805SH撮影)

目的地の京都・下鴨北山通ギャラリー翔に向かう道沿いに見た景観

2023年09月04日 07時33分27秒 | もっと遠くへ(京都編)
知人の写真家が、京都にあるギャラリーに個展を開く、と案内していた。

開催会場は、京都府左京区北山通下鴨中通東入ル北側「ギャラリー翔」。

京都中心地に出かけるのは、何十年ぶり。

それこそ若い時は、京都市の街中を爆走していた。

二十歳そこそこ越えたやんちゃ時代のころ。

三交替勤務をしていた仕事仲間とともに走った時間帯は、夜中だった。

大方、50年前。

夜中の景観は、あるていど記憶に残っているが、あくまでそれは残像。

昼間の時間帯を走るのは、今回が初めてでもない。

大ばあさんが入所していた施設への面会もあれば、知人が会場を京都にした写真展の拝観にも出かけた京都中心地。

個展会場までの道のりは奈良北部からでも、遠く感じる。

ただ、50年前と違って、交通道路は高架橋のある高速道路がある。

さて、会場住所をカーナビゲーションにセッテイングしようとしても、住所がない。

”北山通“とか”下鴨中通東“がカーナビにない。

古いのかどうかわからないが、目的地近くにある施設、”ノートルダム小学校”並びに”京都府植物園”をキーにセッテイングは可能だ。

近くに駐車場も2か所あるから大丈夫だろう。

そうして、朝の9時に自宅から出発した。

京奈和道路を突っ走り、京田辺からは接続する第二京阪に移って一直線。

鴨川西出口を下りた時間は午前10時だった。

1時間かけて、もうここまで行けるのか。

有料の高速道路は、ほんに助かる。

そこからさらに地道を真っすぐ北進。

途中から都会的雰囲気の大通りに。

その通りは、コロナ禍前なら外国から来られた観光客でごった返していた大通り。

たしか、京都のニュースが報じていた路線バスの問題。

道路は渋滞。乗車する停留所も外国旅行者ああふれる。

一般市民も巻き込む渋滞に路線バスは動けない。

その、一般客が乗れないとかで運行に工夫を凝らしたが、どないもこないもというところにコロナ禍。

今はまったくそのような様相が見られない河原町通りを北に向かう。

信号待ちにみた右手はエデイオン、左側は高島屋。

右奥に阪急京都河原町駅があるようだ。

そこからは短い距離に信号の多さに、ちょっと走っては信号待ち。

これだけ多けりゃ、やっぱりここは京都の繁華街。

次の信号を越えたら左手に京都市役所本庁が見える。

建物は、ほぼ完全な左右対称形。

細部は東洋的な建築様式を取り入れ、中央に両翼を突き出し、更に塔を持つ、ヨーロッパの伝統様式。

ネオ・バロック的骨格)の特色を有する建築仕様。

武田五一が、意匠設計を監修した建物の東半分は、1927年(昭和2年)に、西半分は1931年(昭和6年)に完成したレトロ的な建物。

信号待ちに撮っていたレトロ的な建物。

下車して、ゆっくり落ち着いて見ていたいが、先を急がねば・・。



しばらく走ると、右に糺の森(ただすのもり)が、右手に見えてくる。

古代山城国・山代原野の原生林の植生を残す森。

樹齢200年から6000年の欅や杰の木、榎など、およそ40種類の樹木が、約600本も生繁っていることから、国の史跡に指定されている貴重な森である。

こちら糺の森も位置を確かめただけで通り過ぎる。

今日も暑くなった京都の町中に、唯一残された森林。

森の中は、ひんやり受ける空気感。

美しい原生林に、神秘的な情景に浸ってみたいものだ。

そのまま真っすぐ北に走った十字路。



信号を右折れしたそこがノートルダム小学校だった。

ここまでくれば、目指す目的地のギャラリー翔はすぐ近くだ。

東西を走る街道は北山通。

昨夜にネットで見ていた建物が見つかった。

自宅を出発してから1時間半。



カーナビゲーションが案内する時間にぴったし着いた午前10時半では、まだ店は開店していない。

場所がわかったところで探して見つけておきたいタイムパーキング。



通りは違うが30分が220円の駐車場が見つかった。

それでもまだまだ時間があるから昼めしに、と思って予めネットで見つけていたラーメン屋の所在地を確かめておく。



一つはすぐ近くだった「熊本ラーメン肥後もっこす」。

ラーメン店専用の駐車場があるようだ。



もう一つは、少し離れたところにある「元祖京都らーめんゑびす屋」。

その2店舗が見つからない場合を想定し、予定にあげた「めんや龍神」の現地探しは時間切れ。

そうこうしているうちに開店時間の午前11時なった。

ここが、ギャラリーにいちばん近いコインパーキング。



向かいにスーパーがある、と覚えてこう。

(R3. 7.20 SB805SH撮影)

木津川市加茂町銭司・春日神社の勧請縄・砂撒き

2022年11月28日 07時59分00秒 | もっと遠くへ(京都編)
正月三日の行先は、京都府木津川市加茂町銭司・春日神社。

朝から縄を結って午後に架けると思って、出かけてみれば、みな終わっていた。

午前11時過ぎの時間帯にどなたの姿も見られない。

風は冷たく吹く銭司(ぜず)の里。

停めていた車に戻って帰ろうとしたとき、白い軽バン車がやってきた。

乗っていた男性は焦っているようだ。

慌てて入った社務所。

話しが聞ければ、と声をかけた男性はSさん。

「衣装を取りに戻っただけだ。今、とても忙しいから・・」。

一応聞けた砂撒きは12月31日の朝8時から。

勧請縄の縄結いは1月3日の朝8時から。

1時間ほどで出来上がった縄は9時にかけ終わったそうだ。

また、見たいなら次回に、その時間に来ていただければ、と伝えられた。

知りたかった銭司の民俗行事は、“オニ”の件。

「それは知らない・・・詳しいことは、聞き覚えでしてきたからわからん」と云われて、乗ってきた軽バン車に乗り、バラバタと下っていった。

実際、されているのか、それとも・・・

されているなら日程でも、と思ってやってきたが、情報はさっぱり掴めなかった“オニ”の取材。

来年に持ち越しと、決めて、正月を迎えた加茂町・春日神社の門松・砂撒きおよび勧請縄の情景を撮っておく。

なお、ブログ「歴史探訪京都から ~旧木津川の地名を歩く~」が、これら銭司の正月行事について、より詳しく伝えている。

実は、銭司の砂撒きと勧請縄は、2年前の平成30年の1月6日に拝見している。

砂撒きの状態も勧請縄も美しい形状を残していたが、正月前の12月18日に予め山行きされて、伐採した木を伐り、集めた割り木。

“才木(さいぎ)”と、呼ぶ割り木を、本社や末社に設える。

その才木を集めてくる作業を”シバシ“と呼ぶ。

奈良県内にも同じ名称の”シバシ“の作業をしていた。

数少ない事例であるが、伐採後に神社の蔵に収めていた奈良の旧五ケ谷村の一村。

興隆寺町・春日神社にあった。

他地域に住まいする知人二人からも伝えてくれた”シバシ”。

橿原市・一町(かずちょう)に大淀町・大岩の地にもあった、と聞いている。

尤も、銭司に近い南山城村の南大河原も同じように、伐採した割りは拝殿下に収納している。

暖を取る焚き木の利用であろう。

南大河原でも、銭司と同じように雑木を伐り出すことを「シバシ」と呼んでいるように思えてしかたない。

三重県・『亀山市史民俗編』に「シバシ」のことが書いてある。

「シバ(柴)」は小枝類。

おじいさんは山へ行ってシバ刈りにいった・・」と、はじまるお伽噺は誰しも知っているが、現代の生活文化には見ることもない。

ところが、山村などの神社の焚き木集めにあったのだ。

亀山市史を読めばわかるが、「シバシ」を充てる漢字は「柴仕」。

つまり、柴材を集める作業仕事であった。

さて、参拝を兼ねて訪れていた銭司。



目を見張る砂モチのあり方。

境内、くまなく隅から隅まで撒いていた。

中央に斜め前切りの孟宗竹。

葉ボタンに松、竹、梅。南天を飾った門松を据えた。

両脇の狛犬にも”才木”を立てかけている。



階段をあがって正面が武甕槌命(たけみかづちのみこと)・径津主命(ふつぬしみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀った春日神社。

春日大社の式年造替の際に、旧社殿を謂れのある地に移された「春日移し」の春日造・一間社の社殿。



堂々とした造りに感銘を受ける。

社殿袖下、両端に立てた”才木”にウラジロ。

そう、しめ縄を括った”才木”の姿である。



末社は、右手に鹿島神社と熊野神社。

左手は、八幡宮・八柱神社・厳島神社・蛭子神社を1棟に合祀した社殿。



末社は、ひとつずつの”才木”を立てているだろう、と思ったが、右手の右横の社殿には見られない。

なにか、理由があるのだろうか。

正月のしめ縄は、どこの神社であっても社殿に掲げるものだと、思っていたが、そうでない神社がここ銭司にあった。

再認識した銭司の春日神社

頭を下げて参道を下る。

下った直後に見える勧請縄。



往路の参拝にも気づいていたが、写真にするには、復路を奨める。

樹木の植生、左手が南。

光の輝き加減で復路が美しくなるようだ。

さらに下った車止め手前に立札があった。

右手が車止め。

左手は、参道であるが、現在は通行止め。



「この参道は、平成30年十二月より、閉鎖しております。倒木があり、危険です。云々・・」と、ある。

ここから臨めば急な坂道。



どの時点に倒木があるのか、存知しないが、危険であることには違いないから、氏子たちが示す注意事項は厳守である。

ちなみに、ずっとくだっていくと、福田寺右横に出るらしい。

平成28年12月18日に訪れた銭司の里に出会った高齢の男性。

「そこは小字馬場道。山道をずっと登っていけば春日神社に着く参道」だ、という。

おそらく、馬に乗った人たちが往来した参道であったろう。

(R3. 1. 3 SB805SH撮影)

市坂の座入り行事は中止模様

2022年08月23日 08時42分51秒 | もっと遠くへ(京都編)
令和元年の6月23日は、市坂の虫送り行事を取材していた。

その日に聞いた座入りの行事である。

場所は、京都府木津川市・市坂に鎮座する幣羅坂神社。

話してくださった長老こと、一老のOYさんに二老を務めていたOTさん。

それから、ほぼ4カ月後の令和2年3月5日に行われる御田祭を取材した。

一老を務めていたOYさんは任期を終えて、二老役に就いていたOさんが繰り上がり、一老役に就いていた。

7月1日の夏祭り・こもち式に訪れた際、10月の28日に行われる祭座のことを聞いていた。

祭座に座入りの儀式がある。

市坂に生まれた男の子は、神社に参って座入りをする習わしがある。

80年前の昭和15年に生まれたOTさん。

その年の10月28日に行われた「座入り(祭座)」の儀式に市坂座中の一員に認められた。

市坂の座は”講”でもある、という。

それ以前も、それ以降も、連綿と続けてきた市坂の座入り。

認められた子どもは一生涯に亘って幣羅坂神社に務めることになる。

尤も役に就くのは、成人になってからであろう。

座入りの儀式に膳がある。

こもち式とほぼ同様の膳は、神前に供える。

神さんが口にする神饌は、4cm角の豆腐が2個。

他に、金時豆や2枚の松風煎餅、15個の紅白小餅(上紅7個・下白餅8個)、大きな富有柿が1個。

そして、神さんが食べられる両口箸を揃える。

その日、80歳をもって勇退する一老のOTさんを拝見したく立ち寄ったが、予定された時間になっても始まらなかった。



どうやら、市坂の座入り(祭座)は中止になったようだ。

一老の他、宮さん関係者はどなたも来られなかった。

駐車場もチェーンしたままの午前9時半。

たまたま来られた2人の女性。



霊験あらたかな女の神さんやから度々来てはお参りしているという。

少子化もあるが座って何、という人もおられるらしく、座入りに申し出る家族が年々に減少。

今年対象の誕生者はいなかったようだから中止決定されたのでしょう、という。

また平日の座入りに予定がつかなくて、欠席になったことも考えられるが、いずれにしても中止でしょうね、と話してくれた女性は、友人女性とともに般若心経を唱えていた。

この年の中止はコロナ禍を避けての判断もあるだろう。



年中行事が多様と聞いている市坂の幣羅坂神社。

コロナが去った後、再び活気を取り戻すことであろう。

それまではじっと見守っていきたい。

(R2.10.28 SB805SH撮影)

南山城村道の駅売りのわらびを賞味する

2022年02月22日 09時30分19秒 | もっと遠くへ(京都編)
夏の砂モチ行事の状況がわかった北大河原・国津神社を離れて、南山城村にある道の駅にハンドルを切った。

道の駅の名称は「道の駅 お茶の京都」の前振りがある「みなみやましろ村」。

オープン日は、平成29年の4月21日

あれからもう3年過ぎた。

時の流れは早いものだとつくづく感じる。

実は、今年の4月3日にも訪れていた。

同村田山・諏訪神社行事の春祭り調査に立ち寄ったついでに入店した道の駅。

さすがに本日の方が賑わっている。

国津神社の宮守りさんたちも、今日はいっぱいやでと云っていた観光客の訪問者数。

自動車、単車のドライブ客がちょっと休憩ついでの入店。

私の目当ては地産地消の売り場状況である。

前回に買って食べた「京のおねぎ」が美味しかった。

その日の買い物は葱だけでなく、わらびも買っていた。

お家に帰って食べたわらびの天ぷらが美味かった。



なんと、同じわらびが2カ月経った本日も売っている。

わらびの時季は3月末から4月半ばくらいだと思っていたが、ここ南山城村の道の駅に売っている。

前回と同様にあく抜き用の灰も付けて売っているわらび。

2人の生産者の名がある地産地消の天然ものにしては、時季が気になる。

出荷日は6月7日。

ハウス栽培でもしているのだろうか。

採れ採れわらびが200円。

2袋も買って帰宅した。



晩のおかずに並んだわらびの天ぷら。

さくさく、ぬるぬる食感が美味しいわらびの天ぷら。

天つゆで食べるよりも塩振りがいちばん。



その旨さにお酒はすすむくんだ。

2人で食べてもむちゃ多い量の天ぷら。

1袋全部を揚げたのか、と家人に聞けば、まだ半分、という。

えぇー、そんなに多いんか、と思わず口にでた南山城村のわらび。

残りは半分に1袋。

すごい量のわらびは煮つけの鍋に。揚げさんとともに大鍋で炊いたわらび煮がまた美味そうに見えるが、味付けがまだ。

翌日の8日である。

旨く炊けたというわらび煮は、入院中のおふくろに差し入れ。

とても美味しいと云ってくれたのが嬉しい。

そして、今夜の晩御飯のおかずの一品。



この味、この食感に春を感じるが、もうじき梅雨入りだよね。

(R2. 6. 7、8 SB805SH撮影)

南山城村田山・諏訪神社の民俗調査

2021年12月14日 10時02分34秒 | もっと遠くへ(京都編)
この日、4月3日は春祭り。

行事の場は、京都府相楽郡南山城村田山。

鎮守社は諏訪神社。室町期には既に存在していたと伝わる。

当初は九頭大明神と呼ばれていた諏訪神社。

隣接する観音寺の住職が神社祭司を。

明治の時代に起こった神仏分離の方針によって社名を諏訪神社に。

おそらく観音寺の方が古く、後に創社された守護・鎮守社であった九頭大明神と考えられる。

その当時は神仏混合の時代。

奈良県内でもみられる正月初めに行われる初祈祷に寺僧が主に、神職が就き、村の安寧を願う修正会が行われていたのではないだろうか。

修正会は、一般的にオコナイと呼ばれていた行事である。

心臓手術を経て退院。自宅療養から数か月。

身体は完全には戻れなかったが、民俗調査の意欲が少しずつ戻ってきた。

そのころに知った行事が、ここ田山の諏訪神社で行われてきた田山の花踊り

平成27年11月3日の取材にお会いした方に教わった観音寺のオコナイ。

主とオトナ衆は解散され、行事は途絶えた、と知った。

ウキペディアが記す年中行事によれば、1月6日が修正会。

場は観音寺であろう。

その次の行事が4月3日の春祭り。

そして5月1日が、松苗祭。

豊作を願う松苗祭は、その名の通り、

稲に見立てた松を、模擬苗として田植えの所作をされるのかもしれない。

6月半ばに農休み。

村のすべてが田植えを終えて豊作を祈る農休み。

無事に稲が育ちますように、と願う村行事。

以下、10月16日、17日の秋祭り、11月3日の花踊り、11月23日が亥の子祭り。

一連の年中行事は11月の注連縄奉納祭で締める。

オコナイが実施されていない状況に拝見したいと思った春祭り。

神社にどなたも来られるような雰囲気がない。

お近くにおられる方なら、ご存じであるかもしれないと思って声をかけた。

表敬訪問にお聞きした話者は、昭和15年生まれの80歳。元村長のMさんの話によれば、今日の午前10時だったかな・・。

訪問した時間帯は、午後の3時半。

行事はあったとしても、とうに終わっているだろう。

豊作の祭りであれば・・・・と、伝えたら、それは新嘗祭だ、という。

新嘗祭であれば稲刈りを終えて無事豊作を迎えたことに歓ぶ新穀感謝祭になる。

そうではなく、春祭りなら、豊作を願う行事・・・

村のことなら行事も含めて府立大学の先生方が調査などをして編集発刊(※2002年9月~2006年3月)した南山城村村史がる。

15年前に発刊された村史は、村役場で販売しているようだ。

母家に保管している村史に書いてあると思うが、微細なことは記憶にない、という。

諏訪神社の本ゾーク(※造営事業)は15年前に、60年に一度のゾークに本殿を建て替えた。

20年に一度のゾークは、半ゾークとし、本殿以外の部分補修などのゾーク。

造営費用は高額なだけに、氏子はもとより外氏子の寄附を募らないと、村民だけでは不足になる。

来年か、さ来年くらいが半ゾークになると思う。

資料は、なんでも残してこの部屋の棚のどこかに収納してある。

最上段の棚に、平成5、6、7年と記した本造営資料が・・。

箱に納めたものがここにあった、と、思いだされたようだ。

ちなみに諏訪神社の主祭神は、タケミナカタ(※建御名方神)など3人の神さんを祀っているそうだ。

かつてMさんも座中であった宮元座に、特に何もしないという中元座(ちゅうげんざ)の2座が、正月明けにオコナイ行事をしていた。

オコナイ作法に用いる祭具に、長さが1mにもなる漆の木でつくった漆棒がある。

朱印を押した“ハタ”を祈祷する。“ハタ”とは、おそらく牛玉宝印を捺印した護符であろう。

祈祷した護符を苗代に立て、豊作を願った。

オコナイ行事の場は、観音堂。

聞き取りを終えてから訪れた観音寺。



格子窓から覗いて読み取った僧侶の名があった。

鮮明ではなかったが、Uさんの名だった。

祭具などを準備する役は宮座中。

子どもたちが縁叩きをし、直会で終えていたオコナイ行事は、5~6年前に神官といざこざが生じ、現在は中断している。

ただ、子どもの縁叩き作法は、午後から。

今でもしているらしい。

先人たちが、ずっとそうして村行事を継承してきた地域文化。

今の時代はエゴ。

仕える神官のパワーによって文化を継承している三重県の岡八幡宮の事例もあれば、昔の歴史やから、今の時代にマッチしないから、と云って中断してしまった地域もある。

ここ田山では、中断の道に決まったが・・・

Mさんに用事があって訪れる人も多い。

忙しい時間帯に話してくださったMさんに感謝申し上げ、オコナイ行事の詳しくは、京都府立山城郷土資料館が発刊した展示図録にあるのでそれを参考にしておくと、伝えて場を離れた。

観音寺、そしてもう一度訪れた諏訪神社。



もう一度の参拝に気づいた祭具。

拝殿前の柱に巻いてあった竹の小筒。



数珠のような形態であるが、いったい何に使うのか。

右横に書いてあった「ご自由にお受けください」とあるから、何らかの願掛けに用いるのでは・・。

また、右手に置いてある石の意味さえわからない不思議を感じる。

拝殿にあった民俗を拝見して戻った割り拝殿に、なぜか朱塗りの鳥居がある。



平成27年11月3日に訪れたときは、掲げていた絵馬に関心を寄せていたあけに、鳥居の存在はまったく気づくことなく・・・。

まさか割り拝殿にあるとは思いもよらない鳥居。

尤も、神社に登る石段にも鳥居があるが、それは石造り。

それが一の鳥居なら、朱塗りの鳥居は二の鳥居。

頭を下げて拝礼する。

注連縄は市販の製品でなく、手で結った注連縄が美しい。

見惚れていた鳥居に注連縄。

ふと左に視線を向けたそこに奉納札を掲げていた。



提灯一対は、平成21年、22年に続いて令和元年にも。

その右手にあった宮元座が寄進した釣燈籠。

同じく令和元年の奉納札。

このときの座は健在だった、とわかる。



帰り際に振り返って拝礼したそこに・・新型コロナウイルス拡散防止対策に、本日の行事は中止した、と報せていた。

落ち込む気持ちを替えたくて立ち寄った南山城村の道の駅

ここも新型コロナウイルスの影響を受けて、観光客の姿も激変していた。



サイクラーが利用する車輪立てが寂しそうに見えた。

(R2. 4. 3 SB805SH撮影)

木津川市加茂町井平尾春日神社・ドウノコウの勧請縄調査

2021年09月28日 10時48分23秒 | もっと遠くへ(京都編)
精華町菱田・春日神社の弓始式調査を終えて車を走らせる帰路の道中。

はた、と気がついた木津川渡しの橋、直前の信号。

日が暮れるまでまだ時間はある。

余裕はないが、場所だけでも知っておけば後々助かる。

そう思って東にハンドルをきる。

これより向かう目的地は加茂町の井平尾。

集落に春日神社がある。

そこへ向かいたいが、愛車のカーナビゲーションに春日神社の所在地明示はない。

行けるところまで行くしかないと、車を走らせる。

旧道に入れば情報が掴めるであろう。

旧街道に人影でも・・と思いつつ走らせる車。

民家宅地に中型バイクのエンジン音が聞こえる。

屋外でキックしていた男性に声をかけた。バイク乗りのIさんに尋ねた春日神社は・・・。

まっすぐ東を行ったところに出荷場がある。

そこに車を停めて南に歩いてすぐ神社が見つかる。

そこまで行けば勧請縄が見えるからすぐにわかると話してくれたIさんにお礼を伝えて東に向かう。

云われた通りに向かったつもりが筋道一つ違っていた。



階段登る先に閉ざされた鉄門。

鹿や猪の侵入を防ぐ鉄門であろう。

そこはどうやら東福寺に共同墓地のようだ。

春日神社を求めて井平尾集落をうろうろする。

東に歩いて北折れの道。



その先の景観は集落民家が途切れた広い空間。

そこが春日神社であった。



さて、勧請縄はどこに、と目を移動したそこにあった。

さて、「ドウノコウ」とは不思議な呼称だ。

平成11年10月30日に発行された京都府立山城郷土資料館編の図録『特別展 花と鬼と仏』がある。

サブタイトルに、“春の民俗行事オコナイ -鬼追い、牛玉のお札、モチ花で災いを祓い、福を招く- ”とある。

その図録に記載されている井平尾に、1月5日はオコナイの祈祷をしているとあった。

氏神神社の春日神社の宮座に二つの講組織がある。

一つはミヤノコウ(宮の講)。

もう一つがドウノコウ(堂の講)の2座。

オコナイは地区のほぼ半数の家で構成される「ドウノコウ」によって行われる。

長老組織とする五人衆を中心に講中とともに勧請縄を作って架けるようだ。

バイク乗りのIさんが紹介してくれた五人衆。

うちお一人が住まいするお家。

Iさんは現役の四老だった。

最長老が一老。

次に二老と続く年齢順の五人衆。

かつては死ぬまで務めていた、という。

亡くなるのは年齢順に関係なく、例えば三老が、先に亡くなられる場合もある。

欠員が出た場合に次に続く若いもんが穴埋めにはいるが、それは常に五老として衆入りする。

現在は、意思によって引退宣言されて五人衆を降りることも許されるようになった。

身体を壊して務めることができない場合もある。

介護の身になる場合もある。

諸事情でやむなく座を抜けざるを得ない。

務めができなくなって退かれたその場合も順に繰り上がる。

講員は40人のドウノコウ(堂の講)である。

今年は、1月13日の成人の日にトンドをする、と話す。



その日に下した勧請縄も火に点けるであろう。

Iさんが話してくださった興味深い村行事がある。

毎年の9月半ばに行われる“子酒(こざけ)”がある、という。

“子酒”とは、新生児を祝う儀式。

若い家族も多いのであろう。

ちなみに知人の菊約さんが、ここ井平尾。



春日神社の勧請縄掛け取材に訪れている。

一年前の平成31年1月5日の訪問

木津川駅からレンタルした自転車に跨って駆けつけたというから、その行動力に脱帽する。

(R2. 1.10 SB805SH撮影)

精華町菱田・春日神社の弓始式調査

2021年09月26日 10時06分54秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都・木津川市吐師・大宮神社を訪れて意外な成果が見つかった。

時間がある限り、本日調査に手を広げたい。

気になるネット情報に民俗行事が見つかった。

行事は弓始式。

場は京都・相楽郡精華町菱田に鎮座する春日神社である。

木津川市から精華町までは近距離。

カーナビゲーションにセットした鎮座地を目指して車を走らせる。

精華町に名高い神社行事がある。

隣村の棚倉・涌出宮は2月に行われるが、祝園神社は1月。

いずれも「いごもり祭(居籠祭)」の名で呼ばれている行事である。

これらを調べているときにヒットした菱田・春日神社の弓始式

ネットにあった1月10日であるが、実施される時間帯はわかっていない。

下見だけでもしておきたいと思ってやってきた。

春日神社に到着した時間帯は、午後1時過ぎ。

終わっていてもあわよくば出会える可能性もある。

金属製の鳥居を潜ったそこは車止め。

降りて見た春日神社であるが、奥の境内に人影無し。

ふと向こうから歩いてきたもんぺ姿の高齢女性。



旧家のひとであればたぶんにわかるであろう年中行事。

尋ねてわかった弓始式は1月10日。

で、本日であるが、朝に通ったときは誰もおらなんだ、という。

ならば今日ではないのか。

婦人の旦那さんは元総代のTさん。

詳しいことを教えてくだされば、いいのだが、婦人が云った言葉はとんど。

最近は、そのとんどが終わった週の日曜日になった、という。

へぇー、そうなんだと、指で示してくれたとんど場に伐って運んだ竹があった。



すぐ傍にはお家で飾ったと思われる注連縄もあるから翌週、それとも翌日なのか。

婦人が話してくれた弓始式。

朝の10時に始まる。

三重◎を書いた「ハリマト」に弓を引くのは総代、一年神主に役員たち。

的は拝殿左に植生する樹木向こう側に設えていた。

祭事に供えた鯖一尾は焼いて切り身にして手で掴んで食べる。

古式ゆかしい宮座の様相をもつ行事と思われる。

ちなみに神社前の川は、西の丘陵地が上流の煤谷(すすたに)川だという。

実態を掴めなかった春日神社の弓始式



今後の調査に期待して初参拝。

拝殿前に門松を設えていたと思われる痕跡がある。



門松立ての盛り砂跡である。

振り返った右手に消火栓の印。

目立つ葉牡丹に松。

南天らしき赤い実もあれば梅のような枝木もあるだけに歳神さんを迎えた門松を崩して、この場に置いたのだろう。

もっと寄ってみたら藁束もある。

七五三の藁があるから注連縄であるが、傍にあった見慣れぬ祭具に目がいく。



白いヒラヒラ。

コヨリでなく、引いたおみくじであろうか。

おみくじにしては、1本の竿竹に、こんだけ巻き付けるのも珍しい形態。

もっと近づいてみたら竹ひごのようなものもある。



竹は割った残りもんであろう。

さて、これらは何を意味しているのだろうか。

後日に判明したそれは弓始式に用いられた祭具の残欠のようだ。

(R2. 1.10 SB805SH撮影)

木津川市吐師・大宮神社の御田祭調査

2021年09月25日 09時38分07秒 | もっと遠くへ(京都編)
奈良の山陵町から歌姫町

そして歌姫街道をさらに北へ車を走らせると神功町・朱雀町など新興住宅地を抜けたら京都・木津川市に入る。

目指す目的地は吐師(はぜ)の地。

宮ノ前に鎮座する大宮神社に辿り着いた。

神社、境内にはどなたもおられない。

参拝がてら、ほんの少しの時間にうろついてみる。



鳥居を潜って境内に入れば左・右に座小屋がある。

確かめなければならないが、たぶんに左座。

右座に座中が座る建物であろう。

正面の拝殿・本殿に向かって拝礼。



その奥に見える大きな御幣が二つ。

両座のトーヤが奉った御幣であろうか。

本殿右に社務所がある。

焼納に年神さんを迎えた注連縄を持ってきた地区の人に聞いた座。

一日、十五日はいつも清掃している人たちが居るから行事のことを尋ねるならその日が狙い目だという。

ちなみにその社務所。

ガラス越しに拝見した白いもの。



「シトギ(粢)」ではないだろうか。

ひと通り拝見して立ち去ろうと、したときである。

座小屋の下にあった簾型注連縄。



とんどの日はもう少しあるが、なぜここに放置されているのか。

不思議でならない。

御田祭の情報は掴めなかったが、思わぬものを拝見していた。

数日経ってからわかった『氏子が苗松を作り、神主による苗代掻きや巫女による田植えの所作をする』という大宮神社の御田祭日程。

毎年の1月11日と書いてあったブログ京都のitベンチャーで働く女の写真日記もあったが、今年は日曜日の12日の午後1時らしい。

そのことを知っても今年は行けない。

既に取材を入れているから来年廻し。

出かけるときの参考に大宮神社の位置をメモっておこう。

なお、大宮神社の御田祭の他、木津川市内の年中行事はたくさんある。

うち、いくつかの行事は取材させてもらったのもある。

例えば、相楽神社の御田餅花祭涌出宮のいごもり祭女座の祭りアーエー(奉納相撲)、鹿背山の虫送り、山城椿井の虫送り白山神社のおかげ踊りがある。

取材をお願いしたその年から中断に至った山城上狛のおしょうらい踊りだけはとても残念なことだが・・。

学んでおきたい気になる年中行事もある。

(R2. 1.10 SB805SH撮影)

木津川市・市坂の幣羅坂神社を訪ねて御田祭を知る

2021年01月13日 09時39分20秒 | もっと遠くへ(京都編)
広場に車を停めたすぐ近くに建つ幣羅坂(へらさか)神社を訪れた。



境内社の春日神社や数体の牛像がある八阪神社なども拝見し、広場に戻り、近くにある八坂市坂公園を散歩する。



そのときに出逢った昭和24年生まれのKさん。

神社行事に知ることがあれば、と思って声をかけた。幣羅坂(へらさか)神社の氏子であるKさん。

心臓手術後のリハビリに毎日を歩いている、という。

私も同病。共通する体験者の話題は心臓リハビリ。

ご互いの目標感も一致するが・・。

運動するのが難しい身体も同じだが、動きの状態は人それぞれ。

Kさんの場合は、塩梅治っていない身体だけに、これまでしていた竹掘りは独力では無理。

力が出ないから3人に掘り起こし助っ人を頼んでいる。

Kさん本人は筍運びならなんとか動けるそうだ。

実は、心臓リハビリは16年間も続けている。

従事していた仕事。

なんとか58歳まで務めあげたが、身体は昔ほど動けなくなった、という。

そんな身体状況に、農事はできなくなった。

2日前に拝見した護符は、同神社で行われている御田祭にある、と思うが、行事からも離れてしまったから詳しくはわからない。

ご近所で、行事のことを存じている人がわかったら、教えていただけるよう電話番号を教えてもらった。

Kさんと別れて、この日も訪れた市坂の苗代田。

前年の平成30年4月30日に見つけていた、もう一つの苗代田の状況を確認しに現場に向かった午後5時。

昨年と同じ苗代田にあったイロバナはコデマリか。

撮って帰ろうとしたそのとき。

軽トラを運転する男性とすれ違う。

もしか、と思って声をかけたら田主さんだった。

本日にしたばかりの苗代つくり。



護符も立てて引き上げるときに遭遇した男性に尋ねた護符の件。

それはお伊勢さんのお札だ、と思うが、確認してみると携帯電話をかけ始めた。

どなたに確認をとられたのか存知しないが、なんでも3月に幣羅坂神社の春の大祭がある、という。

行事は、松苗に護符を奉る御田祭。

神事参席された人が村中に配ってくれるそうだ。

イロバナ、護符が行事をする幣羅坂神社に線が繋がった。

詳しく知りたい行事の日。

後日に出逢った田主さんのおかげで状況がほぼわかった。

(H31. 4.30 SB805SH撮影)
(H31. 4.30 EOS7D撮影)