マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

小長尾のセンゲンサン

2017年03月01日 08時13分40秒 | 曽爾村へ
念願だった曽爾村小長尾のセンゲンサンをようやく拝見できる。

センゲンサンをしていると初めて知ったのは平成21年の11月23日だった。

その日の行事は例祭収穫祭

毎月供える場は10カ所。



そのひとつにセンゲンサンがあった。

場所を詳しく聞かなかったが、かつてあった村の浅間講が参っていた浅間神社が鎮座するところに供えると長老が話していた。

浅間神社は山の上。

険しいというか、急勾配の道なき道を登っていけば着くと話していた。

毎月の25日に供える御膳を持って登る。

ひょいひょいと登っていけばたかだか15分ほどだと軽く云われるが・・・。

場所もわからないから一人で登るには不安が付きまとう。

そういうことで一人では下見はできない山の上の神社である。

そのような話しを聞いてから5年後の平成26年7月29日

長老のYさんが住まいする家を探して訪れた。

反復するがここでも書いておく。

「40年も前の小長尾の浅間講は土用入り後の丑の日から一週間、長蓮寺に籠もっておしょうじ(精進)会式をしていた。魚や肉は一切口にしない精進である。曽爾川とも呼ぶ青連寺川に行って水垢離の行をしていた。現在は日を決めて村役員が向かいの山に登って般若心経を唱えている。センゲンサンは大日如来を祀るから心経を唱える」と、話してくれた。

一方、この日に出会ったもう一人の長老は「センゲンサンに参っている日は24日。汗をかきながら登った。センゲンサンの正式名称は浅間講。かつては長蓮寺で籠りをしていた。白装束に着替えて青連寺川(小長尾では曽爾川)で水垢離をしていた。それから浅間神社を目指して山を登る。時間にしてみればおよそ15分だが、急勾配の山道は腰痛の身に堪える。浅間神社には桜の木がある。大日如来も祀る山の頂きだ。そこで般若心経を唱えていた」と、Ⅰさんは云った。

Yさんが話したことはもう一つある。

「ネンギョ(年行)と呼ばれる年番さんとともに出かけた。宮さん関係者の10人が登る一時間前。先に出かけて神社周りを清掃していた。ヤカタがある石碑にお神酒や御膳を供えて祭典をしていた。般若心経は七巻。導師として唱える。かつてのセンゲンサンは長蓮寺に籠って「行」をしていた。昼ごろになれば白い着物に着替えて川に向かって歩いた。川に下りて流れる川に浸かって般若心経を唱えていた。今では無住寺の長蓮寺は江戸時代後期の創建で融通念仏宗派だ」。

Yさんはそう話していた。

日にちが揺らいでいるのか。

どうも不安になって予め電話をした。

架けた人はかつて総代を務めていたOさんだ。

引き継いだ次の総代に確認をとってもらってわかったセンゲンサンの日程は7月24日。

本来は土用入り後の丑の日であるが、小長尾ではどうやら24日に固定しているようだ。

センゲンサンに参る人たちは総代を筆頭に氏子総代や評議員である。

集合時間の10分前。

どなたも現れない。

不安を感じて退任された前総代に連絡した。

その最中に何人かがやってきた。

そのうちのお一人がK総代だった。

お供えなどはザックに入れてもってあがるという。

そういえば総代ら何人かはお顔を覚えている。

平成26年11月23日に行われた天神社の造営祭典の際に何人かは造営委員を務めていた。

そのときに顔見知りになった人たちだった。

撮らせてもらった祭典の写真は村に提供した。

20年に一度の大事業における記念の写真にお礼をいただく。

さて、この日はセンゲンサンである。

集まった村の役員さんが口々に教えてくださる。

これから登る山のてっぺん辺りにあるのは浅間神社。

大日如来を祀る。

かつては浅間講が川に入水して水垢離をしていた。

長蓮寺に泊まり込んでいたという時代は子どもの頃。

昭和6年生まれの85歳の男性がそういうのだから時代はぐっと下がるだろう。

子どもというから、仮に小学生であった時代とすれば10歳としようか。

そうであれば昭和16年。

戦前のことのようである。

父親とともに登った。

その地に登って遥拝していた。

モリ木に遥拝所がある。

そこで大日さんを拝んでいた。

その地は前述した毎月の25日に供える御膳の場。

それがせんげんさん(浅間)である。

大日さんをはじめとして山の神さん、神武さんなどを崇めているというというのは小長尾の信仰であろう。

御膳を供える場は御供箱の蓋裏に貼っていた。

それを拝見したのは平成22年1月23日。

たしか、前総代のO家を訪れたときだ。

供え先は庚申さん、大日さん・浅間さん、みろくさん、山の神さん、多輪峰さん・秋葉さん・神武さん・皇大神宮さん、辻神さん、天神さん。供え物は13カ所であるが、場は7カ所になる。

それらは広範囲に亘る地。

月当番の人について車を走らせないと置いてきぼりになるだろう。

そんなことを話してもらって先導が行く。

ここを登っていくという場は草ぼうぼう。

一歩目から道がわからない。

とにかくついていくしかない道なき道。



登り始めてすぐに杉林。

樹林を縫うように登っていく。

村の人のなかには杖をついて登る人もいる。

やがて急こう配。

斜めに立てば、さてここの角度は・・。

雨が降れば小川となって流れていくようなところも登っていく。



登り始めて8分後。

ちょっとは休憩と云って一休み。

1分も休憩しただろうか。

先はまだまだに再び登り始める。

ここら辺りからの勾配はさらにキツい状態。



息もきれると云ってまたもや休憩する。

あと少しと云われて背中を押されて3分後。

ようやくセンゲンサンの地についた。

長老が話していた社は見られない。

あったとすればずっと昔のようだと思う。

それを示すのが木製の鳥居である。

やや朽ちかけた鳥居に年代を感じる。

センゲンサンは石造り。

南無浅間大菩薩とある。

刻印を調べてみれば正徳五年(1725)。

今より300年も前に建てたようだが、そのころの記録は一切がない。

到着すればお供えをする。

ザックに収納していたお神酒、小豆洗米にニンジン、ナスビ、キャベツ、ハクサイ、トウモロコシ、トマト、スルメにお菓子などをお盆に盛って供える。

それと同時に石造りの南無浅間大菩薩に奉書を奉納する。

それは巻物の般若心経だ。

両端の花立に花を飾る。

小さな箱は賽銭箱。

お参りに欠かせない賽銭を納めて立てたローソクに火を灯す。



導師は前に進み出て腰を屈めて手を合わせる。

一同が並んで唱える般若心経は7巻。

風の音しか聞こえてこない山のなか。

心経の声だけが辺りに広がっていく。

お参りを済ませば下山だ。

立ち去って下っていく速度は当然ながら登りよりも早い。

山の仕事に慣れている人たちは足が速い。

とてもじゃないがついていけない。



辺りを見渡せば誰もいない。

飾ったお花と石造りの南無浅間大菩薩に奉納した巻物の般若心経があるだけだ。

ざわざわと風の音が聞こえる。

何かの気配を感じながらもそろりそろりと下りていく。



途中にあった獣の痕跡。

たぶんに鹿であろう。

登りは休憩もあったが下りは不要。

所要時間は登りが18分で下りは16分だった。

村の人たちはそれよりももっと早かったのはいうまでもない。



お参りを済ませた村人は稲穂に囲まれた場で直会。

暗くなってもその場の語らいは続いていた。

(H22. 1.23 SB912SH撮影) <※ 御供箱の蓋裏 >
(H28. 7.24 EOS40D撮影)
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小長尾天神社造営祭典

2015年08月24日 09時34分29秒 | 曽爾村へ
12月29日、配られた新聞チラシのなかにあった春日大社の「春日通信20号」。

20年ごとに行われる式年造替(しきねんぞうたい)のスケジュールも載っていた。

平成27年は仮殿遷座関係儀式、平成28年は本殿遷座関係儀式だ。

同じように20年ごとに行われる曽爾村小長尾の天神社。

寛文四年(1664)の創建と伝えられている。

内・外氏子たちの寄附を募って本社・小宮・鳥居などを新しくされた。

造営祭典に子供が槌を打つ儀式があると知らされて出かけた。

その件を聞いたのは同年の7月29日。

小長尾で行われている「センゲンサン」行事の聞き取りの際に教えてくださった。

造営祭典には槌打ちの儀式がある。

槌を打つのは法被姿の村の子供たち。

センゲンサンに導師を務めるYさんの孫たちも槌を打つと話していた。



槌打ちは男の子だけでなく女の子も参加する。

0歳児は親が抱っこして参加する。

上は15歳までと決まっている子供が槌を打つ造営祭典は、これまで取材した地域に見られない在り方。

是非とも拝見したく訪れた。

伊勢本街道を走る。

曽爾村に着いたときの道路情報が知らせる朝の気温は3度。

さすがに寒い。

Yさんに教えてもらっていても村役を存じているのは元区長のOさんだけだ。

同氏からは是非ともと云われていた。

神社は造営実行委員の方々が準備作業に忙しく駆け回っていた。

委員長でもある総代を紹介してもらって取材に入る。

委員の一人は曽爾村少年自然の家で仕事に就いているOさん。

自然観察会で長年お世話になっている山ちゃん先生の教え子だった。

奇遇な出会いである。

祭典舞台櫓には扇3枚に五色の垂れがある大幣が1本、小幣が17本あった。

奥には弓やさすまた(刺股)もある。

造営委員会を立ち上げたのは平成25年。

この年の造営祭典は例祭の新穀感謝祭も兼ねている。

子供たちが集まっている場は村の集会所。



法被を着た大勢の子供たちが親とともに来ていた。

法被姿で集まった子供たちは内氏子に外氏子の45人。

生まれたての子供から年長は小学生。

かつては内孫の男児だけであったが、少子化の影響を受けて男児は少ない。

女児も含めて外孫までもということにしたそうだ。

20年前の造営祭典と同様に黄色い襷に豆絞りの鉢巻をした子供たち。

裃姿になった造営棟梁が説明する槌打ち作法に耳を傾ける。

こういう機会は滅多にないと元区長から記念の集合写真を依頼されて撮影に応じる。



失敗は許されるものでなく責任は重いがなんとか撮れてほっとする。

集会所を出発した子供たちは日の丸扇を翳した造営委員についていく。



一種のお渡りであるが、造営棟梁らは先にでかけてしまった。

「本来なら先頭は造営棟梁なんだが」と委員は云ったが時すでに遅しであった。

神社で子供たちを待っていた内氏子に外氏子。

この日はめでたい20年に一度の造営祭典。

「造営」と書いて「ゾーク」と云う。

奈良県東部の東山中では一般的にそう呼んでいる本殿の建て替えであるが、西の葛城地方では「ゾーク」の祭典もなく一部修理で継いでいるようだ。



続々と参拝する内・外氏子たち。

槌を手にした子供とともに参拝する。

祭典の場は紅白の幕を張った舞台櫓だ。



時間ともなれば造営祭典関係者一同は参集する。

委員たちはその下の境内に整列した。

大御幣・弓矢などを立てた舞台櫓に上がるのは総代、棟梁、長老だ。

境内に立っているのは造営委員たち。

氏子らは道沿いに集まって祭典に望む。

小長尾の造営祭典の式典は開式、修跋、降神、献饌、祝詞奏上、造営棟梁による四方祓、棟梁祝詞(よごと)、玉岸奉奠、子供たちの上棟槌打ち、式辞、挨拶、本殿報告祭、例祭、鏡開き、乾杯、ゴクマキ、閉式である。

祝詞奏上の次は造営棟梁による儀式。

舞台櫓のそれぞれの角に移動する。



そこでまき散らすキリヌサは四方祓である。

引き続いて造営棟梁が祝詞を奏上する。

これは目出度い詞で詠みあげる「よごと」と呼ぶ祝詞である。



メインイベントは子供が作法する槌打ちの儀式だ。

舞台櫓袖に立った棟梁が「まんざい トー」と声を挙げて大御幣を「トン」と床を打つ。

それに合せて子供たちが横にした棟木を「トン トン」と打つ。

次は「せんざい とー」だ、同じように槌を打つ。

次は「えいえい トー」で終える槌打ちの儀式である。

「まんざい」、「せんざい」、「えいえい」を充てる漢字は「万歳」、「千歳」、「永々」。

村が永遠に栄えるよう、益々の繁栄を願った目出度い詞の槌打ちは上棟の儀式である。

鶴と亀の文様に「祝 上棟天神社」とある。

記念撮影に一度は立った子供は座って槌を打つ。



背が低い子供たちは太い棟木で被ってしまい顔が見えなくなった。

子供たちが打った太くて長い棟木は水平に置いていた。

それには本社の屋根まで繋げていた紅白の曳綱があるが、曳綱の儀式は見られない。

これまで奈良市誓多林・長谷・都祁南之庄・上深川で拝見した槌打ちは長老の役目。

子供が槌打つ小長尾の在り方は極めて珍しく貴重な存在だ。

話しによれば隣村の門僕神社でも子供が槌打ちをしているらしい。

この地方特有の在り方だろうか。



一生に一度しか味わえない槌打ちをした子供たちを記念に撮っておきたい親たちの気持ちはよく判る。

祭典は造営委員長の式辞、長老の祝辞挨拶に続いて本殿で報告祭が行われる。

神職を先頭に造営委員長。



続いて棟木を恭しくもつ大工棟梁の順に参進される。

この日は例祭の新穀感謝祭も兼ねている村の祭典。



神饌を献上し棟木を新しくなった本殿に納める。



祝詞奏上、玉串奉奠などの例祭を終えれば再び村の祝典に移る。

これより始まるのは氏子総代らの鏡開き。



菰酒樽を祝いの紅白小槌で蓋を打つ。

ぱっと割れた瞬間にお酒の香りが飛び出した。

樽酒を柄杓で汲んで四角い枡に注ぐ。

何杯も何杯も汲んでは氏子に配る。

大勢であるだけに子供を除く全員に回るには時間を要する。



酒枡が揃ったところで乾杯。

子供たちは横目で様子を見ていた。

それからしばらくは村人らの歓談の場。

ひしめき合いながらも久しく顔を合わせて喜びを分かち合う。

酒の肴は村の接待料理。

手作り料理が配られる。



胡麻を振ったスゴボウ、ニンジン・コンニャクに煮しめ、鶏のカラアゲ、たまご焼き、ハム、ソーセージ、キュウリ・チーズ詰めチクワにカマボコなどなど。

箸でつまんで移した紙皿でいただく。



お酒にビールに目出度い料理が飛ぶように売れていく。

大勢の村人が楽しむ直会にごちそうをよばれる。

居合わせた一人の男性と話し込んだ。

橿原市在住の娘婿は元神職。

石上神宮や龍田大社、小泉神社などで奉仕したが退職したという。

それぞれの神社行事でお世話になっただけに話が盛り上がる。

直会の時間は1時間余り。

神さんに供えた御供餅を下げる。

御供餅はお重に盛っていた。

前日の朝から作業場でダンゴモチを搗いていた。

モチは棒状にして伸ばす。

それを一つずつ包丁で輪切りした。

夕方までかかると話していたのは元区長の奥さんだ。

この年はネンギョ(年行)にあたる同家。

ゴクツキは杵でなく機械で搗く。

コメコとモチコは半々の分量で御供を搗く。

それをネコモチのような棒モチにこねて伸ばす。



少し堅くなったところでモチを輪切りにする。

モチコにコメコを混ぜているからダンゴである。

ちなみに隣村の長野はダンゴでなく、カサモチや十円玉を入れたモチを撒くそうだ。

舞台櫓や拝殿から放り投げるゴクマキ。

御供を撒くから「ゴクマキ」である。



祭典を飾るゴクマキは熱気で溢れた。

解散されて私も役終い。

帰路にも見た道路情報の気温は13度だった。

晴れ間になって穏やかな日であったが、それほど上昇していない。

(H26.11.23 EOS40D撮影)
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小長尾のセンゲンサンを訪ねて

2015年02月20日 07時20分01秒 | 曽爾村へ
奈良県内における富士講および浅間講を調査している。

これまで奈良市柳生町柳生下町および奈良市都祁上深川に水行、或いは水垢離と呼ぶ作法を拝見してきた。

つい最近は、奈良市阪原の富士講の作法を調査してきたばかりだ。

柳生は富士講と呼ばずに、あくまで十二人衆が行う土用垢離と呼んでいるが、上深川は富士講が行う富士垢離である。

かつては奈良市都祁小倉町にも富士垢離があったようだと聞くが、いつのころか講は廃れて、八柱神社の石段の下に浅間さんの石碑が残っているだけになった。

富士講或いは浅間講の石碑は山添村広瀬・吉田・勝原や天理市長柄など県内各地にその存在を現認してきた。

この年の7月8日に取材した古市町の仙軒講も講のひとつとしてあげられるが、水行は行われていない。富士講碑でなく、浅間神社を奉る地域もある。

末社に浅間神社がある在所は奈良市鹿野園町・八阪神社、三郷町薬隆寺・八幡神社などが知られる。

ひとつ気になっていた地域がある。曽爾村の小長尾である。

平成21年11月に天神社で行われた例祭収穫祭を取材したときである。

小長尾では毎月の25日に月参り御膳を供えられる。

弥勒さん、山の神、辻の神さん、せんげんさんに秋葉さんなど10カ所に月当番組が供えるのだ。

その一つであるセンゲンサンこと浅間神社は青連寺川を渡った対岸の山の頂上に鎮座すると氏子長老のYさんが話していた。

小長尾にはかつて浅間講があった。

40年も前のことだ。

土用の一週間、長蓮寺に籠もっておしょうじ(精進)会式をしていた。

魚や肉は一切口にしない精進である。

曽爾川とも呼ぶ青連寺川に行って水垢離の行をしていた。

現在は日を決めて村役員が向かいの山に登って般若心経を唱えている。

せんげんさんは大日如来を祀るから心経を唱えるのだというYさんは、先代の親父さんから神主役を引き継いで20年間勤める村神主。当時は84歳だった。

今でも元気に山へ登ってセンゲンサンをされているのかどうか気になりだした。

そう思って、4年ぶりに訪れた小長尾である。

この日は土用入り後の丑の日。

鰻喰いたしの買い物客で鮮魚売り場はごった返す。

もしかとすればこの日であろうと思って出かけたのである。

Yさんの家を探してみるが久しぶりの小長尾は思い出せない。

寛文四年(1664)に勧請した棟札が残される天神社すら場所が判らなくなっていた。

坂道を降りたり上ったり彷徨う道すがら人影が目に入ったので訪ねてみたⅠ家にセンゲンサンの件でやってきたことを伝えた。

それなら数日前の24日に行ったと云う。

夕方近い時間帯に宮さん関係者が参ったそうで、Ⅰさんも宮総代の一人だった。

センゲンサンに参った地はここより丁度南側にある山の頂上。



曽爾トンネルが貫通している山の頂だ。

手前にある山で三角のようになっている山だと云う。

ここら辺りの標高は460m。

奈良盆地平坦の気温は32.6度にも達していたが、小長尾は涼しい風が通り抜ける。

汗もかかない小長尾でも数日前は暑かったと云う。

その日は25、26日。

平坦での気温は37度近くにもなっていた。

センゲンサンに参った日は24日。

平坦では34度だった。

Ⅰさんは腰痛だったが、汗をかきながら登ったと云う。

センゲンサンの正式名称は浅間講。

かつては長蓮寺で籠りをしていた。

白装束に着替えて青連寺川(小長尾では曽爾川)で水垢離をしていたそうだ。

それから浅間神社を目指して山を登る。

時間にしてみればおよそ15分だが、急坂道。腰痛の身では堪えたと云う。

浅間神社には桜の木があるそうだ。

大日如来も祀る山の頂き。

そこで般若心経を唱えていたと云う。

今年も4年前に話してくださったYさんが登ったと云う。

90歳になったYさんはいたって元気でほいほいと登ったらしい。

住まいはと聞けば長蓮寺下の家だと云う。

訪ねた家にYさんがおられた。

4年前に拝見したときと同じの黒光りのお顔。

元気な姿をみせてくれる。

今年はネンギョ(年行)と呼ばれる年番さんとともに出かけた。

宮さん関係者の10人が登る一時間前に到着して神社周りを清掃していたそうだ。

ヤカタがある石碑にお神酒や御膳を供えて祭典をしていた。

般若心経は七巻。

いつもYさんが導師となって唱える。

Yさんも話したかつてのセンゲンサン。

長蓮寺に籠って「行」をしていた。

昼ごろになれば白い着物に着替えて川に向かって歩いた。

川に浸かって般若心経を唱えていた。

今では無住寺となった長蓮寺は江戸時代後期の創建で融通念仏宗派。

Yさんの時代だったそうだ。

小長尾には氏神さんを祀る天神社がある。

今年は造営の年になる。

本殿は大工棟梁の作業場に移して宮造りをしているそうだ。

造営には槌打ちの儀式がある。

槌を打つのは法被姿の村の子供たち。

Yさんの孫たちも儀式に出仕され槌を打つという。

9人も孫が参加するというから外孫も入っているのだろう。

槌打ちは男の子だけでなく女の子も参加する。

0歳児は親が抱っこして参加する。

上は15歳までと決まっている子供が槌を打つ造営はこれまで取材した地域には見られない様相である。

スケジュールオンしたのは云うまでもない。

ここら辺りの景観はとても美しい。



ここでも咲いていた黄色い花のルドベキア。

今年は行き先々で拝見する。

向こう側に見えるのが長蓮寺だ。

シカ除けのネットを張っている稲田。

稲穂が膨れるにはもう少しの期間が要るであろう。

手前に咲いていた紫の花。

細い葉だけに軸一本で立っているように見える花の名は知らない。

ノコンギク、いや違う。

カノコソウに似ているが葉付きがまったく違う・・・ヒヨドリソウ・・・それも違う。

背丈からマツムシソウと思ったか花付きが違う。

花図鑑を坊主めくりしても見つからない夏の花。

田んぼ傍にあったので園芸種なのか。



後日に判ったヤナギハナガサ。

盆の時期によく見かける花である。

四角い茎はザラザラ、細葉はギザギザの対性で判るそうだ。



辺りを見渡せばヤマユリが盛んに花を広げていた。

自然に生えていると思われるヤマユリは、大神宮の石塔場にも咲いていた。

「手入れはしてないのに勝手に広がっているんや」と云うヤマユリは花の大きさが日本最大級。



ササユリには見られない点々とした赤い斑点が特徴。

カサブランカは1970年代に日本原産のヤマユリ・カノコユリ・ササユリを原種にオランダで交配・作出されたそうだ。

そこへ軽トラでやってきた住民は83歳のⅠさん。

先祖さんは漢方医で、村の役員を勤めたこともある。

ご主人は乗ってきた軽トラを走らせて南紀まで出かけることもあると云う。

乗り慣れている軽トラであれば腰に負担もかけないと云って、つい先日も遠出をしたそうだ。

Ⅰさんの話によれば8月半ばは長蓮寺で施餓鬼が行われると云う。

同村の塩井の住職が法要されると云う。

長蓮寺は融通念仏宗派。

かつては11月ころに大阪平野大念仏が来村される大和ご回在があった。

今ではそういう行事もなくなったが、弾けるザクロの実が懐かしいと話していた。

長話に盛りあがる小長尾。

訪ねる家は元区長家のOさん。ぐるりと廻って家に辿りついた。

やっとのこさ思い出したのである。

訪ねてみれば作業場で奥さん、息子さんとともに野菜の袋詰めをされていた。

今年の11月23日は20年に一度の造営事業を行う。

この年はネンギョ(年行)にあたる同家。

前日の22日は朝から集落下の作業場でゴクツキをする。

ゴクツキと云っても器械で搗く。

半々の分量にしたコメコにモチコでゴクを搗く。

それをネコモチのような棒モチにこねて伸ばす。

少し堅くなったところでモチを輪切りにする。

モチと云ってもコメコ、モチコであるから、いわゆるダンゴである。

ちなみに隣村の長野はダンゴでなく、カサモチや十円玉を入れたモチを撒くそうだ。

(H26. 7.29 EOS40D撮影)
(H26. 7.29 SB932SH撮影)
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曽爾の桜景

2010年06月03日 07時30分25秒 | 曽爾村へ
雨の日の翌日はガスがかかる。

朝10時、サンビレッジ曽爾から曽爾高原を眺める。

そして、今井の行事を終えた。

帰宅するには時間はまだ早い。

せっかくだからと曽爾村の桜景観の状況を見て回った。

村長私邸のヤマザクラは満開だ。



朝の靄のときに撮っておけばよかったと思うがもう遅い。

曽爾の代表的な景観といえば屏風岩。

足を伸ばしてというよりも帰り道に寄ってみた。

もちろん500円の駐車料金を支払ってだ。

広くなったので停めやすい。

大字の管理人に挨拶して色彩豊かなヤマザクラを拝見。

ヤマツツジの花びらにちょうど陽が差し込んだ。



逆光に美しく映える。

今日はどこを捉えてみるか。



短時間の撮影を終えて帰ろうとしたら今井のご婦人方と出会った。

三多気も行ったし、御杖の丸山公園も行ったけど、近くにおりながらなかなかこっちへは来ないんですという。

そういえばここにおでん売りがあったよねの言葉に相づちをうつ。

たしかにここにあった。

だいぶと前のことだ。

そんなことを管理人と話していたら売れ残ることが多いのでやめたという。

余ったおでんは家の食事になったが毎日は困るんでやめたそうだ。

ご婦人は余ったからと行きしなに買ったときよりも帰りはごっそりもらって帰ったと思い出された。

(H22. 4.21 EOS40D撮影)
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曽爾今井の花見の宴

2010年06月01日 08時52分58秒 | 曽爾村へ
法要を終えると花見の宴。

役員の輪、当屋の組の輪の真ん中にオードブル料理や手作り煮染めのお重が並べられた。

煮染めはタケノコ、シイタケ、ニンジン、ゴボウ、コーヤドーフに卵焼きなどなど。



濃いめのお味が染みこんだ煮染め料理は故郷の味。

ビールの肴に最適だといながら、お下がりのお神酒でいただく。

天候も良くなってポカポカ陽気。

古樹のヤマザクラが青空に美しく映える。



岳さんはマツタケ山だけど急な斜面に生えているそうだ。

特別な職業師でないと危険な場所。

裏から行ってトメヤマへ。

売れんようなちっちゃなマツタケをくれるのだと笑う。

岳さんは兜岳。

正面から見れば兜の姿に見える。

その横は鎧岳。

曽爾の山々は荘厳な姿を見せてくれる。

宴は小学校が終わるころまで開いている。

まだまだ村人は来ない。

せっかくだからと緑の寄金で整備した公園でワラビ採り。



斜面の向こうは日当たりが良過ぎているのかひとつも見つからない。

半日陰になる場所に群生している。

手にはワラビの束が太くなってきた。

そのころにやってきた。



お地蔵さんに手を合わせて参拝する。

残りものやけどと煮染めをいただいて御供さんのモチ撒きに転じた。

宴会同様に桜の下で繰り広げられるモチの争奪戦。

小さ目のモチは棒モチ。

それを適度な大きさに切ったモチ。

搗いてからさまして固くなってから切る。

これをネコにするという。

大きなモチはカケモチ。

中には50円や100円が入っているので熱中する。



子どもに戻った気持ちになるわと村の春の宴は幕を閉じた。

(H22. 4.21 EOS40D撮影)
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曽爾今井の延命地蔵会式

2010年05月31日 09時34分56秒 | 曽爾村へ
毎年4月21日に会式が営まれている曽爾村今井の延命地蔵尊。

平成22年には横輪の中の組の幟が立てられた。

当屋の組は毎年変わる。横輪からは上、中、下、新(あたらし)の4組。

今井は上、中、下、宮の4組の小字(こあざ)。

8年にいっぺんは回ってくる年番の当屋の組だ。

あたごさんの当屋は組で決められる。

正月にする組もあるが、行われる時期はまちまちの汁椀のフリアゲで決まるそうだ。

午前中には昨年の幟を降ろして境内を清掃した葉っぱなどと一緒に燃やされる。

お地蔵さんには花束を添えている。

再び集まるのは正午。

塩井の明安寺の住職を迎えて会式の法要が始まった。



境内にシートを広げる。

地面の温度は低いのでさらに布団敷きを敷いた上に参列者が座る。

地蔵尊の前には黒塗り器の「ホッカイ」や藁製の「フゴ」に入れられた色とりどりの御供モチが置かれた。



赤、緑、黄色などは色粉で色つけ。

色粉を入れる小字や熱湯で溶かした色粉をモチ搗きのときに入れる小字など作り方は様々だそうだ。

色粉は自然な色合いで特に味はないという。

だからどれをとってもモチはモチに違いないと話される。

ホッカイは目出度いときに赤飯を入れていた器。

その名を思い出してくれたのはおばあさんだった。

昔は嫁入りのときに持ってきたのよと話される。

山間の空間に読経が静かに流れる。

すくっと立ち上がった住職。



右手に持った華を撒いた。

いわゆる散華だ。

ひらひらと舞い落ちた散華を拾って村人に配られた。

そのあとは一人ずつ焼香される。

地蔵尊の右手を流れる沢。

迂回道の道路ができるまではその沢道を登って赤目まで行ったそうだ。

現在は立派な村の道。

崖崩れなどで国道81号線が塞がったら三重県に行くにはこの県道を通っていくしかない。

昨年もそうだったと話す。

かっての地蔵尊はその迂回路傍の平坦地にあった。

唐招寺(唐招大寺の分院だったが廃寺)に頼まれて移設した。

「目の神さんとして親しまれてきた延命地蔵さんに参らなんと選挙も当選せーへん」という。

実際にそうなった人もおったという。

移設後、目が悪くなったり、死人が出たりしたんで元の位置に戻したという延命地蔵は通称「めなし地蔵」とも呼ばれている。

(H22. 4.21 EOS40D撮影)
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タワミネサンのゴク作り

2010年04月12日 07時09分26秒 | 曽爾村へ
タワミネサンの岳のぼりがある曽爾村の小長尾。

春の農休み(め)にあたる岳のぼり

農作業にとりかかる前に先に休んでおく農休めである。

六つのコバ(木場)から選ばれる当屋が岳のぼりに撒かれるモチを作る役目にあたる。

当屋はとーやと呼ぶ。

昔はふりだしと呼ばれる作法で当屋籤を引いた。

椀のなかに籤を入れて穴の開いた半紙を被せる。

それをふっと上に振る。

すると当たりの籤が飛び出す。

それが当屋さんだ。

いわゆる神籤であるのだが何故か何回も当たってしまうという元区長。

私が嫁にきてから3回も当たったんよと奥さんは話す。

不公平のないようにといつしか籤は家の順の廻り当番制になった。

天神社の当屋もそうなった。

かつては引き渡しもたいそうだった。

奉られた御幣を持って次の当屋の家に行く。

そこでごちそうを食べ、酒を飲み交わしていた。

長時間の引き渡しの場だった。

それがお茶を飲み交わすだけになった。

御幣を引き渡すのは変わっていないがすごく短時間になったという。

御幣は当屋の家で一年間奉る。

下のコバは5軒。

タワミネサンの当屋廻りは早い。

高齢化甚だしく、ゴク作りがたいへんだという。

ゴクは米粉(こめこ)が主体になる。

大字43軒は一升分ずつの白米を寄進する。

集まったら三斗にもなる。

単位は三斗だが、これをサンドと訛って呼ぶ。

米粉は挽いていた。

相当な量なので長時間どころかたいへんな重労働だった。

今年のタワミネサンから大きな転換が図られた。

米粉は米屋さんで挽く。

それなら最初から挽いてもらったほうがえーやろということで米屋から買うことにされた。

米粉は熱い湯を少しずつ注いで練る。

米粉だけではバラバラになる。

繋ぎに餅米を使う。

それと一緒に練るのだが、熱湯や配分加減は感覚でしているという。

湯は熱湯でないと口内でへばりつくそうだ。

コバごとに作るので食べたときにどこのコバが作ったんじゃと叱咤されるらしいのでゴク作りはたいへん重要なのだと話す。

ゴクは漢字で書けば御供。

練った米粉を棒状に伸ばして蒸す。

これをゆっくり冷ましてから切る。

タワミネサンの岳のぼりの前夜はこうして作業を終える。

村の大切な行事、米粉は買うようになったがゴク作りだけはこれから続けていきたいと仰る。

ちなみに大きく平べったいモチは「カサモチ」と呼んでいる。

(H22. 3.16 聞き取り)
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曽爾で合流

2010年02月23日 07時23分46秒 | 曽爾村へ
和歌山や大阪から写真クラブの方々が曽爾村にやってきた。

例年なら黒滝村でボタン鍋。同じ奈良でも違ったところへ連れてってと今年の新年会は曽爾村になった。

正月早々に和歌山から案内状をいただいた。

当日は仕事も取材も入っていない。

静山荘以来の曽爾村で合流。

目指すは高原ホテル曽爾。

宿に着いたらDさん夫婦が迎えてくれた。

二人と出会ったのは奈良の野迫川村。

和歌山にない奈良の風景を求めてやってくるのだ。

どこかえーとこないかと、たいがい電話がかかる。

その都度教えてあげるのだが、風景となるとジャンル外なのですぐにネタがつく。

それはともかく四人部屋にあがった。

ひとりは静山荘で宿泊したときのメンバー。

ワサビ漬けをしたことや早朝の素晴らしい景観撮影に行ったことを覚えている。

なんと愛媛から同行されたご夫婦もおられる。

写真クラブはといえばスライドを使っての作品講評会。

村の重鎮ゲストを迎えて始まった映し出される35ミリや大判作品にため息がでる。

メンバーの個性が如実に現れる。

1時間も超過したスライドショー。

舞台は代わってぼたん鍋で新年会。

ゲストの挨拶には私も出番があった。

それから4時間。宴会はカラオケ大会に様変わり。

歌いに唄って、ノドがガラガラ声になってしまったのはいうまでもない。

画像は宴会風景ではなくてホテル到着前に訪問した小長尾の元区長さん宅。

昨秋に取材させていただいた感謝祭のお礼に伺った。

その際に目についたのがこれ。

何度かお話しを聞いていた毎月25日に行われている天神さんの御供箱。

組当番の人が持ち回りの膳を納めている箱だ。

蓋には各神社にお供えされる個数が書かれている。

これでやっとはっきりした。

庚申さんや弥勒さんは一個、大日さんと浅間(せんげん)さんも一個ずつ。

多輪峯さん、秋葉さん、神武さん、皇大神宮さん、辻神さんも各一個ずつだ。

山の神さんと天神さんは二個。

集中している個所は纏めている。

これらは当番の人が分担してお供えに回る。

(H22. 1.23 SB912SH撮影)
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小長尾天神社の例祭収穫祭

2009年12月15日 18時43分09秒 | 曽爾村へ
曽爾村の小長尾は春祭りにタワミネさんに登って豊作を祈願した。

秋は菅原天神さんを祀る天神社の例祭典で収穫を祝う。

25日は天神さんの命日で、その日を祭典にしていたが、近年に集まりやすい祝日へと移行された。

今朝は冷え込んで曽爾は靄がたちこんだ。

集まった村人は鳥居下にとんどを焚いて暖をとる。

境内では婦人方が甘酒を造っている。

小長尾は六つの班が交替で祭りごとをしている。

東出、下組、中組、上組に西出の川原組と上組になる。

年番の組からトーヤが出て御幣を捧げる。

拝殿の右は総代や副総代に組代表の氏子たちが並ぶ。

左は年番の組衆となる。

門僕神社の宮司を迎えて神事が始まった。

神饌は小豆を乗せた洗米に山、海、里の幸。

かつて魚は開きのカマス(サイラと呼ぶ)だったが、今は生サバに。

お頭があればと構わないという。

修祓、開扉、献饌、祝詞奏上など厳かに神事が行われる。

その間、参拝する村人らで境内がいっぱいになってきた。

収穫したお米を供えて村の行事に参列した人はおよそ80人。

祭典後はお下がりのお酒や甘酒をいただき談笑の場。

酒や肴を配るのは年番衆。



境内は穏やかな陽が差し込んできた。

そして始まったモチ撒き。

前日に搗いた餅は長餅。

手で伸ばして棒状にする。

それを一口サイズに切った餅を撒く。



春祭りと同じように四方八方から放り投げるのが特徴だ。

欅(ケヤキ)の大木がある天神社。

欅の幹は太く、樹齢は数百年を越すであろう。

その欅から作られたわけではないが、狛犬は欅でできている。

盗られてはいけないので祭典後は回収される。

(H21.11.23 Kiss Digtal N撮影)
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曽爾の風

2008年08月31日 21時56分49秒 | 曽爾村へ
お亀山から望む。

(H20. 7.26 Kiss Digtal N撮影)
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