マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

豊井町小正月の豊作願い

2013年04月30日 08時13分25秒 | 天理市へ
豊井町の田んぼにあったお供え。

15日の朝食後に供えたと田んぼの主が話す小正月の風習である。

農家にとっては秋の収穫は毎年のこと。

苗代を始めるまでは数カ月。

新年を迎えてやがて小正月。

元日は大正月。

年神さんを迎えて正月を祝う。

それより2週間後の小正月は五穀豊穣を願う農耕の予祝行事を神社或いはお寺で行っている。

農業を営む人にとっては稲作をする田んぼが大切な場である。

O家では小正月の15日の朝食にアズキ粥を炊いた。

それから荒起こしをした田んぼに出かける。

そこに供えたのは正月のモチとアズキ粥に煎った米も供える。

傍らに立てたのがススキの穂。

それらをおまして手を合わせる。

供えた場は苗代をするところだ。

半紙に包んだのは正月のモチと同様のツルシガキ、トコロイモ、ミカンにモチ。

小皿に盛っていたアズキ粥は帰るときに田んぼに落とす。

鳥に食べてもらうのだと話す。

立てたススキは稲穂が実る姿。

苗代の苗が育ってほしいという願いは二ノ正月行事だと云う。

お供えを終えて帰宅すればアズキ粥を食べる。

箸は田んぼに立てたカヤススキの茎。

それを使ってアズキ粥を一口食べる。

実りの予祝は収穫した食べ物を意味するのであろう。

一口後は家庭の箸で家族揃って食べると話す農主は正月過ぎに「コンゴリ」と呼ぶ米ダンゴを作って食べたと云う。

ダンゴはコバン型でキナコを塗して食べる。

「寒のモチと同じようなもんだわ」と話す。

小正月のとんどの火で翌朝にアズキ粥を炊いて食べる風習を明日香の越(こし)や高取の佐田で聞いたことがある。

その佐田ではツバキの葉、越ではカシの葉を皿替わりに盛ると話していた。

大和郡山市の柏木町でもビワの葉に盛っている。

豊井町でも同じようにとんどの火であったのか、後日に聞いた結果はあった。

あったが中断したと話す村役員。

豊井町においてもアズキ粥の風習は小正月のとんどと関連していたのであった。

(H25. 1.19 EOS40D撮影)
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豊井町を訪ねて

2013年04月29日 07時45分35秒 | 楽しみにしておこうっと
荒起こしをされた田んぼの一角。

四隅に竹を挿している。

その中にあったススキの穂。

下には半紙に包んだミカンと思えるお供え。

傍らにはアズキ粥があった。

2、3日前にそれをしたというO氏。

当人はおられなかったが田んぼ付近に住むY氏に伺った。

1月19日は氏神さんを祀る豊日神社の行事。

ケッチンと呼んで充てる漢字は結鎮。

神社役員が版木を刷る。

おそらくはごーさんのお札。

それをヤナギの枝に挿して豊作を祈願する。

神職は登場せずに村人たちで行われる行事のようだ。

祈願したお札は村人に配られるが農家を営む戸数は少ない。

ケッチンを知ったのは郡山城ホールで藍染の展示会で受付していたN婦人の言葉。

うちではそのような行事をしていると聞いてやってきた豊井町。

神社を求めて流離っていたときに発見した苗代のお供えであった。

秋祭りや風鎮祭があるという。

膳の料理は手作りであったが簡略化したと話す。



風鎮祭は風の祈祷とも呼ぶ行事で集落内にあるお地蔵さんの祭りと重なっているようである。

(H25. 1.18 EOS40D撮影)
(H25. 1.19 SB932SH撮影)
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足止め12時間の成人の日

2013年04月28日 08時26分13秒 | いどう
山添村のとある大字で行われる正月行事取材に出かけた朝。

その日は雨が降っていた。

天理東からは名阪国道。そこからおよそ30分の処が目的地だった。

雨はいつしか霙混じりになった。

五ケ谷付近では雪になった。

このまま行けばどうなるのであろう。

前夜は暖かい日であった。

それぐらいの気温であれば雨交じりの雪になるだろうと話していた大塩の住民。

その言葉に期待を掛けて薄らと積もった五ケ谷を通過した。

この判断が甘かったことになるのである。

降る雪は見る間に道路を白くする。

前を走る車の跡がはっきりと判る。

滑ってはなんにもならないと思って速度を大幅に落とした。

傍を走っている車もそうしている。

スタッドレスタイヤは難なく前を行く。

高峰サービスエリア付近になればそうもこうも言ってられないほどの降雪状態。

数台の車は端っこに停めてタイヤチェーンを装着している。

賢明なドライバーたちである。

この状況下では到底山添村へは着くことは不可能。

福住インターチェンジで降りてUターンしようと思ったが既に遅し。

出口が封鎖されたのである。

出口がなければ東へ前進するのみである。

このまま行けば山添村に着くだろうなんてことはない。

仕方のないことである。

ヒヤヒヤ、アセアセで駆動するスクラム。

時速は何キロだろうか。

メーターを見る余裕もなくソロリソロリと東進する。

一本松のインターチェンジも同様に出口封鎖。

すでに何台かの車が停車している。

ノーマルタイヤでは到底登ることのできない区間。

本降りどころかどしゃぶりの雪が天から降ってくる。

蛇行する車の跡に沿っていかずにおられない。

次のインターチェンジは針だ。

ここは封鎖していなかった。

針テラスではいろんなお店がある。

ここなら滞在しても落ち着けると思ってぐるりを廻る橋をソロソロ。

そこでもトラックが停まっていた。

車から降りてスコップを持つ係員を呼びだす運転手。

信号先のガソリンスタンドを目指したかったが入口封鎖で通行不能。

先行車についていって針テラスに入った。

ここであれば滑ることはない。

まずは一安心である。

取材先やかーさん、写友人らに実況を伝える。

そんな状況であればいっそのこと針の温泉にでも入って一服してはどうなのと云われるが心は落ち着かない。

心の余裕がないのだ。

ラジオから聞こえてくる道路情報。

入口封鎖どころか全面的な通行止め。

天理東から五月橋までが通行止めになったのである。

降雪は思いもよらないほどの量であっと云う間の状況。

立ち往生する車はとんでもない多さである。

この日は成人の日を含めた三連休。

出かける人も多い。

えらいことになってしまったと思っているのは私一人だけではないことは確かだ。

ラジオから聞こえたニュースによれば午前9時現在の針の降雪は16cmだという。

そんなもんではないことは現実を知る私だ。

積もった雪はどかどかと積み重なっていって20cmは越えている。

山添村のとある村人は電話口でこういった。

「朝から降った雪は20cmもなっている」である。

家を出発する際に電話をしておけばよかったと思っても、もう遅い。

針から向こうには行けない状況に居るだけだ。



店外にあるテントに積もった雪を降ろしている針テラス情報館の人たちは駐車場から店内に入る道もスコップで作っている。

お客さんのことを考えた配慮である。

1時間、2時間と時間が過ぎていっても状況は変化しないがもよおす身体には勝てない。

動かない車もそのままで情報館のトイレに走っていく。

前方の車がときおり動くから前に進まなければ。

後ろから追いつめられるが尿が漏れてはならない。

数人が乗っていれば交替もできるが一人ではすごく気をつかう。

駐車場には停車したままの車もある。

動かないから放置せざるを得ないのであろう。



天理駅へ戻る定期バスも停まったままだ。

少しずつ動く前方の縦列車。

トラックもツルツル滑って動かない。

情報館の人たちがダンボール紙を持ってきてくれたが役に立たなかった。

ギューン、ギューン。

後ろについてた車もノーマルタイヤ。

どけてと云われても無理な話だ。

情報館や降りてきた他車の人たちが押して動くが通行止めの名阪国道以外にどこへ行くのだろう。

テラス外にあるコンビニかなと思うが・・・・。

徐々に動くから始末が悪い。

動き出した天理駅行きのバスの後をつけばと思ったが停車中の行列を抜けて地道に行ってしまった。

バスはタイヤチェーンを装着しているので山を下っていったのであろう。

難儀していたトラックも消えた。



その前に留まっているのは大型観光バス。

2台で繰りだしたのは大阪からやってきたベースボールチーム。

白赤のユニホーム姿に帽子を被っていればだれでも判る。

中学生までの子供たちであろう。

バスから降りたらトイレに直行する少年野球チーム。

学校はそれぞれらしい。

ユニホームに書かれていたチーム名は「レッドスター」。

帰宅してから調べてみれば、なんと阪神球団に所属していた赤星憲広選手の熱い思いで設立したという野球チームだった。

バスの運転手から聞いた話では山添村ホームグランドでの練習試合。

チームが二手に分かれて試合する予定だったのだろうか。

大雪になったことから試合をすることなく戻る行程のこと。

やむを得ず針に落ち着いたそうだ。

チームオーナーは赤星憲弘氏だがバスには居なかった。



少年たちは何度となくトイレに向かう。

積もった雪で遊ぶ少年たち。

雪の玉投げは壮年層も。

監督かコーチか判らないが持て余す滞在時間を過ごす。

こうして時間が過ぎて行き場を失った車中の人たち。

お腹も空いてきたことだろう。

完全に停車した通行止め。

餃子の王将で食材を求める人たちもいる。

いつもの昼食に入店するつるまる饂飩はどうであったのか知る由もない。

か-さんは「泊れるんであれば温泉も確かめたらどうか」というが動けない状況下に変わりない。

時間は刻々と過ぎていくだけデジタル時計が示す。

待つことが辛いと思ったことはない。

入口封鎖している場所からクルクル回るライト。

それが移動していく方向は針テラス。

ニュースが報じていた動かなくなった車を移動するレッカー車である。

何度も何度も光景するレッカーのパトライト。

ニュースによれば50台もの車が名阪国道で立ち往生しているらしい。

最寄りのエリアに移動していると報じていた。

それが針テラスだったようだ。

何時になれば通行解除になるのだろうか。

かーさんに調べてもらった#8011。

かけてみれば通行解除の見通しなんてものはアナウンスされる道理もない。

各地の通行止めが伝えられる。

滞在地の針から南。

桜井市に通じる道も通行止め。

広範囲に亘る積雪状況だと思えた。

一挙に降った雪は東山間の地域を総なめにしたようだ。

アナウンスによれば葛城の道、吉野南部もそうだと伝えるが、県の平坦では雨。

そんな大雪になっているとは誰も信じない。

撮った画像を送りたいと思ったがやめた。

それがどうしたという具合になるだけである。

体験している人しか感じ得ない大雪の缶詰め状態は脱出するには時間がまだまだかかる。

12年間も勤めている情報館の人の話しによれば「こんな大雪は始めて」だという。

小雪であっても名阪国道が通行止めになること度々。

それが解除されるのは、大方、深夜の時間帯。

ということを聞いて安心した。

待てば海路の日和あり。

一泊するかしないかは除雪作業の進展次第。

たいへんな状況に大急ぎで作業されていることと思って待つ。

しかしだ。

もよおす身体だけは止められない。

何度となく利用させていただいた情報館は17時で閉店する。

それ以降はどうするか。

深夜に備えてグチュグチュになった雪の道路を歩いていったコンビニ。弁当はすでに売り切れだ。

補充する車もないからいずれは店頭から消える。

そう思って買ったパン二つ。

とりあえずに食べたパンで腹ごしらえ。



OSAKAカレーパンと云うが、どこがそうなのか。

味わって食べても判らない。

陽も落ちて明かりが雪に反射する。

目の前の積もった雪がピカピカと光る。

青い光である。

入口封鎖している箇所に信号がある。

青信号が反射しているのかと思えばそうでもない。

赤信号であっても光る点滅の光りは青色。



その正体を掴みたくて車を降りて積もった雪をかきわけた。

中からでてきたのはケータイ電話、ではなく流行りのスマホ。

落とした人は気が動転しているに違いない。

そう思った。

それから数分後。

天理高速パトロールカーが我が車を通り抜けようとした。

待って、待ってと手を振った。

窓ガラスを開けた警察官に伝えた落し物。

申し出があっても断れない警察官。

書類がないという。

最寄りの警察署に戻って書類を持ってくるというから名前、電話番号、車体番号を伝えた。

それから数十分。

私のケータイにベルが鳴る。

知らない番号だが応えた結果は天理警察署。

針テラスへ向かおうとしたが通行不能だという。

落し物はどうすればいいのか。

通行解除になってからでも構わないから届け出してほしいという。

私が帰る地は大和郡山と答えればそこでも構わないという。

たぶんそうなるであろうと思った答えだ。

14時ころに小ぶりになった大雪。

何度となく心が折れそうになっていた。

地道でも可能かどうかと思ったのである。

針から南之庄を抜けて福住から苣原、天理へ下ることは可能かどうか。

スタッドレスタイヤで走行ができるような状況にあるのか、苣原の住民に電話をした結果は「私はお勧めできません」。

なんでも婦人会を福住で催す予定だったそうだが、仕出し屋さんの車が到着できないほどの大雪だったと伝える。

「苣原の国道を走行できるのはチェーンでないとあきまへんで」と云われて針での籠りを選んだ成人の日。

ラジオニュースが伝える情報によれば針から桜井・室生・宇陀間、香酔峠・女寄峠が通行止め。

天理の豊井町辺りからも登ることができない。

西の葛城當麻道も通行止め。

盆地部平坦以外の山間部は広範囲に亘った通行止めであった。

そんなことがあっても状況に変化はない。

相変わらず滞留した車を曳行するレッカー車が往来する。

21時ころのことだ。

移動しないパトライトが気になった。

動きがあったのか。

それからもしばらくは変わりない。

1時間おきに聞いていた道路情報ラジオ。

絶えず聞こえる声はテープに収録された女性の声。

小さな声はボリュームを上げなければ聞こえない。

この時は違った。

いきなり聞こえてきた男の声は「21時に通行止めが解除しました」と大きな声。

勢いがある声だ。

やはり移動しないパトライトは解除の様子であったのだ。

解除通達があってから動き出した縦列駐車の車が動き出した。

21時20分である。

あっちこっちから乱れるように入口に動く車。

レッドスターのバスは前を行く。

翌日は平日。

学校がある少年たちを待つ親もほっとしたことであろう。



針テラスで籠ること実質12時間半だった。

封鎖していた信号を進めば係員がいた。

「ご苦労さまでした。ありがとうございます」と会釈しながら通過すれば係員の安堵の顔が見えた。

身体は凍えていたが心は温かくなった。

嬉し涙が出そうになった帰り道。

ウォーク・ドント・ラン・・・・急がば回れは正解だった針の籠り。

スイスイ走る名阪国道を抜けて大和郡山へ。

約束通りに郡山警察署に落し物のケータイを届けた。

発見した状況から天理警察署の指示を伝えて届け出る。

端末を操作する警察官の声があがった。

既に届け出があったのだ。

電話番号はロックが掛けられているので判らなかったが、形式型番を照合してみれば一致する。

届け出書にサインをして戻ってきた我が家。

長い一日がこうして終えたが、その後も落とし主からの電話は無かった。

・・・一週間後の22日。

郡山警察署から電話があった。

落とし主の男性が現れて確認がとれたという連絡だ。

翌日にはご本人さんからお礼の電話がかかった。

無事に手元に戻ってほっとする。

チェーンを装着していたので14時頃には下山したという。

室生ではなくて北の方角にある柳生に向かったそうだ。

行き先々で立ち往生する車はスタッドレスタイヤも。

チェーンを装着していても困難だったという。

水間のトンネル越えも困難を極めたようだ。

さすがに春日ドライブウエイ辺りではジュクジュク道路。

すんなりと通り抜けたがチェーンは不要。

外して大阪まで、3時間もかけて戻ったという。

後日に聞いた積雪量。

天理福住、都祁や山添では30cm。

榛原額井では35cm。

桜井市の萱森は40cmだが白木では膝まであったから45cmだと云っていた。

急に降ってきた雪はあっという間。

三八豪雪以来ではと話す大塩の住民。

白木と同様に垂れさがる竹どころか樹木まで折れまがってしまった重たい雪であった。

生活道を塞ぐ木々の伐採作業が続いたそうだ。

(H25. 1.14 SB932SH撮影)
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大塩のブトノクチ焼き

2013年04月27日 07時53分03秒 | 山添村へ
平成25年の1月14日はブトノクチ。

ブトクスベとも呼ぶ大塩のK家の風習は夜ご飯を食べ終わったあとにしている。

ブトクスベは綿の肌着を藁で巻いて火を点ける。

夏の仕事をしているときに腰に挿して仕事をしていた。

日常の生活だったようだ。

ブトノクチはとんどの前日だ。

モチを千切って囲炉裏にくべる。

「ハチノハリ ムカデノクチ ハミノクチ サシタリカブレタリ ミナヤケヨ」と云いながらモチ片を焼く。

元々は小正月の15日に行っていたがハッピーマンデーとなった現在は成人の日に合わせている。

ブトノクチは家族が揃ってから行われる。



両親とともにモチを千切っては囲炉裏にくすべる子供たち。

何をしてるか判らないままに同じようにくすべる孫たち。

台詞の意味が判ってくるにはまだ早い。

ブヨとも呼ぶブトは蚊より小さい1mmぐらいの大きさ。

ブトに噛まれたら痒くなる。

朝方から昼頃まで出没する有害虫。

アブもそれよりもっと大きくて刺されると痛い。

ハミはマムシのことだ。

この夜のブトノクチ焼きはヒトデも登場して「みな焼けよ」だ。

以前は囲炉裏でなく火鉢でしていたと云うK家の風習。

正月三日間はモチを焼いても「モチ焦げた」とは云わない。

「花が咲いた」と親から教わったと話す。

ブトノクチ焼きについては一週間前に聞いた天理市苣原でのこと。

そこでは供えていたケイチンのモチをとんどで焼いた。

もう一つのモチは家に持ち帰って焼いた。

これを「ブトの口焼き」と呼んでいた。

「ブトは刺しよるんで焼いたるんじゃ」と云う風習は害虫除けのまじないだ。

宇陀市榛原の額井ではとんどに投げ込む「ブトノクチ」を拝見したことがある。

「ブトノクチ ハミノクチ」と言いながらモチをとんどに投げる。

無病息災を祈るまじないとされる「ブトノクチ」である。

「ブト」は「ブヨ」で刺す悪い虫。

「ハミ」はマムシの別名で咬む動物。

農作業をする際の天敵。

刺されないよう、咬まれないようにするまじないである。

山添村のある大字の男性は今でもしていると聞いたことがある。

こうしたとんどとブトノクチの関係は多くの地域で行われているようだ。

平坦盆地部の天理市の楢町においても行われていた「ブトノクチヤキ」。

『楢町史』によれば小正月のトンドの日である。

「ブトの口もやこう ノミの口もシラメの口もやこう」と云ったその日は炊いたアズキガユを神仏に供えたそうだ。

「ブトノクチ焼き」の際に聞いた「ナルカナランカ」の風習。

「ナルカナランカ ナタヘンカッタラ キッテシマウ」と云えば「ナリマス ナリマス」と相方が答える。

その風習は1月15日だった。

三又になっているカキの木にナタをあてて木肌の皮を剥く。

傷を付けるような感じだった。

姉さんがナタで伐って「ナルカナランカ」をすれば弟のKさんが「ナリマス」を勤めた。

5歳くらいの頃だったという光景は60年も前のことだ。

「ナルカナランカ」のカキの木にはゼンザイのモチをくっつけた。

木肌に虫が入る行為だと話す。

「ナルカナランカ」は楢町にもあった。

トンドの火で炊いたアズキガユ。

柿の木にナタで傷をつけて、その木を「ナルカナランカ」と云いながら叩いた。

木責めの作法にアズキガユを挟むこともあったようだ。

(H25. 1.13 EOS40D撮影)
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名張市鵜山福龍寺のオコナイ

2013年04月26日 08時34分39秒 | もっと遠くへ(三重編)
午前中いっぱいかけてオコナイの飾りつけを終えた一行は頭屋家で接待料理をいただく。

男の子が誕生した頭屋家の祝いのもてなしだと云う。

子供の誕生がなければ公民館で行われる区長の接待だそうだ。

会食を済ませた人たちは再び公民館に集まってくる。

午後も作業がある。

村人が到着するまでに作るのが「キョウ」である。



型押しして作るキョウのメシは四角。

四隅に僅かな尖がりが見られる蒸しメシである。

「キョウ」を充てる漢字は「饗」。

午前中に村の戸数分を作っておく。



そのうちの一つは風呂敷に包んで氏神さんに供える。

地主神とされる地の神さんこと八柱神社はかつて八王子社と呼ばれていた。

膳に乗せて本殿に供える。

寺行事であっても御供を地の神さんに食べてもらうのだ。

かつては蒸したキョウのメシを一旦は菰に広げていた。



冷ましてから型枠に詰め込んでいたが、現在は炊いた炊飯器からしゃもじでよそって型枠に詰め込む。



「キョウ」の膳には2本のゴボウと角切りのダイコンに水漬け大豆を添える。

やってきた村の人が公民館に上がって席に着けば汁椀とともに配膳する。

汁椀はトーフと乾燥した赤いサトイモの葉っぱを入れた味噌汁。

ダシジャコの香りが漂ってくる。



キョウ作りや接待役は区長と手伝いさん。

午後の時間帯も接待に忙しい。



キョウの膳は食べることなく汁椀をよばれて本堂に上がる。

かつては福龍寺本堂に上がってキョウの膳をいただいていたそうだ。

なお、汁椀については見学者にも振舞われるありがたい鵜山のもてなし。



この年は頭屋の子供も席に着いた。



生まれて間もない赤ちゃんは祖母が抱いて村人たちへのお披露目。

蘇民将来の子孫誕生をみなで喜び合う。

キョウの膳を公民館でよばれたあとは本堂でのオコナイに移る。

オコナイの法要をする僧侶は薦生(こもう)の妙応院住職。

鐘が撞かれて始まりの合図。



この日のオコナイに参集した村人は24人。

本堂がいっぱいになった。

導師の真言読経、般若心経に続くお経の途中で「ランジョー」が発せられると縁にある太鼓(奈良県無山で大正11年に製作 中川祭太郎張替)を打ち鳴らす。

太鼓は本堂廻りの回廊にある。

堂外で鳴らすのであるが扉は閉めたまま。

「ランジョー」の声が聞こえにくい。

ドンドコドンドンと太鼓を打ちながら心経を唱えるは6分間。

ぴたりと止んだ太鼓打ちの僧侶は斎壇に座り直す。

村の人の名を詠みあげる時が流れる。

耳を澄ませてじっと待つこと25分後のことだ。



「ランジョー」が発せられた。

「今だ」と気合を込めてドン、ドン、ドンと叩く太鼓打ちは組長の役目。

わずかに1回の作法で終えたランジョー(乱声)は村から悪霊を追い出す所作である。

2月11日には大般若経の転読法要があると案内される僧侶もほっとした顔つきになった。

福龍寺には六百巻の大般若経が現存しているが法要には使わない。

「奉施主入飯道寺 正和二年(1313)」に寄進された大般若経典。

飯道寺は近江の国。

甲賀郡の経典がなぜに鵜山にあるのか、記録も伝承もない。

昔は経典を納めた箱をオーコで担いで村中を巡ったものだと話す。

また、地主の神さんとされる八柱神社の棟札に「正和六年(1317)」の年代が書かれてあったそうだ。

時代的に一致する大般若経典と棟札が伝わることから福龍寺とともに社殿があったと思われる。

八柱神社は五男三女神を祀り、江戸期には八王子社と呼ばれていたというから牛頭天王社であろう。



こうして長丁場のオコナイを終えた村人たちは祈祷された「大地主神 八柱神社 大御歳神」のお札と「ソミノシソンナリ」の護符を授かる。

大正時代の末頃まではランジョーが発せられるとともにナリバナを奪いあった。

現在は争奪戦にならないようにコヨリクジを引いて当たりのナリバナを背負って持ち帰る。



祈祷札はT字型に切り込みを入れたハゼの木に挿して持ち帰る。



お堂の下ではそれらを受け取る人でいっぱいになるが名前を呼びだしてのことだから争奪戦にはならないのである。



「チバイ」はと言えば生まれたての子供を抱く頭屋と6歳以下の子供(男女)がいる家だけが受け取る印だ。

この年は生まれたての頭屋があったが、なければ区長が代役を勤めると云う「チバイ」はすくすくと育ってほしいという願いがあるようで、神棚に一年間奉って翌年のどんどで燃やすそうだ。



ナリバナを貰って家路につく笑顔の婦人たちの顔は実に嬉しそうだ。

背負った婦人たち表情がなんとも言えない鵜山の風情を醸し出す。



重たいから細かく刻む人や軽トラに乗せる人もいる。

風呂敷に包んだキョウのメシは地主神こと八柱神社のお札をハゼの木に挟んで持ち帰る。

お札とハゼの木は苗代、或いは田植え時の田んぼの畦に挿して、今年も豊作になりますようにと立てる。

ちなみにケズリカケとサラエは今年の頭屋が記念に持ち帰るが、その他の飾りやナリバナの台、ケズリカケ、サラエなどすべてが燃やされる。



かつてはダンジョーの作法を終えると始まった争奪戦。

子供たちも大勢おってサラエやスズメを奪い取ったと云う縁起ものだそうだ。

なお、手伝いにあたった頭屋家親戚のⅠ氏は東大寺二月堂修二会における「香水講」で、12日は神官装束になる泊りだそうだ。

この辺りは鵜山を含める地域(山添村広代など)で香水講の集団があるようだ。

お水取りの際に閼伽井屋に提灯を掲げる東香水講だと思われるのである。

また、鵜山には般若心経を唱える観音講もあると云う。

昔は大勢おられた観音講は今では3人。

少なくなったが毎月のお勤め。

般若心経を100巻も唱える。

大勢おられたときは早めに終わった般若心経は3人で唱えるには多い。

一人あたりが33、34巻にもなると云う観音講の営みは毎月17日。

かつては僧侶も来ていたが今は婦人だけの営みは14時から始めるそうだ。

何巻唱えたか判るように小豆を数取りにしている。

一般的には婦人の観音講であるが鵜山では男性もいる。

男性は3人でオトナ講でもあるそうだ。

10月中旬(第三日曜)辺りの日曜日に行われるマツリの頭屋は4軒で勤める。

ダイコン、ゴボウ、コンニャクの「タイテン」に大きな生の丸イワシを膳に盛ると云う。

山添村の広瀬住民のひと言から拝見した名張市鵜山のオコナイ。

奈良県内のオコナイと比較研究する意味合いも見つかった鵜山のオコナイは周辺行事も含めてさらなる民俗行事を取材したくなった一日である。

(H25. 1.13 EOS40D撮影)
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名張市鵜山のナリバナ

2013年04月25日 06時50分36秒 | もっと遠くへ(三重編)
三重県で有名なオコナイに伊賀市島ケ原の観音堤寺正月堂の修正会(県指定文化財)がある。

同県の西方、名張市の地に鵜山がある。

鵜山の名称がある地は奈良県山添村にもある。

両県に跨る同名地の鵜山は明治のころ(と思われる)に行政区割りされ奈良県と三重県側に二つが存在することになった。

山添村大塩の住民K氏は奈良県側を西鵜山、三重県側を東鵜山と呼んでいる。

三重県側から言えば山添村の鵜山は大和鵜山と呼ぶ東大寺の所領地である。

西鵜山から峠を越えたすぐ近くに福龍寺がある。

真言宗醍醐派の福龍寺は伊賀四国八十八カ所の第51番札所である。

本尊十一面観音立相像は古くから妊婦尊敬として親しまれてきた子安観音だ。

この日は正月初めに行われる修正会。

いわゆる村行事のオコナイである。

早朝に村の人が持ち寄ったクロモジの木には玉子、或いは大きな繭のような形のモチを付けている。

その数は1本につき100個以上もある。

まるで白い花を咲かせたようにみえる。

鵜山の村は18戸。

それぞれの家が持ってくる「ナリバナ」である。

話によれば1本につき1升のモチを付けているという。

搗きたてのモチは柔らかい。

千切って丸くするモチをクロモジの木にくっつけていく。

ナリバナのモチは新芽がつくという意味がある。

豊作、多産の願いがナリバナに込められているのだろう。

一週間前に山添村広瀬の住民T婦人が話した「ナリバナがあって、食べたらすぐに身ごもった」というありがたいナリバナ。

婦人の出里が名張の鵜山。

子安観音にナリバナを捧げて願いが叶ったというわけだ。

ナリバナを持ちこむ時間はさまざま。

村人の都合次第であるから揃って来るわけではない。



ナリバナを受け付けるのは区長以下寺手伝いの人たちだ。



ナリバナを受け取ればお返しに数個のモチを付けた小さなナリバナを渡す。

一方、公民館には数本のナリバナが欄間から吊るされていた。



垂れさがるナリバナは一面に花が咲いたように見える。

村からは2本の提供があるナリバナである。

子供が生まれた家も2本のナリバナを捧げる。

圧巻な景観にしばし見惚れる。

かつては頭屋家へ捧げるナリバナであったが現在は公民館。

平成元年の頃は頭屋の家で行われていた記録がある。

公民館が新しくなって場を替えたそうだ。

寺や神社の行事、なにかにつけての寄り合いはここでするようになったと話す。

区長と頭屋、それぞれが2本ずつナリバナを持ってきた。

頭屋となるのは男の子が生まれた家。

実に久しぶりだと話す。

福龍寺本堂にはナリバナ以外に飾りつけを待つオコナイの品々が数品ある。



一つはフシの木を削った「ケズリカケ」だ。

3月に行われる東大寺二月堂で行われる修二会のケズリカケ(お水取りの神事の際にお松明の着け木に用いられる)によく似ているが削りは荒い。

フシの実は青い色になるそうだ。

十津川村の山の神にも供えられるケズリカケがあるそうだ。

もう一つは「サラエ(若しくはサライ)」である。



竹の先を6本に割いて直角90度に曲げたサラエに交互に取り付けた紅白の花。

ケズリカケと同じフシの木を使っている。

「ハナ」の別称があるサラエは曲げが戻らないようにマメフジの蔓で縛っている。

奈良市都祁針の観音寺で行われるオコナイの「ハナ(華)」と同じような形であるが針では7本割きだ。

針では曲げの部分を火で炙って曲げていたが、鵜山ではそうすることなく難なく曲げると製作者のS組長が話す。

奈良市都祁上深川の元薬寺で行われる初祈祷がある。

ここでもハナ(華)があるが、竹割りは三方である。

上深川においてもナリバナがある。

大当家が作って奉納するクロモジのナリバナ(モチバナとも呼ぶ)も見事な大きさだったことを覚えている。

それはともかく持ち寄ったナリバナを挿す台がある。

藁俵を丸く敷いた上に竹で編んだ籠を逆さにした台である。

台が倒れないように籠の中には枯れ葉を詰め込んで重たくする。

これをシンドカゴと呼ぶ。

本来は三段にする藁俵。

この年は一段であった。

ナリバナ台に挿す飾りものがある。



竹に挿したクリ、コウジミカン、サトイモ、輪切りダイコンは山の幸だそうだ。

押しモチもある山の幸は閏の年は13本。

合計で26本になるようだ。

ナリバナ台の中央に挿すのは葉付きの笹竹。

力竹とも呼ぶ男竹と若い竹のメダケ(女竹)だ。

その男竹の頂点にケズリカケを挿す。



葉がある細かい女竹の枝には「スズメ」の名称がある小さな三角形の木に色紙で作った造りものも挿す。

「スズメ」は赤、緑それぞれ6個の合計で12個。

一年の月の数のスズメは閏の年では13個になる。

実った稲穂に群がるスズメは豊作を表していると考えられるのである。

シンドカゴ、サラエ、ケズリカケ、スズメ、山の幸は1対。

本尊脇の内陣両側へ左右1対に設える。

シンドカゴには御供と呼ばれるクシガキ、ヒシモチ、2段重ねモチ、クリ、コウジミカン、トコロも供える。



正月の「オガミゼン(拝膳)」の内容と同じだそうだ。

オコナイに奉られる飾りものの造物はそれだけでなく「チバイ」と呼ぶものもある。



フシの木片の四方に「ソミ」「ノシ」「ソン」「ナリ」の文字がある。

コヨリ捩じりの青、赤色紙を付けて鮮やかな「チバイ」は護符を括りつけている。

それには「ソミノシソンナリ」の文字が羅列してある。

供えた家族の人数分だという「チバイ」は蘇民将来(そみんしょうらい)の子孫成りという鵜山の住民たち。

この「チバイ」はオコナイ行事を終えてから受け取るのではあるが、受け取るのは6歳までの子供と決まっている。

この年は生まれた頭屋家と6歳の子供がいる2軒。

少なくなったと話す。

ちなみに鵜山でいう「スズメ」は島ケ原で「ツバメ」と呼んでいる。

島ケ原では「ソミノシソンナリ」の在り方は廃絶されただけに鵜山のオコナイはとても貴重である。

「チバイ」を本堂の柱に括りつけて午後の時間を待つ。

オコナイの準備作業をしていたのは区長と4組の組長夫婦と頭屋家とその親戚になる家人。

区長は1年任期であるが組長は2年任期だそうだ。

鵜山は18戸の集落だけに廻りが早いという。

かつては37戸もあった鵜山も徐々に減って18戸。

隣村の奈良県側の鵜山も18戸と聞く。

行事を勤めるのはたいへんだと話す。

(H25. 1.13 EOS40D撮影)
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五井の蛇巻

2013年04月24日 06時54分23秒 | 橿原市へ
橿原市五井町で行われる正月行事。

五位のノガミ或いは五井の蛇巻きと呼ばれている。

この訪れた時間は夕刻近い時間帯。

三叉路をぐるり廻れば高取川土手のヨノミの木に巻きつけた蛇巻きがあった。

蛇巻きを作るのは春日神社の境内。

水利組合の3人の役員が居られた。

五位のノガミは旧暦の1月15日であった。

いつしか新暦の1月15日になった。

その日は成人の日の祝日。

祭りごとには相応しい日であったが、ハッピーマンデーが施行されてからは毎年替る成人の日。

前日の場合もあれば当日の場合もある五井のノガミ。

いつもすれ違う五井のノガミは掛け終わったばかりであった。

夕陽に赤く染まった蛇巻きはまるで天を昇るように掛けられた。

美しい姿に圧倒される。

蛇は龍とも。

水神には違いない。

農耕に必要とされる天からの恵みは雨である。

それをもたらすのが蛇であり龍でもある。

そういうことから五井のノガミは水利組合の人たちの行事であろうと思うのである。

(H25. 1.12 EOS40D撮影)
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萱森の行事1

2013年04月23日 09時10分00秒 | 桜井市へ
平成19年7月8日のことだ。

桜井市の山間にあたる芹井から白木を抜けて中谷、萱森の神社を探していた。

宮司を勤めていたⅠ氏が話していた萱森のおんだ祭が斎行される神社である。

中谷は判明したが結局のところ萱森の神社は判らなかった。

この辺りにあるということは判っているのだが・・・。

木工作業をしている人がおられた。

もしやと思って声を掛けたが大阪の人だった。

ここへ来て作業をしているという。

それならこの家のご主人に尋ねたら判るだろうと紹介してくださったH氏は萱森の住民。

萱森は在地宮垣内の他に中垣内、下垣内がある。

三社権現の祭典に出仕する隣村の大字中谷もあると云う。

3垣内、十数軒の萱森集落は芹井と同じような土地柄で、それぞれの垣内は離れた地区にある。

萱森の神社は高龗(たかおかみ)神社。

おかみの文字は雨冠に下が龍だ。

水の神さんであろう。

境内にある燈籠は九頭大明神とある。

由緒によれば信州戸隠山の九頭龍権現を遷し祀ったとある。

宮座は太夫とも呼ばれる一老から十老まで。

H氏は末席の十老を勤めるような年代になったと話す。

毎月1日は一日座があるそうだ。

芹井や中白木の住民が話していた大字中谷の高龗(たかおかみ)神社。

宮座祭祀が行われていた大字中谷。

村外へ出る家もあったことから3軒になった。

どうすることもできなくなって解散したという。

その件についてはH氏も同じように話す。

山間部における宮座の衰退は止めようがないほどになっているという。

神社近くにある小さな祠の屋根に注連縄を掛けたと云うH氏。

それほど遠くない地に鎮座する神社があると教わった。



たしかにそれがあった山の神。

本来の山の神はもっと遠い。

高い山の方である。

お参りするには遠いからと下に降ろしたという。

神社はそこから数メートル。

鳥居に太く結った注連縄が掛けられてあった。



そこには木で作られた四つの造作物があった。

山の神さんを祭るカマであろうか。

後日に伺った結果はカマとナタを象ったものだと云う。

ナタには数本の筋を入れてあるから判るだろうと話していたがカマにもそれがあった。

鳥居の下にはH氏が昨年に勤めた頭屋入りの証しに奉納された数枚の板札がある。

両脇にある鳥居の柱の袂である。

注連縄掛けはトーニンを受けた人が作って掛けたそうだ。

カマやナタ、それぞれ二つずつ注連縄に付けて下げる神社のカンマツリ(私祭の神祭:カンマツリ)は10月19日であった。

今は集まりやすいその日に近い土曜日。

早朝に宮さんで神事をした一老、二老、三老と総代はトーニンの家に着く。

昼の会食を経て午後には神社目指して出発するお渡りがある。

随分前のことだとわざわざ探してくれた記録写真を拝見した。



ホウキで道中を掃く人は二人。

素襖の装束姿の十人衆が後続につく。

幟や唐櫃を担ぐ人もいる。

白い装束姿がトーニンであろう。

裃姿の人も見られるし、神輿もあるお渡りは宮垣内が頭屋にあたる年だけだと云う。

秋のマツリの頭屋は既に決まっている。

前年に勤めたのが萱森の行事を教えてくださったH氏である。

3月1日の早朝に行われるのがオシメイリと呼ばれる神事がある。

その日は頭屋家での神遷しがされると云う。

どのような在り方か詳細は判らないが神事は神社で行われるそうだ。

オシメイリの前月の2月24日に行われる御田植祭の施主は兄頭屋と弟頭屋の二人。

既に4年後までの頭屋が決まっていると云う。

兄頭屋は麻にジャコ(雑魚)の煮〆。

弟頭屋は稲穂を添えたネコヤナギ、ニシシギの木の弓一張、七本の矢、鬼の籠、七合の籾種を要する。

豊作を祈願する御田植祭は瀧倉の宮司が勤める祈年祭。

その後で所作される御田植は拝殿の中である。

牛面は被らずに手に持つ。

後ろからマンガを持つ人がついて代掻きをする。

50年前は藁製の笠を被って蓑笠(みのかさ)を着けていたそうだ。

牛の鞍もあったと云うから鞍も着けていたのであろう。

県内各地で見られる御田植の所作とは異なる在り方に興味を覚える。

それを終えてから鬼的目がけて矢を射る弓打ちがある。

ネコヤナギにウルシ棒もあったと云うからオコナイであろうか。

矢は七本。

天と地に東西南北で6本。

最後の7本目が鬼打ちであろう。

神社を訪れた際には出氏子(でうじこ)のKさんが居られた。

村の依頼があっての電気工事であった。

20年に一度の造営の際には多額の寄付が募られる。

村には住んでいなくとも元氏子。

出氏子であっても寄付するのだと話す。

Kさんのご厚意で社務所に上がらせてもらった。

その造営の写真がある。

昭和59年に行われた上棟式の模様である。

たくさんの日の丸御幣が映っている。

掲げられた写真はもう一枚。

それが御田植祭の様子である。

昭和55年2月24日に斎行された田植えや鬼打ちの所作である。



それには鍬と鋤で耕す所作もあった氏子の作法。

鬼打ちは神職である。

神社行事には9月16日に行われる掘切神縄祭もある。

これが綱掛けであろうか。

それにしても掘切とはどういう意味を持つのだろうか。

お城の掘切があったのであろうか。

年番にあたるのは各垣内である。

7月8日の夏祭りも含めて再訪した折りには尋ねてみたい事項である。

萱森には6人で営んでいる念仏講がある。

老師が吹きこんで残したお念仏のカセットテープ。

それを流して六斎鉦を打つ。

春、秋の彼岸とお盆のときの営みである。

消防団横に建つ会所に集まって行われる六斎念仏講である。

葬式のときには導師の前の30分間。

鉦念仏をしていたと云う。

萱森は長谷寺境内にある三社権現の行事にもつく上之郷の村。

中谷垣内と萱森の3垣内が任につく。

平成25年は中垣内だと聞いている権現當屋は4垣内の廻り。

順番は決まっている。

三社権現の御供モチがある。

それも記録した写真があると拝見したカメモチとナタノモチ。



亀の甲羅のように見えるからそう呼ぶのであろうか、姿はまさしくカメモチであるが後日に聞いた話ではガニノモチと呼んでいた。

もう一つは鍔まで形作った薙刀のようにも見えるナタモチは前日に當屋の家で搗くらしい。

(H25. 1.12 EOS40D撮影)
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大野町のケッチン

2013年04月22日 07時47分56秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市大野町は田原の里の一角。

テンノウザン(天王山)の地に点在する集落は14軒。

早朝にやってきたのはマツリトーヤ(当家)のご主人。

数日間に亘って刈り出したケッチンの材料。

ススダケ(ススンボとも)と呼ばれる長い竹、松、シキビ、ヤマザクラの材料は山へ登って確保してきた。

山の方には数多くの寺院があったと話す長老の一老。

石垣が残っている地は「ボウズキリ」の地名がある。

東大寺の所領地の一つにあたる農林の地だったそうだ。

大野町には明治の頃まで神社があった。

それは隣接する日笠町の今井堂天満神社に合祀したというかつての宮さん大野町の公民館にあったと話す。

今井堂天満神社は鎮座する日笠町、大野町、沓掛町の三町の氏神さんである。

明治43年には沓掛町にあった白山神社を、その後の大正6年に大野町の八阪神社が合祀されたのである。

マツリのトーヤは1月から一年間。

秋のマツリの宵宮には素襖を着用してお渡りをしていると話すのは今井堂天満神社の秋祭りではなく大野町のマツリであるようだ。

そのような話題をしてくれた六人衆の一老と二老。

この日は大野町の行事であるケッチン。

製作した鬼の的をススダケで作った矢で射る正月初めの行事である。

ケッチンを充てる字は結鎮。

一般的にはケッチン或いはケイチンとも呼ばれる正月の初祈祷行事であるが大野町ではキッチンとも呼ぶことがある。

ケッチンに用いられるものを作るのは一老と二老、トーヤと翌年にトーヤを勤めるミナライである。

各々の役割で作業を進める人たち。

桜の木で弓を作る人。

ススダケを割いて矢を作る人。

洗い米を包んで奉書で巻きつけた松の芯。

鬼の的となるカゴを作る人それぞれが分担する作業である。

カゴのススダケは皮を残して中の節を取る。



相当な数の本数を割っていく。

編み方は隙間を開けて7、8本で編む。

四隅は外れないように麻紐で縛る。

矢は半紙を切って矢羽根を付ける。

本数は松の芯と同様に村の戸数分を作る。

その本数すべてを鬼の的を目がけて矢を射るのは十輪寺の住職だ。

公民館に祀られた毘沙門天像の両側に設えた葉付きのススダケ。



藁で編んだ綱を張って鬼のカゴを吊るす。

間には青竹がある。

鬼の的がずれないように工夫したのであろう。

鬼の的は住職が予め書いてきた。

およそ1時間半の作業を終えて設えた鬼の的に向かって座る住職。

囲むように4人も着座する。

両脇にはシキビも飾られた。

立ちあがった住職は弓を持って矢を射る。

祈祷することなくおもむろに始まったケッチンの鬼打ち。



「やっ」の掛け声とともに矢を射る。

鬼の真正面目がけての鬼打ちは14本。

鬼はずたずたになった。

村人たちが畏れる鬼は悪霊。

矢を射ることによって退治された。

村の安全を願って追い払ったのである。

祭壇のローソク灯明に火を灯して香を焚く。

おんさらばと真言を唱える。



ランジョーの詞も混じる真言おんそわか。

鬼を成仏させて村人の安全祈願に般若心経を唱和する。

ケッチンに供えた松の芯は村人に配られる。

かつては田原の里一帯で苗代が作られていた。

JAから購入するようになった現在は3町の宮さんのオンダ祭で配られる松苗をともにサブラキ(田植え初め)のときに花を添えて奉ると云う。

(H25. 1.12 EOS40D撮影)
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南六条町の廻り燈籠番の灯明灯し

2013年04月21日 08時48分33秒 | 天理市へ
毎日、杵築神社の燈籠などにオヒカリを灯す当番の家。

家並びの順に廻ってくる。

当番の家の都合で朝とか晩もあるらしいが、主には夕刻の時間。

日が暮れる頃に行われている廻り燈籠の当番は灯明箱が送られてくれば神社に参って灯りを灯す。

灯明箱は二種類。

台形のような形で窓には丸く象った繰り抜き枠や三日月がある。

オヒカリを灯す際にはそれは持っていかずにローソクとマッチだけを持って神社に向かう。



灯す燈籠はおよそ30か所。

薬師堂などや本社奥にもある燈籠へも灯していく。



それだけではなく川の傍にある地蔵尊にも灯される。

南六条の集落は60軒。

2カ月に一度の廻りであるが服忌の家は飛ばすそうだ。

今夜の当番は新頭屋の家。

毎月の1日と15日に神社を清掃している。

(H25. 1.11 EOS40D撮影)
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