マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

元御殿医家の行事

2012年11月30日 09時45分22秒 | 大和郡山市へ
ときおり仕事帰りに訪問する大和郡山の観光案内所。

藺線沿いにある。

正確に言えば「箱本十三町観光案内所」だ。

ここには4種類の観光マップがある。

一つは「郡山城跡案内絵図」。

緻密に描いた郡山城を俯瞰する鳥瞰図だ。

二つ目に「城下町ぶらっと散策マップ」がある。

城下町を探索するには最適のマップである。

数多く見られる地蔵尊の場所まで描かれている。

三つ目に「おしゃべりマップ郡山城外堀跡コース」。

城下町を形成する外堀を巡るコースだ。

外堀指標の石碑を巡れば万歩計が大きく計測される7kmのコース。

じっくり回れば半日以上もかかる。

四つ目が最近発行された「かなりナイスな「郡山ウォーキング・マップ」。

基本的には「おしゃべりマップ郡山城外堀跡コース」と変わりない。

毎週の火曜、木曜、土曜に駐在しているボランティアガイドの話を聞くのが良かろう。

10時から15時までおられるので是非訪れてほしいものだ。

駐在当番は2名。

交替であたっている。

その中の一人であるKさんの家の行事話題に興味を覚えた。

神棚とは別に「サンニンサン」に膳を供えるという。

赤と黒の塗り椀は三膳。

雑煮にお神酒を供える。

椀の蓋にはおかずを盛る。

ウラジロを敷いた上にモチやカチグリも供えるというから正月の膳であろう。

正月から15日の間であるが毎日ではない。

1日から3日と7日、15日の節目に供える。

その日は特別な料理膳だが、その他の日は家族が食べるものを供えるようだ。

そういった膳はお盆にも供えるが8月13日というからオショウライサン迎え。

昼には先祖さんを迎えにオガラに火を点ける。

それをローソクに移してさらには線香へと。

送るのは15日の夕刻だそうだ。

Kさんが話した「サンニンサン」とは一体何であろうか。

目に見えない家の神さんであるかも知れないが、それとは別に神農(しんのう)さんの掛軸も掲げると云う。

姿身は人間のようで頭は角がある牛。

葉の衣を纏って草を噛んでいる画像という。

その話を聞いて思い出したのが額田部町のK家。


(H23.12. 3 EOS40D撮影)

話の様相では同じだと思った。

K家はお医者さんだ。

ご婦人は11月に掲げると云っていた。

ガイドクラブのKさんの家は元御殿医。

郡山城主のどの時代か聞きそびれたが、お殿さんに仕える医師であったのだ。

医者が崇める神農さんは医薬の神さん。

両家とも同じように家の行事として掛軸を掲げるようだ。

(H24. 9.27 聞き取り)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

大和の刈り仕舞い

2012年11月29日 06時48分38秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
稲はたわわに実って刈り入れの時期。

既に終わった地域も多い。

山間ではそういう時期である。

刈り入れを終えれば刈り仕舞い。

それを御杖村では「刈り納め」と呼んでいる。

曽爾村では「カリオサメ」と称していた。

刈り始めを「カリゾメ(初め)」、或いは「カリハジメ(初め)」と呼んでいると『大和の村落共同体と伝承文化』に書かれていた。

また、田原本町では「カマオサメ」と呼んでいた。

漢字に充てれば鎌納めである。

村の総代がふれまわり、農作業を休んで遊んでいたと『田原本町の年中行事』に書かれてあった。

そのあり様は農作業を営む家の行事。

様相は見てみたいが実見するには一軒、一軒尋ねていかねばならない。

刈り入れは機械化されてコンバイン。

効率化されることによって忘れされていったのか、いつしかそういう家の行事(風習)は廃れていったようだ。

そんな話題提供をしてみたとある村の男性は「今でもしている」と応えた。

秋の彼岸入りの前に刈りとりを済ませた男性。

しばらくしてから良い日を選んでカリシマイをすると云っていた。

例年にいつもそうしているというあり方を拝見した。

玄関を入った土間。

そこにはコエン(小縁)がある。

そこに竹箕を置いた。

藤箕ではなく竹の箕。

箕の縁はシンブリの木。

しなやかで曲げやすいそうだ。

それゆえに弓に使われると話す。

鎌は2本。

箕の上に乗せる。

一つは母親が使っていた鎌だ。

もう一つはご主人の鎌。

そこにはこの日に炊いたアカメシ(アカゴハンとも呼ぶ小豆のご飯)を供える。



今日は目出度い大安日。

良き日を選んで行う家の行事。

記念に「刈り仕舞い」を表示して撮影記録を残しておく。

家の行事はいつもこうして記録を撮っているご主人は仏さんにもアカメシを供える。

「稲刈り終えればカリヌケをする」と話していた大和郡山市長安寺町のYさん。

竹の箕にカマを置いてアズキメシのセキハンを供える。

ドロイモ・コンニャク・アゲサンの煮ものに蒸かしたサツマイモも供える。

イネコキしたらコキヌケで隣近所の農家も箕にセキハンや同じような煮ものを供えていたと云う。

コンバインで機械化されて一挙にイネコキを済ませるようになった頃からカリヌケ・イネコキ・コキヌケをしなくなったそうだ。

その当時は箕、ホウキ、サラエなどをリヤカーで売る商売人が行商していたと云う。

いつしか行商も来なくなったそうだ。

こうしたあり方は山間、盆地部を問わず家の行事・風習として行われていたのであった。

刈り仕舞いは「カリジマイ」、「カリシマイ」、「カリオサメ」、「カリヌケ」など地域によって様々な言い方であったが消えていったのである。

カリジマイの件を聞くことはなかった大和郡山市杉町のMさんは90歳。

その人が話すに「刈りとった玄米を手のひらに乗せて5粒が青ければ申し分ない。これをイチヤオウ」と呼ぶ。

「イチヤ青」が訛った詞だと云う。

すべてが黄色であれば刈り遅れの稲刈りだと話していたことを思い出した。

刈り仕舞いをされたご主人の話に戻そう。

軒下にコモムシロを敷いていた。

そこに脱穀した米を盛っていた。



昔は前庭で干していたというカドボシである。

量が少ないのでこうしているという。

イネコキしてトーミ(唐箕)で飛ばした。

籾は玄米。

臼に籾を入れてウスヒキ。

そのときにはキノコやサバの缶詰めを入れて炊いたアジゴハンを供えた。

臼は木臼。

直径が1mほどもあったという臼はドウス(胴臼)と呼んでいた。

臼の縁に縄を巻いていたようだ。

子供の頃だったというから60年ぐらい前のことのようだ。

そんな話をしながら蔵から運び出した作業道具。

カドボシした米を均す道具はエブリのように見えたがどうやら違う。

柄は同じようだが一枚板の下部の形状が異なる。

下端部が大き目の鋸歯状になっている。



それを使って米を均せば段々になることからサラエのようだ。

(H24. 9.25 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山添の秋

2012年11月28日 06時35分24秒 | 自然観察会(番外編)
取材前の時間はゆるやかに時を過ごす。

山添村のとある山村を巡っていた。

秋の景色がちらほら感じられる季節になった。

この季節でも咲いていた睡蓮池。

のどかな田園は稲刈りを既に終えている。

9月末のいまどきにも花弁を開く睡蓮があることに気がついた夕刻であった。



池を見上げてみれば大きな実がぶら下がっている。

色はまだみられないが紛れもないアケビ。

熟すには1週間ぐらい待たねばならないだろうか。

秋は少しずつ近づいている。

とある家を尋ねていく途中のことだ。

小さな花が咲いていた。



まるでトラノオの姿のように見えたがそれほど伸びやかでない。

下から徐々に花が開いている・・のだろうか。

まるで花火のような咲き方だ。

後日に教わったその花はツルボ。

ユリ科だそうだ。

少し離れたところには白色から柴色に変化している。



同一種なのか判らないが、花期は真夏から秋口かけて咲くツルボ。

草刈りをした場所では遅咲きもあるようだ。

秋はもうすぐ。

身体も冷えてきた。

(H24. 9.25 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

USB認識せずメーカーサービス切れ

2012年11月27日 10時15分24秒 | つうしん
19日の朝はいつも通りに印刷できたキャノンプリンターMP960。

その日の夜にスキャンしようとして電源をあげた。

すると出力したメッセージが「USBデバイスが認識されません」だ。

何年か前も発生した事象。

もしかと思い延長したUSBケーブルのコネクターをみた。

以前と同じようにサビがある。

緑青色である。

これが原因の接触不良。

今回も磨いてみたが解消はしない。

コネクターもあかんようになったと思って3mのプリンターケーブルを購入した。

これでいけるやろと思って接続し直したが変わりはない。

どうもおかしい。

USB側の問題ではなさそうだ。

メーカーに問い合わせた。

認識のテストをしてみる。

直に接続してくださいとお云われてやり直したが解消しない。

別のパソコンに接続してくださいというが、そんなものはない。

知人にお願いして接続を試してくださいという。

「えっ」っと思ったメーカー指示はそこまで言うか。

そんなことはできませんと返した。

電話口で応対するメーカー担当者の答えは「修理はできません。サービス期間が過ぎています」という。

MP960を買ったのは平成19年6月5日だ。

購入金額は27100円。

安かったことだけは覚えている。

しょっちゅう使用してきたプリンターは5年間も使用してきた。

命が尽き果てたのだ。

メーカーのアフターサービス期間は5年間。

その間は修理が効く期間だという。

これがなければ仕事に支障がでる。

インク切れがときおり発生するので予備に買っておいたインクは「7シリーズ」。

それが使えるプリンターを探し求めて電気屋に向かった。

ところがそんな古いインクを使用するプリンターは売っていない。

随分前からカートリッジのナンバーは新しい「3シリーズ」に移り替っていたのだ。

製造もしなくなったMP960シリーズ。

いつしかMGの型番に移った。

そのときにインクカートリッジが替ったのであろう。

売ってなけりゃどうしようもない。

売り場を見ればそれしかない。

提示してあった価格に目がいった。

表示価格が15800円。

特別販売期間中の価格だ。

店員の話では2013年対応の製品がそろそろ発表するらしい。

在庫一掃したいお店の判断であろうか、大幅な値下げ価格に驚く。

隣の製品はエプソン製。

既に新製品がずらりと並んでいる。

キャノンの発表があれば値段は高くなるようだと話す。

必要に迫られて注文した在庫の一台。

残りは一台になったPIXUS MG6230BK。



フイルムスキャン機能はついていないが、スキャンそのものはある。

パネルが操作し易くなったとともに無線LANの設定もそうなった。

えいっやと声を掛ければ快く店員さんが一万円も引いてくれた買いもの。

5年前のMP960から言えば1万円以上の値下がりだ。

発売開始は平成23年9月。

これも5年経てばサービスが終わる。

お店の保証は3年間。

740円の保証金を追加しておいた。

そんな先のことを心配しても始まらない。

印刷できるかが今の状況で大事なこと。

CDをセットしてインストールが始まった。

それに先立つプリンターの立ちあげ。

いきなりドアが開いてますだ。

何度も蓋を開け締めするも事象は解決しない。

いきなりコールセンターに問合せをする始末。

回答は内部の蓋が開いているという。

シールをはがすとき中途半端になっていて中蓋。

しっかり締めてやり直し。

それからは順調に進む。

無線LANのセットはラクラク。

ボタンを押して認識する。

30分以上もかかったインストール。

試しの印刷も上々。

畳の上を這っていた有線ラインも消えたが、なんとも使いにくいのが給紙選択。

いちいちホームのセットアップから本体設定の給紙位置を切り替えせねばならない。

設置した数日後に訪れたカメラのキタムラ奈良南店。

こちらでもプリンターが販売されている。

同一機種があったので価格をみたら13980円だった。

相当な速さで値崩れしている。

(H24. 9.25 SB932SH撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

椎木杵築神社の昔夜宮

2012年11月26日 07時46分32秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市の椎木(しぎ)町は東西2か所からなる集落のそれぞれに寺社仏閣がある。

西に厳島神社と出雲寺がある。

厳島神社は弁天社とも呼ばれる社だ。

一方の東は杵築神社と光堂寺に浄連寺がある。

杵築神社はかつて牛頭天王社と呼ばれていた。

境内にあるお寺は光堂寺。

同寺に安置されているのが本尊薬師瑠璃光如来であることから薬師堂とも呼ばれており、牛頭天王社の神宮寺であると、地元住民が編集された『椎木の歴史と民俗』に記されている。

平成3年の10月に発刊された村の歴史を纏めた本である。

浄連寺は東本願寺派。

S氏の話によれば天誅組の三枝蓊「さえぐさしげる」が生まれたとされる寺だそうだ。

調べてみれば天保十一年(1840)にこの地で生まれたようである。

伴林光平「ともばやしみつひら」が天誅組に入ったことで挙兵(文久三年・1863)し共に活動をしていたと伝わるが、それを示す物品が見つかっていないという。

大和郡山に天誅組の関係者が存在していたことを知ったこの日であった。

それはともかく、椎木には東西の地区それぞれに宮座がある。

旧村の営みを連綿と繋いで生きた座中である。

宮座の名称は十人衆と呼ばれているが、実際は11人。

最長老にあたる人は神さんとも呼ばれている一老だ。

座中は終身制である。

今尚、旧暦の8月9日を行事日としているこの日は「昔夜宮(むかしよみや)」。

参籠所でお参りされる村人を待つ人たちは4人の座中と東西の自治会長。

夕飯の会食を済ませてからは本殿前の回廊に提灯を掲げる。

それにローソクを灯すのは自治会長だ。

座の手伝いだと話す。

暗くなれば頃あいを見計らってローソクに火を灯す。

40年ほど前までは各家が持ってきた家紋付きの提灯を鳥居辺りに掲げていた。

当時は壮観な様相であったと回顧される。

今月末の28日には西の弁天さんの行事がある。

弁天座の営みである。

当日は雨天のために止むなく会所で御湯上げがされたと聞いた。

翌月の10月7日は神遷し。

座当屋の家に杵築神社の分霊を迎えて祀る。

翌日の8日は再び神社へ戻る神送りのお渡りがある椎木の伝統行事は春日若宮おん祭に奉納される薦上げもある。

古来より春日大社との関係が濃い地域である。

そうした関係もあって定期的に開催されている春日大社の「学びの会」。

この年の11月17日には」「おん祭と民衆―祭を支える人々―」と題して講座が開催された。

その日の講演者は椎木町の自治会長。

おん祭における「椎木の薦上げ」を話したと聞いた(11月19日)。

知っておれば聴講したのだが・・・。

(H24. 9.24 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

芹井彼岸の念仏講

2012年11月25日 09時12分09秒 | 桜井市へ
阿弥陀さんなら二十五菩薩の来迎図であるが、彼岸の念仏講に掲げられた桜井市芹井の来迎図は十一菩薩。

上部に幡が翻り、小鼓、笙、琵琶などの楽器を奏でる来迎図である。

十一菩薩が往生者の魂を極楽浄土へと連れて帰る「帰り来迎」の情景と思われる掛軸。

昔からこの掛軸を掲げているという今夜のヤド家は閏年の庚申トアゲでもお世話になった乾垣内のN家。

芹井には彼岸の念仏講が3組(現在は2組)あった。

鉦を叩いて念仏を唱える講中もあるそうだが今夜の組にはそれはない。

講中が集まるまでの時間帯。

お許しをいただいて拝見したのは掛軸箱に納めていた3幅の掛軸。

そのうちの一つが「三界萬霊六親眷属乃至法界平等利益」。

数多くの戒名が記されている掛軸である。

数段下からは年月日が記されている。

天明四年(1784)から始まって寛政元年(1789)、文化(1804~)、文政(1818~)、天保(1830~)、嘉永(1848~)、元治(1864~)から明治(1868~)に至るまでだ。

寄進者が記した年号は延享三年(1746)。

およそ250年も前から書き続けられた位牌地は芹井の歴史を物語る。

阿弥陀来迎図の前に膳を供える。

炊きもののオタフクマメの椀にチクワ、エンドウマメ、カマボコ、コンニャク、アゲの煮もの椀。

トーフとカマボコが入った汁椀にご飯。

皿に盛ったのはブリ魚。

昔は白和えだったそうだ。

5品の膳はヤド家が料理するごっつぉ(ご馳走)。

同じものを集まった講中に黒の高膳で配膳していたが現在はパック詰め料理になった。

こんばんはと挨拶されて上がる講中が揃って6人。



阿弥陀来迎図にローソクを灯して手を合わせる。

念仏を申すわけでもなく、鉦を叩くこともない。

手を合わせて拝む一瞬の作法であった。

こうして今夜は膳をよばれながら語らう彼岸の念仏講。

もう一つの組もヤドに集まる。

こうした彼岸の念仏講は秋と春にも営まれる芹井の行事。

60日おきの庚申講や伊勢講にお日待っつあんもある。

パック詰め料理に移った講中でも伊勢講だけはスキヤキにするといって3月と12月の16日に集まるそうだ。

営みは5軒。

今年はお伊勢さんに参ったそうだ。

そのときに授かったお札は4月にヤカタに納めたと話す。

お日待っつあんは12月14日と決まっている。

毎月のようになんらかの講が寄合う。

芹井の年中行事は目まぐるしいと話す。

ちなみに芹井には滝倉神社がある。

隣村の滝倉の瀧ノ蔵神社から分霊を受けた神社である。

7日には神迎えに遷しましがある。

現在は第一日曜日になったがトヤ家に神さんを神遷しされる祭祀である。

神さんを箱に納めてトヤ家で祀った一週間後の13日(現在は第二土曜日)には神送りと称して神社に戻るそうだ。

(H24. 9.23 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

唐古の御湯行事

2012年11月24日 08時27分22秒 | 田原本町へ
天理市海知町の倭恩智神社で行われるシンカン祭。

そこでは二日間に亘って御湯之儀が行われる。

その際に聞いた唐古の行事。

ここでも同じように御湯立の神事があるという。

それを知って訪ねていった唐古の地。

当日は自治会の男性たちが唐古池の周りに生えている雑草刈りに従事されていた。

村には氏神さんを祀る神明(しんめい)社が鎮座する。

池からそれほど遠くない。

神社の様相を見ていたときだ。

拝殿に掲げられていた注連縄に目がいった。

簾型の注連縄である。

七、五、三に結った注連縄は特別な名はない。

大晦日の日に掛けたという。

総代でもある自治会長の話ではかつて神社から砂の道を形成していたという。

唐古にもあった砂の道と簾型注連縄に感動する。

砂の道は福の神さんが通る道だと話す。

集落のほうにも繋げていた砂の道。

いつしかアスファルト化されて消えた。

奇麗な川砂が採れなくなったことも一因であるが20年前まではしていたという。

神社のマツリのことも教えてくださった。かつては10月18日、19日に行われていた秋のマツリ。

その当時は稲刈りが11月だった。

氏子は農業が生業。

サラリーマン農家が増えたことから集まりやすい第一日曜に移したという。

唐古の神明社の祭祀を勤めるのは田原本町法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社の藤本保宮司。

倭恩智神社のシンカン祭も勤めている。

池坐神社は郷社。

近隣村の唐古、小坂、武蔵、鍵、海知地区の祭祀を勤めていると話す。

それはともかく唐古のマツリには里の巫女が作法する御湯立の神事がある。

巫女は唐古に住む小学生の女の子。

5月ころから宮司の奥さんが作法を指導してきたという。

平成23年の巫女は二人だった。

たまたま双子だったからそうなったと話す。

もし写真を撮っておれば貴重な映像になったかもしれない。

神明社の湯立ては12時半頃だそうだが、直前には神明社西方の国道24号線信号横に鎮座する八阪神社でも行っているという。

八阪神社では12時ぐらい。

そこでの御湯を終えれば直ちに神明社に移動して御湯をするという。

湯立ての湯を被れば病気にならんというから湯祓いを受ける参拝者が多いのであろう。

15時ころには曳行してきた御輿も到着するというから、そのあとで行われるのが女児巫女のお神楽かもしれない。

八阪神社よりも神神社のほうが参拝者は多いという。

おそらくお神楽があるのであろう。

(H24. 9.23 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

岩屋興隆寺十五酒

2012年11月23日 09時05分59秒 | 山添村へ
村入り行事が行われている山添村岩屋の興隆寺。

いつもであれば扉を閉めているがこの日は特別に開放する。

彼岸の日にはこうしておくと住職は話す。

本尊の阿弥陀如来も開扉された。

15歳になった男児は道造りなど、村の行事に参加することができる岩屋の決まり。

一人前になったことを祝う村入りを15歳で認めるから「十五酒(じゅうござけ)」と呼ぶ。

この日は中学三年生の男の子が出席するはずだったが、学校行事を優先するために父親が代理を勤めた。

2升5合のお米を納めての行事である。

この日はお寺の彼岸の回向。

村入りの男性は足を崩さずにじっと座っていた。

その間に絶え間なく彼岸のお参りを済ませる村人たち。

家族連れだってのお墓参りに線香をくゆらす。

回向を終えれば忙しく動き回る副住職。

彼岸の塔婆回向へ立ち去った。

本堂に座る檀家総代たち。

いつもの顔ぶれである。

席に着いた檀家たちに酒を注ぎ回る男性。

これが儀式の十五酒。

檀家総代らに酒を注ぐ。

村入りした証しに返杯を受ける。

村入りの男の子は長男、次男関係なく男の子であれば入り子になる。

それを「イリツコ」と呼んでいる。

塔婆回向を終えた副住職も戻って参列した。

十五酒の肴は当家が料理した5品のお重膳。

コンニャク、シイタケ、コーヤドーフ、カマボコにニヌキ玉子は家の味付けだ。

しばらくの時間は肴を摘まみに交わす酒杯。

2年後に受ける17歳の座入りの話題に移った。

岩屋の氏神さんは八柱神社。

秋祭りの氏神祭がある。

そこで行われるのが座入り儀式。

家系を継ぐ長男として認められる儀式であるから次男は対象とならない。

但し、養子も含む儀式であることから、その場合は17歳とはならないそうだ。

儀式では酒を三献(酒注ぎ三周)するそうだ。

「注ぐのが精いっぱいやった」と懐かしむ代理の親は話す儀式は元服祭のことである。

その氏神祭に出される膳がある。

その膳は座入りする家が調達する箱膳。

マメ・モチ・ザクロ・カキ・コンニャク・ジャコの座膳もある。

なお、座入りの氏子は翌月の11月1日に行われるサヘイ(さへとも呼ばれる月次祭)で煮〆と酒を御供して礼を述べると話していた。

岩屋の八柱神社行事は御石(ごいし)洗いから始まる。

かつては7日だったが今は第二日曜日。

朝は早い。

8時ころに集まった氏子たちが宮さんの石を洗う。

燈籠下にある玉石がそれだ。

モッコで運んでいって井戸の水場で洗う。

以前は前の川の石を拾って洗ったそうだ。

この日は手水場の屋根も清掃する。

宵宮祭は17日近い日曜前日というから元々は17日の祭礼だった。

堂下の3人が直会の場を手伝う。

その様相は平成22年10月16日に拝見したことがある。

本祭りの氏神祭は17日近い日曜日。

そのときに座入り儀式が行われると話された。

(H24. 9.22 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

信貴畑のエンマラタタキを尋ねて

2012年11月22日 06時43分17秒 | 平群町へ
撮りためたVHSビデオテープ。その数はなんと、なんと・・数え切れないほどの膨大な量。

室内を圧迫する。

ボチボチとDVD移行を手がけていた。

ダビングは収録した時間そのものを要する。

モニターに映し出された映像を見ながら執筆作業を繰り返す。

全国各地のふるさと映像には民俗行事が多く収録されていた映像は『21世紀に残したい日本の風景総集編の秋』。

平成13年7月18日に放送されたNHKの番組だ。

映像が切り替わった風景は奈良県平群町。

生駒山系の東側にある山間部。

村を歩く姿は急坂を登っている。

この日に行われたのが「十五夜の芋名月のエンマラ叩き」だった。

平群町といえどもどの集落であるのか判らない。

仲秋の名月のころは畑で栽培しているサトイモの収穫期だ。

お月見をしているので各家で作っているという。

十五夜は芋名月とも呼ばれているサトイモの収穫日だそうだ。

栽培は簡単で保存がきく。

それをお月さまに供えて収穫に感謝する。

包丁でサトイモの皮を剥けば白い肌をだす。

月に見立てて丸いイモを供える。

月見だんごの原形はここにあると語る映像。

サトイモだけでなくクリやブドウなど秋の恵みを縁側に供える。

そして、月の神さんが舞い降りる目印にススキを立てる。

月見の日は無病息災に通じるサトイモの茎を藁束の芯にして棒を作る。

それをもった子供たちが集落の各戸を巡って軒先や玄関先の地面を叩く。

「今日は十五夜、エンマラタタキ(叩き)で祝いましょ。もひとつおまけ」と囃しながら叩くエンマラタタキ(叩き)。

月に届くような大きな音で悪霊を退散させ子孫繁栄や五穀豊穣を願う行事だ。

大きな音をたてるほど御利益があるという。

その作法は県内で行われているイノコと同じ様相だ。

高取町の佐田や大淀町の上比曽に明日香村の下平田などで今でも行われているイノコ叩きの行事がある。

イノコは稲の収穫後に行われている行事だが、平群町では月見の晩である。

時期は違っていても収穫の祝いには違いない。

今でもエンマラタタキをしているのだろうか。

平群町であることには違いないと思ってネットで調べてみれば見つかった。

平群町が発行している広報誌の『マイタウン平群』であった。

それは役場に保存されている。

直に尋ねれば判るであろうと思って訪問した町役場。

取材の主旨を総合政策課の窓口に申し出て拝見した『マイタウン平群』。

平成12年11月号(通算436号)に掲載されていた“ふるさとへぐり再発見”。

「エンマラタタキ」と表記されている行事に写真があった。

月見のお供えとエンマラタタキをしている子供たちの姿だ。

誌面によれば、その年の11月20日の「21世紀に残したい日本の風景-実りたわわなに-」のタイトルでNHKBSで放送されるとあった。

私が知ったビデオ映像はこの放送の総集編だったのだ。

取材するなら総代さんの許可を得なければならない。

その方の許可を得てくださいと伝えられて所在地に向かった。

地図を拝見すればときおり通過する新道だ。

6月に取材した隣村の久安寺素盞嗚神社で行われた植付け休みの御湯。

信貴フラワーロード向かう交差点付近である。

映像に映し出されていた月見のお供えをしている家も判った。

一路目指すは信貴畑(しぎはた)の地の小字薬師堂谷付近。

紹介いただいたM家を訪問した。

ご主人は不在であったが主旨を申しでれば「懐かしい」と弾む声。

ひ孫の娘さんが誕生したばかりの赤子を抱き抱えて応対してくれた。

「エンマラタタキに行けばお菓子を貰える。それが楽しくて参加していた。お金を貰うこともあったが、断然にお菓子へ手を伸ばした」と笑う。

子供会での行事であったそうだ。

子供が徐々に少なくなりエンマラタタキをしなくなったと話す。

畑作業を終えて戻ってきた総代の親父さん。

「止めてからは10年にもなる」と話す。

お月見に供えるサトイモのツキミダンゴは盗っても構わないという。

見張っていて盗らせない家もあったがお構いなしに棒で突き刺して盗っていった。

その光景は昨年の9月に取材した生駒市高山の月見どろぼうと同じようだ。

同じように中秋の名月に行われている。

映像だけが残された信貴畑のエンマラタタキであるが、貴重な映像は村の語り部の一つになった。

出演していたS夫妻は健在だという。

案内された住居は相当遠い。

歩いてではとても無理だという。

バス停から急坂を下っていった端にあるという。

呼び鈴を押して訪問したS家。

若婦人が応対してくださった。

同じように主旨を伝えて話せば中断していると返ってくる。

子どもたちがエンマラタタキをしていた様相を語る婦人。

当時にたまたまあたった当番だった。

急な道を汗びっしょりになって取材していたという。

「大きなカメラマンは大きな身体つき。たいへんやったと思う」と話す。

子どもたちが大勢いたころは三つの班に分かれてエンマラタタキをしていたという。

聞き取らせていただいた方の話によればアマチャもあったという。

アマチャは甘茶。

春の花まつりでよばれるお茶だ。

「とても辛かった」と話していた出産直後のひ孫。

お寺の行事はどうやら奥の院でのことだ。

それもしなくなった信貴畑の行事。

神社の行事もあっさりとしているらしい。

付近を散策すれば階段が見える。



その先に安置された2体の石仏が目にはいった。

一つは舟形の十三仏の石板彫り。

天文21年(1552)の作だそうだ。

もう一つは舟形光背の如来座像石仏。

室町時代前半の作だと看板に案内されている。

如来座像は地蔵講によって祀られていた可能性があると書いてある。



ここは勧請の地と呼ばれる。

1月5日に勧請掛けをしているとあるが、総代の話によれば地区の人らが集まりやすい日になったという。

朝から縄を結って勧請縄を作る。

一つはこの勧請の地に掛けて、もう一本はここから北に下った地に取り付けるという。

総代の親父さんの話によれば、かつては道両側に植生する樹木に括りつけたという。

旧道に括りつける勧請掛けは村に災いが入ってこないようにとする道切りのようだ。

信貴畑には二つの講中がある。

8軒で営む伊勢講と13軒の涅槃講だそうだ。

かつては手料理のお供えもしていたが簡略化されてリンゴとミカン。

講中のヤドでの営みは質素になったという。

講中が保有する山がある。

そこには社が祀られていて朝にお参りをするらしい。

(H24. 9.21 SB932SH撮影)
(H24. 9.21 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

八田のむかしよみや

2012年11月21日 06時41分51秒 | 田原本町へ
康正三年(1457)『大乗院寺社雑事記』に八田の地名が記されている田原本町の八田。

春日若宮祭礼の願主人の一人である八田氏の居住地だったそうだ。

村内の鎮座する伊勢降(いせふり)神社ではさまざまな年中行事が行われている。

神社の祭祀を勤めるのは三人の一年宮守。

その一人であるMさんの話によれば65歳になればその勤めをするという。

年齢順で回る宮守である。

次年に担う宮守も3人。

「みならい」と称して祭祀を支援する。

八田の村は3垣内で総計100数戸。

旧村としては多いほうだと思う。

宮守は一年間の年中行事を勤めて1月4日のとんどの日に次の宮守に役目を引き渡すという。

9月18日は「むかしよみや」。

案内によれば「昔宵宮」と表記される。

神社のみならず集落全域に亘って高張提灯を掲げる。

この日は朝から雨天だった。

ビニールカバーを掛けた提灯を目印に氏子たちが集まってくる。

「むかしよみや」の祭典は雨天でなければ境内社の道祖神社。

降り続ける雨を避けてテントを設営していたが祭礼をするには難しい。

仕方なく総代に許可を得て場を変更された。

その場は伊勢降神社の拝殿内。

道祖神社の方向に向けて神饌を供えた。

祭祀が始まる前に着座したのは3人の里巫女。

迎えたのは宮守たちだ。

向い側に座るが一人は差し出されたお祓い料を受け付ける。

時間ともなれば村人たちが拝殿前に集まった。

家族単位でやってくる人数は相当なもので行列ができるほどだ。

頭を下げてお参りする。



静々と立ちあがった里の巫女。

まずは御供斎壇に向けて一礼する。

それから鈴を右手に持って舞う神楽。

シャン、シャンと鳴らしながら左、右、左へと舞う。

参拝者側に向かうときはその都度頭を下げる。

まさにお神楽の舞いである。



そうして参拝者に歩み寄り鈴をシャンシャンと振る。

その音色からであろうか、宮守の一人は「シャンコシャンコ」と呼んでいる。

そう呼ぶのは八田だけでもなく県内各地でみられる。

大和郡山市馬司町の杵築神社、番条町の熊野神社、額田部町の推古神社に葛城市太田の海積神社で聞いたことを思い出す。

その他の地区でも同じような呼称があると想定される巫女が織りなす神楽の舞い。

鈴で祓う巫女神楽は一人ずつ交替しながら進められる。

3人の巫女は八田の女児たち。

小学6年生が一人で、「みならい」とされる2人の5年生が勤める。

神楽の舞いは法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社の宮司家が指導にあたっている。

5月から教わってきた神楽を勤めたシャンコシャンコ。

およそ40分間も舞い続けた。

その頃には雨も小休止。

ようやく雨もあがりそうになった。

行列はなくなっても参拝者は訪れる。

一家族、また一家族とやってくる。



その都度勤めるシャンコシャンコはありがたい身体堅固の厄払いなのであろう。

こうして「むかしよみや」の夜は更けていく。

伊勢降神社の秋祭りは10月10日。

いつしか体育の日に移したそうだ。

前日はよいみや(宵宮)である。

宵宮と昔宵宮(むかしよみや)とは別の行事だそうだ。

こういった祭りの宵宮と昔宵宮が別個に行われているのは何故なんだろうか。

葛城市の當麻山口神社においては「宵宮祭り」がある。

同じように神楽が舞われる一夜限りの祭祀。

行事のあり方はそれぞれだが共通して「むかしよみや」と呼んでいる。

私が知る範囲では大和郡山市東椎の木杵築神社では昔夜宮、山田町の杵築神社は八朔座のむかしよみや、八条町堂山の子守神社は昔夜宮、横田町の和爾下神社では十ニ夜宮祭と称している。

また、葛城市八川の市杵島神社でも夜宮だ。

「むかしよみや」の「よみや」はおそらく夜宮ではないだろうか。

しかし、何故に「むかし」と呼ぶのか判らない。

それぞれの地区の方に聞いても判らないと返ってくる。

(H24. 9.18 EOS40D撮影)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加