マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

確定申告

2013年05月31日 08時45分16秒 | メモしとこっ!(確定申告編)
テレビのニュース報道で今年の確定申告が始まったことを伝えていた。

プロレスの吉田選手が映像で訴える確定申告。

自らの意思で動かなくてはならない自己申告である。

定年退職を迎えたサラリーマンが翌年に初体験する。

私もそうだったが最初の戸惑いは今でも覚えているが、何年経っても不安は隠せない。

この日に始まったと思って県立図書情報館に出かけた。

会場には申告者がいっぱいだと思ったが誰一人としていない。

かーさんに電話すれば19日から始まるのだと云う。

昨年は15日がそうだったが、今年は19日。

あんばいみていなかった市の広報誌。

慣れた思い込みは無駄な時間を費やしてしまうということだ。

出直しした確定申告の会場は50人の待ち行列。

朝から降った雪で奈良市内は警報もでたぐらいの積雪。

若草山はすっぽりと白色に覆われた。

そんなことで午後に集中したのであろうか。

相続税や株譲渡はしていないと会場でアナウンスされる。

それを聞いた人は最寄りの税務署でなければならない。

何人かがそういうことで席を外す。

確定申告会場は書類の確認や申告相談にパソコン入力に2ステップ。

35分ほど待って案内された税理士さん。

書類を丹念にみてくださる。

確認される都度、シートにホッチキス止め。

給与所得、年金所得、雑収入などを振り分ける。

生命保険料控除証明や地震保険も振り分ける。

医療費控除は請求書を束ねて一覧表を作っておいた。

総額を確認されて袋入り。

そうした確認を終えてパソコン入力ステップに移った。

昨年の確定申告控えを確認したなが入力される係員。

ありがたいことである。

最後に問われた社会保険料は健康保険料の支払いだ。

介護保険はありますかの問いもあったが書類はない。

仕方なく自宅で待機していたかーさんに緊急コール。

任意継続している保険料を電話で聞いて入力された。

これをしておけば住民税などが減免されるかも知れないと云われて対応した緊急コール。

昨年の確定申告で健康保険料も要入力だと聞いていたが覚えてなかった。

それゆえ減免扱いが解除されたのであった。

もったいないことをしたものだと思っても遅い。

4月からは国民保険に切り替えする。

来年の確定申告はどのように対応するのか今から不安になる。

(H25. 2.15 SB932SH撮影)
(H25. 2.19 記)
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小夫天神社御田祭

2013年05月30日 06時53分06秒 | 桜井市へ
小夫嵩方に渡される分も含まれるハナカズラと松苗の数量はおよそ60本もある天神社。

田植え初めに供えるハナカズラと松苗であったが、今ではほとんどすることがなくなった桜井市の小夫(おおぶ)。

奈良市の都祁藺生町へ抜ける小夫バイパス線沿いに見たことがある。

何年も前のことだ。

その後の平成22年5月に取材させていただいたY婦人は田んぼで田植え初めの在り方を再現してくださった。

田植えを始める前に苗を植える。

その数は12苗。

田んぼの端に植えるのは一段に6苗。

二段植えて12苗である。

ウエゾメ(植え初め)と云われる作法である。

その傍らに置いたハナカズラであった。

その年もあったバイパス線付近の田んぼ。

その後も探して見るが小夫の田んぼではそこ以外にハナカズラはない。

平成24年に探策していた隣村の小夫嵩方(おおぶだけほう)。

それらしきものが田んぼにあった。

田主が見つからず断念した。

小夫嵩方は明治以降に小夫から分かれた枝村である。

その小夫嵩方手前の村の三谷には菅原神社がある。

そこで行なわれたオンダ祭で奉られたと思えるハナカズラがあった。

平成24年の3月18日であった。

同じような形をしていたことを覚えている。

そのようなことを思い出した小夫天神社の御田祭。

祭りの来られていた婦人の顔で思い出した。

Yさんだった。

当時のお礼を述べて拝見する御田祭。

ハナカズラの脇に置いてあった松苗はメン松を使うという。

御田祭の神事が始まった。

参籠所に登った氏子たちはそれまで飲んでいたお酒の勢いもあってか実に賑やかである。

始めに本殿へ神饌を供える祈年祭が行われる。

斎場やナエカズラなどを祓う宮司。

参籠所から本殿に渡る場に蓆を敷いた処に並んで献饌する。

県内各地で数々の献饌を拝見してきたが小夫のような神聖な場は見られない。

それから40分後に始まった御田祭の所作。



始めに宮司が矢を射る。

天地、東西南北の方角に向けて矢を射るかと思えばそうではなかった。

まずは矢を天に向ける。

すぐさま地に矢を向ける。

打つのではなく拝礼をするような所作である。

そして東に立てた鬼の的に向かって矢を射る。

次に西側に移る。

同じように天に矢を向けて地に、というわけだ。



最後に西側に立てた鬼の的に向かって矢を射る。

県内各地で見られる鬼打ちとは異なる作法は違っていても村から悪霊を追い出す祓いの儀式であろう。

用いられた弓はサクラの木であったのか聞くことを失念した。

そうして平鍬を持つ田男が登場する。

斎竹を四方に立てて注連縄を張った斎場。

田んぼに見立てた神田の周囲を耕す所作で回る。

畦塗りの作法であろうか。

続けて登場する田男は鋤を持つ。

同じように田んぼ周りを鋤いていく。

畦鋤きの作法である。

追い付いてほぼ同時に終わった。

次に登場するのは牛だ。

牛面を被る人と後ろで牛の衣を持つ人の二人。

酔いも手伝ってか被ることもできずに応援を受ける。

「ちょっと暴れるからな」と掛ける牛役。

「今年は暴れまっせぇ」と大きな声で村人たちに伝える。

後ろにはカラスキを持つ田主がつく。

牛は暴れ牛。



田主が手綱でしばく。

なかなかいうこと利かん牛は神田をあっちへこっちへ行ったりきたり。

所狭しと暴れ回る。

いうこと利かんからと手綱を引っ張る馬子。

よろけた牛は倒れてしまった。

笑い声が絶えない村の行事の御田祭は実に楽しそうである。

一旦戻って農具はマンガに替えた。

田主が牛をちゃいちゃいするも動じない牛。



またもや手綱でしばかれる。

足元ふらつきひっくり返る牛。

大笑いの作法は暴れることに意味があるのだろう。

拍手を受けて所作を終えた。

田起こしを終えれば籾を撒く。

再び登場した宮司は東の田んぼに籾を撒く。

移動して西の田んぼにも籾を撒く。

次は紺色の素襖を着たトーヤが同じように籾を撒く。

もう一人のトーヤも登場して桃を撒く。

それぞれ東の田に西の田である。

田んぼに直撒きのモミオトシであろうか。

最後は田植えの所作だ。

供えた松苗を手にした宮司は苗を植える作法をして観客側に放り投げる。

植えては投げる、植えては投げるの作法は東の田から西の田へと移る。

宮司から手招きされて再び登場するトーヤも同じように田植えの所作。

今年もこうして終えた小夫の御田祭は豊作になることであろう。



奉られたナエカズラは村人たちが持ち帰る。

平成17年の御田祭は最悪だった。

行事ではなく私の身体だ。

疾病していた痔病が行事の取材中に悪化した。

突然のことではあるがどうしようもなく止まらない出血に立ち往生したのである。

今回はそのような持病も発症せずにほっとしたのであった。



文政十三年(1830)十二月吉日に講中が奉納建之したとされる小夫の太神宮石塔には「おかげおどり」の文字がある。

「おかげおどり」の文字が彫られた大神宮は奈良県内で見られる三つの事例のうちの一つだそうだ。

(H25. 2.17 EOS40D撮影)
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小夫のカンジョウツナ

2013年05月29日 06時54分56秒 | 桜井市へ
12月と翌年の2月の2回に分けて掛けられる小夫のカンジョウツナ。

神事であるゆえ神綱掛けと呼ぶ。

12月の房は松葉の垂れ房で2月は樒の葉となる神綱掛けは両日とも8日であった。

御田祭の一週間前に掛けられたカンジョウツナが美しい。

それを見たさにわざわざ大阪からやってきた人もいると話すYさん。

平成22年の5月に御田祭でたばったハナカズラを田植えの際に挿すウエゾメ(植え初め)を拝見させたことを思い出してご挨拶する。

(H25. 2.17 EOS40D撮影)
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昼食は広東拉麺

2013年05月28日 08時30分51秒 | あれこれインスタント
広東拉麺は家にあった買い置きインスタントラーメン。

たしか天理のビッグエクストラで78円だったと思う。



とろみ旨味が評判のラーメンは野菜などがいっぱい入っている具だくさん。

五目野菜の醤油味である。

(H25. 2.17 SB932SH撮影)
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中誓多林の十九夜さん

2013年05月27日 07時46分48秒 | 奈良市(東部)へ
昨日に降った雪が積もっている奈良市誓多林町。

平坦ではなく東の山中の村である。

田んぼは真っ白で街道もところどころ凍っている。

バリバリと車体を擦る音がする。

今年は積雪が多い寒い日が続く。

誓多林町は白砂川の上流から上誓多林、中誓多林、下誓多林地区が東西に点在している。

この日は中誓多林の十九夜さん。

本来なら19日であるが集まりやすいその日に近い日曜日にしている。

勤める婦人は4人。

随分と少なくなったが今でも続けていると云う。

かつては村のお寺の萬福寺でしていた。

八柱神社の社務所は村人が寄りあう公民館である。

施設ができてからは公民館に移った。

如意輪菩薩の掛軸を掲げるようにはできていない公民館。



窓側に寄せて掛けた掛軸は最近になって表装し直した。

美しい姿の如意輪観音菩薩の隣に掲げた掛軸がある。

平成21年4月にN氏が製作された自筆の観世音菩薩像に般若心経の唱文を添えた掛軸も掲げた。

二幅の如意輪観世音菩薩の掛け軸の前に机を据えて仏飯やお菓子などを供えた。

灯明に火を点けて唱える和讃は十九夜和讃。

板張りの広い室内に響き渡る女人の唱和。



およそ5分間の和讃は最後に南無観世音菩薩を三回唱えて手を合わせた。

それからの時間は婦人たちの会食の場になる。

以前はイロゴハンを炊いて食べていたが、頼んでおいたパック詰め料理に汁椀を配膳して席に着く。



一年に一度の十九夜さんの日は語らいの場である。

かつては12月にもしていたと云う十九夜さん。

場は畳敷きの座敷だった。

囲炉裏に入れた割木を燃やして暖をとっていた。

観音さんは子供の神さんでもあるからと云って、和讃を終えるころに子供が集まってきたそうだ。

一方、上誓多林の十九夜さんは平成23年2月に取材させていただいたことがある。

上誓多林も中誓多林と同様に19日に近い日曜日であった。

ここでは明治二十七年や昭和二十九年の十九夜和讃本が残されている。

中誓多林の和讃本は昭和30年と57年に記されたものである。

<昭和30年10月の十九夜和讃本>
「我昔所造諸悪業
皆由無始貪顚□
従身語意之□生
一切□今皆□悔
南無帰依佛
南無帰依法
南無帰依□」
「きいみよう ちよらい 十九夜に
由来を くわしく 尋ぬれぞ
によいりん ぼさつの せいがんに
雨めのふる夜も ふらぬ よも
いかなる眞んの くらき よも
いとはず たがわず きたいひなく
十九夜 み堂へ まいるべし
とらの 二月 十九日
十九夜 念佛 はじまりて
十九夜 念佛 もうすなり
南無阿彌陀佛 阿彌陀佛
ずいぶん あらたよ しよじんし
おうしょう しょうじの ふだをうけ
死して 浄土へ 行くさきは
妙法蓮華の 花 さきて
十方 はるかよ しずまりて
吹きくる風も おだやかに
天より 如意輪 観世音
玉のてんがい さしあげて
八萬余丈の 血の池も
かるさの 池と 見て とほる
六観音の そのうちに
如意輪ぼさつの 御慈悲よ
あまねく しゆじょうを すくわんと
六道 しやじやよ おたちあり
かなしき 女人の あわれさは
今朝迄 すみし 早やにごる
ばんぜが 下の 池の水
すすいで こぼす たつときわ
天も地神も 水神も
ゆるさや 給へや 観世音
十九夜 み堂へ いる人は
長がく さんずの 苦をのがれ
極楽浄土へ いちらいす
まんだが池の ななじよも
いつしか 心が 浮かみける
けふ 十九夜を しきとくよ
南無阿彌陀佛 あみだ佛
如意輪 めいども 有がたや
じしんの 親たち ありありと
すくわせ 給へや 観世音
即身成佛 南無阿彌陀
南無如意輪 観世音菩薩
種種 重罪 五逆 消滅
自他 平等 即身成佛
南無観世音菩薩」

<昭和57年11月の十九夜和讃本>
「きみよぅちょうらい 十九夜の
ゆらいを くわしくたづぬれば
によいりんぼさつの せいぐわんに
雨のふる夜も ふらぬ夜も
いかなるしんの くらき夜も
いとわず たがわず きらいなく
とらの二月の 十九日
十九夜みどうへ まいるべし
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九夜ねんぶつ もうすなり
南無あみだぶつ あみだぶつ あみだぶつ
ずいぶに あらたに しょうじんし
をしよう しよじの ふだをうけ
死して じょうどへ ゆくときに
みようほうれんげの 花咲きて
十方はるかに しづまりて
ふきくる風も おだやかに
天より によいりん くわんぜおん
たまの天がい さしあげて
八まんよじゅんの 血の池も
かるさの池と みてとおる
大くわんおんの そのうちに
によいりんぼさつの おじひにて
あまねくしゅじょうも すくわんと
六どしじうおうに おたちあり
かなしき によにんの あわれさは
けさまですみしは はやにごる
南無あみだぶつ あみだぶつ あみだぶつ
ばんじがしたの 池の水
すすいでこすは たつときは
天も 地神も 水神も
ゆるさせたまえや くわんぜおん
十九夜 みどうへ 入る人は
長く三づの 苦をのがれ
ごくらく浄土へ 一らいす
まんだら池の ないしよも
いづるこころも うかれける
今日十九夜と しきとくに
によがみ いとも ありがたく
自身の おやたち あれありと
即身成佛 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛」

(H25. 2.17 EOS40D撮影)

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上吐田の大とんど

2013年05月26日 08時28分01秒 | 川西町へ
川西町上吐田の大とんどは雨天であっても決行される。

前年のとんど組みは雪が降って積もった。

とんど組みする竹の伐採、運搬にひと苦労したと一昨年に勤めたトーヤが話す。

この日は夜半から降った雨は朝になっても止まない。

公民館の公園に設えた大とんどの場は水分を含んで歩くこともままならない。

上吐田の大とんどは2月15日と決まっている。

かつて新暦にしてはどうかと1月15日に行った。

昭和26年頃のことだ。

その年には南の吐田で火事になった。

6軒もの屋敷が焼けたと話す宮十人衆。

そんなことがあったから旧暦の小正月の15日にしているという。

北吐田では1月15日であった。

子供会が執行していたとんどは少子化の波を受けて中断に至った。

もしかとすればだが、北吐田も旧暦であったかも知れない。

このように旧暦正月の小正月に行っていたとされる地は大和郡山市矢田町の中村。

住民の話によればかつては2月15日であった。

正月も過ぎて節分を過ぎればとんどの日も忘れてしまう。

それならと1月15日に日程を替えたという。

とんどの実施日には1月31日、2月1日、2日がある。

大和郡山市内では矢田町小南町丹後庄町が31日。

1日に筒井町、新庄町本村、豊浦町がある。

天理市の嘉幡町でも1日だったと聞いたことがある。

2日には番条町井戸野町、稗田町、美濃庄町、新庄町鉾立がある。

奈良市の池田町でも2日であるようだ。

これらは2月を二ノ正月と云って2月を二度目の正月として考えていたようだ。

奈良県内では1月14日の夕刻から翌朝の15日にとんどをしている地域が圧倒的に多いが、上吐田などのように2月になって行われる地域も判ってきた。

当地以外でも同じような考え方をもって実行されている地域はまだまだあるのではないだろうか。

火を最初に点けるのは施主であるトーヤの役目。

藁束に火を点けて恵方の方角から火を点ける。

今年は南南東だ。

「昔からそうしている」という。

点いた火を貰って藁束に火を点けるのが宮十人衆・五人衆。

とんど周りに火を点ける。



雨が降っても焼けていくとんど。

瞬く間に広がるとんどの火。

そんな様子を見にきた村人たちのほとんどが婦人である。

傘をさす日になったが村の行事をひと目見ようとやってきた。

瞬く間に燃え上がる大きなとんど。



ほぼ1時間で終えた。

見届けた婦人たちは戻っていくが講中は公民館で直会。

とんど組みの日もそうしている。

春はまだ遠からじ。

数時間後には雨がみぞれになって雪へと変わった。

(H25. 2.15 EOS40D撮影)
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上吐田のとんど組み

2013年05月25日 08時52分22秒 | 川西町へ
川西町の上吐田でとんどが行われる15日。

前日は宮十人衆や五人衆が集まって公民館の公園でとんど組みをする。

吐田地区の竹林に出かけて伐採してきた竹は数台の車に積み込んで運んだ。

氏神さんの春日神社に飾っていた門松なども焼き納める。

地区住民たちも家で飾った正月の注連縄を持ってくる。

春日神社の行事を執行するのは春日講の人たち。

宮十人衆と五人衆である。

とんども年中行事に含まれていることから講中のトーヤが施主。

マツリも勤めるトーヤである。

春日神社の年中行事には3月の春祭り、9月の八朔や秋のマツリ、新嘗祭などがある。

行事を主に勤めるのが宮十人衆で、五人衆はモチ搗きや注連縄作りをする手伝いの役目だという。

講中は終身制。

宮十人衆の上には寺十人と呼ばれる長老たちがいるそうだ。

亡くなるとか身体の不都合で引退宣言を認められて欠員が生じたときに宮十人衆。

五人衆が繰りあがる。

宮十人衆の最長老は講長、二番手を副講長と呼ぶ。

一般的に一老、二老と呼ばれている宮座があるが、上吐田では春日講と組織であるゆえ講長の呼称である。

とんど組みは5本から7本ぐらいに束ねた青竹を心棒にして土台を作る。

針金で強く縛って緩まないようにする。

それを数人がかりでとんどの場に足を広げる。

さらに固定して倒れないようにする。

内部に神さんに奉った注連縄や門松飾りを入れる。

心棒の周りに枯れた竹を斜めに立て掛ける。

高さは5m以上にもなったとんど組み。

歪んでいるかも知れないと全体を俯瞰して視るカントク。

こっちやあっちに竹挿しを指図する。

竹は上下を逆にして挿し込むように入れていく。

葉付きの笹竹も同じように逆さに入れる。

こうすれば枝が食い込んで落ちない。

工夫を凝らした竹挿しだ。

ほぼ出来上がりに近づけば崩れないように周り全体を針金で縛る。

およそ1時間でとんど組みを終えた講中。

明日は雨になるやもしれないからと藁束を置くことは止めにした。

かつてのとんど場は春日神社境内であった。

協議されて吐田北を流れる大和川の堰堤に移した時期もあった。

ところが西風に煽られて危険な状態になった。

そのようなことがあった上吐田のとんど場は公民館の公園に移した。

ここであれば風があっても大丈夫だと云うが強風が吹き荒れる日となれ順延するそうだ。

ただし、その場合は「赤口」までに執行すると話す。

(H25. 2.14 SB932SH撮影)
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讃岐うどん総本舗琴平製麺所のきつねうどん

2013年05月24日 07時50分55秒 | 食事が主な周辺をお散歩
平成20年9月に食べた讃岐うどん総本家琴平製麺所のぶっかけうどん。

そのときによりも美味くなったと思って出かけた。

当時食べたうどんは小麦粉の味が粉っぽく喉につかえてすすれなかった。

何度となく訪れていた次男もそう云っていた。

5年も経過すれば上達しているだろうと思ったこの日。

欲がでたのは新聞チラシに混ざっていたサービス券だ。

2月から4月初めまで毎週、毎週使えるサービス券は半額券。



試しにするには丁度いい。

平日昼間の来客は仕事人が多い。

次から次へと入店される。

もっぱらの最近はきつねうどんを頼むことが多い。

味比べするには手ごろな値段の200円。

普段なら400円である。



でっかいきつねのあげさんは丼に盛られた。

天かすやネギをぶっかけた丼椀が美味しく感じる。

つるつるしこしこ。

カツオ風味の出汁も美味しくて喉を潤す。

が、だ。

最後のほうになった麺の味。

前回よりはましではあるがやっぱり小麦粉の味がする。

なんだろうか。

昼間はランチもある。

それが目当ての人たちであろうか。

サービス券はまだまだある。

ポイントカードも貰ったが期間は5月末までだ。

期限後の次回に応えるうどんは普段の値段。

この味で400円なのだ。

うどん正味の美味さでいえばやはり針テラスのつるまる饂飩に軍配をあげる。

(H25. 2.12 SB932SH撮影)
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村屋坐弥冨都比売神社森講の御田祭

2013年05月23日 06時47分25秒 | 田原本町へ
かつては旧正月十日に行われていた田原本町蔵堂の御田祭。

祭典が行われるのは村屋坐弥冨都比売(むらやにいますみはつひめ)神社である。

境内小社に村屋神社、服部神社、市杵嶋姫神社、物部神社がある。

「元禄九年(1696)子歳 奉寄進森屋御宝前」の刻印がある燈籠は村屋神社にある。

鎮座地はかつて鐘楼があったとされる。



境内燈籠には「森屋大明神」の銘もあるが、拝殿前に建之された狛犬に「天保十一年(1840)子九月吉日 明神講」の刻印があった。

田原本町における明神講は保津、満田、味間、宮古、今里、八尾、千代の阿部田、平田、為川北方、東井上(いね)が挙げられるがどの大字が寄進したのか判らない。

蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社の郷中は蔵堂、大木(おおぎ)、為川南方、為川北方、遠田(とおだ;天理市)、金澤、平田、東井上、西井上、伊与戸、笠形、大安寺、阿部田、南阪手、阪手の15ケ大字であるから保津、満田、味間、宮古、今里、八尾の明神講ではないだろうか。

昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』によれば「阿部田の明神講は郷社になる村屋坐弥冨都比売神社から分霊遷しましをされて当家で祀る宮迎えがある。

10月1日に神迎えをされ10日に還る宮送りがある。

平田・為川北・東井上に跨る明神講もある。

3年に一度、平田の明神講が回りになる場合は10月1日に村屋坐弥冨都比売神社へ向かう奉幣渡御がある。

お渡りに担ぐ「粳米を付けた大御幣、稲株を付けたヤナギの木である」と記されている。

もしかとすればだが千代の阿部田若しくは平田ではなかろうかと思ったが、目を凝らして見れば「北為川村、平田村、東井上村」であった。

村屋坐弥冨都比売神社に関係する講は森講、明神講以外に綱切講、朔日講、スコンド講(数献講)があると昭和4年に纏められた『大和国神宮神社宮座調査』(奈良県図書情報館保管)記されている。

村屋坐弥冨都比売神社には正月に掲げる簾型の大注連縄がある。

拝殿前に掲げる大注連縄をゾウガイと呼んでいた(注 『田原本町の年中行事』)。

その件は今でも半日かけて作り、掛けていると守屋宮司が話す。

それはともかく、御田祭が行われる旧正月十日の朝であった。

北隣村の伊与戸に綱掛け講があった。

平成10年ころまでは同神社参道に大きなワラ綱を結って掛けていた。

大綱の3か所に垂らしていた2段の松(または杉)とツタ。

綱掛け講の当屋が行っていた村屋坐弥冨都比売神社の正月行事であった。

綱掛け講からは12個(旧暦閏年は13個)の小餅を神前に供える。

お礼に半紙に包んだ12粒の米をチガヤ(茅草)に括りつける。

本数は12本だ。

年の月数をあらわす本数は一年間の豊作を願う数であったが、現在は継承する講も廃れて中断している。

その日の神社は午前中に祈年祭、午後に御田祭が行われているが、今では建国記念日の2月11日となった。

前述の『田原本町の年中行事』には旧正月十日とあるから発刊された昭和59年のころではまだ祭日に移っていなかったのであろう。

蔵堂の御田祭は昔も今も森講の人たちによって営まれている。

森講は伊与戸、大木、笠形(伊与戸から分かれた枝村)、遠田(蔵堂から分かれた枝村;天理市)の4ケ大字(かつては大安寺大字含めた5大字)に跨っている講中である。

かつては11軒であったが現在は9軒になった森講である。

かつては講中の当屋家に集まり講の鍵元(伊与戸のかぎもと)が保管されている講箱を全員が立会のもとに古くから継承されてきた宝物を確認する。

年長順に着座して宴席に移る。

その後において講員氏名を書き記す「座階」、当屋営みを終えたことを明記する「明斎頭」が行われる。

古くから書き継いできた文書に加え、伝わってきた宝印の朱印を半紙に押すと『田原本町の年中行事』に記されている。

この宝印は御田祭を終えた直後に撒かれる御供撒きの餅を包む紙である。

御田祭は連綿と継承してきた森講の人たちが拝殿に登ってから始められる。



拝殿には御田祭の所作で使われる牛面、備中グワ、スキ、カラスキ、マングワが置かれている。

拝殿回廊には神楽を舞う女児巫女が履く神つけ草履も用意した。



僅かな数量になったという草履は葬儀屋で作って貰ったものだと話す守屋宮司。

長年に亘って使ってきた草履はくたびれもせずに未だ現役である。

森講が大切にしてきた講箱は守屋宮司、禰宜によって本殿に献じられ祝詞を奏上される。

「邑屋社御寶物箱」と墨書された講箱に納めているのは牛王、剱、神名帳、和歌集、刀、剣のようだ。

祝詞はおそらく神名帳も詠みあげられたのであろう。

森講の記録によれば当日に牛王宝印、牛王杖を配ったとあるそうだ。

また、文和四年(1355)の神名帳の神名詠みあげがあることからもオコナイと呼ばれる正月初めに行われる修正会の営みであったと思われる。

明治維新までは寺僧侶も加わっていた行事は「ぼだい、ぼだい」とも云っていたようだ。

「ぼだい」の呼び名で思い起こすのが正月三日に行われている田原本町多観音堂の「ボダイボダイ」である。

カンピョウで束ねた「ゴオゥ」と呼ばれるエダマメを擂って炊いたものと牛蒡の御供。

梅の花を象ったハナモチも供えて僧侶が観音経を唱える最中に講中が青竹で床を叩く。

いわゆるランジョーの作法である。

同じような作法があったのかどうか判らないが森講の正月行事はそのような作法もなく神職による祭祀である。

神事を終えれば斎場は拝殿前の前庭に移る。



拝殿では森講の人たちが牛王宝印を押したお札で供えた餅を包んでいる。

四方に青竹を立てて〆縄を張った前庭は神田に見立てた神聖な斎場である。

恵方(今年は南南東)の方角に砂を盛った水口の場がある。

斎場正面に置かれた松苗、籾種、クルミ御供は田植えの所作に使われる。

御田祭の初めは恵方に盛った砂盛りに大きな松苗を立てる豊作願いである。

塩と酒を撒いて祓い清める。

クルミを盛った皿を供えた水口の儀式であるが、この年は失念されてウメの木を添えることはなかった。

供えたクルミは参拝者に配られる。

ありがたい御供を受け取る顔は笑顔になる。

そうして始まった田んぼの耕作。



始めにスキで田んぼ周りの畦を切る。

次は備中グワで荒田を起こす。

演者は替って守屋禰宜。

田んぼは堅い土。

力を込めて振り上げる備中グワ。



勢いがついて歯が取れた。

笑いが溢れる所作になった。

次に登場したのが田長(たおさ)と牛。

田長と呼ばれる馬子は森講の講中で牛役は草鞋を履いた二人の子供である。



牛の後方にカラスキ(唐犂)を曳いて田を起こす。

かつては牛役も講中であったが、集まってくる子供らが悪さをせず、さらに仲間意識をもたせるように、昭和17、18年頃に演者を替えたと宮司が話す。

「暴れんかえ」と掛け声が周囲からかかってもおとなしく済ませた田起こしは時計回りに一周する。

次は宮司が行う稲籾蒔き。

種蒔き唄を謡いながら神田に籾種を撒く。

両手を広げるように優しく撒く。

かつては三方に納めた籾でなく箕で撒いていたという。



「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 一石、一斗、一升、一合、一勺(せき)、あるといいな」、「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 二石、二斗、二升、二合、二勺(せき)、あるといいな」、「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 三石、三斗、三升、三合、三勺(せき)、あるといいな」である。

四石は縁起が悪いからと謡わずに「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 五石、五斗、五升、五合、五勺(せき)、あるといいな」で続けた田植え唄は「これぐらいにしときましょ」で締められた。

祭事後に伺った宮司の種蒔き唄。

即興でもなく、5、6年前に教わった滋賀県の民謡だったそうだ。

『田原本町の年中行事』に掲載されていた唄がある。

その唄の原文は万葉がなで同神社に残されているそうだ。

それをカタカナ表記で書き写しされた守屋宮司の内容を拝見し、確認した上で歌詞を書き記す。

1番・始め唄「うれしさは おたにもみにも おさだにも あふるるまでに あふれましみず」、2番・牛使い唄「あまつひめ よさしのみたに ささげもち をたすきかえし いざやをろさむ」、3番・早苗唄「あまつめの かみのまにまに たまだすき かけてぞさなえ とりてうえまし」、4番・田植え唄「ををまへに をさだすきそめ すきかへし うえしさなえを まもれやちほに」の詞章である。

判る範囲内で漢字を充ててみれば、1番・始め唄「嬉しさは 御田に籾にも 長田にも 溢るるまでに 溢れ増し水」、2番・牛使い唄「天つひめ 良さしの御田に 捧げもち 御田鋤き返し いざや下ろさむ」、3番・早苗唄「天つめの 神のまにまに 玉襷 掛けてぞ早苗 取りて植えまし」、4番・田植え唄「御前に 長田鋤き初め 鋤き返し 植し早苗を 守れ八千代に」であろうか。



そして再び登場する馬子と牛は田を耕す道具をマンガ(馬鍬)に替えた。

「もぅー」と鳴きながら登場する牛。

暴れることなくカラスキと同じように時計回りで一周して耕した。



衣装を解いて姿を見せた子供はなんと、禰宜さんの二人の子息だった。

大役をこなした二人はほっとした顔つきになった。

こうした田植えの所作の次は村の女児が勤める巫女神楽。

この年は田原本町の東小学校の4人。

昨年は一人が中学生だった。



千早の巫女装束になった女児が舞う神楽は三三九度の舞い。

太鼓の打つ調子に合わせて舞う鈴神楽。

しゃん、しゃん、しゃんの音色が心地よい。

右に三回、左に三回、そして右に三回ぐるりと旋回して終えた豊作の祝いの神楽である。

かつては神楽の舞いに弓と的があったそうだ。

湯立ての神事も随分前から中断していると話す宮司。

いずれは復活したいものだと話される。

村屋坐弥冨都比売神社の神楽は御田祭で舞われた三三九度の舞いの他に、平神楽、扇の舞、榊の舞、二本剣の舞、一本剣の舞、矛の舞、薙刀の舞など代々受け継がれてきた特殊な神楽がある。

平成14年に訪れた際に拝見させていただいたことがある。



最後は宮司と禰宜による松苗のお田植え所作。

松苗を手にして束の部分を挿すようにして植える所作である。

そうして所作を終えた二人は後方、左右など参拝者に向けて松苗を放り投げる。

かつてはこの御田祭においておたふく(おたやんの呼称がある)やひょっとこの面も使われていたそうだ。

雨乞いの踊りもあったとされるが実際はどのような形式であったのか判らない。

御田祭を終えれば森講による餅撒きがある。

ありがたいごーさんのお札で包んだ餅を手にする参拝者。



餅だけ持って帰ってお札を残す人もいる。

そのお札はエビスさんを表したご朱印であった。

大漁姿のエビスさんは豊作を願う印影であろう。

昭和14年6月15日発行の雑誌『磯城 第2巻 第3號』にも蔵堂守屋の村屋坐彌冨都比賣神社の御田植祭が記載されている。

明治40年頃までは旧正月十日であった。

その後において2月19日になったものの昭和13年には再び旧正月十日になった。

当時の講中も伊與戸、大木、大安寺、笠形、遠田の5ケ大字(それ以前は阪手北を含む6ケ大字)であった森講組織。

それぞれの大字の大庄屋の集まりだったと守屋宮司が話す。

明治維新までは裃着用の講員が幣竹を持参して同神社に参集。

真言宗僧侶とともに拝殿の床を「先祖代々菩提のために」と唱和しながら床を叩いたとある。

それから御田祭に移ったと伝えられる行事は「ボダイボダイ」と呼んでいた。

その様相はまさに田原本町の多観音堂と同じである。

講員の最長老を一老、次に二老、三老と呼んで、一老こと講長が行事を総指揮していたとある。

お供えは5升の餅に5本の松苗。

松苗の本数は5ケ大字の数である。

神事の際には一老が玉串を奉奠し撤饌のあとで講伝来の寶物を奉献した。

寶物は牛の玉(寶印であろう)、長さ一尺三寸の剣が一刀、延喜式神名帳が一冊、三十六歌選の和歌集一巻を参拝者に拝観して御田祭の所作をしたとある。

御田祭の始めは鍬を手にして耕す所作の鍬初めの儀があったと記されている。

当時は白米を紙に包んだ御供を松苗に括りつけていた。

松苗をもって田植えの所作をしていたのは浄衣姿の二人の早乙女であった。

松苗を砂の中に挿入するように植えていく。

植えた松苗を選んで引き抜いた5本を参拝者に目がけて投げつける。

5本の数は森講の5ケ大字の数であったろう。

最後に牛玉寶印を刷った書を参拝者に授与する。

講員たちは松苗を持ち帰って籾を撒く際に苗代の水口へ立てる。

そのときには「黄金の稲穂重く垂れかし」と念じたとある。『磯城』、『田原本町の年中行事』ともに記載されてあった民俗行事の在り方は現在行われていない状況が判るのである。

記載されていた内容から村屋坐弥冨都比売神社の御田祭は森講の御田祭であったのだ。

雑誌『磯城』には前述した伊与戸の綱掛け講による綱掛け神事がこと細かく書かれている。

神事は御田祭と同じように明治40年頃までは旧正月十日であった。

その後において新暦の二月十九日になったが昭和13年には再び戻された。

講員たちは頭家の家に集まって蛇形の大綱を作っていた。

綱の長さはおよそ六十尺。

頭部廻りは約一尺で胴廻りは約七寸。

胴の三か所において「足」と称する長さ五尺の細い縄を三筋垂らした。

その垂れ縄には松(または杉)と蔦を横二段に通して切垂を結びつけた。

出来あがった綱は蛇がトグロを撒くような形に丸く重ねた。

中央に青竹を挿して講員たちが担いだ。

「ワッショ ワッショ」の掛け声をかけて神社に繰り込み拝殿に置いた。

神前に供える小餅は中央が凹んでいることから靨(えくぼ)餅と呼んでいた。

神事で清めたのちに大綱は参道のご神木に掛けるのである。

悪疫、災難除けに掛けていた大綱であった。

(H25. 2.11 EOS40D撮影)
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田中町甲斐神社の垣結び

2013年05月22日 06時47分05秒 | 大和郡山市へ
この日も朝から甲斐神社のお勤めをしていた田中町の宮守総代。

境内に植生する木々を伐りとって片付けている。

午前中いっぱいは神社の東側を中心に境内に生えている雑木を刈りとる。

5人の宮守総代だけでなく水利組合や自治会役員も出動するこの日の午後は神社の垣結び作業だ。

神社の周囲はかつて全域に亘る竹垣根だった。

竹を編んだ生垣で張り巡らせていた。

北東から東側にかけての垣根は何年か前にコンクリート製の築塀に替えた。

北側はウバメガシの生垣にした。

神社境内の土は崩れないようになったが今でも垣結びをしていると話す。

その箇所は西側の生垣である。



伐採作業の合間に別の作業をする宮守総代。

青竹を20cm程度に切断する。

節目の部分は入れない。



丸竹のままにして切断した竹は6本に割く。

鉄製の道具を上に置いてぐいと重しを掛ける。



縦目に割ける青竹はナタで二つ割り。

3月中旬に行われる甲斐神社のお田植祭りに用いられる松苗の竹である。

割った竹は選別する。虫喰いがあるものや色合いが悪いものは除く。

検査を受けた竹は80本。

行事が行われる前に5人が分担する松苗の竹作り。

側面を削って奇麗にするのは家の作業。

松を取り付けて御神籾を括りつけるのは宮守一老のおばあちゃんだそうだ。

「杵でモチを搗いてカキモチを作っているんや」と云う。

午後の垣結び作業に集まって来た宮守総代に水利組合、自治会役員たち。

水利組合の人たちは田中池に向かう。

池の水漏れが発生していないかどうかの検分である。

雑草の生え具合も確認しておく。

刈りとるのは後日だが、どれぐらいの作業を要するのかを確認して戻ってきた。

垣結びは主に西側の生垣。

朽ちた竹を取り除く。

高くなった樹木も伐採する。

作業は内側と外側に分かれる。

生垣からはみ出る木々も刈りこむ。

頻繁に運搬しなければならないぐらいの大量な処分物である。

不要な朽ちた竹を取り除けば内側が見える。



葉っぱで覆われていた生垣もすっきりした。

そこへ新しく青竹を水平に挿し込む。

崩れないように内側から結わえて引っぱる。

緩んでいた生垣はたわみもない。



平成4年までは2月15日に行われていた毘沙門天祭の垣結び。

集まりやすい建国記念日の祝日に移された。

それゆえ甲斐神社の垣結びであるが、毘沙門天さんのお堂は提灯を掲げて扉を開け御膳を供えている。

(H25. 2.11 EOS40D撮影)
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