マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

糸井神社の湯釜

2016年03月07日 09時11分08秒 | 川西町へ
川西町結崎・糸井神社で御湯作法に使われている古い湯釜を拝見した。

判読できた刻印は「和式下郡・・・御中宮・・二十五人 春日大明神御湯釜 五位堂杉田鋳之 天保十四癸卯歳(1843)十二月」だ。

江戸時代末期の172年前。

三本脚であったが二本はどこへ行ったか判らないと宮司実弟が話す。

欠損した1本の脚。獣面、或は獅子、それとも人の顔のように見える。

湯釜は今年の5月2日に行われた太太神楽祭に使われたという。

神楽は三郷町の坂本巫女が作法されたようだ。

これまで拝見した御湯作法は沸かした湯に笹を浸けて湯飛ばしをしていたが、当地では湯でなく紙片だった。



残り花の紙片が釜の底にあった。

おそらく散らす紙片を湯の花に見立てた「花湯」若しくは「湯花」と呼ばれる御湯の作法であったろう。



湯花神事を終えた笹(クマザサ)は本殿奥の藪に捨ててあった。

(H27. 5. 4 EOS40D撮影)
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上吐田春日神社の春祭り

2013年06月26日 06時50分51秒 | 川西町へ
梅の花が咲き誇る上吐田。

青空を美しく染めていた。

かつて中世荘園として栄えた吐田庄は時代を経て上吐田(かみはんだ)村と呼ばれていた。

明治時代の地租改正を契機に東の上吐田、西隣は北吐田、さらに西の南吐田村と合併して現在の川西町吐田になった。

北吐田・南吐田は杵築神社、上吐田が春日神社。

それぞれの氏神さんを崇敬する。

春日神社が鎮座する地の小字は実盛(さねもり)と呼ばれている。

実森の字を充てることもあるようだ。

神社の東側に小さな塚がある。

その場は昔、実盛と呼ぶ刀鍛冶師が住んでいたと伝わる。

神社境内の南側から見れば神社そのものが高台。

さらに高い地に本社が祀られている。

小字実森は神社を含む一帯である。

その西側の小字は宮西、神社南側の小字は堂前である。

春日神社の境内には薬師堂があったと伝わる。

境内にはその堂跡とも思える残欠の石塔や台座が散在している。

現存している燈籠にそれぞれ刻印があった。

「式下郡吐田村 文化元年(1804)甲九月吉日」の燈籠に「天保三年(1832)三月吉日建之」の太神宮石塔だ。

拝殿前の燈籠は「嘉永元年(1848)九月吉日」だ。

いずれも江戸後期の燈籠である。

時代刻印がなかった燈籠には「春日大明神」とある春日神社ではあるが手水鉢はそれらよりも古く「寛政四子年(1792)正月吉日 當村 世話人若連中」とある。

結崎村、下永村、吐田村、梅戸村、唐院村、保田村からなる式下郡は明治22年に町村合併されて川西町になった。

町の中心部は結崎だ。

春日神社の宮司は結崎の糸井神社。

存知している村の神社だけでも結崎の糸井神社、下永の八幡神社、保田の六縣神社、北吐田の杵築神社がある。

いずれも兼務社であって祭礼においてはたいへんお世話になっている宮司である。

糸井神社にある大きな石造りの燈籠には「萬延元年年(1860)申年十二月吉日建之 願大庄屋云々 組丁十五ケ村庄屋中」と刻まれている。周囲を見れば「市場組 市場、中村、辻村、井戸村、吐田村(現川西町」、西唐院村(現川西町」、東唐院村(現川西町」、穴闇村(現河合町)、長楽村(現河合町)、屏風村(現三宅村)、三川村(現三宅村)、伴堂村(現三宅村)、南伴堂村(現三宅村)、今里村(現田原本町)、なにがし」とある。

春日神社の年中行事を執行するのは宮守の人たち。

世話人の宮十人衆と五人衆である。

春日神社の年中行事にはこの日の春祭りを含めて9月の八朔や秋のマツリ、新嘗祭などがあるという。

平成13年5月に竣工した拝殿に登る宮守たちの他、祭りの当家(トーヤ)や自治会役員だ。



祓えの儀の次は献饌。

三社の本社と小宮に供える。

祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌で終えた春祭りは春に先駆けて村の豊作の祈る祈年祭(としごいのまつり)である。

(H25. 3.17 EOS40D撮影)
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上吐田の大とんど

2013年05月26日 08時28分01秒 | 川西町へ
川西町上吐田の大とんどは雨天であっても決行される。

前年のとんど組みは雪が降って積もった。

とんど組みする竹の伐採、運搬にひと苦労したと一昨年に勤めたトーヤが話す。

この日は夜半から降った雨は朝になっても止まない。

公民館の公園に設えた大とんどの場は水分を含んで歩くこともままならない。

上吐田の大とんどは2月15日と決まっている。

かつて新暦にしてはどうかと1月15日に行った。

昭和26年頃のことだ。

その年には南の吐田で火事になった。

6軒もの屋敷が焼けたと話す宮十人衆。

そんなことがあったから旧暦の小正月の15日にしているという。

北吐田では1月15日であった。

子供会が執行していたとんどは少子化の波を受けて中断に至った。

もしかとすればだが、北吐田も旧暦であったかも知れない。

このように旧暦正月の小正月に行っていたとされる地は大和郡山市矢田町の中村。

住民の話によればかつては2月15日であった。

正月も過ぎて節分を過ぎればとんどの日も忘れてしまう。

それならと1月15日に日程を替えたという。

とんどの実施日には1月31日、2月1日、2日がある。

大和郡山市内では矢田町、小南町、丹後庄町が31日。

1日に筒井町、新庄町本村、豊浦町がある。

天理市の嘉幡町でも1日だったと聞いたことがある。

2日には番条町、井戸野町、稗田町、美濃庄町、新庄町鉾立がある。

奈良市の池田町でも2日であるようだ。

これらは2月を二ノ正月と云って2月を二度目の正月として考えていたようだ。

奈良県内では1月14日の夕刻から翌朝の15日にとんどをしている地域が圧倒的に多いが、上吐田などのように2月になって行われる地域も判ってきた。

当地以外でも同じような考え方をもって実行されている地域はまだまだあるのではないだろうか。

火を最初に点けるのは施主であるトーヤの役目。

藁束に火を点けて恵方の方角から火を点ける。

今年は南南東だ。

「昔からそうしている」という。

点いた火を貰って藁束に火を点けるのが宮十人衆・五人衆。

とんど周りに火を点ける。



雨が降っても焼けていくとんど。

瞬く間に広がるとんどの火。

そんな様子を見にきた村人たちのほとんどが婦人である。

傘をさす日になったが村の行事をひと目見ようとやってきた。

瞬く間に燃え上がる大きなとんど。



ほぼ1時間で終えた。

見届けた婦人たちは戻っていくが講中は公民館で直会。

とんど組みの日もそうしている。

春はまだ遠からじ。

数時間後には雨がみぞれになって雪へと変わった。

(H25. 2.15 EOS40D撮影)
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上吐田のとんど組み

2013年05月25日 08時52分22秒 | 川西町へ
川西町の上吐田でとんどが行われる15日。

前日は宮十人衆や五人衆が集まって公民館の公園でとんど組みをする。

吐田地区の竹林に出かけて伐採してきた竹は数台の車に積み込んで運んだ。

氏神さんの春日神社に飾っていた門松なども焼き納める。

地区住民たちも家で飾った正月の注連縄を持ってくる。

春日神社の行事を執行するのは春日講の人たち。

宮十人衆と五人衆である。

とんども年中行事に含まれていることから講中のトーヤが施主。

マツリも勤めるトーヤである。

春日神社の年中行事には3月の春祭り、9月の八朔や秋のマツリ、新嘗祭などがある。

行事を主に勤めるのが宮十人衆で、五人衆はモチ搗きや注連縄作りをする手伝いの役目だという。

講中は終身制。

宮十人衆の上には寺十人と呼ばれる長老たちがいるそうだ。

亡くなるとか身体の不都合で引退宣言を認められて欠員が生じたときに宮十人衆。

五人衆が繰りあがる。

宮十人衆の最長老は講長、二番手を副講長と呼ぶ。

一般的に一老、二老と呼ばれている宮座があるが、上吐田では春日講と組織であるゆえ講長の呼称である。

とんど組みは5本から7本ぐらいに束ねた青竹を心棒にして土台を作る。

針金で強く縛って緩まないようにする。

それを数人がかりでとんどの場に足を広げる。

さらに固定して倒れないようにする。

内部に神さんに奉った注連縄や門松飾りを入れる。

心棒の周りに枯れた竹を斜めに立て掛ける。

高さは5m以上にもなったとんど組み。

歪んでいるかも知れないと全体を俯瞰して視るカントク。

こっちやあっちに竹挿しを指図する。

竹は上下を逆にして挿し込むように入れていく。

葉付きの笹竹も同じように逆さに入れる。

こうすれば枝が食い込んで落ちない。

工夫を凝らした竹挿しだ。

ほぼ出来上がりに近づけば崩れないように周り全体を針金で縛る。

およそ1時間でとんど組みを終えた講中。

明日は雨になるやもしれないからと藁束を置くことは止めにした。

かつてのとんど場は春日神社境内であった。

協議されて吐田北を流れる大和川の堰堤に移した時期もあった。

ところが西風に煽られて危険な状態になった。

そのようなことがあった上吐田のとんど場は公民館の公園に移した。

ここであれば風があっても大丈夫だと云うが強風が吹き荒れる日となれ順延するそうだ。

ただし、その場合は「赤口」までに執行すると話す。

(H25. 2.14 SB932SH撮影)
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上吐田地蔵尊尼講の地蔵盆

2012年09月24日 07時41分18秒 | 川西町へ
融通念仏を唱える金福寺の住職。

2メートルほどの高さの石仏地蔵尊。

立派な形は舟形光背をもつ。

ゴザを敷いた場に座っているのは上吐田の尼講たち。

「なんまいだぶっ なんまいだぶつ」を唱える地蔵尊の法要だ。

この日は暑かった。

西日が射しこむ時間になっても暑さはかわりない。

団扇で煽ぎながらの法要である。

舟形光背の地蔵尊は東向き。

法要の場の両脇には高張提灯を掲げている。

それはめいめいが持ってきた家の提灯。

ずらりと並ぶ。新しい花を飾ってローソクを灯す。

家内安全、五穀豊穣、除災を願う回向法要である。

上吐田の地蔵尊は大和川の堤防にある。

垣根に囲まれた中だ。

かつてはここより50メートル向こうの西側にあったそうだ。

大和川の堤防工事があった際に移された。

60年以上も前のことだと話す尼講たち。

上流の下永から流るる大和川。

下流にあたる南吐田は田原本町を流れる寺川と合流する。

ここら辺りはかつて水ツキに悩まされてきた。

堤防ができるまでは蛇行を繰り返す大和川であった。

安堵町との行政境界線をみれば明確だ。

かつての大和川に沿っている境界線は蛇行の跡を示す。

それはともかく、数人の欠席があったがこの日に集まったのは8人。

かつては30人の講員からなる大所帯だった尼講。

「若い人が入ってくれんから・・・」とこの先を案じる。

講の当番は二人。月に2回は地蔵尊を清掃しているという。



法要を終えれば般若心経。

続いて唱えるのが西国三十三番のご詠歌だ。

ご詠歌されている間も見られない村人たち。夕日が沈んでいった。

(H24. 7.23 EOS40D撮影)
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北吐田大神宮ゴウシンサン

2012年09月20日 06時43分39秒 | 川西町へ
県内にはいたるところに大神宮と彫られた石塔がある。

かつてお伊勢参りが流行ったときに建てられた石塔。

横大路は伊勢街道。要所要所に建てられたが旧村にも同等の塔が各地で見られる。

辻であったり集落内であったりする。

お伊勢参りに旅立つときには石塔に参ってからお伊勢さんを目指したと伝わる。

その数は数え切れないほどである。

川西町の吐田にもそれがある。

上吐田は春日神社の境内にある。

北吐田は集落内である。

日が暮れる前、当番の人が石塔にやってくる。

この日はゴウシンサンと呼ばれる行事が行われる。

油掛地蔵尊の地蔵盆と同様に各家が提灯を持ってくる。

それを提灯台に掛けて火を灯す。

めいめいの家の提灯で回りは幽玄な様相を醸し出していく。

時間ともなれば村の人たちが大勢集まってきた。

ゴザに座る婦人たちや石塔回りを囲む人たちで溢れる。

そうして始まったゴウシンサンは地区の念佛寺の住職が唱える法要だ。

大神宮はその名のごとく「ダイジングウサン」とも呼ばれる。

かつては砂糖で味付けしたソラマメ或いはオタフクマメを煮たものを供えていた。

キリコと呼ばれるサイの目の四角い形のモチ。

それをホウラクで煎った。

大きな皿(鉢)に盛って供えていたと話すH兄弟。

ゴウシンサンを終えればキリコを貰って帰る。

キリコは小さいから新聞紙を丸めてロト状にして少しずつ配られた。

その際には手で受けたという。子供の時代というから昭和30年代の様子である。

今ではそのようなお供えはせずに、寄付を集めたお金で当番がお菓子を買ってきて供える。

ゴウシンサンは住職が唱える般若心経一巻で終える。

およそ10分の短時間で終えた行事はお供えが配られて解散する。



ゴウシンサンを終えた翌日は大和川を越えた大和郡山市額田部の額安寺の十七夜。

それから数日後には北吐田の地蔵盆。

ゴウシンサンの前には田原本の祇園さんがある。

夏祭りはあっちこちに出かけて忙しかったという。

(H24. 7.16 EOS40D撮影)
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吐田の大神宮を尋ねて

2012年09月18日 08時42分24秒 | 川西町へ
川西町の吐田(はんだ)。

大和郡山市との境界は大和川。

板屋ケ瀬橋を渡ると吐田である。

今では大和中央道が南北に貫く道路。

そこに架かっている橋が板屋ケ瀬橋であるが、かつての橋は西に数百メートル向こうだった。

安堵町の安土墓地から南下して堤防に近くで東に曲がる。

大和郡山市と安堵町の境界がその道だった。

その先にあった板屋ケ瀬橋。

今ではその面影は見られないが、小字に板屋が残っている。

その地から西方のことだ。

かつての大和川はうねうねと大きく蛇行していた。

その痕跡は小字データベースで確認できる。

その痕跡は保田まで続く。

それが安堵町窪田と川西町保田の境界線。

大きな氾濫があったと予想される境界線だ。

それはともかく、橋を渡って南下すればかの有名な油掛け地蔵がある。

そこでは7月23日に地蔵盆が行われている。

昨年に聞いた吐田のダイジングサン。

吐田には大神宮の石塔があり、そこで祭りをしていると話していた。

その場所を確かめたくて吐田にやってきた。

東のほうに鎮座する春日神社がある。

その付近だと思い込んでいた。

たしかに高い石塔がある。

刻印には「大神宮」が見られない。

違ったのだ。

その付近で梅の木を剪定伐採している男性に尋ねてみたが、そのような祭りは聞いたことがないという。

仕方なく神社境内を探してみた。

あるにはあった大神宮の石塔。

その男性の話ではここら辺りの集落が上吐田。

尼講が営んでいる地蔵さんがあるという。

北吐田の人たちが集まる油掛地蔵盆と同じ日にしているという。

堤防のほうにあるという。

それほど広くない上吐田。

ぐるりと周回してみたが見つからない。

散歩されていた高齢の男性に尋ねた結果はどこか。

見過ごして通り抜けていたのだ。

垣根に囲まれていた上吐田の地蔵さんがそこにあった。

そこには一人の婦人が掃除をされていた。

当番やからと奇麗にされていたのだ。

ここの地蔵さんは大きい。

およそ2メートルもある舟形光背をもつ地蔵さんだ。

名前はないという。

夕方になれば尼講がやってくる。

集落にある金福寺住職の法要に続いて尼講たちが西国三十三番のご詠歌を唱えるという。

ちなみに北吐田の大神宮はどこにあったのか。

祭礼のときに世話になったH家に寄ってみた。

奥さんの話ではそこを行ったところにあるという。

確かにあった大神宮。

ようやく辿りついたのであった。

こうした下見は観光ではなく、いつも旅のように感じる。

村人と出合い話を伺う。

資料化されていない村に伝わることを教わる。

ぶらり旅の一期一会は、下見とは関係しない行事に出合える。

それは度々のことだ。

梅の木を剪定していた男性の話。

北吐田の旧家が60戸の集落。

7~8軒ぐらいで纏まった伊勢講があるという。

なんでも10組あるというからほぼ全戸数で営まれる伊勢講だ。

それぞれの組ごとに集まる12月の伊勢講。

ヤドでアマテラスの掛軸を掲げているそうだ。

伊勢講といえば大神宮の石塔。

お伊勢参りにはそこで参ってから道中にでたという話があちこちにある。

上吐田はどうしていたのか聞きそびれた。

(H24. 7.15 SB932SH撮影)
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保田六縣神社子出来おんだ

2012年03月29日 06時43分53秒 | 川西町へ
天保十二年(1841)、建之の狛犬の台座に左三つ巴の巴紋が見られる川西町保田(ほた)の六縣(むつがた)神社。

かつては六所明神・保田神社と呼ばれていた。

境内にある富貴寺は神宮寺であろう。

永正元年(1504)に寺への田地寄進状、大永八年(1528)には宮座(宮本)への田地売却文書があったそうだ。

天文二十年(1551)の神事次第が残されているとすれば、まさに僧侶と村神主(宮守)による祭祀が行われていたのであろう。

その次第は拝見したことがないが、六縣神社で行われている御田植祭後に配られるお札に「牛玉 冨貴寺 寶印」の書が見られる。

六縣神社は富貴寺に属していた。

戦前までは講組織によって寺行事の牛王突きが行われていたようだ。

それがどのような形態であったのだろうか。

考えるに、祈祷された牛玉寶印を杖に挿して、それを突いていたのではないだろうか。

大和郡山市に矢田山金剛山寺がある。

正月初めの行事に修正会(初祈祷)が行われている。

二日には牛王加持として牛王杖で床をコツコツと突くランジョウがある。

かつては壁板も叩いていたという悪魔祓いの作法である。

それとも山添村岩屋の興隆寺で6日に行われる正月行事の修正会に際して、祈祷されたゴーサン(牛王印)を額に押す所作であろうか。

東、西、南、北の方向に向かって魔除けの作法をされた牛王の寶印。

それを額に押すのである。

押すと云うよりも突き出す作法である。

それらの作法を思い起こす牛王突きは廃絶されて現認することはできないが、椿の枝木に括りつけた牛玉寶印書は御田植祭行事の一連として現存している。

稲苗に見立てた椿の枝木は苗代に挿すという。

蕾(花芽)がたくさん付いているほど実りがよく豊作が叶うというから、貰って帰る村人は蕾数を手にとってその数を確かめる。

取材時に授かったお札と椿の木。

花器に移しておいたら1カ月後の3月9日に咲いた。

その花色は赤だった。

保田は北、中筋、寺、宮南、宮北、東、西の7垣内。

六縣神社・富貴寺がある垣内は宮北であるが、小字でいえば的場になる。

保田の小字は西南に八王寺、南に南口、東南に西垣内、出口。

東は上蔵縄手、宮ノ辻、七反田がある。

北上すれば寺垣内、寺前、中筋垣内、下蔵縄手、三昧田。

街道の北側に西垣内、北垣内、北口、東口だ。

つまり保田は北に北口があり、南に南口。東は東口に囲まれた集落なのである。

保田の西には曽我川を挟む川保田地区がある。

その西隣、南北に細長い川中垣内があった。

おそらく曽我川はこの垣内を流れていたのではないかと思われる垣内名である。

曽我川が動いて蛇行した名残の垣内名ではないだろうか。

さて、修正会は寺行事であるが、御田植祭は神社の行事だ。

以前は2月14日に行われていたが、祭祀される人々の都合を考慮して14日に近い祝日の建国記念日の11日に移行された。

十数年前(平成5年)のことだという。

戦前までは宮座行事として行われていた御田植祭は40戸からなる地主層の宮座十人衆(中老、若衆の年齢階層もあり)とマツリトウヤ(頭人)が務めていた。

辻本好孝氏著の和州祭礼記では昭和12年には旧正月の14日だったと綴っている。

他所で行われていた数々の宮座の行事日史料から推測するには、保田も同じように正月行事の修正会と思われる牛王突きと御田植祭は別々に行われていたと思われるのである。

戦後の農地解放でトウニンジ(名称からトウヤの頭人が耕作する宮座の田と思われる)がなくなり、村行事に移行された。

そのときのトウヤは兄頭屋と弟頭屋だった。

当時のトウヤ(頭人)は二十歳過ぎの者が務めていたそうだ。

秋祭りに御分霊を遷し神社へ御渡(遷しましの頭人家で祀ると思われる)をするマツリのトウヤは成人式を迎える者が務めていたが、田植え行事は厄年の者に移された。

なお、平成21年に発刊した『奈良県祭り・行事調査報告書 奈良県の祭り・行事』によれば、富貴寺の行事は戦前の宮座系譜をひく富貴寺講(50戸程度)が、今なお並立して勤めているようだ。

田植え行事は42歳の厄年を迎えた男性が務める。

見習いの前厄と補佐役の後厄の人たちが援助して所作をする。

行事を行う前は大和郡山市の松尾寺へ出かけて厄除け祈願に行く。

また、行事の一環として龍田川で手足を清めることもあったが、現在は中断されている。

赤ん坊に見立てた小太鼓を産む妊婦の所作があることから子出来おんだと呼ばれている六縣神社の御田植祭。

奈良県内にはさまざまな御田植祭が行われているが、子孫繁栄を意味する安産所作は極めて珍しい。

他に類例がなく平成18年に県指定された無形民俗文化財である。

また、男性が女装して演じる御田植祭には宇陀市大宇陀の野依白山神社で行われる節句オンダや橿原市大谷町の畝火山口神社、明日香村の飛鳥坐神社の御田植祭にも見られる。

この点においても珍しいのである。

お田植えの所作は水見回り、牛使い、施肥、土こなげ、田植え、田螺拾い、弁当運び、種蒔きなど田植えにおける予祝の在り方を演戯する。

御田植祭に先立って厄年の人たちはお祓いを受ける。

拝殿に登る厄年男(本厄、前厄、後厄)たち、大字の三役、敬神講員(各垣内の年長者7名)。

結崎の糸井神社宮司により、祓えの儀、厄年祓い清めの祝詞奏上、玉串奉奠など神事が厳かに行われる。



その後、ソネッタンと呼ばれる大和の里の巫女を迎えて御湯が行われる。

古いお釜に紙片を投入されて始まった。

酒、塩、洗い米を入れて御幣で釜内を掻き混ぜる。

釜を清めたのであろう。

鈴と御幣を手にして四方を回る。

四神を保田の地に呼び起こすのだ。

そして、元の社に送り納めそうろうと祝詞を唱え、二本の笹を釜に入れて何度かシャバシャバする。



湯に浸けて祓い清めた笹で一人ずつ祓っていく。

いわゆる湯祓いである。

こうして祓いの儀式を終えた男たちは田植えの所作に転じる。

拝殿北に座った大字三役、講員の前方、西、南、東の端に子供たちが並ぶ。

かつては男児だけだったが、現在は女児も参加を認めている。

曽我川東側の集落保田の戸数は200戸(正確には180戸ぐらい)。

新興住宅を含んでいるかと思えばそうではなかった。

旧村だけでの戸数だという。

子供がとにかく多い保田。

「子出来おんだ」のおかげであるのかも知れない。

登壇する男の子が言った台詞。

「ここは神さんが通る道やから、開けとかなあかんのやで」と年少の子供に作法を教える姿に感動を覚える保田の子供。

健やかに育った信仰の証しはその台詞に込められている。

マナーが薄れてきた現代の大人たちは子供を見習わなければならないと思った祭典は進行役の呼び出しに沿って進められる。



クワを手にした二人の農夫は畦を直す。

拝殿の床をコツコツ叩くのは畦を塗り固める所作であろう。



次に登場したのは牛使いと牛だ。

牛役は牛面を付けるわけでなく、指を頭の上に突きだして牛の角を表現しているようだ。

牛使いは牛役の腰を掴んで後ろにつく。

足を揃えた両人は「よいしょ」の掛け声をかけて左右にぴょんぴょん飛ぶ。

マンガ(馬鍬)掻きの所作である。



施肥の所作を行う二人が次に登場した。

両端に椿の枝木を括りつけた青竹を首からぶら下げている。

青竹は二つ折りに曲げたものだ。

腰を屈めながら椿の葉を一枚ずつ千切っては床に置いていく。

肥料見立てた椿である。

床一面に肥え椿を広げた農夫は床にひれ伏した。



周りの子供たちは「ぼちぼちやでー」の声が掛かるのを待ちかねている。

「ぼちぼちやでー」・・まだまだ。

「それいけー」が発せられると同時に農夫に群がった子供たち。

持った椿の小枝は農夫にバシバシ。

子供が扮する風雨に負けじと耐える農夫。

力強く稲は風雨にさらされても倒れることなく、稲が成長していく姿を表現しているという。

嵐が過ぎ去ったあとは土こなげだ。

クワを手にした農夫が再び登場する。

こうした所作はそれぞれ拝殿をふた回りする。

その度に風雨に見舞われるのだ。

田植えの所作に重要な役割をもつ保田の子供たち。

こうした所作に加わることで、農耕の在り方を学習するのであろう。

ときには作法と関係なく暴れ出す子供もいる。



田植の所作を経て田螺拾いの所作に転じた。

農夫は一人だ。

籠(桶)に見立てた小太鼓を小脇に抱えて登場する。

田螺を拾っては太鼓をポンポンと打つ。

田螺に見立てた椿の葉を拾う。

「ようおんで」と云いながら拾っていく。

古来より田螺は食料だった。

農薬の影響などから急速に減少して田んぼから消えた田螺。

60歳以上の人は田螺を食べた記憶があると思うのだが・・・。

平成4年に農村漁村文化協会から発刊された昭和『聞き書 奈良の食事』によれば、斑鳩の里では茹でた田螺とネギを味噌和えにして食べたとある。

ドロイモと一緒に煮つけたのも美味しかったようだ。

泥田に住む田螺は水に浸けて泥を吐かせておく。

塩で揉んでぬめりをとる。

さっと湯がいて殻から身を取り出した田螺は醤油を入れて煮たそうだ。

盆地部だけでなく大和高原の山添村でも食べられていた田螺。

真っ赤なイチゴの房のようなジャンボタニシを目にすることが多々あっても、食べられる田螺は田んぼからすっかり消えた。



そして登場した妊婦。

手拭いで姉さん被りした妊婦は女装であるがゆえ化粧をしている。

白の装束に赤い腰巻姿だ。

神饌米を入れた半切り桶を右手で支えながら頭に載せている。

左手といえば小太鼓だ。

抱きかかえるような格好で白い装束内に持っている。

そうして敬神講の講長の前に座り問答が始まった。

現在は講長であるが、かつては宮座の神主だった。

「田んぼへ弁当を持っていってくれるか」と神主が述べると、妙に色っぽい声で「はい」と答える妊婦。

神主は夫役でもある。

「ぼちぼちいってくれるかと」伝えられて拝殿を一周する妊婦。

弁当運びの所作である。

再び対座して、「あんたに尋ねるが、ひがしんだい(東田)は」に答える「三ばいと二はいと、また五はい」。

続けて「にしんだ(西田)は」に「四はいと四はいと、また二はい」。

いずれも合計すれば十杯だ。

きたんだい(北田)は三ばいと三ばいと四はい。

みなみんだい(南田)は二はいと二はいと六はい。

すべてが十杯であった弁当運びである。

次に尋ねるは「台所まわり」だ。

かつては台所ではなく「たなもと(臺:ウテナ所)」の字を充てていた。

「水」に対して「水壺の中」。

「杓」に対して「水壺の上」。

「おしゃもじ(御杓子)」に対して「釜の蓋の上」とくる。

かつては箸筒と呼んでいたようだが、「箸」に対しては「箸籠の中」。

「茶碗」に「茶碗籠の中」。

「オセンソコ(ご飯のこと)」に「お櫃の中に」と答えるさなか、妊婦が訴えだした。



「キリキリとお腹が痛くなりました」。

産気づいて陣痛が始まったのだ。

「はあー はぁー はぁーーー」と云いつつ前かがみ。

突然、懐からこぼれ出した小太鼓。



すかさず、拾いあげた夫は「ボンできた ぼんできた めでたいな」と大喜びで太鼓を打ち囃子す。

出産の儀式を滞りなく終えた妊婦の所作。

田植えの祭典は、まさに豊作の孕みであったのだ。

植えた稲苗は秋になれば実が孕む。

それを子出来孕みにかけて豊作を予祝した妊婦の所作だったのだ。



最後に登場したのは半纏姿(かつては烏帽子を被る素袍着)の農夫。

片肌を脱いで半切り桶を肩に拝殿を回る。

その際には種蒔き唄を詠う。

「近江の国通ればー 雪森長者に 行き合うたらー 行き合うたるところなら このところに蒔こうよー」と抑揚をつけながら謡う。

「蒔こうよ」と謡うときに神饌米(籾)を大きく蒔き散らせば「よーんなか(世の中) よーけれども ふーくのたーね まこうよ」と囃す。

二番に「河内の国を通ればー せしなげ長者に 行き合うたらー 行き合うたるところなら このところに 蒔こうよー」。

三番が「宇陀の郡を通ればー 市森長者に・・・同文」。

四番は「大和の国を通ればー 橋中長者に・・・同文」を詠う。

そして、「大和四十八万石― 保田の明神蒔き納めー」を謡った種蒔き所作で御田植祭を締めくくられた。

(H24. 2.11 EOS40D撮影)
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結崎当家相撲の土俵作り

2011年11月06日 08時29分02秒 | 川西町へ
御遷座祭のこの日は当家相撲が行われる。

分霊を祀り神さんとなった当家への奉納相撲である。

土俵を作り終えて相撲を始めるのは10時ころだというMさん。

数年前に当家を勤めた人で今年は親族として支援される。

当家の奉納相撲は各垣内単位で行われている。

かつて垣内では家の「カド」で土俵を作っていた。

そこで取り組み相撲の奉納をしていた。

Mさんが小学生のころにはこうした母屋の「カド」あったが、狭くなりいつしか垣内の公民館でするようになった。

小学六年以下の子供たちが取り組む相撲。

対戦表を作って賞品がなくなるまで取り組んでいた相撲は何度も戦ったという。

辻垣内の土俵は既にできあがっている。

というよりも毎年のことだけに土台を崩すことなくそのままにしているという。

だが、土俵の藁俵は毎年作り替えている。

俵作りの名人とともに新当家が作られた藁は18メートルも編んだそうだ。

相撲取りの登り口は東側。

一本の俵がそこにある。

しっかりとした土俵は本物志向。

神聖な土俵は俵で決まると言っても過言ではないだろう。

旧当家の指示を受けて次当家や親戚筋の人たちが土俵を作っていく。

崩れた土を固めてホウキで掃き美しくする。

中央には砂が盛られた。

山のような形だ。

真ん中辺りに段を設ける。

そこには塩を盛った。

向きは北である。

そして奉書を神酒口のような形に整えて開けた一升瓶に挿し込んだ。

土俵はそれだけでなく四方に笹竹を立てる。

注連縄を張って紙垂れを取り付ける。

それだけではなく2本の笹竹には土俵を清める塩撒きの竹カゴを吊るす。

それは北側の2本である。



相撲取りが取り組む際にその塩を摘まんで土俵に撒くのだ。

完成した土俵作り。

そうこうしている時間になれば子どもたちが集まってくる。

(H23.10. 9 EOS40D撮影)
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結崎当家御遷座祭

2011年11月05日 06時46分48秒 | 川西町へ
春日大明神、事代主命、大国主命、住吉大神、稲荷大明神。

それぞれ五垣内(市場、中村、辻、井戸、出屋敷)の氏神さんを崇める川西町結崎の五組の当家。

二週間ほど前に当主の家でオカリヤ(お仮屋)を祀ったあと当主を先頭に稲霊「ミキイナイ(柳、神酒、稲束、カマス)」と御幣を持って、神々への感謝と人々を慰労するための奉弊神送り神事を行なっている。

おそらくミキイナイの名称は「神酒荷ない」が訛ったものだと考えられる。

宵宮の際に当家から出発するのだが、その際にはカマス(かつては白紙に包んだハモ)を口に銜(くわ)えてお渡りを終えるまでは一切口を開かないという。

そのお渡りの道中では辻ごとに「トォー トォー ワーイ」と発声する。

「トォー トォー」とトモが声をあげれば行列の人たちが「ワーイ」と大声の掛け声をあげるのだ。

それは行列が通過することを町に住む人たちに知らせているのだという。

その分霊を糸井神社の宮司から授かって、当家の家に持って帰って祀る祭礼を御遷座祭と呼んでいる。

かつては10月1日に行われていた。


御遷座祭は新当家の家から出発するのだが、同神社には早朝には着かなければならない。

それぞれの神社に向かう当家のお渡りは宵宮、本祭とも結崎の旧道を行列する。

分霊を賜って戻っていく旧道に砂を撒いていくのが御遷座祭のしきたりのようだ。

それは神さんが歩く道で、お祓い、つまり清めの道であろう。

その意味がある砂の道を撒きながら当家に向かう人たち。

旧当家と次当家があたる。

旧当家に付いていくというから次当家はミナライであるかもしれない。

辻垣内では当家、新当家、次当家はスーツ姿である。

そうして神社に着けば宮司から分霊を遷したヤカタを授かる。

粛々と持ち帰り、組み立てられた箱のようなもののオカリヤに納める。

それをヤカタと呼んでいる辻の垣内。

そのヤカタは前月の23日に組み立てられた。

かつて玄関脇にこしらえたオカリヤはマコモ(真薦)でヤカタ(館)を作っていた。

その薦は早めに採ってきて乾かしておいた。

9月下旬頃にそれで作ったという。

神さんは稲藁で作られたお宮さんであったようだ。

神さんが宿るにふさわしい稲穂であった仮の御殿だった。

現在は竹枠で囲って作ったオカリヤに替っている。

それは木枠になった。

流れ屋根のヤカタに注連縄を張り御簾(みす)を取り付け、その前に神饌を供える祭壇を設えた当家の玄関には御幣がある。

例えば止むを得ず葬式に出席し帰ってきたときに祓い清めるために使う幣。

いわゆる祓い串(幣)ではないだろうか。

その当家の大屋根にも御幣があるという。

根元を東側にして取り付ける。

当家の所在を示す御幣なのであろう。



当家は膳をその日に作って神さんを迎える。

今年は10月22日が宵宮で23日が本祭。

現在は第四土曜、日曜になっているが以前は22日、23日だった。

奇しくも今年は元の祭礼日と一致したのである。

宵宮の23時ころには神社でコメマキをする。

以前は24時を越えた真夜中の午前2時頃だったそうだ。

コメ、蒸し飯、塩、スシナ(塩サバ)、ナスビ、ザクロの御饗膳(ごきょうぜん)を供えるそうだ。

オカリヤを設えているのは玄関口。

そこには竹の箒(ほうき)とサラエが置かれている。

バケツの中にはそれほど多くない砂が入っている。

その砂が分霊遷しましを受けたときに先導する砂道として撒く。

そうこうしているうちに糸井神社に着いた。

市場、中村、辻、井戸、出屋敷の五垣内はそれぞれに距離があり、近いところからおよそ1kmも離れている垣内もある。

辻垣内の場合は神社から遠く離れている。

五垣内が集まる時間を見計らって早めに出発された。

およそ10分で辿りついた。

神社には既に数組の垣内の当家組が到着していた。

その糸井神社の鳥居傍にある大きな石造りの燈籠には「萬延元年申年十二月吉日建之 願大庄屋云々 組丁十五ケ村庄屋中」と刻まれている。

周囲を見れば「市場組 市場、中村、辻村、井戸村、吐田村、西唐院村、東唐院村、穴闇村、長楽村、屏風村、三川村、伴堂村、南伴堂村、今里村、なにがし」とある。

萬延元年といえば1860年。

幕末の大きな展開であった桜田門外の変が起きたときだ。

寺田屋事件を経て薩英の戦い、さらに池田屋事件に蛤御門の変。

数年後には大政奉還、王政復古の大号令・・・・そして明治維新となる激動の時代だ。

糸井神社に記された年号は百数十年。

現代に至るまで何を語り伝えてきたのであろうか。

話を戻そう。

五組の旧当家は白い手袋をはめた白マスク姿。

遷しましを受けた神さんを受け取る姿である。

拝殿に登れば中央に御遷座されたヤカタが五つ並べられている。

予め宮司によって遷しましをされた神さんは白い布が被せられている。

祓え、祝詞奏上を経て一番目の旧当家が前にでて神さんを受け取る。

この年の遷座受けの順は中村、井戸、市場、出屋敷、辻であった。

ドン、ドン、ドンと太鼓を打ち鳴らされて出発した。



当家に戻っていく行列はホウキ、サラエ、砂捲き、分霊を抱える旧当家の順だ。

前列の3人はトモ(供)と呼ばれる人たちで新当家とその親戚筋だそうだ。

ホウキやサラエで道を掃いてバケツに入った砂を撒いていく。

神さんが通る道を祓い清める作法である。

境内道から鳥居を潜って戻る道は旧道。

先ほど来た同じ道は口も開けることなく黙々と行列する。

砂は家に辿りつくまで少しずつ撒いていく。

後方には新当家の息子もついていく。

10分後には新当家に着いた。

早速、受け取った神さんのヤカタは御簾を上げてオカリヤ内に遷す。



家族、親戚筋皆がオカリヤに向かって拝礼をする。

神さんを遷したオカリヤは祭りまで毎晩電器ローソクを灯す。

お神酒、洗い米、魚、木の実などを供え稲の豊作を祈る。

こうして祭りの日までの毎日は分霊を崇める当人は神聖視され俗人の生活から離れてひたすら神さんに仕える神人の身となるのだ。

なお、現在は当家と表記されているが、資料によれば頭屋である。頭屋家の主人を頭人(トーニン)と呼んでいたようだ。

(H23.10. 9 EOS40D撮影)
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