マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

太田棚機神社のタナバタサン

2017年01月16日 09時31分02秒 | 葛城市へ
平成19年の7月7日に訪れたことがある葛城市太田。

当時はあまり知られていなくて参拝者は少なかった。

神事もなくタナバタさんに立てた笹飾りだけがあった。

そこに登場したのは地元で生まれ育った若者たちだった。

地元であげられる花火大会には眼中にもなく、七夕に捧げる短冊に願いを込めて書いていた。

その姿が美しくて思わずシャッターを押して撮らせてもらった写真は平成22年の7月7日に発行された産経新聞でシリーズ連載していた「やまと彩祭」で紹介した。

その後の平成23年も訪れた太田のタナバタサンは打って変わって賑やかになっていた。

葛城市のカワイ子ちゃんであるマスコットキャラクターの蓮花ちゃんに子供たちも大喜びしていた光景が、今後の展開になるであろう、と思っていた。

それから5年後のこの年。

平成28年も再訪したが、久しぶりの棚機神社鎮座地へ向かう進入路を見誤って南阪奈道路を走っていた。

トンネルを越えたら、そこは大阪の太子町。

時間は十分に間に合う。

Uターンはせずに大阪と香芝市を跨る「どんずるぼう(屯鶴峯)」の峠道を迂回して戻ってきた。

鎮座地下の畑は綺麗に整備されていた。



そこへ到着する軽トラ。

荷台に載せていたのは保育園児や幼稚園児に小学生の子供たちが短冊に願いを込めた七夕の飾り。

在所太田にある関係機関にお願いして子供たちが飾った七夕飾りのお下がりを頂戴してきた。



荷台から一人ずつ境内に運んでいく人たちは葛城市の職員。

境内には地域活性化の願いを込めて、村の有志が平成4年に立ち上げた棚機神社保存会の人たちが待っていた。

もちろんその保存会の人たちも運んでいく。

七夕飾りを立てる場所は予め決まっている。

細いパイプを埋め込んだ処に立てて向きを調製する。

そのころには参拝者が続々と登ってきた。

この日は平日の木曜日。

授業を終えた子どもたちを迎えてくれたのはマーライオンではなく、獅子頭である。

とは云ってもミニチュア版の獅子頭。

お賽銭を投入してくれたら頭だけであるが、獅子神楽を舞ってくれる。

棚機神社は境内奥にある本殿。



小さな石造りの祠にお供えやローソクも置いていた。

その前に立つ大木は大杉。

そこには保存会の人たちが飾った短冊がある。



「國常立神霊代 豊雲錦神霊代 足玉」とか「神産巣曰神霊代 八握劍」、「大□遅神霊代 六戸辡神霊代 蜂比禮」などに混じって「子供たちに良き母たち 嘆きつつ願いし 我が心なり」を詠んだ句文もある。

何人かの保存会の人たちのお顔を見渡したが、私が新聞記事を書いたときにお世話になった会長はおられない。

話しを聞くことはなかったが、高齢ゆえ引退されたと思うのである。

キョロキョロしていたとき、逆に私の名前を呼ぶ男性がおられた。

端正な顔立ちの男性はK区長だった。

区長とお会いしたのは平成26年10月7日

通りがかった山麓線。

稲刈りをしていた処にハザカケの竿があった。

刈っているのであれば竿に架けると思って停車した。

かくかくしかじか・・ということでハザカケ作業を撮らせてもらった区長であるが、あれから2年もお会いしていないのに私のことを覚えておられたのが嬉しい。

保存会が立ち上がるまでの神社は雑草に覆われた荒地のようだったらしい。

平成4年から始められた棚機神社のタナバタサン。

当初の2、3年は長尾神社の宮司を迎えて神事を行っていたと吉川雅章宮司がいう。

その後は関係者を中心とする村行事。

七夕飾りを立てていた。

平成13年になって村起こしを願ったイベント開催。

そのときはたいそうにぎわって新聞にも取り上げられた。

平成19年に訪れたときは神事もなく七夕飾りだけが立っていた。

それから4年後の平成23年に訪れたときは蓮花ちゃんもやってくる状況になっていた。

一旦は寂れかけていた太田のタナバタサンは市のバックアップもあって盛り上がりをみせるようになった。

翌年の平成24年には「棚機物語」と題して由来を書いた板書を掲げた。

それから2年後の平成26年にはやや朽ちかけていた木製の鳥居を新造し建て替えて、扁額の「棚機宮」も新しくなった。

それと同時に神事も復活されて宮司は再び出仕。

翌年の平成27年には氏子が造った獅子頭も登場するようになった。

そこまで盛り上がっていたとは知らずに訪れたタナバタサンに大勢の参拝者がやってくる。

子どもを連れた母親は神さんに向かって手を合わせる。



子どもたちは星が降ってくるかのように・・とでも思ったのか見上げる。

短冊に書いてあった一枚の願い事に「太田の子供が増えますように」があった。

たぶんに間違いなく太田は子だくさんになっていくことだろう。

神事に並ぶ保存会の人たち。



宮司拝礼、祝詞奏上、参拝者の祓、玉串奉奠など粛々と祭典される。

玉串奉奠には2年ぶりにお会いした区長やふんどし姿になった葛城市相撲館の「けはや座」館長のお相撲さんに地元でイベントを盛り上げるプロレス人も・・。

神事を終えたらタナバタサンの奉納芸能。

目玉は昨年に続いて2度目の登場になる獅子舞の奉納である。

獅子頭や着衣などは手造り。



所作、演技も独自に学んだ奉納獅子神楽は、玄人はだしの演技に益々目が離せなくなった。

(H28. 7. 7 EOS40D撮影)
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寺口置恩寺の薬師会式

2016年10月29日 07時54分30秒 | 葛城市へ
葛城市の大字寺口の行事は十二灯提灯を献灯する博西神社地区ごとに行われるダイジングサンの献灯などを取材してきた。

「寺口」をキーワードにネットを検索していたときだ。

お薬師さんの会式が行われている置恩寺を紹介する葛城市HPの観光にそれがあった。

本堂で當麻寺の僧侶らと村人による法会である。

機会があれば訪ねてみたいと思っていた。

退院後のリハビリ運動の経過状況を鑑みながら出かけるか、それとも否かを決断せざるを得ない日々の身体状況。

川上村大滝の下見では特に発症することもなかった。

これなら行ける、と踏んで行先は吉野町、下市町、御所市から葛城市。

着いた時間帯は12時半。

午後1時からとHPが伝えていた始まる時間より少し前だった。

なんとか間に合ってはみたものの僧侶や村人たちは寺務所で会食をされていた。

ご挨拶は会食を終えてからになった。

神社行事ではたいへんお世話になった区長や神社役員にこの日の取材をお願いすれば、本堂に上がっても構わないと云う。

村人や一般の参拝者も来られるような状況にまずは遠慮。

というよりも行事の全容を知るには一歩引いた方がよかろう、である。

村人が誘われたのかどうか知らないが、少人数のハイカーらしき人たちもいる。

本堂には白い幕が張ってあった。

「昭和60年4月吉日 観音講一同」とある。

高野山真言宗派の置恩寺のご本尊は薬師如来坐像である。

観音さんを信仰するのは村の観音講。

現在は11人が毎月の17日に集まってお勤めをしている。

朝早くに集まり御詠歌を唱えると話す。

御詠歌はおそらく西国三十三番の御詠歌であるだろうと思った。

観音講の件はいずれ取材したいものだが、この日の行事に話しを戻そう。

本来、薬師会式は25日であったと話す。

現在は村の人らが集まりやすい直前の日曜日。

同寺には檀家が存在しない。

法会は13院からなる當麻寺の塔頭(真言宗5院・浄土宗8院)の一つにある高野山真言宗中之坊の僧侶によって行われる。

会食を終えて装束を着替える間に場を設営される村の人。

古くから伝わる六百巻からなる大般若経を納めた経箱。

蓋を開ければ積み重ねた大般若経典が現われる。

経箱は12箱。

本尊の目の前に座る僧侶が唱える箱は四箱。

左右の内陣にはそれぞれ4箱ずつ。

村の人がそこに座るから合計で12人。

六百巻をそれぞれ一人ずつ担うわけではなく一人50巻ずつ分担するのだ。

ご本尊のお供えに立てた採れたてタケノコが目立つ。

太めで大きなタケノコは緑色も突出する。

少し育ち過ぎたと云われるが、いただくには十分な値打ちもの。

果物のお供えもあるが、洗い米、カンピョウで括ったコーヤドーフ、エノキ・シイタケの生御膳に調理御膳の煮物のカボチャもあれば盛り塩もある。

お花を立ててローソクに火を点ける。

導師が中央に座ってご真言。

5人の僧侶が揃ってあげられる声明のが本堂に響き渡る。

ときにはジャン、ジャーン。大きな椀型のリンの音も響き渡る。



そして始まったはらみたきょう・・・ とう(唐)のげんじょうさんぞう(玄奘三蔵)ぶじょやーく だーいはんにゃはらみたきょう・・・」と大きな声で読誦(どくじゅ)しながら手にした大般若経を取り上げて上方にあげながら広げて、下方に流す。

経典の流し詠みのようなさまは転読。

60億40万字の経典を短時間で誦(ずうず)する。

それはあたかも経典一巻のすべてを詠んだことになる。



パラパラというかバラバラーというような感じで経典が下方に流れていく。

まるで開いたアコーデオンを閉じていくさまのように見える。

一巻を詠み終えるたびに経典を机(箱)に打ち当てる。

バーン、バシーと勢いのある打ち方である。

大きな声と叩く音。堂内にそれが響き渡り、その度に背筋は引き締まってシャンとする。



その動きを始めて見たかのように見入る子どもの姿もあれば、物珍しそうに拝観する人もいる。

導師が手にした大般若経の一巻に「大般若波羅蜜多経巻第五百七十八 大唐三蔵法師玄奘奉 ・・・」の文字が読めた。

また、第一百一十の巻には「新庄東町 施主 悦□善兵衛」や「新庄東横町施主 □□□□」の文字もある。

六百巻の大般若経典を寄進した施主名であるが、年代墨書はどこにあったのか、カメライアイでは見つからなかった。

ありがたい大般若経の転読法要をもって営まれる薬師会式の締めは般若心経である。

これもまた、重厚な声明。

ありがたく手を合わせる。

ご真言を唱えた僧侶たちは頑丈に建てた観音堂(収蔵庫)に移る。

お堂は狭いから僧侶しか入ることはできない。

村役も村人たちもお堂の外で佇みながら拝聴する。



この日は特別のご開帳。

檜一木造りの十一面観音立像に向かってお経(観音経かも)を唱えられる。

法会が終われば村人楽しみのモチマキだ。

本堂や観音堂からモチを撒く役員さんの前に立って待ち構える。



境内は溢れんばかりの盛況。

いつの間にこれほどの人たちが集まってきたのだろうか老若男女。

だれもかれもナイロン袋を手にしてモチを拾う。

観音堂を見れば先ほどまで大般若経を転読していた中之坊の僧侶たちだ。



笑顔に応えて前日に搗いた4斗(150kg)のモチを笑顔で撒く。

モチを手に入れて解散。

村人からの直接的な話しを伺える余裕もなかった寺口の薬師会式。

葛城市のHPによれば、会式が終われば初夏。

農作業は本格的になり忙しくなる、とか。

また、古くから土地の人たちは“山登り”と云って、裏山の薬師山の三宝池まで登った。

遠方から帰郷した親戚らとともにその場でご馳走を食べた。

歌も唄った“山登り”の様相はまるでレンゾのようだ。

田の作業が始まる前に一息つけて山を登る。

當麻の山口辺りでは“岳のぼり”。

當麻のお練りの日は付近の村でも“レンゾ”。

いわゆる當麻のレンゾである光景はどこの村でも同じようであった寺口の“山登り”は昭和40年代のころまで。

今では家ごとに屋内でよばれると書いてあった。

(H28. 4.24 EOS40D撮影)
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山田三神社の初午祭

2016年09月29日 09時32分13秒 | 葛城市へ
初午、或はニノ午の日に奈良県の稲荷社行事にハタアメ(旗飴)を供える地域が存在することが判ってきた。

すべての稲荷社ではなく、特定の地域のようである。

これまでに拝見した地域は桜井市箸中・稲荷神社、同市三輪・成願稲荷神社のニ社。

かつてはあったとされる地域に高取町丹生谷・赤穂大明神がある。

箸中は新暦2月の初午の日、三輪や丹生谷は新暦3月のニノ午の日に行われている。

他所にもあるのではと思ってネットを駆使して探してみた。

一つは広陵町中に鎮座する小北(こぎた)稲荷神社で、もう一つは葛城市山田に鎮座する三神社が見つかった。

小北(こぎた)稲荷神社に出仕されている三郷町の坂本巫女の話しによればニノ初午の日だった。

この年は主治医より車の運転をしてはならないと厳命されていたので訪れることはできなかった。

もう一社の三神社に出仕・奉職される宮司は大字笛吹の持田宮司。

当地では村の都合もあってニノ午の日ではなく、だいたいが第二日曜のようだ。

五日前の診断で主治医から許可された。

近距離でという条件付きだ。

持田宮司に連絡をとって出かけた大字山田。

地図でだいたいの在所は判るが、村の人が集まる三神社の位置はどこであるのか。

近い付近に来たものの行先が判らない。

庭におられた男性に場所を尋ねたら、ここより山の方へ行ったところだと云う。

その場はすぐにわかった。

三神社境内には村の人たちが集まって何やら仕掛をしていた。

木材を組み立てている男性たちが云うにはこの日の初午祭の供えられたモチを撒く場の櫓である。

何年か前に村にいた大工さんが作ってくれたという。

紅白の御供餅は当番の人が搗いた。

杵ではなく器械で搗いたというモチゴメの量は六斗。

三升で一臼搗いたというから相当数の量になる。

三神社の名がある通り、三神柱を祀っている。

祭神は伊邪那岐命、大山咋命、豊受姫命の三神であると、調べられた神社役員が平成22年に書き残されている。

葛城市のHPによれば、江戸時代は日吉大権現、明治三年には熊野祠、明治十二年に現社名の三神社になったそうだ。

大字山田は明治十三年の行政区域は忍海郡の山田村であった。

現在の葛城市内の一部に属しているのは山田村以外に忍海村、新町村(南花内村一部が独立)、南花内村、薑村、林堂村、西辻村、平岡村(平岡村の一部が独立して寺口村に)、山口村、笛吹村、脇田村、梅室村である。

一方、現在の御所市内に属している一部の地域は東辻村、北十三村、柳原村(今城村・新村・出屋敷村の合併)である。

山田の三神社に出仕される持田宮司は大字笛吹に鎮座する葛木坐火雷神社は周辺大字14ケ村の総鎮守社。

夏祭りや秋祭りに十二振提灯を献灯する氏子圏は多い。

大字山田もその一つ。

大字笛吹の他、南花内、新町、林堂、南新町、薑(はじかみ)、山口、西辻、脇田、平岡、忍海、梅室、東辻がある。

大字山田の戸数は昔も今もほとんど変わらずの17戸。

荒れた土地であったゆえ、酪農を主に生業とする地域は今でも4軒が乳牛を飼って生産する酪農家があるという。

ゴクマキ櫓を組み立てて宮司を待つ村人たち。

三神を祀る社殿の他、不動明王や灯籠などにはやや大きめの紅白餅を供えていた。

ありとあらゆる箇所だけにその数は多く、19ケ所にもなるそうだ。

三神社社殿はその一つ。

三神社社殿に同等ぐらいの社殿にも紅白餅を供えている。

正一位白髭大明神の名がある社殿だ。

白髭大明神は稲荷社。

他にも白主大神、白光大神などの名がある石神もある。

それぞれの稲荷社は信者さんたちが建てたようだと村の人がいう。

鳥居付近に建つ碑文塔がある。

供養塔と思われるそれには「西川タツ刀自之碑 大正十五年三月建之」とある。

村人曰く、当地に住んでいた碑文の女性に信仰を寄せていた講中が建てたという。

碑文建之の金額多寡は判らないが村費用も入っていたそうだ。

女性は拝みさん。

拝んでもらったら願いが叶ったといって、多くの信者さんが集まって仕えるようになり、講として徐々に膨れ上がったようである。

行をしていたと伝わる行場はおそらく不動明王の石仏を祀る滝であったと思われる。

現在の神社下は駐車場になっているが、かつては水田だった。

土地を宮さんに寄付されて土地利用を転じたそうだ。

前述した白髭大明神などの稲荷社は総本宮とされる京都伏見の伏見稲荷大社から寄せたらしい。

ちなみに白髭大明神拝殿に大太鼓がある。



大太鼓の台や太鼓を吊るす側面もあるが、肝心かなめの太鼓がない。

いつ盗られたのか判らないが、空洞である。

その台には四人の施主名が朱書きされていた。



山田の隣村にある新庄(吉川平蔵・川井リ□)が二人。

道穂(正本峯郎)と平岡(岡本国松)はそれぞれ一人ずつの計四人だ。

表面には「白髭大明神 代師 忍坂 こま 中井伊七」の名が記されていた。

「忍海」ではなく「忍坂」である。

「忍坂」は現桜井市の忍阪に違いない。

大太鼓がいつ寄進されたのか年代を示すものはなかったが、それほど古くはないだろう。

それにしても大字山田にあった大太鼓によって周辺近隣の平岡や新庄に道穂(みつぼ)。

しかも、稲荷信仰の師と考えられる人物は桜井市の忍阪。

周辺に住む信仰者によって支えられていたのであろうか。

この日は初午祭。

場は信者たちによって建てられたと思われる建物内で行われる。

何年か前までは信者さんがおられた。

その人を中心に村の人たちが行事の場に集まって般若心経を唱えていたという。

場の一角にある社殿は三つ。

中央にも左右の社殿にもお供えがある。

中央に供えたハタアメ(旗飴)。



これを探していた。

信者さんが生きていたころは、大勢の村の子供がいた時代。

お下がりのハタアメを貰いに来る子どもでいっぱいになったと話す。

ハタアメはそれぞれ色柄が異なる五色の幟旗。

5本揃って1組になる。

お店から購入したハタアメは50本というから10組である。

最近は貰いに来る子どももみなくなった。

そういうことで、昨年までは100本を供えていたが、この年は50本にしたそうだ。

村の厄年の人が供えるハタアメであるが、対象者がなければ村の費用から捻出するようだ。

ハタアメは村人が作ったものではない。

販売しているお店から購入する。

この年は御所市東辻の「あたりや」。

お菓子などを売っているそうだが、調べてみれば総合食品センターというから地域のスーパーのように思える。

この店になければ他店になる。

高田高校のすぐ近くにある大和高田市大中南東の森食品。

ここも地域のスーパーのようで販売店。

ハタアメを製造している店ではなさそうだ。



右の社殿の謂れは伝わらないが、左は「レイジンサン」の名がある。

充てる漢字は判らないという村人たち。

もしかとすればだが「レイジンサン」は「霊人さん」かもしれない。

その社殿だけはご飯を供えるようにと講中から伝えられている。

その場にはパンも供えているし、稲荷寿司に巻き寿司もある。

ご飯であれば何でも構わないそうだが、かつてはアブラゲとともに炊いたアブラゲゴハンだった。

ニンジン、シイタケなども入れて醤油、味醂で味付けしたアブラゲゴハンはイロゴハンとも呼んでいた。

当地のほとんどが稲荷社、しかも信者が亡くなって講組織が消滅した今も村人が継承している初午の供え方である。

信者さんがおられた時代はお供えを置く場所も決まっていたが、誰もいなくなった今ではどれが正解なのか誰も判断ができずに、だいたいがこういう感じだったと云って供えている神饌は生鯛、紅白二段餅、洗米、シイタケ・スルメ・コーヤドーフなどの乾物、野菜に果物だ。

建物はこうしてみると三つの社殿が並んでいる位置は拝み殿のようだ。

社殿前の導師が座る場もないぐらいに御供を置いている。

はみ出た御供で拝み殿は半分ほどだ。

信者さんがおられたころの、この場では毎月の1日と15日に拝んでいたそうだ。

その社殿の鴨居に般若心経の書を掲げてあった。



書体や配置、台紙の色合いを見て思いだした。

大和郡山市石川町の観音堂で拝見した般若心経の卓台とそっくり同じなのだ。

山田の台紙は額に入れられているものの若干ことなる。

左端に「祈願交通家内安全白髭講信者一同 昭和五十三年歳次戊午秋日 歳雄謹書」が書かれてある。

講中の名称は「白髭講」だったのだ。

この日、拝み殿に集まったのは女性がほとんど。

男性は僅かの数人。

奥の離れにも座っているが写角に入らない人数だ。

ハタアメの話題に一人の女性が話してくれた出里の思い出話。

御所市の玉手の体験である。

「お稲荷さんを祀っている家を廻ってハタアメを貰っていた」というのである。

何軒あったのか、どこから入手したのか覚えていない子どもの頃の記憶。

機会があれば地域を巡ってみたいものだ。

村には無住の浄土宗法城寺がある。

どちらかと云えば村の会所として利用しているのは同寺になるそうだ。

時間ともなれば持田宮司が到着された。

すでに供えてあった御供の並びに手をつけることはない。

村人が継いだ信者さんの並べ方を踏襲するということである。

宮司の務めは行事もそうだが村人への祓い清めが主である。



修祓、宮司一拝、祝詞奏上、代表区長の玉串奉奠を終えて拝み殿を降りる。

これより壇上にあがるのは村人である。

導師が一人、太鼓打ちも一人。



大正十三年生まれの老婦人が後ろに就く。

祭壇に立てたローソクに火を灯す。

稲荷社と思われる祭壇の神さんに向かって般若心経を三巻唱える。

座敷いっぱいに広がった村人たちの手には拍子木。



カチ、カチ、カチと叩く音が大きいのか、太鼓を打つ音や導師が唱える声は打ち消されていた。

最後に「はらえたまえ きよめたまえー かんこん しんそん にかんたん(そう聞こえたが・・・)」を唱えて祭典を終えた。

これより始まるのは村人楽しみのゴクマキ(御供撒き)。



この年は友人関係にある外国の人も参加していた。

どう思われたのか、感想を聞きたかったが、言葉は通用しないと思って遠慮した。

ゴクマキの場の後方は鳥居がある。

その向こうは参道だ。

染めた赤旗の文字は黒抜きの「正一位白髭大明神」。

今でこそ僅か数本になったが、かつては集落内どころか山麓線を越えて東に下った境界地あたりまで、ずらりと旗が連なっていたそうだ。

ちなみにいただいた一本の旗飴は帰宅して家で食べた。

想像していた味はキャンデイに近いのでは、と思っていたが、そうでなく和菓子屋さんの味。

ザラメなのかどうか判らないが、どこか懐かしい味がする。

なお、持田宮司の話しによれば隣村の大字山口にもハタアメ御供があるという。

当地には稲荷社がある。

行事は2月の初午だ。

同じく兼務社の梅室も初午にハタアメ御供があったが、宮さん行事が負担になった長老たちはやむなく中断したらしい。

(H28. 3.13 EOS40D撮影)
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當麻天神講の注連縄

2016年05月04日 08時58分29秒 | 葛城市へ
8年前の平成19年7月25日に取材した天神講の當家宅では今でも玄関口上に注連縄を飾っている。

當麻寺界隈の町並みの家で見かける注連縄だ。

天神講の歴史は古く、元禄時代から400年間に亘って継承してきた。

当初は60人から始められたので「六十人講」とも呼んでいた天神講。

今では40軒で行われている。

天神講は御酒と御膳の二組の當家がありいずれも注連縄を飾る。

40軒の廻りだから20年後に再び當家の廻りがあるまで飾っている。

この日、ばったり出会った當家さんは季節限定の姫餅を製造・販売されている。

ヨモギモチの姫餅や天神講取材のおりに伺ったおばあさんは95歳になった。

今でも元気にしていると話していた。

(H27. 6.21 EOS40D撮影)
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葛城市相撲館「けはや座」のけはや相撲甚句

2016年05月03日 09時08分21秒 | 葛城市へ
當麻蹴速ゆかりの地で普及活動を行っている「けはや相撲甚句会」。

平成17年2月、奈良県初の相撲甚句会として産声をあげた。

活動場所は葛城市相撲館「けはや座」だ。

毎月の第一日曜日(事情によって変更する場合もある)は土俵を舞台に公開練習をされている。

全国大会や地区大会のほか各種団体から声をかけられて一年に50回も巡業しているという。

幕開けは寄せ太鼓。



タン、タン、テン、トン・・・・。

独特のテンポに心が躍る。

この日の公開練習は朝稽古を終えた田子の浦部屋の幕下力士も登場した。

幕下力士は力士養成員。

入門した新弟子は公益財団法人の相撲教習所で半年間学ぶ。

実技のほか、相撲の歴史や一般常識、書道などの教養も学ぶ。そのなかには相撲甚句もあるという。

歌詞は覚えていないという養成力士に横に立つ援助を受けて披露する相撲甚句。



独特の節回しに声を合わせて養成力士が歌ってくれた曲は「花づくし」に「当地興行」だった。

ハァーァ  ドスコーイ ドスコイ。



相撲甚句の公開練習には相撲甚句ばかりでなく、相撲界の裏話なども採りいれて解説される。

この日のネタ話しはいろいろあったがメモは忘れた。

一つだけ記憶に残るパンツ話し。



左側のいちばん大きなパンツは小錦関の大きさ。

右端の赤パンツは甚句会会長が履いていたパンツ。

中央は誰が履いていたのかメモ忘れだが、よーく見れば「らくご笑売」のサイン入りパンツ。

どこかで見たような顔書きサイン。

似顔絵から判断すれば桂文福さんのようだ。

この3物を「パンツ三兄弟」と紹介していた会長。

ここで笑いをとる。

(H27. 6.21 EOS40D撮影)
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葛城市相撲館「けはや座」田子の浦部屋合宿朝稽古

2016年05月03日 08時49分59秒 | 葛城市へ
田子の浦部屋が相撲の稽古をすると「けはや相撲甚句会」の吉村元延会長が伝えてくれた。

場は葛城市當麻にある市施設の葛城市相撲館「けはや座」だ。



大関の稀勢の里、前頭の高安、十両の若の里が所属する田子の浦部屋の力士が「けはや座」の土俵で稽古をつける。

生の力士を見たさに訪れた観客でタマリ席・マス席は満席。

2階の椅子席も同じようだ。

会長ともども特別にプレス扱いをしてくださった施設運営責任者の西川好彦さんのご配慮をいただいて、力士の迫力ある稽古風景を撮らせてもらった。



関取は番付の横綱、大関、関脇、小結、前頭、十両。

月給が支払われる。



以下は幕下の力士養成員。

稽古用の木綿廻しは黒色。

一方の関取は木綿白廻しで違いが判る。

体格も違う。



そんなことを感じながら撮らせてもらった稽古姿。

私がテレビで観戦していた時代は栃錦、若の花、柏戸、大鵬時代。

なぜか栃錦に関心が移らず、なかでも柏戸がいちばん好きだった。



1960年代(昭和35年~)だったから10歳から15歳ぐらいのころだ。

1959年に創刊された週刊少年マガジン誌の表紙を飾った力士の顔は覚えている。

朝潮である。

一方の週刊少年サンデーは長嶋茂雄だった。

その後のスポーツといえば野球に興味が移っていた。



稽古を終えてロビーは観客で溢れていた。

その場を通った高安関。

ほのかに香った甘い匂いは敏感に鼻が反応した。

調べてみれば国技館で売っている純植物性の「オーミすき油」。

多少のことでは落ちないので一般の人が髪につけるのはお勧めしないとある。

鬢付け油の香りも初体験だった。



掲示写真は大関の稀勢の里、前頭の高安、十両の若の里。

化粧廻しが美しい。

相撲グッズを買う人もあれば力士にサインを求める観客が去った市相撲館「けはや座」。



館外に真新しい心柱のような木材を立ててあったがほとんどの人は気にもとめない。

下を見ればキリヌサが散らばっていた。



祓い清めの神事があったに違いない。

施設運営責任者の西川好彦さんの話しによれば前日に「鉄砲柱」の入魂式が行われたという。

材はヒノキ。やや楕円形の鉄砲柱の最大直径は45cm。

手を広げてやや上向きに胸などを突き飛ばす突っ張りの鍛錬に使う柱は北野木材(大阪府和泉市)が寄進された。

この日の稽古に特別参加された子供たちは入魂式の際の記念に入魂の「押す」をしたそうだ。

上は中学3年生から下は3歳児の「けはや道場」の子供たち。

葛城市、桜井市、天理市在住の子供相撲道場の力士は幼い子であって礼儀正しく力士と対戦していた。

相撲発祥の地に生まれた父親に話しを伺う。

父親は相撲取りをしたことはない。

サッカーや野球よりも相撲をやりたいと申し出た子供の夢を叶えたかった。

生まれた葛城市のお役に立ちたいと考えて「けはや道場」を立ち上げたそうだ。

市相撲館「けはや座」を訪れた本来の目的は稽古の廻しを干す姿であった。

「干す」をテーマに廻しを干している状態を見たくなって相撲甚句の会長にお願いしていた。

会長や西川好彦さんは館外駐車場にブルーシートを広げてそこで干していたという。

その様相は昨年の状況である。

この日は朝から雷も発生した天候不順。

稽古を終えた1時間後。

俄かに曇って降りだした雨。

干すこともなかったようだ。



稽古で土俵の砂を被った関取を水道水で流すのは付き人でもある幕下力士だ。

時間帯は午後4時過ぎ。

その後に行われたけはや相撲甚句も撮らせてもらって帰ろうとしたときである。

館外の床に直置きしていた黒・白の稽古廻しがあった。

いつのまにか干していたのだ。



雲斎木綿または帆布と呼ばれる廻しは硬い木綿布。

糊で固めているそうだ。

長さはどう見ても差があると思って手尺で測ってみた。

黒廻しの長さはおよそ360cm。

白廻しはざっと勘定して780cm。

おおよそ2倍にもなる長さだ。

力士の廻しは洗うことはない。

水入りを避けるという験担ぎもあるが、洗えば生地が弱って柔らかくなるからだ。

硬さが抜けた廻しは対戦力士に廻しを掴まれやすくなって不利になるということらしい。

市當麻の市相撲館「けはや座」で、大関・稀勢の里が所属する田子ノ浦部屋が合葛城宿し、朝稽古が一般公開されている。

葛城市によると、昔、當麻の村にいた當麻蹶速(たいまのけはや)が、出雲の国の野見宿禰(のみのすくね)と力比べをしたことが相撲の起源になったといい、同市は「相撲発祥の地」としている。

市相撲館は平成2年5月に開館。

館内には本場所と同じ大きさの土俵があるが、相撲部屋が合宿するのは初めて、という。

(H27. 6.21 EOS40D撮影)
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寺口本郷のダイジングサン

2016年04月29日 08時42分57秒 | 葛城市へ
葛城寺口の博西神社に十二振提灯を献燈する行事がある。

夏祭り秋祭りの2回であるが、大字ごとに行われる献燈もある。

大字二塚は7月16日であるが、本郷は6月16日。

他にも10月16日だという大字もある。

この夜は本郷。

大字は問屋組、北側に寶前組の3地区からなる。

太神宮の石塔は問屋組にある。

時間ともなれば各大字はそれぞれの十二振提灯を運んでくる。

この映像は北側地区。

当番の人らは太神宮の手前で降ろしてローソクに火を点けていた。

十数分後には集落を抜けてやってきた寶前組。



出発時に火を点けていたという十二振提灯を担いで運んできた。

心配していた雨も降らず、うっすらと焼けた葛城の山並み。

奥にある高い山は標高659mの岩橋山だと思う。

ダイジングサンの御供は当番組の問屋組の人たちが予め供えていた。



口開けをしたお神酒に米や塩。

御供はコーヤドーフにシイタケ、コンブなどなど。

住民がいうにはかつてお伊勢参りをしてお伊勢さんでケンサキのお札を授かって地元に戻ったそうだ。

その名残かどうか判らないが御供にケンサキスルメがあった。

かつては大勢の子供たちがいた。

ダイジングサンの場に大阪浪速区・太鼓正製の太鼓がある。



製造プレートで判るが胴の様相からみれば相当古いように思えた。

おそらく張り替えたのであろう。

ダイジングサンの道具はもう一つ。

伏し鉦もある。

裏を拝見したが刻印は見られない。

太鼓と鉦を打つのは子供の役目だった。

いつしか子供の姿は見えなくなった。

当番の人は打つこともないが、昨年に拝見した二塚では当番の人が打っていた。

二塚で聞いた太鼓と鉦。ダイジングサン以外の行事に使うことはないと話していた。

ここ本郷でも同じだった。



十二振提灯は太神宮の石塔下の指定場所に立てる。

大字の人たちは揃って参ることなくめいめいが自由に手を合わせる。



太神宮は石垣を組んだ高台にある。

後方に建つ民家は建て直したもようだ。

お参りされたことを確認した当番組の人は直ちにお神酒を下げる。



小袋に詰められた酒の肴を配ってお神酒をいただく。

しばらくはこの場で過ごす。



これもまた直会の在り方である。

男性は男性で、女性は女性で集まって歓談していた時間帯はとっぷりと日が暮れて提灯の灯りが増した。



氏神さんの博西神社のときも同じようだった。

直会時間はおよそ40分。

「そろそろ引き揚げましょか」と伝えた当番さんの指示で提灯を倒して火を消す。



解散されたら辺りは真っ暗。

「今年の夏祭りも来てくれんやろ」と云われたが、さてどうするか・・・。

(H27. 6.16 EOS40D撮影)
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寺口・里山の民俗景観

2016年01月26日 10時04分49秒 | 葛城市へ
所用で訪れた葛城市寺口の棚田。

ところどころに菜の花が広がっていた。

なにげない田園風景をじっと立っていた。

奥まったところに桜が咲いていた。



近寄ることができなかったが、たぶんソメイヨシノ。

ぐっと近づく望遠レンズ越しに拝見する。



のり面がきれいな状態の畦塗りがあった。

最近流行りの機械を使ったのであろうと思われる葛城市寺口の棚田。



雨水だろうか、溜まった水に散った桜が浮いていた。

その場を降りていけば農小屋があった。

農作業に必要な農具を入れている。



里山が美しい風景に農小屋があれば営みを感じる。

生活感があれば、そこに民俗の存在がある。

民俗がある景観は何十年も経てば変わっていくに違いない。

そう思って農小屋が建っていた場から景観を入れてシャッターを押す。

(H27. 4.11 EOS40D撮影)
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當麻加守倭文神社御田祭

2016年01月25日 11時35分59秒 | 葛城市へ
大字加守は北・西・東の上地区。

下上・下中・下東の下地区に分かれる6垣内。

灯籠や幕に「郷中」とある。

葛城市當麻加守に鎮座する倭文神社の氏子圏は広く、加守の他、畑、磯壁、狐井、良福堂、北角、別所、瓦口の九カ村からなる郷村だ。

6年ぶりに訪れた倭文神社の春行事。

この日は御田祭が行われる。

本来は15日であるが、最近は近い土曜になっている。

かつて明治維新までは3月15日だったが、やがて新暦の4月15日に移った。

拝殿に松苗やモチを供えて祈年祭が行われる。

御田祭の所作に用いられる2面の牛面にスキ、クワ、カラスキ、マンガの四つの農耕具も奉る。

始まりの合図に太鼓が打たれる。

牛役の子供4人も拝殿に上がって神事が始まった。

修祓、献饌、祝詞奏上・・などの神事ごと。



いずれは牛役になると思われる子供が神妙な面持ちで見ていた。

神事を終えたら境内に降りて四方忌竹で囲まれた斎場でオンダの所作が行われる。

斉場の田は3年ほど前から狭くした。



はじめに田男が木鋤で畦切りをする。

足元を見れば素足。

県内で行われるオンダは運動靴ばかり。

見られない姿に感動する。



次に登場する田男は木鍬で畦造り。

畦塗りの所作は見られないがそれぞれ2周する。

この年は勢いがついたのか、おまけのサービスに1周追加して3周廻った。

年長の子供二人が牛役になって登場する。

はじめにカラスキで田起こし。



牛を曳くのは田主だ。

田男と衣装が異なる。



次はマンガに替えて田を耕す。



その様子を見ている子供たち。

いずれは牛役を務めるのであろう。

この年は60人もの参拝者が斉場を遠目にぐるりと囲む。

奉った松苗がある。

田男は並んで田に見立てた斎場に植えていく。



ひと通り植えたら子供に代わる。

次世代の牛役を担おうとする子供が田植えの真似事をする。



親に連れられた幼子も田植えをする。

微笑ましい姿をビデオで撮る親。



我が子の成長記録はうまく撮れたと思う。

産婆役も兼ねる田主がお腹をさすったら産気づく牝牛。



生まれたての仔牛が飛び出す。

予想に覆して反対側から誕生した。



よたよたすることもなき勢いよく走り出した仔牛。

併走する親牛や仔牛を演じるのは小学5、6年生。



子孫繁栄は村の繁栄。

仔孕みは実りの稲を連想させる。

牛を務める子供たちはとても元気だ。



斉場を外して駆け回る。

6年前に比べたらいいじゃないと伝えたら、「そんなもんどころか昔はもっと勢いがあった」という。

かつては灯籠があるところまで走っていた。

ときには斉場の田を離れて灯籠を倒すような勢いであった暴れん坊牛。

今年の牛役もモォーと声をあげたがもっと大きな声であったと蟹守敬之宮司が子供のころの状況を話してくれた。

まだまだのようだ。

祭りの最後を締めくくる御供撒き。



境内に飛び交うモチを手に入れる村の人でにぎわった。

(H27. 4.11 EOS40D撮影)
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第1回宿禰・蹴速相撲甚句交流戦in葛城市相撲館[けはや座]

2015年11月10日 07時47分18秒 | 葛城市へ
昨年秋に県立民俗博物館で出合った「けはや相撲甚句会」の会長。

「私がとらえた大和の民俗」写真展で会話が盛り上がった。

初の交流戦が行われると新聞記事に出ていた。

アポなしで突然訪問した交流戦の場は葛城市當麻の相撲館「けはや座」。

師範代でもある相撲甚句会長さんを呼びだしてもらった。

久しぶりにお会いして握手攻め。

握る手が温かい。

最近流行りの「あったかいんだから~♪」唄が頭に浮かんだ。

交流戦の幕開けは寄せ太鼓。



タン、タン、テン、トン・・・・の独特なテンポに心が躍る。



初の交流戦に出演した団体は當麻の蹴速ゆかりの地で普及活動を行っている葛城市の「けはや相撲甚句会」と野見宿禰ゆかりの相撲神社や塚がある桜井市を拠点に活動する「大和すくね相撲甚句会」だ。



土俵を舞台に「前唄」・「後唄」の「まくら唄」に続いて「本唄」、「囃子唄」など。

持ち唄甚句を交互に披露する。



名所旧跡や土地の名物・・・それぞれの地域を詠んだ名所甚句もある。

ふるさとの景観をバックに挿入曲のBGMがあれば、もっと雰囲気が情緒的になって・・・なんてことを思ったのは私だけだろうか。

「葛城古道」や「奈良名物」、「古都奈良名所」の唄に心が躍る。



相撲甚句に動きがあるのは「ハァー ドスコーイ ドスコイ」と合いの手をするときだけだ。

所作は「手拍子」と「握りこぶし」の形があるようだ。

諸説あるが、安永(1772)から享保年間(1716)ころに始まったとされる相撲甚句。

盆踊りと同様に民俗のひとつの形態としてとらえてもいいのではないだろうかと思って拝見していた。



奈良市の「平城山相撲甚句会」や岡山県の「岡山相撲甚句会」もゲスト出演された交流戦には飛び入りの一般観客も指導してくださる。



会員一同が土俵にあがって披露した「当地興行」。



〆は三本締め。

テケテン、テケテンと打つ「やぐら太鼓」で第1回目の幕を閉じた。

なお、毎月第一日曜日の午後は相撲館「けはや座」で公開練習されている。

初めての人でも判りやすく解説をされているので、一度拝見されてはいかが・・・。<入館料300円要>

(H27. 2. 1 EOS40D撮影)
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