マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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宮堂町如来さん御回在

2009年11月30日 08時38分21秒 | 大和郡山市へ
大阪平野の本山大念仏寺をでて奈良県の各地を巡る大和御回在は9月から始まって12月半ばに終える。

毎年11月5日は大和郡山市の宮堂町を巡っている。

早朝から集まってきた檀家の世話方は観音寺住職とともに指定場所で平野の本山一行を迎える。

マイクロバスでやってきた御回在の一行は紫衣の唱導師(しょうどうし)、黄衣の目代(もくだい)、収納(しゅうのう)にお勤めをする黒衣僧中(そうじゅう)の4名。

僧以外に如来さんを担ぐ禅門(ぜんもん)、鉦を叩く人、寄進浄財を預かる人と運転手の4名(トモと呼ばれる講員)からなる11名で構成されている。

到着挨拶を終えるとすぐさま如来さまのご回在が走っていく。



世話方の案内で一軒一軒ずつ廻っていく。

カーン、カーンと鉦を叩く音が町内に聞こえてくると、次はうちだと玄関で家人がお迎えする家も見られる。

先に浄財を預かった講員はこちらの家だと交通整理をするような手振りで誘導する。



同町の檀家は48軒。午前中いっぱいかけて如来さんが駆け抜けていく。

(H21.11. 5 Kiss Digtal N撮影)

パート2の解説

2009年11月29日 22時35分56秒 | 民俗を語る
「大和郡山の祭りと行事(2)」写真展が始まった。

昨年6月は初めての写真展。

「大和郡山にこんだけの行事があったんや。知らなんだわ。」と多くの人から声が寄せられた。

その後も市内で行われている行事を取材してきた。

「へぇー、こんなのがあるんだ」と感心するほど珍しい行事も知った。

調べれば調べるほど多彩な民俗行事が行われている大和郡山。



今回も年中行事を並べることにした。

解説書も前回同様に自作した。

この解説書を読めば判るので、初日解説は取材にまつわる、取材に至る経緯、一枚の写真を選んだ理由、撮影の難しさなど、エピソードを中心に解説した。

ときには携帯電話で記録した動画も使った。

祭りの情景は音が重要な場合がある。

これを紹介するには動画が適切だ。

裏話だけの解説できっちり1時間。

数点の質問も受けて答える話に会場は大笑い。

和気藹々になった解説は撮影のコツまでしゃべってしまった。

来館してくださったおよそ参加者30人は9割がたが顔見知り。

取材先関係者、自然観察会、観光ボランティアガイド、会議室の利用者、前職の上司に隣近所のご夫婦ら。

終わってから、発刊した「奈良大和路の年中行事」にサインしてくださいの申し出には驚いたものだ。

住んでいる地域で参加した行事はこのようなものですと写真を見せてくださった方もおられた。ありがたいことです。

(H21.10.24 SB912SH撮影)

タイトルは簾型の注連縄

2009年11月28日 07時35分43秒 | 民俗の掲載・著作
注連縄を購入して玄関に飾り付ける。

現在では一般的な風景で、年末にはスーパーなどの店先に山積みされている。

昨今は車に飾っているのを見かけたことがない。

本来は歳神さんを迎える標の注連縄。

昔は手作りが普通だった。

注連縄の形にはいろんなものがある。

豪華だと思ったのが簾型だ。

市内を含め県内で見かけたときは嬉しく思う。

(H21.11. 3 SB912SH撮影)

トミオの日

2009年11月27日 07時32分20秒 | 奈良市へ
トミオの日があるってことを初めて知った。

10月30日がそうだ。

語呂合わせが実にいい。

5年目になったトミオの日に富雄だけの今昔写真を展示していることを教えてもらって訪ねてきた。

マップには富雄駅を中心にお得なサービス券が付いたお店が紹介されている。

展示場は二カ所。

駅から北に一カ所。

もうひとつは駅前ロータリーのビル内。

北は行ったことがないので散策がてら北商店街を歩いた。

かって北商店街は人通りも多く一番賑やかだった。

今は見る影もない。

目当ての会場店が見つからない。

通り過ぎたのだろうか、それともまだなのか。

さすがに学校付近に来たら、違うってことに気が付いた。

通りゆく人に会場店を尋ねても知らないという。

筋が誤ったのだろうと東へ行った。

そこは大きな家が並ぶ住宅街。

高低差がけっこうある。

誰も通っていないし、店もない。

マップに載っていないお店があったので尋ねてみた。

やはり知らないという。

あっちっこっち探してもらったが見つからない。

ひょっとしたらと思い、駅近くにあったヘアーショップ。

これだがね、と玄関を開けようとしたら定休日だった。

しかたなくロータリーに行こうとしたらマップを紛失したことに気が付いた。

動転して虚がきていた。

ビルの名前は覚えていない。

何か手がかりがあるだろうと本屋に行った。

ショーウインドウに貼ってあった。

そして見つけたのが「富雄いまむかし写真展」の案内看板。

ようやくたどり着いた。

そこには一人の男性が居た。

壁一面に今昔写真が貼られている。

懐かしい景観もある。

店主の話では家から出てきた古い写真。

実家にもあったそうだ。

それを現代の状況と照合した写真展だ。

開示された写真はすべてにおいて人物顔をつぶしている。

了解を得られなかったのか、得なかったのか、明確な回答はなかった。

それらを数十ページ纏めた写真集が発行されている。

第三集まであり、いずれも価格が300円と聞いて唸ってしまった。

懐かしいと買う人がたくさん居るという。

買う買わないは別として、やっていることは素晴らしいことだ。

(H21.11. 2 SB912SH撮影)

国王神社大祭神事

2009年11月26日 07時13分51秒 | 十津川村へ
およそ30分かかった渡御は、到着すると神社の拝殿周りを出幸の儀と同じように三周する。

「そもそも当社は」の謡いに「万歳楽」と唱和する。

「文中二年 癸丑年 十月吉日 御鎮座まします 河津に国王 大明神は」と謡われると一説ごとに「万歳楽」の唱和が続く。

宮司、神官は本殿へ。

三役と三役の親は拝殿に座る。

警固ら一同は囲むように座る。

三役警固の甲冑武将だけは見守るかのように椅子に腰掛ける。

修祓、祓えの儀、祝詞奏上のあとは三役の出番となる。

河役の童子が背中に挿した扇子を取り出して一歩前に差し出す。

詞は発しない。

次ぎは御幣を持った津役の童子。

御幣を差し出し扇ぐような所作で上下に振る。

これを繰り返す。

差し出す向きは左から右へ、左から右へと移るが所作は同じ。

親王の御神霊に御幣を捧げ奉る所作であろう。

ただ、ツルベ持ちの宮役の童子は立っているだけで何の所作もない。

長い所作を終えると御幣は宮司に渡される。



それを神官が受け取って本殿に供える。

最後にツルベサカキも同じように供えられて玉串奉奠になる。

駐在さんの奉奠、小学生の斎賀奉唱もある例祭祭典はお渡りから既に3時間を経過していた。

その後は小雨降るなかの村の祭りに転じた。

(H21.11. 1 Kiss Digtal N撮影)

国王神社大祭のお渡り

2009年11月25日 09時38分04秒 | 十津川村へ
公民館の下で出幸の儀式が行われる。

中央に据えられたのはカマドの神さん。

お渡りは戦前までトーヤの家から出発していた。

そのころは家の竈をぐるぐる廻ったという。

生活文化の向上とともに消えてしまった竈。

いつしか火鉢に移り替わった。

その火鉢も居間から消える時代になった。

出幸の儀はカマドの神さんに祝詞を奏上して、行列を組んでカマドの神さん廻る。

区長を先頭に三役警固の甲冑武将、サカキを持つ神官、河役童子、御幣持ちの津役童子、ツルベ持ちの宮役童子の三役、宮司、神官、ヒノキカゴ担ぎ、酒樽担ぎ、口上役、太鼓、旗持ち、刀を差して編み笠を被った警固、旗持ちが続く。

表白の口上は国王神社の謂われや伊勢、春日、住吉の大明神や吉野蔵王、大峰などの権現や大菩薩へ御幣を献じ捧げ奉る詞を一節ごとに唱えて謡う。

すると、一同は太鼓の調子に合わせて「万歳楽」と唱和する。

これを繰り返し到着するまで謡い続ける。

カマドの神さんを三周すると、神社へ向けてようやく出幸する。

地区を抜けて往来激しい国道を練り歩く。



紅葉が始まった上野地の山々を背景にお渡り行列が行く。

眼下に流れるのは熊野川の流れ。



紅く染まった色と清流の青さが美しい。

1km超の長い道のりを謡い続ける表白の詞は山々に響き渡る。

<表白(ひょうはく)の詞>

そもそも当社は 文中二年(1373) 癸(みずのえ)丑年 十月吉日 御鎮座まします

 河津(こうつ)に国王 大明神は 畏れ多くも 天の川の 五色谷より 流れ給いし(たまいし) 南天皇(なんてんのう) 第一の皇子 寛成(ひろなり)親王 御神霊を 斎(いつ)き奉りし 今月今日 ご神事に 御幣を 華やかに 飾り立てて 参らせたりや 其の外末社の 御神々に 供えたりや 伊勢には神明(しんめい) 大神宮へ 御幣を 献じたりや 八幡(やはた)に八幡(はちまん) 大菩薩へ 御幣を 参らせたりや

奈良には春日の 大明神へ 御幣を捧げたりや 堺に住吉 大明神へ 供えたりや 吉野に 蔵王の 大権現へ 御幣を 献じたりや 大峰山上 役の行者 大菩薩へ 御幣を 参らせたりや 天の川には 弁財天へ 供えたりや 熊野の三山 大権現へ 御幣を 供えたりや 天下泰平 国土安穏 氏子繁盛 五穀成就 守らせ給えと 御幣を 参らせたりや  ~繰り返し~

(H21.11. 1 Kiss Digtal N撮影)

国王神社大祭の日

2009年11月25日 09時34分02秒 | 十津川村へ
南朝ゆかりの国王神社、例大祭の日に上野地の村民が装束を身につけて神社へお渡りをする。

公民館に集まってきた村民は食事のあとにそれぞれの役目の衣装を身に着けていく。

裃を着る警固役は20名を超える。

甲冑武将は一人。

何年も当たっているので慣れたものだという。

会場内に小学生男児が3人。黒、緑、青色の衣装を着る。

背中の紋はそれぞれ河、津、宮とある。

三人揃って河津の宮。

国王神社が鎮座するのが河津の淵。

三人の子供は三役と呼ばれ、神さんを迎える役目になる。

紋の河、津、宮がその証しである。

頬紅は薄く、口紅も塗って化粧した三役は、烏帽子を被り、白足袋を履いて出番を待つ。

会場にはお渡りの道具が置かれている。大きな竹編み籠が目立つ。

奉書を巻かれた竹棒の両端にある編んだ竹籠。

半紙の上に平べったい二枚の供餅を入れて担いでいく道具はヒノキカゴと呼ぶ。

かって竹でなくヒノキだったからそう呼んでいるという谷瀬中村区長。



担ぐ道具はヒノキカゴより小さめの酒樽天秤棒もある。

三つの日の丸扇を組んだ御幣はニシキノミハタと呼ぶ。

ヒモロギを括り付けたサカキが二本。

一本は太い円筒のものを括り付けておりツルベと呼ぶ。

首が入っているのだと警固役は言った。

首櫃はいつしかツルベの名に置き換わったのであろうか、確認する記録はない。

(H21.11. 1 Kiss Digtal N撮影)

国王神社の首塚

2009年11月25日 09時32分18秒 | 十津川村へ
第98代長慶天皇(南朝3代)を祀る十津川村上野地の国王(こくおう)神社は頭の神さんとして崇められている。

南朝3代の天皇が北朝勢に追いやられ、(熊野川)上流の天川村五色谷で自害された。

応永元年(1394)のことだった。

時を経て、下流の上野地の河津の淵に流れ着いた首を、手厚く葬り玉石を安置して祀ったという説話が残されている。

天皇は弘和2年(1382)まで在位されており、勅願宮であった国王神社が神社創建と混同されて伝えられたと神社大祭実行委員会は述べている。

(H21.11. 1 Kiss Digtal N撮影)

術後九十八日目

2009年11月24日 08時25分33秒 | むびょうそくさい
数えて5回目の通院。病院の廊下はかなり混んでいる。

シルバーウイークが終わったからであろうか。

予約しているにも関わらず30分の時間待ち。

そろそろ診断に呼ばれるのと思っていたら血液検査をするという。

前々回のときはヘモグロビン値が14直前だった。

もう正常値に戻っているだろう。

採取してから待つこと30分、ようやく診察室のドアを開けて入った。

先生は申しわけなさそうに言った。

シルバーウイークの影響が予約診断に出てしまったと頭を下げる。

それはともかくモグロビン値が15になっているという。

正常値ですと断言された。

やっとここまで戻った。

4月に大出血してから約半年間。

薬を飲んでからでは3ヶ月。長い道のりだった。

正常に戻るのはそれだけかかるのだ。

肝心要の患部はどうだ。

良いようにも悪い方にも進展はしていない。

これが現状だ。

外痔がとにかく出ていることには間違いない。

だが、痛みはないし、自転車に乗っても違和感がない。

身体がこれに慣れてしまったようだ。

内痔の状態がこれ以上のものにならなければそのままでいいという。

あえて処置をすれば内痔にダメージを与えてしまうそうだ。

次回は2ヶ月後の予約となって病院をあとにした。

(H21. 9.25 記)