マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

吉野軽便鉄道廃線址

2017年07月21日 07時46分13秒 | 橿原市へ
畝傍御陵前より吉野口まで狭軌鉄道が走っていた。

そう話してくれたのは高取町丹生谷に住むNさんである。

今ではまったく面影も見られない新興住宅に挟まれた幅の狭い道である。



云われて見なければ、この道の昔に鉄道が走っていたなんて知る由もない。

帰宅してからネットをぐぐってみれば「100年前に走った奈良の軽便鉄道」が見つかった。

鉄道の歴史経緯から路線なども詳しくPDFで挙げている。

当時の映像写真もあるので興味は湧くがこの方面に手を伸ばす力量も時間もない。

専門的に行ってみたいと思う人は、その土地、土地を巡るのもよかろう。

他にもレイルストーリーの一つとして橿原神宮前駅について述べておられるHPがある。

この日に教えてもらった路線を探索している廃線跡探訪者もいる。

(H28.11.16 SB932SH撮影)
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古川町の農神祭

2016年10月31日 08時56分20秒 | 橿原市へ
北海道、東北では雪が舞う。

奈良の朝の気温は9度。

前日よりもぐんと下がって6度。

冷え込むうえに風がきついし手はかじかむぐらいの気温。

体感温度は否が応でもサブイ(寒い)を連発する。

晴れ間が見えたときだけ温かさを感じるが、風が吹けば桶屋が儲かるではなく、冷たい風が肌を通り抜ける。

記録では最高気温が16度であるが、防寒具が欲しかったと思う日だった。

古川町の農神祭を訪れるのは実に8年ぶり。

前回は平成20年4月29日だった。

産経新聞のアーカイブでも取り上げた橿原市古川町の農神祭である。

下見に初めて訪れた日は平成19年4月30日だった。

前日に行われた農神祭に供えたゴゼンサン(御膳)はここに残してあるから見てみるか、と云われて・・・・。

腰を抜かすぐらいにびっくりしたことを思いだす。

このときは一眼レフカメラを持ち合わせていなかった。

当時の下見はだいたいがそうであった。

あるのか、ないのか、実態を知る聞き取りが主だった。

人の顔をした野菜造りのゴゼンサンはメモ代わりのケータイ画像で撮っておいた。

その画像を新聞に載せるとは予想もしていなかった。

掲載された誌面。講中の奥さんから電話があった。

新聞を見た人たちから「あんたらこんなえーことしてはんねんな、と、そこらじゅうからあったんやで。ありがたいし、うれしいし」の言葉に誌面を飾ってほんまに良かった今でもそう思っている。

かつては5月3日にされていた古川町の農神祭は平成14年より4月29日に行われている。

古川町の農神祭がどの場所でどのように行われているのか。

この行事を存じている人はどこにおられるのか、である。

判らないことは地元の人に尋ねるしかない。

そう、思ってやってきたのは平成19年4月30日だった。

畑を耕していた人に尋ねれば、その行事は前日の4月29日だったという。

「詳しいことはトーヤさんに聞いたらえーで」と教えてもらった家を訪ねる。

訪ねた家はM家。

午後5時ころだった。

玄関から出てこられたのは婦人。

「そーですねん。昨日でしたわ」と、いう。

農神祭は前日に終わっていたが、なぜかお供えが、家にまだ残っているという。

奥から玄関に運ばれたお供えはなんと、なんとの野菜で作った「顔」だった。

普段なら行事を終えたら始末する。

始末といっても野菜だけに調理されて口に入る。

そう話していたお供えは「御膳さん」と呼んでいた。

玄関入ったところでは暗がり。

もっと明るい処で撮るためには場を移動しなければならない。

了解をいただいて塀の下に置かせてもらってシャッターを押した。

撮ったカメラはケータイ電話だが、とっぽな口が特徴のダイコン顔が鮮明に撮れた。



この野菜の御膳には、今年の流行り言葉でいえば「びっくらぽん」、である。

とにかく強烈なインパクトで迫ってくるダイコンで作った人面顔は平成19年の4月30日に撮ったものである。

トーヤによっては作り方・飾り方が毎年違う。

そのときに旬の野菜で形作ると話していたことを思いだす。

農神さんを祭る祠は大正二年に建てた瓦葺。

重さに耐えかねて銅板葺きに仕替えた。

そのときに取り換えた古瓦はすぐ傍に置いている。

風雨に晒されても傷みは見られない。

その瓦材で作られたのが祠前に立つ灯籠である。

「大正二年 松田商店」と「五月吉日 細工人瓦留」だ。

当時、講中であった一人が火鉢屋の松田商店に作ってもらった瓦製灯籠。

あまり見ない形式である。

数年前までは6軒の講中であったが、やむをえず脱退されて5軒の営み。

平成20年に取材させていただいたこともある行事である。

送迎ドライバーの仕事をしていた3年前の平成25年のときだ。

行事当日の12時40分ころにMさんから電話があった。

今からノガミ塚に参るけど・・・という電話だったが、今から追っかけるには無理がある。

その後も仕事で重なった29日の祝日。

送迎の仕事は退職した。

いつでも出かける状況になった。

電話をもらったこともあって古川町の農神祭を久しぶりに拝見したくなって出かけた。

早めに着いた古川町。

農神祭に供える御膳作りは公民館で行われる。

早く着いても扉は閉まっている。

まずは数年間も失礼しているMさんにご挨拶だ。

久しぶりの顔を見られた婦人が云う。

そろそろ講中が集まるから・・・。

ついさっきまでは閉まっていた扉が開いている。

お声を掛けて上がらせてもらったら、

御膳の調整が始まっていた。

懐かしいお顔の講中に変わりはない。



仕掛り中の御膳を拝見しながら撮らせてもらう。

中央に皮付きのタケノコを配してキュウリやナスビを立てる。

赤いニンジンに緑のピーマンも立てる。

正面はコーヤドーフに串挿しのシイタケだ。

形作りは特に決まりはない。

当番の人の創意工夫で作る立て御膳である。

そういえば平成20年に寄せてもらったときの同じような作り。

講中によれば毎年がこういう形になっているというに対して思わず発した声は「えっ」である。

平成19年にMさんが見せてくれた御膳はダイコンを立てたとにかくユニークな顔だったことを伝える。

そうすれば「そんなことはない。

それはダイグウサンに供えたときのんとちゃう」と云う。

ダイグウサンの行事はこれまで2度、取材したことがある。

一つは平成19年5月16日

もうひとつは平成19年7月16日

月一回の廻りで参る家は違うが、御膳の形は2度とも立て御膳ではなく寝かせていた。

まして、ダイコン顔の御膳を拝見したのは4月30日。

ダイグウサンは毎月の16日である。

2週間以上も経った30日までそのままの状態で残せることは不可能だと思うのだ。

何かの思い違いの勘違い。

産経新聞に紹介した記事にウソ有りになってしまいそうだが・・・これ以上のツッコミはしない。

御膳さんが出来あがればノガミ塚に向かう。

前回に訪れたときは作った御膳は三方ごと抱えて歩いた。

神饌ものは一輪車に乗せて運んだ。

久しぶりに訪れた今年は車に積み込んで運んだ。

ノガミ塚周りはすっかり変貌していた。

北、東側にはつい数年前に新設された広い農道もある。

当地は国有地の0番地になるという。

毎月の清掃があるノガミ塚。

雑草がはびこれば刈り取る。

ゴミが落ちていれば拾う。

祭っているサカキは入れ替える。

オヒカリのローソクに火を灯して手を合す。

それが月当番の役目だという。

大きくなったヨノミの木は伐採したが、すぐにニョキニョキと若葉があがってくるらしい。

着いてすぐにこれまでと同じように御膳さんはノガミの祠に置く。



前にはテーブルを組み立ててそこに神饌や御供を置く。

ローソクに火を灯す。



そうしてノガミさんの前に並んで般若心経を唱える出雲講の女性たち。

冷たい風が吹きぬくなかでの唱える心経は手が凍えそうになった。

(H28. 4.29 EOS40D撮影)
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曽我町天高市神社の夏越大祓

2016年05月13日 08時50分21秒 | 橿原市へ
橿原市小綱町のノージンサン調査の日だった。

京奈和道路より小綱町へ向かう道すがら。住宅街の一角に行事案内を貼りだしていた掲示板に目がいった。

隣町の曽我町に鎮座する天高市(あめのたかち)神社の行事案内だった。

それには茅の輪を潜る写真もあれば、人形(ひとがた)に息を吹きかけて祓う写真もある。

案内に「国の隆昌・大和の国の安泰・曽我の郷の安全を願い、地域の人々の罪や災いを清々しく祓い清めお幸せにお過ごしいただきますよう、謹んで斎行します」とあった。

天高市神社は平成20年2月に祈年祭・御田植祭を取材したことがある。

同神社で夏越大祓が行われていることは存知していなかった。

数年ぶりであるが、是非とも伺いたくスケジュール・オンした。

斎行される時間までに到着しておきたいと思っていた曽我町の天高市神社。

鎮座地は覚えているが、どこをどう通っていくのかすっかり忘れていた。

迷いに迷って到着した神社に禰宜さんがおられた。

ご挨拶をさせてもらったら、どなたか判らないがやってくると思っていたと話す。

それが私であったのだ。

神さんに導き招かれたようにやってきたようだ。

摩訶不思議なご縁である。



斎庭に立てた茅の輪は夏越大祓に潜る。

平成26年より復活された茅の輪になると話す。

それまでは神職が大祓詞を唱えるだけだったそうだ。

復活を願って氏子に持ちかけた。

賛同されて昨年から始めたという。

材料の茅は曽我川すぐ近くの田に植生していた。

氏子たちが刈り取って、二日前の日曜に竹組をするなどして設えた。

両端に立てている茅の輪は30日の午前中に立てた。

二日間の差がある茅の色落ちでその状況が判る。



この日は雨天。神職も氏子もテント内で斎行される。

夏越大祓は氏子も揃って唱和する大祓詞から始まる。

宮司はかつて祈年祭・御田植祭を取材させていただいたことを覚えておられた。

つい先日に行われた小綱町のすももの荒神さんにも出仕されたという。



その次は禰宜さんによる修祓だ。

幣で茅の輪や氏子を祓ってくださる。

祓った幣はパキパキと折って焼き納めの釜に入れる。

次も同じく禰宜さんが作法をされる。



布を切り裂く「はらえつもの(祓えつ物)」の儀式だ。

布の端を掴んで一気に切り裂く。

これを八回繰り返す。



水平に構えてぐっと引き裂く。

繰り返し、繰り返し、細くする一瞬の作法である。

この日は雨天。雨が降ることからテント内で行われたが、本来なら祓戸社の前で行われる。



禰宜さんは神さんのオヒカリを提灯に遷す。



その火を焼き納めの釜に納めていた諸々に移して火を点ける。

取り出した人形(ひとがた)。



氏子たちが息を吹きかけて穢れを遷した身代わりの人形を手にした禰宜さんはふっと息を吹きかけ釜に落とす。



何度も何度も繰り返す。

締めであろうか、奉っていた黄色いお札のような「疫神斎」の束で煽ぐ。



この間、宮司は大祓詞を奏上し祓い清めていた「浄火焼納祭」。

身代わりの人形を神火で焼納されて天に昇っていった。

歳神さんを迎えた注連縄などを燃やすトンドと同じように天に昇っていく。

罪や穢れを祓う人形は名前と年齢を書いていた。

昨今は車形も登場する時代になったと教えてくださる。



人であれば名前を書くが、車形ともなればプレートナンバーを書くようだ。

「水無月(みなづき)の 夏越(なごし)の祓(はら)えする人は 千歳(ちとせ)の命(いのち) 延(の)ぶというなり (拾遺和歌集)」を唱和しながら茅の輪を潜る。



半年間の罪や災いを祓う茅の輪潜りの神事。



まずは潜って左側に廻る。



戻って次は右廻り。

再び戻って左廻りの3回潜る。



茅の輪は祓具。

最後に正面に向かって拝礼し無病息災を祈る。

地域によっては2回目に潜るときは「思ふ事 みなつきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓ひつるかな」。

3回目に「蘇民将来 蘇民将来」を唱えるところもあるらしい。

前列に座った氏子の茅の輪潜りが終われば後列の氏子に入れ替わる。

茅の輪潜りを終えた氏子たちは茅の輪の両端に立てていた茅をもらって帰る。

家の神棚や門口などに供えつけて魔除けにする人もおられる。



昨年に貰って家の魔除けをした茅はどうしたらいいのか、尋ねる氏子もいる。

トンド焼きのときに燃やすのがいちばん良かろうということだ。

曽我町のトンド焼きは1月14日の夕刻。

曽我川と高取川が合流する川原で行われていることを付記しておく。

祭典が終わって解散された。

その直後から本降りになった。

絶好なタイミングだった。

(H27. 6.30 EOS40D撮影)
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小綱町ノージンサンのジャ

2016年04月15日 09時11分28秒 | 橿原市へ
6月28日に行われる「すももの荒神さん」の運営も小綱町文化財保存会に移った。



「浴衣まつり」でもあるので役員さんも浴衣姿になると話していた。

記録用に撮った写真に赤いモノが見えた。

なんだろう。気になったら眠りから覚めるので一週間後に再訪した。

その部分を拝見すれば・・・。

赤いモノは「ジャ」の舌ではないだろうか。

藁束を二股にした部位は「ジャ」の頭であろう。

ヨノミの葉で覆われているので手で除けながら光を当てて撮っておいた。

これも記録用として撮っておいた。

ちなみに奈良県教育委員会が記録作成事業報告書に纏めた『大和の野神行事』がある。

昭和59年度から昭和60年度の二年間に亘って調査してきた報告書に「小綱町ノグチサン(ノーグッツアン)」がある。

昭和57年当時に記された史料によれば、野神祭りは座中当屋、神主、総代らによって行われていたとある。



6月4日の当日までに蛇作り材料のモチワラ・縄、天秤棒の青竹を調達して、半紙に牛・農具を描いた。

蛇作りは座の先座、後座の二人が作った。

担いで歩くのもこの二人だ。

4日当日は各農家から昼食時に経費を徴収していた。

昼食を済ませた午後1時は蛇作り、輪作り、御幣作りなどの作業を行う。

午後2時ともなれば、当屋家より野神塚へ向かう。

蛇の参進には作った蛇をオーコで担いで歩いていた。

今では想定できないぐらいにかつての蛇は太かった。

重さがある蛇はヨノミの木の前に置いて納めた。

現在のように巻き付けることはなかった。

そして神主による祈祷・お祓いがあったもようだ。

祭典を終えた午後3時には近所の子供たちにお菓子を配って終わる。

戦前までの子供たちには野神祭の役目があった。

田んぼに生えていた麦の畝の中に隠れていた子供たちは、野神塚へ参進する一向に土や泥を投げつけるなど大暴れしていた。

その行為を避けるために一行は手ぬぐいをほうかぶりして防いでいた。

座の家(当屋であろう)は野神塚から戻ってきたら、作っておいた串団子をあげたという一連の調査報告に時代の変遷を感じる。

(H27. 6.11 EOS40D撮影)
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転換する小綱町のノージンサン

2016年04月15日 08時55分07秒 | 橿原市へ
早い年であれば朝7時半かもしれないと聞いたのは平成19年のときだった。

訪れたときにはすでに「ジャ」はトグロのように2代目ヨノミの木に巻きつけられていた。

かつて「座」当屋・神主・総代らで行われていたノージンサンは水利組合に移ったと聞いていた。

昭和55年10月に記された『座当屋年中行事帳』によればノージンサンは野神祭の字が充てられているそうだ。

ノージンサンが行われる場は野神塚(のうじんづか)であることからそう呼ばれたのであろう。

それから8年間も経過した。

仕事や所要が重なりようやく再訪することができた小綱町。

ヨノミの木は垣根の木に遮られて存在も判らなくなっていた。

前年に掛けられたと思える「ジャ」が残っていた。

しかしだ。待てども、待てどもどなたも来られない。

もしかとすれば時間帯が替わったかもしれないと思って野神塚区域に建つ民家を訪ねた。

8年前にも尋ねたN家である。

婦人が出てこられて「今年から自治会運営に移ったようだと聞いている」という。

行事の前にはヨノミの木の下を清掃するなどしていたが今年は見なかったという。

野神塚は公有地。

史跡化する予定で境界指標が立てられたのであった。

状況に変化があったノージンサンはこれが最後の姿になるかもしれないと考えられたので記録用の写真を撮っておいた。

そうして訪れた元総代家。

「すももの荒神さん」行事のときにもお世話になったNさんを訪ねた。



元総代は6年前に辞められたが今でも地域の水利組合長をされている。

小綱町のノージンサンは民俗文化財に指定されていることもあり史跡化する計画があるという。

ヨノミの木の周りを整備し町の文化財として保存することになったと話す。

平成23年5月・小綱町文化財保存会を立ちあげて正蓮寺大日堂や入鹿神社などを整備してきた。

保存会は「いにしえの先祖から引き継いだ貴重な町の文化財を後世に正しく伝承する目的」にあるという。

今年の11月には史跡・整備化が完成する予定の野神塚もその一環にある。

ただ、「ジャ」を巻き付ける行事は水利組合がしていたが、今のところ継承する考えはないようだ。

もしかとすれば神社の注連縄を掛けるときに同じような形でする可能性もあると云われる。

保存会顧問をされているNさんから野神塚の現況を記録してほしいと願われて再び訪れた。



葉が生い茂っている状況ではあるが、なんとか昨年に巻き付けられた「ジャ」を撮っておいた。

(H27. 6. 4 EOS40D撮影)
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大谷町の行事

2016年03月14日 09時18分02秒 | 橿原市へ
畝火山口神社・大谷宮司が7年前に話していた橿原市大谷町の農神祭。

一度は拝見したいと思って訪れた。

場は八幡神社。

聞いていた時間になっても訪れる人はいない。

この日、苗代作りをしていた婦人が話すには数年前に中断したという。

参拝・ゴクマキをしていた場は八幡神社内。

注連縄を張った玉垣に囲まれた場はご神木が立っている。

その場を「ノガミサン」と呼んでいた。



3升のモチを杵で搗いていたのはトーヤ家。

モチを供えていたようだ。

婦人がいうには八幡神社に宮座もあった。

「座」に揃えた椀の数は50枚以上。

「料理を作るのはたいへんやったが、子供たちが喜んで食べていた」という。

伊勢に代参したときに授かったケンサキでトーヤ決めのクジを引いていた。

トーヤ送りの夜は祝いの宴をしていたがこれも中断したという。

その年より一切合切の神事行事をしなくなった。

その年、併せてゴクマキをしていた1月、7月、10月の16日の「ダイジングサン(大神宮)行事も中断したそうだ。

(H27. 5. 5 EOS40D撮影)
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出合町で念願の祝い杉穂のコイノボリ

2016年02月23日 09時00分19秒 | 橿原市へ
知人のMさんから連絡があった。

「橿原のほうに杉の葉があるコイノボリを見た」というのだ。

これは行かねばと思って急行する。

だいたいの地を教えてもらったが判るだろうか。

たしかパン屋の近くだったと云っていた。

ひとまず駐車してみようと思って辺りを見渡せばコイノボリが泳いでいる。

てっぺんは確かに杉の葉っぱがある。

ここはどこだろうか。

もっと近づいてみようと思うが近くに寄れない。

ぐるぐる細い道を通り抜けたら広い敷地。

真新しい支柱は間違いなく杉の木。

話しを伺いたく呼び鈴をピンポーン。

出てこられた奥さんは35歳。

取材目的を伝えて伺う。

これまでマンション住まいだったと話す奥さん。

生まれたときは団地サイズのミニコイノボリを揚げていた。

旦那さんの仕事先の関係もあって広い敷地がある当地に移った。

子供は5歳、2歳の男児に成長していたが、新築した機会に念願の杉穂をつけたコイノボリを揚げることにした。

奈良では誕生祝いに実家が贈る風習がある。

奥さんは長男初誕生に杉穂つきの支柱を立ててコイノボリを揚げる風習を知っていた。

母親に頼んで贈ってもらった。

憧れだったという。

「長年の思いがやっと叶いました」と話す。



コイノボリは真鯉に緋鯉、紺色の長男鯉に緑色の次男鯉も青空に泳いでいる。

丸字にミツガシワは家紋。

コイノボリを製作するお店で作ってもらった吹き流しは親の真鯉とともに大空を泳ぐ。

「広重名所江戸百景」に描かれているコイノボリは真鯉が一尾。

江戸時代はそれだけであったようだとテレビのニュース映像が伝えていた。

子供は成長して幼稚園児になっていたが、念願のコイノボリは彼岸が明けた「いい日(大安)」に揚げたという。



広い敷地に立てたコイノボリ。

距離を離してみても、どこからでも見られる。

幼稚園児らはこの下にゴザを敷いてママ友たちが作ったお弁当を食べていた。

みなが喜んでいたのが嬉しかったという。

コイノボリの支柱の杉葉は時期が終われば降ろして伐りとる。

そして来年は矢車に替えて揚げる。

奈良県内で度々耳にするこれもまた風習だ。

ちなみに奥さんが云うには三重県には子供の名前を記した武者絵のノボリが見られると話していた。

(H27. 4.26 EOS40D撮影)
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北妙法寺のツナクミ・蛇巻き

2015年10月24日 08時11分15秒 | 橿原市へ
昭和59年から2年間もかけて調査記録した奈良県教育委員会発刊の『大和の野神行事』報告書がある。

その史料では橿原市北妙法寺町のノガミ行事を「ノガミサン」と書いてあった。

農の神とされるヨノミの木に巻き付けるジャ綱である。

かつては旧暦2月7日であった。

いつしか新暦の正月7日に移った。

今では集まりやすい第二日曜日になったノガミサン行事を村では「ツナクミ」と呼んでいる。



およそ20mの長さの蛇の胴体ができあがれば、耳や口もある蛇頭を取り付ける。

運搬用の金属製梯子の上でぐるぐる巻きにして調えた。

ジャができあがれば公民館で一時間ほどの休憩をとる。



「奉納」文字は幣に括りつける。



まずは見本に隣についたお爺さんがカマやスキ、クワを書いていく。



子供たちは見よう見まねで牛の姿を描く。

双子の女児はツナクミを見ていた二人だ。

小学校低学年の子供の腕では牛に見えるような・・とも言えない牛の姿。

愛嬌がある姿は奉納の絵馬である。



こうでないという特別な決まりもなく子供たちは自由奔放に書をふるう。

枚数も決まりはないが竹の幣に挟める程度にしているようである。

北妙法寺町では今月末に初庚申が行われている。

平成26年1月に取材させてもらったときだ。

気になっていたモノがある。

「和州小泉庚申堂」の文字があった青面金剛像の掛軸の奥にあった木の棒である。



それには「奉修大青面金剛尊七難即滅七福即生交通安全祈攸」の文字があった。

上五段は梵字。

県内事例から推測するに「キャ、カ、ラ、バ、ア」。

「すべては万物から成り立っている」とされる「地、水、火、風、空」であろう。

材は硬いサンショの木に違いない。

現在の庚申講中ではなく、昔の講中がしていたようだとTさんは云った棒は初庚申の際に奉っていたのであろうか。

横に大和小泉庚申堂の祈祷札がある。

かつては小泉の庚申堂に参って受けてきたお札であるが、現在は「ならまち」の庚申堂に参っているようだ。



蛇、幣、絵馬ができあがれば集落南にあるヨノミの大木に運んでいく。

蛇を巻き付ける場は八釣川の畔に立つ巨木のヨノミ。

一年前に掛けた蛇は残したままで外すことはない。

昨年の取材の際に聞いていた道中の在り方。

蛇を巻きつけたままの人を近鉄電車付近にあった壕に放り込んだと話していた。

この日も話題になったかつての在り方。

嫁さんが来た家とか婿養子が来た家に出向いて土足で家まで上がり込んで家人に蛇を巻きつけたそうだ。

隣村の地黄町の近くまで蛇を持ち込んでいたともいう。

昔の蛇運びは夜6時ころだった。

運ぶ際には村人と顔を合わせないように出かけた。

今では公民館前でツナクミをしているが、昔は「トヤ(当家)」の家の前でツナクミ作業をしていた。

トヤ家では接待があった。

子供のころだと思いだす村人の記憶はお神酒にツキダシがあったようだ。

お神酒は蛇の口に注いだ。

蛇がまるで飲むような感じだったそうだ。

着いたらヨノミの木に梯子を掛けて昇って蛇頭をロープで縛るトヤ(当屋)さん。

充てる漢字に変化が見られる。



幣・絵馬はアキの方角に取り付ける。

この年は西南西である。

お神酒を蛇頭に垂らして樹上の作業を終える。



それから胴体をぐるぐる巻きにする。

その姿はまるでジャ(蛇)が天に昇っていくように思えた。



蛇を巻いた場は村の入り口。

疫病が村に入ってこないように、祈願の意味が込められているのだろう。

(H27. 1.11 EOS40D撮影)
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北妙法寺の初庚申

2014年07月08日 07時55分45秒 | 橿原市へ
ツナカケ行事の際に話してくださった橿原市北妙法寺の庚申講の営み。

2カ月に一度は集会所に集まって般若心経を唱えていると話していた。

庚申講があることを知ったのは春日神社の境内にあった庚申石の存在だ。

この年の年初めの庚申の日は2月18日であるが、その日は集まらない。

1月末の日曜日に行われる初庚申は新年会を兼ねている。

2月では遅すぎるということだ。

この日であろうと思って出かけた北妙法寺。

集会所は灯りが点いていた。

扉を開けて声を掛けた時間帯は始まる直前であった。

「もう始めるから上がってや」と伝えられて上がった集会所。

床の間に掲げた小さな青面金剛像の掛軸は「和州小泉庚申堂」と書かれてあったが、年代記銘は見られない。

お神酒を供えて1本のローソクに火を点ける。



カセットテープが唱える般若心経に合わせて三巻。

それが終わればご真言を唱える。

北妙法寺の庚申講は10軒。

この日は欠席もあって8人が集まった。

午前中には奈良市のならまち庚申堂に出かけてお参りしてきたと云う。

掛軸は「和州小泉庚申堂」。

大和郡山市の小泉町にある庚申堂ではなく「ならまち」なのである。

かつては小泉の庚申堂に参っていたが、随分前に廃れたことから「ならまち」に替えたと云う。

ちなみに現在の小泉の庚申堂は有志世話人が平成17年に立ちあげ・復活されている。

近年は参拝者も増え、賑わっている現状にあると伝えておいた。

夕刻に再び集まった場が集会所。

般若心経・ご真言の次は、境内にある庚申石に移る。



暗がりの中の庚申石にローソクを灯して、並んだ一同が手を合わせる。

こうして初庚申を終えた講中は、新年会の会場に向かう。

向かうといっても新年会場の「がんこ」店送迎車が待っている処だ。

新年会は18時。

間に合うようにと足早に出かけていった。

(H26. 1.26 EOS40D撮影)
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北妙法寺のツナクミ

2014年06月21日 09時08分17秒 | 橿原市へ
昭和59年から2年間をかけて調査記録した奈良県教育委員会発刊の『大和の野神行事』報告書がある。

それによれば、橿原市北妙法寺町で行われていた行事名はノガミサンと書かれていた。

ノガミの場はススツケ祭り(平成23年から中断中)をしていた地黄町より西へ数百メートルの地域だ。

かつて北妙法寺村は土橋村・中曽司村・地黄村・曽我村・五井村・寺田村・慈明寺村・大谷村・小槻村からなる高市郡真菅村に属していた。

明治22年(1889)のころである。

その後の昭和31年に市町村合併によって真菅村の村名は消滅したが、各村の名は橿原市の町名で継続された。

橿原市内に存続するノガミの行事は北妙法寺、地黄町、五井町、四条町、慈明寺町、見瀬町、古川町がある。

東坊城町は形式を替えて出垣内が復活させた。

調査報告書には忌部町もあった。

昭和32年頃には途絶えているというが、私が聞いた話しでは大谷町の八幡神社で農神祭と呼ぶ祭典があるらしい。

それはともかく北妙法寺のノガミサンは村の人曰くツナクミの名であった。

北妙法寺は本村で27戸。

昔からの旧村農家であれば18戸。

そのうちの5戸が専業農家になるそうだ。

旧村を囲むように西、南側は新興住宅地。

建築が増えるにつれて、屋就川(若しくは八釣川)から西側集落の旧村は見えなくなった。

地区の氏神さんは春日神社。

社殿傍に建つ公民館は村の寄り合いにも集まる場である。

この辺りは小字垣内。

昼過ぎともなれば村の男性たちが公民館横の集落道に集まって綱を組み始めた。

長老らが太く結った綱は蛇頭(じゃがしら)だ。

ワラ打ちをすることなく、3本組みに束ねた2本のロープを電信柱に括りつける。

それが蛇胴になる心棒。

三人がかりで結っていく。

藁束をその都度手渡して継いでいく。

三人が持っているのは二本のロープに三本拠り。



長いロープを受け持つ三人はその拠り方を見ながら、お互いが捻じれたロープを手渡していく。

ツナクミをする人たちは長老、年配者ばかりだ。

かつては1月7日がツナクミの日であったが、今では集まりやすい第二日曜日に移したと云う。

昔は綱を結う人とロープを持つ人が掛け合うように声があがっていたと話す。

30分ほどすればおよそ20mの長さの蛇の胴体ができあがった。



長老らが縄を結って作った蛇頭(耳・口もある)を胴体の先端に取り付けて、金属製の梯子にぐるぐる巻きで調えた。



一旦、ジャができあがって一旦は休憩。

公民館に上がって一服する間に子供たちが絵馬を墨書で書いていた。



描くのは牛の姿であるが、小学校低学年の子供の腕では牛に見える・・とも言えない絵馬が愛らしい。

隣についたお爺ちゃんがカマやクワを書いていく。

「奉納」の文字も墨書し、竹で作った幣も調える。

公民館でのひとときは春日神社の新嘗祭に供えたにごり酒やお茶で過ごす。

それは蛇に取り付けるのであるが、明日香村稲渕の行事取材に向かわなくてはならず、断念した。

調査報告書によれば調査年の3年前。

昭和56年頃であろうか。

今では旧村農家全戸の行事であるが、当時は輪番で廻る当屋制度があったようだ。

ワラを持ちよる家は当屋。

長い綱を結って組む際に仲間うちで巻きあったとある。

蛇ができあがれば集落南側を流れる屋就川上流にあるヨノミの木に巻き付ける。

その場に向かう道中では、年内に婿養子と嫁取りした家に出向いて土足で家まで上がり込んで家人に巻き付けたとある。

ジャは梯子に乗せて、当屋、アトサキ当屋、手伝い人らが担いでヨノミの木に巻き付けたようだ。

その場は村の入り口であると書かれていた。

ツナクミの日より二日後に再訪した北妙法寺。



胴体は幹周りが太くなったヨノミの木の下。

上の方には巻き付けた蛇頭がある。

蛇頭を揚げた方角はアキの方。



今年は東北東である。

そこには竹の幣と墨書された牛に農具の絵馬や奉納の書の重ね合わせが見られた。

ツナクミの際に話していた長老の回顧話。

当時は、蛇を巻きつけたままの人を近鉄電車付近にあった壕に放り込んだと話していた。

(H26. 1.12 EOS40D撮影)
(H26. 1.14 EOS40D撮影)
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