マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

橿原市観音寺町・東西に往来する街道に石造物など歴史的景観に佇む

2023年03月31日 07時34分55秒 | 橿原市へ
この時季に見られる桜の開花。

あっちこちにある有名どころの桜を求めて出かける人は多いだろう。

つい先ほど、拝見していた御所市本馬に咲いていた一本木の桜樹に、野菜つくりの畑地に癒されていた。

実は、高速道から見える、もう一本の桜樹を見つけていた。

本馬から、すぐ近くになる橿原市観音寺町の民家集落。

まずは、高速道から見ていた、小山に寄り添うように咲いていた桜樹を探す。

方角、方向はだいたいがわかっていても、民家集落に入り込んでしまうと、その場所がわからなくなる。

迷い道に踏み込んでしまったのか、と思う民家の先に見えた。

軽バンであっても、狭い道に右往左往するであろう。

やや広地に車を停め、足で運ぶその桜樹の咲く丘は見つかったもののカメラを構える位置付けが難しい。

桜樹の下にガガガと工事の動き。

水路を整備しているように思えた工事に重機が音を立てる。

その場から離れて民家が建ちならぶ町内に移動する。

西から東へと、並びの観音寺町内。



お花を立てて飾っていた石仏地蔵に手を合わせておこう。

その付近にあった自治会の掲示板に町内の人たちへの連絡事項。



「令和3年4月4日(日)の観音寺町公民館においての総会は中止とさせていただきます」とある。

実は、私が住まいする自治会も総会は中止。

役員に委譲した書面総会の形で執り行った。

経緯は、すべてが新型コロナウイルス対策による対応である。

足を東に伸ばして歩けば、判別できなかった石造りの道標に出会った。



屋敷民家の前に建てていた。

もう少し歩いた地にも道標がある。

この通りは、この先に目的地を報せる何らかの街道の標であろう。



刻印記銘から「施主 明治七年甲戌 一月日 當村 土本久・・  御所 野坂伸助」が、読み取れた。

刻印の彫り具合から、たぶん先に見た標よりも新しい石標。

で、あれば、先に見た石標は江戸時代に遡るであろう。

で、その江戸時代を想定される石標があった場所は、四つ辻。



北東の角地に建つ民家はどことなく庄屋を彷彿されよう。

「橿原市観音寺町」を、キーワードにぐぐったネット情報。

「奈良県の道標集め」ブログにたどり着いた。

ブロガー「こいわい」氏が調査された石造りの道標。」

調査された「橿原市観音寺町の道標-2(集落東端)」をもとに、探した道標が見当たらないが、この東西を往来する街道は、西に御所・室。

東へ向かえば飛鳥の地に着く

北は、八木。

つまり今井から大和高田に出る四つ辻。

で、先に見た判読不能の道標の刻印は西面が「今井 なら」に「はせ いせ」。

橿原市観音寺町の道標-1(集落西部十字路-A)」の映像からわかった道標に、なるほどである。

道標情報に感謝申し上げる次第だ。

謎がほぼ解けた街道散策はここまで。

来た道を戻っていく。

戻り道に気づいた赤いポスト。

往路に気づかなかったポストが復路の目線で気づく。

観る角度によって気づかない場合もあれば、気づきに繋がることもある。



その出会いに撮っておこう、とカメラを向けた遠くに見えた小高い丘に咲く桜樹がにっこり。

素晴らしい景観を魅せてくれた観音寺町の街道、民家集落に感謝したい。

(R3. 3.24 SB805SH撮影)

今井町・春日神社の夏越の大祓い

2020年09月24日 11時07分35秒 | 橿原市へ
橿原市の今井町に向かって車を走らせる。

暑い日だった。

照りつける夏の光に運転席の冷房はきかない。

着いた時間帯は午後3時。

そのころもピーカン照り。

今井町の西の端にある春日神社の境内から聞いたような声が聞こえる。

どこから聞こえてくるのだろうか。

近寄っていけばお堂であった。



堂内(※旧常福寺観音堂)に置いてあった組み立て長椅子を出していた女性に、えっ、である。

何年か前に県文化財課の緊急伝統芸能調査員をしていたときである。

調査対象に湯立て神事がある。

調査地域は大和郡山市田中町に鎮座する甲斐神社の行事に出仕されていた巫女神職のMさんだった。

声に特徴があるからすぐにわかった。確か、お住まいは橿原市内の葛本町。

今井町からそれほど遠くない。

長椅子を組み立てていたときだ。

俄に曇りだした暗転。

いつ雨が降るやもしれない状態になってきたが、冷たい風はない。

風はないから湿気が多い。

身にまとわりつくような湿気の日になったが、暗雲はいつのまにか消えていた。

祭典が始まるまでは心配されたが、結局は降らなかった。

拝殿周りにたくさんの茅の葉を積んでいる。

これらの茅は氏子のみなさんが揃えてくれます、と巫女神職のMさんが話してくれた。

茅は堤防近くに生えている。

護岸工事をしていないところにある、という。

刈ったのは2日前。



一旦は、乾きを防ぐために復元した西の環濠に放り込んだ大量の茅。

昨日は、朝の10時に集まった10人で作業していた。

以前は、6人くらいでしていたから、今は作業が捗るようになった。

手伝いに参加してくれる人たちが、年々に増えているのがありがたい、と・・。



この日は今井町春日神社の夏越の大祓い。

茅の輪潜りもあるが、その茅の輪に小型の茅の輪があるとわかったのは、開催していた知人のDさんの写真展に立ち寄ったときである。

会場に向かう“重要伝統的構造物群保存地区”に指定されている今井町の通りに入ったすぐの民家にあった輪形状の造り物

後でわかったその造り物。

拝見した日は、ほぼ2カ月前の平成30年5月13日。

玄関辺りに吊っていた輪形状は枯れ植物。

その植物は、本日に行なわれる春日神社の夏越の大祓いの茅葉(真菰)とわかったのは後日だ。

教えてくださった方は、写真展に利用していた会場の「にぎわい邸」オーナー女性。

当日撮っておいた携帯電話の画像を見てもらったら、見たことがない、という。

わかったら連絡をお願いしますと伝えた数日後の16日に届いたメール。



夏越の大祓の行事日は毎年が6月30日。

午後4時からの案内を掲示していたそうだ。詳細は行ってみなくてはわからないが、オーナー女性からのメールによれば「茅の輪潜りをした参拝者は、参拝の各自が茅(真菰)で作った小型の茅の輪を持ち帰って家の玄関に掲げる」だった。

行事取材の主旨を伝えた春日講奉賛会会長I氏の承諾を得て撮影に入る。

ちなみに橿原市指定文化財に指定されている旧常福寺表門は、春日講が所有する建造物である。

先月の5月17日は、朝10時から観音講の法要があった。

毎年のお勤めに多くの講員が集まったそうだ。

現在、講員は800人から850人にもなる。

役員は十数人に世話方が50人以上。

これほどの規模が大きい観音講中、全員が旧常福寺観音堂に参集されたら壮観な状態になるだろう。

毎月の第二日曜日は境内の清掃。

いつも奇麗にしているという。

大祓式が始まるまでに拝見していた絵馬堂。



武者絵に馬、翁(おきな)と尉(じょう)の同じ絵もある。

生誕の絵馬でなく、3、4歳の子供、童(わらわ)の子たちの生育を願った絵馬のように思えた。

古い絵馬に明治四十一年旧三月吉日に奉納した絵馬がある。



源平合戦の「鵯越(ひよどりこえ)の逆(さか)落し」の古戦場。

一ノ谷の戦いを描いた合戦絵馬は迫力ある。

奉納者に名を連ねていた子どもたち。

そこにあったおばあちゃん、おじいちゃんと思える名もある。

孫の生育を願った絵馬であるが、左端にある昭和61年の年号。

額縁を張り替えたのか、それとも書き足したのか・・・。

大祓式に始まるまでの時間はまだまだある。

この機会に調べておきたい石塔の刻印。

江戸時代の暦がわかる2基が見つかった。

一つは「天明八申戊(1788)四月十三日 一右武開□□塔 願主今西榮正□之」。

二つ目に「常夜燈 享和元年辛酉(1801) 紙屋町願主□□□氏」。

三つ目の刻印は手水鉢にあった「天保七(1836)丙申 上裁秋八月吉祥月」。

不鮮明な文字は判読できなかった春日神社の創始年代。

明らかではないが、奈良県史によれば「慶安五壬辰年(1652)仲春吉日」が。

また、神宮寺だった旧常福寺の棟札に「上棟大和国高市郡今井常福寺」「干時慶長十八年(1613)七月癸丑十六日敬白」があることから、春日神社の上棟も慶長十八年を推定している。



時間近くになれば受付の場に参拝者が集まりだした。

いつ雨が降っても濡れないように傘持参の人たち。



先にやってきた高齢者たち。

巫女たちが受け付ける。

大祓式に必要な祭具が人形(※ひとがた/形代・かたしろとも)。



参拝者は、受け取った人形に名前を記入する。

記入した人形は、このように右、左、右肩を祓って、3回も息を吹きかけるのです、と伝えていた。



吹き込んだ人形は、巫女さんが受け取って祓もつに納める。

日常生活をしてゆく上に、知らず知らずに犯した罪や穢れを祓い除いて、残す半年間を新たな気持ちになり、清々しく、そして明るく暮らしていけるよう祈願する夏越の大祓い(なごしのおおはらい)。

巫女さんが受付時に伝えた作法。

その人の罪や穢れを、身代わりの人形に遷す行為。

悪いもんが詰まった人形は、まとめて祓物(はらえもつ)と呼ぶ葦舟のような形に作った茅束に包み込んで、式典が終わってから神職が大川に流す。

いわば、半年間の穢れを落とした厄は大海に流す禊である。

式典で奏上される大祓詞に、その意味がある。

名前を記入したみなさん方は、笑顔に・・。

悪いもん、すべてが抜けきったかのように思える素敵な笑顔になっていた。

そしてはじまった大祓式。

宮司は巫女神職のMさんの旦那さん。

これまで何度もお世話になったことがあるM宮司は、また何かとお世話になっている大和郡山市・小泉神社宮司の弟さんである。

拝殿左脇に集まった氏子たちはおよそ100人。

式典に奏上する大祓詞(おおはらえのことば)は息子さんの禰宜が役を務める。



普段であれば、鎮座する神さんに向かって祝詞を奏上されるが、夏越の大祓いの場合は、参拝のみなさん方を祓うことから、大祓詞の奏上は参拝者に向かって奏上されるのだ。

低頭されて大祓詞を受ける参拝者たち。

その次の祓は、紙片の形のキリヌサ祓い。

人形のときに祓ったように、同じ作法でするキリヌサ祓い。



手にしたキリヌサをもって、右、左、右肩を祓って身を祓う。

身を祓ったキリヌサは落下。

境内いっぱいに広がった。

こうして始まった茅の輪潜りの作法。

輪を潜ることで、無病息災、疫病退散のご利益を授かる。

『備後国風土記』逸文にある古潭である。

「疫隈(えのくま)の国社(※広島県福山市東深津町・王子神社)。北の海に坐ます武塔神(素戔嗚尊)が、南の海に住む娘を妻問いに出でる旅に出た。彼の地に二人の将来が居た。宿乞うたところ、裕福な弟の巨丹将来(こたんしょうらい)は断ったが、貧窮な兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は、宿に泊まらせ、粟飯などの饗をもってもてなした。歓待に感激した武塔神(素戔嗚尊)は、これから先、疫病が流行した際は、護符の茅草で作った輪を腰に着けておけば、一生、蘇民将来の子孫たちは疫病から免れると説いた」。

この説話にちなんだ茅の輪。

旧暦六月(※現在は6月30日)に行なわれる夏越しの大祓式に「水無月の 夏越の祓いする人は 千歳の命 延ぶと云ふなり(※拾遺和歌集)」を唱和しながら潜る一周目。

二周目の和歌は「思ふ事 皆つきねとて麻の葉を きりにきりても 祓へつるかな(後拾遺和歌集)」を。

そして、三周目に「蘇民将来 蘇民将来」。

唱えながら、∞の字(※一般的に数字の8の字と呼ぶ)を書くように、茅の輪を潜る。



先頭に就く宮司。続いて禰宜。

後ろについた氏子たち(春日講)は百人にもおよぶ大行列。



頭を下げつつ茅の輪を潜って左側へ廻る。

潜る際前に一礼。

拝殿向こうの神殿に向かって軽くお辞儀をする。

さて、茅の輪を潜るときの足は、右足、左足、どちらを先に跨いでいけばいいのか。

はじめに跨ぐ第一歩は、左足。

左側に廻るから左足が第一歩。

覚えやすいのだが、どうも足遣いが不自然な動作を生んで、上手い具合に左足が出ない。

普段から、第一歩に右足が出る癖があるようで、ぎくしゃくするから、どうしても頭の中がこんがらがる。

しかし、である。

ここ今市町の茅の輪潜りは、右足からだった。



大行列の茅の輪潜りに大きな円を描く。

ぐるっと廻って、次の右廻りでは、右足。3周目も左足で跨いでいた。

唱和する水無月の夏越の祓い・・・の印刷物を手にしながら廻っていた。



∞の字を描いて廻ってきた最後のひと潜りもまた一礼し、左足で跨ぎ拝殿に向かって参進する。

そういえば、修祓の際に神職が幣をもって振る作法は、ここ今井町に限らず、どの神事であっても、左、右、左に振っていたような・・・。

その過程に拝見していたお賽銭。

茅の輪潜りに遅れた高齢女性。

賽銭を入れようとしていた行者堂。

格子窓の桟に置こうとしている、と思って拝見していた、そこに指が・・。



格子窓から受け取る役員の手に直接渡し。

まさかの展開に、よく見れば透明なプラカードで工作した小さな小窓。

そこが賽銭口だったとは驚きである。



先頭の宮司、禰宜に観音講の役員たち。

先に到着してから参拝者に茅草を手渡していた。

ここからが今井町に見られる独自の習俗である。

茅を受け取った人たち。



一人一人が、思い思いの場所で茅の輪を作る。

一本、二本・・数本の茅束は茎の部分から丸めていく。

軸になった部分に葉をぐるぐる巻く。

軸がばらけないようにぐるぐる巻いているように思える作り方。



慣れた人はちゃっちゃと作り上げる。

まだそれほどに慣れていない人は、ベテランの人に教えてもらいながらマイ茅の輪を作る。

大多数はその場に立ったまま作っていた。

母親に教わりながら作っていた女児もいる。



老若男女のめいめいが作るマイ茅の輪は、一定の大きさでもない。



思い思いの大きさに仕上げて奇麗な形に、神職らが予め作って用意していた幣を括りつけて出来上がり。



実は、用意していた枚数では足らなかった。

大急ぎで作った幣の補充。

幣の枚数もまた年々に増えているようだ。

完成した人たちから自宅へ戻っていく参拝者たち。

今日の目的である自宅の玄関に自作の茅の輪をかける、その瞬間をと撮らせていただける方にお声をかけようとした、そのとき・・。



迷うことなく1組の家族さんにお願いして移動しかけていたこの日同行取材の写真家Sさんの後を追う。

その行先は、環濠に囲まれた今井町内の外。

新たに地域開発された新居住宅に住まう新しき家族さん。



3歳女児の子どもを持つ親子連れ。



ご近所に教えてもらって参加したそうだ。

途中に見た旧家の茅の輪かけ。



玄関脇の格子窓がまた風情を醸し出すが、これは枯れた茅の輪。

もうすぐ戻ってきて新しく架け替えることだろう。

実は、一年間もお家を守ってきた茅の輪は、1年後に神社納めをする。

枯れた茅の輪もまた護符であるだけに、神職の祈祷によって焼納されることだろう。

ここもまた格子窓に茅の輪をかけていた旧家。



戻ってすぐにかけていたのだろう。

茅の輪を手にして戻っていく高齢女性にもお声をかけたが、うちは建て替えたので玄関も洋風にしたからとお断り。

かけるところのない洋風扉ではお断りせざるを得なかった、ということだ。

そんなこともあったが、うちの家なら構わんよと応えてくれた男性は旧家住まいのW家もまた建て替え。



奇麗にした玄関上に茅の輪をかけられるようにしていた。

これもまたなるほどである。

なるほどの民俗道具もまた遺していた旧家もある。



錆も見られる風情ある鉄の輪っかは、馬繋ぎの鉄環であろう。

町家集落に牛繋ぎは考えにくい。だとすれば馬繋ぎ。

鉄環の取り付け方が異なる。

参考例に、平成20年11月23日に拝見した大和郡山市の旧村。

井戸野町の一角に遺していた鉄環は、牛繋ぎ。

井戸野は町家集落でなく、農家集落。

畑地、稲地の耕作に牛を必要としていた。

駐車場に戻る今井町の町家筋に赤く塗った小さな鳥居があった。



角地に据えた大きな石は、家を損傷から免れるための守石。

逆に勢いついて乗り上げるケースもあるらしい。

少しでも防御したい大石に塗った赤い鳥居は犬の小便除け

糞を落としていく人もいるから難儀なこと。

「フンの後始末は、飼い主の義務」と注意せざるを得ない今井町の自治会通知。

糞を落とす住民もまた同じ町内の人なのかな。

空きスペースの向こうに風情を遺す民家がある。



その下に置いてある一定の間隔ごとの印しは、たぶんに駐車位置を示す小道具。

廃物利用の駐車位置標識にも目が留まった。

今井町の年中行事は、本日に行われた夏越の大祓いの他に、7月7日に行われる行者講や7月15日の太神宮さんもある。

また、仏事に、7月23日、24日行われる地蔵講もあるそうだ。

(H30. 6.30 SB805SH撮影)
(H30. 6.30 EOS7D撮影)

今井町・黄色い花はアサザ

2019年10月19日 09時27分28秒 | 橿原市へ
知人の写真家さんがこれまで撮ったなかから厳選した古都奈良の情景を映し出す「古都の祭典&風景」写真展をすると案内されていたので伺った。

展示会場は橿原市今井町の町内。

狭い路地になんとかいける軽自動車。

カーナビゲーションシステムが案内してくれる通りに車を進める。

会場に行きついたものの付近には駐車場がない。

停める公共駐車場は会場より遠い。

以前も来たことのある今井町の駐車場のだいたいの位置はわかっているが、そこに停車したとしても、再び会場に戻ってくるのはとても難しい。

会場におられたご婦人に尋ねたら、ここの通りをずっと西に行けば市営の駐車場がある。

どんつきではないがカクカクとしたクランク道がある。

軽自動車であればなんとか通り抜けるでしょうと云われて行った先は西に復原・整備された環濠がある。

今井町は戦国時代に造られた寺内町。

16世紀後半に埋められた環濠集落

一部発見された新・旧二つの時期からなる環濠。

新環濠は内と外の二重構造であることが発掘調査でわかった。

しかも、江戸時代から昭和初期まで利用されていたとは・・。

また、旧環濠は戦国時代まで遡るらしく、当時の規模は現在想定する以上に拡がっていたこともわかったそうだ。

旧環濠から新環濠への転換変遷は寺内町から自治都市・商業都市へ変貌してきた過程がわかる調査結果である。

つい先月の平成30年4月15日に完成・披露された広場整備の一環として新環濠の外濠幅に合わせて復元・環境整備したとある。

その濠に黄色いものがたくさんあった。

黄色の色は水面に浮かぶ夏の花。

どこかで見たことのあるような黄色い花。



イサザ・・いやいや、アサザだったかそれともアカザだったか・・。

その復原環濠より一歩向こう側にある公園施設。

公共トイレの恩恵もある場は織田信長本陣跡。

「天正三年亥(1575)年春将軍織田信長公御入ニナリ、時ノ当主今西正冬ヘ御褒美トシテ種々ノ物品ヲ下賜セラレタリ、其後同家ノ棟唱ヘ本陣跡は今ハ畑地トナリタルモ、其裔現主今西元次郎所ナリ」と記載されていると史跡案内板書に当時の図面とともに伝えている。

その辺りも綺麗に整備したお堀がある。

水辺並びに掘割景観が美しい奈良県景観資産の一つとして紹介されている場に黄色の花しょうぶが咲いていた。

さて、水面に咲いていた黄色い花である。

写真展を拝見して戻ってきたらすべての花が萎んでいた。

確証は得られないが、これはアサザであろう。

三宅町のゆかりの万葉花として紹介されているアサザ(※万葉集ではあざさ)と同じと思えるのである。

三宅町に訪れて取材先の方がくれはった1株のアサザは泥水付き。

自宅に戻ってすぐさま洗面器に移したアサザは数週間も生きていたが、突然のごとく、葉、根ごと消滅した。

なかなか育てるのが難しいと聞いていたが、その通りだったことを思い出す。

(H30. 5.13 SB932SH撮影)

地黄町野神神社・野神祭りの痕跡

2018年07月23日 08時31分13秒 | 橿原市へ
来月の7月21日に講演するストーリーを練っていた。

主宰の奈良民俗文化研究所代表からお願いされて決めた講演テーマは「橿原(市)の年中行事」。

伝承されてきた民俗行事を紹介するストーリーにどうしても現状を見ておかねばならない場がある。

場所は橿原市地黄町である。

行事は大和における野神祭り行事の一つである地黄町のススツケ祭であるが、平成22年を最後に中断したまま現在に至る。

中断したワケは旧村の子供が激滅したことによって、中断せざるを得ない状況にあった。

新参の子どもを入れることも考えられたかどうか存知しないが、保存会会長の決断で中止を決められた。

ただ、中止をしたのは人磨神社境内でしていた煤(現行は墨汁だった)ツケの行為だけである。



映像は平成21年5月4日に撮ったもの。

この年が最後になったときの行事スケジュールである。

これもまた貴重な記録になってしまった。

本来の野神祭りは地黄町集落外にある野神神社に参ることである。

そのお参りは明け方前の午前3時半ころと聞いている。

旧村の子どもが牛耕している農耕の様相を絵馬に描いて神社に奉納する。

その際持ち込むのが藁で作った蛇であり、魚の鰤である。

鰤は丸太の一本ではなく、頭と尾だけを奉る。

蛇は御幣を挿した形状で野神神社に供える。

ススツケ行事は中断したが、野神行事は継続しているのかどうかは奉納された痕跡の有無でわかる。

有れば継続しているし、なければこれもまた中断である。

シナリオストーリーを執筆していてどうしても確かめたくて立ち寄った。

野神神社の前は東西に繋ぐコンクリート道。

散歩する人や自転車で闊歩する人も多いが、神社の様相を拝見することもないだろう。

何故なら神社は旧村にとっては大切な神社であるが、近年は地黄町旧村集落を囲むように新築移転者が圧倒的に増えている。

居住地の建物を見ればすぐにわかる民家の様相である。

旧村の人であれば野神神社に参る。

新規に移転した人たちには関係のない場。

参ることはない。

神社前に車を停めて鬱蒼とした神社地に入る。

辺りはやや暗いが、なにやら形的なものが見える。



野神祭りをしていた痕跡があった。

行事日は5月4日。



1カ月以上も経過していたが、崩れもせず綺麗な形で遺っていた。

思わず手を合わせた野神さんである。

大蛇を彷彿させようと思える藁はとぐろを巻いている。

青竹に取り付けた御幣もある。

何枚も重ねた御幣は紅白の水引で括っていた。

青竹の御幣は2本だ。

その前に青竹のオーコがある。



両端にあるのが板書に描いた農耕絵馬であるであるが、気にかかるのは牛耕姿の描写である。

平成16年の5月5日。

つまり奉納したその日である。

13年前に奉納した描写とまったく同じであった。

(H21. 5. 4 SB912SH撮影)
(H29. 6.18 EOS40D撮影)

吉野軽便鉄道廃線址

2017年07月21日 07時46分13秒 | 橿原市へ
畝傍御陵前より吉野口まで狭軌鉄道が走っていた。

そう話してくれたのは高取町丹生谷に住むNさんである。

今ではまったく面影も見られない新興住宅に挟まれた幅の狭い道である。



云われて見なければ、この道の昔に鉄道が走っていたなんて知る由もない。

帰宅してからネットをぐぐってみれば「100年前に走った奈良の軽便鉄道」が見つかった。

鉄道の歴史経緯から路線なども詳しくPDFで挙げている。

当時の映像写真もあるので興味は湧くがこの方面に手を伸ばす力量も時間もない。

専門的に行ってみたいと思う人は、その土地、土地を巡るのもよかろう。

他にもレイルストーリーの一つとして橿原神宮前駅について述べておられるHPがある。

この日に教えてもらった路線を探索している廃線跡探訪者もいる。

(H28.11.16 SB932SH撮影)

古川町の農神祭

2016年10月31日 08時56分20秒 | 橿原市へ
北海道、東北では雪が舞う。

奈良の朝の気温は9度。

前日よりもぐんと下がって6度。

冷え込むうえに風がきついし手はかじかむぐらいの気温。

体感温度は否が応でもサブイ(寒い)を連発する。

晴れ間が見えたときだけ温かさを感じるが、風が吹けば桶屋が儲かるではなく、冷たい風が肌を通り抜ける。

記録では最高気温が16度であるが、防寒具が欲しかったと思う日だった。

古川町の農神祭を訪れるのは実に8年ぶり。

前回は平成20年4月29日だった。

産経新聞のアーカイブでも取り上げた橿原市古川町の農神祭である。

下見に初めて訪れた日は平成19年4月30日だった。

前日に行われた農神祭に供えたゴゼンサン(御膳)はここに残してあるから見てみるか、と云われて・・・・。

腰を抜かすぐらいにびっくりしたことを思いだす。

このときは一眼レフカメラを持ち合わせていなかった。

当時の下見はだいたいがそうであった。

あるのか、ないのか、実態を知る聞き取りが主だった。

人の顔をした野菜造りのゴゼンサンはメモ代わりのケータイ画像で撮っておいた。

その画像を新聞に載せるとは予想もしていなかった。

掲載された誌面。講中の奥さんから電話があった。

新聞を見た人たちから「あんたらこんなえーことしてはんねんな、と、そこらじゅうからあったんやで。ありがたいし、うれしいし」の言葉に誌面を飾ってほんまに良かった今でもそう思っている。

かつては5月3日にされていた古川町の農神祭は平成14年より4月29日に行われている。

古川町の農神祭がどの場所でどのように行われているのか。

この行事を存じている人はどこにおられるのか、である。

判らないことは地元の人に尋ねるしかない。

そう、思ってやってきたのは平成19年4月30日だった。

畑を耕していた人に尋ねれば、その行事は前日の4月29日だったという。

「詳しいことはトーヤさんに聞いたらえーで」と教えてもらった家を訪ねる。

訪ねた家はM家。

午後5時ころだった。

玄関から出てこられたのは婦人。

「そーですねん。昨日でしたわ」と、いう。

農神祭は前日に終わっていたが、なぜかお供えが、家にまだ残っているという。

奥から玄関に運ばれたお供えはなんと、なんとの野菜で作った「顔」だった。

普段なら行事を終えたら始末する。

始末といっても野菜だけに調理されて口に入る。

そう話していたお供えは「御膳さん」と呼んでいた。

玄関入ったところでは暗がり。

もっと明るい処で撮るためには場を移動しなければならない。

了解をいただいて塀の下に置かせてもらってシャッターを押した。

撮ったカメラはケータイ電話だが、とっぽな口が特徴のダイコン顔が鮮明に撮れた。



この野菜の御膳には、今年の流行り言葉でいえば「びっくらぽん」、である。

とにかく強烈なインパクトで迫ってくるダイコンで作った人面顔は平成19年の4月30日に撮ったものである。

トーヤによっては作り方・飾り方が毎年違う。

そのときに旬の野菜で形作ると話していたことを思いだす。

農神さんを祭る祠は大正二年に建てた瓦葺。

重さに耐えかねて銅板葺きに仕替えた。

そのときに取り換えた古瓦はすぐ傍に置いている。

風雨に晒されても傷みは見られない。

その瓦材で作られたのが祠前に立つ灯籠である。

「大正二年 松田商店」と「五月吉日 細工人瓦留」だ。

当時、講中であった一人が火鉢屋の松田商店に作ってもらった瓦製灯籠。

あまり見ない形式である。

数年前までは6軒の講中であったが、やむをえず脱退されて5軒の営み。

平成20年に取材させていただいたこともある行事である。

送迎ドライバーの仕事をしていた3年前の平成25年のときだ。

行事当日の12時40分ころにMさんから電話があった。

今からノガミ塚に参るけど・・・という電話だったが、今から追っかけるには無理がある。

その後も仕事で重なった29日の祝日。

送迎の仕事は退職した。

いつでも出かける状況になった。

電話をもらったこともあって古川町の農神祭を久しぶりに拝見したくなって出かけた。

早めに着いた古川町。

農神祭に供える御膳作りは公民館で行われる。

早く着いても扉は閉まっている。

まずは数年間も失礼しているMさんにご挨拶だ。

久しぶりの顔を見られた婦人が云う。

そろそろ講中が集まるから・・・。

ついさっきまでは閉まっていた扉が開いている。

お声を掛けて上がらせてもらったら、

御膳の調整が始まっていた。

懐かしいお顔の講中に変わりはない。



仕掛り中の御膳を拝見しながら撮らせてもらう。

中央に皮付きのタケノコを配してキュウリやナスビを立てる。

赤いニンジンに緑のピーマンも立てる。

正面はコーヤドーフに串挿しのシイタケだ。

形作りは特に決まりはない。

当番の人の創意工夫で作る立て御膳である。

そういえば平成20年に寄せてもらったときの同じような作り。

講中によれば毎年がこういう形になっているというに対して思わず発した声は「えっ」である。

平成19年にMさんが見せてくれた御膳はダイコンを立てたとにかくユニークな顔だったことを伝える。

そうすれば「そんなことはない。

それはダイグウサンに供えたときのんとちゃう」と云う。

ダイグウサンの行事はこれまで2度、取材したことがある。

一つは平成19年5月16日

もうひとつは平成19年7月16日

月一回の廻りで参る家は違うが、御膳の形は2度とも立て御膳ではなく寝かせていた。

まして、ダイコン顔の御膳を拝見したのは4月30日。

ダイグウサンは毎月の16日である。

2週間以上も経った30日までそのままの状態で残せることは不可能だと思うのだ。

何かの思い違いの勘違い。

産経新聞に紹介した記事にウソ有りになってしまいそうだが・・・これ以上のツッコミはしない。

御膳さんが出来あがればノガミ塚に向かう。

前回に訪れたときは作った御膳は三方ごと抱えて歩いた。

神饌ものは一輪車に乗せて運んだ。

久しぶりに訪れた今年は車に積み込んで運んだ。

ノガミ塚周りはすっかり変貌していた。

北、東側にはつい数年前に新設された広い農道もある。

当地は国有地の0番地になるという。

毎月の清掃があるノガミ塚。

雑草がはびこれば刈り取る。

ゴミが落ちていれば拾う。

祭っているサカキは入れ替える。

オヒカリのローソクに火を灯して手を合す。

それが月当番の役目だという。

大きくなったヨノミの木は伐採したが、すぐにニョキニョキと若葉があがってくるらしい。

着いてすぐにこれまでと同じように御膳さんはノガミの祠に置く。



前にはテーブルを組み立ててそこに神饌や御供を置く。

ローソクに火を灯す。



そうしてノガミさんの前に並んで般若心経を唱える出雲講の女性たち。

冷たい風が吹きぬくなかでの唱える心経は手が凍えそうになった。

(H28. 4.29 EOS40D撮影)

曽我町天高市神社の夏越大祓

2016年05月13日 08時50分21秒 | 橿原市へ
橿原市小綱町のノージンサン調査の日だった。

京奈和道路より小綱町へ向かう道すがら。住宅街の一角に行事案内を貼りだしていた掲示板に目がいった。

隣町の曽我町に鎮座する天高市(あめのたかち)神社の行事案内だった。

それには茅の輪を潜る写真もあれば、人形(ひとがた)に息を吹きかけて祓う写真もある。

案内に「国の隆昌・大和の国の安泰・曽我の郷の安全を願い、地域の人々の罪や災いを清々しく祓い清めお幸せにお過ごしいただきますよう、謹んで斎行します」とあった。

天高市神社は平成20年2月に祈年祭・御田植祭を取材したことがある。

同神社で夏越大祓が行われていることは存知していなかった。

数年ぶりであるが、是非とも伺いたくスケジュール・オンした。

斎行される時間までに到着しておきたいと思っていた曽我町の天高市神社。

鎮座地は覚えているが、どこをどう通っていくのかすっかり忘れていた。

迷いに迷って到着した神社に禰宜さんがおられた。

ご挨拶をさせてもらったら、どなたか判らないがやってくると思っていたと話す。

それが私であったのだ。

神さんに導き招かれたようにやってきたようだ。

摩訶不思議なご縁である。



斎庭に立てた茅の輪は夏越大祓に潜る。

平成26年より復活された茅の輪になると話す。

それまでは神職が大祓詞を唱えるだけだったそうだ。

復活を願って氏子に持ちかけた。

賛同されて昨年から始めたという。

材料の茅は曽我川すぐ近くの田に植生していた。

氏子たちが刈り取って、二日前の日曜に竹組をするなどして設えた。

両端に立てている茅の輪は30日の午前中に立てた。

二日間の差がある茅の色落ちでその状況が判る。



この日は雨天。神職も氏子もテント内で斎行される。

夏越大祓は氏子も揃って唱和する大祓詞から始まる。

宮司はかつて祈年祭・御田植祭を取材させていただいたことを覚えておられた。

つい先日に行われた小綱町のすももの荒神さんにも出仕されたという。



その次は禰宜さんによる修祓だ。

幣で茅の輪や氏子を祓ってくださる。

祓った幣はパキパキと折って焼き納めの釜に入れる。

次も同じく禰宜さんが作法をされる。



布を切り裂く「はらえつもの(祓えつ物)」の儀式だ。

布の端を掴んで一気に切り裂く。

これを八回繰り返す。



水平に構えてぐっと引き裂く。

繰り返し、繰り返し、細くする一瞬の作法である。

この日は雨天。雨が降ることからテント内で行われたが、本来なら祓戸社の前で行われる。



禰宜さんは神さんのオヒカリを提灯に遷す。



その火を焼き納めの釜に納めていた諸々に移して火を点ける。

取り出した人形(ひとがた)。



氏子たちが息を吹きかけて穢れを遷した身代わりの人形を手にした禰宜さんはふっと息を吹きかけ釜に落とす。



何度も何度も繰り返す。

締めであろうか、奉っていた黄色いお札のような「疫神斎」の束で煽ぐ。



この間、宮司は大祓詞を奏上し祓い清めていた「浄火焼納祭」。

身代わりの人形を神火で焼納されて天に昇っていった。

歳神さんを迎えた注連縄などを燃やすトンドと同じように天に昇っていく。

罪や穢れを祓う人形は名前と年齢を書いていた。

昨今は車形も登場する時代になったと教えてくださる。



人であれば名前を書くが、車形ともなればプレートナンバーを書くようだ。

「水無月(みなづき)の 夏越(なごし)の祓(はら)えする人は 千歳(ちとせ)の命(いのち) 延(の)ぶというなり (拾遺和歌集)」を唱和しながら茅の輪を潜る。



半年間の罪や災いを祓う茅の輪潜りの神事。



まずは潜って左側に廻る。



戻って次は右廻り。

再び戻って左廻りの3回潜る。



茅の輪は祓具。

最後に正面に向かって拝礼し無病息災を祈る。

地域によっては2回目に潜るときは「思ふ事 みなつきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓ひつるかな」。

3回目に「蘇民将来 蘇民将来」を唱えるところもあるらしい。

前列に座った氏子の茅の輪潜りが終われば後列の氏子に入れ替わる。

茅の輪潜りを終えた氏子たちは茅の輪の両端に立てていた茅をもらって帰る。

家の神棚や門口などに供えつけて魔除けにする人もおられる。



昨年に貰って家の魔除けをした茅はどうしたらいいのか、尋ねる氏子もいる。

トンド焼きのときに燃やすのがいちばん良かろうということだ。

曽我町のトンド焼きは1月14日の夕刻。

曽我川と高取川が合流する川原で行われていることを付記しておく。

祭典が終わって解散された。

その直後から本降りになった。

絶好なタイミングだった。

(H27. 6.30 EOS40D撮影)

小綱町ノージンサンのジャ

2016年04月15日 09時11分28秒 | 橿原市へ
6月28日に行われる「すももの荒神さん」の運営も小綱町文化財保存会に移った。



「浴衣まつり」でもあるので役員さんも浴衣姿になると話していた。

記録用に撮った写真に赤いモノが見えた。

なんだろう。気になったら眠りから覚めるので一週間後に再訪した。

その部分を拝見すれば・・・。

赤いモノは「ジャ」の舌ではないだろうか。

藁束を二股にした部位は「ジャ」の頭であろう。

ヨノミの葉で覆われているので手で除けながら光を当てて撮っておいた。

これも記録用として撮っておいた。

ちなみに奈良県教育委員会が記録作成事業報告書に纏めた『大和の野神行事』がある。

昭和59年度から昭和60年度の二年間に亘って調査してきた報告書に「小綱町ノグチサン(ノーグッツアン)」がある。

昭和57年当時に記された史料によれば、野神祭りは座中当屋、神主、総代らによって行われていたとある。



6月4日の当日までに蛇作り材料のモチワラ・縄、天秤棒の青竹を調達して、半紙に牛・農具を描いた。

蛇作りは座の先座、後座の二人が作った。

担いで歩くのもこの二人だ。

4日当日は各農家から昼食時に経費を徴収していた。

昼食を済ませた午後1時は蛇作り、輪作り、御幣作りなどの作業を行う。

午後2時ともなれば、当屋家より野神塚へ向かう。

蛇の参進には作った蛇をオーコで担いで歩いていた。

今では想定できないぐらいにかつての蛇は太かった。

重さがある蛇はヨノミの木の前に置いて納めた。

現在のように巻き付けることはなかった。

そして神主による祈祷・お祓いがあったもようだ。

祭典を終えた午後3時には近所の子供たちにお菓子を配って終わる。

戦前までの子供たちには野神祭の役目があった。

田んぼに生えていた麦の畝の中に隠れていた子供たちは、野神塚へ参進する一向に土や泥を投げつけるなど大暴れしていた。

その行為を避けるために一行は手ぬぐいをほうかぶりして防いでいた。

座の家(当屋であろう)は野神塚から戻ってきたら、作っておいた串団子をあげたという一連の調査報告に時代の変遷を感じる。

(H27. 6.11 EOS40D撮影)

転換する小綱町のノージンサン

2016年04月15日 08時55分07秒 | 橿原市へ
早い年であれば朝7時半かもしれないと聞いたのは平成19年のときだった。

訪れたときにはすでに「ジャ」はトグロのように2代目ヨノミの木に巻きつけられていた。

かつて「座」当屋・神主・総代らで行われていたノージンサンは水利組合に移ったと聞いていた。

昭和55年10月に記された『座当屋年中行事帳』によればノージンサンは野神祭の字が充てられているそうだ。

ノージンサンが行われる場は野神塚(のうじんづか)であることからそう呼ばれたのであろう。

それから8年間も経過した。

仕事や所要が重なりようやく再訪することができた小綱町。

ヨノミの木は垣根の木に遮られて存在も判らなくなっていた。

前年に掛けられたと思える「ジャ」が残っていた。

しかしだ。待てども、待てどもどなたも来られない。

もしかとすれば時間帯が替わったかもしれないと思って野神塚区域に建つ民家を訪ねた。

8年前にも尋ねたN家である。

婦人が出てこられて「今年から自治会運営に移ったようだと聞いている」という。

行事の前にはヨノミの木の下を清掃するなどしていたが今年は見なかったという。

野神塚は公有地。

史跡化する予定で境界指標が立てられたのであった。

状況に変化があったノージンサンはこれが最後の姿になるかもしれないと考えられたので記録用の写真を撮っておいた。

そうして訪れた元総代家。

「すももの荒神さん」行事のときにもお世話になったNさんを訪ねた。



元総代は6年前に辞められたが今でも地域の水利組合長をされている。

小綱町のノージンサンは民俗文化財に指定されていることもあり史跡化する計画があるという。

ヨノミの木の周りを整備し町の文化財として保存することになったと話す。

平成23年5月・小綱町文化財保存会を立ちあげて正蓮寺大日堂や入鹿神社などを整備してきた。

保存会は「いにしえの先祖から引き継いだ貴重な町の文化財を後世に正しく伝承する目的」にあるという。

今年の11月には史跡・整備化が完成する予定の野神塚もその一環にある。

ただ、「ジャ」を巻き付ける行事は水利組合がしていたが、今のところ継承する考えはないようだ。

もしかとすれば神社の注連縄を掛けるときに同じような形でする可能性もあると云われる。

保存会顧問をされているNさんから野神塚の現況を記録してほしいと願われて再び訪れた。



葉が生い茂っている状況ではあるが、なんとか昨年に巻き付けられた「ジャ」を撮っておいた。

(H27. 6. 4 EOS40D撮影)

大谷町の行事

2016年03月14日 09時18分02秒 | 橿原市へ
畝火山口神社・大谷宮司が7年前に話していた橿原市大谷町の農神祭。

一度は拝見したいと思って訪れた。

場は八幡神社。

聞いていた時間になっても訪れる人はいない。

この日、苗代作りをしていた婦人が話すには数年前に中断したという。

参拝・ゴクマキをしていた場は八幡神社内。

注連縄を張った玉垣に囲まれた場はご神木が立っている。

その場を「ノガミサン」と呼んでいた。



3升のモチを杵で搗いていたのはトーヤ家。

モチを供えていたようだ。

婦人がいうには八幡神社に宮座もあった。

「座」に揃えた椀の数は50枚以上。

「料理を作るのはたいへんやったが、子供たちが喜んで食べていた」という。

伊勢に代参したときに授かったケンサキでトーヤ決めのクジを引いていた。

トーヤ送りの夜は祝いの宴をしていたがこれも中断したという。

その年より一切合切の神事行事をしなくなった。

その年、併せてゴクマキをしていた1月、7月、10月の16日の「ダイジングサン(大神宮)行事も中断したそうだ。

(H27. 5. 5 EOS40D撮影)