マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

久安寺薬師さんのオコナイ

2014年06月15日 08時30分38秒 | 平群町へ
平群町の久安寺は杵築神社の行事を取材したことがあるが、薬師堂で行われるオコナイは始めてだった。

会所で版木刷り作業をされるのは11人のオヤとコ。

オヤは久安寺にある北、久保、南の3垣内それぞれの代表者。

任期は3年間だそうだ。

コも同じく各垣内から選ばれた人たちで2年任期。

ミナライに籠り役と云うイノコリも勤める。

この日は朝から雨が降り続ける日だった。

朝から薬師堂を清掃されて奇麗にしていたと云う。

昔から使っていると云う版木は二枚ある。



一つは「御祈祷寶簡」の文字で、もう一枚は梵字がたくさんあるが、判読不能だ。

その梵字下にあった文字は「火災消除守護」だった。

それぞれ5枚ずつ墨汁を刷毛で塗って半紙に刷っていく。

昔は牛の姿の絵の版木もあったようだと話す。

その版木は20年ほど前に盗難にあった。

村行事に移ったときにはまだあったと云う。

「御祈祷札」は先を割った竹に挟んで苗代に、「火災消除守護札」は三宝さん或いは愛宕さんなど家の火遣いの場に祭ると云う。

平群町は小菊の一大産地。

稲作農家もなく、苗代をしている家はまず無いだろうと話す。

牛の絵札はどこに貼っていたのか、尋ねた結果は牛小屋である。

絵札は小屋の入口の柱に貼っていたと話す。

絵札話しの内容から、昨年9月に聞いた大淀町馬佐の牛滝まつりのかつての様相と同じだと思った。

二枚のお札を薬師堂で祈祷されるのは久安寺の専念寺住職。

融通念仏宗派のお寺である。

薬師堂が建っている場はかつての長生院。



お堂には宝暦四年(1754)に長生院を再建されたと記す棟札が残されていた。

「宝暦甲戌年 和州平群郡久安寺邨 長生院住持□□本住  奉再建房舎一宇天下泰平國家豊樂院内安穏人法紹隆 大工同國同郡法隆寺村辰巳三郎兵衛某」とある。

裏面は「去寶暦三癸酉歳六月三日大雨山崩房舎大破壊□ 今年粗得邨民竹木之助再建之者也 本住記」とある。

棟札が記す宝暦三年の山崩れによって大破した長生院は翌年の四年に法隆寺村に住む大工が建てたとあるのだ。

素盞嗚神社で行われた御湯の湯釜には「牛頭天王宮元文三戌年(1738)八月吉日 和州平群久安寺邑長生院住持本住比丘氏子中」の刻印があった。

湯釜を寄進された十数年後に山崩れに見舞われたということだ。

しかもだ。



薬師堂に残されていたかつての大型鰐口にあった刻印は慶長七年(1602)である。

400年前にはすでに長生院が存在していたのである。



村の歴史は遺物にあった年号で判明した貴重な什物である。

かつては真言宗であった長生院。

専念寺住職が話すに、「真言宗である信貴山朝護孫子寺の僧侶がオコナイをしていたのであろう」と云う。

この日は薬師さんのオコナイ。

雨が降るなかのお勤めになった。

薬師さんの仏画掛軸三幅掲げて御供を供える。

仏画はいずれも同じようである。

版木で刷ったお札はそれぞれ50枚ずつ。

祭壇に奉って祈祷する。



お念仏は融通念仏勤行。

般若心経、菩提回向、三界万霊などを唱えて終えた。

ときおり磬を打つ音も聞こえてくる。

その磬は貞享四年(1687)の作であるらしい。

雨が降るなかのオコナイは堂内に住職がお一人。



村人が座る位置もなく、境内で傘をささざるを得ない。

祈祷された御祈祷寶簡札を苗代に立てる際にはウルシの木に挟んでいたという長老の話しから伺える薬師さんのお勤めはオコナイに違わない。

この日にカンジョウナワを編んで掛けていたのは昔のこと。

今では年末に「やいのやいの」と云いながら五人がしていたそうだ。

この年のカンジョウナワは前年の12月14日だった。

昔からここであったというナワカケの場は素盞嗚神社の鳥居前。

樹木に掛けて伸ばしている。



かつては集落下を流れる川に掛けていたと思われるカンジョウナワには大きい房が三つある。

カンジョウナワを注連縄だと云う人もおられた。

(H26. 1. 8 EOS40D撮影)
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平群町信貴畑の勧請の地

2014年06月13日 07時21分26秒 | 平群町へ
福貴畑に立ち寄る際に通る街道。

昨年の1月4日に取材した平群町信貴畑の勧請縄を拝見した。

正月初めに行われる信貴畑の勧請縄は2カ所ある。

そのうちの一つが勧請の地に掛けた勧請縄である。

今年も4日にされたようだと福貴畑の総代が話していた。

(H26. 1. 7 EOS40D撮影)
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福貴畑の正月座

2014年06月12日 10時06分55秒 | 平群町へ
度々行事取材に訪問してきた平群町の福貴畑。

正月初めに行われると聞いていた正月ノ座がある。

かつて特定家で行われていた(宮)座があった福貴畑。

「膳」の名で呼ばれていた座中家で作った料理を持ってきていた。

昭和の何時か判らない、随分と前のことだと云う。

80戸の集落全員が福貴畑氏子であることから、戦前に解散した「講」家の行事を村行事として継承してきた福貴畑の座行事である。

正月ノ座と秋のマツリの座の二座行事が継承されている。

「座」の営みは、「膳」の在り方が料理屋の仕出しに移ったぐらいでほとんど変わりなく行われている。

この杵築神社の本殿に供えたのは□型に△型を二段に盛ったムシゴハンである。

高杯に載せたムシゴハンの周りにはサトイモ数個を載せた小皿も見られる。

お神酒も供えたのは正月ノ座を摂待する5軒当家だ。

観音堂の神さんや仏さんにも供えた御供の形が気にかかる。



昼ごろに参集された村氏子は白い幕を張った座小屋に上がった。

一人、一人の座には「オデン」と呼ばれる御膳が置かれた。

「オデン」は「ゴゼン」。

充てる漢字が「御膳」。

「御膳」が訛って「オデン」と呼ぶ。

そう呼ぶ地域は当地だけでなく県内事例に多く見られる呼び名である。

「講」家でされていたときはそれぞれの家が作っていた膳であったが、今ではパック詰め料理の「オデン」。

多くの地域でそうしている仕出し料理のパック膳である。

5軒当家のうち3人は下座に座って代表が口上述べる。

「オツユがとおりましたのでいただいてください」で始まった正月ノ座。



摂待役の二人が上座に座る総代や区長に。

椀に注ぐのは豆腐汁。

銅製の湯とうに入っているのが豆腐汁である。



味噌仕立ての豆腐汁は砂糖を1kgも入れたと云う摂待役を勤める当家の婦人たち。

豆腐汁を椀に注ぐのは上座から年齢順に座った順である。

「あんたも食べてみ」と云われてよばれた豆腐汁の味は甘酒のようなあまーい味噌汁である。

初めて体験する食感であるが、驚くほどの美味さであった。

座中は何杯もおかわりもされるので、接待役はあっちこっちへ忙しく注ぎ回る。

タカの爪も配られてしばらくした時間。

2回目の口上が始まった。

「お神酒を飲んでください」と口上を述べて、神さんに供えた冷酒を注ぐ。

乾杯などの儀式は見られなかった正月ノ座である。



お神酒や豆腐汁、オデン料理をいただくこの日は穏やかな気候で暖房機も要らないくらいの座小屋の営み。

談笑される座の3回目の口上は「ゴシュをいただいてください」だ。

「ゴシュ」を充てる漢字はおそらく「御酒」であろう。

ゴシュの酒は熱燗。

これもまた、座中に酒を注ぎ回る。

お神酒の場合は白いお銚子であったが、燗の酒は茶瓶である。

豆腐汁といえば美味しいものだけに、いずれの酒杯に於いても声がかかるおかわりが忙しい。

福貴畑の正月座はこうしてみれば三献の儀であることがわかるだろう。

台詞に若干の違いが見られるが、「ゴシュ」の名もある川西町吐田の北吐田の「荘厳」も三献の儀。

古式ゆかしい儀式を拝見できて感謝申す揚げる次第だ。

時間を見計らった総代が秋の座を営むマツリの5軒当家を伝えた。

正月ノ座とマツリ(かつて村相撲があった)の座を営む5軒当家は別で、平成10年以来にようやく村をひと回りしたそうだ。

こうして1時間ほどの座を終えた人たちは座小屋を降りた。



それから供えた神さんや仏さんの御供を下げる。

四角い高杯に載せた白いご飯。

□型、△型に盛った2段型のムシゴハンである。



□型のムシゴハンは枡型の木枠に詰め込んで作った。

△型は円錐型である。

ブリキ製の枠に詰め込んで作ったが御供に名は無いと云う。

香芝市下田の鹿島神社で行われる結鎮祭礼も二段のカクメシ。

天理市新泉町の素盞嗚神社で行われる野神祭りも二段のオシゴハン。

但し、上部も四角だ。

山添村北野の津越にある薬師堂で行われる八幡さんの京の飯は丸と四角の二段のメシ盛りだ。

形は若干違うものの同じような「キョウノメシ」によく似ている。

一方、一段だけの盛りもある。

スシメシと呼ぶのは川西町下永のキヨウ行事

桜井市の箸中で行われるノグチサン行事も同じで、それをツノメシと呼んでいた。

それはともかく、福貴畑の正月に供えられた二段のムシゴハンの周りに置いた小皿には茹でたサトイモが三つある。

それぞれの高杯に5皿ずつだ。

かつては石臼でアオマメをすり潰したクルミを載せていたと云う。

「それほどキョウノメシを撮っていただいたなら、あんたにもあげよう」と貰って帰ったムシゴハン。

総代が話すには、いろいろ試してみたが、オカイサンが一番美味しかったという。

こんなお土産を貰ったんだと云ってかーさんに見せたキョウノメシ。

しばらくは台処に置いてあった。

それから数日後の12日の晩。

夜食も終わっていた。

「あんたが貰ってきたんだから食べてや」という。

それは翌日の朝食。

千枚漬けをおかずに食べたオカイサンは美味しいのである。

カラカラに乾いていたムシゴハンは丁度よく柔らかい。

ほうじ茶で炊いたオカイサンはもう一杯と思うのであるがよそってもらった椀がでかい。

今度食べるときには野沢菜の漬物が欲しくなった。

(H26. 1. 7 EOS40D撮影)
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久安寺素盞嗚神社のマツリ

2014年03月07日 08時26分57秒 | 平群町へ
前夜に降り出した雨はやまない。

雨水がかかってはせっかくの提灯は傷んでしまうと判断されて仕舞われた。

提灯を立てた杭だけが残された。

本来なら4基の村の提灯が並ぶのだが、雨にあたれば修繕する費用がかかる。

マツリに相応しい提灯掲げは止むを得ない処置だと平群町久安寺の総代が話す。

久安寺に鎮座する素盞嗚神社は信貴フラワーロードを少し西に下った集落の南側にある。

久安寺集落は起伏に富んだ3垣内(北、久保、南)。

それぞれの垣内から選ばれた年当番の人たちがマツリを勤める。

本殿の祭神は素盞嗚命。江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた。

境内社左は春日神社で、右が八王子社である。

神社に上がる石段を登れば石の鳥居がある。

その傍にある石燈籠には天保六年(1835)の記銘がある。

かつては宮座の行事であったが、現在は村行事となった秋のマツリ。

6月に行われたケツケの植付け休みと同じように御湯が行われる。

前庭に設えた斎場はケツケと同様に四方の忌竹で囲われている。

御湯の前に神事が行われる。

本殿前で龍田大社の神官が祝詞を奏上されて三郷町在住の巫女さんが神楽舞を舞う。

始めに鈴の舞で左手に扇を持つ。

次が剣の舞だ。

拝殿には集まった村人で埋まっている。

入りきらずにいた婦人たちは拝殿下に並ぶ。

遠慮して撮らせていただいた神楽舞やお祓いの鈴。



ケツケ同様に参拝する村人たちに鈴でお祓いをされる。



階段下で列を作っていた婦人たちや子どもらにも「祓いたまえー 清めたまえー」とお祓いをされる。

そうこうして玉串奉奠。数多くの氏子たちが奉げる。



マツリのご馳走は当番の人が作った枝付きのエダマメだ。

籠いっぱいに盛られたエダマメは大量である。

三社に供える神饌は献饌もせずに予め置かれていた。



神事を終えて撮らせてもらった御供は稲穂、鯛、牛蒡、大根、椎茸、枝豆、柿、林檎、蜜柑などである。

氏子のU氏の話しによれば、かつて宮座行事であったときには手で一つ一つ手渡す献饌であったと云う。

秋のマツリのメインも巫女さんが作法をする御湯。

雨が降っている日であっても「御湯の作法をする時間帯はいつも雨が降らないんです」と巫女さんが云っていた通りに止んだ。



斎場を遠巻きにして見守る村人たちの視線を感じながらの作法である。

薪のシバで釜湯を煮立てて、笹で掻き混ぜればもうもうと立ちあがる湯気。



湯気が久安寺の里に降りる神さんなのである。

聞くところによればある村では、火を起こさず魔法瓶の湯を注いでいたらしい。

それでは「村に神さんが降りることはない」と苦言を申されたというやに聞いた風の便り。

柏手を打って、かしこみ申すと神さんに告げる。

最初にキリヌサを撒く。

お神酒を投入して御幣でゆっくりとかき回す。

御幣と鈴を手にして右や左に舞う。

2本の笹を両手にもって湯に浸ける。

もうもうと立ちあがる湯気。



大きな動作でシャバシャバすれば立ちあがる。

東の伊勢神宮の天照皇大明神、南の談山神社の多武峰大権現、西の住吉大社の住吉大明神、北は春日若宮大明神の四柱の神々の名を告げて呼び起こす。

再び笹を湯釜に浸けてシャバシャバする御湯の作法は実にダイナミックである。



何度か行って、東、南、西、北の四方に向かって「この屋敷に送りそうろう 治めそうろう 御なおれ」と告げられた。

御湯に浸けた笹と幣、鈴を持って再び神楽の舞いをする場は本社、末社の二社である。

シャン、シャンと鈴の音がする。

履物を履いて並んでいた村人の前にゆく。

「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」。

村人一人ずつ湯笹で祓った。



設えたテント向こうでこの日の支度をしていた婦人たちにもきちっと祓われる。

こういう丁寧なたち振る舞いにいつも感動する。

かつて、巫女さんは村の女性であったとU氏が話す。

女性は三輪で習った作法を久安寺で所作していたと云う。

戦時中のことだと話すUさんは80歳。

隣村の信貴畑も含めた地域の神社の朔日(ついたち)参りにも出仕していた。

参りに行くのは地区小学生の子供たちだった。

そういう地域の参り方の様相は過去のこと。

今では見られなくなったと云う。



御湯が終わって当番の人が作った枝付きのエダマメでお神酒をいただく。

塩をいっぱい振りかけたエダマメの美味しいこと。



テント下では男性たちが、社務所内には子どもたちや婦人たちでぎっしり。

村人といえども有料で販売されるおでん、きつねうどん、ぜんざい、おにぎりにビールで賑わった。



久安寺の村のマツリでいただくほのぼした風情。

よばれたきつねうどんもまた食べたくなったと思った。

(H25.10.19 EOS40D撮影)
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福貴畑の観音祭

2013年12月17日 09時16分05秒 | 平群町へ
杵築神社拝殿横に佇む平群町福貴畑の観音堂。

史料によれば、かつて西庄にあった薬師院の別院であったそうだ。

安置する本尊は平群町の文化財に指定されている聖観音座像。

檜の寄木造で高さは87cmにもなる。

像内部にあった墨書銘は「天文十七年(1548)八月十八日 空阿 宿院仏師源次」であったそうだ。

8月17日は福貴畑の観音さんの日。

観音堂内で行われる観音祭には神社役員に三郷町の巫女さんが参列される。

祭りをされる最中に聞こえてきたセミの声はツクツクボウシ。

大凡、お盆のころに聞こえてくるようだ。

一般的に行われる観音さんの日の営みは、在村の婦人らが勤める西国三十三番のご詠歌であるが、福貴畑では珍しく、巫女さんが導師を勤められる。

狭い堂内には8人も入れば満席になる。

始めに堂内で焚きあげる護摩焚き。

護摩木に火を点けて燃え上がる。

その場で立ちあがって神楽を舞う巫女さん。

県内各地の行事取材でたいへんお世話になっている巫女さんである。

鈴をシャンシャンと鳴らして舞う神楽の次は剣の舞いである。

二つの剣を持って交差するような独特の作法で舞う。

神楽舞を終えれば、鈴と剣を手にして役員たちをお祓いする身体堅固である。

文様などが気になっていた巫女さんの装束。

県内各地に出仕されている巫女さんの装束はそれぞれであることに気がついたからである。

ありがたく、ご享受してくださった白い上着の文様。

「舞衣(呼称はまいぎ若しくはまいぎぬ)」と呼ばれ、赤と緑の文様が特徴である。

舞衣の前に長く垂らした赤と緑を前胸あたりに結んで締めている。

赤と緑の文様は両肘・方袖や背中にもある。

それを「五紋」と呼んでいる。

「赤と緑の色は五色の垂れをつけた鈴から派生したのでは」と、巫女さんが話す。

ちなみに下着は前襦袢で、その上から白衣を身につける。

下半身に着用する袴は緋袴(ひばかま)で、白足袋を履く。

参考であるが、若槻の巫女さんの上着は「若松鶴柄」であるが、小泉の巫女さんの上着は「鶴」が舞う姿を描いた「千早(ちはや)」の舞衣である。

また、法貴寺の女児巫女が着用していたのは「菊柄」であった。

三郷町の巫女さんの舞衣は、独特の文様であったことにあらためて認識させていただいた。

この場を借りて感謝申し上げる次第である。

さて、観音祭の主となる営みは西国三十三番のご詠歌である。

五紋の上着を脱いで着座する巫女さん。

本尊前に立てたローソクに火を灯す。

席に座って本尊に向かいご詠歌を謡う。

巫女さんが鉦を打って、導師を勤められる。



福貴畑のご詠歌は三十三番までではなく、一番から十番で、一挙に短縮されて三十三番で終える。

かつては福貴畑に住む祖父の妹さんが巫女さんを勤めていた。

引退されたことで、先代から引き継いだご詠歌だと話す。

福貴畑の巫女家は途絶えたが、勧請縄掛けの際にお世話になったSさんが云うには300年間も継承していた巫女家系で、年に30回も龍田大社の巫女神楽に出仕していたそうだ。

生前、身につけていた装束は今でも大切に保管していると話すSさん。

母親が勤めていた福貴畑の観音祭は西国ご詠歌ではなく、神楽舞だけであったようだ。

「それでは寂しいからとご詠歌を始めるようになった」と話していたことを思い出す。

(H25. 8.17 EOS40D撮影)
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福貴畑ジョウサン池の龍神祭

2013年11月03日 09時01分55秒 | 平群町へ
平群町福貴畑の水がめであるジョウサン池。

農業にとって大切な池は地域の貴重な水源地でもある。

村の鎮守社である杵築神社より北西500m先の山の上だ。

大阪県境になる十三峠はそれより向こう側になる。

6月22日に通りがかった十三峠の道筋。

そこでは村の男性たちが集まって道造りをしていた。

村の道にはびこる樹木や草を刈っていた。

いつもこうしていると話すS宮総代。正月初めに行われた勧請縄掛けでお世話になった。

この日はジョウサン池に鎮座する龍王神社のマツリである。

龍王の名が示すとおりの水の神さんは池の南東畔にある。

この地はかつて雨乞いの場であった。

干ばつともなれば杵築神社にお参りをして松明に火を点けて山道を登っていった。

十三塚を左回りに巡ってから火を点けた松明を池に投げ込んだ。

そうすることで慈雨を乞うたのである。

龍神を怒らせて雨を降らせたという説もある雨乞いの様相はかつてのこと。

ジョウサン池に向かう村の人たちが抱える雨乞い松明の写真がある。

平群町が平成11年9月発行の422号に発行した『ふるさとへぐり再発見』に掲載された写真は奈良県教育委員会提供である。

ありしの姿を復元した松明行列の写真である。

その写真は先日まで県立民俗博物館で開催されていた企画展の「お米作りと神々の祈り」で展示されていた。

龍王神社下の広場に斎場を設けた。

シバを燃やして湯を沸かす御湯釜は他所では見たこともない茶釜であった。

年代を示す刻印もない湯釜。

ぶんぶく茶釜のような突起物は見られないが、御湯をされる三郷町の巫女さんも間違いないと話す。

湯釜の前に置いた蓆に座った巫女さん。

一拝して小幣を左右に降る。

ポン、ポンと柏手を打つ。

祓えの祝詞を奏上する。

そして湯の上から撒き散らすキリヌサ。

立ちあがって幣を振る。

その幣を湯に浸けて掻き混ぜる。

「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。

「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。

福貴畑の龍神さんに神さんを呼び起こして勧請する。



勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転する神楽を舞う。

笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき いずくの国より 天より降りたもう」と告げて、上下に動かす湯に浸けた笹の葉。

もうもうと立ちあがる湯のけむり。

「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。

それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。



そうして湯に浸ける笹の葉。

何度も、何度も繰り返す。

まるで湯を焚きあげるような作法である。

そうして四神に向かってそれぞれ「元のおやしきに送りそうろう おさめそうろう おんなおれ」と告げる。

先ほどと同じように左、右、左に一回転する神楽を舞う。

そして龍神さんの祠の前に進みでて同じように神楽を舞う。



下って、「水難、盗難、家内安全、もろもろの穢れを祓えたまえ きよめたまえ」と参拝した神社役員一人、一人に御湯の笹を鈴で祓い清めるありがたい身体堅固を受ける。



御湯の儀式を終えれば一人ずつ龍神さんに玉串を奉奠する。

御湯に使った笹の葉と幣は祠に残して立ち去る。

龍神祭を終えたジョウサン池は静けさを取り戻す。



ちなみにジョウサン池を充てる漢字は何であろうか。

池の向こうは十三峠。

もしかとすればと思って、宮総代に伺った。

「ジュウサン」が「ジョウサン」に訛ったのでは・・・。

「そうかもしれん」と返答する宮総代であった。

雨乞いの御湯を終えたころにはぽつぽつと雨が降り出した。

雨乞いが叶った祈りの祭典を終えた氏子たちは杵築神社に戻って直会をする。

かつては秋のマツリにおいても御湯をしていた。

境内に設えた御湯の行事は今では見られない。

(H25. 4.27 SB932SH撮影)
(H25. 7.13 EOS40D撮影)
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久安寺の植付け休みの御湯

2013年10月08日 08時56分43秒 | 平群町へ
村の田植えのすべてが終われば植付け休み。

農作を終えて身体を休める日である。

今では植付け休みと云っているがが、本来は「ケツケ」であると総代が話す平群町久安寺の村。

「サナブリだ」と云う人もいるが、隣村の福貴畑の宮総代もそう云う「ケツケ」は、毛を付けて実りの豊作を願う村行事である。

久安寺の地はお寺の名でなく大字の名である。

「慶長郷帳(1596年~)」「元和郷帳(1615年~)」に記す大字名は「休安寺」であったようだ。

畑仕事の一切をせずに農休み。

そうでなければ村の行事に大勢が集まることは難しいから、第四土曜にしている植付け休みの場は氏神さんを祀る素盞嗚神社である。



本殿前の境内に設えた斎場は注連縄を張って立てた四方竹。

厳かに行われる神事の場である。

中央に設えた古いお釜。

鉄輪(かなわ)の三徳で支えられた湯釜である。

脚にはそれぞれ獣面が彫刻されている鑄物製だ。

10年ほど前までは一本の脚がとれていた。

なんとか支えながら遣ってきた湯釜の脚は修理した。

その際に、取り付けられた輪形で羽釜になった。

その湯釜に刻印が見られる。

「牛頭天王宮元文三戌年(1738年)八月吉日 和州平群久安寺邑長生院住持本住比丘氏子中」である。

およそ270年前の代物を今尚使っている久安寺の祭具に感動を覚える。

刻印された寺院は「長生院」。

かつて薬師堂と呼ばれていた寺院は明治七年に廃寺となった。

境内にひっそりと佇むお堂がそれだという。

「比丘」の名が示すように安寿さんがおられたと伝わる長生院である。

昭和の時代までは久安寺の村に宮座があった。

10軒ぐらいであった宮座は自治会に行事を移管して以来村の行事として運営している。

奈良県庁文書に残されている『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば座は8人であったようである。

小学6年生の女の子は虫類が大好きなようだ。

動かなくなったタマムシを見つけて見せてくれる。

在学している平群西小学校は平成25年度に閉校し、在校生は東小学校に移管されて統合される。

少子化の波はどこもかしこも押し寄せる。

植付け休みの祭典に集まったのは村の人が40人ほど。

この日に行われるのは御湯の神事である。

神職の姿はなく、三郷町の巫女さんが神事を勤められる。



神饌を供えた本殿前で行われる神楽の舞。

始めに鈴の舞で左手に扇を持つ。

次が剣の舞だ。



神楽を終えて、一人、一人に鈴と剣で祓ってくださる。



「祓いたまえー 清めたまえー」と生後間もない赤ちゃんまでも祓い清めるありがたい作法である。

神事は斎場に移って御湯の神事。

柏手を打って、かしこみ申すと神さんに告げる。

最初にキリヌサを撒く。



お神酒を投入して御幣でゆっくりとかき回す。



御幣と鈴を手にして右や左に舞う。

2本の笹を両手にもって湯に浸ける。

もうもうと立ちあがる湯気。

大きな動作でシャバシャバすれば湯が立ちあげる。



東の伊勢神宮の天照皇大明神、南の談山神社の多武峰大権現、西の住吉大社の住吉大明神、北は春日若宮大明神の四柱の神々の名を告げて呼び起こす。

再び笹を湯釜に浸けてシャバシャバする御湯の作法は実にダイナミックである。

何度か行って、東、南、西、北の四方に向かって「この屋敷に送りそうろう 治めそうろう 御なおれ」と告げられた。

御湯に浸けた笹と幣、鈴を持って再び神楽の舞いをする場は本社、末社の2社である。



シャンシャンと鈴の音がする。

履物を履いて並んでいた村人の前にゆく。

「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」と鈴を振って祓う。



氏子たち一人ずつ順に祓い清めて神事を終えた。

笹の葉で飛び散らす御湯は清めの湯。

まさにオハライの御湯を受けた村人たちは神社の会所に上がる。

巻き寿司、稲荷寿司にオードブルなどをテーブルに広げて食するひとときの歓談に移った。

オードブル皿にはエビフライ、カラアゲ、タマゴ焼き、ヤキトリ、イカの天ぷら、肉だんごなどを盛っている。

50年も前はコフキマメにカボチャ(煮ものであろう)の手料理だった。

それを貰いにきた子どもたちは会所の縁側で食べていたと話す。

十数年前までは神職が会所に住んでいた。

不在となってからは神社の秋祭りに龍田大社の神職がやってくる。

素盞嗚神社は龍田の末社であると云う。

秋祭りは10月の第三金曜、土曜、日曜日である。

金曜の宵宮は提灯を掲げる。

日も暮れる6時ころのようだ。

翌日は子供御輿を軽トラに乗せて村を巡行する。

太鼓を叩くのは子どもだ。

祭りの翌日は提灯を片付けて終える。

1月8日は薬師堂でオコナイをする。

午後に参集するのは寺役。

奉書に墨汁を付けた版木でする。

村の戸数の50枚のお札を刷って祈祷するのは僧侶。

神職が居られたときは「ゴンボ」と呼ばれる注連縄を用意していたらしい。

刷ったお札は先を割った竹に挿す。

以前はウルシの木であったが、いつしか竹に替ったようだ。

かつてはオコナイの日にカンジョウカケをしていた。

ツナを結って薬師堂で祈祷してからツナを掛けたと云う。

今では、その日でなく年末だ。

カンジョウツナは注連縄になったようで20日辺りにするらしい。

オコナイで祈祷したお札は春の苗代の水口にお花とともに挿していたが、久安寺の村ではたった1軒の稲作農家。

会食に居られた男性の声。

「家人が食べるぐらいの量しか作らない稲作ゆえ、水口に祭ることもないだろうと思う」と話す。

「ケツケ」を終えた後日に雨が降れば「アマヨロコビ」を垣内単位で行っていた。

これも50年前のことだという垣内の風習は南、窪、北(三つの組垣内)の5垣内それぞれである。

かつては滝ノ上垣内もそうだったと思うのであるが、聞きそびれた。

(H25. 6.22 EOS40D撮影)
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福貴畑の勧請縄掛け

2013年04月15日 07時50分03秒 | 平群町へ
正月8日は平群町福貴畑(ふきはた)の勧請縄掛け。

早朝に集まった男性たちが藁を結う。

杵築神社の座のトーヤ(当家)である。

福貴畑は80戸の集落で全員が氏子になる。

かつては決まった「講」家が座中であったが戦後に解体して全戸氏子制度の座中となった。

縄結いのトーヤは正月座を営んだ人たち5人。

秋にも座のマツリがあり、そのときも5人のトーヤが存在するが、正月座のトーヤとは別のトーヤに替る。

つまり福貴畑のトーヤは1年を2回に分けたトーヤ制度は一年を通じて合計10名からなるトーヤなのである。

80戸の集落からなる福貴畑のトーヤは8年に一度の廻り。

昔から決まっている順番だ云うトーヤは家の並びでもないそうだ。

万が一、不幸ごとがあった場合は替ってもらう。

5軒のトーヤが5束ずつ持ってきた藁束。

現在は稲作農家が少なくなったことから餅米を専門に作っている農家から提供を受けているそうだ。



勧請縄を結うのはモチワラ。

ヨコツチ(槌)で叩くワラ打ち作業でワラを柔らかくする。

塩水に浸けなくとも結い易いと話す。

太くする勧請縄は数人がかりで作る。

作業の場は杵築神社の座小屋と呼ばれる割拝殿。

前日に正月の座の営みをされた場である。

昭和44年5月8日に上棟式をされた拝殿には色彩が僅かに残る彫り物の絵馬を掲げている。

嘉永四年(1851)八月に奉納された絵馬である。

声を掛けられた宮総代も応援に駆けつけて縄結い作業。

一方、勧請縄に垂らすタグリと呼ぶホソナワも結っていく。

タグリの本数は12本。

閏の年であっても12本だ。

30年ほど前には松葉も縄に取り付けていたと話す。

割拝殿の壁には「奉修本尊護摩密供 悪霊退散 五穀豊穣 村中静謐祈攸 大和国平群郷 長楽寺」の木札があった。

真言宗豊山派の長楽寺は平群町役場前にある古寺。

なぜに杵築神社の拝殿に存在するのか判らない。

「どなたかが持ちこんだのではないだろうか」と話す。

縄結いが進行するにつれて長くなる。

かつては上から吊るして3人が身体全身で捩った。

そのときには伊勢音頭を唄っていた。

唄の調子に合わせて捩っていたと云う。

長くなった縄は拝殿の端から端まで。およそ12mの長さである。

神社から遠く離れたカンジョウの地の樹木に巻きつけるからそれぐらいの長さで丁度良いと云う。

一方、社務所でゼンザイを準備する婦人たちもいる。

トーヤの奥さん方である。



勧請の日は夫婦揃っての行事だ。

ゼンザイと夫婦で夫婦善哉を思い出したが・・・特に関係はなく心の中で呟いた私の独り言である。

正月に供えたカガミモチを割ってゼンザイに入れる。



鏡開きは槌で割ることなく機械の押し切り。

宮総代が力を込めて切り分ける。

昨日は7日。福貴畑では七草粥を作ったと話す。

七草はミズナやマナ、ナズナなどを入れた。

セリはまだまだだと云う。

菜っ葉を入れて炊くのはオカイサンと同じ。

家庭によって異なるが塩味、味噌味などさまざまなようである。



この年の縄結い作業は時間がかかった。

小休止や昼休憩を挟んで午後も続行する。

ようやく出来あがった勧請縄はぐるぐる巻いてトグロ巻き。



神社本社前に置いて一同が拝礼。



出発前にホラ貝を吹くとともに太鼓を打つ。

ドン、ドン、ドンドンドンだ。

向かう先はカンジョウの地。

十三峠に向かう旧道である。

分かれ道からほんの少し下った旧道は薮の谷。

そこがカンジョウの地である。

その地から下っていけば福貴畑の杵築神社に繋がる旧道。

さらに下れば小字宮前になると云う。

軽トラックで行っても7分ほどかかるカンジョウの地は見晴らしのいい高台にある。

縄を担いで峡谷とも思えるカンジョウの地に跨げるように掛ける。

一年前に掛けた勧請縄を外して新しく掛ける。

樹木に巻き付けて固定する。

もう一方の縄端は対面側の樹木に上げる。



そろりそろりと持ちあげて縄を張る。

崖のような場所は作業が手間取る。



タグリを奇麗に下げて終えた。

一同は神社に戻ってゼンザイの直会。

大釜で炊いたゼンザイである。

かつては子供たちが大勢やってきて食べていたそうだ。

(H25. 1. 8 EOS40D撮影)
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福貴畑杵築神社の行事

2013年03月29日 09時45分07秒 | 平群町へ
1月7日は福貴畑(ふきはた)の座の行事。

座小屋で営む座中の正月の座のようだ。

8日はカンジョカケが行われる。

杵築神社の座小屋で勧請縄作り。

かつては伊勢音頭を唄いながら縄を結っていたそうだ。

縄ができあがれば神社から南東のカンジョ場に縄を掛ける。

そこへ行くまでの道中では太鼓を打ってホラ貝を吹き鳴らしていたというSさん。

神社には幕はあるもののどなたも居なかった。

集落を抜けて歩いていたときのことだ。

住まいから出てこられた男性にすがるように声を掛けた。

その答えがそれであった。

神社の行事に秋の祭りがある。

座中の籠りだそうだ。

座中の営みは年に2回。

そのひとつが7日であるようだ。

神社営みを司る宮守(総代)さんを紹介したいと案内してくださったが、あいにくの不在。

平群町福貴畑ではかつて雨乞いがあった。

それを示す神社の史料。

わざわざ家の中から探し出してくださった。

その史料に載っている巫女さんの姿はまぎれもない三郷の巫女さんだ。

ジョウサン池と呼ばれる地に龍王神社がある。

そこで行われる祭祀は湯立ての神事。

雨乞いの場は今ではしなくなったが慈雨を想定する湯立て神事がある。

後日に宮総代から聞いた行事に観音堂で行われる観音祭がある。

西荘にあった薬師院の別院だったとされる観音堂で唱和されるご詠歌のことだ。

一般的には観音講の婦人たちが唱える西国三十三番のご詠歌であるが福貴畑では御湯を勤める龍田の巫女さんがご詠歌を唱えるというのだ。

珍しい形式であるが全曲は唱えない。

一番から10番辺りまでだそうだ。

福貴畑ではなにかにつけてモチを搗いていた。

子供ができたらモチを搗く。

男は「大」の文字で女の子なら「小」の文字を書く。

モチは親戚中に配ったそうだ。

4月3日は神武さんのレンゾがあった。

福貴畑には数組の伊勢講があった。

3年に一度はお伊勢さんに参拝していた。

講中は組ごとに寄りあっていた。

当番の家では手料理を作って接待していたという。



なお、神社案内にあった一観音六地蔵石仏は永禄十一年(1568)の作だそうだ。

珍しい形式である。

(H25. 1. 4 SB932SH撮影)
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鳴川のカンジョウナワ

2013年03月28日 06時54分50秒 | 平群町へ
磨崖石仏がある平群町鳴川の地。

村人の姿は見られない。

その場にあると大和郡山市矢田町在住のⅠさんに聞いてやってきた。

川に掛けてあると話していたが渓谷に添って道を歩くが見当たらない。

ふと上空を見上げてみればそこにあったカンジョウナワ。

両脇の高い崖から掛けていたのである。

中央には椣原の房を彷彿させるぐらいの太い房。

マラではないだろうかと思っても付近を歩くのはハイカーたち。

知る由もないだろう。

房辺りから垂らした長い綱。

相当な長さである。

それには三つの垂れ。

挿してある樹木は遠目では断定できない。

鳴川が出里のⅠさんの話では大晦日に掛けていると話していた。

(H25. 1. 4 EOS40D撮影)
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