マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

民博春の企画展、お米作りと神々への祈り

2013年06月30日 20時00分31秒 | 民俗を観る
ちゃんちゃん祭で大字中山が配られるチマキがある。

その日に祭りを終えた大字兵庫の頭屋さんから授かった一本のチマキを県立民俗博物館に寄贈したくて立ち寄った。

この日に訪れたのは春の企画展の「お米作りと神々への祈り」の展示状況である。

3月には60点もの祭具を寄贈しておいた。

正月初めに行われた各地の豊作祈りの行事に用いられた祭具である。

修正会、初祈祷、オコナイ、オンダ祭だけでなく弓矢、イノコ棒までもある。

村の人が私に託した祭具は我が家で保管することよりも一般の人の目に触れる場のほうが良いに違いない。

そう思って一挙に寄贈ったのであったが、台帳作りまで手伝うはめになった。

調査地、用途、使用目的、使用方法、使用者、所有者、入手経路、由来変遷、談話者などを再整理して記録した。



企画展に沿うような祭具は記録した行事写真とともに展示されていた。

その数多しである展示物品は村の人からの伝言でもある。

企画展「お米作りと神々への祈り」はタイトルからして稲作生業における営みだ。

農作は正月明けから始まっている。

春田を起こす田起こし。オンダ祭において田起こしの所作がある。

モミオトシ、苗代作り、水口祭り・ミトマツリ、代掻き、ウエゾメ、田植え、サシナエ、虫祈祷・虫送り、土用干し、ヘイ刈り、雨乞い、八朔、稲刈り、コキヌケ、カリヌケ、新穀感謝・・・。

節目、節目に行われる祈りの在り方などを写した写真も展示された。

取材させていただいた村の人たちに感謝する企画展は多くの人に是非観ていただきたいと思う。



この物品は「ブトクスベ(ブヨクスベとも)」。

ブトノクチ焼きを取材した折りに村人から聞いた「ブトクスベ」の実物が民博に所蔵されていたのである。これには驚いた。

春の企画展の「お米作りと神々への祈り」は平成25年4月27日から6月30日まで開催されている。
御所市蛇穴行事の愛くるしい顔であるジャ(蛇)が迎えてくれる。
なお、会場の県立民俗博物館は月曜日が休館日にあたる。
なお、6月16日(日)13時半からは「記録されたくらしとまつり」の民俗映像の上映会も開催される。(終了しました)

(H25. 4.27 SB932SH撮影)
(H25. 5. 9 SB932SH撮影)

伊豆七条町勝福寺彼岸の尼講

2013年06月29日 06時48分42秒 | 大和郡山市へ
正月を除く毎月一日は朔日参りをしている尼講。

大和郡山市伊豆七条町にある勝福寺での営みである。

普段は無住寺である勝福寺は村の集会にも利用している。

いつもの朔日参りは尼講の人たちの営みであるが春、秋の彼岸は天理市南六条町の西福寺の今田住職が参る。

「先日の南六条の薬師さん、観音さんに来ていただろう」と伝えられた。

その通りでござる。

今夜も始まった彼岸の尼講の営み日は彼岸の中日の前日の夜。

朔日参りは昼であるがこの日は夜だ。

いずれも家で食事をしてからやってくる。

始まる前に設えた斎壇。

当番の人が飾ったお花はご本尊の阿弥陀仏に供える。

蝋燭を立てて位牌も並べる。

いち早くやってきたHさんは昭和7年生。

「ナタネ梅雨の合間の営み。寒いよりはましやけど、花冷えもかなわん年齢や」と話す。

13歳のときは「じょうがんの構え、ドウー、ツキー」と長刀をしていた尋常高等小学校。

現在でいうなら中学二年生の頃だ。

「10cm以上も雪が積もった3月だった」ことを覚えていると云う。

そんな会話をしていれば次々とやってくる尼講の人たち。

朔日参りや施餓鬼に訪れたときのことを覚えておられる馴染みの顔ぶれ。

西福寺は融通念仏宗。伊豆七条町もそうである。

11月9日は大阪平野から如来さんがやってくるご回在がある。

ご本尊の前に座った住職。

尼講の人たちも含めて小さな椅子に座る。



融通念仏勤行を唱える彼岸の尼講。

十念、歎佛偈(たんぶつげ)、光明文から過去帳へと移る。

地震災害諸霊から支那事変までなーあーむあみだぶつ。

焼香もする彼岸の日は追善供養、塔婆回向は先祖代々の塔婆供養も。

最後に鉦を打った住職。

その鉦を拝見した。

「伊豆七条村 勝福寺了祭代 江戸西村和泉守作」の記銘がある三本足をもつ鉦だ。

鉦は奥にもう一つあった。

それには「安永八巳亥年(1779)二月 伊豆七条村 勝福寺什物 京室町住出羽宗味作」とあった。

「江戸西村和泉守」は江戸神田の鑄物師。

延宝年間(1673~)から大正時代に亘って十一代の名を継いだ鑄物師のようだが伊豆七条町の鉦の年代は判らない。

一方、「京室町住出羽宗味」は行事取材のおりに度々目にする名である。

刻印は明確で安永二年(1779)であるから230年以上も前に作られた鉦である。

先日に拝見した奈良市今市の小念仏講が使っていたのは「室町住出羽大掾宗味」の作。

同市の杉町にあった鉦も「室町住出羽大掾宗味作」であった。

奈良市の南田原町も同じく「室町住出羽大掾宗味作」である。

他府県2例に宝永時代の1710、1711年ものが見つかっている。

伊豆七条町よりも前の作品群。

出羽大掾宗味も代々が名を継いだ鑄物師の作品は他所においても相当数があると推察されるのである。

(H25. 3.19 EOS40D撮影)

満願寺町西岳院のあんやほん

2013年06月28日 06時50分41秒 | 大和郡山市へ
毎月17日は観音さんの日。

この日は春の彼岸入りと重なった。

気温はぐんぐん上昇してセーターも不要となるぐらいになった。

大和郡山市満願寺町の西岳院(黄檗宗万福寺末寺)は富雄川の西岸にある。

古田神社と隣り合わせにある大きな禅堂。

先々代が勤める前は荒れた本堂だったと話す住職。

本尊は奈良県指定文化財の木造十一面千手観音立像。

圧倒されるお姿である。

かつては満願寺町の古屋敷と呼ばれる地にあった満願寺は富雄川の氾濫によって現在地に移ったことにより西岳院と称する。

小字古屋敷南に堂前、西側に堂後がある。

古屋敷に本堂があった名残の小字である。

禅堂にあがって営みをするのは満願寺町旧村の住民たち。

ほとんどが婦人である。

古屋敷と北垣内、南垣内(小字川屋敷)の3垣内からなる旧村が交替して当番にあたる。

この月は大祭となる観音講。

先祖回向を終えて般若心経を唱える。

斎壇には仏飯や半切ダイコンに挿したあんやほん(唵唖吽)と呼ばれる仏旗がある。

搗きたてのモチや草モチも供えていた。

訪れたときには既に回向は始まっていた。

ご挨拶をするまにまに案内された禅堂。

正面に安置された十一面千手観音さんに手を合わせる。

回向を終えれば住職の説法があった。

自己紹介をして改めてご挨拶をした。

秋にも行われる大祭には是非再訪したいものである。

祈祷されたあんやほん(唵唖吽)もありがたくいただいた。

あんやほん(唵唖吽)はヒトガタ。

人の形を象った仏旗である。

玄関などに挿しておけば魔除になるそうだ。

(H25. 3.17 EOS40D撮影)

今市のコネンブツ

2013年06月27日 06時50分45秒 | 奈良市へ
尼講、若しくはあばあさん講とも呼ばれている奈良市今市の婦人たち。

「若い人が入ってくれないから年寄りばかりになった」と話す。

春の彼岸の入りの日はチバミ墓地に参ってお念仏を唱えて数珠を繰る。

「いつもならもう少し多いのですが」と云うこの日の講中は5人。

墓地の地蔵尊の前にあるゴザは当番の人が予め敷いておいた。

お念仏はお墓参りに忙しい今市隆興寺の村井實道住職が来ないと始まらない。

住職は田中町の光明寺も兼務されている。

住職に教えてもらった今市のコネンブツ。

先日は墓所が判らなくて彷徨っていた。

この日も判らず彷徨っていた。

通りがかった今市のガマ池辺り。

二人の婦人が話しておられた。

もしかと思って声をかければそこへ行くと云う。

お許しをいただいて向かった先がチバミ墓地であった。

リンを打って念仏を唱えていた住職は息子さんに替ってもらった。

地蔵尊や六地蔵に灯したローソクや線香。

人数が少ないからと婦人に付いてきご主人も同席する。

そうして始まったコネンブツ。

導師となる住職は数珠を持つ婦人の輪の中。

鉦を叩いて念仏をもうす。

なむあみだぶーの念仏を何度も唱える尼講たちは数珠を持ったままで頭を下げる。

先祖さんに捧げるという念仏は般若心経。

おもむろに始まった5分後は百万遍数珠繰りだ。

その間もお念仏を唱える住職。



数珠珠の房が一周する度に数える。

カズトリは木片だ。

一の位は9枚。

十の位は5枚。

数珠珠が回ることに一つずつ置き替える。

これによって数珠繰りの回数が判るのだ。

本来ならば百万遍数珠繰り。

とはいっても百万遍も数珠繰りはしない。

100回数である。

これまでもそうしてきたが繰る婦人たちは高齢者。

「一年に一度、重たい数珠は年寄りには100回も送るがしんどい。もうあかんわ」と短縮を申し出て半分の50回にしてもらった。



数珠を繰りながら南無阿弥陀仏の念仏を繰り返す。

数珠繰りをしている間も彼岸参りをする家族も多く見られる。

知らずに参った人は驚くこと間違いなしであろうと思える墓地での数珠繰りはおよそ25分間。

延々と繰り返したのであった。

コネンブツを終えた住職は再び墓念仏に戻っていった。

繰った数珠を納める講箱にあった「小念仏講中 昭和廿年八月佛日新調」。

コネンブツは小念仏が正式名であった。

終戦のときの昭和20年8月に寄進された13人名が残されている。

「当時の私らの年齢は二十歳ぐらいやった」と云う。

記された婦人の名前を見れば祖母の名だった。

懐かしむこの日の尼講が話すには彼岸の入りの日に雪が降ったこともあったそうだ。

そのときは当番の家で数珠繰りをしたと云う。

小念仏講は男性も入れて30人ほどの講中。

大多数が婦人の尼講だそうだ。

尼講は彼岸の入りのコネンブツだけでなくお通夜の晩もしていた。

時代を経た葬式は葬儀会館に移り替るようになった昨今は「声もかからなくなった」と話す。

そのような時代になったが7月の地蔵盆も数珠繰りをしている。

夕立降っては困る。

昔にそうなったこともあるから公民館でするようにした村の池の地蔵盆。

一年に二度の数珠繰りはこうして今でも続けている尼講。

コネンブツを終えて数珠と鉦は持ち帰る当番。

この日の夜に再び集まる当番家で接待料理をよばれるそうだ。

アゲサンなどの煮ものは精進料理。

センギリダイコンやアズキを入れて炊いたアカゴハンもあったが4、5年前に止めたそうだ。。

打っていた鉦を拝見すれば刻印がある。

「今市村 小念佛 室町住出羽大掾宗味作」である。

大和郡山市白土町の子供のチャチャンコで拝見した六斎鉦の同じ作者である。

白土町の六斎鉦は貞亨五年(1688)であった。

同市の杉町で行われていた地蔵盆の数珠繰りの鉦も「室町住出羽大掾宗味作」であった。

奈良市の南田原町で行われたボザイノサケも同じく「室町住出羽大掾宗味作」の刻印があった。

今市の鉦を含めて年代刻印は見られないが、他府県2例に宝永時代の1710、1711年ものが見つかっている。

同時代の製作ではと思った鉦である。

ちなみに今市墓地の地蔵尊には「鐘講中」の刻印が見られたが、小念仏講との関係は判っていない。

今市では小念仏講、尼講以外に行者講もあると云う。

1年9カ月は17軒の月回り。

嫁入りして30年にもなるが2回もあたりになった。

忘れそうになるぐらいの回りだという行者講の山上参りは2年に一度のようだ。

(H25. 3.17 EOS40D撮影)

上吐田春日神社の春祭り

2013年06月26日 06時50分51秒 | 川西町へ
梅の花が咲き誇る上吐田。

青空を美しく染めていた。

かつて中世荘園として栄えた吐田庄は時代を経て上吐田(かみはんだ)村と呼ばれていた。

明治時代の地租改正を契機に東の上吐田、西隣は北吐田、さらに西の南吐田村と合併して現在の川西町吐田になった。

北吐田・南吐田は杵築神社、上吐田が春日神社。

それぞれの氏神さんを崇敬する。

春日神社が鎮座する地の小字は実盛(さねもり)と呼ばれている。

実森の字を充てることもあるようだ。

神社の東側に小さな塚がある。

その場は昔、実盛と呼ぶ刀鍛冶師が住んでいたと伝わる。

神社境内の南側から見れば神社そのものが高台。

さらに高い地に本社が祀られている。

小字実森は神社を含む一帯である。

その西側の小字は宮西、神社南側の小字は堂前である。

春日神社の境内には薬師堂があったと伝わる。

境内にはその堂跡とも思える残欠の石塔や台座が散在している。

現存している燈籠にそれぞれ刻印があった。

「式下郡吐田村 文化元年(1804)甲九月吉日」の燈籠に「天保三年(1832)三月吉日建之」の太神宮石塔だ。

拝殿前の燈籠は「嘉永元年(1848)九月吉日」だ。

いずれも江戸後期の燈籠である。

時代刻印がなかった燈籠には「春日大明神」とある春日神社ではあるが手水鉢はそれらよりも古く「寛政四子年(1792)正月吉日 當村 世話人若連中」とある。

結崎村、下永村、吐田村、梅戸村、唐院村、保田村からなる式下郡は明治22年に町村合併されて川西町になった。

町の中心部は結崎だ。

春日神社の宮司は結崎の糸井神社。

存知している村の神社だけでも結崎の糸井神社、下永の八幡神社、保田の六縣神社、北吐田の杵築神社がある。

いずれも兼務社であって祭礼においてはたいへんお世話になっている宮司である。

糸井神社にある大きな石造りの燈籠には「萬延元年年(1860)申年十二月吉日建之 願大庄屋云々 組丁十五ケ村庄屋中」と刻まれている。周囲を見れば「市場組 市場、中村、辻村、井戸村、吐田村(現川西町」、西唐院村(現川西町」、東唐院村(現川西町」、穴闇村(現河合町)、長楽村(現河合町)、屏風村(現三宅村)、三川村(現三宅村)、伴堂村(現三宅村)、南伴堂村(現三宅村)、今里村(現田原本町)、なにがし」とある。

春日神社の年中行事を執行するのは宮守の人たち。

世話人の宮十人衆と五人衆である。

春日神社の年中行事にはこの日の春祭りを含めて9月の八朔や秋のマツリ、新嘗祭などがあるという。

平成13年5月に竣工した拝殿に登る宮守たちの他、祭りの当家(トーヤ)や自治会役員だ。



祓えの儀の次は献饌。

三社の本社と小宮に供える。

祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌で終えた春祭りは春に先駆けて村の豊作の祈る祈年祭(としごいのまつり)である。

(H25. 3.17 EOS40D撮影)

CANONEFS17-85ISUSMにチェンジ

2013年06月25日 05時06分24秒 | しゃしん
だましだましで使い続けてきたCANON EFS18-55ⅡISがとうとう動作しなくなった。

オートフォーカスセンサーが働かなくなったのだ。

ピントが合うのは標準か広角かそれだけだ。

それでもなんとか使用に耐えてきた。

いつから動作しなくなったのかメモっていないから覚えていないいが、今年の1月の頃。

現因は前年の11月18日だと思う。

カメラを持ったまま転倒した。

そのときにスピードライトが壊れたがレンズは助かった。

それが発端だと思う。

KISS DIGTAL N時代から使ってきた代物は平成17年8月4日が使い初め。

8年間に亘って活躍してくれたが昨日の取材先である咳乃地蔵尊法要でまったく動作しなくなった。

仕方なくマニュアルフォーカスに切り替えて難なく切りぬけた。

ところが次の取材先の南六条はお堂の中。

暗がりでは視野も狭いく老眼の目ではどうしようもない。

写しだされた映像はピントがゆるゆる。

そんなわけで伺ったお店はいつも世話になっているカメラのキタムラ奈良南店。

おかしくなってきた頃からお願いしておいたレンズは中古棚に陳列されることはなかった。

明日も取材に行かねばならない。

待ったなしで選んだレンズはCANON EF-S17-85mm F4-5.6 IS USMである。



発売当時は87000円。

陳列してあった代物は中古で19800円。

生活資金が少ない私でも買える値段になっている店頭販売価格。

長期間売れていなかったそうで半年間の保証が付いた17000円に値引いてくれた。

レンズ本体の重量は475g。

どっしりとした重さを感じる。

EFS18-55ⅡISは200gの軽量であっただけにその差は大きい。

中古品にはレンズフードが付いていなかったので新品のEW-73Bは2840円。

支払いは溜まっていたポイントで5千円。

残りはJCBギフトカード。

これで支払ったのは1万2千円。

クレジットカード支払いで溜めていたポイントのおかげで助かる支払い。

残りはクレジーット扱いにした。

帰宅して読んだ説明書は中国語。

なんとレンズは中国製であったのだ。

(H25. 3.16 EOS40D撮影)
(H25. 3.16 SB932SH撮影)

南六条南方の春の涅槃さん

2013年06月24日 07時47分32秒 | 天理市へ
毎月の営みはお薬師さん、観音さんであるが、彼岸のときには涅槃さんをしている天理市南六条南方の婦人たち。

涅槃さんの場は氏神さんが鎮座する杵築神社境内にある釈迦堂である。

薬師堂、観音堂に釈迦堂。

三つのお堂がある南六条町は南方だ。

南六条は北に北方がある。

かつての呼び名が今でも通用する元柳生に対して南方は元六条と呼ぶ60戸の旧村である。

釈迦堂の内部は薬師堂、観音堂よりも広いが、本尊を納めているお厨子がとても大きい。

安置されている本尊の大きさに合わせて作られたのであろう。

安置されている本尊釈迦如来は天文十三年(1544)七月の建立。

施主は金蔵院堯範で製作したのは宿院番匠源次(源治とも)の名をもつ仏師が製作したと伝わる。

天文期の頃は六条堂の名であった釈迦堂。

江戸時代までは現在の釈迦堂辺りに杵築神社が位置していた。

釈迦堂は南側にあった。

明治維新の際に杵築神社を現在地に遷ったことから元社地に釈迦堂を移動したとされる。

釈迦堂の土台にある石がある。

それには「大正十年九月架設 施主大字六条 □□□□ 世話人南六条□□□□の名が読み取れる。

本尊を安置するお厨子に掲げた大きな涅槃さんの掛軸。

普段は融通念仏宗の西福寺で預かってもらっている。

春と秋の彼岸のときだけはこうして釈迦堂に奉られる。

春は3月15日と決まっているが、秋の彼岸は彼岸入りから都合の良い日。

この日に集まった婦人は長寿会の人たち。

当番の人が毎月の営み日を決める。

南六条南方は60戸を1班から4班に分けている。

それぞれの班が回りの当番。

この日も花を飾ってお念仏を唱える。

いつものように導師が前に座ってお念仏は薬師さんと同じように念仏回向をして三巻の般若心経を唱える。

叩いた鉦には刻印が見られない。

念仏を終えて話された一人の婦人。

自宅にも同じような鉦があると云う。

家で唱えるお念仏に打つ鉦は緒の紐が付いているそうだ。

足が三本ある鉦。

形状から推察するに六斎鉦のように思えた。

おじいさんが信心してはったのは大和郡山市の矢田山金剛山寺。

通称は矢田寺と呼んでいる。

同寺でご用をしていたそうだ。

その関係であるか判らないが戒名は九文字。

珍しいと云う。

年季のときには矢田寺4坊の一つである大門坊の住職が来られるそうだ。

春の涅槃さんを終えてしばらくの間の釈迦堂は歓談の場。

そのころにやってきた神社のトーヤさん。

本殿など4社に(昔は燈籠にも)、薬師堂、観音堂に奉っていた御供のモチを下げた。

トーヤ(頭屋)は一老から四老。

毎月の1日と15日に御膳を上げる。

一老から四老の当番月は決まっている。

一老は11月、3月、7月で、二老は12月、4月、8月だ。

三老は1月、5月、9月で、四老は2月、6月、10月とそれぞれ3カ月に一度は担う御膳上げである。

トーヤの仕事は御膳上げだけでなく神社の清掃もある。

季節によっては木の葉が舞い散る月にあたればたいへんやと云うトーヤは11月の行事で次のトーヤに替る。

お参りに来られていた前年勤めの二老はそう話す。

5月5日の端午の節句ではチマキ(チンマキとも呼ぶ)の御供。

7月は晩にソーメンを食べる。

かつての夏祭りには大神楽が村に来ていた。

境内で舞う大神楽であった。

若い娘が芸を演じる際には玉を投げたという。

それはオヒネリであったかも知れない昔のこと。

神社に飾る正月の注連縄がある。

平成22年の大晦日の朝に立ち寄った杵築神社。

拝殿奥に鎮座する本殿前の鳥居に掲げていた注連縄は簾型だった。

クシガキ、ダイダイにウラジロを添えていた注連縄を「ジャジャウマ」と呼ぶ前二老。

蛇が交互に巻きつく姿をジャジャウマと思えばそうではなく。

ジャワラ(蛇藁)が訛ったものだと話す。

年が明けた正月過ぎ。

旧頭屋の八人衆が営む御田祭がある。

かつては正月7日であったが、今は近い日曜日。

7日か8日辺りにしていたようだと話す。

旧頭屋家で予め刷った牛玉宝印書。

版木で刷るそうだ。

そのお札はヤナギの木に括りつけてモチ御供とともに供える。

(H25. 3.15 EOS40D撮影)

ザ・ビッグ・エクストラ天理店の幕の内弁当

2013年06月23日 08時39分18秒 | あれこれテイクアウト
この日も立ち寄るザ・ビッグ・エクストラ天理店。

昼ごはんの弁当はどれにするかであるが前回買った焼きそば+天重セットが見当たらない。

美味しくいただいたことを覚えているが、ない。

仕方なく同じ価格で売れられていた幕の内弁当にした。

297円は手ごろな値段であるが「袋は要りません」と伝えれば2円引き。

店内にある電子レンジでチン温め。

この弁当には香物はついてない。

これでいいのだと思ったが、梅ぼしがあった。

ヒジキのおから和え、胡麻和えのマメが美味しい。

鶏のカラアゲは身が締まっているがジューシーさは感じない。

練り物は空かすか。

エビ天はプリプリだが味がない。

下味をつけていないのだろうか。

煮ものはやや硬めだが味はしっかりとしている。

煮ものから汁がでるので容器に盛られているが、他のものにも容器入れ。

香物、容器はなくても良いと思った。

焼きサバは小さいが油がのっている。

小さい割に小骨がたくさんあるにはまいった。

空腹を満たす297円の弁当はあっという間にたいらげた。

(H25. 3.15 SB932SH撮影)

三昧田咳之地蔵尊法要

2013年06月22日 08時43分07秒 | 天理市へ
安政七年(1860)から先祖代々継承してきた地蔵講の世話人は現在もなお6軒である。

代々の地蔵講の人たちが崇敬してきたのは天理市三昧田(さんまいでん)町にある咳之地蔵だ。

昔は子供が土だんごを供えて祈願していた。

満願の際にはアメを供えたという地蔵会式を営む講中は春日神社の社務所に寄りあう。

かつてはこの地ではなく、村の北外れの上街道(初瀬街道)付近の田んぼにあったという。

その辺りはドウ、ロクジゾウ、ミョウゴウサンとも呼ばれる小字名があるそうだ。

調べてみれば国道信号三昧田町より北方に「名号」の小字地があるかつての上街道だ。

ここら辺りは東大寺所領であったそうだ。

旅人を守ってきたという地蔵さんは南無阿弥陀佛の六字名号石。

六地蔵ともよばれていた地蔵石は天正八年(1580)三月二十四日の刻印が見られるようだが、背面であるだけに未確認。

講中も見ることができない地蔵堂に納められている。

六字名号の下にはなにやら文字が見えるが判読できない。

記録のために一度は奇麗に拓本にとって残しておきたいと講中が話す。

昭和5年に移されたのち、昭和6年3月13日に建立された地蔵堂で落慶式が営まれた。



そのときに写された写真が残っている。

建立された地蔵堂の前でモチを搗く杵と木臼。

「奉納 咳之地蔵尊」と書かれた幟もある。



モチを搗く姿は当時の人たち。

婦人は和服姿だ。

大量に搗かれたモチを丸めている。



搗いたモチは参拝者に配ったと伝わる記録写真には当時の人の名も調べて残しているそうだ。

咳之地蔵さんに供えた御供。

コモチを持った三方にダイコン、ゴボウ、ニンジンの生御膳。両脇にはリンゴ、アメ、パン、バナナの御供立てに鏡餅。

お花も飾った。

お供えは地蔵堂横にある石塔にも捧げられる。

上部に欠損がみられる残欠の石塔には阿弥陀仏が肉彫りされている。

丹波市にある迎乗寺(こうじょうじ)は浄土宗。

エビス祭りで名高い市座神社の西側にある寺は800軒の檀家をもつ大寺だそうだ。

2月15日には涅槃の掛軸を掲げて法要を営んでいると話す住職が来られるまでの時間は講中が残した文書を再確認されていた。

昭和5年9月10日の日付けがある『咳之地蔵尊 堂宇建築寄附芳名帳 世話人』によれば寄附浄財を集めて回った行程が書かれていた。

天理の長柄から奈良の京終(きょうばて)迄の汽車賃は2人分で36銭だった。

近くではなく遠来まで寄附を募って出かけた先は京都までも。

汽車を乗り継いで京都は市電。

2人分で1円70銭だった。

浄財を募った人たちは村を出ていった分家、嫁入り先まで含んでいたのである。

当時集めた浄財の合計は672円。

当時の物価状況が判る史料である。

浄財を募った人たちの名は『昭和5年 浄財喜捨芳名帳 咳地蔵尊世話人』に残されている。

「喜捨」は「きしゃ」と読む。

寄付はしたいが貧しい。

それでも惜しむことなく浄財は喜んで寄付するという意味で芳名帳に記された人たちを「喜捨人(きしゃじん)」と呼ぶと講中は云う。

地蔵堂が建立されたときも屋根瓦であった。

長い年月で経年劣化。

昭和55年10月15日には屋根を葺き替えた。

そのときも浄財を集めたが村費と世話人で賄ったと話す。

地蔵堂の傍らに「文政七年(1824)甲年十二月吉日」の刻印がある石塔がある。

深い四角彫りがある石塔はおそらく灯明が置かれたのであろう。

世話人のN氏の先祖が願主となって建之したそうだ。

その石塔が示す年代が地蔵講の始まりだったと話す講中の営みは毎年の3月15日。

一枚ごとに刷られた「咳之地蔵尊 御膳帳」に「三月十五日會式 山邊郡朝和村大字三昧田 有志者」と記されている。



また「大御膳金 二十銭 小御膳金 十銭」の紙片もある。

かつての会式には浄財による御供があったようだ。

紐で綴じた昭和7年、9年、12年、15年の「咳地蔵尊御膳帳」や「咳地蔵尊諸入費帳」も残されている。

大切な講中の記録である。

ある大学の先生が調べた結果を由来に書きしるした文には「三昧田咳乃地蔵尊由来 江戸時代流行の辻地蔵尊にして、庶民子供の守本尊として、信仰され咳の地蔵尊とて崇拝をしていた。その地蔵尊は江戸初期の銘年号があり(徳川家光公の頃年号末定) 尚近傍の十三塔の中にも藤原期の重根がある 弘化□年 約三百年前」とある。



弘化二年の年代期を記した燈籠が春日神社境内にある。

弘化二年は1845年だ。

今から170年ほど前である。

学者が残された十三石塔年代はとは一致しない。

藤原時代は寛平六年(894)から寿永三年(1184)の頃。

これは相当な開きがある文の内容。

一体どういうことなのであろうか。

その文書も大切にしまわれた講中の文書には明治32年から大正8年間の郵便貯金記入簿もある。

興味深かったのは通帳にあった郵便貯金條例だ。

明治23年8月12日公布、明治24年1月1日實施された法律第63号の条例文は民俗文化としていずれ役に立つときがくるであろうと写させてもらった。

そのような調査を進めていた頃、迎乗寺の住職が到着した。

ご挨拶をされて地蔵堂にあがる。

講中も堂内にあがるが目一杯。

それ以上の参拝者は堂外となる。



ローソクに火を灯して始まった地蔵会式は最初に阿弥陀さんの回向。

迎乗寺のご本尊は阿弥陀如来坐像であるがゆえの回向だ。

次の法要が咳のお地蔵さんである。

講中が焼香される会式は20分ほどで終えた。

村の人たちも供えた御供も下げて分ける。

供えたモチは5合ずつ集めたモチゴメ。

当番のヤドで搗いたそうだ。

6軒で3升(この年は2升)のモチは鏡餅に6合。

残りをコモチにしたという。

そのモチも配られる。

モチ搗きの様相は昭和5年と状況ではないが、配ることは同じだ。

かつてはヤドの家に集まって会食をしていた講中。

陽が落ちる前には地蔵堂の扉を閉めて一旦は解散する。

世話人が再び集まる場所は料理屋。

何代にも亘って継承してきた世話人たちの懇親会である。

世話人の一人が話してくれた大和神社のちゃんちゃん祭。

3月24日にはちゃんちゃん祭のカザグルマを製作するという。

「もしよろしければ」と案内された。

ありがたいことだ。

三昧田の頭人児(とーにんご)は二人。

兄・弟頭屋の2軒である。

今年の回りの垣内は西垣内。

O氏が住む垣内である。

三昧田は四つの垣内である。

ちゃんちゃん祭は旧村の行事。

村の戸数は47戸であるが、全戸からではなく毎年垣内が交替する。

その順番は東、南、北、西垣内である。

4年に一度も回りの垣内である。

戸数は垣内によって大きく幅がある。

今年に担う西垣内は9戸。

2軒が兄・弟頭屋にあたるから16年に一度はあたる計算になるそうだ。

他の垣内はもっと多いからそれより回りの年数が長い。

一番短いのが西垣内である。

頭屋家の子供が頭人児となるが、いつも、いつも対象の子供が居るとは限らない。

そのような場合は垣内の内外問わず村の子供にお願いする頼みの借り子。

それでも充足しない場合は、例えば隣村の兵庫まで借りてくるという。

(H25. 3.15 EOS40D撮影)

今市の田んぼの注連縄

2013年06月21日 07時48分15秒 | 奈良市へ
仕事を終えた午後。

気になっていた奈良市の今市町に向かった。

墓地でされると聞いていたコネンブツ。

その墓地は結局判らなかったが、大晦日に拝見した田んぼの注連縄の状況を拝見した。

荒起こしを始めた田んぼも見られる。

春はもうすぐだ。

昨年に拝見した注連縄は見えなくなっていたが、一昨年に拝見した注連縄がある。

ここら辺りの小字は前田、辻花、小玉と呼ばれるようだ。

東側の集落にガマ池がある。

ここら辺りであろうかと思って田んぼを見れば注連縄があった。

ここにも存在を確認できた今市の田んぼの注連縄は3例目である。

いずれも田主とお会いできていない。

(H25. 3.14 SB932SH撮影)