マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

フレール・ド・シャンソニエレストラン堺店

2012年06月30日 07時50分51秒 | 食事が主な周辺をお散歩
87歳を迎えたおふくろ。

たまには洋風レストランで食事でも、というわけで大阪の堺まで出かけた。

かーさんが10年前にテレビで紹介されたレストランをメモっていた。

そこは泉州水茄子(ミズナス)を料理に使っていたそうだ。

野菜をふんだんに料理するフランス料理店。

その名はフレール・ド・シャンソニエレストラン。

岸和田にあったという。

ネットで調べてみれば堺にもある。

さて、水茄子はどうなのか。

季節は外れていたからそれはないが、その店にすることにした。

ランチメニューコースは1580円、2500円、3500円、5500円といろいろある。

シェフランチなら7800円だ。

そこまでは財布の口は開かない。

中間をとって3500円のコースを予約しておいた。

大阪住之江に寄っておふくろと合流する。

向う先は出力しておいたペーパーベースマップ。

旧国道26号線を南下して堺の中央通りに入る。

中央環状線だ。

三国ヶ丘、中百舌鳥辺りでさらに南下すれば着くはずだ。

ここら辺りは交通量も信号も多い。

絶えず車は停車しなければならない。

余裕をみて早めに出発したが時間は刻刻と過ぎてゆく。

南海高野線の中百舌鳥駅したを通り抜けて一路南下。

とはいっても南西の方角を行く大通り。

阪和第二泉北病院の看板が目に入った。

そう、マップによればフレール・ド・シャンソニエの向い側。

もうすぐ到着する。

北条町1丁の信号を左に折れて次の信号を左に。

その筋を入った一本目。

なんと一方通行になっている。

仕方なく右に折れて真っすぐ進めば病院内。

あれれだ。

仕方なく通り抜ければまたもや一方通行。

それはお店から離れる一方だ。

仕方なく陵南中央公園をぐるりと周回していく。

あっちの方向にあるとは判っていても辿りつかない。

左に折れていけば何やら人、人、人。

ここだと思って入ろうとすれば駐車場は満杯。

管理人の指示にしたがってお店の第二駐車場へ。

左に折れて辻を曲がる。

さらに左に折れて辻を曲がる。

そこが駐車場だった。



なんだ、さっきに病院を通り抜けたそこではないか。

ともかく着いたフレール・ド・シャンソニエレストラン堺店。

住宅街の中にある。

団体とおぼしきグループは若い人たち。

なんの団体だろうか、20人以上もおられる。



レストランにはたくさんのお客さんが来ていた。

学生、新社会人、スーツ姿の親父、老夫婦、老婦人、若い女性連れなどなど。

さすがにお店の駐車場は和泉や堺ナンバーばかりだ。

予約席に案内されて食事を待つ。

本日注文しておいたのは、3500円のプチィセレブコース。

おふくろの誕生祝いなので奮発したコース。

お品書きにはセレクトがそれぞれ。

前菜のアミューズより1品、魚料理のオードブルも1品、肉料理のメインも1品だ。

三人はそれぞれの好みに応じてチョイスした。



前菜の一つは「グリーンアスパラのムースとグリエ・白魚のフリット ト ソース トマトクーリー」と「豚バラのリエット プティ シュー詰め」だ。



それが出るまではパンを皿に盛られた。

私はご飯なのでそれはない。

何魚のフリットはなんでしょか判らない。



一方の豚バラのリエット。

小さなシューで挟んでいる。

形は面白いが口にすればバラ肉とは思えない。

申しわけないが先月食べたマクドバガーと同じように感じた。

そう、油分がないのだ。

バラはやはりジューシーさがないと旨味がでない。

次に配膳されたのはオードブル。

これもそれぞれに頼んだ。



一つは「舌平目とオマール海老、キャベツファルシのロースト ホタテのジュ入りアメリケーヌ」で、もう一つは「炙りサーモンのマリネ・サヨリの昆布マリネ ・タコと桜海老のフリット サラダ添えだ。

「うずらのフォアグラファルシ のロースト ローズマリー風味 ふきのコンソメ煮添え」もあったが誰も頼まなかった。

カラフルな三種盛りが炙りサーモン、サヨリ、タコと桜海老。海の香りがする。

もう一つが舌平目とオマール海老。

アスパラを添えてある。

キャベツ巻きにしてあるが、ナイフが入り難い。

いずれも瑞々しく上品な味だ。

これだけで、もうお腹がいっぱいになってきた。

胃袋休めでしょうか、クリームスープが出てきた。



こってりとしたスープの色って何なの。

聞いてみればオヤイモだという。

コイモでなくてオヤイモ。

そう、親の芋なのである。

ムラサキイモであれば、もっと味わい深い色になったことだろう。と、思う。



パンはまめに配膳される。

クルミパン、レーズンパンなどでお願いすればそれが出てくる。

お腹がいっぱいになったところで、メイン料理となった。



一つは「本日入荷の白身魚のソテー・青海苔のクリームソース・ペスカトーレ添え(トマト・あさり・いか・ホタテ)」で、もう一つが「国産牛ロースステーキ、ソースマディラ」だ。

他に「骨付き仔羊の背肉のロティー ソース ジュ ド ダニョー」、「鴨のもも肉のコンフィー デジョンの粒マスタードソース」もあったが、先の2種を頼んだ。

それは何故か。

二人はヒツジとカモが苦手なのである。

本日入荷の魚は毎回替るのだろう。

かーさんが食べた感じからスズキでは、という。



それにしてもロースステーキはぶ厚い。

パクパクと食べるおふくろ。

肉らしい味にご満悦。

ご飯がおかわりされたけど満腹中枢が危険な状態。

断ることを知らない私のお腹が・・・になった。

メインの肉料理は550円足せば国産牛フィレ肉のステーキ80gになるそうだ。

フォアグラソテー トリュフソース ロッシーニスタイルはプラス1700円。

これ以上は要らないロースステーキだった。



食事のラストはプティデザート。

5品から選ぶようになっている。

三人、それぞれの思いで注文したのは、「温製ショコラ オレンジソース」、「とよのかいちごのミルフィール」、「ティラミスシャンソニエ風」。



いずれもバニラアイスが添えられている。

アイスが口にとろける。

どれもこれも美味しいと口ぐちに唸る三人。



クッキーは堅めで年寄り向きではなかったが、大が三つの満足感。

知人に伝えたいお勧めのフレール・ド・シャンソニエである。

住之江へ戻る道は泉北1号線。

西に向けて一直線。

旧国道26号線の石津川付近の信号右はどこかで見た店がある。

そう、昨年の9月に食事したたこ焼き割烹料理店の「竹粋亭」だったのだ。

この道なら迷わずに済んだろうな、と思っても近々に訪れる予定はない。

ところが、実弟家族が翌月の母の日の祝いにおふくろを誘ったのだ。

実は誘ったのはおふくろだ。

あまりの美味しさに実弟が連れてくれるならもう一度賞味したいと願ったのだ。

お腹がびっくりするぐらいの量の料理。

もう少し減らしてもいいのだろうと2500円のコースにした。

ロースステーキの分厚さと美味しさに驚いた実弟家族。

予約してなきゃ待ち行列で食べられないとこだったと、電話で報告を受けた私はまた食べたくなった。

(H24. 4.28 SB932SH撮影)

スタミナラーメン茶居夢の伊勢大神楽

2012年06月29日 08時16分40秒 | 食事が主な周辺をお散歩
長谷街道を走っていくと黄色い看板が目に入る。

大きな文字の「スタミナラーメン」が食欲をそそる。

小山戸の聞き取りを終えた時間は丁度昼どき。

久しく出合った調査員とここまで来た。

途中の国道では先日見つけた吉隠(よなばり)際の榛原角柄(つのがわら)の旧暦閏年の庚申さんを確認しておいた。

その後も変わりない景観がそこにある。

スタミナラーメンはどんなものなのか。

「ご注文は」の声に即答で応えたスタミナラーメンは700円。

「どれにしますか」の問い。

なんと5段階の辛さがあったのだ。



無難な2番は普通味。

唐辛子もトウバンジャンも少々の2番目である。

相方は600円のしょうゆラーメン。

出てきた二つのラーメンは見かけが同じ。

辛さが違うだけなのだろう。

焦げ茶色というのか、始めて見るスープ色に味は・・。

ミソなの、それとも醤油なの・・。

トンコツでもなく、ニボシでもない判らない味。

麺の喉越しが良い。

スープにからまってあがってくる。



チャーシュは太め。

トロトロでもない。

ナルトが2枚にニヌキタマゴが半分。

トリ肉までもある。

シナチクにハクサイ、モヤシも入ったスタミナラーメン。

極上とは言えないが、こんなの有りである。

お店のメニューは多種多様。

その中にメニューでもないものが目に付いた。



伊勢大神楽のお札には「守給幸給 伊勢大神楽教社 木村豊太夫納」とある。

ご主人に聞けば春と秋にやってくるという。

春は大祭のころでこの日前後の一週間辺りだそうだ。

お店が服忌のときは断っていると話す当主。

3月12日の目撃譚として書き記した伊勢大神楽はその後も話を聞く機会を得ることができた。

一つは奈良市の誓多林だ。

婦人が話す子供の頃。

大神楽が来たときは「こおーて、こぉーて、納屋に隠れていた」と云う。

年に一回、春の頃だったと思う回顧談。

獅子頭を頭に被ってもらうのだが、母親に云われてそれをしてもらう。

それが怖かったというのだ。

子供にとっては脅威というか怖さが先行していたのであろう。

話では2組の大神楽が来ていたそうだ。

太鼓や鉦の音が風に乗って聞こえてきた。

カマドがある荒神さんで獅子舞が舞って祓ってくれた。

チャビンの蓋のような鉦を叩いて玄関も舞っていたと回顧する。

もう一つは大和郡山市の発志院・中城でされていた大神楽だ。

毎年やってきたという。

新米が獲れたときに回っていたというから神社の秋祭りであろう。

新米を一杯渡したら舞ってくれた。

「獅子頭は子供の頭をがぶりと噛みよる。それをしてもらったらクサにならんという。

「夏祭りでもしていたような気がする」と子供の頃の様子を話す住民の思い出話は20年も前のことだそうだ。

(H24. 4.22 SB932SH撮影)

小山戸の行事と風習から

2012年06月28日 06時46分35秒 | 楽しみにしておこうっと
<ヨゴミにドヤモチ>
都祁山口神社の御田祭はかつて4月23日に行われていた奈良市都祁小山戸。

この日をレンゾと呼んでいたようだ。

副社守を勤めた70歳のKさんの話ではヨゴミモチを各戸で作っていたという。

真ん中にアンコを入れて作ったモチ。

ヨゴミの呼び名をする地域は多々ある。

大和郡山市の番条町に住むU家の奥さんもそう云っていた。

長安寺町で育ったKさんは4月3日を神武レンドと呼んで、天理市富堂町の実家に大勢集まってヨゴミダンゴを作るなどご馳走よばれた。

マツリのときはヨゴミモチだったと話す。

小山戸のK家では「ケンズイやというて、家族や「ユイ」と呼ぶ手伝いさんらと作ったドヤモチも田んぼで食べた」という。

それを食べるのは田植え前。

ハクマイをモチゴメに混ぜて搗いたドヤモチにキナコを塗して食べたという。

ドヤモチの呼称は大和郡山市の矢田町で聞いたことがある。

とんどの火で焼くモチの一つにドヤモチがあった。

つぶつぶの米が以外と美味い。

先だって旧暦閏年の庚申トウゲをされた桜井市の脇本。

内垣内に住むM家には度々お邪魔する。

「庚申さんが終わったら寄ってけ」と招待されてあがったお家。

今か今かと待っていたそうだ。

当家ではモチはいつもある。

座敷に上がる度に出されるモチ。

その日はドヤモチだった。

コエビを入れているから赤い色のドヤモチになった。


(H24. 4.14 SB932SH撮影)

焼いて醤油でいただく。

お嫁さんが作ったオイナリサンも食べていけと言われるがお腹はいっぱい。

パックに入れてもらって持ち帰ったことを思い出す。

それはともかく小山戸のK家では夏神楽の行事の日にはボタモチを作って食べるという。

モチは昔からご馳走だった。

<ケカケゴモリ>
話は長くなった小山戸のこと。

明治の頃はカンジョナワをしていたそうだ。

それは随分前のことだが神社のどの辺りであったのだろうか。

記録がないから判らない。

今でも行われている神社の行事の一つにケカケゴモリがある。

この年は5月27日を予定しているという。

ケカケゴモリを漢字に充てれば毛掛籠。

田植えが終わったことを氏神さんに報告する行事である。

その日は各家が作ったご馳走を持ち寄って会食するようだ。

11月23日はコウザがある。

漢字を充てれば古座だ。

大字入りするトウニンゴ(頭人児であろうか)を祝いに家でお披露目をする。

トウニンゴは長男と決まっている。

古座とは別に新座もあるそうだが、トウニンゴがあるのは古座だけのようだ。

12月の冬至の日はフリアゲの儀式がある。

神社の社守、副社守に副副社守を決めるクジを引く。

引くといっても、穴を開けたダンボールを振り上げてクジを引く作法である。

また、4月21日は小山戸と相河の両村の大師講のお勤めがあり安楽寺に寄り合うという。

<カラスノモチ>
同行の調査取材をされたF女史から聞いた話。

平成18年に取材したおりに教えてくださったK氏の話である。

それによれば、「ゴンゲンサンのトリノエサ」と呼ぶ風習があったという。

クワの上にモチを12個入れて、クリの木かカキの木の下に置いた。

その際に唱えた台詞は「カラスコイ モチヤルゾ ジャクロミッツト カイコトショ」である。

正月用のモチを搗いたときにしていたそうだ。

よく似た風習がある。

「ジャクロ」は柘榴のことだ。

それ3個と交換を願うカラスのモチ。天理市の藤井のNさんや奈良市長谷町のN家で伺ったカラスノモチとよく似た様相である。

藤井のNでは家では、年末の12月30日には家のモチを搗く。

残りのモチを小さくちぎって木の枝の先に挿す。

モチは12個。

それを四角い升に入れて庭に出る。

そして「カラコ カラコ モチやるわ ザクロ三つと替えことしょ」と言って枝に挿す。

どういう意味があるのか、おまじないであるのか判らないという。

閏年の場合は13個にするというから一年の月数には違いない。

実によく似た台詞が囃されるカラスノモチである。

長谷のN家はモチを藁束にいれたものを樹木にぶら下げる。

山に住む野鳥がこのモチを食べるのだという。

野鳥はたいがいがカラス。

ぶら下げた直後にやってくるカラス。

だからかどうかは判らないがこれをカラスノモチと呼んでいる。


(H23. 1. 6 EOS40D撮影)

また、誓多林町では大晦日に八阪神社へカラスドンノモチを供えるというN家の風習がある。

テンノウサンとも呼ばれる神社に垂らす注連縄と共にツツジの木の枝にモチを付けて供える。

閏年のときは13個になるというから同じような風習であろう。

四つの事例は共に山の鳥獣らに施しをするモチだと思われる。

<ナリ木責めのナルカナランカ>
もう一つは「ナルカナランカ」である。

2月の年越しの日にオカユ(粥)を炊いた。

庭の木に傷をつけて「ナルカナランカ」をしたという。

その日がとんどの日であったのか記憶が曖昧だという。

その話を聞いて思い出したのが宇陀市本郷で聞き取りした様相。

1月14日の明くる日はどんど。

その朝早く、どんどで燃やした灰を田んぼに持っていく。

その際に「ホイ、ホイ、ホイ」と言って灰を撒く。

灰は三つ掴み。

「ホイ」と言って畑の隅に一回撒く。

次も「ホイ」と言って撒く。

これを三連続一挙にするから「ホイ、ホイ、ホイ」とお囃子のような作法。

「撒く」という行為は、実際には「盛る」様相らしい。

どんどの火は家へ持って帰って竈にくべた。

その火で夕ご飯を炊いた。

ぜんざいのようなおかゆだそうでモチを入れるという。

アズキ粥というから小豆も入っているお粥。

そのアズキ粥は二股になった柿の木に置く。

そこをナタで傷を付ける切り口に向かって「なるか、ならんか」と台詞をいう。

そして「なります、なります」と答える。

「ならぬ」という答えはないそうだ。

アズキ粥を切り口に置くのは消毒だと話される行為はとても不思議なものであるが昔のことだと言った。

都祁南之庄に住むMさんも「ナルカナランカ」を覚えているという。

カキの木になにかを供えていたようだという記憶は子供のころ。

年寄りがしていたときに掛けた詞が「ナルカナランカ」だったそうだ。

さらに天理市の苣原でもそういう行為をしていた話を聞いたことがある。

ハシにカラスのモチ(カキの木団子とも)付けて子どもが「なりますか、なりませんか」と足で蹴ったという。

それは随分前のことで「今はしてないなぁ」といった。

奈良市別所町に住むO婦人もそのことを覚えていると云う。

正月七日の七草の日だった。

一人の子どもがカキの木にナタをチョンとして「なるかならんか」と発した。

そうするともう一人の子どもが「なります なります」と云った。

親が「なるかならんかをしてこい」と云うのでそうしていた。

二人は男の子だったそうだ。

そのときには、木の下にオモチやホシガキ、ミカンを供えたという。

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』にその「ナルカナランカ」の事例が紹介されている。

とんどの翌朝の「なり木責め」である。

正月のとんど行事を支えていた子どもは木に向かってその問答をするとある。

子どもはとんどで燃え残った竹の棒をもって家々を巡った。

その家にある木は実のなる木。

それは特に柿の木だった。

そこで囃した問答が「なるか、ならぬか」に対して「なります、なります」と自問自答して走り回った。

現在はなくなった「なりきぜめ」の風習である。

それと同じ風習があった御杖村の「ナルカナラヌカ」。

15日の朝に炊いたアズキガユを柿の木に供える。

そのとき、一人は鉈を持って「なるかならぬか、ならぬと ちょんぎるぞ」と唱える。

一方の一人は「なります、なります」と応えてから柿の木に供えたと中田太造氏著の『大和の村落共同体と伝承文化』に記されていた。

その行為は曽爾村でも行われていたようだ。

柿の木へ子どもと二人で出かけて鉈目を付ける。

そこにアズキガユを流し込んで一人が「なるか、ならんか」と言えば、子どもが「なります、なります」と応える。

こうすれば柿の木がよくなるというから実成りの行為であろう。

『大和の村落共同体と伝承文化』には田原本町の事例も紹介されている。

佐味や薬王寺ではとんどの火の竹の燃えさしを貰ってきて15日の朝にアズキガユを炊いた。

その燃えさしで子どもが家の柿の木を殴り倒して「なるかならんか、なったら、モチくわすが、ならんだらモチくわさん」と言ってアズキガユを供えた。

「なりきぜめ」は実成りの豊作を願う行為と考えられ、とんどと関連する正月初めに行われていた各地の風習であったと思う。

翌月に聞き取った山添村に在住する当主は今でも「ナルカナランカ」をしているという。

田にある柿の木に鉈をあてて皮を削ぐ。

そうすれば口が開く。

そこにとんどの火で炊いたアズキガユを供える。

アズキガユは正月の若水さんに浸けたモチも入れたものだと話す。

鉈で切る「ナルカナランカは」それをするのは大人でも子どもでも構わないようだ。

<サブラケ>
さらには田植え初めの「サブラケ」もしていたという小山戸のK氏の談話。

水を張った田んぼに12本のカヤと苗を挿す。

道から田んぼに入るコゴチに挿すそうだ。

また、クリの木の股に切った紙を付ける。

おそらく御幣であろう。

竹の枝に一つのフキダワラを括りつけた。

フキダワラにはご飯と煎ったコガシの麦と黒豆を包んでいた。

全ての田植えを終えればカシワベントウを作って食べたという貴重な風習は山間各地で行われている田植え初めの風習の一例である。

(H24. 4.22 記)

小山戸都祁山口神社御田祭

2012年06月27日 06時43分54秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
4年ぶりに訪れた奈良市都祁小山戸の都祁山口神社。

この日は朝から雨降りだが、社守や総代、役員の村の人たちは御田祭に集まってくる。

友田の都祁水分神社の神職が神事を斎行される。

その後が御田祭の所作に移る。

県内では数多くの社地でお田植え祭が行われている。

その一つにあるのが都祁山口神社御田祭。

作法の際に豊作を願う田植え唄が囃される数少ない行事である。

唄方と太鼓を打つ社守が席に着く。

作法に登場するのは社守と二人の総代だ。

都祁山口神社を氏神と崇めるのは小山戸(おやまと)と相河(そうご)。

それぞれに総代がいる。

その二人は重要な役割をするのだ。

始めに舞方となる社守を先頭に二人の総代が一列をつくり、「春田のよそおい うつてのこづち しゃんしゃんしゃん しゃんしゃんしゃん しゃんしゃんしゃん」の唄とともに舞殿をぐるりと時計回りに一周する。

太鼓打ちの調子に合わせて歩調する。

先頭の社守は前屈姿勢だ。

かつてはカラスキがあったというから荒起こしの作法であったろう。

何も持たずに先頭を歩くのは不自然な形態だと思っていた。

この日は伝統民俗行事を見聞きする県文化財課の調査員がいた。

久しぶりに同行取材することになった。

調査員は以前にカラスキがあったことを長老から聞いていた。と、すればだ。

牛役と思っていた社守は牛使いであろうか。

不自然な姿で演じる謎は一つ解けたが、昭和四十五年夏神楽の日に纏められた『式内大社都祁山口神社 宮守乃栞』では社守は牛役とある。

女史曰く「昔は鈴も鳴らして田植え唄」を歌っていたという。

これも長老から聞いた話だ。

「しゃんしゃんしゃん」の台詞は鉦を鳴らす音と考えれば間違いない。

もう一つの謎も解けたのであった。

なお、社守に引き継がれている『宮守乃栞』によればその鉦を須利金と書いてある。

まさに擦って鳴らす鉦のことである。

囃子方は太鼓に調子を合わせながら須利金を打つとある。

総代の役目は馬子(まご)。

牛のあとからついて一緒に回る。

この年は一回の周回で終えた。

ひと呼吸の間もなく次の作法に移る。



今度は総代二人だけの登場である。

手にはクワを持つ二人。

横に並んで「若苗とるは 女のてぶり とる手も幾栄 とらぬ手も幾栄 しゃんしゃんしゃん しゃんしゃんしゃん しゃんしゃんしゃん」の田植え唄。水クワで田を耕す所作をしながら前方に歩む。

太鼓打ち合わせて繰り返す「しゃんしゃんしゃん」。後退しながら元の位置に戻っていく。

この作法も一回であった。

三番目の作法も二人の総代だ。



杉の若苗を持って再び登場する。

「山田の田植え ふく万石(まんごく) わが所へ作り 作りすませた しゃんしゃんしゃん しゃんしゃんしゃん しゃんしゃんしゃん」の唄に合わせて田植えの作法を行う。

その様子はまさに田植えであるがこれも一回の所作で終えた。

『宮守乃栞』によればいずれの所作も三回繰り返すとあるが、唄方が替ることで田植えの作法に変化が見られた今年の御田祭であった。

(H24. 4.22 EOS40D撮影)

番条町南垣内のお大師さま

2012年06月26日 09時17分23秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市番条町に伝わる話によれば『村から引っ越しをされようとした家があった。村を出て橋の袂まで来たが引っぱる牛が動かなくなった。尻を叩いても動じない牛だった。荷車に積んでいた引っ越しの所帯道具のうち、お大師さんの厨子を下した途端に牛が歩き始めた。それ以来、村を離れる際にはお大師さんを親戚や隣近所、阿弥陀院、大師堂で預かるようになった。』という。



そうした預かりのお大師さんも並べて開帳をされる家もあるようだ。

南垣内にある真言宗阿弥陀院の本堂前に置かれたお大師さんは院所有だ。



八十八所参りとは別のお大師さんで番外。

高さ、幅とも38cmはとても大きい。

番条町のお大師さんすべてを巡拝するには丸一日かかる。

午前中は北垣内で午後は奈良市の別所町を訪問すれば夕刻間近。

この時間帯になれば玄関先などに開帳されていたお大師さんは家内に戻っていく。

一日限りに公開されるお大師さんだ。



阿弥陀院本堂には六つの厨子を並べられている。

集落を離れた家のお大師さん。

それを預かった阿弥陀院は今でも祀っている。



巡拝の人を待つお寺さんに村の人。

お顔は忘れもしないHさん。

平成17年にお伺いした家人だ。

モチが無くなったら奥からしょっちゅう足しにいかれる男性はこの年も前日に2斗1升のモチを搗いた。

親戚にも配るからそれだけの量になるという。

そんな話をしているときに住職が挨拶をされる。

「先日、六条町の法要に来られていましたね」と言われる言葉に頭がぐるぐる回る。

それは口柳観音寺の十七夜の法要だった。

初めて訪れる地だけに精いっぱいの取材。

僧侶一人、一人とは挨拶ができていなかった。

失礼したわけだが、住職は私の顔を覚えているという。

この日は北といい、南垣内でも出合いのハプニングになった。

ちなみに当日は一日中、NHK奈良が取材に来ていた。

我が家は電波が入らない難受信地域。

残念ながら拝見していないが後日談によれば午前中にお会いした発志院のご婦人二人が映っていたという。

(H24. 4.21 EOS40D撮影)

別所町極楽寺お大師さん

2012年06月25日 07時36分05秒 | 奈良市(東部)へ
番条町を含め大和では各地で弘法大師を奉る大師講やお大師さん参りが行われている4月21日。

その数は数え切れないほどに多い。

盆地平野部、山間などさまざまな土地で継承してきたお大師さん。

奈良市の別所町では7軒で営んでいる高野講がある。

弘法大師が開いた一大聖地の高野山。

それを信仰する別所町の高野講。

その夜は当番の施主家で掛軸を掲げて講中が手を合わせる。

念仏は唱えない。

それが始まるまでに前施主が新施主家に出向いて掛軸を引き継ぐ。

山をもっている高野講。

木を伐採してその代金で総まいりと云って高野山へ参るそうだ。

講中が亡くなったときは遺骨を高野山にもっていく。

奥の方にあるお寺だという。

そんな話をしてくれた講中の一人にOさんが居る。

その日の午後は極楽寺に集まる。

お堂の奥に入った人たちは3月のお釈迦さんのときと同じ顔ぶれ。

いつもそうなんだと話す。

そのときと同じように風呂敷に包んだ家のオソナエ。

古くから安置されているお大師さんは厨子の中。

手を合わせて席に着く。



本尊の木造阿弥陀如来坐像が安置されているお堂はとても狭い。

6人ほどで満席になる。

仕方なく廊下まではみ出した。



そこには威厳ある顔立ちの行者像もある。

中央の股ぐらに置かれたモノに目は届かない。

御供はヨモギモチやお菓子など。

ヨモギはこの季節もん。

ダンゴにする家もある。

田畑で摘んできたヨモギは米粉を混ぜて作った。

一斉に手を合わせて念仏を唱えることもなく、ただただお堂で語らい。

「何の秩序もなく、決まりもない。四月はお大師さんやいうて。集まってなんちゅうこともないダラダラと話しをしているだけだ」と話す村人たち。

お釈迦さんの日も同じような感じで、お堂の時間を過ごす。

こうしてひとときを過ごした人たちは供えたお菓子などを風呂敷に包んで持ち帰る。

御供のお下がりは家で食べるのだ。

「こんなことしかしていないのに何故か我が家に問合せの電話が架かってくる」というOさん。

息子さんがある参拝者に尋ねて判ったその秘密。

平成3年に偕成社から発刊された(吉野正美文・岡田栄一写真著の)『大和古寺めぐり』にその理由があった。

20年前の発刊だが本屋で売っていた。

ベストセラーだったのだろう。

頁をめくれば別所町の極楽寺が掲載してある。

そこには問合せの電話番号も。

名前はOさんの親父さんだ。

どういう経緯があったのか判らないが民家の電話番号を掲載してある本は珍しい。



謎が解けたOさん宅は萱葺き家。

高野講の当番家になる時期がくれば再訪したいものだ。

(H24. 4.21 EOS40D撮影)

番条町北垣内のお大師さま

2012年06月24日 09時06分44秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市番条町集落一帯で祭られるお大師さんの日は4月21日。

江戸時代末のころに始まったと伝えられている。

昭和八年(1933)に残された由来書によれば文政十三年(1830)に村で流行病いのコレラが広く発症したという。

世界的に大流行したコレラ病い。

日本に及んだ最初の流行は文政五年(1822)だったそうだ。

感染経路は定かでないが、海を越えて九州長崎に上陸して東海道へと移って西日本に蔓延したが、箱根の関所でくい止められて江戸までは到達しなかったそうだ。

『西矢田宮座年代記』に閏三月二十八日におかげ参りをしたという文政十三年(1830)の記事がある。

「伊勢へ諸国参詣有、なかなか大まいりで道筋外まで宿いたし。いしょう(衣装)こしらえ矢田村から諸々方々へと出候。人数八百人に弁当拾五六荷もど持出。村々は青田を刈られ」たとある。

その年は京都で毎日大地震があり、「一日二十五六度揺った。十二月末まで揺れ続けた」大地震。

それ故に天保へと年号が代わったというが、コレラの事件は書かれていない。

番条からそれほど遠くない矢田村には流行り病いは伝染しなかったようだ。

それより以前の文化十三年(1816)。

「去る亥六月二十七日夜大雨ふり候 大和国一流大水なかれ」とある。

「なかれた人数不智 大川つつみきれたる者 凡三百江入事」とある。

相当な被害が齎された洪水であったろう。

また、文政二年(1819)の「六月十二日八つ時大地しん あまたの家を甚なん義仕候」や文政六年には「当年夏大ひやけ」とあることから、文化年間の後期から文政年間における期間は自然災害に怖れ、人々を不安にさせた時期であったろう。

コレラの大流行が発端で申し合わせた番条の村人は弘法大師を信仰することになった。

四国八十八カ所巡りをした際に本尊を貰い帰り村に奉納して奉った。



村落は88軒あったことから1軒ずつ弘法大師を祭るようになった。

明治十五年(1882)の村誌によれば95軒が真言宗派と記されているそうだ。



いきさつは判らないが、家で奉っているお大師さんをこの日の朝に厨子ごと門屋や玄関前に移動する。

祭檀は煌びやかで鮮やかな文様のはいった敷物を掛ける家が多々ある。

無地もあるがそれなりに美しい。

5品の椀物の膳はそれぞれの家によって異なる生御膳だ。

今年も番条にやってきたのは課題解決のため。

昨年に見かけた北垣内の集落の一軒にあった造りものの像の正体はいかに、ということだ。

探して見るが記憶は曖昧。

どこへ行ったやら、見つからない。



参拝に来ている婦人に尋ねたところ、それはあっちを曲がった処にあったという。

眼に着く像は同じだったようだ。

尋ねていった一軒の家はU家。

ご主人は不在であったため奥さんに伺った。

その像が置かれているのは当家の裏鬼門。

災いが入ってこないように建てたという。

実はそこは元々正門玄関。

ここから出入りしていた。

家を改築した際に正門の位置を替えて元の位置は裏木戸になった。

それは30年前。

おじいさんが健在な時代だった。

正門を移したことから元の位置は裏鬼門になった。



そういうことから建てたとされる像はどない見ても太閤秀吉の猿顔姿。

烏帽子被りに陣羽織を羽織っている。

日の丸扇を右手にもつ「サルと呼ばれた男」の像だ。

実に精巧な造りの猿姿である。

面妖な姿を見た人たちから尋ねられることが多いがおじいちゃん本人は此の世にいない。

何時、誰に頼んで作ったかも判らないと答えていると話す。

家の守り神だと思った人は賽銭を置いていくこともあるという。

おじいちゃんがおられたころはお大師さんに「ヨゴミ」を作って供えていたそうだ。

「ヨゴミ」は「ヨモギ」が訛った表現でいわゆるヨモギダンゴだ。

今ではお店で買ったモチを供えている。

家で奉っているお大師さんはお正月にモチを供える。

ミカンも供えるときもあるという。



家の守り神は内にお大師さん、外に太閤猿である。

裏鬼門に置かれている威風堂々の猿像は不審者が「去る」という意味があると思われた。

一軒、一軒ずつ手を合わせる集落の八十八か所参り。



この日も朝から訪れる参拝者が多く見られる番条町。

お賽銭を添えて手を合わせる。



接待のモチは一つ減り、二つ減りと少しずつ底が見えてくる。

北垣内の集落を巡る。



自転車で来ていた婦人は隣町の西町在住。

2月に文殊堂文殊会式でお世話になった町だ。

ぐるりと集落を一周した時間は2時間。

ゆったりとした時の流れを気が向くまま巡拝する。

出合う人たちとお大師さんのことを話す時間もついつい長くなる。



隣町の発志院町のお二人もそうだった。

発志院の行事取材は数年前。

大晦日の日にはここでも砂を撒く風習があった。

八王子神社から道にも撒いて。

それを繋ぐような形で家々の玄関まで撒いていた。

その神社で掲げられる簾型の注連縄を取材したこともある発志院町。

かつて神社の秋祭りに大神楽が来ていた。

新米を収穫したころに回って来たという大神楽。

一杯の米を渡したら舞ってくれたという。

夏祭りにも来ていたというが娘が子供の頃。

20年前だったろうかと話す。

そんな話をしていたときだ。

向いの家のOさんが顔を出した。

お名前は市民交流館時代から存知しているお方だがお会いしたのは初めてだ。

買った『奈良大和路の年中行事』を家から持ってきてサインを頼まれる。

その光景を見ていた参拝者の男性も同じようにねだられる。

記念撮影もあったありがたいハプニングである。

O氏はこの番条のお大師さんを伝えたくて『ならリビング』の「私のすてきな奈良の道」に読者投稿されたお方だ。

それを見てお参りに来る人が多くなったという。

その記事は平成17年4月8日に紹介された。

そうこうして中谷酒造へ向かった。



なにかとお世話になっている酒屋の屋号は「中屋」。

北城垣内にある。

南も酒造りがあったことから南に対して「中」と呼ばれていたと会長が話す大師堂。

毎月のお勤めをされている大師講の一員でもある。



今日は朝から一時間交替で参拝者を待つ。

次から次へと訪れる参拝者。

またたくまになくなってしまう。

継ぎ足すモチは精いっぱい。

「モチたばりの親子連れや団体が来たら追いつかん」と話す。

(H24. 4.21 EOS40D撮影)

新庄影現寺・柿本神社チンポンカンポン祭

2012年06月23日 08時46分30秒 | 葛城市へ
葛城市新庄の柿本人麻呂公民館に集まった住職や檀家の人たち。

この日は柿本人麻呂の命日と伝えられているチンポンカンポン祭。

不思議な響きをもつ行事名称である。

一風変わった名に「はて、何」と思わざるを得ない。

かつて法要会式の際に打たれていた鉦の音。

おそらく平鉦であろう。

鉦の音がそう聞こえたチンポンカンポン。

春一番の祭りに天理市大和神社の「ちゃんちゃん祭」がある。

これも叩いた鉦の音がそう聞こえたからその名がついたとされる。

もっとも大和神社の鉦は大きな鉦鼓。

二人の男が担いでお渡りをする。

大和郡山市の新木町の新城神社で行われる夏祭り

そこでは「ドンチャンボンチャン」とも呼んでいる。

「ドン、ボン」は太鼓の音色で「チャン」は平鉦の音だ。

太鼓と鉦は拍子をとるように交互に打つ。

その音はまさしく「ドンチャンボンチャン」の音だ。

同市の観音寺町の八幡宮の祭り宵宮

そこでは「チャンポン」と呼んでいる。

「チャン」は平鉦で「ボン」は太鼓の音であろう。

ここも新城神社と同じように鉦と太鼓を交互に打つことからそう聞こえる。

大和には各地で六斎念仏が営まれている。

念仏を唱える際に打つ六斎鉦がある。

その音色は「チャン、チャン」と聞こえることから「チャンガラガン」の別称をもつ。

奈良市八島の六斎念仏や安堵町東安堵の六斎念仏では「チャンカラカン」と呼称している。

桜井市の萱森では「カンカラカン」。

奈良市の藤原町では廃絶しているが、当時は「チャンカラカン」であった。

大和郡山市の今国府では「チャンガラガン」。

額田部では「チャンガラカン」。

井戸野では「チャンカラカン」で通用していた。

鉦の音色は擬音語となったのは、人々の脳裏に刻みこまれ、それが一般に呼称されてきたのだ。

大和郡山市の白土町では今でも念仏講の営みで鉦を叩いて新仏の家に参る大人の集団と子供の集団がある。

大人の組は「チャンガラガン」で子供の組は「チャチャンコ」だ。

「チャチャンコウ」或いは「チャチャン講」と聞きとっていた名称は違っており、「チャチャンコ」が正しいと村の人は云う。

こうした数々の鉦を叩く擬音語事例から考えるに新庄柿本の「チンポンカンポン」は「チャンポンカンポン」であったかも知れない。



関係者は行事を始める前に公民館で串に挿したキナコダンゴをよばれる。

ご婦人たちが作った手作りダンゴ。

ほどよい甘さが口に広がる。

4年前に訪れたときもいただいたが、そのときは橿原市坊城の「だんご庄」の「おだんご」だと聞いていたがそうではなかった。

久しぶりに訪れる柿本。

住職や総代らにお礼のご挨拶をする。

本堂に登った檀家たち。

ありがたいことに一般参拝者も受け入れる影現寺である。

少ない人数であったからそうしたのである。

住職、副住職は中央に、檀家たちは周りを囲むように座った17人。

始めに副住職が配られるお香を手にする。

手の中で擦っておく。

お香の香りが手の中で広がる。

仏前勤行次第の頁を開ける。



般若心経、十三仏、御真言などなどを唱える。

本尊の十一面観音菩薩に捧げる法要である。

影現寺は高野山古義真言宗。

柿本神社の神宮寺で、空海の高弟真済の創建と伝えられ、平安時代初期の仏像が残されている。

五穀豊穣を願う法要会式の後は塔婆回向。

その後は住職のお話と続く。

「毎月の柿本人麻呂の月命日法要に際して何度となく聞いているお話もありがたさがしみるのだ」と檀家の一人は話す。

会式法要を終えた役員たちは柿本神社末社の稲荷社の前に並ぶ。

弁之庄の諸鍬神社から宮司を迎えて祓えの儀、祝詞奏上、切麻清めの儀、玉串奉奠など賑々しく神事が行われる。



この日を祝してであろうか、思わず鐘楼を打ち始めた長老。

チンポンカンポンの音は鐘の音色に移り替った。

そして柿本神社の拝殿に登った一同。

柿本人麻呂公の生誕1350年祭のおりに製作された幟を高々と掲げてこの日を祝う。



拝殿に数多く並べられた御膳。

青葉にコンブ、スルメ、コーヤトーフだ。

氏子の家の数だけ並べられる。



大小混ざった御供モチは赤、緑、黄色などなど。

大きな桶二杯に盛られて氏神さんに供える。



影現寺住職も交えて行われる神事の場は厳かに刻が流れていく。

神事は祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠。住職、副住職も神さんに捧げた後は円座になって拝殿で直会をする。



そのころ集まってきた村の人はおよそ60人。

恒例の御供モチは3分少々ですべての餅を撒き終えた。

(H24. 4.18 EOS40D撮影)

広陵食堂のかけうどん

2012年06月22日 08時28分10秒 | 食事が主な周辺をお散歩
あっさりしたものが食べたい。

それも安価なものは何かと思っていたところ得得うどんで平日かけうどんが65円とある。

これはいっぺん食べてみなけりゃ。

お店は近くにある。

いつも通りすぎる南井町だ。

さあて入ろうかと思えば14時からだった。

まだ一時間以上もある。

相方なくあきらめて葛城に向かった。

その途中に目に入ったかけうどん150円の幟。

これもときおり拝見していたのだった。

ものは試しに入ってみる。

ありとあらゆる調理されたもの。

ずらりと並んでいるが今回はうどん一筋の目線。

かけうどん一つを注文した。



テンカス、ネギ、ワカメも入っている。

そうそうカマボコも。

麺はシコシコ。喉越しが良い。

だし汁は当然ながら和風。

カツオ出汁でしょうか。美味しい味に麺が唸る。

コンビニのインスタントラーメンでは味わえないかけうどん。

病みつきになりそうだ。

少ないのかなと思えばそうではなかったかけうどん。

それそこそこでなる麺の量は「中」クラス。

レシートにはそうあったから、大盛りもあるのだろうか。



さて、注文したときにもらったサービス券は2種類。

玉子焼きが50円引。

うどんは100円引。

かけうどんは税込みで157円だけど、これにサービス券を出しても有効なのだろうか。

(H24. 4.18 SB932SH撮影)

口柳の行事

2012年06月21日 06時43分18秒 | 楽しみにしておこうっと
観音さんの十七夜のお勤めをされた奈良市六条町の口柳地区。

7月23日の夕刻は観音寺で地蔵尊の祭りをするという。

11月の土曜日は十夜。

本堂で数珠繰りをするそうだ。

このときは大和郡山市矢田通りにある円融寺が参られる。

これらはお寺の行事だが、集会所で行われる行事もある。

春、秋の彼岸の中日に行われる彼岸講。

掛軸を掲げるというがどのような軸幅であろうか、一度訪ねてみたい。

口柳の古宮さんではかつてタコカンジョウをしていた。

その状況は県立民俗博物館が発行する「民俗博物館だより」で拝見したことがある。

勧請縄にぶら下げた房がまるでタコのように見える。

八本足を広げた形はまさにタコそのもの。

それに似た形状を今尚続けているのが奈良市大柳生のカンジョカケ。

著書の『奈良大和路の年中行事』で紹介した形と同じである。

そんな話題を提供してくれた口柳の檀家たち。

かつては庚申講、伊勢講、愛宕講もあった。

八六の家が順に回っていたという。

八六の家とはなんぞと問えば八畳、六畳の間がある家をそう呼ぶそうだ。

庚申講の営みに掲げられていた庚申さんの掛軸。

一番古いものがあるというMさんが声を掛けてくれた。

90歳の当主が蔵から出した掛軸は相当古い箱に納められていた。

「郡山何某山 桓度・・」の文字がある。

お寺のように思えるが判定できない。

4幅もあった掛軸。



一つは云わずと知れた青面金剛で他に六十翁、金毘羅大神であった。

(H24. 4.17 EOS40D撮影)