マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

淡路島地震再来かと思えた大野町十輪寺落慶法要の日

2013年07月31日 06時58分46秒 | 奈良市(東部)へ
平成12年に発案されてから13年間。

紆余曲折を経て新しく建築された奈良市大野町の十輪寺。

昨日までは風が強く吹き荒れる日が続いていたがこの日は快晴。

念願の落慶法要に天の恩恵を受ける。

数年間の建築準備を経て実行委員会が組織されてこの日を迎えた。

元禄時代までは真言宗新義派で長谷寺の末寺だった十輪寺。

以後は法隆寺の末寺となっていたが昭和17年より真言宗東寺派である。

この日の朝起きにセットしていたタイマーは6時半だった。

そんなことは寝てしまえば忘れてしまう。

寝ているときのことだ。

雨戸がガタガタと音を立てる。

大風が吹いていたと思った。

であれば良いのだがガタガタと家が揺れる。

地震だ。

思わずガタっと起きた。

ゆっさ、ゆっさ揺れる横揺れはまぎれもない地震。

阪神大震災を思い起こす揺れ。

ふらふらと立ちあがり廊下をゆくも揺れている。

テレビをつけた瞬間に音声が流れたピロピロの警報。

5時33分だったと伝える映像は淡路島。

震源地だと伝える震度はマグニチュード6.3だ。

被災状況を市町村担当者に電話応答される。

それから1時間後に伝えた交通状況。

JR線は全線見合わせ。

不通になった地域もある。

そんな影響を受けた神戸の僧侶。

大幅に遅れて到着した落慶法要は既に進行中であった。

不謹慎ではなくこの日に起こった地震の影響であるが、被災した淡路市の状況を伝えるテレビのニュース。

余震はこの夜も続いている。

お稚児さんの練供養が出発した。



田んぼが広がる田原の里。

美しく着飾ったお稚児の行列が続く。

先頭は僧侶の会奉行に貝吹きが続く。

白装束の金棒引き、裃姿の檀家代表、大師講元・仏青会長、檀家総代。

赤い傘は職衆と呼ばれる僧侶たち。

東寺派真言宗の僧侶たちは各地からやってきた。

後列がお稚児さんだ。

参加人数は多く長い行列になった。

ひと目見ようと行列を見守る村の人たちも笑顔で迎える。

新しくなった大伽藍の本堂前で記念撮影。

人数が多いだけに時間もかかる。

そうして始まった落慶法要。

入堂された職衆たち。



始めにお稚児が献花をする。



檀家役員から菊の花を受け取って一人ずつ献じるお花がずらりと並んだ。

十輪寺に集まった人たちは田原の里人。

かつては添上郡田原村と呼ばれていた地区は茗荷村、此瀬村、杣ノ川村、長谷村、日笠村、中ノ庄村、誓多林村、横田村、大野村、矢田原村、和田村、南田原村、須山村、沓掛村、中貫村の十五ケ大字からなる。

(H25. 4.13 EOS40D撮影)

貴重な記録の二人展

2013年07月30日 08時20分37秒 | しゃしん
待ちに臨んだ二人展。この日は強い風が吹く。

八重桜は満開、サツキも咲きだしたというのに寒い日となったこの日の金剛山水越峠はなんと雪積は1cm。

雪化粧に包まれたと配信したgucchiさんも驚くこの日から始まった『野辺の送り』二人展。

平成24年4月に田原の里の沓掛で遭遇した葬送の儀礼の写真展は野口文男氏と志岐利恵子氏の共同作品。

公開されたのは一年後の本日だ。

場所は大阪梅田のヒルトンプラザ・ウエストオフィスタワーの13階。

ニコンサロンbis大阪である。

平成22年9月にあった石津武史氏の写真展『日々坦々』以来である。

仕事を終えて一旦は帰宅。身支度して出かけた日は風が強くて寒い。

JR郡山まで歩こうと思っていたが、バスにした。

西大寺の近鉄で買物したいと申すかーさんもバスに乗る。

奈良交通のバスに乗るときに使っているCI-CA(シーカ)プリペイドカードはチャージしていない。

かーさんが出かける際に使っているICOCA(イコカ)カードがある。

JRに乗るときに利用できるICOCA(イコカ)カードは平成15年11月から運用を開始された電子マネーカード。

CI-CA(シーカ)プリペイドカードと同様に現金をチャージしなければならない。

平成19年4月からは奈良交通バスにも利用できるように拡大されたICOCA(イコカ)カードを家族で利用するが私は使い初め。

バスに乗ってピッと翳すせばそれで済む。

財布から出するお金の計算はまったく不要な非接触形のICカードである。

バスを降りて郡山商店街を抜けてJR郡山駅に着く。

改札口前に施設されたチャージに現金を投入するのも簡単な操作。

指示通りにすればいいのだ。

向かう先はJR難波駅。

電車賃を確かめて切符券売機の前に立つ。



ボタンを押してカードを挿入するがピクリとも動かない。

これまでは現金を投入して切符を買っていた。

指定電車賃のボタンを押しても反応がない。

カードは読み込まない。

ボタンは反応しない。

機械の故障かと思って券売機を替えて操作してみたが同じだ。

焦る切符の購入。

たまりかねて駅員さんに尋ねた結果は「カードを改札口にピッとしてください」だ。

そうなんだ。

私はICOCA(イコカ)カードで切符を購入するものだと思っていた。

テレビでときおり放映されるタレントさんの切符買い。

ボタンの操作に面食らう人は多い。

私も同じであった初体験。

帰宅してかーさんに話したら笑われた。

乗った電車は大阪駅行き。

JR難波駅へ行くには乗り換えがいる。

面倒臭くなって新今宮駅で下りずにそのまま環状線。

今宮駅、芦原橋駅をスルーする大和路快速は一路大阪駅を目指す。

昭和36年はぐるりと回遊する環状ではなかった。

天王寺、大正、弁天町から西九条駅止まりだった昭和36年。

大阪駅に行くには桜島線に乗り換えを要していた。

おふくろに手を繋がれて下りた駅が西九条だった。

小学5年生のときだった。

それから先は線路がなかったことを覚えている。

親父に一目会いたいと願ってやってきた西九条。

「二度と来るな」と突っ返されたことも覚えている。

西九条駅が高架化されて一周するようになったのは昭和39年だ。

50年前のことを思い出しながら着いた大阪駅。

新しくできた大屋根があるがゆっくりしている時間はない。

西梅田の表示ばかりを見ながら地下道を歩く。



地下から上がってみれば摩天楼の大都会。

都会を離れて十数年。

馴染まない身体になったものだ。

それはともかく出展されていたお二人は正装。

いつもの撮影の姿とはうって変わる。

「まえがき」に寄せた文は葬送の儀礼家に送る謝辞。

格調高い素晴らしい文章である。

突然の撮影願いに驚かれた喪主家だったと思えるが、展示された写真は未来永劫まで残る貴重な映像。

生の民俗に身震いする。

この日の朝一番に拝見されたと聞く。

葬送の行列は平成20年4月に都祁の小山戸で拝見したことがある。

御田祭の取材する直前の時間帯だった。

小山戸の里から聞こえてきた送り鉦の音色だ。

葬送の鉦であるが祭場からは遠く離れている。

後方には行列があった。

そのときの光景を思い出すが、展示された田原の里の沓掛の行列は村の息遣いが聞こえてくる。

小山戸では二人展の野口文男氏と一緒に居た。

撮るものではないと判断したのであったが、沓掛では許可を得て撮影された。

千載一遇と直感で決断、声をかけたのは志岐利恵子氏であろう。

鉦、辻蝋燭、幟、燈籠、霊柩車、墓所、門、トウキン、四花などさまざまな角度から捉えた儀礼は何百枚にもおよんだと云う。

選びに選んだモノクロ写真は47点。

会場の関係で公開されたのは37枚になったと話す。

僧侶は大野町十輪寺の住職と天理市山田町の蔵輪寺住職。

ともに真言宗である。

霊柩車と呼ぶ蓮台で寝桶を運ぶ。

昭和18年に田原の里の村々が共同で作った霊柩車。

それまでは担いで葬送していたという。

当時は戦時中。

男手が少なくなって車輪をもつ構造にしたようだ。

カンヌ映画祭で審査員特別大賞のグランプリをとった映画「殯の森」に最初に登場する葬送の行列の霊柩車であるが、写真展に映っている霊柩車は生の存在だ。

大阪南河内の滝谷不動はおふくろのふるさと。

私が小学生のころにあった母家の大おばあちゃんの葬送。

いとこの兄ちゃんは白装束。

4人がかりで担いだお棺は樽形の座棺だった。

亡くなった大おばあちゃんがそこに膝を曲げて座っていた。

今でも鮮明に残る頭の中の映像だ。

堤防だったのか畑の道の里であったのかはっきりしない。

墓地までの距離は割合ある。

座棺を埋める土葬であったことも覚えている。

平成24年3月に大和郡山市の矢田の民俗聞き取りで知った墓の穴掘り。

座棺があったのは30年も前のことで円形の棺桶だった。

その後の座棺は四角い箱の寝棺になった。

四人で担ぐ寝棺はオーコと一体形。

それをコシ(輿)と呼んでいた。

編んだ堅い縄を括りつけたオーコ。

それを両肩にあてがうように担いだ。

棺桶を蓮華模様の棺台に置いて念仏を唱える穴掘りは葬送する前にしておくが、埋葬する際には家人を見届けることなく家に戻った。

墓を掘るのは「アナホリ」と呼ぶ。

一升びんの酒を持ってきたそうだ。

酒を飲まずにおられなかったアナホリ。

三角巾の頭に白装束姿で掘っていたと話す。

棺桶を埋める際には竹組みを縄でスダレのように編んだものを棺桶の上に乗せておく。

土を掛ければ見えなくなる。

獣が墓を掘り起して食べないようにしたこの竹組みをケモノヨケと呼んでいた。

仏さんを埋めれば盛り土をする。

それはこんもりとした形に盛るから「ドマンジュウ(土饅頭)」と呼んでいた。

そこに標木を立てる。

ドマンジュウの土が引っ込むまでそのままにしておく。

矢田の葬送は20年も前のことだと案内人が話していたことを思い出す。

出典された田原の里の葬送は11年ぶりの土葬。

おそらくは最後になると思われる貴重な記録を拝見する。

仲間たちを招待されての立食パーティは会費制。

この日に集まったのは34人。

顔なじみのある方ばかりだけにお酒が進む。

ご両人の挨拶や元県立民俗博物館中川館長、元学芸課長の鹿谷氏からも謝辞もあった2時間弱の会談はつもる話で盛り上がる。

(H25. 4.11 SB932SH撮影)

野遊び年度初めの下見会

2013年07月29日 07時53分54秒 | 自然観察会
昨日から吹き荒れる春の嵐は暴風雨。

この日も納まることがない。

警報が発令されない雨天でも実施する野遊びの会。

この日は平成25年度の初寄り合い。

スタッフが集まる場所は大和郡山市の施設である市立少年自然の家。

年度事業の陶芸教室の受け付けには大勢の申込者がおられた。

存知している家族もいるが私たちは打合せ兼の下見である。

平成18年に活動を開始した自然観察会はボランティア。

活動するには保険加入が必須だ。

活動結果によって払い戻しの戻入金は僅かであるが活動保険に充当していた。

ありがたいことであるが払い戻し金額も目減りする時代。

7年ぶりに追加徴収した会費は200円。

気持ちだけの金額で補充した。

新たな保護者会もあると云う。

昨年の保護者会は11家族であった。

今年度の新規加入の家族は19にもなるという。

参加希望が増えることは嬉しいことだ。

諸連絡事項を確認したりするうちに少しはましになった風雨。

ときおり日が差し込むこともある。

来週の本番日とは自然状況が大きく変化するであろうと思うが出発した。

ときおり強い風が吹く。

さしていた傘もぶっとぶぐらいだ。

強風に煽れる環境下であるが野の鳥は負けじと飛んでいる。

ホオジロ、コゲラ、シジュウカラなどの鳥が囀っている。

桜の花は雨にあたられて落下模様だがドウダンツツジが咲きだした。

雨は止んだが風は衰えず1時間で切り上げた。

とにかくさぶい(寒い)一日であった。

そんな状況下の下見であったが収穫もあった、民俗博物館の公園内でのことだ。

春の恵みのワラビが目に入った。

入ったと思えばあちらにもある。こちらにもある。

恵みに手がゆくワラビの群生。

今夜のおかずの天ぷらになった。

塩をつけて食べるのが一番美味しい。

(H25. 4. 7 SB932SH撮影)

またもやシイタケ

2013年07月28日 09時17分14秒 | 我が家の花
知らず知らずに発生していた我が家のシイタケ。

原木は朽ちる寸前であるが再び実りの目を覚ます。

昨年の11月以来の実りに驚くのであった。

シイタケは春、秋にあがる。

ホソの木で作っていると話していたのは矢田中村の住民Ⅰさん。

出里の鳴川はシイタケの産地で名士が作らせたと云う。

Ⅰ家では外に置いてあるホソの木。

初冬もあがっていたが、今年の3月末にもあがっていた。

小粒ではあるがたくさんの実りである。

Ⅰ家を同じような時期にあがった我が家のシイタケ。



翌朝にはバターで炒めて美味しくご馳走になった。

(H25. 4. 5 SB932SH撮影)
(H25. 4. 6 SB932SH撮影)

稲渕の春

2013年07月27日 07時35分35秒 | 明日香村へ
桜井の安部(あべ)から明日香村は近い。

気になっていた稲渕(いなぶち)を訪れた閉店間際のお店におられた婦人たち。

馴染みのある顔ぶれだ。

何度も電話させていただいたUさんも居られる。

桜が満開だった昨年の閏年の庚申モウシアゲは4月14日だった。

この日は斎場である南淵請安(みなぶちのしょうあん)墓の桜は満開だった。

それから一年後の今日は10日も早くに満開となった。

稲渕の橋辺りに架かる男綱。

後方にコブシが咲き誇る。

年に一度の行事があると云うT氏。



それは男綱の勧請縄掛けであろうと問えばそうではないと返す。

正月初めに立ち寄る龍福寺。

昼ごろだと云う。

かつてはトヤの家でいっぱい飲んでいた。

「デン」と呼ばれる膳があった。

負担を避けて家の回りを止めてお寺になったと云う。

4軒の営みは今でも変わらないが古い家のようだ。

飛び石の石橋付近に生えているネコヤナギの木をとってくる。

年々少なくなってきたネコヤナギ。

濁流で根こそぎかと思えばそうでもなかった。

石橋辺りのネコヤナギは根が残っていたのである。

昔から所有する版木に墨をつけてお札を刷る。

そのお札はネコヤナギに括りつけて祈祷をする。

住職が唱える般若心経だそうだ。

その場は寺本堂ではなく境内にあるお堂だという。

大日堂であるのか、それとも元五重層石塔を奉る覆堂であるのか翌年にはお伺いして確かめたい行事である。

行事を終えたお札をネコヤナギは苗代に立てる。

どうやら正月初めに祈祷されるオコナイのように思える行事である。

(H25. 4. 3 EOS40D撮影)

満願明けの巳の十二支桜

2013年07月26日 08時35分56秒 | 桜井市へ
今年の桜の咲き初めは3月21日辺りだった。

25日には三分咲き。

日々刻々と春の様相が変化する。

4月の声を聞いたとたんに満開となった奈良大和路の平坦地域。

2日の午後には雨が降った。

その翌日は風に煽られて早くも花散らし。

仕事を終えて大急ぎで向かった先は安部の文殊さん。

快慶の代表作とされる本尊木造騎獅文殊菩薩(きしもんじゅぼさつ)像および脇侍像が国宝に指定されたと各新聞社が報じていた寺院である。

像内に建仁三年(1203)の墨書があるそうだ。

建仁三年は東大寺で大仏復興の総供養が営まれた年で、同時に南大門の金剛力士像も完成したとされる。

脇侍像は獅子の手綱をとる優填王(ゆうてんのう)や仏陀波利三蔵(ぶつだはりさんぞう)、最勝老人(さいしょうろうじん)。

先導しているのは善財童子(ぜんざいどうじ)である。

中央に騎獅文殊菩薩を配置した姿は仏教を広める旅の途中を表現したもので中国の五台山(ごだいさん)を舞台にした「文殊説話」に基づく五像だそうだ。

報道されたことで多くの参拝者で溢れたという桜井市の安倍文殊院は親しみを込めて「安部の文殊さん」と呼ぶ人も多い。

一昨年の8日が満開だった。

昨年は10日であった安部文殊院の桜。

今年は既に花散らしになっていた。

一週間以上も早い今年の桜はどこともである。

報道によればこの日は大宇陀本郷の又兵衛桜や室生大野寺の枝垂れ桜も満開になったそうだ。

拝見する安倍文殊院の桜は文殊池東側の庭園が目当て。

年末に翌年の干支を花絵で飾ったデザインを見たくて毎年出かける。

ジャンボ花絵は平成8年から始まった。

私がそれを知ったのは平成13年だ。

それから恒例になった桜花に囲まれるジャンボ花絵を撮り続けている。

スタートした平成13年も巳年だった。

ひと回りした平成25年も巳年。

花絵のデザインはどうさるのか気になっていた。

平成13年はひらがなの「み」をデザイン化された。

今年はひらがなから漢字になった「巳」そのもの。

その他の年はすべてが動物をあしらったデザインである。

巳年だけはなぜか、文字であると思ったがよくよく見れば口からピロピロと出している蛇であった。



それらデザインの様子が一目で判る「開運を告げるジャンボ花絵」の高札が掲げられている高台。

その画像は年末に作られたときの模様であるから桜花はない。

(H25. 4. 3 EOS40D撮影)

ちゃんちゃん祭兵庫大字の還幸

2013年07月25日 06時56分01秒 | 天理市へ
ドン、ドンと祭りの終わりの合図を告げる新泉の太鼓が打たれて全ての行事を終えた人たちはそれぞれ大字へ戻っていく。

新泉、三昧田、兵庫は大和神社の両隣。

宮入り、宵宮参りと同様に旧道の裏参道を戻って集落に辿りつく。

夕陽が沈む直前の時間帯。

澄み切った空は夜を迎える。



小字宮ノ口西側にある南池が美しく輝く。

この日の祭りに向かう際に参った須佐之男命を祀る素盞嗚神社に集まった。



拝殿に残しておいた竹の御幣に括っていた御供と幣を外す。



受け頭屋が賜り、御供は頭屋や座中に配られる。

一同揃って頭を下げて解散した。



ありがたいことに頭屋が受け取った中山の粽の内の一本を授かった。

貴重な祭事資料として受け取ったのである。

長い一日だったちゃんちゃん祭の神幸・還幸祭。

翌朝は三役(年預総代、会計役、総務役)と宮総代によって後宴祭が行われる。

50年ほど前は青年団による奉納相撲が行われていたそうだ。

その後の日曜日には神楽祭があるという。

この日に奉納されていた伊勢大神楽。

今では見られないが祭典に神楽の名が残った神楽祭は大字頭屋の慰労の日でもある。

かつては5月1日であった神楽祭は「だいだい祭」と呼んでいた。

ちゃんちゃん祭が「代々」まで続くようにという願いの祭り名であろうか。

(H25. 4. 1 EOS40D撮影)

ちゃんちゃん祭還幸の儀

2013年07月24日 06時52分33秒 | 天理市へ
再び立ちあがった神輿担ぎの若者たち。

神幸渡御と同様に6人で担ぐ増御子社の神輿が先だ。



次が12人で担ぐ本社の神輿。

神輿の重さが肩に食い込む。

担ぎ手の表情が重量の差を表しているようだ。

かつては大字の青年であったが現在はアルバイトを雇っている。

中山のお旅所から戻ってきたお渡り行列は鳥居を潜って大和神社に戻ってきた。

17時ころに出発した一行が着いたのは17時45分。

休み場の休息はなかったこともあり還幸時間は神幸渡御よりは短い。

戻ってきたときには隊列も崩れている。



お旅所祭典で拝見した平鉦。

先駆を勤めていた年預が手にしていたことを確認する。



本社の神輿を拝殿に置かれて神遷しが斉行される間、白馬と黒馬の2頭の神馬(しんめ)は反時計回りに三回周回する。

これは還幸祭の儀式の一つにあたる。



白馬は長雨の際に願う止雨、黒馬は雨乞いの祈雨を現わしていると考えられる。

乗馬クラブのインストラクターに引かれた馬はその作法で納める。

還幸の儀の際には頭人児および頭人代が呼び出されて昇殿してお祓いを受ける。



その後、産子幣を持つ大字の座中は拝殿前に並び、宮総代に産子幣を手渡す。

大字兵庫は受け頭屋であることから他の大字もそうであるかも知れない。

並べられた産子幣に御供があるものも見られる。

兵庫の五合御供の産子幣である。



括りつけていた麻緒と幣は外されて手渡される。

岸田と兵庫は藁紐で括られた牛の舌餅と呼ばれる餅を賜る。

岸田は30枚の牛の舌餅と鏡餅。



兵庫は頭屋が賜った30枚の牛の舌餅を縁のある両家に分配された。

祭典はこれで終わるわけではない。

兵庫と新泉が最後に奉納される所作が待っている。

そのころは既に日がとっぷりと暮れている時間帯の18時半頃。



この日3回目となる兵庫の龍の口舞いが行われた。

水神が舞う祈雨だとされている。



そして始まった新泉の翁の舞。

お旅所で所作された笠を被るような格好で鋤の所作と樫の葉を放り投げる作法だ。



雨とされる葉が舞い落ちるのは雨乞いの所作とされる。

翁の舞いはかつて面があったと話す新泉の前々年頭屋のM氏。

相当昔は古い翁の面を被って所作していたと云う。

翁面はどこへいったのか。

前宮総代に問いかける結果は「確かにあった。大和神社に修復の要請をしていたが、どこに保管されたか判らない」である。

(H25. 4. 1 EOS40D撮影)

ちゃんちゃん祭のお旅所祭典

2013年07月23日 09時03分21秒 | 天理市へ
神遷しの儀式が始まったその間、一段低い広場ではシートを広げて各大字が座って会食をする。

その場は大字の旗を立てている。

雨天の日となった場合は座の会食の場は中断されたこともあったと話す座中。

ある年では降った雪が積もったこともある。

その日は中断でなく実行されたと三昧田の座中が話していた。



爽やかな風が吹いてクルクル回るカラフルなカザグルマ(風車)が見られる佐保庄と三昧田の座。

頭人児の脇にそれぞれ2本だ。

兵庫はカザグルマでなく風車のないハナカザリである。

この年の三昧田の羽根は6枚だが、佐保庄は4枚。

羽根の枚数は特に決まりがないようだが羽根がない「ハナカザリ」とする兵庫が原型のように思えた。

それぞれ鏡餅やパック詰め料理がある。

箸といえばハコヤの木で作った中太の箸である。

ちなみに佐保庄の座では二束の粽を添えている。

大字の座は毎年替る。

聞くところの話では座の場を決めるのは大字中山だそうだ。

中山はその場でなく御旅所坐神社の西側にある歯定大権現を祀る鎮守社の歯定(はじょう)神社である。

その建物内が中山の座なのである。

中山の会食献立は決まっている。

ソーメンとセキハン(赤飯)、シロメシ(白飯)の握り飯だ。

雨が降るようにという縁起かつぎのソーメンだそうだ。

佐保庄の宵宮参りの際に同行取材させていただいた雑賀耕三郎氏の案内で先駆を勤めていた年預が持つ平鉦を拝見した。



「天下一常陸大掾宗味作」の文字が刻印されていたちゃんちゃん鉦である。

かつて大和神社の神宮寺であった長岳寺山主は岸田市場に鎮座する休み場での祭典を終えるころに合流して、平鉦を叩いてお渡りの隊列に加わったとされる。

現在では参列することなく鉦を打つのは宮総代の年預総務が勤める先駆である。

拝見した平鉦の作者名。

「常陸」の国の「大掾宗味」と名乗る人物である。

「天下一」の称号は織田信長が手工芸者の生産高揚を促進する目的に公的政策として与えたものである。

手鏡などに「天下一」の刻印があることはよく知られている。

カマ納めのカリヌケの際に拝見した大和郡山市の田中町に住む人が所有していた手鏡には「千鳥」の文字とともに「天下一藤原政重」の名が刻まれていた。

年代を示すものは見られなかったが「天下一」の一事例である。

やがて江戸時代ともなれば新しく生みだされた鋳造法によって大量生産されるようになり、鏡師のほとんどが我も我もと刻印した天下一は乱用を防ぐために、天和二年(1682)に「天下一」称号の使用禁止令が出されたのである。

「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 □貞享(じょうきょう)伍ハ辰(1688)七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」の刻印がある六斎鉦を拝見したことがある。

大和郡山市の白土町で行われている念仏講が叩いている鉦である。

作者は常陸ではなく、「出羽」の国の「大掾宗味」である。

この鉦には「天下一」の称号は見られない。

禁令が発布された天和二年(1682)以降に作られた六斎鉦から考えるに、ちゃんちゃん鉦を呼ばれる平鉦は撞木で叩く仏具のタタキ鉦。

行列迎えの供奉であるのか判らないが、その鉦の音色がちゃんちゃん祭の語源であったかも知れない。

明治時代の神仏分離によって僧侶が叩いていた鉦は神社側に移ったのであろう。

白土町の六斎鉦から推定するに、ちゃんちゃん鉦は天和元年(1681)以前に作られた模様である。

重要な鉦を拝見させていただいた雑賀耕三郎氏に感謝する。

また同氏とともに昨日訪れた佐保庄には寛文十二年(1672)、宝暦六年(1756)の座當家箱があると云う。

江戸時代は9ケ大字の宮座が勤めていたちゃんちゃん祭。

大字の在り方とともに長岳寺との関係も深かったようだ。

早めに会食を済ませた大字中山。

他の大字はお酒を飲む余裕もあるが中山はそういうわけにはいかない重要な役目を担う。

若宮さまに捧げ奉る神事があるのだ。

三方に載せたカマス、湯葉や神酒徳利を捧げ奉る。

その後、それぞれの大字から献供されるものをしきたりにそって受け取る。

代わりに粽やお神酒を賜っていく。

次から次へと大字の献供が行われるのである。

昭和5年4月1日に記された大字中山上垣内の『神事渡御御物品順序記載』の献供と賜物によれば神事受け渡しの品はそれぞれ大字ごとに異なる。

壱番は「大明神様へ粽4れん 酒二合 へいじ入 但数八十かわらけ一つ せいごのつる(竹ノ輪ヲ四角ニマゲタモノ)」だ。
二番は「猿田彦へ粽4れん、酒一合、へいじ入 但数八十」。
三番は「新泉村へ粽三ツ四口 酒一合 かわらけ四つ 但同村より上り物弊(田楽幣)一本」。
四番は「兵庫村へ粽三ツ 酒一合 へいじ入 但同村より上り物そうめん二ワ 箸(ハコヤの木)一揃」。
五番は「岸田村へ粽十本二口 酒一合 かわらけ二ツ 但数二十」。
六番は「猿田彦へ(※下垣内は結粽十六) 酒二合 へいじ入参る事」。
七番は「大明神様へ結粽二十五、酒一合、へいじ入 但座内一同持参して参ルコト 尚幣を持つこと」。
八番は「三昧田村へ粽三十 酒一合 丁子入 但同村より上り物凡ソ三升糯(※下垣内は鏡餅)御供」。
九番は「大明神様へ申上酒一合 へいじ入、但当家人参ること」。
十番は「長柄村へ粽十(※下垣内は三十)、但同村より上り物塩鯛(目の下三寸の大鯛)一枚」。
十一番は「萱生村へ粽二十(※下垣内は三十)、但同村より上り物酒一升樽返戻事」。
十二番は「佐保庄村へ粽十、但同村より上り物酒一升樽返戻こと」。
これらはそれぞれの大字が献供・賜物をされる決まった順である。
最後に「明治二十一年子四月改 右村々より上り物若宮様へ供 御下り物は座中へ納有之事」とある。

平成22年4月1日に拝見した大字中山下垣内の『神事渡し物品記載』史料によれば壱番よりも前の冒頭に「大明神様から 神饌物の御下りは座中へ」や「猿田彦様から 神饌物の御下りは座中へ」が書かれていた。

その次には「若宮様へ 神酒徳利 カマス ユバ共に 三宝(方であろう)に載せる事 全員申し上げの事 神饌物の御下りは座中へ」とある。

同史料では「へいじ入」ではなく「せいじ入」であった。

お旅所の祭典における献供は大字中山が仕切る。

大明神様、猿田彦への献供は直接祭典の場に移す中山座中。

新泉、兵庫、岸田、三昧田、長柄、萱生、佐保庄の7カ大字についてはその都度呼出を受けて歯定(はじょう)神社へ献供を持っていく。

受け取った中山から手渡された粽やお神酒を賜って戻る。

賜った粽の本数は大字によってそれぞれであるが、かつて馬の担当だった岸田の宮総代が云うには馬、牛の腹下しの薬にしていたそうだ。

下垣内の史料によれば中山座中が用意しておく粽の本数は「結粽41本 粽320本 作り粽若干」である。

相当な量を揃えるカヤの入手が難しいと話していた兵庫区長の話を思い出す。

お旅所祭における献饌は大字中山によって行われる代替献饌には成願寺は含まれていない。

中山の献饌の最後は御幣に括りつけた洗米の包みを開くことである。

御供を周囲にばら撒くのは散米。神職が行う。

献饌を終えれば粽撒き。

中山座中が何本もの粽を放り投げるのである。

そのころは会食を済ませた座もお開き。

手に入れたい大字の人たちは群がるように集まってくる。

その後はすべての大字の頭人児による玉串奉奠だ。

大字ごとの頭人児は二人。

兄頭人児は額に紅で「大」の文字。

弟頭人児は「小」の文字があったがその頃はとうに消えていた。

そうして始まった兵庫と新泉の奉納所作。



本社神輿、増御子社神輿の両神輿の周りを反時計回りに三周半回る龍の口舞いを奉納する。

お旅所の祭典はこれで終わりではなく新泉の所作がある。

翁に扮する者が前に出る。

かつては翁面を被っていたようだ。

平成22年のときに聞いた新泉の翁面。

かつての新泉の翁の舞は演者が白木の面を被って所作をしていた。

樫の葉を放り投げるときも被っていたと長老のMさんが語っていた。

小さな穴が開いた翁の面。

見えにくいながらも所作をしたという。

いつしか被らなくなった翁面は大和神社に納めたようだと話していた。



竹の皮で作られた円形の田植笠を左手に持って頭に翳して右手の鋤で田を耕す。

スジを切るような鋤の作法である。

水はけをよくする溝を掘っているような作法である。

2スジ掘って鋤を振り上げて肩のほうに上げる。

2回された所作、それは麦作と稲作の2毛作を表しているのではないだろうか。

その所作を終えて半切り桶(コシキとも)に入れられた樫の葉を新泉の座中に配る。



円陣を組んで一握りずつ樫の葉を手に持って一斉に頭上に放り投げる。

その際に「オオミタラシ(大御手洗)ノカミー ワー」と唱和して放り投げる。

翁の舞(田の実の舞とも)と称される奉納所作であるが、この葉は雨を現わしているそうだ。

農作に必要な雨乞いだともいうから豊作予祝の作法であろう。

新泉の「翁の舞」はほぼ同じ人が演じているそうだ。

平成19年は頭屋が演じたというが、演者は村中で適宜決められるようだ。

樂太鼓が打たれてお旅所の祭典を終えれば還幸の渡御。

行列は神幸のお渡りと同様に隊列を組んで大和神社に戻っていく。

その頃の時間は夕方の5時だ。

(H25. 4. 1 EOS40D撮影)

ちゃんちゃん祭神幸渡御

2013年07月22日 07時48分03秒 | 天理市へ
14時頃に出発したちゃんちゃん祭の大行列。

天理市新泉町に鎮座する大和神社の春祭りである。

大和神社郷中にあたる旧村岸田町、成願寺町、萱生町、長柄町、三昧田町、新泉町、中山町、兵庫町、佐保庄町の9カ大字が勢ぞろいする。

出発間際まで神社会所で直会をされて帰路についた三昧田のN氏と出合った。

かつて神宮寺であった長岳寺の住職や丹生川上神社の神職も席についていたと話す。

この日は送迎の仕事だった。

昼過ぎに終えてようやく到着したからときすでに遅しである。

行列は総務役年預(宮総代)の先駆を先頭に、鉄棒、鉦鼓担ぎ、新泉常持の梅幹・小幣(田楽幣とも呼ぶ)持ち、大字の産子幣(うぶこへい)、新泉常持の太鼓担ぎ、猿田彦、長柄常持の錦旗、市長の乗馬、大字の産子幣が続く。

一行の列はまだまだ続く長い行列。

根超榊(ネゴシノサカキ)、神饌唐櫃担ぎ、大幣、大字の産子幣、兵庫常持の千代山鉾(かつては勅使の輿があったが消失して山鉾のみとなった)、清祓、風流傘、兵庫常持の龍頭(兵庫の世話人がつく)、大字の産子幣、馬(H25無し)、甲冑乗馬、増御子(ますみこ)社神輿、盾、矛、鞨鼓(かっこ)樂人、樂太鼓担ぎ、長柄常持の樂鉦鼓、伶人(れいじん)奏樂者、随身(ずいじん)、御本社神輿、菅翳(すげのさしは)、紫翳(むらさきのさしは)、常年預の剱(つるぎ)、長柄常持の矛、岸田常持の白・黒馬の神馬(しんめ)、宮司乗馬。

後続につくのは大字の産子幣、神職である。

お渡り一行は上街道を練り歩く。

小字馬借場の地がある大字岸田。

戦国時代のことだ。

織田家城主が築城にために現在地に遷した大和神社。

その後は城館もなくなったが、城跡地を貰った岸田はその地を馬借場と呼ぶようになった。

お渡りの一行が渡御の途中で神事を行う場がある。

そこは岸田市場の「休み場」。

神輿石と称される石の上に本社神輿を置いて兵庫の龍の口舞が行われる。

「休み場」が城跡地。

かつては上長岡と呼ばれたようである。

そのような関係があった岸田は白馬、黒馬の神馬を常持にした。

その「上長岡」名がある奈良交通のバス停留所がある地は柳本町。

北に向かう次のバス停は中山だ。

西側に向かえば上街道と交差する地点にある長岳寺五智堂。

県内では数少ない傘堂である。

その地の小字名は眞面堂。

長岳地の飛び地だそうだ。

さらに西に向かえば下長岡の小字名がある。

東に向かう道の先が長岳寺。

つまり「上長岡」集落の在所は寺の前である。

ちゃんちゃん祭のお渡りはここまでは行かない。

かつては小字馬借場で渡御を迎えた長岳寺山主、長岳寺鉦鼓とともにお渡りに加わって後続についたと伝わる。

渡御を迎えた長岳寺山主はそこから鉦を叩いて同行していたようだ。

今では加わることもなく長岳寺鉦鼓が3番手である。

お渡りの一行が国道168号線を跨ぐ辺りは西に小字地蔵田で東は三昧講だ。

大字中山辺りに入った地域である。

小字馬場脇はそこから北に200mである。

北東に向かって長閑な畑道の旧道をゆく。






大字中山にある小高い丘。

中山大塚山古墳がある小高い地の傍らがちゃんちゃん祭の神幸渡御の目的地のお旅所である。

一行が到着すれば本社神輿、増御子社神輿の両神輿を大和神社御旅所坐神社(若宮社とも)下に下ろす。

(H25. 4. 1 EOS40D撮影)