マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

大宇陀・拾生の稲荷寒施行の聞取り

2017年11月15日 08時57分10秒 | 楽しみにしておこうっと
大宇陀・万六の自治会館でゆったり落ちつかせてもらっていたときである。

万六のカンセンギョ(寒施行)巡拝中にさまざまなことを教えてくださったⅠさんが飛び込んできた。

まさに、そんな感じだった。

今、行けるのなら隣町の拾生(ひろう)の住民を初回したいと云うのだ。

拾生(ひろう)の稲荷寒施行(かんせぎょう)を取材するなら、この人に話しを伺え、ということで口利きしてくださったM家に急行する。

Mさんは平成18年6月に発足した大宇陀まちおこしの会の代表者になる会長さんだ。

会の担当者はなにかにつけて宇陀・松山のことを教えてくださるUさんである。

拾生(ひろう)自治会の軒数は17軒。

街道沿いに商売をしているお家。

昔は街道に建つ家、皆が商売繁盛であったが、減債はたったの3軒になってしまったという。

元々は二つの拾生であった。

町屋にある地区は松山の拾生。

旧村にあたる神戸(かんべ)地区の拾生の2地区である。

拾生は万六(まんろく)と上新(かみしん)の間の区間。

そこをただ単に拾生と呼んで、向こうも拾生。

川向うとこっちと真っすぐ分かれているが、入り込んでいるところもある、というから実にややこしいことであるが、整理すれば、現町屋の松山町と宇田川西の元農村部神戸(かんべ)村が統合されてできた町ということである。

大宇陀中学校の跡地は市場にあたる。拾生は旧の町だった。

松山城の築造。

城は秋山城にくら替えになったときに旧町から新町名になった。

そのときによろづ町と呼んでいた「万」地区にろっけんしょう(六軒庄であろうか)呼んでいた「六」地区が合体して万六地区ができた。

合併というか、町が統合されて町名を一本化したわかりやすい事例を話してくださる。

ちなみに一番にお聞きしたかった拾生(ひろう)の稲荷寒施行(かんせぎょう)。

その件にさしかかったころにお客さんが来られた。

約束事のお客さんだけに退席したが、万六で若干の話しを聞いていたのでメモを残しておく。

稲荷寒施行の実施時期は、大寒期間中であるが、だいたいが2月1日前後の日曜になるらしい。

この年の実施日はすでに決まっている。

月末の日曜日の1月29日である。

施行に出発する時間帯は2回(2組み)に分けている。

そのわけはといえば、子どものことを考えた上でのこと。

夜間についていく子どもが施行をする場合は危険性があるという山は若い者がセンギョ(施行)する午後1時。

もう一組が出発する第二部は日が暮れた時間帯の午後6時。

出発地は大願寺からになるらしい。

センギョ(施行)に供える御供は赤飯のおにぎりにアゲサン、煮干し。

万六の会所で話してくれたある婦人の話しによれば、伺ったMさんの意向で奥吉野名物のサバメシのオニギリにしているようだ。

また、万六の“志を乃屋”野口昇栄堂のご主人の話しによれば、ドンゴロスの袋に御供を入れて、オーコ担ぎで廻っていたようだと話していた。

今年の日程は明日。

二日続きの施行は身体に無理をかける。

来年の楽しみにさせていただきたいと伝えて退席した。

ちなみに、その29日に行われたことを記事にしているブログが見つかった。

会長家で伺った件や、取材した万六施行のことを伝えたい人が居る。

前述した・・会の・・人であるUさん宅を訪ねる。

記した私のノートにこうある。

「もともとは高原(3代目)の稲荷講。野生の里山は獣の生活区域。供え物は寒中に供える。町に下りてこないように供える」と・・あるからUさんが話したことだと思う。

(H29. 1.28 記)
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大宇陀・万六の年中行事

2017年11月14日 10時10分43秒 | 楽しみにしておこうっと
すべてのカンセンギョ(寒施行)巡拝が終わって戻ってきた一行。

大宇陀・万六自治会館に戻って食事を摂るというのであるが、お酒が飲めない男の人たちは自宅に戻っていった。

お仕事の関係もあって、巡拝が終われば開放のようだ。

町内のご婦人たちは、あっけに取られていたが、どうぞ休んでくださいと、熱々のお湯を注いでくれたきつねうどんのカップ麺をよばれた。

温かいもてなしはキツネの施行ではなく、取材に同行していた私への施行である。

昔は子どもも大勢おった万六のカンセンギョ(寒施行)。

ぜんざいと呼んでいたイロゴハンは炊き込みご飯。

いわゆる混ぜご飯で巡拝者を慰労する直会であるが、やがてちらし寿司に替えた。

その後に子どもも極端に少なくなって、手間のかからないカップ麺にしたようだ。

ありがたくいただいたお部屋に高さが1mほどもある長細いヤカタがある。

ヤカタは2本。右の黒ずんだ方が古い。

色具合から判断して明治時代を下った江戸時代のものであろう。

昔は愛宕さん、お伊勢さんの参会に近所の人たちがヤド家に寄っていたようだ。

ヤカタはどちらになるのか、聞きそびれたが、毎年に交替するヤド家に祭っていたそうだ。

なんせ大きなヤカタはヤド家からヤド家に運ぶのが困難になってきたことから、新築した自治会館の納めることにしたという2体はともに動いたというから人手が要ったわけである。

ちなみに万六の参会(さんかい)は御日待(おひまっつぁん)である。

万六は15軒で組織する自治会。

1月24日、5月24日に9月24日の年3回の御日待参会に2幅の掛軸も掲げる。

1幅はアマテラスオオミカミ(天照皇太宮)のようで、もう1幅は愛宕社であろう。

神饌は小豆を混ぜた洗い米に塩と水。

自治会館に提灯を揚げてめいめいが手を合わしているという。

また、3月の初午(旧の初午)はオゴク(御御供)を搗いて佐多神社でゴクマキをする。

朝の10時から三方に五品の神饌を供えて祭っている自由参拝。

午後3時に「なればゴクマキをする。

ちなみに万六が崇敬する神々は佐多大明神、地車大明神、朝日大明神、朝照大明神。

御日待の際には4神にお参りされて町内安全を願っているようだ。

(H29. 1.28 EOS40D撮影)
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嵩の行事

2017年06月20日 09時49分35秒 | 楽しみにしておこうっと
嵩の山の神行事は1月7日。

日にちが替わった7日の夜の時間帯からお参りに来るひともいるらしい。

遅くても朝8時には村の人すべてが参っているであろうという場は八柱神社と薬師寺の裏地である。

これがそうだと云われなければ気がつかない山の神の印しは埋もれた小岩である。

家の男の数だけ作った藁ズト。

1戸について1個の餅を詰め込む藁ズトはフクダワラ(村史ではホウデン)と呼ぶ。

それを山の神の木に結びつけてぶら下げる。

その木の枝にホウソ(ナラの木)の木で作った「カギ」を引っかける。

カギを引っ張り揺らすように作法をしながら「うーちのくーらへどっさりこ」と言いながらおじいさんがしていた。

山の神に参りにくるのは今では6軒ぐらいと話してくれたのは宮総代のⅠさんだ。

ちなみに村史によれば、コウジミカンを山の神の地に立てていたようだ。

また、「カギ」引きの詞章は「東の国の銭金(ぜにかね) 西の国の糸綿(いとわた) 赤牛につけて こちの蔵へ皆ござれ 皆ござれ」であった。

嵩では春と秋に道造りをしている。

朝は村の農道で、昼は県農道。

道造りにつきものの料理は大釜で煮るオデンがある。

オデンは春であるが、秋はマツタケご飯になる。

かつてはマツタケすき焼きだった。

当時のすき焼きは牛肉よりも松茸の方が多かった。

今から40~50年前のマツタケすき焼きにイロゴハンもあった。

料理の材料費は村でもつ。料理をするのは村の役員。

この年は9月25日の実施。

例年も9月の最終日曜日にしていた秋の道造り。

春もそうだがいずれも雨天決行である。

夏の第一日曜日は墓サラエ(浚え)。

おそらくは7日盆の墓掃除のことであろう。

盆の風習にサシサバがあった。

ちなみに嵩には主に女性で構成される薬師講がある。

この年は1月10日だった大般若行事は六百巻の大般若経を転読法要。

聞くところによれば天理市福住の別所でお会いした僧侶が来られるようだ。

なお、昭和10年までは厄年の人の餅一重村各戸配りをしていたそうだ。

(H28.10.22 EOS40D撮影)
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菟田野平井から萩原小鹿野の民俗探訪

2017年06月17日 08時54分24秒 | 楽しみにしておこうっと
宇陀市榛原の石田に住むUさんが教えてくださった神社行事がある。

一つは上平井のヒトミゴクに9種の御供。

二つ目は下平井のモッソのセキハンである。

両行事をされている地区は宇陀市菟田野平井にある上平田と下平田。

マツリの日は宇太水分神社祭礼の前日になるというから出仕される神職は宇太水分神社の三家宮司であろう。

宇太水分神社の鎮座地は宇陀市菟田野の古市場。

平成12年10月15日の秋祭りや平成17年2月7日の祈年祭に出かけたことがある。

ずいぶん前のことである。

宇太水分神社祭礼は10月15日。

前日であれば14日であろうか。それともUさんがいう20日であろうか。

時間帯も含めて神社所在地を見ておきたい。

そして祭事関係者にお会いして行事の状況を教えてもらおうと思って出かけた。

一つ目に訪れた地域は菟田野の平井。

Uさんが話していた神社はどこだろうか。

ネットの地図を拝見しても掴めない。

そうであれば付近の民家を訪ねる。

畑に人が見えたらその人に聞くのだが、生憎この日は待てども、待てども現れない。

ここまで来て諦めるわけにはいかないから旧家の佇まいをみせる民家に訪ねてみる。

呼び鈴を押せば奥から男性が出てこられた。

話しを伺えば男性は上平井八王子神社氏子のNさん。

平成28年は10月15日にマツリがあった。

本来は20日であったが、現在は宇太水分神社祭礼の前日の第三土曜になる。

御供はシラムシ(白蒸)ご飯にザクロやカキ、クリ、トコロイモ。

他にも長めの串に挿したコンニャクやダイコン、サトイモに半切りのチクワもあるという。

それは氏子に配られる御供であるが、3本であったが近年に縮小して1本にしたという。

夜は甘酒の接待というからヨミヤとマツリを一本化したのかもしれない。

ちなみに神職はやはり宇太水分神社宮司の三家さんだった。

話しを伺って教えてもらった神社の鎮座地に向かう。



神社には石板に願いを込めた由緒書きがある。

当社祭礼に人身御供と称する特殊神饌を供するとあった。

Uさんに氏子のNさんが話していた御供の形がそうなのであろう。

本社、境内を見てまわる。



「文政十二年(1829)次己丑九月」の年代刻印がある灯籠。

それより古かったのは手水鉢。



「元禄六年(1693)九月一日」の年代記銘がある手水鉢には「八王子」。

手水鉢を寄進したと思われる当時の村人7人の名がある。

それを見届けて次の訪問地に出かける。

二つ目は下平井の皇大神社である。

マツリを知る人はどこにおられるのだろうか。

ここでも田畑に村人はいない。

これもまた仕方なくそれと思しき民家の呼び鈴を押す。

出てこられた男性のTさんに尋ねたがマツリのことが要領得ずにまったく掴めない。

近くの家も訪ねてみるが不在だ。

もう一軒のM家も行事のことはわからないという。

その辺りをうろうろしていたら一人の男性が車でやってきた。

宮総代のKさんであるが、Uさんが話していたモッソのセキハンもなく、村総会を兼ねたヨイミヤマツリは一般的な神事であると云われた。

そういう状況であるが皇大神社の鎮座地は拝見しておこうと思って畑におられた婦人に聞けば、そこだという。

なるほど、ここにあったのか、である。



車止め前に停めて本社、境内を見てまわる。

何年か前にゾーク(造営事業)されたのだろうか、本社殿が朱塗りで美しい。

その社殿下右側にあったのが庚申塔だ。



葉は椿のようだが花一輪。

お参りしている人が供えたのであろう。

マツリの情報は少なかったが、得るものもあった。

いずれは訪れてみたい菟田野の平井の行事を後にして帰路につく。

その帰路の道中に行っておきたい地域がある。

宇陀市榛原の萩原(はぎはら)の小鹿野(おがの)である。

半年前に訪れた際に田畑におられた婦人たちにだいたいの行事場を聞いていた。

そこへどうのようにすれば行けるのか。

それを確認したくて帰路に立寄った。

行事場は村の中心部。

それも急な坂道を行かねばならない上に軽トラ幅丁度くらいの狭い道。

バックをするにも難しいし、最初に登る道の角度は勢いをつけないと上がれない。

何度かトライしたがその先がどうなっているのかとても怖い。

狭い上に曲がり道。人が歩いてでもいたらと思えばぞっとする道。

迂回しても同じような村の道である。

昨年の平成28年4月15日に訪れた際は村の北側から登ってそこから下ったことがある。

その道は難なく走れるがこの南側が狭いのである。

その日は南側の苗代立て状況を撮っていた。

その畑の真上にあるのが小鹿野の公民館。

地蔵堂があるとされる村の会所である。

そこへ行くには坂道を登ったところでバックする。

それも来た道をバックするのではなく右にある狭い道をバックで登るしかなかった。

一旦、山側に登ってそこから下れば良いとわかったのは半年後だった。

それを知らずに無理をするこの日の行事場探し。

バックで到達した地は平ら。

会所であることはわかったが鍵が締まっている。

当然である。



その会所裏側に立っていた朱塗りの鳥居。

掲げてあった扁額をみれば「小鹿野弁財天社」とある。

行事があるのかどうかわからない。

戻って会所前にある祠を見る。



それは庚申さんだった。

左右に枯れた竹があった。

その形から右は花立。

左は御供台だ。

たぶんに閏年の庚申講の営みがあるはずだ。

これらを書くにするには区長と会わなければならないが、自宅は不在だった。

仕方なく隣家を訪ねる。

お声をかけたら若い男性が出てこられた。

行事のことや場を調べにきたと話せば若干なら知っているという。

地蔵寺は集会所内になる。

寺所有と思われる菩薩像や四天王像が安置しているらしい。

苗代田に立ててあったお札は祈祷札。

正月初めのだいたいが1月7日の午後に打合せを兼ねる初寄合がある。

その際にお札を刷っているのだろうと勝手に推測する。

その日の夕飯会食に籠り。

そのときに初祈祷をしているとこれもまた想定される。

区長に伝えられるならばお願いして場を立ち去った。

(H28.10.20 SB932SH撮影)
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須川のお旅所砂盛り御幣

2017年06月15日 08時27分51秒 | 楽しみにしておこうっと
山添村室津から京都府木津川市の加茂町岩船を取材してきた。

その道中に素通りした奈良市須川町。

須川信号の角地に白いものが見えた。

それはなんだろうか。

もしかとして祭礼の道具であるかも。

何であるのか、確かめたくて戻った。

それは紛れもない幣であった。

砂盛りした所にビニールパイプを立てている。

そこに挿した幣はサカキ。

萎れぐあいから計算して一週間前を想定した。

須川には戸隠神社がある。

この信号よりそれほど遠くない位置に鎮座する。

この場はもしかとすればお旅所ではないだろうか。

柴垣に囲まれた様相から想定できる神聖な地に御幣を立てる。

秋祭りにお渡りがあったのか存じ上げないが、十年ほど前にたまたま通りがかったときに祭りを終えて片づけていた神職がおられた。

神職はなんとなく村神主のように思えた。

帰宅してから調べてみれば秋祭典におけるお渡りに行幸したお旅所の神事のようだ。

かつては当家制度もあったが現在は廃止されているようだ。

拝読した史料は平成26年3月に奈良県教育委員会の編集・発刊した『奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書』。

戸隠神社からお旅所までの参道で稚児が弓を射るマトウチ(流鏑馬)があると記していた。

また、神事スモウもあるらしく、それは土俵を設えた神社境内で行われていると書いてあった。

報告書の調査年は平成24年。

現況はあまり替わっていないように思える祭礼は来年にお願いするとして行事日はいつか、である。

現在は祝日の体育の日であるが、元々の祭礼は旧暦九月六日であった。

近代になってからは10月17日であった。

その後の平成18年に体育の日に移したとあるが、神事スモウは祭礼が終わった数日後に行われているようである。

当家制度は廃れたようだが、大座、助郎座、今座、新座の四つの宮座がある。

特に祭礼のお渡りに於ける配役は四座が担っている。

その配役を決める日は10月1日の御幣切り。

また、猿田彦にお渡りを検知する陣配見張り役というのがあるそうだ。

(H28.10.16 EOS40D撮影)
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大西の年中行事

2017年06月02日 09時32分00秒 | 楽しみにしておこうっと
八王子神社並びに旧極楽寺である会所で行われた山添村大西の座祭りを取材した。

その際に話してくださった大西の年中行事がある。

会所の床の間に置いてあったごーさんの祈祷札を祈祷法要する行事がある。

正月6日に行われる初祈祷である。

朝の9時に行われる初祈祷は隣村の大字春日の不動院の住職が法要を務めるそうだ。

旧極楽寺は戦前かどうか不明であるが、焼けた。

再建は寺でもなく会所や村行事として利用できる建物である。

石造りの観音坐像を安置しているという。

観音さんを祭る村の観音講がある。

61歳から80歳になる婦人によって営まれている。

3月の初午はゴクマキをする。

祭典の場は稲荷神社。

八王子神社から見れば南の方角にある。

大字の春日や菅生(すごう)に向かう道すがらの向こう岸に鎮座する。

同神社では12月に新嘗祭が行われる。

かつては12月の卯の日であったが、現在は第一日曜に移して斎行している。

新嘗祭には特別に作って供える芋串がある。

芋はサトイモ。

芋には青豆を潰して作るクルミを塗す。

三つの芋を串に挿していることから芋串。

そういう関係があって新嘗祭を別名、イモグシ祭りと呼んでいる。

9月25日は稲荷神社の放生会。

生きたサワガニを捕まえて法要。

祭りごとが終われば神社前の小川に放生するのだろうか。

詳しくは聞き取れていなかったので再聴したい。

5月末は植え付け籠り。

たぶんに村のすべての田植えを終えて豊作を祈願する行事であろう。

植え付けがあるということはもしかとすれば各家が行う「植え初め」が期待できるかもしれない。

毎月の1日は稲荷神社の朔日参り。

夏場は早いが冬季は朝の9時から12時にかけて神社の清掃。

それを終えて社務所で直会をしているという。

また、大字中峯山(ちゅうぶせん)の神波多(かんはた)神社の秋季例祭に参列している。

秋季例祭は山添村の旧波多野村16カ大字による天王祭りである。

旧波多野村は中峯山をはじめとし、大西、中之庄、広瀬、葛尾(くずお)、片平、広代(ひろだい)、下津、上津、菅生、遅瀬(おそせ)、鵜山(うやま)に奈良市月ヶ瀬の嵩(だけ)。

幟を廃絶した岩屋、箕輪、春日の三カ大字を加えた16カ大字である。

各村に聞き取りをすれば必ずといっていいほど中峯山の天王祭りの話題がでる。

また、盆迎えの風習もある。

その様相は奈良新聞社が平成8年に編集・発刊した『大和の神々』が詳しい。

その記事中に登場する家は我が家ですと話してくださったご婦人がいる。

大和の民俗を記録していた先駆けの保仙純剛さんを知る婦人の話しによれば、お盆に先祖迎えに松明を燃やすのは寺下の石垣。

『大和の神々』に載ったその場所がそうだという。。

8月14日は生き御霊の両親に供えるトビウオのイタダキもしているらしい。

また、元日の朝にはチョウジャドンの祝い膳のイタダキもしているという。

お許しいただければ是非とも取材させていただきたいと申し出た。

(H28.10. 9 EOS40D撮影)
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箸中のコンピラサンの夏祭り

2017年01月21日 09時03分46秒 | 楽しみにしておこうっと
桜井市の箸中で行われている行事はいただいた史料からどのような行事があるのか頭に入っている。

尤も何件かは取材をさせてもらって記録もしてきたから熟知していると思っていた。

ここへ来ればどうしても通らざるを得ない里道がある。

清流に住む川魚が泳ぐ小川がある。

上流は三輪山辺りの山裾から流れる川だ。

最上流はソバで名高い笠の地である。

その川沿いにあったお祭りの仕掛けがあった。

竹は二本。

てっぺんの葉を残してそれ以下はすべての葉を落とした竹。

中央辺りに水平にした竹で縛っている。

倒れないようにしているだけなのか、それとも・・・。

その場は「嘉永元申年(1848)十二月吉日 金毘羅大権現 天照皇大神宮 講中 世話人」の刻印がある石塔がある。

この道はこれまで何十年に亘って何度も通っているのだが、気にもしていなかった。

何かの文字があるとは判っていても気にならない。

私がよく訪ねる元総代家では存知しない石塔である。

だが、この日は砂盛りをした場に竹を立てて花も飾っている。

なにかの祭りには違いない。

刻印から何らかの講中がしていることはわかるが講名は・・・。

笠のテンノオイシキの草鞋作り取材が待っている。

戻って来られたら、そのときにでも聴こうと思って先を急ぐ。

そして戻ってきた時間は午後5時半。

なにもかもが消えていた。

残っているのは砂盛りだけだ。

川向こうに若い人がいる。

もしや、なにかご存じで、と思って声をかけた結果は・・。

今日は最後の日だったという行事は「コンピラサン」。

石碑にある「金毘羅大権現」である。

正式な講中の名は判らないが「コンピラサン」の講だと云う。

7月8日、9日、10日がコンピラサンの夏祭り。

三日間の毎日に燈明を立てるそうだ。

講中の件数も不明だが、燈明に火を灯すのは当番の家のようだ。

10日のこの日は午後5時に三つの提灯を水平に設えた竹に吊るしたそうだ。

お供えやお参りがあったのかどうかわからないが、すぐに片づけたと云う。 

(H28. 7.10 EOS40D撮影)
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上の家さなぶりを訪ねて

2016年12月26日 08時09分25秒 | 楽しみにしておこうっと
我が家の図書棚にすっかりおさまっていた季刊誌がある。

昭和56年10月号から62年10月号まで揃っている『季刊明日香風』だ。

なぜだか、全巻は揃っていない。

たぶんに買い忘れであろう。

FBで欠番になっていたある号が欲しいという人が現われた。

どうぞ、と云って差し上げたい旨を伝えたが、見つかったらしい。

埃に塗れていた我が家の図書棚にあった『季刊明日香風』はこのことをキッカケに頁を捲ることになった。

当時の主眼は古代のことを知る、ことである。

「民俗」のこれっぽちも興味をもっていなかった。

パラパラと捲る頁に明日香村の伝統行事が載っていた。

えっと驚く行事もあれば、近年において取材した行事もある。

昭和56年と云えば、今から数えて35年前。

出合いは我が家の図書棚にあった。

時期は6月。

現状を調べてみたいと思った行事が載っていた。

昭和62年4月刊の『季刊明日香風』にあった「明日香村の民俗点描」は田植え終わりに供える「サナブリ」である。

記事にあった大字は明日香村の上。

一文字の「上」と書いて「かむら」と呼ぶ大字である。

ここでは6月12日と決めている家もあるようだが、供えものは同じであろう。

三把の苗さんを一つに結ぶ。

アカメシ(赤飯)のオニギリは三つ。

形は丸みのある平太鼓のように見える。

それは燈明やお神酒とともに竃の上に供える、とあった。

いわゆる家サナブリである。

今でもされているのか、それを知りたくて、大字上(かむら)を訪れた。

車を停めた場に近いところにお家が建っていた。

造りは旧家である。

その家の前におられた男性に声をかけた。

物は試しと思ってサナブリの苗さんを尋ねてみた。

「それならうちのばあさんがしている」というのだ。

これには驚いた。

当家の田植えは一週間前。

今年は6月5日に済ませた。

その日に供えたのが三把の苗さん。

家の炊事場に塩、洗米、お神酒とともに供える。

豆腐やお菓子も供えたようだが・・・。

かつては三宝荒神さんと呼んでいた場に供えた翌日は外に持ち出す。

場は当家より急な坂道を登った処にある庚申さんだ。

その場で三巻の般若心経を唱えたというおばあさん垣内の婦人たちとともに参拝したそうだ。

家サナブリをしていたおばあさんは男性の母親だった。

台所の神さん、火の神さんがあるヘッツイさんと呼んでいた竃の神棚に供えていたらしい。

案内してもらった庚申さんはたしかに急な坂道を登った処にある。

一週間前に供えた三把の苗さんは枯れていた。

かつては藁紐で結んでいたと思われる苗さん。

いまではPP紐で結んでいる。

苗は枯れているが、何故か立てた花はまだ花らしさを保っている。

男性は62歳のFさん。

人懐っこい表情にさまざまなことを教えてくださった。

大字上(かむら)に神社がある。

鎮座する地に名前がある。

それは「もうこの森」と呼ぶ。

その名の起こりは大化二年(645)の大化改新。

飛鳥板蓋宮で藤原鎌足が暗殺した蘇我入鹿の首に追われて同地に逃れてきた。

そして、云った。

ここまでは「もうこんやろ」。

関西弁でそう云ったのはFさんだが、おそらくは「もう来ないだろう」であろうが、標準語というのもなんとなく可笑しいように思える。

ちなみに「もうこ」を充てる漢字は「茂古」であるらしい。

ちなみに神社名は気都和既(けつわき)神社。

延喜式神名帳に載る古社は隣村の細川や尾曽(上尾曽・下尾曽)の三カ大字によってサナブリ行事をしているという。

それは家で行われるサナブリに対して村サナブリと云われる村行事。

村の田植えのすべてが終わって豊作を願う村行事である。

大字上(かむら)は一文字。

飛鳥や細川から見れば上(かみ)の村。

こういう事例は県内でよくあることだ。

「上にある村」と考えるのが妥当な線だと思う。

つまりは「かみのむら」。

これが縮まって「かむら」。

そう考えれば納得がいく。

かつて下流の細川で彷徨ったことがある。

細い道を右往左往。

急な坂道に車を前進。

はたまたバックに入れて方向転換しているときに嵌った。

細い水路にタイヤを落としてしまった。

携帯電話もない時代。

近くにある民家に頼み込んで電話を貸してもらった。

救急にすがったのは自動車保険。

レッカー車が当地まで救いに来てくれた。

それ以来、私にとっては危険な地域。

再び人様の世話になってはいけないと思って足は遠のいた。

そのときから上流に向かう新道があったことは覚えているが、全線は未開通だった。

この日に訪れたときは新道利用。

どこまで行けるのか、試したくて走り続けたら桜井市多武峰に鎮座する談山神社の駐車場だった。

お土産も売っている駐車場まで続いていることなんてまったく知らなかった。

Fさんの話しによれば、談山神社へ通じる自動車道は10年前に開通したそうだ。

便利になった反面、「かなわんことも多くなった」というFさん。

田んぼや畑で耕作をしていた息子さんが無断で写真を撮られてしまったという。

勝手に撮られるのは敵わんと云って怒っていたそうだ。

話しは替わるが、Fさんが云う「下の人」。

「下の人」とは都会の人。

大字上(かむら)で育ったFさんがおやつに食べていたのは農作物のトマトやマッカにスイカ。

都会の人はお菓子やったと思うが、ここらでおやつと云えば農作物の果物だったと回顧される。

その大字上(かむら)でもアイスキャンデーを売りに来た人がいるらしい。

急な坂道を押してだと思うが、自転車で売りに来ていたと云う。

10年前どころかもっと前のことであろう自転車売りのアイスキャンデーは私が育った大阪市内の住之江でもあった。

大和川の堤防を走っていたような気がするが、それは映画の世界かもしれない子供の頃である。

ちなみにFさんの家には庚申さんに供えた塔婆の木がある。



かつては旧暦閏年に行われていた閏庚申さん行事に供えた葉なし樫の木の塔婆である。

願文も見られたが文字は判読できないが、お爺さんが書いていたと云う。

降ろしてあげようと云われたが後日に・・とした。

大字上(かむら)は当地4軒がある上出垣内と下(しも)にある下出垣内の2垣内。

庚申講があるのは上出垣内だけのようだ。

閏庚申行事を「モウシアゲ」と呼んでいる上出垣内。

私が知る範囲内であるが、明日香村では「モウシアゲ」と呼ぶ地域が多い。

祝戸、稲渕、平田、奥山、飛鳥、八釣、東山、阿部山、大根田に立部であるが、今でもされているかどうかは存知しない。

また、近隣村の桜井市・高取町の一部においても「モウシアゲ」の呼び名がある。

桜井市は山田、高家。高取町は越智であるが、他村にもあるような気がする。

なお、上出垣内の庚申講は60日おきに庚申さんの掛軸を掲げて祭りをしているらしい。

本来ならば庚申さんの日であるが、今はそれに近い日に廻り当番の家に集まるようだ。

そんな話題を提供してくれるF家は母屋。

垣内に分家のF家がある。

話し具合からやってきたFさんは総代。

3月の第三日曜日に「八講(はっこう)」さんの行事をしているという。

頑丈に建てられた薬師堂が村にある。

小仏の薬師如来さんはヤカタに収めて祭っている。

小仏は藤原鎌足公。

年に一度の開帳に飛鳥神社の飛鳥宮司が祈祷してくれるという。

話題が尽きない大字上(かむら)行事の数々。

1月15日は炊いたアズキガユ(小豆粥)を供える。

粥はビワの葉(入手できない場合はカキの葉)に乗せて供える。

ビワの葉は裏を表にしてそこへ盛るが、その数、なんと50枚にもおよぶそうだ。

アズキガユはアズキメシであるかもしれないが、50枚もあるということから供える処が50カ所。

家の神棚に戸口や庚申さんも。

かつては火を焚いていた竃にも供えた。

田んぼまで供えているというからありとあらゆる処に供えるのであろう。

ちなみにアズキガユは4軒で行っているトンド焼きの火をもらって炊いている。

以前は決まった日であったが、今では村の初集会の日。

おそらく正月初めの日曜日であるかもしれない。

話題は戻すが、『季刊明日香風』に載っていた家サナブリの供え物。

写真をじっくり見ればお札のように見えるモノがある。

おばあさんが云うには、そのお札はタネマキのときにお花を添えてお札を田んぼに立てていたそうだ。

横、水平にあるのがお札。

そこに書いてあった文字は「うるち米」に「もち米」とか。

「早稲」の文字も書いていたとか・・・である。

そのお札は割った竹に挟んでいたという。

もしかとしたら、この写真は我が家であるかも知れないと云う。

ただ、改築する前の様相のようであるが、黒色の戸棚が思いさせないと云う。

それにしても我が家に恵比寿さんの扇はあったかな・・・であった。

(H28. 6.12 EOS40D撮影)
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榛原柳の閏庚申

2016年12月04日 08時56分03秒 | 楽しみにしておこうっと
この月の8日に立ち寄った榛原篠楽。

新暦閏の庚申さんの痕跡に話してくれた村人のIさんはここより北の峠を越えた大字柳にもあると話していた。

大宇陀栗野からの帰り道にふと思いだして峠に向かう。

林の中を通り抜けたところに田園が広がる。

見晴らしも良い処に向こうの方では近鉄電車が走っている。

風景写真を撮る人たちにとっては絶好の場所だと思った。

その田園に村人が居られたので庚申さんのことを聞いてみる。

庚申さんは近鉄電車が通るガードを越えてすぐ近くにあるそうだ。

4年に一度の新暦で行われているのは篠楽であるが、柳は昔も今も旧暦。

たぶんに来年にされるそうだ。

百姓の神さんとも呼ばれている庚申さんは旧暦の閏年。

平成29年は5月が「大」の月になるが、おそらく4月になるだろうとこの場で出合ったYさんが話してくれる。

庚申さんに奉る塔婆の木は葉付きのヒノキ。

梵字に願文を書いて奉ったあとはトーヤ(頭屋若しくは当家)が持ち帰るそうだ。

大字柳は13戸の集落。

庚申講の廻りにヤカタがある。

2カ月に一度の廻りにヤカタをもって次のヤド家に移している。

ヤドの家での営みは簡略化されてお茶ぐらいの接待になっているようだ。

柳は2組の伊勢講もある。

一つの組は個人家のヤド営み。

もう一組は会所にしたそうだ。

昔はヤド家ですき焼きもしていたと云う。

「あんたが訪ねてきたことは2年人気の自治会長に伝えておく」と云ってくれた。

ここで別れて柳の庚申さんを探してみる。

Yさんが云った通りの場にあった庚申さんは崖の上に建っていた。

ところで思いだした柳に鎮座する神社は大巳貴(おおきみ)神社。

11月初めにマツリがあり、その一週間後には頭屋渡しがあるようだけに早いうちに再訪してみたい。

(H28. 5.15 EOS40D撮影)
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桃香野の弁天講の弁財天社

2016年11月16日 19時04分42秒 | 楽しみにしておこうっと
枡型弁天一万度祭を終えたオトナ衆の一人が、この行事名になっている弁天社がある地を案内してくださった。

八幡神社より下った地ではあるが、周回道路までは行かない。

中腹にあるという弁天社はどうも判り難い地にあるようだ。

その地に近い処に住んでいる者でないとたぶんに見つからない弁天社は手前に手水鉢がある。

吊るしてあるタオルは米寿を祝ったときに奉納されたもの。

八幡神社にも同じ長寿祝いのタオルがある。

社は階段を登った処に鎮座していた。

灯籠に「辯財天」の刻印がある。

まぎれもない弁天社は石造りヤカタ風仕立てのように思えた。

弁天社を祭る講中は弁天講。

桃香野住民のうち40戸が講中になっているようで、3カ月に一度の割合で行事を営んでいる。

この日に教えていただいた行事は4月5日。

もう一つは7月7日の昼前に集まって参拝するらしい。

その日のお供えはハッタイコをお酒で練ったもの。

どのような形状になっているかは拝見してみなと判らない。

社の下に深い井戸がある。

透き通るような水が溜まっていた。

簡易的な屋根は男性が設えたそうだ。

その右上にあったのが一枚岩に刻まれた仏の群像図。



文字もあるが、それらは個人所有の石仏線刻に戒名を刻んでいるという。

桃香野は五つの垣内に区分けされている。

弁天社がある処は下出。

桃香野の地はここが最初にできた村だと弁天講の男性が云う。

下出から中村、上出に脇谷もあれば西出もある五垣内である。

(H28. 5. 5 EOS40D撮影)
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