マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

御所池之内・今年の2月に見た藁積みは、ススキ代わりに立てた屋根あり家形藁積み

2023年07月29日 07時36分42秒 | 御所市へ
目的地は大淀町大岩にある平日・午後1時までの営業の喫茶きまぐれや

なにかとお世話になっている喫茶店。

その行先、道中に出合った農の景観にひと呼吸の停車。

今年の2月に見た藁積みは、もう消えていた。

積んでいた藁は、消耗品。

農の作業にたぶん必要としている藁。

どなたか、この付近におられたら聞いておきたい農のあり方。

現場から見渡した、その先に人物の姿が動いた。

たぶん田主さんでは、と思って、おられる場に向かって歩いた。

すみませーーん、と声をかけたら振り返ってくださった。

自己紹介に名刺を渡して、要件を伝えた。

1年と数か月前に初めて見た屋根のある家型に積んだ藁積み。

田主さんはここ御所市池之内在住のUさんに、やっと出会えた。

その屋根のある家型に積んだ藁積み。

以前は、ススキと呼ぶ心棒に藁を積む形であった。

で、あったが、労力を考え、野菜造りの下地保護に使うためにマクラを置き、藁束をさらに束ねた藁を水平に積み、数段重ねてからハザカケするように、藁束をまた広げて屋根のような形にした。

土の日除け、湿気含みの排除に、作物の育成に邪魔する雑草も生えないようにする役目をもつ稲藁。

代替にシートを敷き詰める場合があるが、強い風に煽られるシートなら捲れて難儀する。

それこそ、突風に吹かれて飛んでしまうシートに対して、稲藁は、ほんと大丈夫。

必要な湿り気もある稲藁を欲しがる人も、増えつつある。

昨今では、藁束そのものを売る店も増えてきた。

需要があれば、捨てていた藁も金になるし、にわかでなくても家庭菜園に使われることが増えている。

U家は、稲作が主。

今年もまた育った稲を刈る時季がくる。

家族そろって稲刈り。

収穫作業は忙しい。

U家の稲刈りは、通常年であれば10月10日。

収穫に必要な農機具は、1条刈りハバインダー。

刈り取り時に、自動で束にしてくれる機械だから、すぐにハザカケができる。

一方、コンバインは、籾収穫が主で、茎などはバラバラにするから藁にはならない。

村の祭りに、池之内の神社に奉納する数段の提灯がある。

垣内ごとに奉納する提灯があった・・・が・・

100戸の集落の池之内は、北・南・中垣内など他の垣内もみな提灯をしていたが、高齢化に少子化。

若者は中抜け状況に、体力を有する茅原型ともいう逆さ型とんども、みなしなくなった。

現在のとんどは藁をとんど場に持ってきて、燃やすだけになった、と話すUさん。

提灯がどんな形だったのだろうか。

御所市の山麓地にある村々では、ススキ提灯とか、十二振り提灯の名があったが、結局、聞けなかった。



ところで、秋の収穫の稲刈りにハザカケを、今も垣内集落でしていのは、U家ともう一軒。

いや、二軒。

U家を入れて、合計3軒のお家が継承してきたハザカケ。

今年もかわりなくする予定だ、というUさんに、取材・撮影をお願いした。

予定の10日がずれる場合もあるので、念のために、と云って電話番号も教えてもらった。

(R3. 6.29 SB805SH撮影)

御所稲宿の庚申さん

2023年04月02日 08時39分28秒 | 御所市へ
写真展を開催させてもらっている大淀町・大岩にある喫茶きまぐれや

道中に必ず、視線がいく自治会掲示板がある。

前月の2月8日に気づいた自治会の案内行事は「稲荷会(※稲荷堂)」だった。

たぶんに稲荷講があるのでは、と思ってみたが断定はできない。

御所市の本馬経由の池之内。一旦は休憩させてもらうコンビニエンスストアがある。

そこから峠越えしたそこに見た御所市・稲宿(いなど)自治会掲示板。

たぶんに村行事と思われる「庚申会(※庚申堂)」である。

「庚申会」に「稲荷会」行事をしているとわかった御所市・稲宿。

行事の場は、庚申さんをまつる庚申堂であろう。

たまたま出会えた村の人に尋ねた庚申堂が建つ地はどこにあるのでしょうか。

この道路を、ここからすぐ近く。

下っていった右側にすぐ見える、といってくれた庚申堂。

実は、稲宿の行事取材は、ずいぶん前。

平成19年2月4日に行われた稲宿安楽寺行事の節分紫燈護摩供だった。

それより以前、つまり安楽寺行事の節分行事の1カ月前だ。

平成19年1月14日行われた稲宿のどんど行事である。

下市町・仔邑のとんど行事取材に行く道中にたまたま目に入った稲宿のどんど組み。

夕方前の時間帯に、火付けの時間帯を教えてもらい、先に取材した稲宿のどんど。

ある程度、取材できたので慌てて戻った稲宿。

なんとか間に合った火付け

その後も、神社行事を教えてもらったが、機会を逃したままになっていた稲宿の「庚申会」、「稲荷会」行事。

十年以上も空白の期間に当時、話してくださった方たちもすっかり顔ぶれが替わっているだろう。

そう、思ってあらためて稲宿行事を拝見したくなった。



そこで探した庚申堂。

走行する道路側からは、見られない位置にある庚申堂。

正面からは西側の位置から拝むことになる。

右が庚申堂。色褪せた身代わり申を吊るしてあるから違いない。

左に建つのが宝篋印塔(ほうきょういんとう)。

鎌倉時代から盛んに造られたとされる宝篋印塔に、石組した土台の上に設えていた。正面に「・・供養」とある。

上部にある四方に跳ねるような構造。

隅飾りの突起。

反り返る角度から見れば、それほど古くなく造立時代は江戸時代後期ではないだろうか。



その場からくるり。

西の方角に桜樹が見られた。

そういえば、走行中にも目に入った満開の桜の美しさ。



一度は、近づいてそっと覗いてみたくなる小高い丘。

遠目に見た視覚に入ったそこに椅子があるような・・・

花見台なら、ここはえーとこ、やね。

(R3. 2. 8 SB805SH撮影)
(R3. 3.24 SB805SH撮影)

御所ICに降りた地に咲く桜樹景観に癒される

2023年03月30日 08時44分22秒 | 御所市へ
何気ない、雰囲気を醸し出していた情景に足が勝手に動く。

京奈和道路を走行していた。

今日の目的地は大淀町大岩。

すももの白い花を見たくて出かけた。

高速道から降りるICは、御所IC。

もうちょっと走っていけば、御所南IC。

そこで降りてもいいのだが、ほんのり色が付いた桜の樹を見たくて降りた御所IC。

地道に入るまでに、通らねばならないぐるっと回る降り口。

そこからでも見えた桜の樹に、できる限り近づけたい。

信号は右、左。

どっちに折れたらいいのだろうか。

感さぐりに決めた左折れ。

あの道か、この道か・・

ようやく視線に入ってきたそこは、池畔に咲く桜。

実は、それも今後の楽しみだが・・

さて、ここはどこなんだろうか。



「通り抜けご遠慮願います 本馬自治会」と表記されているが、カーナビゲーションには表示されない自治会地(※御所市本馬)。

池から流れる水は水路を辿って畑地などに供給される。

その水路すぐ近くに自家栽培されている畑地があった。

バケツがポツンとあるのは、ちょっと休憩に行かれてのか・・



目の前の黄色い花に。

そしてその向こうに一本木の桜を入れて撮った長閑な景観。

ぽかぽか天気。

何気ない景観に癒されて、ここらでゆっくり寛ぎたいが、先を急ごう。

(R3. 3.24 SB805SH撮影)

御所玉手・風雪に耐えられんから超短時間撮り・・・

2023年02月02日 07時58分30秒 | 御所市へ
出発したときは、雪の気配なんて、まったくなく穏やかだった道のり。

その状態が一変した。

京奈和道を南下していた。

高速道を一旦は降りて一般国道を走る、

再びのった高架道は、1車線。

御所ICを下りるころから暗雲立ち込める。

雨だとおもっていたが、そうではなかった。

西から吹く強い風に雪が舞う。

あっという間に、辺りは真っ白。

御所の玉手のころはえげつない強風。

玉手駅も集落も霞むほどの降る雪。

とにかく寒い。

寒いけど写真撮ってみるかい、と尋ねた反応。

同乗していた二人とも撮りたいと云って車外に飛び出した。

さすがに寒いし、冷たい風に数分ももたない。

あわよくば、鉄道だけに電車が降りゆく雪から走ってきたら・・・



そんな情景を待つ余裕などなく、心が折れて、再び乗車し再出発した。

目的地は、まだまだ先。

降りやまない雪道にスタッドレスタイヤは大丈夫だろうか。

(R3. 2.17 SB805SH撮影)

御所市宮前町神農社の薬祖神祭

2017年07月19日 09時20分53秒 | 御所市へ
高取町丹生谷に住む知人のNさんから神農さん関係の行事情報を教えていただいた。

N家は元配置薬家。

父親が各地にある顧客家に出向いて売薬をしていた。

お正月と盆に戻ってくる父親。

そのときに家の床の間に神農さんの掛図を掲げていたそうだ。

ご近所におられる現売薬家の案内で御所市内にある薬製造業社を訪ねられた。

現在はしていないが、家に掛図があると聞いたそうだ。

その昔に掲げていた期日は11月20日ころ。

神社行事を終えた直会の会場に掲げているという。

その行事名は神農祭。

かつては12月の冬至の日にしていたが、現在は一か月前倒しした11月にしていることがわかったと伝えてくれた。

それから2カ月後の11月5日、神農さん関連の情報を伝えてくださったNさんから再び連絡が入った。

御所市の神農さんの行事は11月16日の水曜日。

祭事の場は御所市宮前町に鎮座する鴨都波神社である。

着いてからわかったが、祭事は鴨都波神社摂社の神農社だった。

早めに着いて鴨都波神社松本広澄宮司並びに代表者へ取材の主旨を伝えて了解を得た。

この日の行事に集まった人たちは御所市内の薬関係業者が11社。

五條市から1社。

製薬会社、製薬組合、卸し問屋、配置商業などの組合員が参列する。

今年で35回目になる行事名は薬祖神祭。

行事日は特定日でなく代表役員の集まりで決めるそうだ。

また、組合員は桜井市三輪の大神神社摂社の狭井神社で4月に行われる鎮花祭はなしずめまつり)にも参列しているという。

同祭に供えられる植物に薬草のすいかずら(忍冬)があると話す。

尤も同祭は平成20年4月18日に参拝させていただいた。

社伝によれば、同祭は「平安時代の律令の注釈書『令義解(りょうのぎげ)』に鎮花祭のことが記され、春の花びらが散る時に疫神が分散して流行病を起こすために、これを鎮遏(ちんあつ)するために大神神社と狭井神社で祭りを行う。『大宝律令』(701)に国家の祭祀として行うことが定められていた」とある。



父親早逝により15歳で神職を継いだ松本広澄宮司は82歳。

戦前は学校近くにあった粟島神社で行われていた行事だったという。

昭和の時代のころである。

香具師(やし)と薬屋さんに関係深い神農さんを敬愛する神農会を組織していた。

薬業界の商売繁盛を願って共同で行事を営んでいたという。

香具師(やし)は薬を作るとか、売買していた露天商を指す。

縁日に馴染みのあるテキヤさん商売を昔の通りのヤシと呼ぶ人もいる。

元来、ヤシは薬販売業であった。

薬以外に商売を広げたのは藩政時代のころからのようだ。

明治時代以降、ヤシの言葉は禁じられるようになり、テキヤ(※適当屋と呼んでいたことから)と呼ぶようになって消えた。

年齢がいっている人はテキヤと呼ばずにヤシを称する人も多いやに思うこともある。

それはともかく御所の神農会組織は解散されて廃れたようだが、今では前述した薬関係の組合員が業界の安泰、並びに少彦名神に感謝するとともに繁盛願って神農社の薬祖神祭に参列している。

一段登った高い処にある神農社は昭和35年(1960)11月22日に薬関係者の発起人12人が建てたようだ。

と、いうことは宮司が話した神農会は戦前・戦中、或は戦後間もないころまであった組織であろう。

これらのことについては話題も出なかった現在の参拝者とは別の組織であったと思われる。

ただ、直会会場になる建物には組織を表示する案内札があり、「神農講」と書いていた。

本日、参列された団体は「神農講」でもあるようだが、拝見した別の資料では「薬祖神講」を表記していた。

はじめにお会いした代表者は製薬会社に所属するが、「薬祖神講」の代表者でもあったのだ。

いずれであっても神農=薬祖神である。

かつてあったとされる鴨都波神社摂社の粟島神社は戦後に戻した。

戻し還した先は桜井の三輪。

そこから勧請していたので元の処に戻っていただいた、ということである。

さて、薬祖神祭の神事である。



社殿脇に立ててあるのは大阪道修町の少彦名神社に出かけて購入したササドラ(笹虎)である。

同じようにササドラを供える奈良県内行事がある。

薬の町で名高い高取町下土佐恵比寿神社境内社神農社で行われる神農薬祖神祭である。

前年の平成27年11月20日に取材したので、重複しないよう、参考までにリンクしておく。



神農社社殿にたくさんの奉木を積んでいる。

奉木は宮司が予め準備しておいた「少彦名神社神霊」である。

30枚も用意した奉木は本日の参拝者にもって帰ってもらうありがたい薬の神さんである。

神饌御供は神社が用意した。

本社殿前に並べるのも宮司をはじめとする鴨都波神社の人たちである。

神饌御供の一つに生卵がある。

かつては鶏一羽だったが、今では生卵。

このような事例は奈良県各地でみられる傾向にある。

そして始まった神事ははじめに修祓。



神前に向かって祓の詞を朗々と詠みあげる。

聞こえてくるのは宮司の詞と鎮守の森に棲んでいる野鳥の声ぐらいのようなものだ。

厳かに斎行される神事である。

幣で祓って献饌。

献饌はすでに神饌御供を並べているのでお神酒の口を開けて献饌の儀をする。

続けて神農祭の祝詞を奏上して玉串奉奠。

式辞に沿ってそれぞれの代表者は玉串を奉げて撤饌で終える。

神事を終えた一同は場を移動して直会が行われる。



直会が始まるまでに許可を得て神農さんの掛図を撮らせていただく。

直会の会場に掲げられた神農さんの掛図は森本製薬㈱の預かりもの。

掛図を描いた作者名などの記載はないが、白髪老人の立ち姿である。尤も白髪は頭髪でなく髭の方である。

神農さんといえば、薬草をもって草を口で舐め毒見をしている姿を思い起こすが、この掛図は噛むこともない立ち状態を描いていた。

代表者それぞれのご挨拶。



そして乾杯で始まった直会の場は遠慮して退室した。

ネット調べであるが、粟島(淡島)神社の鎮座地は関東の千葉県白井市。

西日本は大阪府大阪市、和歌山県海南市、鳥取県米子市、山口県岩国市、大分県豊後高田市、大分県佐伯市、熊本県宇土市にあり、いずれも少彦名神を祭神とする神社である。

御所市の粟島神社の経緯は今となってはわからないことばかりであるが、少彦名神が医薬の神とされていることや、古事記や伯耆国風土記に、国造りを終えた少彦名神が粟島(あわしま:淡島)から常世|常世の国へ渡って行ったとする記述があることから崇められてきたのであろう。

ちなみに大阪の薬祖講である。

江戸時代、薬を検品する和薬改会所が検査の正確さと神さんのご加護を求めて、安永9年(1780)、薬種中買株仲間の親である団体の「伊勢講」が道修町仲間寄会所に、京都の五条天神宮から分霊をいただいて、日本の薬祖である少彦名命(すくなひこなのみこと)を、以前から祀っていた中国の薬祖である神農氏とともに祀ったことから始まる。

大阪の道修町の神農祭の当初は9月11日であったが、明治時代になってから旧暦から新暦祭事日に移した。

コレラが流行するなど、さまざまな事情によって明治10年に現在の11月22日、23日にしたそうだ。

また、京都市中央区にある薬祖神祠では薬問屋の繁栄を願って11月2、3日に薬祖神祭をしてきた。

ここもまた江戸時代後期に始まった「薬師講」の行事である。

「薬師講」は二条の薬業仲間というから組織化した講中の行事であった。

参拝者にお守り袋と陶器製の寅を括り付けた薬効のある笹の葉の頒布しているようだ。



なお、大阪市中央区道修町の少彦名神社の薬祖講行事は平成19年に大阪市の無形民俗文化財に指定されていることもここで触れておく。

(H28.11.16 EOS40D撮影)

高鴨神社の茅の輪

2017年03月07日 08時52分34秒 | 御所市へ
西佐味大川の神杉注連縄張りを見届けて足を伸ばす。

伸ばすと云ってもそれほど遠くない。

休憩したく訪れた鴨神の高鴨神社。

鳥居より境内側に茅の輪が設営されていた。

この日の夕方は夏越大祓えが行われる。

神事はこれよりずっと奥にある。

そこへ参るに要する茅の輪潜りがある。

もしかとして潜る人もいるかと思って待っていたが遭遇することはなかった。

(H28. 7.31 EOS40D撮影)

西佐味大川の神杉注連縄張り

2017年03月06日 12時21分22秒 | 御所市へ
お神酒を供えて大祓詞を唱えている。

若いもんも2礼2拍手する。

縄結いは午後。家で昼食を摂った村の人、12~13人が寄って縄結い作業を始めると聞いてやってきた御所市の西佐味。

ここは西佐味の一角にある谷出垣内。

タニデが訛ってタンデ垣内と呼んでいる。

手刈りした稲藁を持ってきた地区の人たち。

作付、刈り取りした稲は粳米もあれば糯米もある。



特に決めてはいない注連縄の材料は2把から3把ぐらいを持ってくる。

集まって作業する場はヤド家の作業場を借りて行われる。

太い注連縄はひと握りの藁束をもつ。

左結いして藁に撚りをつける。

太い藁束が二本。

それ自身も拠っていくが、その際に一握りの藁束を差し込む。

継ぎ足しの藁束である。

そのときからは右に拠る。

力強く拠った二本を左まわしで絡ませる。

結い方を説明するのは実に難しい。



体験して覚えるのが一番だが、撚りの方向は巻く方から見るのか、それとも逆の方からによってかわってくる。

こういう場合はビデオなどで動画を・・と、ついつい思ってしまう。

太い二本撚りの長さを測る。

基準となる紐が用意されていた。

その長さは7m。

大川杉の幹回りに合わせた長さである。

紐はPP紐。

これで尺をとる。

これができたらもう一本の太い藁束を継ぎ足す。

先ほどと同じように継ぎ足して右回りに締める。

それを二本撚りにした縄の下をくぐらせて向こう側にいる相方に手渡す。

交替して同じように継ぎ足して右締め。

そして上から手渡す。

これを交互に結っていく。

太くなった縄は結うごとに捩じれ現象。

後方にある長い縄脚を正常に戻して調整する。

一方、細めの縄を結う人もいる。

これは最後に太い注連縄に取り付けるボンボリを取り付けるための藁結いである。

ボンボリ、或は別名にチンチラの名もある藁の房は三つ作る。

一握りの藁束を結った縄で中央辺りを廻してぐっと締める。

予めにしておくのは先に作っておいた縄を中心部に添えておくことだ。

それがなければボンボリは太い注連縄に取りつけられない。

括った縄の部分から数本ずつ反対側に折る。

向こう寄りに折っていく。

少しずつ、少しずつ折りたたむようにする。



何周かすれば、あら不思議。

奇麗なボンボリの形になったのだ。

その状態であれば戻ってしまうから一本の藁を紐のようにくるっと巻いて締める。

強く締めて結び締め。



藁切り包丁で、ぐさっと不要な部分を切る。

これで完成した房は1m間隔で取り付ける。

一時間余りの作業で太い注連縄が出来上がった。

頭の部分に結った縄を括り付けた注連縄は重たい。

5人がかりで運ぶ。



作業を終えた人たちの出発姿は誇らしげ。

影絵に写った姿はまるで龍のように見えた。

房の間に紙垂れも付けて出発だ。

地区の人たちは全員が長靴姿。

これを見て持ってこなかったことを反省する。

ここよりそれほど遠くない大川杉。



畑内を歩いて運んでいく。

そうして始まった注連縄架け。

先頭に付けていた縄で引っ張って幹回りを通す。

注連縄を架ける位置はやや高め。

架けてから風雨によって若干は垂れさがる。

それを見越してやや高め。



足場が悪い場に踏ん張って背伸びしながら回す。

位置が決まれば頭に取り付けていた縄で縛る。

房や紙垂れが画面に入れば良かったが反対側にある。

とてもじゃないが向こう側には回れない。

さて、お参りをする場である。

前日に拝見した写真家楳生空見さんがとらえた場ではなかった。

その畑から降りた平坦道である。

そこは大川杉の根元から昏々と湧いている豊富な水場である。



祭壇替わりのコンクリート台に乗せたお神酒はワンカップ。

三枚の葉をつけた笹の葉を入れている。

その理由は聞かなかったが、これまで拝見したことのない祭り方に感動するのである。

谷出垣内の命水が湧き出る場に向かって唱える心経は七日心経。



水の神さんに禊の大祓詞も唱えた。

奈良県の天然記念物に指定されている「大川杉」も嬉しかろう。

高鴨神社・県教育委員会・市教育委員会が立てた掲示物に「この杉は、樹齢約六百年幹の周りが約六メートルもあり、地元西佐味の人達によって今日まで大切に育てられてきました。この杉は、井戸杉と称せられ根元から湧き出る水は、古来飲料水として尊ばれ、西佐味の田畑をもうるおしています。七十年ほど前に雷が落ちて、二またの一方が枯れましたが、親木は難をまぬがれました。これも根元に祭られている三体地蔵さんのおかげといわれています。毎年七月三十日には、この杉にしめなわを飾り豊作を祈念して祭られています。高鴨神社に残されている古文書に神社の立ち木は水利のために切(伐)り倒してはならない、と記されていることからも「大川杉」によせられてきた地元の人々の願いを知ることができます」とあった。

水の神さんに参った地区の人たちは慰労会に移る。

クーラーがよく効いている西佐味自治会館に移動していった。

(H28. 7.31 EOS40D撮影)

西佐味の大杉調査

2017年03月03日 05時57分54秒 | 御所市へ
御所市の西佐味にそびえるほど高い大杉があると知ったのは何時だったか思い出せないが、場所はここにあると教えてもらったのは西佐味の住民のMさん。

訪れたのは平成25年の7月24日。

その月の末に大杉に架けてある注連縄を張り替えると云っていた。

張り替えるには相当な人数を要するであろう。

その人たちの在所を訪れておこうと思って大杉の場所を探した。

たぶんにこれだろうと思っていた。

ところが付近には人を見かけない。

商売をしているお家であれば何かの手がかりがみつかるかも知れないと思って入店した梅田商店。

奥からご婦人が出てこられた。

Mさんが話していた注連縄掛けについて尋ねてみる。

婦人がいうには当番のヤド家が注連縄を作って昼前に架け替える、である。

大杉が植生する地は谷。

湧き水が滾々と湧く。

水量は豊富で、ここら辺りの3~4軒の家には井戸があったという。

井戸と云えば盆入りに井戸浚えがあるのではと聞けば、その通りだった。

今では井戸も用をなしていないが、かつては8月盆入りに井戸浚えをしていたというのだ。

盆の在り方も聞いた地は上流もない谷。

そこはタンデ垣内と云っていたのは前述した水野垣内のMさんだ。

タンデを充てる漢字はおそらく谷出。

タニデが訛ってタンデになったのだろう。

その年の月末は仕事があった。

取材するにも仕事があれば無理がある。

来年に持ち越しと思っていたが、その後も日程が合わずにいた。

そして、昨年は7月10日に発症した僧帽弁逸脱による弁膜異常でそれどころではなくなった。

今年こそをと思って当番をされる村人を探してみる。

作業小屋にたまたま居られたご婦人に声をかけた。

尋ねるキーワードは大杉に架ける注連縄だ。

当番になっていないから詳しいことはわからないが、この地が何故に谷出垣内と呼ばれるのか話してくださった。

西佐味の田んぼは「キシ」と呼ばれる段々がある。

石垣で組んだ段々だ。

上下があるから上部は上の「キシ」。

下は下の「キシ」と区分する。

「キシ」を充てる漢字は「岸」。

谷出垣内の「岸」である。

我が家も井戸があった。

それゆえ「谷井」の名がある。

つまり上流は水野垣内。

水が湧き出る「野」である。

水が豊富なここら辺りの垣内の名で物理的な地形がわかる。

なるほどと思った上の「キシ」に下の「キシ」がある段々畑は土地台帳でいえば「ケイハン」である。

つまり「キシ」は「ケイハン」でもあると話してくださるが「ケイハン」を充てる漢字はわからない。

ご婦人に書いてもらった漢字は「畦反」。

決して段々の傾斜の「傾」ではなく「畦反」だった。

こういうことは初めて知る農の田んぼ。

ちなみに婦人が云った「ヒロミの田に「キシ」はない」である。

確かにそうだ。「ヒロミ」とは平坦をさした言葉。

段々もない平坦に「キシ」はあり得ない。

ちなみに帰宅してから「畦反」を調べてみれば、正しくは農業用語の「畦畔」であった。

昭和59年に建てた大杉のことを書いた案内板がある。

正確にいえば大杉は「大川杉」の名がある。

昭和58年3月15日に奈良県が指定された天然記念物であるそうだ。

それによれば「大杉に水湧く稔りの水」とあるようだ。

谷出垣内の「畦反」の田地を潤す、まさに稔りの源泉となる「大川杉」である。

ヤド当番のことなら隣家を訪ねるがよいと云われてその場を離れた。

ここより少し登った家がある。

呼び鈴を押して尋ねる大杉に架ける注連縄。

かつては7月31日にしていたが、今は最終の日曜日。

今年は明日の31日になる。たまたまであるが、今年は昔にしていた日と重なるときに訪ねてくれたのはこれもご縁だと云ってくれた婦人がこれまでの経緯を話してくださる。

注連縄架けが始まったのは大杉を伐るという話があった時代だ。

昭和27~28年のころだと思う。

保育所を建てるに材が要る。

そこでもちあがった大杉を伐って材にするという意見だ。

大杉から湧いている水は7丁の田を養っている。

飲料水は川の水を汲み上げていた生活だった。

荷桶を担いで飲料水を運んでいた。

荷桶を運ぶには苦しい急坂道だった。

我が家はここらで初めて井戸を掘った家だ。

お風呂の水にも井戸の水を使った。

家の前を掘ったら湧いた。

10ケン(2m)ほど掘った。

そこで湧かなかったらやめようと思っていたが、水が湧いた。

それで皆が掘りあった。

そのうち市営の水道水が通った。

今でも現役の4軒の井戸がある。

パイプを引いてモーターポンプで揚げて利用している。

上の山に植林をした。

昔はクヌギの木だった。

木が大きくなったら水湧き量が減った。

吉野川分水が敷かれた。

下市から寺田。

ポンプ揚げなので電気代がかかると云う。

吉野川分水がまだ来ていない時代。

大杉を伐ろうとしたが、念のために所有地はどこにあるか調べたら高鴨神社だった。

明治元年に生まれたお爺さんが云った。

「なんぞ書いたもんがあるやろ」である。

神主を訪ねて古文書を調べたら大杉の地の件の覚書が見つかった。

大杉が植生する地は高鴨神社の領地。

ご神木とわかった大杉である。

かつては2本もあったが、カミナリが落ちて1本が焼け落ちた。

60年以上も前のことのようだ。

区長、氏子どころか、谷出に水利の人たちがいる。

15~16人ぐらいの谷出の人が水利を利用している。

“せんぞ”奔走して文書がでてきた。

大杉を伐って水が枯れたらあかんと云われて伐採はやめた。

山麓線ができて大水になったらあかん。

大杉周りに枠をこしらえたら根元が見えなくなる。

そんなことがきっしょとなって7月31日に注連縄を架けるようになった。

何年もそうしてきたが、今では月末の最終日曜日に15人が集まって注連縄結い。

出来あがれば大杉まで運んで行って架けている。

そんな様子を撮りたいという人が現われた。

撮った写真をもらった。

その写真を拝見したら注連縄を張った向こう「キシ」の処にかたまって手を合している村人の姿を映し込んでいる。

今では大きく育った竹藪で向こうの「キシ」は見えなくなったから、写真家楳生空見さんがとらえた映像は貴重な写真。

しかも撮り方が実に上手い。

寄贈されたお家のご婦人の了解を得て公開することにした。

こうした西佐味大川の神杉注連縄張の経緯を話してくださった同家には金剛山登山のオサの札もあるらしい。

(H28. 7.30  EOS40D撮影)

葛木御歳神社祈年祭の湯立神事

2015年11月14日 08時13分24秒 | 御所市へ
この日は雨で中止となった自然観察会。

急遽、行き先を御所市に切り替えた。

何年も前から訪問したかった東持田の御歳山に鎮座する葛木御歳神社。

祈年祭に湯立神事を斎行される。

雨にも拘わらず傘をさして訪れていた大勢の参拝者。

俳句の会の方々だ。

この日行われる祈年祭は「としごいのまつり」。

年の初めに豊作を祈願する。

初々しくもこの年初めてデビューする巫女さんは二人。

おぼこい(初々しいの俗語)ように見えるが高校一年生だ。



緊張した面持ちで、拝殿内および拝殿前におられる参拝者を鈴で祓ってくださる。



祓ってもらった参拝者は大幣を受け取る。

祈年祭神事を終えれば場を替えて湯立神事が行われる。

境内前庭に設えた四方忌竹で囲んだ神事の場。

境内は雨だまりだ。

周りを囲むように見守る参拝者は傘をさしていた。

湯釜に向かい拝礼し祝詞を奏上する東川宮司。



雨に打たれながらも斎行される。

洗い米、酒、塩を湯釜に注いで清めてからクマザサを持つ。



湯に浸けて大きく上方に掲げ両手に広げる。

南、西、北、東に向かって同じ所作をする。



四方を祓う湯立神事はこれまで数々の「御湯」神事を拝見してきた県内各地で行われる所作とは若干違うように感じた。

この所作は東川流だと話していた宮司。

まるで天を仰ぐような所作だと思った。



四方を祓ったクマザサで参拝者も祓ってくださるありがたい湯祓い。

この場を借りて東川宮司に厚く御礼申しあげる。

詳しくは葛木御歳神社HPの「鎮守の森から」ブログにアップされているので参照されたい。

(H27. 2. 8 EOS40D撮影)

鴨神實講の宵宮還幸

2015年05月22日 09時36分27秒 | 御所市へ
戌亥講が会食されている時間帯。

もしかとすれば上頭講が参拝しているかもしれないと思って高鴨神社に向かった。

到着していた講中はネクタイを締めたスーツ姿である。

講中は4人。

宮司の承諾を得て撮らせていただくが、神事であるゆえ邪魔にならないようにと指示があった。

平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』によれば鴨神の宮座講は9講ある。

「土地永住の子孫の組織せるものにして、最も権威のあるものゆえ、決して座外の氏子は加入せしめず。今後、新座を組織する場合も同じ。座の首座を一老または年頭という」と書いてあった。

発刊当時の宮座講は8座から新座を加えた9座である。

内訳は上頭(19人)・諸頭(10人)・戌亥(4人)・実の出座(8人)・冨田(6人)・古捿(3人)・弥栄(7人)・垣内(6人)・実寿毛登(4人)である。

奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』に載っている鴨神の宮座講の内訳は上頭座(19人)・諸頭座(10人)・戌亥座(4人)・實(巳)の出座(8人)・冨田座(6人・上頭座にも加入)・古捿座(3人)・彌榮座(7人)・垣内座(6人・5人は上頭座にも加入)・實壽毛登座(4人)とある。

中田太造著の宮座講の引用は『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によるものであろう。

水野垣内で聞いた「やさか講」はおそらく彌榮座のことであろう。

訪れた時間帯に参拝されていた宮座講は「みのり講(實講)」と呼んでいた。

宮司が一礼されて祓え詞を唱える。

サカキを左右に振って講中を祓い清める。



そして、「ヨロコビノ ヨロコビノ ゴヘイガ マイルーマイルー ワーイ」と発声されて最奥に鎮座する社殿に向かった。

「みのり講」はおそらく實壽毛登座であると思われる。

会食をしていた戌亥講のYさんの話しによれば西佐味の人たちのようだ。



高鴨神社への宵宮参拝は9講それぞれが順に参拝されて夜8時までに終わらなければならない。

それは8時から東佐味・西佐味・鴨神下・鴨神上の4カ大字における寿々伎提灯の献灯があるからである。

なお、大御幣を持って参拝する翌日11日のマツリは朝8時頃から10時過ぎまで各宮座講が順次行われるようだ。

(H26.10.10 EOS40D撮影)