マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

関西大学森隆男文学部教授ガイドツアーによる古民家解説in奈良県立大和民俗公園

2017年07月23日 09時37分45秒 | 民俗を聴く
午後は県立民俗博物館の催しがある。

今回で6回目を迎えた「私がとらえた大和の民俗」写真展。テーマは「住」である。

11人の写真家がとらえた「住」を3枚組で紹介している。

うち7人の写真家が揃って座談会が行われる。

これまではカメラマントークと称して博物館の講堂で喋っていた。

今回のテーマは「住」だけに、民俗公園に移築された古民家に場を移すのもテーマ性からいってもぴったしカンカン。

移築した民家であるが当時住まいしていた雰囲気を味わいながら座談会をしようということになった。

さて、である。

午前中はこれらの古民家について解説されるツアーが組まれた。

古民家は建築物。

構造論が中心に解説されるのであるなら、また一般参加者の迷惑になっては、と思って参加は見送っていた。

ところがともに出展している森川さんがツアーに参加するからと誘われて仲間に加えてもらった。

駐車場に車を停めたら今度は志岐さんも登場する。

同じ考えで私も、というわけだ。

ツアーの出発地になる移築民家は高取町上土佐にあった旧臼井家の建物。

昭和49年に指定された国の重要文化財である。

そこにもまたもや出展者。

野口さんも、である。

暇かどうかは聞かなかったが関心をもった四人が集まった。

参加者は写真家だけでなく一般参加の男性もおられる。

学芸員に案内されて会場に来られた解説者は関西大学文学部教授の森隆男氏。

民俗が出発点である先生は建物構造にあるのは人が住まいする点を強調される。



臼井家には五つ並んだ竃がある。

そこを指さして云われたのは「奈良のニワカマド」である。

なんとなく聞いたことがある「ニワカマド」。

手元にデジタル映像で複写させていただいた中田太造氏著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。

書かれていた記事に目が大きく開いたことは多々あった。

複写した時期は平成19年。

勤務していた大和郡山市の施設。

市民交流館時代のときにお世話になった係長がいた。

係長はこんな本を持っているが、勉強になるならと見せてくださる。

頁をめくるなり「宮座一覧」に飛びついた。

それが記載されていた大和の宮座の他にも御杖村の年中行事や曽爾村の一年、平野の一年、大神神社と芸能、大和八王子とモリサンなどなど。

「奈良のニワカマド」のキーワードで思い出したのが「奈良の庭竃と大歳の客」の章である。

書によれば「元禄五年(1692)、正月刊行の井原西鶴の『世間胸算用』五巻五冊は、西鶴最晩年(51歳)の作品群。

その巻一第一章に中・下層町人がせっぱつまって演ずる世態・人情の悲喜劇が描かれており・・・。

この中の巻四の二に「奈良の庭竃」という歳末風景が書かれている」とある。

詳しくは割愛するが、森先生が云うには、一年が新しくなるときに竃を塗り替えたということだ。

西鶴の書は江戸時代のはじめ。

大晦日から正月にかける「和歌山の火継ぎ」儀礼があると云う。

奈良では新しく点けた火を・・・次の年次に移る、つまりは時間の境界跨ぎである。

土間で暮らしていた奈良の町屋。

寝室の敷居は一段高い処にある。

それを「帳台構え」と呼ぶ。

岐阜では藁を積んでいた寝室だった。

藁敷きは温かいということである。

「帳台構え」の寝室に寝ていたのは当主夫妻に子供たち。

代替わりに隠居した祖父母は「帳台構え」から外れて奥の客間に移る。

土間には張り出しの腰かけがある。

ちょこんと座るような感じの張り出し腰かけの板の間。

実は家人が食事をする場であった。

上部を見上げてみよう。

私は茅葺家を拝見したらついつい見上げてしまう屋根裏構造。

先日に訪れた京都府の南山城にある神社の舞殿の屋根は銅板葺きになってはいるものの、内部の屋根裏は茅葺だった。

木材で組み立てた屋根は茅であったのだ。

何度か訪れた桜井市小夫の秀円寺は茅葺。

屋根裏構造に使われていたのはススンボの竹だった。

屋根裏の材が何であるのか、ついつい知りたくなるのである。

旧臼井家の屋根裏は竹の簀の子に土を混ぜて組んでいた。



火事を避けて、なおかつ防寒にもなる屋根裏構造である。

ところで玄関を入ったところの右上に開き戸がある一室がある。

いわば中二階にある構造の部屋は使用人が寝泊まりする場である。

玄関を出て外に出て外観を見る。

茅葺民家の臼井家を移築したのは昭和51年。

すでに40年も経過している。

屋根の茅葺は移築したままなのか、それとも間にカヤサシをしていたのか存じていないが、やや朽ちかけている部分がある。

屋根のてっぺんにのせてある木材である。

棟押さえの別名に「ウマ」とか「カラス」の名で呼ばれることもある。

この棟押さえの本数は奇数が基本。

神社建築も同じように偶数はあり得ないそうだ。

ちなみに旧臼井家の本数は17本。

一般的な庄屋家であっても7本。

あまりにも多い本数に森先生は驚かれる。

ちなみに旧臼井家は二万五千五の旧高取藩城下町。

主に油・酒・醤油の販売をしていた名家であった。

場を移動する。

次は大和高田市永和町にあった旧鹿沼家。

昭和55年に指定された奈良県指定文化財。

昭和54年に移築された。

次は昭和52年に同じく指定された県指定文化財の橿原市中町の旧吉川家。

奈良県平たん盆地部にある農家建築。

農家と云っても庄屋宅である。

ここで教わったのが雨だれを避ける雨どいである。

参加していた一般男性が質問された雨どい(雨樋)は昔からあったのでしょうか、である。

雨樋が一般的に広まったのは江戸時代。

大火に悩んだ奉行は類焼を防ぐために瓦葺の町屋を奨励した。

つまりは都市化である。

町屋は普及したものの雨水の落下による柱根元や土台が傷む。

傷めば腐る。

腐れば民家は崩れる。

こうした事象を防止するための構造が雨樋である。

今では金属製からプラスチック製になったが、江戸時代は木製か竹製。

古代の水路もそうだが同じく木製か竹製。

場によって材は違うが、江戸時代の雨樋は木製か竹製である。

参加者が気づかれた雨どいはすべてにあるわけではなかった。

ここが不思議。

一般的な家屋であれば雨だれを避ける雨樋は雨が流れ落ちるすべてのところにあるはずだ。

旧吉川家は何度も見ているが、今の今まで、なんで気がつかなかったのだろうか。

家屋にある玄関口辺りにしか構築されていないのである。

つまり昔は雨どいなんてものはなかったのである。

森先生が云うには玄関はここを越えるかどうか、別世界に出たり入ったりする結界にあるという。

雨どいを構築していない奥にある部屋がある。

そこには縁側がない。

縁側は江戸時代後期に造られた。

特別な場合になる縁側から直接出入りする場合がある。

家人が亡くなったときはその人が使っていた茶碗は縁(この場合は縁側でなく縁である)から捨てて割る。

藁火を焚いて葬儀の旅立ちをするのも縁である。

つまりはこの家から縁を切るということだ。

その縁のところに直線状の石畳がある。

足元をとらえた写真がある。



その端の部分は「雨だれ落ち」。

つまり雨どいもなく、茅葺屋根から流れ落ちる雨が石畳の縁沿いに当たる。

砂地であれば打たれた雨で穴ぼこになる、石畳であればそうならないのである。

昔はこうした構造であったということだ。

なるほど、である。

話は戻すが、縁切りには抜歯した歯もあった。

下顎の歯が抜けた場合は屋根に放り投げる。

上顎の歯であれば地面に捨てる。

捨てて縁を切るのである。

生まれ育った住之江の大阪市営木造住宅時代ではトイレの屋根・地面であったような気がする。

先生は続けて云った。

徳島県の事例ではこの雨だれ落ちにヒイラギの木を植えたいたそうだ。

鬼の目突きに立春のヒイラギイワシがある。

それと同じようなことなのであろう。



学芸員の許可をもらって屋内に上がらせてもらって解説をされる。

日本は座る文化。

日本間にあるのは畳部屋だ。

その昔は畳部屋なんぞなかった。

あったのは板の間に敷く畳で編んだ円座である。

それに座っていたのは室町時代からだ。

韓国や中国は椅子に座る立つ文化。

座るのは日本独自の文化である。

ちなみに正座はいつから始まったのか、である。

実は昔の女性は膝を立てて座っていた。

これを片膝とよぶ座り方。

それが正座であった。

遊女は今も昔も片膝で座るそうだ。

そういえば、映画やテレビで放映される戦国時代の様相。

戦いの戦術を意見交換する会議に武将が座っていたのは胡坐である。

稀には片膝姿の場面も記憶にある。

そんなことも教えてくださる森先生の話題提供はぐいぐいと引き込まれる。

ところで先生が座った位置に意味がある。

当主は家の状況を常に把握しておくということだ。

この位置荷に座っておれば玄関辺りが見える。

侵入者の動きがここで判る。

逆に私が座った位置は背中。

扉もあるから余計にわからない。

そこに当主が座ることはない。

室町時代より始まった家の神棚。

仏壇は江戸時代である。

神棚を背にしておけば玄関正面が見える構造である。

その座る位置を「ヨコ座」と呼ぶそうだ。

この部屋の奥は寝室。

もっと暗かったはずだ。

寝室は外に向けて閉じた世界を形成している。

寝室は真っ暗なのが本来の在り方。

ここに帳台構えがあれば、時代的にも古いのである。

また寝室は「なんど」とも呼ばれる部屋。

「なんど」に神さんがいる。

その神さんは女性であるという。

「ぬりごめ(塗籠)」という表現がある。

平安時代の読み物に竹取物語がある。

「ぬりごめ」は土壁。

竹取物語の最後に出てくる籠る場所が「ぬりごめ」。

パソコンでキーボードを打てば「塗籠」が出る。

土を塗った壁がある部屋で籠るということだ。

多彩な民俗話に益々のめり込んでいく。

竃柱は神の依り代。

敷居は屋内と屋外の境界を示す結界。

旧鹿沼家の玄関でそう話される。

玄関に建つ柱をみられた先生は、これを乞食柱と昔の人が云っていたそうだと云う。

乞食は施しでなく、家の中に居た災いを持ち去ってもらう役にあると韓国の研究者が論をたてたそうだ。

その乞食柱はホイト柱とも呼ばれるらしい。

「ホイト」とは何ぞえ、である。

調べてみれば岡山県地域言語の一つ。

『岡山民俗事典』によれば、「ホイトー、ホイト、フェートゥ、ヘートーは寿ぎ人から転じて乞食のこと」とあるそうだ。

同事典に乞食柱がホイトー柱とあり、岡山県の備中南部や倉敷市児島地区、真庭市蒜山地区を中心に認められるとあった。

桜井市下にあった旧萩原家を経て奥に向かう。



森先生が是非とも見て欲しいと云われた十津川村旭・迫の旧木村家である。

この建物も昭和50年に指定された県の文化財である。

同家は十津川村特有の建物。

ウチオロシの構造も独特である。

十津川村は谷を挟んだ急峻な地形に建つ。

向こうの岸に見える隣家に行くには一旦は谷に下りてまた登る。

片道歩いて40分もかかると森先生が云う。



敷地は僅かで奥行きがないから横に並んだ棟続きの家屋である。

幕末維新の際に活躍した十津川郷士の名とともに知られる大字旭の旧木村家も郷士であった。

たぶんにここ玄関に郷士を示す「士族」の札があったのでは、と云われる。

ちなみに玄関は室町時代から登場する。

それまでの時代は縁が出入りする処だったそうだ。



この家の土間にカラウスがある。

土間であれば地面が見えるが、ここは後年に板の間に換えたようだ。

丸い穴から大きな石の頭が突き出している。

その石は刈った稲の藁打ちの台である。

山間の民家は土間が狭いのが当たり前。

土間が広いほど稲作をしていたことになるのである。

十津川の一部にしか見られないハザカケ構造を建物の外に建てていた。



20云年間に亘って自然観察していた古民家周辺。

建物を写し込んで撮っていたが。

それが今頃になって気がついた。

今年の9月初めに初めて拝見した多段の棚がある。

棚は支柱で支えられた木造の建造物。

大字の内原滝川にあった多段の棚は稲を架ける構造物である。

十津川村の滝川や内原は「ハダ」と呼ぶ。

同じ滝川でも下地垣内は「ハデ」である。

吊り橋で有名な谷瀬は「ハデ場」。

旧西吉野村の永谷では「ハゼ」という人もおれば「ハゼ」もある。

地域によっても人によっても呼び名が異なる多段架けの稲架けが大和民俗公園にあったことをあらためて知ったのである。

森先生はここに建っていた構造物を「ハデ」場と呼んでいた。

十津川村の民家に竃がない。

囲炉裏に頼って生活してきた十津川村。

通常は板の間で生活する。

旧木村家の奥には畳部屋がある。

畳を敷き詰めるようになったのは近年である。

村は明治の神仏分離令によって、一部に残ってはいるもののすべてのお寺がなくなった神道の村。

であるが、奥の部屋にある神棚に仏壇がある。

仏壇の名だけが残った証しだそうだ。

戒名もなく、位牌は「ゆはい」と呼ぶ。

仏壇は「ぶちだん」と訛るそうだ。

興味深い話しにどっぷり浸かって2時間。

短く感じたのはとても面白かったからだ。話題の提供もあるが、先生の話し方が心地よくて・・・。

穏やかに丁寧に語ってくれた森先生に感謝する。

この日に話してくださった古民家解説は午後に開催された座談会にも活かされた。



解説を聞けなかった写真展拝観者のみなさん

是非とも館内で販売されている200円の図録を買って、見て、読んでくださればありがたい。

(H28.11.20 SB932SH撮影)
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農とつながる伝統祭事フォーラムinかしはら万葉ホール

2017年07月22日 09時47分58秒 | 民俗を聴く
機会を設定してくださった高取町住民N。

参加申し込み手配をされた催しは奈良県庁農村振興課の主催事業である「農村文化フォーラム」。

会場は橿原市立かしはら万葉ホールの4階研修室。

受け受けを済ませて席につく。

当フォーラムで基調講演をされるのは和歌山大学紀州経済史文化研究所の吉村旭輝氏。

3年間に亘って奈良県文化財課の緊急伝統芸能調査したときにお世話になった氏である。

何カ所かで同じ現場に出くわしたことがある。

県発行の『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』の「第五章 奈良県の神楽―巫女神楽と湯立神楽―」を執筆している。

個別に調査・報告されたのが「興ケ原・天満神社の翁舞」だ。

そのときの宵宮取材が一緒であった。

また、他に個別調査・報告したものに「十津川村 平谷の盆踊りと餅つき踊り」や「橿原市 十市のだんじり」がある。

司会・進行役は県内事例調査に度々出合ったことがある吉野町教育委員会・吉野歴史資料館館長の池田淳氏。

前述した『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』に個別調査・報告した「吉野町 国栖の太鼓踊り」がある。

お二人が専門の民俗に関しては造詣が深く、教わることは多々あった。

壇上に上がればチャンスを失ってしまうが、その前にと狙っていたときを待つ。

職員らの動きでわかった楽屋入り。

締めたドアをノックして入室。

お二人と合うのは久しぶり。

お元気な姿もそうだが、本日の講話が楽しみですと告げたら笑っていた。

さて、ここからは会場で吉村旭輝氏が講話される基調講演だ。

テーマタイトルは「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」だ。

氏が作成された資料は分厚い。

21頁からなる資料のタイトルは「農村に息づく行事と祭礼」。

日本の年中行事は農事暦に深く関係している。

自然サイクル、リズムが支配する農事暦にそって年中行事が行われてきた。

農業、漁業、林業における年中行事は太陰暦に配列されている。

お盆や彼岸・・先祖を祭る。

海外に移住した人々は神社をそこへ遷しても仕方がない。

移住した家人が亡くなれば祭りごとをもって継承する。

そういうことで移住先には寺を建てた。

なるほど、である。

農耕儀礼と密接に絡み合っているのが年中行事。

日本の場合は宮中行事から始まる。

それは中国古来の行事の伝来に基づいている。

話される話題は配られた資料に沿って進められた。

御所市のとんどは土台に松の木を据えている。

市内50カ所でそれぞれの地域ごとにとんど焼きがある。

植生環境の変化によって松の木が減少している。

それが一因でもある材の窮乏。

そのことがあって行事が衰退する。

やむなくというわけだ。

松の木は正月迎えの門松立てにも影響している。

その事実は私がでかけるあらゆる地域で聞かれる。

門松は雄と雌が揃ってのこと。

植生していた地域からそれが消えていく。

仕方がないから雄・雌の区別ができなくなった。

またまた、仕方なく植木屋さんに発注することになった。

いつかは氏神さんに飾る正月迎えの在り方も変容していく地域が増えていくことであろう。

春祭りの称する大祭は奈良県や滋賀県に多く見られる。

滋賀県の愛荘町に三つの垣内がある。

オーコで担いできたお供えは唐櫃ごと神社拝殿横に並べる。

映像を写しながら解説される唐櫃の脚の長さがある。

三つの唐櫃の脚の長さはそれぞれ。

よく見ないとわかり難いが脚が長いものから短いものも。

差はそれほどではないが、その長さは水利権を示す。

水上は脚高であるが、水下は脚が低いのである。

中世の郷の祭りは水利の力強さを意味する。

尤も中世以前は荘園時代。

そのころであるのか言説はなかったが、水利権力はそのころから・・・か。

夏にかけて行われてきた雨乞いは水の行事。

夏祭りはそのうちの一つ。

稲に虫がつかんように松明へと・・。

虫送りは和歌山にはない行事。

奈良県や滋賀県に多く見られる。

秋の祭礼はお月見から始まる。

二百十日、二百二十日は三大厄日。

農村はそのころに休む。

休んで祭礼をする。

断片的に紹介される絵解き行事。

次々と映し出される年中行事に詳しい説明をすれば絶対的な時間がないから端折られる。

行事をよく知る人であればついていけるが・・身近でない人はたぶん流されているのでは、と思った。

能は猿楽と云われて調査された「興ケ原・天満神社の翁舞」を解説する。

12月14日の伊勢の祭礼から全国に散らばった伊勢の大神楽。

さまざまな地に伝播する。

三つの型があるだんじり。

一つは船型、二つ目に住吉型。

三つ目が堺型である。

船型だんじり「は大阪市内にある。

後方に幕がある。

それ以前は彫り物人形の山であった。

そのすべては夏祭りにある。

大阪の天神祭りである。

京都で云えば祇園祭り。

疫病祓いに御幣をだんじりに取り付ける。

尤も祇園さんのだいじりはだんじりと呼ぶことはない。

山鉾である。

その鉾に御幣がある。

各地域に神輿があるだろう。

それに御幣を立てていることに気づく人も実は少ない。

御輿は神輿であるなら神の依り代が御幣なのだ。

大阪岸和田のやりまわしは秋祭り。

大阪泉州は五社の祭礼。

放生会として供養するだんじりとが組み合わさった。

堺型は4本の支え。

住吉型は3本の支柱であるという。

そこでだ。

何故に大阪住吉、堺のだんじりが奈良県にあるのか、である。

明治時代、奈良県の豪商の絡みと堺の大喧嘩が関係するという。

堺の人が売却しただんじりは豪商が購入して奈良にやってきた。

さらに区分けしただんじりは南河内型と石川型がある。

中世の南河内は和歌山の根来文化圏。

泉州の貝塚や泉佐野文化と交流した。

和歌山の粉河に傘鉾がある。

それはだんじり以前の形であることなどお話くださるが、文章化し難い。

さて、奈良にだんじりがやってくるまでの形は何か。

本来の神輿である。

明治29年、大阪堺の中之町大道で地車(だんじり)のすれ違いで大喧嘩になった。

それがあってだんじりの曳行が禁止された。

住吉大社周辺地域も曳行禁止が増え続けて曳行しなくなっただんじりは各市域に売却された。

明治末期から大正年間において泉州の和泉や泉大津、河内長野に売却された。

そういうことがあってだんじり文化が廃れていくのである。

尤もすべての地域ではないが、元々だんじり文化がなかった奈良に伝播していく過程があったことを知る。

尤も橿原市の十市のだんじりは江戸時代末期から明治時代にかけて製作された船形だんじり。

吉村氏が報告された「橿原市 十市のだんじり」によれば、だんじり舞台の内部に「住吉さん」が祭られているそうだ。

小屋根の唐破風の形態から文久二年(1862)に泉州岸和田市の大工町で新調されただんじりに見られる特徴があるという。

農とつながる伝統祭事フォーラム第二場は「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」をテーマにしたパネルディスカッション。

先に紹介したお二人の他、奈良佐保短期大学講師の寺田孝重氏に御所市鴨都波神社鴨の会若衆会会長の三井秀樹氏がディスカッションする。

地域の歴史はかけがいのないもの。

歴史を形作るのが伝統的な行事。

日常の「食」は特別な日の「食」にかけがいのない「食」であるという池田氏。

農村は大きな転換期を迎えている。

人、それぞれが暮らす。

暮らしの中で、どう子孫を残していくか、これまでどうしてきたのか、今を生きる私たちはどう未来に伝え、何をすべきかをディスカッションしていきたいと冒頭に話した。

過去のものを掘り返して歴史、輝きを知ることが未来へと繋げられる。

その際、何を指針にすべきか・・・。

「復興の年、2年は学生たちが復興、マスコミも報道してきたが・・・。学生は水もの。6年も経てばマスコミは取材に来ない。マツリを継承は、いかにどれだけのエネルギーがいるのか、である。和歌祭の、32曲からなる御船歌を復興してきた。生まれ育った泉州の和泉大津池田町でだんじりにのめり込んでいた。来年にやる、やらないの、の打合せばかりだった。五穀豊穣に新興住宅は盛り上がらない」と話すのは吉村氏だ。

「ケの世界に茶があるかもと云われて引っ張り出された。茶粥は消えているのか・・。天平茶の復元を平城遷都1300年祭にかりだされた。奈良から消費が始まった茶・・」と自己紹介される寺田氏。

「上社の鴨神社は御所市の高鴨神社。中社も同じく御所市の葛木御歳神社。下社も御所市の鴨都波神社。その神社に属する鴨の会若衆会。鴨都波神社の春の祭りの御田植祭はトーヤの家から出発する。ススキ提灯は江戸期から明治時代にかけて始まった。だんじりはそれ以前からあったと古文書に書いてある。ススキ提灯は秋の収穫後に刈り取った稲藁を積む“穂積み”に似ていることからその名がついた。昔は静かに参拝する提灯だった。いつのころか、たしか、ある自治会が提灯をグルグル回し始めた。それから我も我もと繰り出すようになった。宮司はその行為を停めなかった。若衆会はやりたいようにやらせてもらっている。行事の一環にある“ロクロキリ”がある。お祭りの火をロクロで回して火を起こす。厳かな作法に涙がでる。平成5年に発足した若衆会。何よりも楽しく祭りをしている」と話す三井氏。

四者四様の祭りに思いを伝える語り口である。

「那智の田楽は僧侶がしていた。動きを見て担い手が村の人に替わった意味合いがわかった。伝統はどうカスタマイズされていくのか。吉野山で行われているおんだ祭も僧侶がしていたが、廃仏毀釈の折に村人が演じることになった。すくすく育つ木やからススキ。形は稲と同じ。来年も同じように、ススキのように育ってほしい」とフォローする池田氏。

「茶粥を食べている人は4人。過去も食べていた人も手を挙げて欲しい」と云えば増えた。

「食べる茶から飲む茶になった。ひきちゃ(挽茶)やぶくぶく茶と呼ばれる茶は橿原市ある。中曽司町(なかぞしちょう)に共同墓地の池堤がある。茶を挽いて・・泡が立つからぶくぶく茶。その泡で食べるのがぶくぶく茶。豊かな稔があるから生活の中で使われる」と話す寺田氏。

「若人は村から出る。提灯も消える。若衆が立ち上がる。提灯回してパーフォ―マンス。ここ4、5年は高齢者の祭り離れが生じている。若いもんについていかれん。祭りはもうえーわ、という。宮司がひとこと言った。昔は伊勢音頭があった。棟上げのときに伊勢音頭を唄っていた。それを鼻唄で唄っていた。高齢者に歌を・・ということで平成28年4月、正式に高齢者組織を立ち上げた。皆が唄いやすい伊勢音頭バージョンができあがった。集合する公園に並んで唄った。そこに合いの手を打つ人もいた。皆が楽しめる祭りになった」と話す三井氏。

「御所市の南郷地区を調査したら伊勢音頭があったものの、生歌ではなくテープが唄っていた。30代、40代は働き盛り。その人たちが村から出ていって仕事がある都会に・・・。原因は研究者が紹介していること・・。カメラマンが行くと村は注目する。人気があるからである。逆に人気がないところは見にくる人が少ないから寂れる」といったのは吉村氏。

「茶とかが一番広がったのは明治時代。奈良県全域に亘って茶生産をしていた。茶はどこにもあったが、生産が減少したのは大正時代。地ビールに対抗して地紅茶も・・」と語る寺田氏。

それぞれが思いを会場に伝えるパネルディスカッション。

今あるものは、形を替えて継承すべきか。

形だけなのか。精神面はどうなのか。

村から離れる理由は何なのか。

気持ちが離れるのは何故か。

信仰はなぜに消えていくのか。

祭りは集合でないといけないのか。

ハデさがないと祭りではないのか。

そんなことを思いつつディスカッションの幕が下りていく。

テーマはたしか「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」ではなかったのか。

これでは“祭り”と“茶”だけで終わってしまう。

農村栽培の中心をなすのは稲作に畑作。

農作を営む人たちが継承してきた伝統祭事の事例紹介が違うように思えた。

振り返って開場の壁に貼ってあった6枚の行事ポスターをあらためて拝見する。

そこには“農村”の目線がないことに気づく。

写真的にも動きがあるハデ姿。

晴れ姿でなくハデな状態を表現するポスター。

すべてがすべてではないが、もっと“農”寄りに集約して欲しかったと思うのは私だけであろうか。

(H28.11.16 SB932SH撮影)
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日本の民俗をきく3・第3回高田十郎の大和-採集の鬼-in奈良県立大和民俗公園旧岩本家

2017年01月11日 10時48分26秒 | 民俗を聴く
朗読および解説は元県立民俗博物館の学芸課長だった鹿谷勲さん。

「日本の民俗をきく3」の第3回は「高田十郎の大和-採集の鬼-」と題して解説されるから聞きに行こうとお誘いの電話があった。

電話の主は写真家のKさん。

「高田十郎という人は知っていますか」の問いに「平城京跡を発掘調査していた人」と答えたら・・・。

Kさんがいうには「民俗の大御所」らしい。

まことにもって不知なことで・・・。

私は奈良県内の行事の写真撮りから「民俗」に入り込んだ。

専門的な学習をしたこともない単なる情報処理を仕事にしていたサラリーマンだった。

大御所なる人はまったく知らない。

そうであれば勉強してみようと云われて出かけることにした。

会場は奈良県立民俗博物館内ではなく、奈良県立大和民俗公園内にある移設民家の旧岩本家。

古民家の利用促進の意味もある場は自然観察会でたびたび訪れる。

観察会の場は園内の自然であるが、移設展示している古民家は建物の「民俗」を紹介する建造物。

奈良県立民俗博物館の併設会場にある。

たまたま訪れるときで出くわすのが竃の火くべ。

公園職員が雑木をくべて竃に置いた釜の湯を沸かす。

燃えた煙が上昇して室内に充満する。

充満という言い方は相応しくないが、室内をいぶす。

特に天井が煙でいぶされる。

こうすることで動態保存ができる。

この日はくべることのない講演会。



会場となった旧岩本家の座敷は聴講者でいっぱいになった。

鹿谷勲さんが主宰する「奈良民俗文化研究所」の公開講座。

代表の鹿谷勲さん自らが解説・朗読する。

講演参加費は無料だが、資料代として200円がいる。

座敷にあがって聴講するのであるが、正面の部屋であれば鹿谷さんの声が聞きとれたと思う。

私が座った場は隣の部屋。

襖に遮られるのか、聞きとり難い。

それはともかく鹿谷さんが話すテーマはいろいろある。

タイトルだけでも列挙しておこう。

「住」をテーマに「ワラビ縄」(昭和十八年刊行『奈良井上町年代記抄』所蔵の貞享二年(1685)「会所やね茸入用ノ覚え」の註)。

「食」のテーマは「茶粥」(大正九年八月「大和習俗雑話(其一)」『なら』第一号)。

「信仰」は「山の神」(昭和十一年十一月二十二日調査『随筆山村記』三 のせがわ雑記)。

「人の一生」は「婚礼」(大正十三年「奥宇陀の見聞」『なら』第二十六号)。

「俗信」は「ツチヒキ」(大正九年「大和習俗百話」『なら』第一号)。

「世間話」に「夫婦ともにツハリ(悪阻)をやむ家」(昭和十二 内話『随筆民話』)。

「十五堂」の名をもつ「水木要太郎」(「大福帳の水木翁」『野火』三の十)に「方言」(大正九年「大和の方言(其一)」『なら』第一号)もある。

私の今後の勉学のために、高田十郎が執筆した出典物を( )書きしておく。

他にも高田十郎の活動日誌などもあったが、一度に読み込むにはちょっと時間がかかる。

また、庶民の生活文化への感心として「村井古道」や「吉川覚兵衛」など県内における個人レベルの民俗探訪の話題提供や近代の探訪についてなどはどうやら時間がなくて話せなかったようだ。

近代といえば何人かの名前を存じている。

県史編纂は未だみられない奈良県であるが、一部の市町村史には民俗編があり調査された報告者が執筆されている。

鹿谷さんが執筆された著書の『やまとまつり旅』は私が調査するキッカケにもなった源流だと思って書庫に収めている。

それはともかく襖の向こうから聞こえてくる話者の声。

聴講されていた知人の名前を挙げる。

田原の里に住むOさんだ。

鹿谷さんが話したワラビ縄に応えたOさん。

「今井町にある家に竹で編んだものがあった。おばあさんの家は大工だった。ワラビで編んだら落ちんど、と云われた。そのときに初めて知ったワラビナワ」である。

ワラビナワとは何ぞえ、である。

ワラビは春の山野草。

天ぷらで食べるのが一番美味しいと思っている。

そのワラビが建築に用いられる。

初めて知った構造物は干したワラビの茎。

それを編んで縄にする。

そういうモノであるが、見たことも聞いたこともなかっただけに感動する。

峠を越えるときの儀礼にある「ハナオレ」はテーマ「山の神」で紹介する。

「花を折る」とは任意にそこらにある草木の枝を折って神仏に供えることのようだ。

私は聞いたことがない「ハナオレ」を充てる漢字は「花折」。

それで思いだすのが京都の朽木村。

たしか、「花折峠」があったと思う。

思うどころか、そこら辺りの渓流で魚釣りに行った覚えがある。

思いだすのは渓流の魚釣りより以前の話し。

乗ってきたワゴン車を川原に寄せた。

そのときだ。砂場に捕まって車輪が空転する。

どうしようもない状況に車道を通る四輪駆動車に応援を求めた。

ロープでラクラク引き上げた四輪駆動車の実力に感謝した。

事故ではないが、私の事件でもあるそこら辺りが「花折峠」。

有名な活断層がある地帯であった。

祝いのモノモノを運ぶ道具に「ホッカイ」がある。

「ホッカイ」を充てる漢字は「行器」。

漢字のほうが判りやすい「ホッカイ」は「人の一生」の「婚礼」の事例で挙げられた。

「ホッカイ」そのものの道具は神社の年中行事にも登場するが事例は極端に少ない。

吉野町山口の吉野山口神社の秋祭りに並べられる餅御供を詰めた「ボッカイ」の呼び名がある道具は円筒形。

まさに祝いの形である。

田原本町八田の伊勢降神社の御田植祭のお渡りに松苗を運ぶ「ホッカイ」があるが、その形から唐櫃ではないだろうか。

天理市大和神社のちゃんちゃん祭に登場する「ホッカイ」は大字成願寺の人たちが奉納する牛の舌御供を詰めた御供箱である。

呼び名の「ホッカイ」はさまざまな形があるようだ。

近江先生の話しによれば、父親が亡くなったときに「何かせんぞというて、ツチを引っ張った」そうだ。

近江先生とは、天理丹波市の中之町伊勢講行事が納め最後になったに平成25年7月16日にお会いしたことがある。

先生が住まいする地域の行事(公納堂町阿弥陀さんの夏祭り)を取材させてもらったこともある。

続けて鹿谷さんが伝えるツチノコを奉納している地蔵さん。

場所はすぐに思いだす懐かしい奈良市の南庄町。

大晦日の日に特殊な形の注連縄を架けることを知って取材した。

その帰り道に大変な目にあった。

たいへんとは大雪である。

取材中に降りだした雪はあっという間に真っ白な景観に変化した。

道路も当然ながらの真っ白け。

しかもアイスバーン状態。

少しは溶けてからと思って夕方近くまで滞在したかな。

頃合いを見計らって行事をされていた南庄町を離れた。

道路は滑る、滑る。

ノーマルタイヤだったので滑るのは当然。

カーブ連続の坂道ドライブウエイに冷や汗・・ではなく熱い汗をかきながら必死でハンドルを握った。

スピードは出せないが停止したら動かすことは不可能。

とにかくアクセルを踏み続けて。

道路の端っこには立ち往生した車が何台も放置されていた。

市内に入ったときはほっとした。

自宅になんとか帰ってぐったり。

そのときの反省から12月になればスタッドレスタイヤに履き替えることにした。

そんな話しはともかく南庄町には腰痛地蔵と呼ばれている地蔵尊がある。

ここでは腰痛にならないように願掛けされたツチノコがいっぱいある。

掛けた願が叶って苦しんでいた腰痛が治った。

お礼に奉納したのがツチノコである。

ツチノコと呼ばれているツチの形はヨコヅチだったように思える。

とにかく多いツチノコに圧倒された話ではなく鹿谷さんが語るツチは、大正九年「大和習俗百話」『なら』第一号に収録された死人が出たときの「ツチヒキ」である。

町内の人たちは今でも「ガンゴジ」と呼んでいる元興寺町。

目出度い正月に黙ってツチを引っ張っていたそうだ。

付近の町内では伊勢音頭を唄っていたというのだから、祝いもあれば喪にもあった「ツチヒキ」っていったいなんだろう。

提供される民俗話しは満載であった。

ふっと我に返って旧岩本家で聴講されていた人たちの顔をみる。

隣に座って聞いていたのは誘ってくれた写真家のKさん。

その横はサンハライ念仏を取材させてもらった奈良市鳴川町の徳融寺住職の阿波谷さん。

八島の六斎念仏取材以来お世話になっているが、何故か私の名前はKさんと思いこんでいるようだ。

Kさんに届いた賀状の文でそのことがわかった。

3人の顔が揃ったところで思い込みを解消したく、説明させてもらったら笑っていた住職は7月23日に境内地蔵堂内で地蔵盆の数珠繰りをすると話してくれた。

ありがたいことであるが、スケジュールブッキングになるから翌年持越しとしたい。

会場で声をかけていたのは田原の里のOさん。

その隣におられたのが、奈良市矢田原町でお会いしたMさん。

先月の6月1日に、である。

なんでも今月の7月1日に斎主された月次祭で平成22年3月24日に掲載した産経新聞の切り抜き記事を長老六人衆に見せて紹介していたという。

ありがたいことである。早いうちに6月1日に撮らせてもらった写真を届けたい。

この場で「おう」と手を振った男性も顔馴染み。

地元大和郡山市で源九郎稲荷神社代表を務めているNさん。

すぐ横にはFBトモダチのAさんも同席していた。

Nさんとは大和郡山市の一大行事のお城祭りの白狐渡御出発時にお会いした。

その前は「水木十五堂授賞記念講演」の式典があったやまと郡山城ホールで、だ。

1月、3月のときの私の身体を心配してくれている。

今ではすっかり・・とはいえないが、可も不可もない健康状態。

口だけは元気ですと伝えたら笑っていた。

「水木十五堂授賞式」は記録を重視していた人々を称える表彰である。

これまでお世話になっていた人たちと顔を合わせば元気になる。

そう、思った会場で紹介された二人組。

名前を伺えば「桃俣獅子舞保存会」の団体だった。

写真家Kとともに目を輝かす桃俣の獅子舞。

奈良県内には曽爾村、御杖村、旧室生村などで獅子舞を披露演舞する集団がある。

そのうちの一つであるが、大字桃俣の行事はなぜか足を運んでいない。

いずれは、と思いつつも実現はしていなかった桃俣に藁人形で作った「ワッカ」と呼ぶモノがあるそうだ。

藁に串で挿したコンニャクやエダマメなど。

それは「ヒトミゴク」の呼び名もあるらしいからほっとけない。

今年のヨミヤは10月8日。

トウヤ家の行事があるように聞こえた。

翌日の9日はマツリ。

上や下垣内の一軒ずつのトウヤ家に出かけて竃祓いを舞うそうだ。

取材してみたいが第二日曜日。

県内でもっとも行事が多い日。

さて、どうするか、である。

(H28. 7.17 SB932SH撮影)
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大柳生・吐山・篠原「大和の太鼓踊り」の講演と体験ワークショップin奈良県立図書情報館

2016年09月27日 10時08分25秒 | 民俗を聴く
忘れないように書き込んでおこうと思った講演会と体験ワークショップがある。

奈良県立図書情報館で行われた一日限りのイベント。

奈良県内の大柳生・吐山・篠原で行われている「大和の太鼓踊り」をテーマに開催された。

このイベントを知ったのはたまたま登場したFBのイベント紹介である。

どういう関係からこれが登場したかは判らないが、主催に「奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会」がある。

この実行委員会の存在は存じていない。

いつできあがったものかも判らないし、何をしているのかも判らない団体である。

ここに並列表記した(事務局)に「奈良県教育委員会事務局文化財保存課」の課名がある。

記されていた電話番号も課の番号である。

イベントタイトルからでも判る大和の伝統的な民俗行事の太鼓踊り。

大柳生は奈良市東部山間にある大柳生。

吐山は旧都祁村にあった現奈良市都祁吐山町。

篠原は旧大塔村の篠原。

現在は吸収合併した五條市内の大塔町篠原である。

イベントチラシに「県内では45もの祭りや行事が、国や県の無形民俗文化財に指定されています。今回は、“太鼓踊り“をテーマに3地域を取り上げました。”頭“と”体“を使って地域と文化財を知る、感じる、つなぐ、きっかけになればと思います」と書いてあった。

第一部は“広く知る“に「大和の太鼓踊り~風流踊りという芸能~」をテーマに元京都学園大学准教授の青盛透氏が語る基調講演がある。

第一部のもう一つに”それぞれを知る“がある。

前述したキーワードに挙げている大柳生・吐山・篠原、各地域の太鼓踊り映像で観て地域の人から話しを聞く、である。

第二部は各地域の太鼓踊りを教わって一緒に体感してもらおうというプログラムだ。

協力に大柳生町自治会、吐山太鼓踊り保存会、篠原おどり保存会のみなさんが登場する。

共催は奈良県立図書情報館。

今回のイベント資料に太鼓踊りや奈良県の指定無形民俗文化財に関連する図書館所蔵リストが配布された。

研究者にとっては調べる手がかりになりそうなリストであるが、ここでは省く。

到着したときはすでに講演会が始まっていた。

後方にビデオ収録していた二人は顔馴染み。

頭を下げて静かに席につく。

そこで気がついた筆記用具。

メモを残すに必須アイテムが要る。

ボールペンを忘れたことに気がついたが、遅し、である。

頭の中に映像や語りを残そうと思っていたが、帰宅して数か月も経過すれば真っ白。

残ったのはケータイ電話で撮った体験ワークショップの様相である。

篠原おどりは講演会会場。

持ち込まれた太鼓とバチがある。

そこには艶やかに舞う女性陣が使う扇だ。

太鼓は10張。



その中に古くから使われてきた太鼓がある。

じっくり拝見する余裕はない。

太鼓を打つ人は床に座る。

後方には扇を手にして舞う。

篠原踊りの艶やかさはここにあるが、太鼓を打つまでの体験だけに太鼓役は座って打つ。

足の振り付けはないが、長老が唄う篠原踊りの唄が哀愁を帯びていた。



その場に居た人物はどこかでお見かけしたことがある。

名前が思い出せない。

もしかとすればと思って声をかけたら川上村東川在住のMさんだった。

実に9年ぶり。

平成18年9月18日に訪れた烏川神社の豊穣祭の千本杵以来である。

千本杵で餅を搗く際に唄われていたご仁である。

「めでた めでたの 豊穣の祭り ソリャー豊穣の祭り イョー みなの幸せ ソリャー祈りましょ おもしろや」とおめでたい言葉が連なる伊勢音頭の囃し歌だった。

この場に来られていたのはたぶんにご招待。

東川には大きな祝いごとにしか登場しない太鼓踊りがある。

私が取材した日は平成17年11月13日

東川では古典太鼓踊りと称していた。

太鼓踊りのつながり関係で来館していたのであった。

9年ぶりにお会いしたMさんとは年賀状でやり取りをしていた。

その賀状に書いてあった川上村のビッグイベント。

話しを聞いて納得した土蔵生誕百年祭である。

体験ワークショップは篠原だけでなく大柳生もある。



踊り演舞は場所をとる。

他地域に影響を与えることなく一室離れた場で行われた。

自治会長自らが演じる足腰。

イチ、ニー、サーン、シーと数えながら跳びながら移動する。

太鼓を胸に付けての踊りはそれが慣れてからだ。

もう一つの団体は館の外庭だ。

チャンチャチャチャンの鉦の音にドン、ドンと打つ太鼓。

足さばきは身体ごと左右に動く。

シデ振りと太鼓打ちは中央で行われる。



民俗行事を丹念に追いかけて写真を撮っているTさんも体験していた。

ところで青盛透氏の講演語りである。

メモがないからまったく思いだせない。

配布された資料を紐解く。

と云っても書き写している間に思いだせると思って書きだした。

資料のタイトルはコラム②の「“風流”と“風流踊り”」である。

前年の平成27年11月3日に取材した行事がある。

それは奈良県ではなく京都府南山城村で長く伝承されてきた田山の花踊りである。

現地で拝見した踊りは奈良県内の太鼓踊りとは異なるものだと確信した。

主に三重県に伝わる太鼓踊りは服装も所作も異なる。

敢えていうなら奈良市月ヶ瀬の石打で行われている太鼓踊りが近いと思っていた。

石打は三重県寄りに近い地域。影響を受けたことは当然であろう。

田山の花踊りを調べるに、一般公開されているネットを駆使して探した。

見つかったのは「三重県インターネット放送局」が公開している三重県内の伝統行事である。

そのすべてではないが、一部にカンコ踊りとかを解説していた断片的な報告書が添付されていた。

執筆者にこの日語りをする青盛透氏や植木行宣氏、鬼頭秀明氏、長谷川嘉和氏らの名がある。

取材地によっては㈱CNインターボイス社がまとめた報告書もある。

これらは「平成22年度ふるさと文化再興事業地域伝統文化伝承事業」の報告書の一編である。

地域的な伝承はコラム②にも書かれているから読んで欲しいし、県内で民俗行事を写真でとらえている写真家は特に拝読して欲しいと思うのだ。

質問した内容はメモも捕っていないのでまったく思いだせないが、青盛透氏の回答は「女装は間違いなく風流である」と云ったことだけが記憶にある。

“風流”は“ふうりゅう”でなく、“ふりゅう”と呼ぶ。

コラム②によれば「貴人に下賜(かし)された装束や道具の豪奢な飾りの意味があり、そこから趣向を凝らした造り物、仮装行列、また、それに伴う歌や踊りの意味として用いられた。

大治四年(1129)六月十四日条にある『長秋記』。

美麗な飾りの意味であり、芸能そのものではなかった」。

「鎌倉期、平等院で催された延年風流に大がかりな造り物があった。院政期からか鎌倉期の祭礼に、山鳥の毛をつけた笠を被り、装束を着たきょうの町民や郊外村民が領主や貴人宅を訪れて歌舞を演じていた」。

寛喜二年(1203)七月七日条の『名月記』である。

このころの風流は「歌や舞が伴う囃子物。芸能風流はプロの集団ではなく素人の手による芸能であった」。

室町期、さらに広がる風流は正月の松囃子、盆の念仏風流、雨乞い風流、・・・季節の行事、信仰とは関係なくあらゆるものに付随するもになった。

戦国期には歌謡小唄を組み合わせた踊り唄も。

唐織物の小袖で衣装を統一した踊りが登場したことを書いているのは大栄元年(1521)七月十四日条にある『春日社司祐維記』だそうだ。

風流踊りに特化したものが女装。

京都、奈良、大坂などの都市部に流行。

これがいわゆる“風流踊り”であると氏が伝える。

こうして講演や体験ワークショップを書き残していたら、ふと思いだした。

青盛氏に質問した内容が頭の中に湧いてきた。

京都府南山城村の「田山の花踊り」に登場する「唄付」である。

唄付は「フクメン」の女装化であった。

(H28. 3.26 SB932SH撮影)
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国際博物館記念日講演会―福神と招福―in県立民俗博物館

2016年04月02日 08時34分39秒 | 民俗を聴く
奈良県立民俗博物館で行われた国際博物館記念日講演会を聴講した。

お題は「福神と招福」だ。

お話しは手塚山大学教授の源城政好氏。

福とは何かをお話しされる。

昭和52年5月18日に国際博物館会議が制定した国際博物館記念日。

5月18日前後の日は全国各地の博物館でさまざまな記念事業が催される。

今年で14回目を迎えた奈良県立民俗博物館記念事業である。

講師は1946年生まれの文学博士。

先人が研究された多くの史料を咀嚼して話しましょうと初めの詞を述べられた。

「福徳神」と「長寿神」。

エビス天・ダイコク天は室町時代に表舞台に出た。

奈良時代の『日本霊異記』。仏教説話を集めた中巻第四条に、奈良にいた貧しい女性が穂積寺<奈良市東九条町>に詣でて千手観音にお願いして、百貫、大いなる宝を得る話し。

一貫は千文。一文を現在のお金の価値でいえばだいたい10円(五円の考えもある)。

一貫は現在価値の一万円。百貫であれば百万円になる。

百貫、大いなる宝を得る話しはあくまで説話。

事実を反映したかどうかは疑問であるが、「富」が人々の意義に定着していたことが判る。

ただ、庶民の願いが記録に残るのは11、12世紀の平安時代。

応徳二年(1085)七月の『百錬抄』によれば「朔日より東西二京の諸条(街路)、辻毎に宝倉(ほこら)を造立し、鳥居に額を打つ、その銘を福徳神或は長寿神、或は白朱社と云々・・洛中上下群衆し・・破却すべく由、検非違使に仰せらる、淫祀(いんし)として格制(法令)有る・・」。

『百錬抄』は編年体で書かれた歴史書。

七福神がまだ整っていない時代に突然に出現した福徳神であるが、神さんを祀ることによってだまし取る人が現われた。

如何わしい神さんを祀ってはならぬと鎌倉時代に発令された。

人々が集まってくる辻に祀った「辻神」。

京中は商人の町。「辻神」は「市神」である。

「市」が立つ処に現れて人々に幸運をもたらす。

祀られた「辻神」は「財(たから)」であった。

人々が求めるのは「財」。

「健康」を求める「福の神」とは別次元の「財」の神であった。

11~12世紀の平安時代は阿弥陀信仰や観音信仰が根付く時代。

永長二年(1097)閏正月『中右記』によれば京中の観音さんは原生利益。

病気回復を願った時代で、「富貴」が目的。財力を保っていた。

狂言に「福の神を授かる」一節があるようだ。

室町時代ともなれば長寿も福も宝だった。

長寿は究極の「福」であった。

祇園社の祭礼費用。馬上役と呼ぶ。

この費用を誰に負担させるのか。

京中の「富家」である。

経済的な貯えをもつ富家である。

銭と富をめぐって議論があった。

「徳」は「得」に通じる。

裕福な人は「徳人」。

「有徳の者」は金持ちなのだ。

この考えが定着した時代は室町時代以降である。

1491年代に「福徳」年号が出現する。

ときの朝廷が定める正式な年号は「延徳」であるが、「福徳」年号は「私年号」。

東北地方で盛んにつかわれた「私年号」。

「弥勒」から考えられたと思われる「命禄」もあるそうだ。

エビス神や弁天さん。

福禄寿など七福神が不動のものとして定着する時代は江戸時代の半ば。応永二十七年(1420)正月『看聞日記』に「・・・又布袋・大黒・夷・毘沙門等、又番匠棟上之躰種種之を作る・・鶴亀舞、種々風流例年ニ超過す、其興極めなし」がある。

書いた人は貞成親王。天皇になりたかったが、なれなかった親王。

このころの「富貴」はエビス(夷)、と大黒天。

「夷」は「異人」。異界からの来訪者である。

室町時代から顕著になった来訪者は荒ぶる神。

負の存在としてみていた。

現代ではエビスを充てる漢字は「恵比寿」。美しい表現になっている。

福の神に転じるのは兵庫県西宮社家町に鎮座するえびす宮総本社の西宮神社があってのこと。

それより信仰が早かったのは大黒天。

荒ぶる神の大黒天は軍神。

台所の神さんに祀られた大国主を合い重なって広まった。

蓑や笠は民俗学の分野。

大黒天がもつ打ち出の小槌がある。

小槌は本来存在しないが全能の道具。

一寸法師など各地の民話に残る。

武人の神さんとして崇められる毘沙門天は多聞天とも。

信貴山絵巻によれば毘沙門天は「富」に結びついた。

今日の「福」には「健康」が含まれるが、もともとは「財」から始まった。

今日的には長寿までも含む「福」。

豊富な史料から「福」とはどのように日本人がとらえていたのか。

福をもたらす神。エビス神、大黒天、毘沙門天から七福神に移りゆくお話しであった。

終わってから取材に来ていた毎日新聞奈良支局の記者から突然のインタビューを受けた。

『あなたにとって福は「財」ですか、それとも「健康」でしょうか』である。

「財」や「富」を求めるのは昔も今も変わらない。

あったらあるだけなにかしら使ってしまうもの。

なくとも・・とはいいたくないがフツーの生活ができればいい。

むしろ穏やかに健康でありたい。

無病息災を求める人は一年の始まりに神社へ参る。

宝くじが当たってほしいという人もいるがごく少数だと思っている。

「民」が求めるのは健康であることが願い。

いわば心の願い。

正月に歳神を迎える願いは昔も今も変わらない「招福」だと思っている。

その後の24日に新聞掲載された講演会記事がある。

副題は<中世日本人の「福」考察>とある。

「大和郡山市矢田町の県立民俗博物館で17日、国際博物館会議が定める「国際博物館の日」(5月18日)に合わせた記念講演会があった。日本の中世史を専門とする源城(げんじょう)政好・帝塚山大文学部教授が「福(ふく)神(がみ)と招福(しょうふく)」と題して講演し=写真、参加した約30人は中世の人々の「福」に対する意識の考察に耳を傾けていた。源城教授は「平安後期から室町時代にかけては、財宝を持つことが福とされていた」と述べ、健康や家族を「福」とする人が多い現代との違いを指摘した。また、福神を代表する恵比須や大黒天への信仰がどのように広まったかなどを紹介した。参加した同市城町の民俗写真家、田中真人さん(64)は「お金など現実的なものより、心の部分とか『見えないもの』に福を感じるようになったのだろう」と話していた。【塩路佳子】」。<全文借用>

突然のインタビューに話したぐだぐだ話を簡潔に纏めてくださった。

この場を借りて記者の塩路佳子さんに感謝申し上げる。

(H27. 5.17 SB932SH撮影)

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奈良県における民俗芸能の保存と伝承in西大寺サンワシティビル5F

2015年10月27日 08時38分27秒 | 民俗を聴く
奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏からメールが届いた。

なんでも近鉄西大寺駅近くのビルに出向いてほしいというのだ。

それも著書の『奈良大和路の年中行事』を何冊か持ってきてほしいという願いである。

何のことかさっぱり要領を得ない伝言に電話をかけた。

どうやら鹿谷氏はある会に頼まれて講演をするようになったようだ。

鹿谷氏が発刊した著書『奈良民俗紀行 西大和編』がある。

どうやら会の人からも頼まれたようで、会場販売をするようだ。

販売価格の設定は両者とも一致しておくことで決まった著書販売。

十数冊をバッグに詰め込んで会場に向かう。

場は西大寺サンワシティビル5階だ。

着いた時間帯は少し早くて設営中だった。

その場におられたご仁。

どこかでみたような・・。

思いだした。平成24年3月22日に霊山寺の食事処でお会いしたNPO法人奈良ソムリエの会・保存継承グループ理事の鈴木英一氏だった。

鈴木氏が云われたのか、それとも鹿谷氏が云われたのか、二人の著書を聴講生に是非ともというわけで販売することになったようだ。

事前に案内された参加者募集にあるテーマタイトルは「滅び行く奈良の民俗芸能」だ。

鹿谷氏が講演するテーマはこれだったのだ。

ちなみに当日配布する資料はまだ届いていない。

直に鹿谷氏が持ってこられるとのことだ。

受付・聴講席が整備されたころに到着された。

この講演は無料ではない。

資料代として500円。

ただたんに著書も持ってきただけで帰るわけにもいかない。

むしろ鹿谷氏がどのような話題提供をされるか聞きたくなって聴講することにした。

著書はいつどこで販売するのか。

受付である。

聴講生が目につくように手造りのPOPパネルを持ってこられた鹿谷氏。

両著書を受付テーブルに並べたら早速手にした受付嬢。

頁を広げて食い入るように見られる。

興味が湧いて買いたいといった人は6人。

少ないか、多いかは別にして、買ってくださる人がいることに感謝する。

さて、講演だ。

資料のタイトルは「奈良県における民俗芸能の保存と伝承(1)」とある。

(1)とついているから2回目もある。

始めに「正月ットンどこまで くろくやまのすそまで おっかえりおっかえり おっかえりの道で かんころうにであって ちょっと手水へかくれて びっちんくそですべって かったんくそで鼻ついて あーくさツン ツギ屋のおばんに ツギもろて ツーンとかんだら ようなった」を唄う鹿谷氏。

正月の唄は大和高田市に住む男性が母親から聞いた唄だそうだ。

正月ドンが遠くから家にやってくる様相を子供が歌うわらべ唄だ。

二上方面、香芝町史によれば詞章が若干ことなるものの基本的なキーワードが同じ唄がある。

正月ドンはなぜにうんこまみれになるのか。

便所を綺麗にしたら綺麗な子供が生まれると信じられた。

正月ドンは出産、誕生を意味しているのでは、と投げかける。

この話しを聞いていて昔のことを思いだした。

小学生のころに囃していた唄がある。

「みっちゃん みちみち ばばたれて・・・」だ。これは何を意味するのか。

正月の神さんを正月サン、歳徳サンと呼ぶことが多い。

いわゆる年神サンだ。

神迎えの行事にフクマル迎えがある。

神さんを迎える砂の道がある。

これもまた正月サンを迎える行為である。

逆にトンドは迎えた年神サンを天に戻ってもらう神送りの行為だ。

正月にまつわる食事がある。

一つは一部の地域であるが、奈良県内しか見られないきなこ雑煮である。

山添村、奈良市山間東部、桜井市の座でよばれたことがあるきなこ雑煮は独特な食べ方はマメの文化だと云われる。

話されたことをメモ筆記していたが文字は判読できないが紹介しておこう。

松の内のツチヒキである。

目出度いときに亡くなる人がある場合は、ヨコヅチで叩いた縄をかけてずるずる引っ張る。

春鹿酒造ではカケヤを引っ張ることをツチヒキというらしい。

元興寺町の風習にも似通ったようなものがあり、伊勢音頭を歌いながら引っ張っていたらしい。

ツチヒキは死者の連続を恐れるまじないの一種。

何らかの民俗神と思われるが、地域の神社には登場せず、風習に現れる。

次の項目は大和万歳だ。

正月などに目出度い言葉で唱える「祝福芸」。

元は「千秋万歳」になるようだ。

14世紀、すでに知られた存在だった大和万歳は宮中にも参内した。

江戸時代、京都・大阪を巡って京都御所・所司代、大阪城代へと広がる。

大和万歳は安堵町・窪田と広陵町・箸尾の二系統があった。

宮中参内は大正末期まで続いて昭和30年に奈良県文化財に指定された。が、伝承は続かず昭和52年に指定解除される。

その後、装束、道具など一式が寄贈され奈良県民俗博物館に保存された。

その後の平成24年に有形民俗文化財として新たに指定された。

鹿谷氏が云うには、太夫と歳三の二人一組。

春日おん祭に奉納される細男(せいのう)が着用する白装束だった。

また、丸に橘の紋があったと話す。

三つめの項目は民俗芸能とその特質だ。

プロ集団ではなく、土地に暮らす人々が自ら育てて伝承してきた演劇、舞踊、音楽など、それらの要素を備えた儀礼や行事等は郷土芸能、郷土芸術の呼称であったが、昭和30年代初めに日本全体を考えて民俗的な特色をもつ芸能として「民俗芸能」と呼ばれるようになった。

ちなみに民俗芸能はフォークロア。民族芸能はエスノロア。

諸外国の民族音楽や舞踊がある。

日本の民俗芸能も世界レベルのグローバル感でみれば日本の民族芸能になる。

太鼓踊りは村の決定で行われる。

費用も村の持ち出し。プロ集団ではなく村人が演じる踊りは民俗芸能だ。

各地に出向いて商売として行われている太神楽はプロ集団。

吉野町の国栖奏は外にでることはなく、村の氏神さんに奉納する芸能だ。

国栖以外の人がしてはならない地域の伝統芸能である。

次の項目は民俗芸能の種類。

1.神楽に巫女神楽、出雲流神楽、伊勢流神楽、獅子神楽(かつて神楽廻しと呼んでいた)。
2.田楽に予祝の田遊び、御田植神事。
3.風流に念仏踊、盆踊、太鼓踊り、鞨鼓獅子舞、小唄踊り、綾踊り、つくり物風流、仮装風流、練り風流。
4.祝福芸に来訪神、千秋万歳、語り物。
5.外来派に伎楽、獅子舞、舞楽、延年、二十五菩薩来迎会、鬼舞・仏舞、散楽、能・狂言、人形芝居、歌舞伎が挙げられる。

次は太鼓踊りだ。

太鼓踊りは風流。華やかな飾りを付けて嫌なものを追い払う。

イベント等で披露されている創作太鼓は民俗の中に含まれない。

太鼓踊りの名がついているように太鼓はつきもの。

現在、残存している古いものがある。

徳治三年(1308)がある吉野吉水神社、正和五年(1316)・文安元年(1444)・貞和三年(1347)があるは唐招堤寺、慶長十九年(1614)がある奈良市十輪寺。

太鼓は寺の法会に用いられた。

太鼓は呼び出しにも使われる。

ホラ貝も同じでもっと緊急な場合は半鐘になる。これらはいずれも連絡手段である。

太鼓踊りの呼称はさまざま。

神をいさめ・願掛けのイサミ踊り(勇踊・諌踊)、南無阿弥陀仏のナモデ踊り(南無手踊・南無天踊)、雨乞い踊り、願いが叶った願満踊り、ナラシ(セ)踊りなどだ。

確か京都南山城村の田山では花踊りだったような・・・。

歴史的な調査は古文書や奉納絵馬が挙げられる。

在所が判る一例、文明三年(1471)八月の「経覚私要抄」に「・・八島(奈良市八島)ヲトリ在之、雨乞・・」とある。

永禄十年(1567)七月の「多門院日記」に「・・布留宮(石上神宮)祈雨オトリノ用意道具・・」がある。

文禄三年(1594)八月は「布留之社祈雨曜・・・」だ。

鹿谷氏の資料に出展が書かれていなかったが、年代と所在地が判る記事がある。

桜井市大神神社の太鼓踊りは寛文十二年(1672)・貞享四年(1687)・寛保三年(1743)。

「大安寺文書」にある春日大社付近は寛政元年(1787)・同二年(1788)・同五年(1791)・同六年(1792)・同九年(1795)があるそうだ。

付近というのは春日大社ではなく近くの所在地を巡ったという行程だ。

寛政元年の行程は、たちから→うねめ宮→南大門→十三かね→大鳥井→まつの下→御たび→ひゃうし神江戻り橋の下とあるそうだ。

絵馬が残る地域は享保八年(1723)・宝暦二年(1752)・文政四年(1821)の高取町下子島・小島神社、宝暦六年(1756)の安堵町東安堵・飽波神社、天保十三年(1842)の川西町結崎・糸井神社、嘉永六年(1853)の明日香村稲淵・飛鳥坐宇須多岐比売命神社がある。

現在、中断になった現行太鼓踊りもあるが直近までは以下の在所で行われていた太鼓踊りを列挙する。

奈良市大柳生(2007年から三垣内合同→2012年を最後に中断)、奈良市旧都祁吐山、奈良市月ヶ瀬石打、宇陀市室生大野がある。不定期在所は下市町丹生、吉野町国栖、川上村烏川がある。

次は盆踊りであったが、時間不足で詳細解説は見送りの時間切れ。

十津川、旧大塔村阪本、川上村の盆踊りもあるが、サシサバや橿原市東坊城のほうらんや、奈良市八島・安堵町東安堵などの六斎念仏、奈良市田原の祭文音頭も聞きたかったが・・。

続きは2回目に廻されるかも知れない。

盛況に講演が終わって一息つく講師と主催者。

甘いものを食べたいと云って場所を移動する。



近鉄ビル2階にある甘処は「はんなりかふぇ・京の飴工房」こと「憩和井」だ。

私はキナコアイスを注文した。



これが美味しいのである。

男性3人とも頼んだ甘味に満足する。

このような機会を作ってくださった両氏にお礼は言うまでもないが、嬉しさもあって進行役を務めた鈴木英一氏に一冊を献本した。

なにかのお役に立てていただけば幸いだ。

(H27. 1.17 SB932SH撮影)
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三郷町の伝承文化をたどる講演会in三郷町立図書館

2015年07月10日 07時35分28秒 | 民俗を聴く
前月の24日に訪れた三郷町の勢野。

薬隆寺八幡神社の下見の際に絵馬殿に貼ってあった講演会の案内があった。

薬隆寺八幡神社創建500年祭を記念する講演会は三郷町の史跡や歴史文化を調査・報告されている「史学さんごう」が主催する。

一回目は大和川を通じて、二回目は近代化というテーマだったそうだ。

3回目の今回はこの年に奈良民俗文化研究所を立ちあげられた鹿谷勲氏が語る「三郷町の伝承文化をたどる」である。

「史学さんごう」は町内の文化財を纏めた冊子『三郷路(みさとじ)ふるさと散歩~文化財と史蹟のガイドブック』を編集・発行された歴史愛好家団体。

大字勢野・立野・南畑からなる三郷町の文化を紹介している。

講演会場は町立図書館の視聴覚室。

会場には薬隆寺八幡神社に収蔵する絵馬や三日オコナイに掲げられる仏画4幅などが展示されていた。



特に興味を惹かれたのは慶応三歳卯(1867)正月吉日に奉納された「御祭礼の図」である。

当時は9月25日に行われていたお渡りの様子や神事、献饌、御湯などを描いている。

展示物は撮影禁止であったが、前月の25日の行事取材で伺った際に神社役員の承諾を得て撮らせてもらっていた。

全景は今も昔も変わらない様相だが、かつての祭礼の在り方を表現している。

「ここに何代か前に出仕しているのです」と教えてくださる巫女を勤める坂本さん。

度々の行事取材でお世話になっている母・娘さんだ。

本殿前で幣を持つ巫女姿がある。

かつてはナギナタの所作はあったが、幣を持つ姿は初めて拝見したと話す。

御湯の場は今でもされている本殿階段下の鳥居付近だった。

鈴を手にして神楽を舞う姿の横にあるのが、つい最近の2年前まで使われていた御湯釜である。

「和平群郡東勢哩八幡御釜 貞享二年乙丑(1685)九月吉日 和葛下郡五位堂村津田大和大掾藤原定次作」の刻印がある。

御湯の作法を見ている村人の姿は大勢で群がるようだ。

そのような絵が描かれている状況をゆっくり見ている時間はない。講演会が始まったのだ。

視聴覚室の客席は180人も収容できる。ざっと数えてみれば100人を大幅に越えていた。

これまで開催された講演会のなかでも過去最高だと主催者は話す。

冒頭に日本六十余州を記した『人国記』の「大和国」を挙げて、「大和国之風俗表郡は人之気大形(おおかた)名刹を好むもの多ふし。奥郡之者は隠る気有之、蓋し此国之人は大体山城之国人に風俗似たる処多し。昔日王城之地と成が故に其風俗漸く似たる処多しといへども、山城之国より人之気少し、尖(するど)成所有。雖然表郡者名刹にかゝわる人多く而常に詞に偽を巧みにして、上分は巧みすくなふ而名を挙んことを願ひ、下劣は於言句之下而偽を述て両舌を吐く風俗也。若是国之人を味方に従はしむるには讒者を以て人之気を可分名刹無き則は速に分つ。亦奥郡之人は隠るゝ気質自然と生れつきたり。是は山深く而常に人倫に交道理を談ふる人も寡ければ、自を如斯に而道理を不知風俗也。」、「自然に実を振舞ふ人は猶以て隠遁之気発し、世を無き物となす。形儀をのみ見聞が故に如斯之風儀多し。されば古より芳野山奥は人の気五畿内之人に勝れて、いさぎよき也。雖然物之形儀を不知が故に智あつて道理に従ひ、謹とはなけれども邪僻之為に驕を禁ずるもの也。故に自を愚成人多し。若是を取をば、其威を仰て気を悦ばしめて、我が国を全ふ而国人を不労而自を愚を行はせよ、さある時は陰却而陽に変じ、驕奢之気出るものなり。都而名刹名聞につながれて気質に勝ちたると可知也。千万人に一人二人は国風を忘れたる人もあり」の口伝全文より一部引用されて紹介されて奈良県民性や県内における変容、民俗文化圏による異相を話される。

奈良大和の国は『人国記』ですべてを物語るわけではなく、地域的に分けた文化圏によって大きく異なる。

平坦はクンナカ(国中)。東山間の東山中に対して西山中に吉野川南の奥吉野などだ。

三郷町がある西山中は生駒山地・矢田山地・西ノ京丘陵地に生駒川・平群川・龍田川・生駒谷・平群谷・富雄谷地域。

ケンカ相手になったヘイタンのことを「ヒロミ」とも呼んでいた人もいるそうだ。

三郷町に勢野、立野と呼ぶ「野」がある。

今では一般的に呼ぶ「野原」があるが、「野」と「原」は異なる地である。

「原」は広々とした草原地に対して、「野」は低木が繁った里の地。

「山」、「岡」、「谷」、「沢」、「野」、「原」の語を下にもつ地名は大体にして開発以前からあった。

「野」と呼ぶ地は山の裾野や緩斜地を意味していたのである。

現在の三郷町は「野」を開発された都市化の様相である。

大和の伝統民俗行事に「ノガミ(野神或いは農神)」がある。

「ノガミ」は人が暮らし生活する以前からあった。

「ノ」の「カミサン」が居た地に住みついた「ヒト」が「ノガミ」を祭ったと思っていると云う。

三郷町には三カ大字それぞれに神社がある。

勢野には薬隆寺八幡神社の他に秋留八幡神社、春日神社が、立野には龍田大社、神南備神社、琴平神社、瘡神社、坂上天神社がある。

南畑には盞嗚尊神社、大山祇神社がある。勢野の春日神社は姫大神命を祀る。

奈良市の春日大社の本殿は4神を祀る。

2神の藤原氏の守護神に祖神と天児屋根命(あめのこやね)のみことの妻である比売命を祀ったと思われる勢野の春日神社の祭神である。

春日大社に比売命の子神を祀ったとされる若宮神社がある。

12月に行われる「春日おん祭」は若宮さんの祭りは崇める大和武士によって始められたとされる。

伊古麻都比古神・伊古麻都比売神を祀る生駒の往馬大社。

男神・女神を祀る神社は各地にある。

それらは原初的な産土大神。

もしかとすれば、であるが、若宮さんも元々鎮座する産土大神であったかも知れないと話す鹿谷氏が奈良市狭川で聞いた二つの面を紹介する。

拝見することはできなかった男の面と女の面に両面を合わせて藁で括っていたそうだ。

さて、今年の春に創建500年祭が行われた薬隆寺八幡神社には宮座があった。

祭祀を勤めていたのは十人衆で東の宮座と呼んでいた。

北垣内の東南の美松に八幡堂跡がある。

かつて八幡神社がそこにあったと伝わる地である。

そこから見れば西に秋留八幡神社がある。

現在地から見れば北側である。

東の宮座と呼ばれるのは西にある秋留八幡神社に対する座の呼び名であったと思われる。

薬隆寺八幡神社と呼ばれる神社には寺は存在しないが、慶応三年に奉納された絵馬図に描かれている。

今では絵馬殿と呼ばれているが、おそらく座小屋。

その右手に描かれていたお堂が薬隆寺ではないかと推定される。

廃仏毀釈のおりに廃寺となった薬隆寺本尊の薬師如来坐像は勢谷寺(せいこくじ)に遷されて客佛・安置されたそうだ。

寺はなくとも三月三日に絵馬殿で「三日オコナイ」と呼ぶ行事を十人衆によって行われている。

平成10年までは十人衆の家で行われていた行事である。

一老・二老・三老が手分けして保管されている佛画の掛軸を絵馬堂に掲げて法会に般若心経を唱えていると話す。

県内各地で行われている村行事に「オコナイ」がある。

正月初めに村の安全や五穀豊穣を祈念する寺行事である。

野迫川村で行われている弓手原・北今西で取材された映像で解説される。

3月3日に行われる地域に大和郡山市小林町の「オコナイ」も紹介された。

小林町では「神名帳」の詠みあげや「ランジョー」の作法はあるが、勢野には見られない。

十人衆が勤める薬隆寺八幡神社行事は「三日オコナイ」の他に9月12日の「前宵宮」や10月24日の「イトナミ」がある。

「前宵宮」は10月の秋祭りとは別にある行事で、「宵宮」の名がついているが一日限りの行事である。

おそらく田原本町・大和郡山市・天理市などで行われている「ムカシヨミヤ」と推定される。

「イトナミ」は十人衆の行事であるが、翌日の25日は氏子のマツリである。

それより前週には30年前から始まった赤・白・赤の布団太鼓を曳く村行事のダンジリ祭りもある。

ダンジリに紹介された龍田大社の太鼓台、斑鳩の布団太鼓台に県内各地の山車(だんじり)。鹿谷氏は山車を「ダシ」と呼んでいた。

秋留八幡神社の宮座行事に1月16日に行われる「鬼打ち式」がある。神饌や鬼の御供に矢を射る行事である。

宮座行事の紹介に柳生や狭川の在り方を詳しく解説されたが、この当稿では省かせていただく。

その他にも生駒・往馬大社の宮座や生駒・高山の宮座もスライドショーを展開して紹介された。

三郷町の宮座は立野や南畑もあるが、南畑は平成13年までで以降は自治会行事に移ったと聞いている。

なぜにカミを祀ってマツリをするのか。

土地に住む人々が伝承する土地の文化を育んできた。

県内各地のそれぞれの地域ごとにある民俗文化が人間形成を育ててきた。

急いで開発された「野」の地。開発の波は落ちついてきた旧村の町。

旧村住民、新住民交えて共存共栄をはりながら地域の文化を継ぐ、或いは改良される際に少しでも参考にしていただくことを願い講演を終えた。

終わって再び、鹿谷氏や坂本さん、神社役員らと拝見する「御祭礼の図」には「覗きからくり」も描かれてあった。

むかし懐かしい「覗きからくり」。30歳まで住んでいた大阪の住吉さんの祭りを思い出した。

そこには各種の演芸場があった。

怖いもの見たさに小さな窓から覗いた「からくり」はろくろ首だった。

「覗きからくり」の下には三味線を奏でる女性も居る。

その左手で棒のようなものを振る男性もいる。

法螺貝を口にあて「でれえーん、れーえん、れーえん」と唱え、右手に持った錫杖を押し出すように振り鳴らす姿は祭文語りである。

平成20年3月16日に取材した奈良市日笠町の今井堂天満神社で奉納された「田原の祭文語り」を思い出した。

昭和3年の昭和天皇大典慶祝の際、慶応三年に踊りを経験していた古老から習って復活したものの再び中断。

昭和58年に保存会が結成され、記憶をもとに復元されて現在に至っている伝統芸能である。

もしかとすればだが、「御祭礼の図」に描かれた祭文語りは田原の里でも行われていたものと同じではないだろうかと思ったのである。

「御祭礼の図」にあった献饌。

神饌を手渡しで献じているのは裃姿の十人衆だ。

衣装は残されていないと話す神社役員は復活してみたいという声があがった。

(H26.11. 9 SB932SH撮影)
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三つの「野」講演会in大淀町文化会館

2014年12月24日 07時21分54秒 | 民俗を聴く
大淀町文化会館小ホールで講演があった。

平成26年度事業の「あらかし土曜講座-世界遺産・吉野の自然と文化-」である。

これまで「吉野に残る“海”の伝承」、「吉野-その自然と人-」、「源流から里・街へ」であった。

所用と重なり出かけることはできなかったが、これは是非とも聴講したいと思って出かけた。

講師は大淀町教育委員会の松田度氏だ。

度々、お世話になっている学芸員が話すテーマは「三つの“野”-吉野・熊野・高野を深める-」である。

4話シリーズの土曜講座の〆である。

講演が始まるまでは、これまで講話されたレジメをいただいて拝読していた。

吉野歴史資料館館長の池田淳氏のレジメにある「潮淵の潮」。

大和特有のオナンジ参りの際に持ち帰る川中の小石拾い。

その場は妹山を背に鎮座する大名持神社下に流れる淵である。

「シオブチ」と呼ばれる深い淵から湧き出る水は「口に含めばピリッとしてサイダーのようだ」と古老が話す記事だ。

その味は津風呂川の流域にも存在するらしく同じように泡が湧きでていた。

津風呂は温泉がある地。泉質は炭酸食塩水。

その話しで思い出したのが下市町の新住(あたらすみ)。

オカリヤを立てられたN家の当主が話した件だ。

氏神さんの八幡神社は山の方角だ。

鎮座する宮山から流れる水は地下水となって吉野川に注ぐ。

水が昏々と湧きでる大自然の清水は「風呂の場」の名がある。

温めだからその名が付いたようだが、ぷくぷくと泡が浮いていた。

コーヒーに丁度いいまろやかな味だと話していた。

ピリッとした温泉で名高い有馬温泉。

その泉質を利用した有馬サイダーがある。

ピリッした味は潮のように感じた「シオブチ」に興味をもったとは言うまでもない。

三つの世界遺産に共通する“野”を取りあげて話す松田度氏の講演が始まった。

「世界を代表する聖地があるのは吉野山の金峯山寺である」と述べたのは管長だそうだ。

「吉野」と呼ぶのは「吉野山」であろうか。「熊野」は広々とした“野”。

高野山は広い盆地であるが「高野」はどこであるのか。

これらの疑問を解いていく。

“野”は「の」或いは「ぬ」。

「ぬ」は草深くさまざまな食物が生えている地。

クリやアワとか四季折々に草が生えているが、稲作には不向きな地である。

“野”は狩場でもある。

野を駆け巡る動物を狩る場は豊かさの象徴だと話す。

“野”はいつのまにか、“山”にすり替わって聖地になった・・・・。

“野”は一つに絞られる解答を求めることなく、意味を探っていく。

吉野山・奥駆道は世界遺産に指定された「吉野・大峯」。吉野山・大峯山信仰は平安時代からだ。

吉野町で最も古い木造を安置する世尊寺は飛鳥時代には存在していたと云う。

東塔跡がその時代を示すと云ってスライドに映し出す。

平安時代の貞観十六年(875)に京都醍醐寺を開創した聖宝が吉野山の基礎を作った。

金峯山寺の中興の祖でもある。

吉野山に鎮座する吉野水分神社も平安時代の創建。

その時代以前はさっぱり判っていないと云う。

飛鳥時代には吉野山でなく、吉野ノ宮離宮の地である宮滝であろう。

象山(さきやま)の南にそびえる山が吉野山だ。

大淀町の土田(つった)に縄文時代から弥生時代にかけて使われていたとされる土器類が発掘されている。

その後の平成14年の発掘で発見された竃がある堅穴住居や掘立柱建物、庭園などの遺構によって当時の郡役所であったことが判った。

かつて「吉野」と呼んでいたのは大淀町・吉野町の北岸の平野部。

吉野宮も吉野監(よしのげん)=(郡衙;ぐんが)が存在していた。

その地は「えー野原」から「良き野原」となり、「よしの」になったのではと話す。

「みよしのの象山・・」と万葉集に謡われた「みよしの」の地は飛鳥の宮を世話する人たちが住んでいたようだ。

「熊野」の話題提供は熊野の地に所縁のある和歌山の加太(かだ)の浦から始まる。

熊野の岬から常世に渡ったとされる少名彦命。

和歌山沿岸地に熊野の神を祭る白浜。

円月島がある地だ。

奇岩が多い景勝地は三重県尾鷲や盾ケ崎まで延々と続く。

三重県熊野市有馬町に花窟(はなのいわや)がある。

神庫神社のご神体は大きな岩のゴトビキ岩。

蛙がのそっとやってきて綱を掛けられた様相からその名がついたと云う。

「熊野」の“野”はどこであるのか。

古い史料に「クマノオオカミ」の名がある。

熊野本宮大社の祭神は「スサノオノミコト」。

神話によれば「クマノオオカミ」が「スサノオノミコト」になったそうだ。

「スサノオ」は渡来系の神さん。

神話が記すに降りたった地は「クマナリノミネ」。

いつしか「クマナリノミネ」は遷座されて出雲の国に移った。

その「クマナリ」を何度も呼ぶうちに「クマノ」になったと話す。

熊野は常世の海であり、海人たちの伝承がある。

「アマノ」と呼ぶ海人は「クマノ」に伝えた。クマノノクニツクリ(熊野国造)は奈良時代。和歌山南部に作った地が「クマノ」。

「熊野国」の成立であると話す。


世界遺産の一つに「高野山がある。

丹生・高野明神とともに栄えた真言宗のメッカ。

高野山の地の一角にある丹生都比売神社。

空海が高野山内に寺を開く都度、許可を得た神社である。

本家は和歌山かつらぎ町天野の丹生都比売神社。

分霊を何度も勧請して高野山に遷したそうだ。

かつらぎ町天野(あまの)の天野は広々とした“野”である。

三谷薬師堂の女神神像が最近発見された。女神の神像は丹生都比売神像であると云われている鎌倉時代の作。

神像は吉野川から流れ着いて高野山に行ったと云う。

「ニウ(フツヒメ)伝承がある。

「天野」の地はどこから・・・である。

仮説を話す松田講師。

それは有馬野(あまの)では・・と云う。

有間の皇子は天智天皇の皇位争いの策略に巻きこまれて和歌山海南市の藤代(ふじしろ)坂で処刑されたという説がある。

白浜温泉を「牟婁の湯」と呼んでいる和歌山の景勝地。

藤代より170kmを三日間で往復したと史料にあるらしい。

かつらぎ町天野に鎮座する丹生都比売神社は「菅川(つつがわ)の藤代峯」と推定されるそうだ。

鎮魂の地に祀った「スサノオノミコト」は高野山に連れていった。

神聖な地は「神山」。「神の峯」は「高野の峯」になったであろうと話す。

「太政官符案併遺告」より高野山の四至(しいし)を続けて話す。

四至とは東西南北の境界を示す語。

天平十二年‘740」の籍文によれば、東は丹生の川上で、南は有田川の南の長峯。西が星川の神勾(かみまがり)の谷で、北は吉野川に囲まれた地であるそうだ。

1時間半に亘って講義をされた松田節。

知ることが多く、興味深く拝聴させてもらった。

「野」のテーマを詰めるにさまざまな地を訪ねてこられた。

教わること多しの三つの「野」。

それぞれの「・・野」の文字(漢字)が初出される文献にはどんなものがあるのか。

「高野」は「こうの」でなくて、何故に「こうや」と呼ぶのか。

「聖地」と呼ばれるようになったのはいつかなど、謎は深まるばかりだ。

松田氏は「クマナリ」の語源を用いて論を展開されたが、「クマソ」はどうなのか。

また、紀伊半島を海から眺めた場合はどうであるのか、10年後に纏められると云う10年後を「待つ」ことはできない年齢に達する。

奈良県内旧村名に「・・野」のつく村がいくつかある。

「春日野」、「桃香野」、「大野」、「的野」、「北野」、「井戸野」、「鹿野園」、「深野」、「都介野」、「御経野」、「青野」、「萱野」、「勢野」、「立野」、「巻野内」、「猪木野」、「長野」、「上芳野」、「下芳野」、「平野」、「冬野」、「五条野」、「樋野」、「磯野」、「染野」、「宇野」、「上野」、「表野」、「久留野」、「西久留野」、「島野」、「牧野」、「上野地」、「内野」、「新野」、「塩野」、「栗野」、「御吉野」、「南芳野」、「殿野」、「滝野」、「老野」、「神野」、「宗川野」、「西野」、「入野」、「南大野」・・・・がある。

三つの「野」の考えた方と一致するのか、それとも物理的・地域的な違いはどこにあるのか。

現地調査に何年かかるやら・・と思った。

帰路について地元に戻ってきた。

大和中央道に咲いていた野の花を撮っておいた。



大和郡山市にある地名で“野”がつく旧村は井戸野がただ一つ。

松田氏が話したキーで答えを探るが見えてこない。

(H26. 6.14 記)
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国際博物館の日in県立民俗博物館特別講演

2014年12月09日 09時03分13秒 | 民俗を聴く
国際博物館会議が1977年に制定した記念日は「国際博物館の日」。

毎年5月18日に年ごとに決められた世界共通のテーマでさまざまな企画が行われる。

今年は日曜日。

奈良県立民俗博物館では帝塚山大学名誉教授の赤田光男氏(九州宗像出身)が記念に「奈良の民俗」を講話される。

聴講料は無料だが、入館料は要る。

案内チラシに載っていた写真のなかには、山村、六斎念仏に紅白の御幣を持つ祭礼があった。

写真ではどこの行事であるのか判らなかった。

それを知りたくて聴講した。

矢田山で自然観察会を終えて直行した奈良県立民俗博物館。

講師の紹介をされていた講義室。席はほぼ満杯だ。

見渡せば若い人たちが半数を占めている。

どうやら帝塚山大学の学生だ。

日本全国の民俗を調査された講師が奈良の民俗の本質に迫るという講議は、「江戸中期の村の数はいくつあったのか」から始まった。

幕藩制を敷いていた江戸時代の国々は270国。

江戸時代の調査史料によれば、全国津々浦々、村の数は10万村もあったそうだ。

村落の文化はそれぞれ。いわば10万種の民俗があった。

それを言ったのは柳田国男。

奈良県は1406村であった。

隣村間の共通文化はあるものの、個性をもつ村落民俗で成り立っていた。

奈良の村ではそれぞれ区割りがあり、「垣内(かいと)」或いは「組(くみ)」と呼ぶ地域が多い。

その単位は村落分けの共同体組織でもある。

共通の民俗文化は地理的条件によって大きく異なる。

吉野川を境に文化が違っていた。

立地条件は南の奥吉野山地に東の大和高原。

最近はそう呼ぶようになったが東山中である。

「山」と「処」で成り立っているから「やまと」と呼ぶようになったを話す。

稲作ため池が多いのは国中(くんなか)と呼ばれていた盆地平坦部。

東日本は同族親族だが、西日本は地縁親族。

仏教王国の大和を山添村峰寺の墓制事例を紹介し解説される。

峰寺は北に9戸の植村組、中央・六所神社が鎮座する峯寺組は9戸に西の8戸の押谷組の三つの垣内がある。

その六所神社には会所がある。

村の決めごとを議論する場はかつてお寺。

安置する薬師さんが見ている場で案件を決めるのだと云う。

六所神社の祭礼は峰寺・松尾・的野の三カ大字が廻りで行われる。

昨年は大字の的野、一昨年は峰寺で、その前年は松尾であった。

大字の在り方に特徴が見られるため、私は三カ年に亘って継続的にマツリを調査してきた。

ジンパイを奉納するガクニンは、会所とも呼ぶ参籠所に上がって神社総代に挨拶を述べる。

参籠所は長屋とも呼ぶが、薬師さんは見られない。

氏が述べる会所はおそらく境内に建つ建物であると思われるが、ガクニンらは立ち入ることはない。

さて、峰寺には共同墓地と5カ所に点在する石塔墓がある。

組ごとの石塔墓であるが、地縁血縁によって分かれるのであろう。

さらに墓地には区分けがある。

墓地入口は若年層で奥は年寄り。

中間は右に男性、左に女性となっているそうだ。

共同墓地の在り方も含めて「両墓制」をもつのは大和の特徴であると話す。

ちなみに峰寺には本家・分家で組織されるキタムラ一統があるそうだ。

それもまた、大和の特徴である「与力」組織。

また、伊勢講、愛宕講、庚申講、二十三夜講などの講組織もあると云う。

中世、平城・城下町が形成された時代の民家は4間。

それ以前は2間であった。

元禄時代、木材の必要性から林業が盛んになった。

当時の吉野の山林は村の共有林であった。

村とは関係のない資本力をもった商人が木材を買い出すようになった。

下市・上市・五條や国中の金持ちが買い占めた木材。

立木所有林経営は商人で村の人が山守となって城造り・家造りの木材を供給してきたと前置きされるお話しは始まってから50分も経過していた。

レジメには「福マル呼び・狐の施行・トンド・鬼の宿・岳ノボリ・客仏」などの年中行事もあれば、「仏教寺院分布・念仏信仰・両墓制」の先祖信仰に「雨乞・野神」の精霊信仰もあった。

講演時間は足るのだろうか。

そんな心配をついしてしまうこの日の講話は氏が長年に亘って調査された民俗学に関してだ。

神道・仏教ではない村の民俗は「神」を「カミ」、「仏」は「ホトケ」と書くと話す。

カタカナで表現するのは、神道でなく村の「カミ」で、「ホトケ」は村の先祖のこととする考え方だと云う。

村の共同体で行われる「カミ」や「ホトケ」が村を支えると話されて「福マル呼び」に繋げられた。

<フクマル呼び>
配られた資料の「福マル呼び」の写真は山添村の切幡(きりはた)。

奈良の民俗を調査されてきた保仙純剛氏が纏められた『日本の民俗―奈良―』に掲載された写真であると話す。

刊行は昭和47年11月。今から42年前よりも前の様相である。

私が高校を卒業した数年後、社会人で動き始めた二十歳代のころである。

先人が記録した写真の様相に感動するのである。

切幡は昨年の大晦日にある家のフクマル迎えを取材した。

40年前はどこともしていたらしいが、現在はぐっと少なくなっているそうだ。

大晦日の夕刻に行われるフクマル呼び。

家を出た辻に出かけて「フクマル コイ コイ」と三回唱えて我が家に「フクマル」を呼びこむ。

県立民俗博物館より提供された大和郡山市伊豆七条町の映像を映し出す。

大晦日には「ホトケ」である先祖がやってくる。

正月にも先祖さんがくると信じられていた。

「ミタマ(御霊)のメシ」と称してご飯などを縁側や竃に供える風習があるのは東北地方。

「ミタマのメシ」とか、「ミタマのダンゴ」である。

大和ではなぜか「フクマル」と呼んでいる。

室町時代に「フクジン(福神)」信仰が流行ったそうだ。

火を焚いて先祖さんを迎えた。

それは「フクジン」信仰と重なっていく変化があったと云う。

「フクマルコッコー」と呼ぶのは「フクジン」を迎える在り方。

山添村北野では玄関口で、箒で掃いて扉をピシャッと閉める。

フクマルを迎えた火は神棚や「イタダキ」に供える。

文明十年(1478)から元和四年(1618)にかけて記された興福寺『多門院日記』に書かれてあった正月の餅飾り。

膳の配置が図式化されていた。

飾りの品々にムキクリ(5個)、アカキモチ、トコロ、イリコメ、キクキリ、ホタワラ、クシガキ、カンジ(1個)、ユカウ(1個)、タチハナ(3個)、モチカス(五個)、アカキマヲ(6個)がある。

ムキクリは剥き栗と判るが、アカキモチは赤色のモチであろうか。

トコロは根が髭のように見える長寿の印しのトコロ芋、イリコメは煎った米だ。

ホタワラはホンダワラ。

雑穀町旧家の三宝飾りで拝見した稲藁で作ったタワラ(俵)のことであろうか。

クシガキは室生下笠間で拝見したいつもニコニコ、仲睦まじくの語呂合わせの10個の串ガキと同じと思われる。

カンジはキンコウジとも呼ばれるコウジミカン。

ユカウはユズであろう。

タチハナは橘の実。

キクキリ、モチカスはなんであろうか。

アカキマヲは括弧書きにアカキメカとある。これも判らない。

図には「次ニ大圓鏡イタタク」とある図絵は三方に乗せたイタダキの膳。

ホタワラ(5個)、合米一合、タチ花(五個)である。

正月早々に毘沙門天や弁財天に祈祷する。

これも「フクジン(福神)」であると云う。

「毘沙門 カネくれ」と呼ぶのは縁起担ぎ。

招福信仰の本質は先祖迎えであると話す。

<東安堵の施行>
かつて調査された安堵町東安堵の古老が話した狐の施行。

施行と書いて「センギョウ」と呼ぶ。

寒中に野辺の狐に施しをする。

アブラアゲやアズキメシを野らに出かけて施した。

神社や寺辺りの5カ所にも施した。

集団でなく、個人個人が出かけて施した「ノマキ」と呼ぶ風習だそうだ。

古い農業神はキツネとされてきた。

豊作神はやがて稲荷神へと移った。

大和では屋敷信仰がほとんど見られないと云う。

<茅原のトンド>
正月14日、15日は各地でトンドが行われる。

県立民俗博物館より提供された大和郡山市城町(じょうちょう)のトンド写真を映し出した。

子供たちが竹に挿したモチをトンドの残り火で焼いている写真だ。

城町のトンドは主水山がある。

我が家から歩いて数分のところだ。

映像を見る限り当地ではないと判った。

講演後に聞いた話では城町でも西側。

つまり西城(にしんじょ)である。

かれこれ40年以上も前は1月31日に行われていた。

いつしか小正月の1月15日に移った。

その後、成人の日がハッピマンデー施行によって近い日曜日になった。

現在では実施日の決定は正月明け新年会一週間後の日曜である。

西城も同じ日である。

このことは主水山住民から聞いている。

新暦の小正月にトンドが行われる地域は多くあるが、地域によっては2度目の正月と称して1月31日、或いは2月1日や2日もある。

氏はそのことには触れなかった。

1月14日に行われる御所市茅原(ちはら)の吉祥草寺では大きなトンドが燃やされる。

雌雄の大トンドや太い化粧回しの綱を作る作業を撮った写真で紹介される。

トンドの場は吉祥草寺。かつては真言宗派であった。

トンドの火点けは玉出住民が行う。

寺で迎える茅原住民と合流する。

寺に入堂されて般若心経を唱える。

そしてトンドの火点け。

玉出住民はオヒカリから移した長い松明でトンドに移す。

かつては修正会の行事であったようで、結願にトンドを燃やす。

今では茅原・玉出両地区で行われる村行事。

おおげさであるが、1月15日は小正月。

この日は旧暦。

ほんとの正月迎えであり、先祖迎えであると強調される。

満月の日が良いとされる先祖迎え。

大和では大晦日とトンドの日の両方がある。

<鬼の宿>
天川村に天河弁財天社がある。

弁財天は水の神さんでもある。

「フクの神」でもある前鬼を祭る家が3軒ある。

柿坂家は村長を勤めた家で、分家におばあさんが住んでいた。

若い分家は神主家。

天河社の社家である。

2月3日は節分。

京丹後地方では祓い追われた鬼を迎える「鬼の宿」がある。

「鬼の宿」は大和にもあるのかと調べてみたらあったと云う。

天河の前鬼末裔の家で行われる節分前夜。

かつてはおばあさんの家であったが、現在は神主家。

斎壇を祭り、二つの布団を敷いた写真を映し出す。

床の間の斎壇に向かって般若心経や祝詞を唱える。

前鬼の先祖を呼び起こすのは「先祖降ろし」だそうだ。

社家はこっそり井戸に行って、晒しを水に浸けて桶に貯める。

これを幾度も繰り返す。

貯めた水桶は縁側にそっと置く。

終わり直近に鬼が降りてきたと「ホォーーー」と声がでて、ピタリと終える神事。

直ちに布団をさっと敷く。

ひと晩寝ると云う布団は左が男で、右は女。

翌朝に去っていくという「鬼の宿」。

京丹後ではこのような作法もなく、「鬼の宿」と呼ばれているだけだそうだ。

山辺郡の人たちは薪を平城京に持ちこんでいた。

「春来る鬼」という記載があるらしい。

日本の古い観念は春来るフクジン(福神)な「カミ」である。

仏教が与えた影響が「フクマル」、「トンド」、「オニ」に。それは当たっていると思うと話す。

<ダケノボリ>
旧暦、山に登って楽しんで下りてくる。

春の農耕始めにダケノボリをしていた。

二上山のダケノボリが有名だ。

里山に登って山の神と共食する。

下りた山の神は農の神になる。

古いのがよく残っている大和のであると云う。

<キャクボトケ(客仏)>
山辺郡によくあるキャクボトケ。

お客さんがホトケ。

我が家に不幸ごとが起これば、縁側にショウロウダナを作る。

先祖さんは縁側に祭る。

ニワにはガキダナを置く。

それはムエンサン。

山辺郡ではそこにもうひとつつく。

我が家から出ていった人。

当主からみれば叔父や叔母である。

その人らが先に亡くなれば、霊魂が故郷の家に戻ってくる。

それがキャクボトケ。

兄弟姉妹は実家に戻ってくるのだ。

嫁さんの両親・兄弟姉妹も嫁ぎ先の山辺郡の家で霊魂を祭る。

真言宗派が広めた仏教の教えであると思っていると話す。

ここまでの講話は1時間半。先を急がれる。

奈良県の仏教寺院の分布表を提示された。

1796寺のうち、断トツなのは浄土真宗。

609寺もある。

2番目は338寺の浄土宗。

3番目は297寺の真言宗。

4番目は208寺の融通念仏宗である。

以下、曹洞宗、日蓮宗、法相宗、華厳宗、真言律宗・・・である。

庶民民俗が多く見られるのは浄土宗、真言宗、融通念仏宗で、浄土真宗には民俗行事はまずないと話す。

念仏信仰のひとつに十三仏がある。

死んだつもり修行する生前修行は逆修。

そうすることで阿弥陀さんの世界にいけると信じられた。

念仏風流・辻念仏の例示は「古市氏」。

お盆になれば念仏風流していたのは応仁時代。

念仏講碑の金石文が多くある大和の国。

他の地域では確認できないくらいに少ないらしい。

大和の特徴だそうだ。

講演時間は2時間を越えた。

雨乞は飛ばされて野神を話す。

稲作始めにジャマキをする大和の野神行事。

水の神は日照りに水を潤す「カミ」。

田の神となって出現するが、滋賀県では豆の収穫時期。

子供の相撲の褒美に大量の豆をあげるそうだ。

(H26. 5.18 SB932SH撮影)
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第25回天理考古学・民俗学談話会聴講

2014年11月20日 08時19分43秒 | 民俗を聴く
始まってから25回目を迎えた天理大学天理考古学・民俗学談話会。

なんと今年で四半世紀にも亘る。

私は天理大学の卒業生でもないごくごく普通の一般人。

天理考古学・民俗学談話会を聴講するようになったのは平成24年からだ。

発表されるテーマによっては知りたいものがある。

そう思って今年もやってきた。

学生、一般人の受付は別個だ。名を記して500円の資料代を支払って、ふるさと会館こと天理大学9号棟に入る。

この日の午前1時。真夜中の棟内は人でいっぱいになったそうだ。

宇宙飛行士の若田光一さんが船長を務めている国際宇宙ステーションと米国NASAに天理大学雅楽部を結んだコラボ演奏があったという。

管楽器の笙(しょう)を奏でたのは若田さん。

NASAではバイオリン演奏で雅楽部学生が共演した。

ユニークな試みである。

長期間に亘って活動してきた若田光一さんは5月14日に、無事に地球へ帰還した。

それから数時間後に始まった第25回天理考古学・民俗学談話会の第一部は、題して<地域社会と文化遺産>。

1.伏見城と伏見桃山・名古屋大学大学院博士課程の西野浩二、2.水間八幡神社の祭祀組織・天理大学歴史文化学科事務助手の小野絢子(アヤコ)、3.関西における民芸運動の展開・大阪日本民芸館学芸員の小野絢子(ジュンコ)、4.東吉野村の「魚見石」―神武聖蹟と伝説の変化―・天理大学考古学・民俗学専攻の齋藤純氏らが発表する。

午前の部はここまでだ。第二部に<物質文化と技術>、第三部に<各地の遺跡調査>があったが、所用が入っており途中下車した。

私が知りたかったのは水間八幡神社の祭祀組織と東吉野村の「魚見石」だ。

水間八幡神社の祭祀は田楽を奉納する芸能行事がある。

マツリに出仕される当家・当人を決めるフリアゲ神事、宵宮に行われる当家の座に真夜中の田楽奉納、大祭の座・馬駆け・子供力士相撲である。

2月11日には名替えが行われると聞いているが未だ拝見できていない。

対象となる男児がいない場合は代理人となる名替えの儀はいわば元服。

村入りの認められる年齢に達した際に幼名から成人の名に替えるのである。

総代が立会する儀式より数時間前には年番の引き継ぎもある。

今では11日に移っているが、かつては1日であった。

その日は弓鏑的の式があったと大正四年調の神社調査書にそう書かれているが、「宮座」の文字は見られない。

水間の八幡神社の祭祀を務める組織は宮座だと推挙された発表者。

いつしか村座に移った変遷を卒業論文にしたためたそうだ。

県内各地には今尚宮座を継承している地域もある。

村座に移った地域も多々あるなかで、なぜに水間を選ばれたのか発表にはなかった。

宮座研究は奥が深い。

調査地をどこにするかで特定することは難しい。

一事が万事ですべてを明らかにすることはできないと思っている。

昭和4年に宮座調査書の質問にある「宮座」の名称に回答はなかった水間。

そりゃそうである。

私が知る地域でも「宮座」の呼称はなく、○○座とか□□座、或いは○○講とか□□講である。

ある地域では「宮座講」の名も見られる。

「宮座」の呼称で呼んでいたのは僅かで、「座」と呼ぶ地域もある。

これはいったいどういうことなのであるのか。

呼称の研究は多くの事例を調査しなければならない。

本質的には地区に残されている文書が一番だと思っている。

場合によっては神社に寄進した燈籠などに「座」或いは「講」の名がある。

そもそも江戸時代には「宮座」の呼称はあったのか、である。

地域によっては「座」は一つだけでなく、二つ、三つの場合もある。

もっと多くの事例を研究する余地がある発表。

若い人だから、水間だけでなく多くの地域に足を運んでほしいと思った。

天理大学歴史文化学科教授の齋藤純氏が報告された「東吉野村の「魚見石」―神武聖蹟と伝説の変化―」はとても興味深い。

「魚見石」は氏の談話で始めて知った。

東吉野村の小(おむら)にある「魚見石」の原像はどのような過程があって、そう呼ばれるようになったのか。

「小」の文字一つで「おむら」と呼ぶ訳も始めて知った。

もともとの「小」は「小村」であった。

「村」の字が取れて「小」の一文字になったが、呼び名がそのまま残ったのである。

それはともかく「小」にある「魚見石」の伝承に、「神武天皇が厳瓮(いつべ)を流して戦勝占いをした所だ」がある。

ところが日本書紀にはそのような記述がないのだ。

一方、「高僧の奇跡譚と似た内容を村の人が記憶にある」というのだ。

高僧はおそらく弘法大師。全国各地に弘法大師が発見したなにがしだという奇跡譚がある。

「魚見石」に掲げられている聖蹟碑は村の伝承であるには違いないが、日本書紀の事柄にはないのである。

いつの時点で事実に基づかない「魚見石」が伝説になったのかである。

日本書紀にあるのは、大和侵攻に際して天神の夢告があったということだ。

夢告は「天香山の埴土(はにつち)を以って平瓮(ひらが)、厳瓮(いつべ)を造って丹生の川に沈める」。

厳瓮とは酒瓶である。

思い出したのは、畝火山口神社の埴土取り神事だ。

大阪の住吉に鎮座する住吉大社で祭祀される際に用いられる「神酒壷」と呼ぶ祭器の願材料が「埴土」である。

祭器の原材料は、畝火山口神社の元社になる畝傍山山頂に存在する。

かつては耳成山にもあったことが知られている。

「埴土」は夜行性コフキコガネの糞であると橿原市史に書かれてあった。

樫の木の養分を集めて、土(のなかの精髄を)丸めて団粒にするコフキコガネの習性。

自然界から生まれたものを秘土とした埴土に驚きを隠せない。

日本書紀にある「埴土」は天香山であったのだ。

「埴土」で造った土器を川に沈めて、その浮き沈みで祈い(うけい)をした。

その場は「誓(うけい)の淵」だ。

「土器を沈め、魚が酔って流れたならば、国を平定できるという祈い。

それを見た家臣の椎根津彦は神武天皇に報告したところ、大いに喜んで丹生の川上に諸神を祭った」ということである。

齋藤純氏は続けて話す。

「魚見石」の異伝に「焼魚蘇生譚」がある。

それと同じ類型譚は各地に見られる。

宗派拡大をもくろむ宗教伝播者がいた。

それが各地に広がった「焼魚蘇生譚」。

魚を捕る村の人から料理した魚を提供される。

宗教伝播者は、自己のものとして川に入れる。

すると魚が蘇生して川に棲むことになる。

氏曰く、これをきっかけに在来の村人と訪れた宗教伝播者による教化によって宗教的関係が結ばれる、というのだ。

「小」では「村人から提供されたアマゴは片身を焼いたまま、堰に入れた。するとアマゴは蘇生して堰より俎上する様を村人とともに見た」というのだ。

その場をカンジョウノフチ(勧請の淵)と呼び、宗教伝播者(推定弘法大師)は神仏を勧請し祈願を行ったと記す。

古老が記憶にあった「焼魚蘇生譚」は「魚見石」に改変された。

その際に神武天皇の祈いを加えたのであろう。

伝説はいくつかの要件が合わさった作り話の物語(譚)なのである。

言い伝えはともかく伝説は古譚。

なにがしかの要素が変化を加えて伝わってきた。

事実関係は史料にある。

それを深く考察することが大切だとあらためて認識した講演であった。

ちなみに氏が一覧表にされた弘法大師が由来する「焼魚蘇生譚」の地域は次のとおりだ。

奈良県内では東吉野村小の他、旧都祁村の上深川、旧室生村三本松・同村平原、十津川村出谷・小壁がある。吉野町国栖の由来は弘法大師でなく、天武天皇になる。

和歌山県では高野山内玉川も弘法大師。

大阪府は行基が関係する堺市家原寺だ。

兵庫県伊丹市昆陽池も行基である。

(H26. 5. 3 SB932SH撮影)
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