マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

柳本町・庚申さんの正月御供

2017年10月03日 09時59分13秒 | 天理市へ
天理市遠田町の南を抜ける街道筋がある。

少し足を伸ばしてみようと東に向けて走る。

集落に入ったとこらへんだ。

そこに建っていた庚申さんに正月のお供えがあった。

その地はどこであろうか。

カーナビゲーションによれば天理市の柳本町の南の端になるようだ。

瓦屋根の立派な造りの祠に奉られた「庚申」石。



正月らしく祠を支える両柱に松、竹、梅に南天を添えた奉書包を紅白の水引で括っていた門松。

祠中央に、これもまた立派な手造りの注連縄を吊るしている。

金銀・朱色の扇を挿して飾り付けもあれば、ウロジロ、ダイダイもある注連縄の簾も美しい。

花立てにも松、竹、梅にイロバナ。

庚申さんにこれほどまで正月を飾っているのは拝見したことがない。

信仰心が篤いと思える丁寧な奉り方に感動する。



花立ての傍には小型パックの二段餅もあれば、紅白水引で括った鏡餅もある。

これもまた、信仰する村の人が供えたのであろう。

左にある石仏はおそらく地蔵さん。

それには松、竹、梅にイロバナ立てだけであるが、庚申さんと見比べたらえらい違いである。

庚申さんの右隣の石塔は「□□十四丁正年八月吉日」の刻印がある太神宮塔。



年号が判読できなかったので判読できた「十四丁」を以って調べてみた。

「十四」は和暦の14年で、その年の干支は「丁」。

それをキーにして調べた結果は、文化十四年(1817)丁丑、若しくは寛永十四年(1637)の丁丑である。

伊勢のおかげ参りが熱狂的になった代表的な年代は、慶安三年(1650)、宝永二年(1705)、明和八年(1771)に文政十三年(1830)。

文化、文政年間に建てられた太神宮塔(大神宮塔の場合もある)は県内各地に多く見られる。

寛永十四年は当て嵌めるには無理があると考えて、柳本町の太神宮塔が建てられた年は「文化十四丁丑年八月吉日」とするのが妥当であろう。

その石塔にもダイダイ付きの注連縄があるが、括るところがなくて火袋に納めていた。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)
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遠田町も唐古もゾウガイが消えた

2017年10月02日 08時46分51秒 | 天理市へ
天理市の檜垣町の正月の様相を拝見して帰路の道中に各地の正月状況を調べてみる。

まずは同市内の遠田町(とおだちょう)。

当地の正月飾りは平成26年の1月1日に訪れたことがある。

3年の空白はあるが、もしかとして・・が過った。

その勘はピタリと当たった。

心の中は当てってもほしくない正月の在り方は大きく変容していた。

遠田町には地区中央に春日神社がある。

そのすぐ傍に公民館が建つ。

左横は観音堂である。

神社にお堂ともその場には簾型の注連縄をかけていた。

注連縄は二本の笹に結わえている。

葉付きの笹竹が二本。

両側に葉があるから互い違いに組んでいたことがわかる。

その注連縄を「ゾウガイ」」と呼んでいたのは田原本町蔵堂にお住まいの守屋宮司である。

「ゾウガイ」注連縄はマエトーヤが製作して飾りつけすると聞いていた。

そのゾウガイを拝見する前に先に見てきたかった子守神社の正月飾り。

前回の平成26年は訪れていなかったから先に見ておきたいと思って歩いた。

そこにあった注連縄は本殿に架けていたが、一般的な形式であった。

ところが、だ。



妙なものがある。

本社殿に向けて倒すような恰好で葉付きの竹がある。

それも左右2本ともである。

倒したというか、まるで寝かせるような形式である。

これが形なのか、尋ねる人も居なくてさっぱりわからない。

異様な形式ではあるが、埋め込んだ竹筒に松、竹、梅がある。

左右に立てた門松である。

なんとなく大幅に簡略化されたような気がする。

その本社殿には鏡餅が数台ある。

クシガキもある鏡餅は氏子さんが供えたものだろう。



その状況ではあるが正月参拝を済ませて春日神社に移動する。

あっと驚く変容ぶりである。

先ほど参拝した子守神社とまったく同じ形式になっていた。

どこにも「ゾウガイ」の注連縄は見られないが、門松はある。



すぐ傍の観音堂もまったく同じだった。

遠田町を離れて再び帰路の道中。

たしか田原本町の唐古の神明社も簾型の注連縄があったことを思い出す。

現状はどうしているのか、と思って集落道を行く。

平成24年の9月23日に訪れた神明社の拝殿に簾型の注連縄があったので、綺麗な形、色合いの注連縄を観ておこうと立ち寄ったらなかった。

ここもすることはなくなったことにショックを覚えて現状も撮ることは失念した。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)
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檜垣町三十八社の砂の道

2017年10月01日 20時27分23秒 | 天理市へ
知人のSさんがFBに挙げていた映像がある。

鳥居の向こう。参道沿いに沿って参っていけば拝殿に着く。

その景観を観てここはどこだかすぐにわかった。

平成25年の6月30日に訪れた天理市檜垣町の三十八社である。

街道を走っていたときである。

人影が見えたので神社行事が判ればと思って尋ねた覚えがある三十八社。

「三十八神社はたぶん檜垣町でしょう。早急に砂盛りの参道道を拝見したく・・。私が聞き取りした範囲では天理市・田原本町は消滅していたと思っていたので驚きです」とメールを送ったのは数日前の大晦日である。

Sさんがとらえた参道にある砂の道の映像が頭に焼き付いた。

自分の眼でも確かめておきたいと足を運んだ檜垣町。

間違いなくあった砂の道に感動する。

高さはどれぐらいだろうか。

計測はしなかったが正面から見れば三角山。

その高さを以って長く、長く伸ばした砂の道。

高さがここまでくれば「道」とは言い難い。

どちらかといえば砂盛りである。

参道に入る鳥居の両足に寄り添うような処に盛っていた砂盛り。

正月飾りの松に竹、梅の門松を立てていた。

それにはウロジロを添えて、金銀の水引で括った注連縄もあった。

頭を垂れて参道を行く。

真っすぐ行けば拝殿に着く。

そこには氏子さんが供えたと断定できそうな鏡餅が並んでいた。



向こうの本殿は三方盛りの鏡餅。

拝殿中央も三方盛り。

おそらくは宮守さんが供えたのであろう。

両側には各家が供えたと思われる丸盆盛りの鏡餅。

稀にクシガキもあれば折敷に盛ったものもある。

こうしてみれば壮観に見える。

このような形式で供える村は意外と多くない。

私が拝見した正月御供の鏡餅盛りがずらりと並べているのは数か所である。

檜垣町は本社殿の他、すべての末社にも鏡餅を供えていた。

本日は正月二日であるが参拝者が来られるかも、と思って待っていたが・・・。

どなたにも遭遇できないので鳥居から向こう側の集落を少し巡ってみる。

お年始参りに来ていた家族連れは村の人ではなさそうに思えたので声はかけずじまい。

ぐるりと周回していたら一人の男性が歩いておられたので声をかけてみた。

男性は70歳。

かつて宮守も務めた人だった。

トーヤもしたことがあるという男性の話しによればかつて大晦日の12月31日に砂の道造りをしていたという。

三十八社の神社名の呼び名は「さんじゅうはっしゃ」と呼んでいた。

相撲神社の末社になるというのも平成25年に訪れた際に聞いた宮守さんと同じである。

三十八社は水の神さん。

砂の道を跨ぐことなくお参りするときは砂を盛った線に沿って左側を歩く。

参拝後は右側を歩く。

車道と同じ左側通行であるから参拝者は重なり鉢合わせすることはあり得ない参拝ルールである。

トーヤは一年交替。

40年前に務めたことがあるという。

そのときの年齢は30歳。

若かったから先輩より教わることは聞くのもするのも初めてのことばかり。

お酒が飲めない体質だったから難儀したそうだ。

砂盛りは近くを流れる大和川にある砂を持ち帰って敷いていた。

何故にそういうことをするのか知らないが、大晦日の日暮れのころにしていたという。

ちなみにこの日も常夜燈に刻まれていた年号を調べることにした。

正面より見て右が「明治廿八乙末九月建之」。

左は「文化五季辰(1808)四月吉日」であった。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)
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カンマツリの民俗調査転じて正月風情を撮る

2017年09月24日 09時02分29秒 | 天理市へ
奈良県内の事例に正月の「カンマツリ」がある。

ただ、家の正月の在り方だけに目に触れる機会もまずない。

これまで私が取材した事例でもたったの3例。

一つは天理市福住町別所の民家。

二つ目も奈良市長谷町の民家である。

三つ目は宇陀市室生小原

これもまた民家の習俗である。

この3例はとてもよく似ている。

ほとんど形状が同じであるといっても過言でないくらいに似ている。

それは割り合い太目の一束の藁束である。

中央辺りで中折れ。

およそ90度に折る。

元の形状は注連縄である。

それを中折れして作る。

角度が戻らないように縄、或いはppロープなどで括って止めている。

長谷町や福住町別所の造りは中折れ部分を拡げている。

しかもその部分に四角くさいの目状に切ったモチと炊いたご飯を盛ったのは長谷町の事例。

福住町別所は長谷町と違ってコウジミカンにモチ。

クシガキも盛っていた。

長谷町の呼び名は「シメナワサン」であるが、福住町別所は「カンマツリ」。

両地域民家とも玄関を出たところに祭っている。

福住町別所ではこれを「外の神さんが来やはるので供えている」という。

一方、室生小原の民家は玄関でなく庭の門(かつては玄関口)であった。

注連縄を90度以上の角度をつけて折る。

そこにはしめ飾りと同じように葉付きのダイダイを括っていたそれは「注連縄の正月飾り」である。

それにはお供えという観点はない。

私が思うには何者かわからないが、外にも神さんがおられる。

その神さんにもお供えをさせてもらう。

それが「カンマツリ」と推定している。

「カンマツリ」は「寒まつり」でもなく「神まつり」が訛って「カンマツリ」に転化したものと大胆に推定した。

尤も「カンマツリ」の呼び名もなく、こうした注連縄を変形させた藁作りではないが、注連縄に飾るユズリハにご飯を供える習俗があった。

一つは大和郡山市小林町に住むHさんは「そこにおっぱんを供える」と云っていた。

「おっぱん」は「御飯」。

仏事にご飯盛りをする場合も「おっぱん」と呼ぶ地域・人は多い。

大和郡山市内には小林町と同じように、同市番条町の酒造りのお家は正月三が日の毎日に注連縄飾りのユズリハにご飯を盛っていたと聞いたことがある。

これらも外の神さんにお供えをするという慣習であろう。

それはともかく福住町別所、長谷町事例である藁作り(ワラズト)の注連縄に米御供をしている民家があるということだ。

平成6年11月に初芝文庫より発刊された『藁綱論―近江におけるジャノセレモニー―』がある。

著者は橋本鉄男氏だ。

氏が論ずる「藁」「綱」にはさまざまな民俗があると伝えている。

主なフィールドはサブテーマに挙げているように滋賀県近江。

「藁」で作る「ジャ」の民間信仰をとらえている書物に「ヤスノゴキ」関連民俗資料一覧がある。

「ヤスノゴキ」とは何ぞえ、である。

書物はこの日の民俗行事取材に同行してくれた写真家Kさんが手に入れたもの。

論考は私が存知しない滋賀県のあり方を事例に基づいて執筆されている。

一度に拝読するには時間の確保が要る。

そう思って診察の待ち時間にたっぷり時間をかけて読んだことがある。

「ヤスノゴキ」は「ヤスコギ」、「ヤスゴキ」とかの呼び名があるらしい。

そもそも「ヤス」とは・・・。

書物を読んだ限りであるが、「ヤス」は藁作りの細長い形状である。

魚捕りの道具に「モンドリ」というものがある。

形はなんとなくそれに似ているらしい。

豊中市のHPであるが、越前敦賀の民家施設の解説に「ヤスツボ」が登場する。

その解説によれば、「正月の雑煮やご馳走をヤスツボという藁の容器に入れて大黒柱に供える」とある。

続きが書いてあって「柱の信仰も後には床の間や神棚に移った」とある。

状況説明だけでもわかるように、供え方は異なるものの信仰の時期、あり方が同じである。

さて、「ヤスノゴキ」の一覧表である。

氏は日本全国の「ヤスノゴキ」を整理するために「歳神祭の祭具・用具に用いられる」と「・・以外に用いられる」ものとに区分された。

「ヤス」の名称は地域によってさまざまである。

用いられるものを県別に挙げれば、群馬県、千葉県、東京都(大島・三宅・南多摩)、神奈川県、長野県、静岡県、愛知県、富山県、石川県、岐阜県、福井県、滋賀県、奈良県、三重県、愛媛県、鹿児島県である。

以外に用いられるものの県は、青森県、岩手県、秋田県、山形県、福島県、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、静岡県、岐阜県、和歌山県、兵庫県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、鹿児島県である。

気になるのは奈良県のデータである。

地域は3カ所。

一つは十津川村であるが、在所は書いていない。

呼び名は「ツトゴキ」で形状は苞状である。

二つ目は天理市の豊田町。

呼び名は不詳だが、形状は苞状である。

三つ目が天理市福住町の井之井。

ここもまた呼び名は不詳だが、形状は苞状である。

これらを供えていた場所である。

十津川村は門松のモチクイとある。

豊田町も井之井も門松である。

供え物は十津川村がトビ(ご飯・雑煮・粥)で豊田町も井之井も雑煮である。

また、豊田町の事例備考では門松は庭に一本を立てるとある。

これら3件の出展文献は十津川村が『民間伝承・十二の二・十二』。

豊田町も井之は『日本民俗・奈良』とあった。

つまり、氏は実物を拝見しているわけでなく、書物より探し出したということだ。

出展本の調査日は不明であるが、井之井(正しくは井之市)は私が見聞きした「カンマツリ」をしていた福住町別所にとても近い。

距離にして3km程度である。

前置きが長くなってしまった。

さて、平成23年1月1日にされていたカンマツリの様相を撮らせてもらったN家である。

久しぶりに訪れる別所は申の日に行われる「申祭り」行事がある。

今では12月23日に固定されているが、以前は申の日であった。

初めて取材した日は平成21年12月23日だった。

翌年の平成22年12月23日も取材させていただいた。

この日のことである。

「デンボ」の呼び名がある注連縄を結っていた男性が話してくれたのが元日に家の玄関口に供える「カンマツリ」であった。

あれから7年も経っている。

今でもされているのか、どうか不安であった。

元日早々に訪れたが、「カンマツリ」の存在はなかった。

時間が早かったのか、それとも、もうすることはしなくなったのか、元日の朝だけに呼び鈴を押す気持ちは萎えて周辺の正月風景を拝見することにした。

坂道つたいに集落を巡ってみる。

玄関の注連縄は当然ながら存在を示していた。

市販の注連縄ではなく、しっかり作った手造りの注連縄にウラジロ、ユズリハにミカンがある。

注連縄は弓なりになるように両端を結った縄で括っていた。

隣家の注連縄も手造り。

同じようにウラジロ、ユズリハにミカンもあるが、ミカンの位置だけは違っていた。

全戸を見たわけでもないが、県内では減少の一方にある手造りの注連縄が嬉しい。



注連縄は玄関だけでなく農小屋にも飾っているが、ミカンはない。

もう一つの違いは七、五、三の房を垂らした簡便な造りである。

玄関は太くて立派な注連縄。

房もフサフサというか何本も垂らす簾型のようにも見える注連縄に比して簡便である。



農業に忙しく活躍する軽トラを納める駐車小屋にも同じ形式の注連縄がある。

思わず見惚れる情景にシャッターを押してしまう。



このお家にもあった七、五、三房の注連縄。

その小屋には編んだ藁紐にホシガキを吊るしていた。

同竿には干し藁も見られる。

しかも、だ。

お家のカドニワにはススキもあったから驚いてしまった。

ご挨拶はできなかったから、この場を借りて撮らせてもらったことを報告させていただく。

時間帯は朝の9時。

そろそろ来るかなと思っていたところにやってきた郵便屋さん。



元日に伝える年賀状配達姿に、これもまた身体が反応してシャッターを押していた。

泥かけ地蔵を解説した真新しい立札がある。

「明徳元年(1390)南北朝時代 向かって、右が来迎印の阿弥陀如来、左に錫杖と宝珠をもつ地蔵菩薩を刻む双石仏である。病気になったとき、その病箇所にあたる、石仏の躰の部分に泥を塗り、病平癒の祈願をする。治るとその泥を洗い落としお礼参りをする。このことから泥かけ地蔵と呼ばれる。また安産祈願で、男の子が欲しいときは、右側、女の子が欲しいときは左側の石仏にお願いをする」と書いてあった。



親しみを込めて泥かけ地蔵と呼ばれている双石仏の高さはおよそ1.5mの大型。下部に笠石をもつ形態どころか、南北朝時代の威容が残存しているケースにおいても稀で珍しい。

現代と違って医者も薬の調達もままならぬ時代に石の仏さんに願をかけるしかなかった。

別所の泥かけ地蔵の事例もあるように、何かに縋りつきたい願掛け。

眼病に効くなら、足に効くならと願いを込めて祈った。

その始まりがいつ、誰の手によってそうなったのか、どこにも真相を語るものはない。

胸を患えば胸元に、足の怪我なら傷む部位に泥を塗りつけた。

県平たん部に脂掛け地蔵なるものがある。

大阪であれば水かけ不動尊もある。

いずれも願掛けに重宝されてきたのだろう。

ここ別所の泥かけ地蔵は願が叶えば泥を拭い去る。

奇麗に洗い落としてお礼参りをする習わしがあったが、川西町の油掛け地蔵はそうすることもなかった。

水をかけてばかりの不動尊に苔が生える。

洗うことはなかったのである。

こうした在り方は地区それぞれさまざまな区々である。

正攻法の位置から泥かけ地蔵さんを撮らせてもらうが、なんとなく平凡に見えてしまう。

尤も、いろんな供え物があるから正月供えは見えない。

そうであれば大胆な角度をつけて御供を撮る。



ウラジロを敷いて二つ折り半紙を置く。

左右どちらも同じだと思うが、二段重ねのコモチに2個の串柿とミカンを重ねた。

その両横には芽付きのシキビもある。

丁寧な正月の祭り方に思わず手を合わせて「あけましておめでとうございます」と心の中で念じた。

後日に拝読した季刊誌がある。

奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」の記事である。

「里人の願いを一身に 泥だらけで仲良く並ぶ隠れ仏」のキャプションに誌面写真を飾っていたのが、この「泥かけ地蔵」だった。

そこより少し下った処にも石仏がある。

場は福住町の大字浄土の地。

氷室神社があるすぐ傍である。

どっしり構えた十王を刻んだ笠石仏である。

十王石仏は江戸時代中期の作らしいが、よくよく見れば十一体もある。

と、いうことは一番上の上段中央が阿弥陀仏で他十体が手に笏をもつ道服姿の十王であるということだ。

十王石仏には正月のお供えはなかったが、左横の祠の前に正月飾りがあった。



松に芽のついたシキビにウラジロを注連縄で括った飾り物。

別所の泥かけ地蔵のお供えとは異なるが信仰の篤い人が飾っていたのであろう。

ちなみにネット情報であるが、正月飾りをしてもらっていた石仏は二体。

右が文化十年(1817)建之の僧座像。

右手に五鈷杵をもつ。

左の一体は安政六年(1859)建之の如意輪観音座像である。

ここも手を合わせて現地を離れる。

次の行先は宇陀市室生の小原であるが、結論から云って正月に飾る門扉の半折り注連縄はなかった。

記憶にある家はどこへいったのか、すっかり頭の中から消えていた。

門扉のある家が見つからないのだ。

思い出せずにあっちへウロウロ。

坂道を上り下りしてこっちもウロウロ。

記憶にある門扉の家が見つからない。

たまたま玄関ドアを開けた人がいた。

その人に尋ねたお家のご主人。

身体を壊されて現在は病気療養中の身にあるという。

たしか年齢的にも私より若干上だと思うご主人に初めてお会いしたときは元気だった。

復帰はどうなるのかわからない療養の身にあるらしいから、もう見ることはないだろう。

尋ねた男性が云うには村でそういう注連縄をしているのはご主人だけだと話される。

辛いことだが致し方なく現地を離れた。

(H29. 1. 1 EOS40D撮影)


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楢町興願寺の十夜

2017年07月12日 09時23分22秒 | 天理市へ
その昔は十日間。今では一夜の法会に移った十夜。

収穫の喜びに仏さんにお米を供える。

今ではお金になった仏餉袋(ぶっしょうふくろ)に入れて本尊に供える。

かつては本堂で十夜に百万遍数珠繰りをしていた。

足腰の関係で座椅子を導入したときにやめたという本堂は天理市楢町の興願寺。

これまで寺行事を取材させてもらったことがある。

一つは平成26年5月8日に行われた薬師堂の薬師法会である。

もう一つは同薬師堂に供える民間信仰の冬至カボチャ御供だ。

供えた冬至カボチャが気にかかって訪れた同年の12月22日。

いずれも薬師堂の行事・信仰であるが、興願寺が関与している。

薬師法会は興願寺住職が法要を営まれるし、法会をする薬師堂にはカボチャそのものにカボチャを練り込んだモチ御供もあれば、薬師講を摂待する場は本堂。

そこで講中はカボチャモチを入れたすまし汁をよばれていた。

尤も楢町には楢神社がある。

神社行事は2月に行われる火舞神事や御田植祭に4月の春季大祭に訪れたこともあるから馴染みの人たちもおられる。

前置きが長くなってしまうので十夜に戻そう。

十夜につきもののふるまい料理がある。

これまで天理市南六条町の西福寺、大和郡山市額田部町の融通寺、同市白土町の浄福寺がある。

拝見はしていないが大和郡山市横田町の西興寺もふるまいがある。

これらはいずれもふるまい料理が小豆粥である。

白土町の浄福寺で行われたときは小豆粥の作り方を教わったことがある。

小豆粥の色をだすのにどれほど苦労があるのか。

あらためて知った日でもあった。

楢町興願寺の小豆粥はササゲ豆で作る。

料理人は興願寺住職の奥さん。

婦人たちの支援もあって作る小豆粥は一回、二回、茹でた汁を上のほうから落として空気に触れさす。

空気にさらすことによって酸化させる。

そうしないと良い色が出ないという。

まさに白土町で拝見した通りの作り方である。

ちなみにお供えもササゲ豆。

尤も豆そのものを供えるわけではなく料理した飯御供である。

ササゲ豆を入れて炊きあげたアカメシ御供である。



檀家さんたちに持って帰ってもらうのに、パックに盛って供えていた。

もう一つのお供えはコンブやエリンギにコーヤドーフとかチンゲン菜を立てた御膳である。

チンゲン菜は紅白の水引括り。

エリンギはあちらこちらに飛び出す火のように組んでいる。

私はそう見えたが・・。

コーヤドーフは水平置きに組み合わせた石段であろうか。

コンブは扇のように広げたものが3枚だ。

これは住職がこしらえたもの。

どこもそうだが立てて供える生御膳は決まりもなく住職の創意工夫。

仏さんの一年間のお礼に立てたと話す。

他の宗派は拝見したことがないのでどうともいえないが融通念仏宗派の十夜はどことも立てる生御膳であった。

時間ともなれば男女大勢の檀家の人たちがやってくる。

それまでに拝見したい鉦がある。

写真左にある鉦に刻印があった。



「興願寺什物 奥出家先祖代々法界 施主奥出楢吉」とある銅製の大きい鉦。

楢町に生まれた人は「楢」の一文字を貰って名前をつけたという。

この事例は結構多いらしい。

大正十四年弐月、「楢節約規程」に署名した人の名に「楢司」、「楢蔵(5人)」、「楢治郎(2人)」、「楢次郎」、「楢熊」、「楢市(2人)」、「楢石(3人)」、「楢太郎」、「楢松(2人)」、「楢吉(3人)」、「楢三郎」、「楢太郎」、「ナラエ」である。

女性の名前は数人あるものの総勢90人中に24人。

約3割近くもある「楢」地名を授かった名前である。

右側にあるもう一つの鉦も伏し鉦は直径20cmばかり。



「和州楢村薬師堂住物 也由西置 宝永六己丑(1709)歳佛生日 堀川住筑後大掾常味作」の刻印がある。

宝永二年であるが、同名作者の鉦が滋賀県草津市芦浦町観音寺に併設する安国寺にあるそうだ。

なお、同名作者の鉦は天和二年(1683)から享保十九年(1734)ごろまであるらしい。

京都で活動していた鋳物師は数々。

そのうちの一人であるが、50年間もの期間に亘っていることから名代を継いできた鋳物師だったことが伺える。

およそ30人もの檀家衆で席は埋まった。

男性は7人。

圧倒的に多い女性に囲まれた。

始まりの合図に鐘を連打で打つ。

安置する本尊、脇仏にローソク火を灯す。

そして、線香も火を点けてくゆらす。



正面、ご本尊さんの前に掲げた来迎図。

住職が云うにはそれほど古くはないという中央が本尊の天徳如来の十一尊来迎図。

本尊の周りに十尊の姿を配置する。

掛図を納めた御箱も丁寧に奉られる。



二つあるのはもう一つが阿弥陀さんの掛図。

たまに虫干しをするというから一度は拝見してみたくなる。

鐘はもう一度打ち鳴らしたら住職の入堂である。



唱えるお念仏が始まって間もないころから焼香が動いた。

廻ってきたら焼香して手を合わす。



両手にそれぞれもつ撞木。

その両手で同時に打つ伏せ鉦の音色が堂内に響く。

そして、回向。

先祖代々の回向。

回向する先祖さんを詠みあげる。

数えていたが途中で諦めたくらいに多い。

午後7時から始まった十夜の法会はおよそ1時間。

融通念仏勤行のお念仏は香偈、礼文、三礼、懺悔、三帰、七仏通戒、総願、別願、十念、開経偈、真身観文、光明文、別回向・・・。

ゆったりとした時間が流れる。

仏餉献上された人たちの名前も詠みあげてご本尊に献上する。

ローソクもお供えなども献上者の人数は多い。

そして般若心経。



五穀豊穣、交通安全なども祈願されて、住職の法話。

ほぼ2時間の十夜は〆に心込めて作った。

ササゲ豆で作った小豆粥をよばれる。

ササゲ豆の色は赤色。

粥も赤い色。

赤は魔除けの色という中国古来のより伝わる食べ物。

これを十夜粥と呼ぶそうだ。

法会の片づけをして本堂に設えた長机。

人数いっぱいが座れるように設営できたら炊事場から急いで運ぶ。



大鍋いっぱいにあるササゲ豆の小豆粥をすくって椀にいれる。

手早く椀にいれては本堂に運ぶ。

漬物ではないが、ダイコンを千切りして作った和え物が小豆粥とマッチしてとても美味しい。



「何杯も食べてや」と云われるが、我が家に帰れば晩飯もある。



少しだけと思いつついただいたらお腹は満腹になってしもた。



食べていた場所におられた4人の婦人は楢町ではなく奈良市の窪之庄だった。

こちらに来られたのは、大和郡山市の井戸野町も関係するが、住職が寺応援している奈良市の窪之庄町行事でお世話になっている窪之庄町の檀家さんだった。

檀家さんと共通する話題といえば窪之庄で田植え作業を取材させてもらったH家である。

奥さんは大好きな写真撮り。

コンテストにも応募されて数々の入選作がある。

そういえばHさんの名前を記した農具があった。

窪之庄でもなく楢町でもない。

東山中になる室生の染田である。

農鍛冶師が注文を受けた数々の農具の中にHさんの名前があった。

タケノコ掘りの道具であった。

そこでまさかの出会いもあれば、楢町興願寺で出合った婦人はH婦人のお友達。

ご主人もよく存じてというから世の中狭いものだと思った。

(H28.11. 8 EOS40D撮影)
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海知町・西の庚申講

2017年05月25日 08時41分28秒 | 天理市へ
7月10日、倭恩智神社で行われていた祇園祭の中日の際にお願いしていた天理市海知町の庚申さんの行事。

3軒の営みをようやく拝見することになった。

2年前に聞いていた実施月は9月だった。

元来の庚申さん行事は60日おきに出現する「庚申」の日に行われる。

つまりは2カ月単位で巡ってくる「庚申」日であるが、徐々にズレが生じていく。

今年というか、ここ何年かは初庚申の日が2月になっていた。

1月に初庚申であれば、それから2カ月後は3月。

次は5月、次は7月。

その次が9月である。

しばらくはずっと9月であったが、初庚申が2月になるようになって10年余りの今は10月である。

そういうことで元来の今年は10月5日であるが、海知町の庚申講の人たちはだいたいが9月にしていると話していた。

平成26年の実施日は9月27日の土曜日。

3人が揃う日がそれでいいと決められた行事の日。

今年もそうであるのかと尋ねてみればまだ決まっていないと云う。

10月に食い込む可能性もあると思っていたが電話で伝えられた行事日は今夜。

ヤドになる家が2軒の講中らと相談して決める。

予め何日も前からは決めない。

微妙な言い方であるが、決まる直前になって決める。

特に百姓もんを栽培しているから出荷作業がある。

その関係もあって出荷の休みの日になる土曜日が多い。

必然的にそうなるようだ。

取材をお願いしていた電話がそういうことで27日に鳴った。

日程が決まれば廻りをするヤドが預かっている庚申さんの掛軸をもらいに行く。

そういう具合にしているそうだ。

元来の「庚申」の日にできない場合は宵を避ける。

宵とは前日の夜。

その日を避けるには3日以前となる。

宵の日にしてはならないと云っているのは今夜のヤドになるNさんの94歳の母親だった。

今夜の行事は西の庚申講であるが、海知町にはもう一つの庚申講がある。

東の講は4軒。

西の講はかつて7軒だったが、ここ4、5年の間に講を抜ける家があり、現在は3軒になったそうだ。

庚申さんは百姓の神さんと云って掛図を掲げて崇める。

何年か一度の旧暦閏年にあたる年はトアゲ(塔上)をしている。

トアゲのときにはお寺に植えているカシの木を伐りとって準備する。

木肌を斜めに削って墨書する。

願文は「奉 為金剛童子 家内安全 身体堅固 ・・・」。

もう一本は「奉 青面金剛童子 五穀成就 ・・・」である。

これまでヤドを務めたときに授かったカシの木の塔婆を玄関際に置いて残している。

ずっと旧暦閏年の営みであったが、近年になって新暦に移した。

新暦の閏といえばオリピックが開催される年。

それであれば忘れずに済む。

旧暦であれば2年、或は3年後にやってくる。

定期的でないからつい忘れてしまう。

そういうことにならないように新暦に移した。

海知町の閏年の庚申トアゲはだいたいが2月に行っている。

場は海知町に建つ長谷寺(ちょうこくじ)境内の庚申石である。

現在は西と東の2組が揃ってそれぞれの塔婆を立てる。

塔婆の願文は長谷寺(ちょうこくじ)住職に書いてもらう。

現在の長谷寺は融通念仏宗派だが、かつては真言宗だったように思える。

その証に寺に安置されている十一面観音菩薩立像は桜井市初瀬・真言宗豊山派総本山の長谷寺の十一面観音菩薩立像の余木を以って造仏したと伝わる。

改訂『大和高田市史』に大和高田市の民話・伝説が載っているそうだ。

そこに「楠の霊木」が伝わる。

本文に「むかし、江州(滋賀県)に大きな楠があった。光をはなってよい香りをしていたが、大雷雨にあって大津の里へ流された。それが流れ流れて大和の新庄まで廻転移動してきた。聖武天皇の御夢に、この木のことがあらわたので、道慈という僧に命じて、霊木を加持させ、仏土稽文会主勲(ぶつどけいぶんかいしゅくん)という仏師に十一面観音の聖容を彫刻させられた。そしてその末木で作ったのを初瀬の長谷寺へ、本木で作ったのを長谷本寺(大和高田市南本町)に納め、中木で作ったのを北花内新庄町の観音寺へ、残り木は大和海知の長谷寺、鎌倉の長谷寺へ観世音菩薩として安置されたという」が記載されている。

この文にあるように、霊木の末木は初瀬の長谷寺。

本木は大和高田市南本町の長谷本寺。

中木は葛城市旧新庄村北花内の観音寺。

残り木が天理市海知町の長谷寺(ちょうこくじ)と関東鎌倉の長谷寺に行き渡ったと伝えていた。

境内の庚申石に餅を供えて般若心経を唱える。

昔は子供がようけ(大勢)おって餅を貰いにやってきた。

だいたいが中学生までの子どもたちだ。

少子化の現在は子どもがおられる家に持っていってあげているという。

それはともかく県内で行われている庚申講は数多い。

海知町と同じように新暦に移した地域はままある。

Nさんの話しによれば天理市の檜垣町もそうであるようだ。

他にも武蔵町や遠田町にも講中がある。

遠田町は2組。海知町も4組あったが、14、15年前に2組が解散した。

東の講中は2組の14、15軒だった。

脱会されるなど徐々に減った講中は1組に。

やがてさらに減少して現在は4軒の講中になった。

お話を伺っておれば講中が一人、また一人とヤド家に集まってきた。

ヤドの床の間に掲げていた庚申さんの掛図の裏面にもしかと思って講中が来られる前に拝見していた。



貼ってあった書は2枚。

一枚は昭和二十七年三月の塔上(とあげ)。

庚申講の名は7人。

うち一人は今夜のヤド家のN家。

現当主が生まれた6年後の期日であったから当主のお爺さん。

今夜に集まった昭和10年生まれのMさんのお爺さん。

もう一人の76歳のOさんのお爺さんだった。

その書には「塔上箱桝貳杯 酒壱桝盛物 右之通り決定」とあった。

もう一枚の書には「庚申講塔上 米 箱桝貳杯集メ其御飯トス 酒 壱汁 折詰 八百円 茶菓子 二百円各人袋入 右ノ通り決定ス 昭和四十六年一月」であった。

その庚申掛図下に御膳(おぜんと呼ぶ)を供える。

庚申さんに食べてもらうように箸を置いた膳だ。



左手前の椀はセキハン。

忙しいときはイロゴハンにしますというのはヤド家の奥さんだ。

右下はアゲ、シイタケ、ゼンマイの煮た精進料理。

半切りのニヌキ玉子を添えている。

中央の椀はお水ではなくお酒である。

右向こうは黒豆のたいたん。

左向こうはカニカマボコとキュウリの酢の物。

豆腐の白和えも供えて今夜はほぼ同じような5品の料理で酒を飲む。

そう話していた。



以前はこうした料理を寄ってきた講中とともに会食をしていた。

茶碗に椀、箸も載せた家のお盆を風呂敷に包んで寄っていた。

持参した椀に料理をよそってもらう。

季節に応じてアブラゲやシイタケはタケノコとかゼンマイになる。

また、ズイキやドロイモのたいたんもあった。

今ではそうすることもなくローソクを灯した座敷でお茶と茶菓子で時を過ごす。

時間経過に沿ってコーヒーも。

つつましい今夜のお勤めに話題はさまざまである。



子どものころは自転車に乗って駆けまわっていた。

そのときの服装は着物。

足は靴でもなく草鞋だったというから随分前の体験談に氏神さんの倭恩智神社行事のことも。

かつて神社は村の北方にあった。

宮さんは日裏にあった。

青年団は寒の入りからハダカ祭りをしていた。

ホッショイ、ホッッショイと掛け声をかけて、3人ずつの組になって走っていた。

その姿はふんどし一つ。

風呂に入ってふんどしを締めた。

宮さんに参って一目散に帰った。

帰って家に着くなり湯船に浸かっていた。

寒のハダカ祭りは一週間の毎日。

その毎日が違う家の風呂に浸かって身体を温めていた。

寒の禊ぎは井戸水。

桶に汲んだ水は「だー」と大声をかけながら被った。

そういう記憶譚を話すのは昭和10年生まれのMさん。

寒の入りから大寒までの期間の毎日である。

そのころしていた年代は13歳からの中学生までの男の子。

旧制中学ではなく新制中学の時代。

戦後の時代の青年団である。

日裏にあった宮さんは戦争によって移転せざるを得なかった。

宮さんの跡地は「みやあと」。

略して「みやと」で呼んでいる。

そこに「シンカン」の宮田があったそうだ。

「シンカン」とは9月初めの3日間に亘っておこなれている「シンカン祭り」のことであるが、「昔は子どもの相撲もあった」というのはハダカ祭りだったのか、それともシンカン祭りであったのか聞きそびれた。

なお、前述した寒中の水垢離は昭和14年10月15日に発刊された雑誌『磯城』の第2巻・第5號の「創刊一周年記念號」に詳しい。

「海知の垢離とり行事」に書いてあった記述を要約する。

毎年、大寒の入りから一週間。

村内の安全祈願のために“垢離とり”の荒行をしていた。

これを行っていたのは大字の妻帯者を除いた15歳から25歳までの青年。

行事の期間中は精進潔斎して、肴、肉類など生臭いものは一切を食べない。

この行事には風呂焚きだしとも呼ばれる風呂當家があり、内風呂を有する家は輪番で青年たちのヤド(宿)を務めたが、忌中の家は除かれた。

門口に御神燈を灯して風呂を沸かして青年たちを待つ。

二人ずつ浸かって身体を温めてから、井戸水を幾杯となく浴びて垢離とりをする。

それから六尺の褌を締めて角結びの草履を履く二人。

二人一組で當家を飛び出し大字集落を3周する。

そのときに発する台詞がある。

前を駆ける青年が「ホイ」と言えば、後者は「ショ」で応じる。

二人合わせて「ホイ ショ ホイ ショ ・・・」である。

先に講中が話していた通りの掛け声であった。

3周してヤド家に戻って湯に浸かる。

次々と二人一組になって垢離とりをするのだが、3周する前にしなければならないのは氏神参りだ。

柏手を打って村内の安全を祈る。

さらには宗派の長谷寺(ちょうこくじ)および集落中央の辻にある太神宮の石塔にも参拝していた時間帯は夜である。

昭和14年にその様相を拝見していた「海知の垢離とり行事」著者の辻本好孝氏は、寒風に向かって駆け回る裸褌姿の若者の姿に深く胸を打たれたと書いてあった。

(H28. 9.29 EOS40D撮影)
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佐保庄の関の地蔵尊

2017年04月04日 07時38分36秒 | 天理市へ
気になっていた佐保庄に関の地蔵尊がある。

地蔵さんの営みがわかれば連絡してあげると聞いていたが電話は鳴らなかった。

おそらくはこの日ではなかったのだろう。

それとも今年は中断したのか。

付近を歩く人もいないから話は聞けなかった。

近くにある家を訪ねてみたいが、時間がない。

場所だけでもと思って当地にやってきた。

所在地は天理市の佐保庄。

集落中心とも思える辻に建っていた地蔵尊立像。

左に六字名号板碑、右に上部欠損した阿弥陀石仏が覆い堂の下にあった。

(H28. 8.23 SB932SH撮影)
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締めくくりに夕焼け

2017年03月25日 08時43分26秒 | 天理市へ
この日の取材は朝に伺った明日香村・大字上(かむら)の先祖供養を皮切りに、同村・下平田のカンピョウ干し、平坦部に下って、安堵町・岡崎のカンピョウ干し、同町・窪田阿土墓のナナトコ参り、再び岡崎の北地蔵尊、同じく岡崎の先祖迎えにアラタナさん。

そして最後に同町・窪田のアートな案山子を拝見してきた。

夏場の取材に一日中駆け巡っていた。

陽も暮れる頃になれば、身体はぐったり。

トイレ休憩したお店を出たらそこにあった見事な夕焼け。

締めくくりに相応しい情景はケータイ画像で残した。

(H28. 8.13 SB932SH撮影)
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佐保庄朝日観音堂の七月大祭観音講

2017年02月12日 07時46分43秒 | 天理市へ
2年ぶりに訪れた。

天理市佐保庄にある朝日観音堂では毎月の17日がお勤め。

7月は大祭で住職が法要された次に西国三十三番のご詠歌唱える。

この日であれば間違いなく講中が営みをされていると思って訪れた。

着いたときはご詠歌の真っ最中。

お声をかけずに本堂の前で佇んでいた。

すべての楽曲を終えるまで待っていた。

本尊の木造の聖観世音立像を安置しているお厨子の扉に貼り紙があった。

それに書いてある文字は「大和西国三十三ヶ所 観世音 第七番 朝日寺 聖観世音菩薩立像 ひさかたの 空に照りそふ 朝日寺 くもらぬ法の 光なるらむ 平成十三年十一月十七日 落慶法要」とあった。

番外に朝日寺のご詠歌も唱えていたに違いない。

ほっとされた講中にお声をかけたら、私のことを覚えていると云う。

2年前の講中は8人だった。

その後にお一人が亡くなられて、二人は施設で療養しているという。

若干の欠席があるものの、今でもこうしてお勤めをしていると話してくれたのは隣家のKさん。

顔を覚えておられた婦人だ。

北垣内に住むTさんが云う。

8月24日は在所にある地蔵さんの祭りがあるという。

もしかとしたら7月かもしれないという地蔵さんは後日に訪ねても祭りは巡りあわせなかった。

どうやら在所の地蔵講によるお祭りのようである。

ちなみに前回に訪れた七月大祭観音講大祭のときに導師を務められたSさんは欠席。

2年前に務められた写真をさしあげた息子さんが喜んでくれた。

見舞いのときにこの写真を見たら感動するだろうなと云っていた。

(H28. 7.17 EOS40D撮影)
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春日のゴウシンサン

2017年02月11日 07時06分52秒 | 天理市へ
法貴寺のゴウシンさんを見届けて再び訪れた天理市の庵治町。

昼頃は木之本や出垣内のゴウシンサンを拝見していた。

日暮れの頃に家から持ってきた提灯を吊ってローソクを灯すと聞いていた春日のゴウシンサン。

ここもまた平成26年の7月16日に訪れていたが、行事の在り方は拝見できずじまいだった。

今年こそをと思って再訪した春日は庵治町七垣内のうちの一つ。

この地に氏神さんを祭っている春日大明神がある。

そういう意味もあってか知らないが在所の名が春日なのだ。

「春日安全」の刻印があった大神宮の石塔。

建之したと思われる年代記銘があるものの、刻印が弱く読み取れなかった。

在所の春日は13戸。

それぞれのお家ごとに提灯がある。

それには家紋がある。



一軒、一軒ごとに異なる家紋をずらりと吊られたら壮観に見える。

丸に木の字の紋がある提灯を持つ婦人は大和郡山市の池之内町に嫁入りしたという。

池之内町の行事の幾つかは取材させてもらったことがあるから話は弾む。

その紋様の持ち主は生駒出身のMさん。

この日の「オヤ」を務めるMさんとともに行事のあれこれを話してくださる。

かつては男性もきていたとされる春日のゴウシンサン。

今は婦人たちでいっぱいになる。

老人乳母車でやってくる老婦人は80歳から半ばまで。

元気な声で話される。

提灯に火を灯してお供えを並べた大神宮の石塔にもローソクを灯して導師は前に立つ。

導師は「オヤ」の務め。



雨天の場合は吊るすことなく「オヤ」家で心経をあげる。

この日は雨も降らずに般若心経を一巻唱えた。

「せーら せーら」を三回唱和して終えた春日のゴウシンサンを充てる漢字は郷神さん。

昨年に聞いていた漢字は御申さんだったと思うが・・・。

ちなみに春日に鎮座する春日大明神に毎月の1日は境内を清掃している。

9月に行事があるという。

何年か前までは夕刻のその時間に参っていた。

真夏は終わったが、9月の半ばはやぶ蚊が多い。

境内に蚊が多くお参りどころか、境内でごっつぉを食べるのも難しくなったといって参らんようになった。

お参りはしなくなったが、村の人が集まる場は「オヤ」の家になった。

一同が揃えば「オヤ」の家から春日大明神の方角に向かって拝むという。

それを済ませば「オヤ」家で会食の団欒の場になるという。

そのときにも使っているという祭壇組みは春日大明神の什物だった。

(H28. 7.16 EOS40D撮影)
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