マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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高取町土佐町並み2021町家の雛めぐりにて

2023年03月04日 08時10分00秒 | 高取町へ
喫茶きまぐれや写真展会場に、初の写真展の「大岩・きまぐれや 川島朱実写真展 - いのりのかたち 花 - 」を設営し終えた民俗写真家とともに。

午後の空いた時間に、出かけるイベント会場。

場所は、奈良県高取町。

趣のある旧き町家の景観が残されている土佐の町並み。

街道一帯に並ぶお店などに飾られた2021町家の雛めぐり会場。

コロナ禍中に人通りは、極端に少ない。

例年なら、町家の雛めぐりを見てこられる観光客の人たちでいっぱいになる。

逆に、落ち着いてゆっくり見ることができるコロナ禍のイベント。

暮らしの民俗をとらえてシャッターを押す民俗写真家にとっては、まず足を運ばない近年にはじまった土佐町並み町家の雛めぐり。

初めて開催された年は平成19年(2007)。

比較的新しいイベント行事であるが、年々に増え続けている人気の土佐町並み町家の雛めぐり。

15年目の今年はコロナ禍中。

前年も開催月は3月だった。

政府の非常事態宣言の発出までいたらなかった時期。

観光に来られるひとの抑制もかかってなかっただけに、それなりの客数だったが、今年は無理のできない年。

ひっそり、ガランとしている状況での土佐町並み2021町家の雛めぐり。

尤も、本日は平日。

客数が少ないのは平日が理由だが、土日、祝日の客数はぐんと増える。

町家の雛めぐりは、初回から毎年に工夫され、同じような形態で見ることはない。

毎年が愉しみの工夫と創意で飾られる2021町家の雛めぐりは、どうだろうか。

タイムパーキングなぞなく、地域の一部を解放。

臨時駐車場を用意している。

指定の場所を教えてもらって一方通行の道を上っていく。

そのまままっすぐ行けば、高台に出る。

さらに登った地に聳え立つ旧高取城跡がある。

予定時間が、存分にある人たちは、是非とも城跡景観に佇んでほしい。

駐車場を出たところからがスタート位置。

土佐街道を下りながら町家の雛めぐり

早速、目に入った町家のショーウインドウ。

コンパクトなつくりの三段雛飾りに目を細める。

ちょっと歩けば、またショーウインドウにお飾り。



これは竹取物語をテーマにつくったお姫さん姿のかぐや姫。

桃の花を添えていた。



次に見たのは、お姫さんでもなく、雛飾りでもない助産婦表記をした看板。

現在は、看板だけを残した暮らしの民俗遺物。

観光ガイトに載っていないのが残念だ。

高取町土佐街道に残した記録のひとつとしてシャッターを押した。



次のウインドーは、思わず手にとりたくなる竹でつくった五人官女。

表情は読み取れない竹の皮でつくった顔。

手つくり感がなんとも言えない作品を見るのもまた愉し。

土佐街道は、生活道路。



一方通行に自動車も通るし、自転車も走る午後3時の平日時間。

下土佐ふれあい広場に設営したひな壇は、段飾りでなく一枚の毛氈に据えた形。

実は、そもそもが、その形態が原型だと聞いたことがある。

平成29年4月3日

当主の陶芸家・山本義博氏のお誘いに入室させていただいた特定の方たちが参加できる雛の会。

その場に飾られた平面体に飾る雛飾りに圧倒されたものだ。

戸時代中期のころから登場した段飾り

歴史に民俗文化の変遷がある。

このときの会に案内を受けてなければ知る由もなかった。

この場を借りて感謝する次第だ。

しかーし、だ。

ふれあい広場に設営した迎えの平おきの雛飾り。

後方の両サイドに白い犬。



中央に笑顔のお内裏さんの姿、カタチに福らしさを感じる。

犬も含めて、このカタチにするのは大変だったそうだ。

作り手の方とはお逢いできなかったが、素晴らしいカタチのジャンボ雛制作にありがとう、と伝えたい。

ふれあい広場の一角に建つ建物「雛の里親館」内部が、またすごい。



より高く積み上げた天段の雛段飾り。

さて、いったい何段あるのだろうか。

後日にわかった段数は17段。

雛人形は500体のようだ。

上に目を、下に目を落としたそこにあった変わり種の雛飾り・・でなく、酒宴のカタチ。



微笑ましい人形は、愛くるしい猫たち。

桶入りにぎり寿司を食っては笑い、酒を呑んでは笑い。

心の底から笑い転げる姿。

みなさん、何が面白いのですか、と聞いてみたが・・・笑いで胡麻化された。

同じような形態がもう一つある。



この笑いの輪もまた猫。

団子の串は甘いもの。

お重に入れたソレはおかず。

こんなのが見つかるとほっとするよな。

またまた上を見上げたソコもすごい。



いわゆる吊るし雛であろう。

奈良の文化にない吊るし雛。

たしか、静岡県・伊豆稲取地方に見られる天井吊るしの雛

江戸時代後期から始まった民俗文化である。

天井吊るし雛の文化は、山形県・酒田に江戸時代から続くとされる「酒田の傘福」は文化財。

源流は、酒田・日枝神社の山王祭に登場する「亀笠鉾」と、ある。

つまり酒田の吊るし飾りは、雛でもなく傘(笠)内側に細工ものを吊るす形態のようだ。

類似例に、九州福岡県・柳川の「さげもん」がある。

酒田は傘に細工物を吊るしているが、柳川の「さげもん」は、れっきとしたお雛さん。

江戸時代末期に生まれた民俗文化。

女の子が生まれた家に初節句のお祝いとして、布の端切れから小物をつくった。

縁起のいい小物を天井吊るし。

雛飾りの段の両脇に飾り、客人を招きお祝いのお披露目であった。

さまざまな考え方、思考によってつくられた小物が、いつしかお雛さんの習俗に繋がったのだろう。

高取町・土佐町並み2021町家の雛めぐりに飾った天井吊るしのモチーフは、どの地域の文化を参考にしたのだろうか。

機会があれば、住民団体の「天の川実行委員会」に、一度伺ってみたい民俗文化の源流を・・・

ところで、吊るし雛をキーにネットをぐぐっていたときの気づき。

やたら、といいたくないが、通販市場に多くの商品が見られる

形態は、コンパクトなものが多い。

価格帯に幅はあるが、そのほとんどが棚飾りや卓上に置く形。

つまり吊る用具とのセットもん。

天井から吊るすものではなかった。

一方、手づくりの吊るし雛も盛んにされているようだ。

多数の小物を吊るす紐に括って何個も下げる。

ネットによれば、なんとさまざまな「手作り吊るし雛キット」があるようだ。

商売繁盛の様相にのっかった人たち。

そもそも吊るし雛の紡いできた人たちでなく、今にはじまった近代的伝承キットも、みな人に倣えである。

発祥の地から生まれた民俗文化も知らずに、普及の手助け。

この現状も、また暮らしの民俗のあり方の一つであろう。

ともかく、「雛の里親館」内の展示に圧倒される。

一体、一体をじっくり見ている時間はない。

が、隅に設営していた雛飾り。

一目でわかる時代の古さ。

たぶんに江戸時代末期では、と思ったらまさに・・・



わざわざ「明治の五年前・・」と、表記した三段雛飾りは、すべてそろいの文久三年(1863)もの。

享保年代の雛人形に出会えるのでは、と期待を寄せたが・・・

「雛の里親館」を離れて土佐街道をさらに下る。



かつて商店だったのでは、と思える土間空間にも展示していた民家が遺していた雛飾り。

奥間に据えていた雛飾りは、豪華な御殿飾り。



そこに添えていた一文に「昭和三十六年三月三日、母は大阪の堺から嫁いできました。結婚記念日が、桃の節句だったからでしょうか。生まれてきたのは女の子ばかり三人。当時のことですから、父はがっかりしたかもしれませんが、今となってはにぎやかに何度も。このお雛様を囲み、楽しく暮らせたことを、幸せに感じます。それから五十余年、今度は高取の町で、大勢の方をお招きする役目をいただき、こんな幸せなことはありません。このご縁に感謝いたすとともに、子供さんたちの健やかな成長をお祈りしています」と、経緯エピソードを添えたメッセージを拝読し、感動した。

と、いうのも十数年前に記録していた民俗写真を再び、見てもらいたく、個展の「大岩・きまぐれや写真展2021 💭リ・ビューin喫茶きまぐれや」を会場に、前月の2月いっぱい開催していた。

「写真展 💭リ・ビュー」展示の意図、構想は、令和元年に・・

初の展示は、2020年の令和2年

展示中に報じられた新型コロナウイルスの発生。

全世界に拡大したコロナパンデミックの始まりの年だった。

民俗行事写真を見られた人たち。

奈良県に住んできたが、今まで見たこともない、聞いたこともない行事の断片を見られただけでも幸せを感じる人、多くだった。

他地域の映像から故郷を思い起こす人もおられた。

そんな思いを寄せてもらうと、民俗写真家冥利に尽きることもあるが、むしろ取材させていただいた地域の人たちに感謝しかない。

お雛さんをお家に飾り、五十余年後に再び・・・感謝に感動を。

昨今は、その風潮にのる全国各地のお雛さん。

男児を祝う鯉のぼりもまさしく、同じような展開をしている。

子どもが大きくなったから、お家に遺しているよりも、古くなった鯉のぼりを集め、川幅広く鯉のぼりを水平に、或いは竹竿に取り付け、たくさんの鯉のぼりを、地域活動に役立てる。

風に煽られ、傷みつく鯉のぼり。

もっと多くの鯉のぼりがほしいと願う地区が求めた寄贈、譲受け。

地域関連性なくとも、お家にねむっている鯉のぼりの再活用のあり方も同じだろう。

そんなあれこれこれを考えさせてくれたお雛さん寄贈者のメッセージであった。

土間空間の展示場を出て再び土佐街道。

えっ、ここ土佐街道に豆腐店があったんだ。



持ち帰り冷凍バッグは持ち合わせていないから、今日はあいにく断念したが、1パックが250円の揚げ出し豆腐とか100円のひろうすが気になる。

おぼろ豆腐におからの有無も気になる手づくりとうふ店の土佐屋である。

ここまで来ると、雛飾りは見ない。

もう少し行けば、平成27年11月20日に続いて平成28年11月22日にも訪れ、取材していた下土佐恵比寿神社・神農社の神農薬祖神祭行事がある。

そう、高取町は名の知られた薬の町。

近隣の明日香村に峠を越えた吉野寄りの大淀町。

また西の御所も配置薬業がある町。

近隣近在の集合する薬の町に、今も薬業を営む企業がある。

神農社から東に戻るUターン。

しばらく歩いたところに見つけた鍾馗さん。



お家の守り神。

お家の方がおられたので、伝わるお話を伺ったがずっと前からある、という。

先代も知らずの鍾馗像。

どこで入手したのか、それもわからない遠い時代にやってきたそうだ。

詳しいことなら、お家の前の筋をまっすぐ。

向こうの突き当りに見えるお寺さんは檀家寺。



そちらがが詳しいとか・・・

お寺さんに尋ねることは、たぶんに的が外れると判断し、土佐街道沿いに停めた駐車場に向かう。

ゆく道に農産物直売所「高取わくわく市場」。



街道に置いていたプランター植えの菜の花も撮っていた家屋も歴史文化。

もう少し上がったところに建つ夢創館(むそうかん)

大正時代に栄えていた呉服屋の旧山崎家を改修。

平成14年にオープンした高取町観光案内所。

ギャラリー、資料展示、地場産品の販売もしている拠点にも、今回のイベントにも明治時代のひな壇飾りを披露していた。

なんと、そのひな壇飾りの寄贈者は、前述した陶芸家・山本義博氏。

特別な雛の会に当日参加させていただいたお家の雛飾り。

昭和、大正、明治から江戸時代に作られた、雛飾り。

うち明治時代の雛飾りを見せていただいた。

うち豪華な御殿雛も見せてもらった。



夢創館に寄贈された雛飾りは御殿飾り。

で、あればそのとき見せていただいた御殿雛ではないだろうか。

その真上に据えている道具。



かつてお家を守っていた防護用の道具では・・。

夢創館の広間にも数々のお雛さんを並べている。



平成27年の神農祭取材直前に伺った夢創館。

元観光協会会長のN氏。

当時は、観光協会顧問に就いていると話していたN氏が語られる高取町の歴史に薬業。

つまり製薬工業組合から、今日の神農祭について・・・

話題は拡大。

そうこうしているうちに、今日の神農祭がはじまる時間まで食い込み。

氏に失礼をお詫びし、大慌て。

何とか間にあった神農祭取材にほっとしたこと。記憶に久しい。

そんなことを思い出していた夢創館に若い女性のYさんが就いていた。

橿原出身のYさんの現在は、観光協会事務局。

ここ高取町土佐の寺住職家に嫁いだご縁から、事務局に就き、さまざまな事業に取り組んでいるそうだ。

館内の展示に同行していた写真家Kさんが気づいた。

箱にあった小物がカラフル。

毛糸でつくった、という小物袋は、5円玉収めの袋。

全国各地の民俗取材をしてきたKさんの気づきは、毛糸つくりの小物入れ。

もしや「ねはんのだんご」の行事では?。

5円玉収めの小物袋は95歳になる嫁ぎ先のおばあさんが手作りしたもの。

涅槃とはなんら関係なくおばあさんが作った小物入れ。



ご入用でしたら、どうぞお持ち帰りください、と伝えたYさんの言葉に甘え、もらって帰ることにした。

コロナ禍から解放されたころ、滋賀県の事例にあったその風習に再訪するようだ。

(R3. 3. 8 SB805SH撮影)

第5回・雛の会

2018年03月02日 09時32分19秒 | 高取町へ
友人、知人にしかお見せすることのできない「雛の会」の案内葉書が届いた。

3月の節句も過ぎた10日ころだった。

その日からずっと楽しみにしていた雛の会の展示物を拝見できる。



陶芸家山本義博家に保存されているお雛さんコレクションが拝見できる案内に感謝する。

昭和の時代、大正の時代、明治の時代に作られたお雛さんもあるが江戸時代もある。

江戸時代後期の立雛。

嘉永二年の古今雛からさらに下った文政年の享保雛もある。

人さんが座る籐製の椅子にちょこんと座っていた大きな姿のお雛さんには感動したが、さらに驚くのは明治時代のお雛さん。

一般的にお雛さんといえば段飾り。

明治時代の御殿雛も豪華で見応えがあるが、とにかく驚いたのは、周囲にある江戸時代後期の極彩色三十六歌仙屏風を立てていた居間の隅々まで広がるように座敷に座ったお雛さんだ。

初めて見る平面体の雛飾りに圧倒される。

奥行きがあるからなおさらだ。

大正時代の有職稚児雛は可愛い、というか愛くるしい顔立ちだ。

この日の午前中は旧暦の節句行事にヒシモチを供える京都府相楽郡笠置町、切山の神社行事を取材してきた。

ヒシモチの下段はヨモギで作った草餅。

中段は桃色の色粉で作った。

上段はヒシ型でなく丸い鏡餅のような小餅である。

その上に蕾膨らむ桃の枝を載せていた。

雛の会で拝見した雛飾りにもヒシモチがある。

同じように三段重ねもあれば四段、五段形式もある。

明治時代の古今雛のヒシモチの下段は緑色。

中段は白色。

上段が桃色であった。桃の枝はない。

当主がいうにはその色合わせは下段が「草」。

中段は「雪」。

上段が「花」を表現しているという。

なるほど、である。

ところが、大正時代の有職稚児雛のヒシモチは四段。

下段は桃色。

その上は黄色。

その上は緑色で上段が赤色であった。

また、明治時代のお雛さんのヒシモチは5段。

下段が白色でその上は紫。

その上は白色、またその上は緑色で上段に赤色であった。

そういえば、これまでまったく何も気にしてなかったヒシモチの色の構成はどういう意味があるのだろうか。

(H29. 4. 3 SB932SH撮影)

上土佐陶芸家の民俗文化遺産

2017年07月25日 09時05分12秒 | 高取町へ
神農社の神農薬祖神祭を取材し終えて駐車場に戻っているときだった。

案内、同行取材していたNさんが通りがかりの男性に声をかけた。

どちらともなく声をかけたようだったに思う二人は地元民。

昔から知っているようで、地元の話しには首を突っ込むわけにはいかない。

今日は神農社の神農薬祖神祭の行事を拝見していたと伝えるNさんは神農さんの掛図も見てきたという。

その掛図で思い出された男性は我が家にそういえば・・。

今はしていないがおばあさんたちが廻り当番の家に集まって念仏講を営んでいたという。

数か月に一度は集まって部屋で数珠繰りをしていた。

以前は月一に一回は集まって数珠繰りをしていたが、数か月に一度。

やがて回数はどんどん減って最後の方では年に一回だけの講中の集まりになって終わったそうだ。

最後はともかく講中は西国寺の住職とともに営んでいたというから念仏・導師が住職で講中は数取りが50玉の算盤玉で数える数珠繰りしているように思えた。

その算盤玉は畳の縁に釘のようなモノで挿して一直線にする。

縁から縁へと繋ぐ一直線の算盤玉。

一回繰るごとに玉を一つ移動する。

そうすることで50回の数珠繰りを数えていた。

また、お葬式に阿弥陀さんにかける白衣もあるという男性は陶芸家日本工芸会正会員のYさん。

四月には会員を招いて雛祭りのお茶会を催しているという。

高取町といえば「町家の雛めぐり」。

家で祭ることのないお雛さんを集約して土佐街道沿いの元商家で展示している。

期間は3月1日から当月末まで。

そのイベントが終わった4月初めの日。

陶芸家は旧暦の4月3日に照準に合わせた数日間に亘って会員特別の雛祭りをしているという。

陶芸家がある家は土佐街道。

商家など懐かしい町並みを形成する街道の一角にある。かつては街道通りにいっぱい見られた手形は見ることもないという。

手形は八十八歳の米寿祝いのテハン(手版)である。

今もその風習をしている民家は取材先で度々目にする。

目にはするが屋内の場合もあるから一般人が目につくことはない。

京都祇園の魔除けの「長刀鉾」粽はあるが、テハンはない。

奈良町もそうだが、祇園の魔除けはあるがテハンはない。

旧家町家によく見られる「長刀鉾」粽にシャッターを押すことは滅多にない。

ちなみに上がらせてもらった陶芸家の玄関には稲穂を垂らして飾っていた。



時期は新嘗祭であるから餅米を束ねて紅白紙に包む。

それを金銀の水引で括って吊っていた。

伊勢講も念仏講も解散されて行事は途絶えた。

家のどこかにあるはずだから見てごらんと云われてNさんとともに上がらせてもらう。

陶芸家は蔵からだしてきた講箱を見せてくださる。



箱の蓋表にある墨書文字は「明和三稔(1766) 念佛講 十月□調」とある。

講中が保持していた文書も同じ年号の「明和三年(1766) 念佛講 十月起」である。

明和三年(1766)から記帳されてきた文書の最後の方の年号は平成13年11月20日。



それが講中最後の営み日付けだと思うが、当家の名を記すとともに農協預金したと書いてあった。

平成10年は陶芸家が当家だった。

念佛講が始まってから終わるまでの期間は236年。

陶芸家が預かり保管する貴重な史料を拝見できて感謝申し上げる。

この場を借りて厚く御礼申し上げます。

陶芸家は他にも貴重な道具を見せてくださる。



長刀に槍や袖搦(そでがらみ)もある。

まだあると見せてくださる貴重な品々に圧倒される。

(H28.11.22 EOS40D撮影)

下土佐恵比寿神社境内社神農社の神農薬祖神祭

2017年07月24日 09時27分26秒 | 高取町へ
高取町下土佐・恵比寿神社境内社に神農社がある。

毎年の11月22日ころ、高取町や明日香村で薬を製造販売している製薬工業組合の人たちが参拝する行事がある。

行事は中国で薬草を舐めて薬草を発見していた神農さんを祭る薬祖神祭である。

農業の神さんともされる神農さんは薬になるもの、薬にならないものを口で舐め、歯で噛んで試された。

神農さんは古代中国に伝わる伝説上の薬祖神。

頭に二本の角がある。

薬の葉で作った衣服を纏い、薬草を舐めている立ち姿が特徴的。

中国古来という年代は4千年前どころか5千年前とかの説もあるが、明確な史実はなく伝説上の神さんである。

日本ではいつから始まったのか、わからないが、少なくとも古来ではなく、江戸時代からのような気がする。

京都二条通りの神農さん行事は江戸時代後期の「薬師講」の行事としてはじまった。

元治元年(1864)七月の蛤(はまぐり)御門の変によって二条の薬業街が焼失したときも「神農尊の御神事滞りなく相済まし申候」と書かれた記録があることから、それ以前からも行事があったということだが。

東京日本橋にも同様の薬祖神を祭る行事はあるが、明治41年になってからだ。

有名なのは大阪市内の道修町。

薬の町として名高い道修町にある少彦名神社で行われている神農祭がある。

安永九年(1780)、道修町の薬種中買株仲間が、当時全盛だった漢方の守護神である神農さんと日本の薬祖神のスクナヒコ神を合わせ祭ったのが創始であると作家の戸部民夫氏著の『日本の神様と日本人のしきたり』に伝えている。

同著に書かれている少彦名命(スクナヒコノミコト)。

要約すれば「ミコトは海の彼方の常世の国ガガイモの殻の船に乗ってやってきた。薬師(くすし」が崇敬した守護神の意味合いがあるミコトは古くから医薬の神さん。酒造や温泉の神さんとして信仰もある。病気平癒と薬師信仰との共通性から神仏習合の際には薬師如来とされてきた」と、いうことである。

それがいつしか中国古来の薬祖神とされる神農さんと結びついたのである。

神農さんが薬祖神として広く信仰されるようになったきっかけは、江戸幕府御薬園(薬草園)に祀られたことによる。

それがいつのころか民間の薬草問屋などの広がることによって少彦名命と一緒に祀るようになったと、戸部民夫氏はいう。

ちなみに大阪道修町の発祥は戦国時代。

豊臣秀吉が大坂城の城下町を造ったころとされる。

平成29年7月8日に発行された産経新聞の特集「薬種商・田邊屋五兵衛伝―道修町への道⑥―」によれば道修町の最も古い記録は明暦四年(1658)の「似せ薬(偽薬)取り締まり」に関する文書に、当時33軒の薬種商の署名捺印があるらしく、田邊屋初代の五兵衛の創業は延宝六年(1678)で、そのころは既に道修町の原型ができていた、とある。

ただ、現在のような薬の町になるのは、享保七年(1722)、徳川八代将軍の吉宗の時代に、「薬中買株仲間」が公認された以降になるという。

そもそも薬草園の始まりは、天武天皇の時代に薬師寺に附属して作られたとも。

大宝元年(701)に制定された大宝律令に「薬部」と呼ばれた人たちが薬用植物の世話係りに任命されていることが書かれてあるそうだ。

その後の発展状況はわからないが、薬草園が最も発達したのが江戸時代。

薬草を受け入れた場所がある。

長崎の出島である。

ヨーロッパやアジア、アメリカ産などの世界各地の薬草木の流入は出島があってこそ成り立っていたのである。

出島のオランダ商館に派遣された医師や科学者によってもたらされた西洋の医薬学・植物学の流入が日本の本草学と薬園の発達に多大の影響をもたらしたことによってさらなる発展があった。

もちろんシーボルトの名も登場するこうした経緯は長崎大学薬学部の「長崎薬学史の研究」が詳しいので参照させていただく。

江戸幕府が開設した薬草園は寛永十五年(1638)の江戸麻布・大塚から始まって享保十四年(1729)の奈良大和までの8カ所。

また各藩による設置薬草園は元禄年間(1688~)の尾張から始まって弘化三年(1846)の島原までの11カ所だ。

その他にも私設の薬草園もある。

享和二年(1802)、肥州長崎図に描かれる西山御薬園。

その後の文化十一年(1827)に現在の西山町に移転される。

維新後に一旦は長崎県の所有になるものの入札売却されて幕を閉じたが、御薬守の瀬戸口邸庭内に「鎮守神農の像」が残された。

その後の大正時代、松森神社に遷されるも昭和49年以降は長崎県薬剤師会によって毎年の11月に薬祖神祭を行っている。

このような事例からも神農さんを祀って薬祖神祭が始まったのはそれほど古くはないのである。

前置きが長くなってしまったが、江戸時代の経緯を知ることによって地域の行事の在り方が見えてくるのでご容赦願いたい。

毎年の11月22日、23日は大阪市内の道修町・少彦名神社行事の神農祭。

そこで売られている張子の虎の「神虎」がある。

文政五年(1822)、流行ったコレラ病がキッカケになるそうだ。

コレラは当時「三日亡(みっかころり)」と云われたくらいに死にいたらしめる流行り病である。

それによって薬の町はどうしたのか。

「鬼を裂く」といわれる疾病除けに虎の頭骨など十数種類の和漢薬を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきゅうおうえん)」という丸薬を作った。

それと同時に「張子の虎」を笹に括り付けて施与したそうだ。

虎はともかく大阪の製薬会社は玄関に自社製品を大笹に吊るして飾るようになった。

その時代はずっと後年になる昭和25年のことである。

大阪に出かけて買ってきた「神虎」も供える下土佐神農社の神農薬祖神祭。

町内に貼られていた案内では無病息災笹虎まつりの「神農祭」である。

よくよく読めばその左にある行事名は「神農薬祖神祭」。

高取薬業連合会が主催する行事である。

昨年の行事日は11月20日の平日の金曜日であった。

毎年替わる行事日はどのようになっているのか聞いたことがある。

行事日本来は11月22日であったが、祭日の23日に移行した。

ところが、町は高取城まつりを23日に行うことに決めた。

決めたことによって神農薬祖神祭の行事日が同一日になった。

これを避けるには他の日に移さざるを得なくなった。

神農薬祖神祭は基本的に23日直前の平日とした。

ところがだ。

23日が祝日の月曜日になれば、日曜、土曜を外した前週の金曜日になる。

23日が祝日の火曜日であれば前日の22日に行う。

実にややこしい日程決めであるが、今年は23日が水曜日。

と、いうわけで神農薬祖神祭の日程は自動的に決まって22日。

そういうことであるから祝祭日、土・日曜日はすることがない。

何故にそういう決め方にしたのか。

理由はこの日に参拝される方々の仕事都合である。

先週の16日は御所市宮前町神農社の薬祖神祭だった。

その行事にも本日の下土佐行事にも参列される人たちがいる。

来賓招待に、主に医薬品の製造に関する事務分掌する奈良県庁職員(医療政策部業務課)らも参列される。

薬事に関する啓発として参列される分掌は公務。

で、あれば平日となる。

そういうことであるから御所市の神農社行事もたぶんに平日の行事日であろう。

前年も取材した下土佐の神農薬祖神祭であるが、今年も、という理由がある。

実は御所市の薬祖神祭と同様に直会の場に神農さんの掛図が掲げられることを知ったからである。

そのことを教えてくださったのは高取町丹生谷に住まいするNさんだ。

今年の行事日や神農図を掲げる場所などを連絡していただいたのは11月初めであった。

同日はNさんの知り合いである高取町の製薬会社においても午前11時半ころから神農さんの掛図を掲げて従業員がお祭りをするそうだが、下土佐神農社の神農薬祖神祭の時間帯と同時間帯。

民俗記録に欠かせない神農図の在り方で見逃せない。

来年は同社を訪れてみたいと思っている。

御所市の神農社の薬祖神祭もそうだが、それぞれの代表者に取材の承諾をとってもらっているのでありがたい。

ご本人も知っておきたいということであるが、知り得ることのない薬業関係者に直接アポイトメントをとってくださる今回の件は本当に感謝している。

到着したころは神饌御供の調整中だった。

本日、参拝される高取町・明日香村製薬工業組合の役員さんたちは玉垣に立てる笹竹立て作業もあるし、神社の幕張りも、である。

笹には昨年に見た通りに数々の薬の空箱を吊るしていた。

高取町の薬箱を笹に括って飾っているのは大阪道修町の在り方を模したのであろう。



この日は晴天。

青空に映えていた。

玉垣には「薬」の文字をあしらった紋に白抜き染めの「神農祭 高取薬業連合会」旗もあるが、昨年にあった張子の虎が見られない。



どこにあるのか辺りを見れば、割拝殿に掲げていた「昭和五年四月吉日 高取薬業會」寄進の幕の処に移っていた。

その幕の奥に見えるのが恵比寿神社。

神農社はその左手にある。

本社殿は10年間に亘って積み立てた資金拠出によって賄った改修工事。

資金の一部は現在消滅して活動していない戎講が残した積立金もあるし高取町内外の温かい支援もあって、恵比寿神社ともども神農社は平成24年10月に改築された。

玉垣なども替えてすっかり新しくなった神社に大勢の関係者がやってくる。

神事の場は恵比寿神社本社殿左に建つ神農社である。

昨年の行事に張っていた幕はみられない。

昨年も今年も斎主を務める宮司(高取町薩摩在住の武村宮司)は気がつかれた。

神農薬祖神祭の行事は恵比寿神社ではなく神農社に向かって行われる。

幕は恵比寿神社に飾るものあるから掛けるものではない。

そう伝えられて一旦は掛けていた幕を下ろした。

「薬」の文字がある薬業連合会の提灯は両脇に吊るす。

神饌御供は神事の前に揃えて並べておく。



鏡餅に鯛、スルメ、野菜、果物に御供餅もある。

右に置いたのは前述した道修町・少彦名神社に出かけて購入した張子の虎の「神虎」。

笹に括っていることからササドラ(笹虎)の名がある「神虎」もある。

そして、薬祖神祭の神事だけに壁際左側に高取町で生産されている数々のお薬も奉納される。



修祓、祓の儀、祝詞奏上、玉串奉奠など厳かに神事が行われる。

高取町薬業連合会が纏めた史料の平成13年11月22日(木)斎行の神農薬祖神祭の「思い出綴り」によれば、昭和43年の「薬祖大神の祭典」がはじまりのようだ。

その年は高取町商工会薬祭奉賛会が大阪道修町の例祭に倣って祭事を主催していたそうだ。

直来の会場は上土佐公民館であった。

翌年の昭和44年に現在の高取町薬業連合会が組織され、今に至っている。

そのときの記事に「2001年(平成13年)11月22日・・・健幸の町・・・たかとり。奈良県高市郡高取町下土佐えびす神社 くすりの町 高取町に継承される薬祖神祭が、今も変わらず開かれる」とある。

神農社ではなく斎行の場は下土佐えびす神社だったようだ。

さらに続く記事に薬祖神祭のかつての原型を詳しく書かれていたので全文を引用させていただく。

「今なお、継承されている“くすりの町・・高取町の薬祖神祭”の原型は、大正14年(1925)、薬業工業組合を結成して同時に三輪明神大神神社の一つである大物主命、辺都磐座(へついはくら)即ち、少彦名命の分身をお下げいただき、執り行われた“薬祖大神の祭典”とされる。伝え聞くところによると、祖神は、大正14年からさかのぼること明治40年(1907)、代表者数名が、若かりし頃、紋付き羽織袴で御分身を乞い奉りに行ったとも伝えられている。」

続けて「明治40年当時の高取町は、特に明治末期から大正にかけて薬業の全盛期でもあり、経済的には勿論のこと、自治政治面にもその覇を握っていた・・と伝えられ、毎年薬祖の神さま信仰崇拝の念を忘れず大祭を厳修され、今日までも代々継承されている。」

「その長きにわたり“薬祖神”が祀られている“えびす神社”・・・、祭神を恵比寿神社、御名 都味歯八事代主命(ツミハヤエコトシヌシノミコト) 初戎 正月十日とし、伊勢から下ってきたことから“クダリエビス”と称され愛されている。しかし、伝えられる資料に限りがある・・・。それは、土佐の大火で創建時の文書が焼失し、あくまでも推測であるが、現在のえびす神社は1705年(宝永二年)新築のものとされ、恵比須のご神体を請来され、神社の創建に努力されたものと思われる」と書いてあった。

前年取材に聞いた分霊を勧請し遷された神さんは三輪大神神社の磐座神社であった。

その話しは確かに合っている。

その神さんは前述した少彦名命、つまり辺都磐座(へついわくら)であった。

その磐座神社は薬の神さんの狭井神社に向かう参道「くすり道」途中にある。

神社略記によれば、480年、第22代清寧天皇の御代に辺都磐座に鎮座したと伝わる。

なお、磐座神社は社殿なく、イワクラ(岩座)をご神座としている。

神事を終えた一行は場を替えて直来会場に移る。

場は高取町役場横に建つ商工会館である。

そこへ行くには土佐街道を近鉄電車壺阪山駅に向かって西へ、であるが、その途中に、これはというモノがあった。

土佐街道の一角にある建物である。



風情がある建物角の屋根瓦に紋がある。

Nさんの話しによれば紋「一山」は高取藩主の家紋になるそうだ。

藩主といえば最後の殿さんこと植村家。

長屋門が有名であるが、所在地はここではないと思う。

ちなみに植村家の家紋は「一文字三剣」。

では、だれなのか。

「一山」が推定するには藩主の「桑山一玄」を想定する。

「桑山一玄」の中央にある二文字をとった「山一」をひっくり返した「一山」が家紋だと思うのだが、よくよく見れば横「一」に三本立てた剣の先だった。

「山」に見えたのは思い込みの誤読。

ここは藩主植村家の家臣屋敷家。

今は自転車屋さんの屋根にその遺構がある。

さて、商工会館である。



その会館角にそびえるような高さに立てた石柱がある。

これは高取町観光協会が建てた「天誅組鳥ケ峰古戦場」の場を示す支柱である。

すぐ下には「鳥ケ峰古戦場」の謂れが書いてあった。



説明文に「文久三年(1863)8月17日 天誅組は、倒幕の狼煙を上げるために五條代官所を襲撃し、26日には日本一の山城高取城を攻撃すべく攻めてきて、高取藩はここ鳥ケ峰に、城代家老中谷栄次郎を総指揮に防御追撃体勢をととのえ、大砲4門が火蓋を切り天誅組は五條に敗走しました」とあった。

その説明文の上はカラー色の交戦絵図。

当時の高取城に対して対峙する高取勢の位置関係を描いている。

それを見届けて会館2階に上がる。

予め掛けられていた神農図は団体の高取町薬業連合会の了解を得て撮らせていただく。



薬草の葉を舐めるようにして試薬する姿。

角もお顔もどちらかといえば丸い。

絵師の名は「寶寿」であろうか。

ただ、謹寫の文字があることから「寶寿」絵師の描いた掛図より模写したものと推定する。

掛図を納める箱の他「高取薬業會乃旗」箱もある。

会の旗や幕、神農図は当番の第一製薬㈱が保管しているという。

こうした御所市や高取町の製薬会社等が参集されて神農さんを崇敬する薬祖神祭を拝見できたのも高取町に住むNさんのおかげである。

あらためて厚く御礼申し上げる。

そのNさんがさらに情報をもってきてくださった。

一つは大阪道修町にある田辺三菱製薬史料館に展示されている2点の展示物である。

一つは「延享戊辰仲春朔」の文字がある神農図。

延享戊辰は西暦1748年。

江戸時代中後期にあたる。

もう一つは神農座像。

左手で薬草を舐めているように見える。

神農図はもう一つある。

高取町にある近畿医薬品製造㈱である。

同社ではこの日に右向きの神農図を掲げて神饌御供も供えている。

鯛に鏡餅に果物を並べた処には同社製造の薬も供えている。

これら映像はNさんが撮って送ってくださった。

写真を見る限りではあるが、田辺三菱製薬史料館、近畿医薬品製造所有ともデザインが異なる。

図柄、描き方はまったく異なる。

絵師が違うからそうである。

これらを紹介してくださったN家は元配置薬家

父親はきぬや薬舗専属の配置薬業であった。

同家に残っている神農図は波しぶきにあたる岸壁に座る神農図である。

三者三葉の図柄である。

神農さんを崇敬するようになったはじまりは江戸時代の薬草園の創建である。

前述したように神農像を造って祀った。

やがて、この在り方が医師や薬屋などに守り神として信仰が広まっていくのである。

神農さんは当初、石像や彫像であったが、いつしか頼まれ絵師の仕事となり、頒布、購入しやすい掛図に移っていったのではないだろうか。

絵師の創作力によって描かれた神農さんの姿は千差万別、多種多様。実に多彩な掛図を見るのである。

なお、大和の売薬については奈良県の薬業史・通史が詳しいが、神農さんを崇める神社行事や掛図については一切の記事がない。

薬草や製薬・販売歴史についてはずいぶんと調べておられるものの行事については感心がないのであろう。

(H28.11.22 SB932SH撮影)
(H28.11.22 EOS40D撮影)

下土佐神農薬祖神祭

2016年08月08日 10時31分45秒 | 高取町へ
神農さんの掛図を掲げる「家」の行事を取材したことがある。

取材地は大和郡山市内在住の元藩医家元往診内科医師家だった。

角を生やせて薬になるかどうかを確かめる草を口に銜えている神農さんのお姿を初めて拝見したときは感動したものだ。

同じように神農図を掲げる神社行事があるのか、ないのか・・。

それを確かめたくて高取町の下土佐に向かった。

話しを聞かせてくださった男性は高取町の元観光協会会長。

高取町に住む知人が紹介してくださった。

話しの内容は薬の町始まりだった。

昭和50年前後に高取町観光協会・高取製薬工業組合が連名で発行した「高取町の名所旧跡のしおり」がある。

当時、組合だった製薬会社の数は28社だった。

製薬製造会社はGMP、つまり厚生省基準発令によって衛生面の考え方を取りいれた製造基準の見直しがあった。

薬の製造は辞めたが、許可した別の会社に委託製造をすることになった。

その場合においても許可は取り直しをしなければならない。

製造しなくなった製造会社名は使えない。

薬の商品名は替わっていなくとも成分・分量は同じ。

試料を厚生省に提出して許可を得る。

卸し業者として転換した会社もある。

製造を辞めて販売会社として継承した会社もある。

5年に一度は許可を得なければならない。

その都度において基準が高くなる。

やむを得ず、事業を辞める会社が続出して11社になった。

町を離れた会社もあるが、製薬工業組合の一員として存続した会社を入れたら12社になるなど、諸事情、経緯について話してくださった。

歴史は判然としないが、推古天皇の時代に薬猟をしたのが始まりだという下土佐の薬製造。

猟場は高取町の大字羽内(ほうち)の地。

波多甕井(はたみかい)神社の周辺、612年に推古天皇が薬狩りをしたと日本書紀に書いてあるという元観光協会会長の話しである。

前年の611年。宇陀にも薬狩りをした。

薬草採取であるが、「狩り」の文字があることから薬になる動物狩りであったと考える。

鹿のツノや熊のキモ、ガマガエルのセンソ、などなど。イノシシも狩っていたのだろう。

鹿のツノは若い生えかけのツノである。

奈良公園で行われている鹿の角切りは古い角。

それではなく、生えたての若い角が薬になる。

牛の胆のう石はゴオウ。

抽出して乾燥する。

これを粉末状にして薬になる。

江戸時代、役行者は全国を行脚した。

天川村・洞川に陀羅尼助の名をもつ薬がある。

キハダ(オオバク:黄柏)をドロドロに溶かして乾かし薬化する。

古来より作られ、販売されてきた陀羅尼助丸(だらにすけがん)は役行者が立役者になって配置薬を始めたとか・・・諸々を長々と話される。

明治維新、刀を下ろした武士が薬を作り始めたと思うという元観光協会会長(現在は顧問)。

全国に売り歩いて産業が発達した高取町。

大正、昭和の時代を経て現在に至る。

天誅組・土佐の吉村寅太郎と関係があった高取町。

関係と云うのは町を襲ったことだ。

五條を襲った勢いで、京都・大和行幸を旗印として大義名分を得て五條の代官所を襲った寅太郎は高取城を乗っ取り、町を襲った。

その当時の古戦場は高取町役場付近。

「鳥が峰」の名が残った処だという。

そういう関係で天誅組顕彰会の副会長を務めていたという。

下土佐の神農さんは土佐街道沿い。

恵比寿神社境内にある小社がそうだ。

神農薬祖神祭の行事日は11月22日であった。

いつしか祭日の23日に移行した。

ところが、町は高取城まつりを23日に行うことにした。

祭りの日程は重なった。

これを避けるには他の日にしなければならない。

ということで、神農薬祖神祭は基本的に23日直前の平日とした。

ところがだ。

23日が祝日の月曜日になれば、日曜、土曜を外した前週の金曜日になる。

23日が祝日の火曜日であれば前日の22日に行う。

実にややこしい日程決めである。

その日が本日だった。

高取町は製薬会社や配置薬会社が軒を連ねる。

薬に関係する会社の代表者が参集して神農薬祖神祭が行われる。

が、である。

「くすり資料館」がある高取町観光案内所「夢創舘」で話し込んで行事が始まる時間を失念してしまった。



大慌てで恵比寿神社へ駆けつけたが間に合わなかった。

下土佐の神農薬祖神祭はいつごろから始められたのか。

参拝されていた薬関係者に尋ねる。

恵比寿神社の境内社になる神農社は明治40年、桜井市三輪の大神神社末社にある磐座神社(神農社)から分霊を遷して祀っていたと伝わるが、それがどこだったかは不明のようだ。

下土佐の神農社はその後の昭和44年に建之したと聞いたが、そうでもないようだ。



割拝殿に掲げていた幕がある。

染め抜いた紋は「薬」の文字。

「昭和五年四月吉日 高取薬業會」とあるので創建年と一致しない。

さらに、である。

恵比寿神社ともども神農社は平成24年10月に改築した。

玉垣なども替えてすっかり新しくなった。

話しによれば、改築するまでの神農社は街道沿い近くの恵比寿神社境内にあった。

正確にいえば現在の鳥居の左側である。

その付近に手水鉢があった。



目を凝らしてみれば人物名の刻印があった。

「奉納 安政五午(1858)十二月吉日 米商人中 世話人東山村喜三□ 阿部山村利右ヱ□ 土佐町甚太郎 岡村弥兵ヱ 松山村伊右ヱ門 稲淵村五兵ヱ」である。

薬業者曰く、これらはここ土佐の高取町や明日香村の人たちであろうといいう。

薬業は明日香村もある。

この日の参拝も明日香製薬工業組合が参集されていた。

刻印から推定するに寄進者は米商人中とあることから恵比寿神社に対してであろう。

高取・明日香製薬工業組合の人たちが参拝する神農薬祖神祭。

およそ30人にもなる参拝者のなかには奈良県庁の薬関係職員も居るそうだ。

平日開催の理由はここにあった。



祭りの賑わいにエビスさんの福笹吊りと同じような笹がある。

エビスさんは縁起物の福笹であるが、神農薬祖神祭の笹吊りは薬や配置薬の箱である。

神社玉垣内の両端に立てた2本の笹には数多くの薬箱が見られる。



玉垣には「薬」の文字をあしらった紋に白抜き染めの「神農祭 高取薬業連合会」旗もある。

ちなみに鴨都波神社内の少名彦神社に神農さんを祀る神社がある。

その名も神農神社。

祭神は神農薬祖神こと少名毘古那神だ。

神農さんの祭りは11月20日のようだ。

祭りは終わっていたが、お供えがどういうものであったのか、片づける前に拝見させてもらった。



神饌は二段の鏡餅にレンコン、ハクサイ、ダイコン、サツマイモに果物。

これらは一般的だが薬業の高取町に相応しい薬箱が大量にあった。



懐かしい配置薬に懐かしい紙風船もある。

30歳まで住んでいた大阪住之江の実家に配置薬の箱があった。

箱の中にある薬は高取町製。

そのなかに紙風船もあった。

配置薬をもってきた男性が子どもさんにはこれをと云ってもらったもの。

当時の情景を思いだす。

お供えはもう一つある。



親しみを込めて神農さんと呼ばれている大阪市中央区道修町に鎮座する少彦名神社で賜った、というか、代金を支払って分けてもらった張子の虎の「神虎」である。

文政五年(1822)、大阪でコレラが流行った。

道修町の薬業者が疫病除けに「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」丸薬を作り、併せてお守りの「神虎」を捧げて祈願し、無料で配布したのが始まり・由来とされる。

道修町・少彦名神社の神農祭は11月22日、23日の両日。

薬関係者の参拝でいっぱいになるそうだ。

高取町の製薬工業組合の人たちはこのお供えを「ササドラ(笹虎)」祭りと呼んでいる。

大量に分けてもらった「ササドラ」は一般参拝者に配られる。

待ち望んでいた人たちがやってきて参拝。

祭りの役員が手渡しして配られる。



町内に住む女性が手にした「ササドラ」を撮らせてもらったが、顔出しは厳禁ということだ。

ところで、神農さんに「農」の文字があるが、決して農業を意味する文字でもない。

神農さんは農業の神さんではなく、古来、中国から伝わる薬祖神の「炎帝神農氏」に由来するものである。

結局のところ、下土佐の神農薬祖神祭には神農図が見られなかった。

その件については高取町の薬業に詳しい観光協会顧問に聞いてみた。

昔から神農図は見たことがないという。

もしかとすれば、高取町製薬工業の事務所にあるかもしれないという。

あくまで、かも、であるが、祭りの日でなく、年中において掲げているかもしれないという。

観光協会顧問の現業は薬製造業者。

同社では掲げていないようだ。

ところで土佐街道沿いに並ぶ建物に杉の葉を飾っているのはご存じだろうか。



家の軒先、というか屋根瓦とトユの間に挿し込んだ葉付きの杉の小枝だ。

それには「高取土佐時代行列保存会」や「たかとり城まつり」の文字を書いた短冊でぶら下げていた。

数日後の23日に開催される高取城まつりを知らせる飾り物だ。

春には同じく葉付きの杉の小枝が再び登場するが、そのときは「町家の雛めぐり」になる。

民俗的要素かと思ったが、観光客を歓迎する印であった。

(H27.11.20 EOS40D撮影)

下土佐の神農祭を電話で聞く

2016年08月08日 09時24分20秒 | 高取町へ
前日に神農祭の日程を知っているか教えてもらおうと思って高取町案内人のNさんに電話した。

教えてもらおうと思った2点。

一つは船倉弁天さんの亥の日御供の栗飯であるが、聞いたこともないようだ。

もう一つが下土佐の恵比寿神社で行われる神農祭である。

神農祭に詳しいのは薬屋さんのNさん。

神農祭を始められた人だというNさんを紹介してくださった。

高取町案内人のNさんは入院中にもかかわらずすぐさま手配してくださったが入院中の身。

連絡がついたのは翌日。

榛原檜牧や北椿尾の現地調査を終えて戻ったのは午後だった。

取材メモを整理してようやく落ち着いた時間帯に教えてもらった電話番号を打って架けた。

薬屋さんのNさんは元観光協会長。

長年に亘って高取町の城まつりとか新しいイベントを起こしてこられたそうだ。

始めて拝見した城まつりは十数年前の平成14年11月23日だった。

大道芸・南京玉すだれを披露しながら行列する八房師匠とお会いしたことは今でも覚えている。

それはともかく薬屋さんのNさんが云うには下土佐の恵比寿神社で行わっている神農祭は23日直前の平日になるそうだ。

城まつりを開催するまでは例年の11月23日だった。

日程が重なるようになり23日直前の平日。

23日が祝日月曜日であれば、日曜、土曜を外した金曜日になるという。

また、23日が火曜の祝日になれば前日の22日の月曜日が神農祭の行事日になるという。

大阪の道修町は薬の街。

12月23日に神農祭が行われている。

高取町の神農祭は一か月前の11月である。

おそらく、であるが、両町ともかつては同じ旧暦の12月23日であったかも知れない。

新暦が制度化されて11月23日になったかもしれない。

逆もありえる話しである。

高取町は製薬会社や配置薬会社が軒を連ねる。

薬に関係する会社の十数名の代表者が参集されて神農祭が行われる。

笹に薬とか配置薬の箱をぶら下げて町内に飾るようだ。笹にぶら下げるのはエビスさんの福笹行為と同じような様相だと思った。

神農さんは農業の神さん。

薬になるもの、薬にならないものを試された。

試薬はそういう時代から始まったかも・・・。

下土佐の神農さんは恵比寿神社境内にある小社らしい。

いつごろから始められたのか、歴史は判っていないが、推古天皇の時代に薬狩りをしたと日本書紀に書いてあるという。

薬狩りの場は高取町の大字羽内(ほうち)の地。

ハタミカイ神社の周辺になるが、612年に推古天皇が薬狩りをしたと日本書紀に書いてあるという。

前年の611年。宇陀にも薬狩りをした。

薬草採取であるが、「狩り」の文字があることから薬になる動物狩りであったと考える。

鹿のツノや熊のキモ、ガマガエルのセンソ・・・などなど。

イノシシも狩っていたのだろう。

鹿のツノは若い生えかけのツノである。

奈良公園で行われている鹿の角切りをする古いツノではなく生えたての若いツノが薬になる。

牛の胆のう石はゴオウ。

抽出して乾燥する。

これを粉末状にして薬になる。

江戸時代、役行者は全国を行脚した。

洞川の陀羅尼祐名をもつ薬がある。

木肌をドロドロに溶かして乾かし薬化する。

古来より作られ、販売されてきた陀羅尼助丸(だらにすけがん)は役行者が立役者になって配置薬を始めたとか・・。

明治維新、刀を下ろした武士が薬を作り始めたと思うという薬屋さんのNさん。

全国に売り歩いて産業が発達した高取町。

大正、昭和の時代を経て現在に至る。

私が大阪に住んでいたころもあった配置薬。

思いだす風薬がある。

たしか、高取町にあった製薬会社製だったと思う。

大淀町に向けて通る高取町の国道筋にある建物にキズリバーテープの大きな看板が目に入る。

(H27.11.15 記)

丹生谷のあこうさん

2015年12月31日 09時37分56秒 | 高取町へ
高取町丹生谷に赤穂講の存在があると聞いてやってきた。

伝えられた人物は村人のN氏。

平成22年2月20日に勤務していた市施設の市民交流館に来られた人だ。

話しを伺えば高取町イベントでなにかと活躍されている人だった。

男性とは以前にお会いしたことがある。

毎年4月初めの日曜日に行われる村行事の御田祭がある。

祭事の場は船倉弁天神社である。

訪れたのは平成19年4月1日だった。

このときはお話することもなかった。

村役として参列されていた男性がひょっこりと市民交流館に来られたのだ。

後日、何度かメールでやり取りしたことがある。

取材してときの写真を探してみれば、御田祭に参ったなかの一人だった。

メールに添付して送った。

そのこともあって執筆中だった産経新聞連載中の「やまと彩祭」記事内容を検証してもらった。

ありがたいことである。

その後、男性とは年賀状で近況を伝えていた。

今年の年初に届いた年賀状に書いてあった文言に驚いた。

ビジネスマン時代、それも中途入社したころの若い時代。

上司であったK氏は同卿であると書いていたのだ。

通知に腰を透かした。

まさかの展開である。

K氏はかーさんもよく存じている。

ほぼ入社が一緒だった。

社内旅行に写っていたK氏とこういう関係があったとかーさんに伝えたらこれもまたびっくりしていた。

K氏は何年か前からホームページをアップしている。

近年、生まれ故郷の丹生谷の歴史文化を調べて書き記している。

N氏とともに調べられた事実関係を執筆・公開されている。

奇妙な出会いに丹生谷の民俗を取材することにした。

今回の取材行事は「あこうさん」と呼ばれる行事だ。

「あこうさん」は新暦三月二の午の日に行われる講中の行事である。

早朝から集まった人たちは餅つき機で御供餅を搗く。



場は因光寺境内に建つ清九郎会館(平成4年1月5日竣工)。

大和の清九郎と知られる妙好人(篤信者)の遺品などを保管展示(要予約)されている。

延宝六年(1678)、丹生谷近隣地の矢田(現谷田村)で生誕した清九郎。

貧農だった幼児のころに丹生谷村(墓標が建つ鉾立村説がある)に移り住んだ。

父が早くに亡くなり、母一人、子一人の暮らしを真面目に働いた清九郎は母に仕える無類の母親孝行者。

親孝行は高取城主の耳に届いた。

褒美に米五俵を与えられたが、「子供が親に仕えるのは当たり前」と云って断り辞退した。

清九郎の意思に感銘を受けた城主は、領内の山の木のシバを自由に刈り取る特権を与えた。

詳しいことを語る言葉を持ち合わせていない。

さまざまな人が訪問記などをブログ等でアップされているので、そちらを参考にしていただきたい。

かつては講中のヤド家で行われてきた「あこうさん」は清九郎会館の場を借りて餅搗きなどをする。

到着した時間帯は餅搗きを終えてヨモギモチを作っていた。

朝8時から作業を始めたという。

近所で摘んできた新鮮なヨモギは炭酸を入れて湯掻く。

いわゆるアクトリである。

すり鉢で潰して一旦は蒸し器の上に置いて温めておく。

餅はウルチ(粳)米のコメコを混ぜたモチ、というかダンゴ。

機械で搗くときに混ぜて作る。

昔はコゴメを挽いてカラウスで搗いた。

クズマイ(屑米)にモチゴメ半分を混ぜて作ったアラレモチもあった。

美味しかったが、悪ゴメと云われたコゴメのモチは硬さがあったという。

御供モチ、ヨモギモチの原材料になるモチゴメは七升。

四臼も搗いたという。



搗きあがった熱々のヨモギモチは手で千切って素早く丸める。

キナコや小豆餡を塗してできあがり。



「テショ」或は「オテショ」と呼ぶ小皿に盛る。

「テショ」は高取町、明日香村の高市郡でそう云っているという。

他地域もそういうかもしれない大和言葉の一つであろう

テーブルに置いて講中がよばれる。

ヨモギモチは「ヨゴミモチ」とも呼んでいた。

「タナカラボタモチやねん」というのはアンツケ餅の方で、キナコモチはその姿のまま通りのキナコモチと呼んでいる。

本来はモチゴメに潰したウルチ米を混ぜていた。

これを「半殺し」と呼んでいた。

コメコ半分、モチゴメ半分で搗いたモチは舌触りが良い。

噛んだときの食感が良いと話す。

赤穂講はかつて30軒の営みだった。

昔はもっと多くて40軒もあったという赤穂講は年老いて辞退する家が多くなり今では9軒になった。

3年ぐらい前まではイロゴハンを炊いて食べていた。

イロゴハンの具材はアゲ、ゴボウ、ニンジン。

米は一升。

コブ出汁でひたひた。

一合の醤油を混ぜて炊いた。

ジャコも入れていたというから出来上がってからパラパラを落としたのであろう。

夜は下げた御供のシイタケなど味付けした具を入れたちらし寿司もあったという。

作っていた当番は二人。

オマツリトーヤ(当家)にモチツキトーヤ(当家)の二人だったそうだ。

作ることをやめたイロゴハン。

その替わりにヨモギモチ作りと思ったが、そうではなかった。

御供モチ作りの合間に作っていた。

ヨモギの餡子があれば作る。

これらがなければ作らない、ということだ。

いずれにしても手間がかかるイロゴハンは講中の人数が少なくなり昨年が最後になったという。



右横におられるご主人は宮総代。

船倉弁天神社の御田祭に出仕される。

宮総代が云うには、男の厄年になれば明日香村の岡寺に参ったという。

24歳のときに参った記憶があるという三月二の午の日である。

ヨモギモチをよばれて一息つける赤穂講の人たち。

食事を済ませたテーブルを綺麗にして並べる。

そこに置いた木の札。

御田祭とも呼ばれている船倉弁天神社の弁天さんがある。

今年も4月初めの日曜日。

村人の名前を書いた木の札は護摩木。



健康祈願、家内安全などを祈祷する護摩木は一本、一本手書きする。

宮総代はともかく赤穂講の人たちは村行事のボランティア活動だと話す。

コーヒーも呼ばれて一服する。

護摩木が準備できたら「あこうさん」に供える御膳を調整する。



ダイコン・ニンジン・アスパラに一枚のスルメを立てて三方に載せる。



コーヤに巻きコンブも載せた御膳は三つ。

いわゆる立て御膳である。



赤穂稲荷大明神や春日神社境内社の高光(たかみつ)神社。

地元では「たかみつさん」と呼んでいる稲荷社である。

もう一つは供えることはないが「ハツオジサン」のお供えだという。

御供は他にもある。

鏡餅やアゲ、生タマゴ、カマボコにアズキゴハンである。

アズキゴハンはセキハンとも云っていた。



先を尖らせた三角のムスビであるが、写真では判り難い。

御供はすべてが三つかと思えばそうではない。

なぜだか鯛だけは二つである。

御供に果物もある。

盛りはリンゴにキヨミオレンジ。



バナナや栗饅頭もある。

この日は雨天。

本来なら「アサギヤマ」と呼ばれる山の上に鎮座する赤穂稲荷大明神に参るのだが山は傾斜地。

ぬかるんだ山道は登ることもできないから清九郎会館内で行われた。



最近作られた赤色の幟旗を立てる。

ローソクに火を灯して御供前に導師が座る。

講中も席について三巻の般若心経を唱える。



雨天で参ることができなかった高取町丹生谷の「あこうさん」の祭事場は数週間前に住民の案内で鎮座地を教えてもらっていた。

数年前に新しく建てた鳥居がある「アサギヤマ」に鎮座する赤穂稲荷大明神に歴史を示すものはないものかと案内人とともに探してみた。

「大正十二年四月 奉献 喜多村チヲ」の刻印があった狛犬。

一方の狛犬は「大正十四年八月 大阪□□」だった。

10年ぐらいまでは三月二の午の日の「あこうさん」の御供横に100本ぐらいの「ハタアメ」も供えていた。

吉野ストアに注文していた「ハタアメ」。

五色だったか、一色だったか、ハタの色は覚えていないそうだ。

いつしか「ハタアメ」を貰いに来る子供が少なくなった。

「たぶんハタアメに興味をもたなくなったので来なくなった」ともいう。

貰いに来る子がいなければ供えることもないだろうとやめたようだ。

その「ハタアメ」は赤穂稲荷大明神より西に400m歩いた御所市の戸毛(とうげ)にある「いろは製菓」で買っていたそうだ。

「あこうさん」は火の神さんだとおばあさんから云い伝えられてきた。

代々だったらしく、その昔からの云い伝え。

「あこうさん」は家を守ってくれるからとおばあさんが話していたそうだ。

高い場所から丹生谷集落を見下ろす「あこうさん」。

村を火災から守ってくれると信じられてきた。

「うちの村は大きな火事は起こったことがない」という講中。

赤穂講が村を守っているような話しである。

一年に一度の講中の行事。

人数は少なくなったが、今後も続けていきたいと話していた。

あこうさんのお参りは春日神社境内社である稲荷社の高光神社にも出向く。

今では参ることのない小字ハツヲ(八尾寺)に鎮座する「ハツオジ」も案内してくださった。

正徳三年癸巳(1713)九月に遷された春日神社の元社地と伝わる「ハツオジ」はおそらくスサノオ神を祀る「八王子社」であったかもしれない。

なお、清九郎会館にはいくつかの版木が残されている。

「あこうさん」を終えて管理人らとともに拝見する。

一つは「妙好人 大和の清九郎 毎月卄七日 御本山へ薪献上」、「五月卄七日 木津川の大水渡れる奇蹟の圖」の文字で清九郎が薪を担いで木津川を渡る姿が描かれている。

版木は比較的新しい。

版木横に「浮元堂蔵版」とあるが版元の所在地は掴めない。

この版木には「超世の悲願聞きし上り 我等は生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど 心は浄土ょすみあそぶ」が彫られていた。

信心される人に配られたのであろうか。

もう一つは「清九郎簾追躰」の文字がある版木。

藤弦で編んだと思われる四角い部屋に座する人物を表現している。

何者だろうか。

もしかとして清九郎の帰宅を待つ母親であろうか。

版木はもう一枚ある。

「□□□□ 蓮如上人御旧□跡 □清九郎旧地 和州高市郡丹生谷村 崑崙山圓光寺」だった。

これら二枚ともやや古いように思えた。

版木は大量に刷って頒布するもの。

何を目的に彫られたのか、持ち合わせる手がかりはない。

<※ あこうさんを充てる漢字は「赤穂」さん。神社名が「赤穂稲荷神社」。推定であるが、可能性として考えられるのは兵庫県の赤穂藩から脱藩し移り住んだ人たちの在地であったかも知れない。>

(H27. 3.19 EOS40D撮影)

清水谷の古宮講

2015年05月07日 07時49分55秒 | 高取町へ
ダイジングサンの所在を確かめたくて出かけた高取町の清水谷。

所在は判ったが講中の存在はなく八王子講があった。

たまたま出会った婦人の家は八王子講であるとともに清水谷の宮講の一つである古宮講であった。

10月の第一土曜には幕を張った家で菅原道真公の神影である掛軸を掲げると話していた。

一週間前の八王子講のお参りを取材させていただいた折にもその件を伝えられていた。

その日は旧家が建ち並ぶ街道に子供が曳くだんじりも繰りだすと話していた。

高取町のマツリでもあるその日は6台のだんじりが地域を駆け巡るというのだ。

清水谷周辺の各大字にはそれぞれ氏神さんを祀っている。

下子島は春日さんとも呼ばれている小嶋神社(氏子圏は下子島と上土佐)。

上子島は上子島神社。

下土佐は国府神社。

大字観覚寺は高皇産霊神社。

それぞれ、だんじりが巡行するらしいと話す。

高取町には製薬・配置薬業が集約する町。

11月下旬辺りに神農薬祖神祭が行われる上土佐の恵比須神社もある。

清水谷交差点にある建物は共立薬品工業。

その会社の看板に「キズリバテープ」がある。

懐かしい絆創膏である。

生まれ育った大阪市住之江。

家には薬箱があった。

そこにあった絆創膏の名前が「キズリバテープ」であった。

お腹痛や頭痛薬に風邪薬も入っていた薬箱は忘れもしない高取町の配置薬だった。

信号を左に曲がれば清水谷の公民館に着く。

一足先に着いていた写友人の車とともに停めさせてもらった。

ありがたいことである。

この日は清水谷に鎮座する高生神社のヨミヤ。

宵宮とも呼ぶ。

だんじり巡行の出発地である公民館には住民から寄せられた祝儀を受け取って書き記した名を貼り付けていた。

たくさんのご祝儀である。

この日の取材は神社祭祀ではなく宮講(宮座)の営みである。

ご挨拶をさせていただいた区長に宮講の話しを伺う。

区長家は元宮講、菅原道真公の掛軸を掲げて祭ると云う。

正月の講もあった元宮講はもち廻りのトヤ家で営む。

古宮講も菅原道真公を掲げている。

中宮講は藤原鎌足公だそうだが、明神講は存知していないと云う。

清水谷の四組の宮講はそれぞれの営みであるゆえ講中以外の講の様相は判らないようだ。

氏神さんの高生神社へ参ることなく講家の営みはごっつぉを食べる親睦会のようなものだと話す。

宮講は宮座でもある。

どの講であるか存知しないが伊勢エビや目出度い鯛も供える講もあるらしい。



区長も所属する元宮講では料理をこしらえて飲食していると話す。

営みを終えれば数段重ねの折りをもって帰っていたが、今では会食の場は料理屋に移したと云う。

どの講か判らないが、料理でなくお菓子になった講もあるようだ。

宮講の営みは高生神社のヨミヤの日。

かつては8日がヨミヤで、9日がマツリだった。

10年前、いやそれ以上の20年前のころに集まりやすい第一土曜、日曜に移したと話す。

宵宮とも云うヨミヤの晩にはゴクマキを神社ですると話す。

奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば、清水谷の宮座は記されていない。

調査洩れであったかも知れない。

平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』に記載されている高取町の宮座は観覚寺・高皇産霊神社と下子島・小嶋神社だけであった。

観覚寺は左座・九人講・大講・宮講があり、下子島は古講・中講・新講のそれぞれである。

たまたまの出合いで知った清水谷の宮講(宮座)の在り方は古宮講を調べることにある。

清水谷・宮講の取材に向かう途中で街道を行くだんじり(太鼓台)に遭遇した。



水平にした御幣を撮った御輿の屋根の上。

広げた傘を2本さしていた。

奈良県内のだんじりにこのよう形態があること、始めて知った。

この日は朝8時に出発し10時には公民館に戻る。

11時に2回目の巡行。

15時半に戻って、1時間後には3回目の出発。

戻ってくるのは22時。

とてもじゃないかつきあえない。

明日の5日も同じように巡行する。

心配される台風の影響でどうなることやらと思っていたが、風雨はそれほどでもなかったようだ。

平成23年に新調された幕を張っていた講家はT家。

婦人の話によれば、前の幕はもっと長くて端から端まであったと云う。

中庭を通り抜け奥の間にとおしてもらったご主人は配置薬の仕事をしていたと云い、神農さんの祭りに参列していると話す。



奥の間に掛けていた掛軸はまさに菅原道真公のご神影であった。

祭壇を組んでお供えをする。

以前は立て御膳であったが、今は寝かせている。

御膳の御供はシイタケ、ミカン、ケンサキイカ、ダイコン、ニンジン、ゴボウにコンブの七種と決まっている。

前回或いはもっと昔に撮った1月の立て御膳の写真を拝見した。



土台は半切りのキャベツ。

ケンサキイカを立てて串に挿したミカン、コンブ、シイタケを前に。

イカの足が前に出ている。

後方は葉付きのニンジン、ゴボウ、ダイコンを立てている。

1月の土台はキャベツであるが、10月ではカボチャだったと話す。

水、塩、酒、洗い米や御膳を神前に供えた祭壇には三方に盛った一尾の生鯛や果物、モチ御供もある古宮講の営みは年に2回。

正月初めの営みは1月14日で、秋は10月8日だった。

正月初めの営みには講中は集まることなく、掛軸・祭壇を奉る當家だけで行われる。

秋は講中が揃ってご神影に向かって祝詞を奏上する。

かつては11軒あった古宮講は現在10軒。

昔から継いできた講家・當家は12月の暮れに次の當家の家へ掛軸および祭壇を運ぶ。

受け取った當家はご神影を一年中掲げておく。

菅原道真公のご神影は古くから奉られてきたが、何年か前に表装をしなおしたそうだ。

年代を示す記銘もなく判然としないが、講中の話しによれば江戸中期、若しくは初期に古宮講が始まったと伝えられている。

「大事にせなあかん」と先代から伝えられている掛軸である。

しばらくして講中が當家の奥の間に集まってきた。

お茶菓子をよばれてしばらくは歓談する。

そろそろ始めようかと云ってご神影の前に座る。

ローソクに火を灯して祓えの詞を奏上する。

そして、講中をサカキで祓う。



次に奏上する祝詞は神棚拝詞だ。

次に神社拝詞を述べて最後に祖霊拝詞を奏上する。

かつての直会の宮座料理の献立は決まっていた。

刺身、焼肴、酢物、天婦羅、煮付、茶碗蒸し、吸物、付出しに漬けものがあった。

料理を作ることはしなくなり料理屋に出かけるようになった。



祝詞を奏上し終えれば直ちに出かけるのである。

Tさんの話によれば、かつて氏神さんを祀る高生神社に参拝していたそうだ。

二人の講代表者は白衣姿でお参りしていたというのである。

白装束姿であったことから高生神社の宮講であったに違いない。

いつころまでそうされていたのか記憶にないぐらいの代々の口伝えである。

神社へ参ってから當家で直会をしていたというのだ。

いつのころか判らないが参ることをしなくなった。

それでご神影を掲げるようになったらしい。

今尚続けている現在の在り方は何故にそうなったのか。

Tさんの話によれば、複数の宮座が神社に参ったときのことである。

拝殿に並ぶ席順でもめたと云うのだ。

3、4代前の区長が話していた事件である。

「講のもんどおしがもめた。それから神社に参ることなくそれぞれの宮座は講家で掛軸を掲げて祭るようになった」と云うのである。

古宮講の講中が云うには、清水谷の氏神さんは今でこそ高生神社に合祀されたが、かつては西南の地にある高台の山に鎮座していた清水神社であったと云う。

御輿を担いで移設した時代は大正年間と伝わっている清水神社の祭神は菅原道真だと話す。

合祀された本社は高生神社。

小字タカバネの高地に鎮座する。

創建当時は高取城がある高取山であった。

享保十一年(1736)刊の『大和志』によれば、天正年間(1573~1592)に現在地に遷座したとあるようだ。

講中の記憶や伝承を総合しても判然としない歴年代であった。

(H26.10. 4 EOS40D撮影)

清水谷九月八王子講

2015年05月03日 06時47分23秒 | 高取町へ
9月15日に立ち寄った高取町。

ダイジングサンを祭る講中を調べていた。

小島神社の近くにあると教えてくださった写友人。

電話口からの連絡であったので街道をくまなく探したが見つからなかった。

写友人の話しによれば2軒の講中で16日の朝に大神宮の石塔にお供えをするらしい。

場所が判らなければ講中の存在も掴めるどおりではない。

小島神社から南に抜ける街道がある。

旧家と思われる建物が建ち並ぶ佇まいだ。

二人の婦人が立ち話をしていた。

思い立って尋ねてみるものの大神宮はあるが講中ではないので判らないと云うが、大神宮の石塔は八王子社の前にもあるという。

探してみれば確かに建っていた大神宮の石塔にある年代刻印は「寛政十一年(1799)己未歳 世話人 惣兵衛 當村 奥市良 五月吉日」と書いてあったらしい。

古宮講でもある婦人が案内してくださった。

そこへ現れたのは明神講でもある婦人が聞きつけてやってきた。

二人は八王子社で般若心経を唱えている清水谷の八王子講でもある。

ちなみに清水谷には古宮講、明神講の他に元宮講、中宮講を入れて四つの宮講があるようだ。

清水谷に鎮座する高生(たかお)神社の宮講のようである。

八王子講の営みは、9月28日と7月14日に行われていると聞いてやってきたこの日。

二週間前に建っていた大神宮の石塔は消えていた。

二人の婦人が云うには、時期は未定だが氏神さんが鎮座する場に移すことになったと云っていたのであるが、この日までに移していたのであった。

八王子社の前庭はすっきりとしたのである。

八王子社のご神木は藤と樫の木。台風によって倒れてしまった。

当時の藤は前の道まで覆いかぶさるように繁っていた。

数多くの花をつけて花見に最適な様相だったそうだ。

落ちた花弁はまるで絨毯のようになっていたと話す講中。

今では7軒になったが、最近になって数軒が辞退されたという講中は10軒だった。

少なくなったが、今でも年に2度は八王子社に向かって般若心経を唱えている。

清水谷の八王子講が云うには八王子社を「清水谷のはっちょさん」と呼んでいる。

「ハツオウジサン」が訛って「はっちょさん」である。

親しみを込めてそういうのであろう。

平成4年2月に“ふるさとを学ぶ”会が編纂した史料にはそう書いていた。

その史料によれば大神宮が元々建っていたのは札の辻だったようだ。

八王子社の年代を示す刻印は燈籠にある。

北の燈籠には「村中 講中安全 慶応丙寅(四年:1868)三月日」。

南の燈籠は「文化四卯(1807)八月 願主 橋本宗次 小西長兵□(衛であろう)」であったと史料にあったが、私の眼では南の燈籠は「宝暦二年(1752)三月日」のようだった。

不確かな眼であるゆえ見誤りかも知れない。

夕暮れ時間ともなれば講中が集まってきた。

巻き寿司と高取町の和菓子屋から買ったオヤキを供える。

灯明箱に入れたローソクに火を灯す。



二つの燈籠にも火を灯すころは真っ暗である。

この時期の夕暮れはつるべ落としである。

講中が揃えば般若心経を唱えるが一人は遅れている。

しばらくは待ってみるものの火が消える。

講中は提灯を掲げた拝殿と呼ぶ八王子社向かいの建物にあがっていた。

建物の寄進者は費用を捻出されて昭和50年7月14日に建てた。

そのころであるのか定かでないが、かつては燈籠脇に建てていたそうだ。

揃ったところで、ローソクの火を灯した拝殿前の灯明立て。

僅かな風で消えてしまうが、導師が拍子木を打って般若心経が始まった。



始めに2礼、2拍手、1礼。

「おがまさしてもらいます」と声をかけて唱えた。

以前は15編も唱えていたが、高齢者は声が出なくなったと云って、

今では半分にした7編(数取りはマッチ棒)である。

付近には灯りはなく暗闇。

建物の灯りとローソクの火だけでは前庭までは届かない。

拍子木と婦人たちが唱える心経が聞こえるだけだ。



ちなみに講中には講箱があるらしい。

史料によれば蓋に「慶応四年戊辰九月 求之 講中」とあり、13人の男性の名を墨書されているようだ。

いつの時代に男性から替って婦人になったのか判らないが、この日に参集された一人の婦人が云うには、嫁入りしたころの昭和36年の直会は講中の家であったそうだ。

夏はヒヤムギを食べていた。

「すっごい、ご馳走で振舞われる講家で一日中過ごしていた」と話す。

今では拝殿内の直会。

お茶を飲んで下げた御供をよばれる。

この日の営みは婦人たちだけであるが、7月14日は子供もやってくるそうだ。

柿の葉寿司やオゼン(御膳)は20軒の各戸が供える。

営みを終えて下げてよばれていると話していたというだけに、是非とも訪問したいものだ。

(H26. 9.28 EOS40D撮影)

清水谷の講行事

2015年04月19日 09時33分44秒 | 高取町へ
写友人から伝えられた高取町の講行事。

電話で伝える場所は下子島にある郵便局より南下する地。

話しの状況から清水谷であると判断していた。

写友人がいうには大神宮さんにお供えをする講中は5月、9月、12月の3回に参っているようだと話していた。

講中は数軒。年寄り講は今にも消滅しそうだから早めに取材をしたらどうかという緊急情報であった。

そこでは庚申講もあったが30年前に中断されたが2軒で掛軸を廻しているともいう。

場所はあの辺りだろうと思って下見したこの日。

写友人が云うには街道を通り抜ければ小川の橋を渡って国道に出ると云っていた。

その街道は一方通行。

周囲は旧家と思われる民家が建ち並ぶ。

通りがかった民家の前で二人の婦人が立ち話をされていた。

立ち止まって講中の存在を尋ねた。

庚申講や大神宮の講中は知らないが、大神宮の石塔ならすぐ近くにあるという。

そこには八王子社もある。

婦人の一人は八王子講。

7月14日と9月28日には、そこで七巻の般若心経を唱えているというのだ。

以前は十五巻も唱えていたが、長丁場に声が出なくなったことから半分に短縮したという。

第一土曜日の10月4日は門屋に幕を貼って祭りごとをしている。

座敷奥に祭壇を組んで菅原道真公の掛軸を掲げて祝詞を奏上していると話す講の在り方にも興味をもった。

その婦人は古宮講。

もう一人の婦人は元宮講。

それぞれの講中によって祭り方は異なるようだ。

清水谷の講中は古宮講、元宮講以外に中宮講ともう一つがあるらしい。

その日は街道をだんじりが通り抜けて一方通行も封鎖されるらしい。

そうして近くにあった八王子社に向かった。

こん盛りした塚のような八王子社のご神木はフジの木とカシの木。

注連縄を掛けている。

婦人の旦那さんが手で結った注連縄を大晦日に掛けるという八王子社の燈籠に「宝暦二年(1752)三月日」と思える刻印があった。

その左手に建つのが大神宮である。

写真を撮っていたら古宮講の婦人がもう一人の婦人を連れてきた。

その婦人は明神講。

講元の當家にあたっているようだ。

話しによれば、大神宮は、時期は未定だが氏神さんが鎮座する場に移すことになったという。

氏神さんへ参るには急な参道を登らなければならない。

年寄りでは無理があるから、階段下に移すと話していた。

神社名は「たかお」。

充てる漢字は高生であったが、この日はこれまでとした。

(H26. 9.15 EOS40D撮影)