マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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田原本町道の駅・レスティ唐古・鍵に求めた美味しい地産地消の品

2023年03月21日 06時49分52秒 | 田原本町へ
帰り道にある施設、田原本町道の駅の「レスティ唐古・鍵」。

稀にトイレ利用もさせてもらう施設。

求める美味しい地産地消の品々。

野菜などもあるが、これはっ、という品物もあるから、たんまに寄せてもらう。

ここ「レスティ唐古・鍵」のお気に入りはクレジットカード払いが可能。

この点が嬉しい。

さて、今日はどんな美味しいものが見つかるかな。

まずは、野菜売り場。あった、あった。

ここレスティ唐古・鍵にもあった葉玉ねぎ。

柔らかい葉も美味しく食べられる。

煮るほどに甘くなる葉玉ねぎ。

葉っぱはもちろん、白い肌を魅せる玉ねぎの玉が旨いんだなぁ。

かつては葉なんぞ要らんわというお客さんもおられたが、その美味しさに市民権が与えられたように思う。

なんせ捨てる部分がない葉玉ねぎ。

呼び名は短く「葉たま」で伝わるほどに認知されてきた。

野菜は大好き。

葉玉ねぎ以外に、あれも食べたい、これも食べたいと籠に入れて買ってきたら、家人から大目玉を喰う。

屋外に、冷蔵庫にあるのに、なんで買ってきたのか・・と、言われるのもなんだから携帯電話を掛けて有無確認。

必要な野菜、必要な分量の確認をとってから購入している。

加工商品の棚も目を通しておく。

最近は特に目がいく黒酢にんにく。

特に、熟成黒にんにくは、まるで柔かい、和菓子ような食感に、こってりコテコテのねっとり味。

何度か買てきって扱い方に手こずらせるので、熟成黒酢から醤油漬けに切り替えた。

なぜに食べていたのか。

便通にいい、とわかって買っていたが、私にとって高額商品。

負担が大きくてやめた。

代わりに、安く提供されている醤油漬けにんにく。



1袋を380円で売っていた「鎌田ファームのにんにく醤油漬け」。

個数が多く入っているにんにく醤油漬けも買った。



もう一品は、540円売りの「古都の香り奈良漬けきくらげしぐれ」。

奈交サービス㈱が直営する店舗販売の「奈良銘品館」のほか、通販のアマゾンや楽天市場にヨドバシカメラも販売している美味しい奈良でつくった逸品。

現在は、吉野町楢井から移転し、新社屋を建てた大淀町下渕が所在地の亀久堂本舗・灘商事㈱が販売・提供している商品。

また、ここレスティ唐古・鍵にも見つけた我が家で大好評の吉野山林豆とうふ店のタレ付き揚げ出し豆腐は、冷蔵ショーケース内に売っている。

これまで買ってきた売り場はみな我が家から遠い道の駅など。

宇陀路・大宇陀道の駅は、宇陀市。

吉野路・大淀Iセンターは、大淀町。

地域振興施設・御所の郷は御所市。

みな奈良県南部地域に所在する。

南部地域に民俗取材があれば、丁度いいが、目的がなければ足は遠のく。

それがなんと、レスティ唐古・鍵なら片道30分もかからないから、時間も燃費も助かる距離。

いずれも270円売り。

家族人数が多いご家庭はたぶんもの足りないから大きめの400円売りをお奨めしたい。

そして晩食のおかず。



食卓にあがった林豆とうふ店のタレ付き揚げ出し豆腐を家族3人に分け合って食べる。

毎度、いつ食べても美味しくいただくタレ付き揚げ出し豆腐、揚げ出し豆腐も旨いが、タレはもっと美味い。

そして、初めて口にした古都の香り、奈良漬けきくらげしぐれが、また旨い。

奈良漬は、食べやすい形にしている。



丸々一切れでれば、結局奈良漬けなんて、一口で食べることはない。

こま切れだからこそ、味もしむ。

口の中でうまみが拡がる奈良漬けに、シャキシャキ、コリコリの歯ごたえがあるきくらげが、食感を深める。

ししゃものつぶつぶも、えー効果を出してくれる。

たまごも入れて炊き上げた、コレが旨いのも、佃煮したのが正解。

家人はお茶漬けがいい、と、いうが私は酒の肴。

ぐびぐびいってしまう。

なお、「鎌田ファームのにんにく醤油漬け」は、袋からタッパーウェアに移して、これからの毎日に1個ずつ口にするのだが、熟成と違って、醤油漬けはどことなく手が伸びない。



旨味がまったく異なる熟成商品と醤油漬けの違い。思い知らされた。

(R3. 3.16 SB805SH撮影)

田原本町西代・八坂神社の砂モチ

2022年11月24日 07時37分49秒 | 田原本町へ
2日は予定していなかった田原本町西代(※にしんだい)行き。

八坂神社の砂モチを拝見したく、急行した。

橿考研所属の発掘調査専門のYさんが発見した、という砂モチ。

Yさんがとらえた映像と同じ状態の砂モチが、今まさに目の前に現る。

なるほどの形態は、大和郡山市に鎮座する小泉神社の砂モチと同じ。

多少の高低差はあるが、形態は同じ。

それが、第一印象である。

辺りを見渡しても誰もお見えにならない。

西から吹く風が冷たい。

鳥居までの参道道。



両脇に背の高い樹木が並ぶ八坂神社の参道。

その光景もまた、大和郡山市丹後庄町の八雲神社に、さも似たり。

ただし、丹後庄町の場合は、樹木外の両脇は池であるが・・。

その鳥居横に立てていた八坂神社の史跡案内。



田原本町観光協会が立てた解説文の編集は、親交のあるNさん。

地域行事の法貴寺の川西川東のゴウシンサン取材にご支援いただいた元県の文化財保護指導委員。

担当する田原本町に行われる民俗行事、文化財、遺跡などが詳しい。

ゴウシンサン取材を終え、当時県立民俗博物館所属・鹿谷勲さんとともにお家に上がらせてもらったことがある。

西代・八坂神社の解説文に興味深い記事があった。

下記に、要約し、文中より一部補正し、解説する。

「年代・由緒は明らかでないが、江戸時代は牛頭天王社と呼ばれていた。云々・・」他地域にも多くみられる元牛頭天王社。

西代と同じ八坂神社、或は八阪神社。

他にも杵築神社などがあり、古くは祇園社と呼ばれていた時代もあった京都・八坂神社もまた牛頭天王社。主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)を、往古は牛頭天王と称していたわけである。

詳しくは、ここでは述べないが、江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた全国の神社は、神仏分離・廃仏毀釈の波を受け、素戔嗚尊を祀るすべての神社が、明治時代に神社名を替えられた

「旧城下郡(※旧城下郡(しきのしものこおり)は中世までの郡名、後世に式下郡(しきげぐん))西代の八坂神社は、素佐男命の神威により、西代村民を疫病から守るために勧請された・・・」。

「明治3年(1870)、神社名を健速須佐男命社『城下城上神社御神体取調目録(蔵堂・守屋広尚文書)』と、呼ばれていたが、明治11年(1877)に、八坂神社名に改号された。(村史『西代区有文書』)」

蔵堂・守屋広尚氏は、蔵堂・村屋坐弥冨都比売神社宮司。

なにかと民俗行事取材に教わった宮司が、若いころに記された『城下城上神社御神体取調目録』であろう。

「八坂神社・本殿は、一間社春日造、銅板葺(かつては檜皮葺)」。



県内各地に春日大社から造営の度に古社になった建て替え前の社を、所縁に地に移された春日造を調べている写真家Kさんは、先に調査していたらしく、西代の砂モチに興味を示された。

YさんとKさんがたまたま居合わせた年末晦日の日。

奈良市山陵町・山上八幡神社の砂モチ行事

西代の砂モチを報せてくれたYさん。

Kさんもまた砂モチ調査をしている。

三者がそろったときには、さまざまな地域習俗情報を伝え合う。

今日に拝見したあり方も、また伝えておいた。

さて、鳥居から眺める参道を撮っていたときだ。

東側の地に建つ集落から歩いてきた人の姿が見える。

もしか、とすれば氏子さん。

そう思って、お声をかけた女性は西代住まい。

天理市中之庄町が出里の女性が嫁いだ50年前。

出里になかった情景に、行事や風習も異なる環境だったが、苗代にイロバナをしていた、と話され、思わず、えっ。

中之庄町といえば、ひょんなことから出逢った苗代の習俗がある。

取材したT家の他にも、数か所でしていると知った中之庄町の農村のあり方。

氏神社の天神社の行事に御田祭は見られない。

それゆえ祈祷する護符はないが、イロバナ立てはある。

蕗の葉に載せるハゼゴメ習俗には感動したものだ。

ちなみに、ここ西代にも苗代にイロバナを立てる、と話してくれた。

しかも松苗も立てる、となればここ八坂神社に御田祭があるのか・・。

実は、そうではなく、隣村の八尾にある神社の田植え祭りに・・。

その神社は、かつて取材したこともある通称鏡作神社の名で呼ぶ鏡作坐天照御魂神社。

当地のお田植祭は、群がるカメラマンが撮る牛面を被る牛使いがある。

女児が舞う豊年舞に、ラストに天空高く投げる雨降らしの松苗投げも。

その松苗を西代の総代がもらってきて住民に配る、と・・・

イロバナを添えてキリコモチも供える、というからその時期になれば、また伺いたくなる西代。

かつてはカンピョウつくりから干す竿もあった、と昭和23年生まれのTさんが話してくれた。

そういえば、すぐそこのH家、は今でもしているような気がする、と・・・

さて、西代の砂モチである。

73歳のTさんは、“砂は神さんが通る道”だ、という。

川砂が綺麗だったころ。寺川に出かけて、掬った川砂を一輪車に載せて家に持ち帰った。

門から家の玄関までに一本の道を描くように砂を撒いていた。

玄関だけでなく、トイレやお風呂に稲屋にも繋げるように砂を撒いた。

それぞれを繋げる砂の道。

その形態は大和郡山市内見聞きした砂の道と同じ。

で、あるが境内の砂モチとは関係なくしていたようでもある。

嫁入りした義父や義母から教わったのだろう。

当地に住んでわかったことを話してくれる。

お話しされているとき、散歩中だったTさんが、ばったり出会った87歳の高齢女性。



老人カーを押しながらやってきた女性は、手を振って合図していた。

一緒に、参拝しましょう、と寄り添って歩いた参道。



「大阪から嫁入りした私もびっくり」、ここ西代の習俗に、当時は驚きながらも家人たちとともに砂を撒いていたそうだ。

うちもしていた、と、いうが、たぶんに今はしていないような雰囲気・・・

八坂神社の砂モチ。

かつては、西に流れる寺川にあった綺麗な川砂。

護岸工事の関係であろう。

川砂が採れなくなってからは、心ある村の人たちが砂を寄せてくれるようになったそうだ。



その一言でわかった砂モチの色合い、風合い。砂の盛り様の違いもわかる。

お家によって入手する砂質は違う。

黒い砂もあれば白い砂も。

茶っぽい砂もあれば、グレー色も。

一人一山とは限らず、二山、三山の場合も・・見られる。

いずれにしても左右対称に一対、一山ずつ。

12月31日の大みそかに砂モチをしているようだ。

ちなみに八坂神社の宮守さんは3人。

1番の年長者、2番手のミナライ。

3番手もまた見習い。

一年経験して繰り上がる。

3年間を経験して退く繰り上がり。西代のトーヤ制度であろう。

毎月の1日、15日は掃除。



風雨にさらされ、もっときれいに、と手を揚げた老人会も毎月の8日と23日が清掃日。

ちなみに西代の砂モチは、中田太造著の『大和村落共同体と伝承文化』に載っている、と写真家Kさんが教えてくれた。

“田原本町・平野村の一年“の章に「スナモチ オオミソカに飛鳥川から砂を一荷ずつあげてきて、お地蔵さん、お宮さん、墓、家の門口に“砂モチ”をした。これは普段に詣で、足につっかけて帰るので、お返しするためだ、という。お宮さんや、お地蔵さんには砂が山のようになった。佐味では正月が済むと、この砂を道の悪いところに置いた。満田では、大晦日に門口に砂を撒いたが、それを“ハツミチ”といった」とある。

砂モチ状態撮って、それで終わり。

次に向かいたい天理市の長滝。

昼までに帰ってこれる。そう思って西代の調査に来たが、なんなのなんの。出逢ったTさんの情報は大きく、昼めしを摂る時間がなくなってしまうくらいの質・量に感謝申し上げる次第だ。

また、余談であるが、FB知人のFさんからも砂モチ情報を伝えてくれた。

多神社の境外社と思われる姫皇子命神社に一山の立砂(たてずな)若しくは盛砂(もりすな)があった、という。

私にとっては初の取材地になる西代。

「にしんだい」の読みさえ知しらなかった初入りした西代。



この日に出会った住民のTさんに、老人カーを押して参拝された婦人からただいた貴重な民俗話題。

西代に出会えるキッカケとなった砂モ情報を報せてくれたYさん。

春日造りを記録してる写真家Kさんからは、民俗文化を記録された、先駆者の中田太造氏が執筆された『大和村落共同体と伝承文化』に記載があると報せてくれた。

西代・八坂神社の解説文を通じて学ばせてくれたNさん。

村屋坐弥冨都比売神社宮司の守屋広尚氏からの情報もある。

私が民俗調査をできたのも、すべて先駆者のおかげである。

これまでも先駆者から受けた、或は見聞きした数々の多様な情報提供によって、私が現時点の取材ができるのである。

ありがたく感謝し、敬服するとともに、また敬意を払わなければはならない、と念頭におき、今後も活動していきたい。

(R3. 1. 2 EOS7D/SB805SH撮影)

社家の杵搗き小餅

2022年10月29日 07時59分04秒 | 田原本町へ
朝から餅つきをする、とFBに伝えていた。

この日を逃せば、一年送りになる。

気持ちが覚めないうちに、と思って、今から伺います、と伝言を入れ、自宅を出た。

行先は、これまで何度もお伺いしたことがある、田原本町・村屋坐弥冨都比売神社。

平成14年10月10日、初めて立ち寄った村屋坐弥冨都比売神社。

その日の撮影行事は、秋の例祭に行われる太々神楽だった。

当時、神職の禰宜を務めていた現守屋宮司。

歴史が深い村屋坐弥冨都比売神社の67代目になる、と云ってた。

次の年の平成15年の取材訪問は、2月11日に行われている御田植祭。

同年の6月30日は、夏越し大祓式。

その後、しばらく空白期間を経て、再訪取材に平成25年10月9日は宵宮祭

同年の12月29日。

その日は、先代宮司から聞いていた簾型のしめ縄を撮っていた

そのしめ縄の呼び名は“ゾウガイ“。

県内の一部地域、民家で継承されてきた簾型しめ縄。ある地域は”ドウガイ“と呼んでいた。

今年は、引退された先代宮司から引き継ぎ、守屋宮司一人でつくったそうだ。

なにかと忙しくなった守屋宮司。

翌年の平成26年1月。元日に撮らせてもらった”三宝飾り“

同年同月の1月15日は、小正月の小豆粥御供

また、御田植祭については、平成25年に森講の行事の詳細調査

夏越し大祓式も、また再訪問した平成25年28年

また、末社・恵比須寿の三夜待ち行事も取材していた。

その他、社家守屋宮司が、近隣の旧村で行われている兼務社の年中行事の一部も取材したことがある。

そして、今日の取材は、守屋社家の家族が杵搗く餅搗き。

大きくなった息子さんにお友達。

宮司のお姉さんも手伝いに来られる正月の餅搗き。

お姉さんの息子さんに、その友達も力仕事に加わる。

社家自ら搗かれる餅搗き。

かつては2軒で8臼も搗いていたそうだ。

今日の餅搗きは、3升5臼の小餅搗き。

昔ながらの石臼に杵搗き姿を収めたい、と急いでやってきた。

挨拶もそこそこに、最後の一臼は、今から始めます、と云われて、慌てて構える。



眩しい昼光が差し込む時間帯。

陰と光の差が厳しい条件になんとか収めたが・・・。



力強く餅を搗くが、重たい杵を扱う形は、もう少しの鍛錬を要するようだ。



それでも振り上げた杵の重みによってモチモチの餅ができた。

熱くなった餅を取り出し、移す。



とり粉を手に、丸める小餅。

みなさん、揃って手が動く。



そんな情景を拝見していると、およそ60年前の我が家を思い出す。

隣近所とともに餅を搗く。



とり粉に塗して小餅を丸めていた体感の記憶が残っている。

杵を搗くことはなかった子どものころ。

近所のにいちゃんらは、みな逞しかったんだ。

そんな古い記憶に浸っているうちに餅搗きのすべてを終えた。

休憩する用意もしていた宮司の奥さん。



幼き子どもとともに小餅を丸めるようになるのは、もうすぐ。

来年には、可愛いお手手が動いていることだろう。

手伝っていた友人。

午後には用事があるから先に失礼します、というので、お住まいは、と尋ねたら地元大和郡山市内。

城下町の一角にある野垣内町。

新興住宅地が増えつつある新旧混ざった地域であるが、住民が出かける正月参拝は、野垣内の春日若宮社。

ここは、今もなお、正月の神さんが通る砂の道を敷いていますよ、と伝えた。

最後の一臼は、家族がいただく小餅。



すべて搗き終えてほっとしたお昼の時間。

搗いた餅を味わうひととき。

来年も穏やかな日々になることを願い、よいお年をお迎えくださいと伝えて退座した。

この日は、もう一件の師走の民俗行事も取材する。

時間的な余裕もなく、お昼も摂らずに次の取材地に向かった。

(R2.12.29 SB805SH撮影)
(R2.12.29 EOS7D撮影)

田原本町・黒田の神輿と桃太郎巡行

2020年03月30日 09時40分40秒 | 田原本町へ
御所に向けて車を走らせる。

途中の道中に遭遇した神輿と桃太郎。

桃太郎でわかるここ大字は田原本町の黒田。

法被を着た子どもたちや関係者。

通りすがりに見た神輿はたぶんに曳行型の子供神輿。

赤くて大きな団扇で扇いでワッショイ、ワッショイの掛け声をしながら曳いていたのだろう。

眩しい逆光の向こう。



後続に就いていた大きな桃太郎、いやそうでなくて桃である。

幟旗にある文字は「桃太郎生誕の地 田原本 桃太郎会」とあった。

台車を引く彼らはたぶんに「桃太郎会」の人たち。

法被姿でなく黄色いユニホーム姿でわかる「田原本町桃太郎会」のみなさんらにご苦労さまです、と助手席から声を掛けて通り抜けた。

(H30.10. 7 SB932SH撮影)

新地・行者堂の地蔵盆

2018年09月12日 09時36分56秒 | 田原本町へ
かろうじて地蔵盆の状況がわかった南町材木町を拝見して車を走らせる。

旧町を通る道は一方通行に狭い道ばかりだ。

走らせるといっても時速は遅い。

メーターは20km以下。

両サイドの筋道にもあるのか、ないのか、キョロキョロ目で探してみるが、一向に見つからない。

諦めて旧町を離れようとしたときである。

時間帯は午後2時半。

場所は旧町の南の端にある新町である。

南町で拝見したような笹に括り付けた赤白の布が見えた。

そこで緊急停車。

通行の邪魔にならない場所に停めさせてもらって町の人に伺った地蔵盆。

午後の3時には住職が来られて法要されるというのだ。

急なお願いであったが承諾してくださった。

取材させていただけるのは、たいへんありがたいことである。



子どもさんの名前で奉納された祝いの旗立ては何枚あるのだろうか。

白色が男の子で赤い色は女の子。

奉納してから一年経てば笹に括り付ける。

旗に奉納された年号がある。

平成3年、4年、11年、17年、22年の平成生まれもあれば昭和生まれも何枚かあった。

一枚、一枚を捲って見えるようにしたいが、それは無理。

見える範囲内で調べてみれば昭和51年、昭和55年があった。

「私の子どもやけど、もう42歳になるんや」と云う。

随分前の奉納であるが、綺麗に洗って丁寧の折りたたんで残していると云う。

南町の婦人は笹に飾った子ども祝いの奉納旗は整理していると話していた。

婦人が云うには、大きくなって今では町を離れた子どももいる。

いないか、いるのかもわからないケースもある。

不安性のある子どもの存在に「この子はもうおらんやろう」と除外しているが、新地はずっと残しているそうだ。

地域性によって判断に若干の違いがみられる事例であった。

新地の地蔵尊は地蔵盆のときにだけ移動するという。

地蔵さんが普段におられる場は東を南北に流れる寺川沿いの祠に納めている。

その場で地蔵盆をするには車の往来を気にしなくてはならない。

狭い上に堤防地の斜めに立つ位置。

雨が降っては祭り難い場所。

そこで決めたのは、年に一度の地蔵盆だけは移っていただきましょう、ということで、すぐ近くになる行者堂に来ていただくことにした南の地蔵尊。

前日の夕方までに抱えて行者堂に運ぶそうだ。



史跡案内板に書かれた由来によれば「延享三年(1746)、行者堂の前身堂として行者堂の東、ムクの木の傍らに地蔵堂田原本・平野藩・寺院本末御改メ帳に“本誓寺末寺 地蔵堂 開基・開山は不詳、本堂 二間四面、本尊 地蔵菩薩、境内 東西四拾三間、南北三間 但シ無年貢地”とあり、“この場所から卍模様の小型軒瓦があった”と書いていた。明治時代、地蔵堂が廃絶のため、地蔵堂役行者倚像、前鬼像、熊野地方から伝来したとされる後鬼像を“戸久屋”の妻が自宅離れで祀るも、逝去のため本誓寺に預けた。大正三年頃に風邪が大流行し、これは、役行者倚像、前鬼像、後鬼像を新地で祀ることのなくなった祟りであるので、新地青年団が中心に田原本町陣屋町総堀の三前ほどの南堀を埋め立てて行者堂を建立し、現在に至る」とあった。

ちなみに、ここ新地の行者堂は役行者椅像を安置する田原本町の「御佛三十三ケ所巡礼 第十七番」の一つ。

毎年4月の第一日曜日に加持祈祷の春季護摩法要をしているそうだ。

寄贈者を募り大金を捻出されて昭和34年10月に新造された現在の行者堂。

そのときに新調された幕は三像を安置する前に張って本誓寺住職を待っていた。

本誓寺住職が新地の行者堂に来られる時間帯。



いっこうに、やってくる気配がない。

自治会長さん他、役員の人たちは地区周辺を巡って、今、どこで法要しているのか探された。

現在は近くの大門西に来ていると伝令が戻ってきた。

その次は大門中。

そして大門東などなど。

新地に到着するまでの待つ時間が伸びていくそのころ。

町内の人たちと話していた男性と目があった。

思い出した男性は田原本町法貴寺に住むMさん。

お家まであがらせてもらった元田原本町教育委員長である。

届く年賀状には「いつもブログ拝見し、参考にしています」と書かれているから恐縮する。

その場に慌てて駆け込む男性がおられた。

何故にここにおられるのか・・。

男性が住まいする地は田原本町の佐味。

7月3日にカンピョウ干し作業を取材させてもらったFさんだった。

たまたま立ち寄った新地に見たことのある車が停まっていたので、もしかとしたらと近寄ったら、私だったというわけだ。

何という奇遇であろうか。

ちなみにここ行者堂に掲げている史跡の案内板の写真・文は奈良県文化財保護指導員のNさん。

みなさん、ほんまにお世話になっている。

この場を借りて感謝申し上げる次第だ。

結果的に云えば本誓寺住職が法要に走ってこられた時間帯は午後4時。

例年通りの時間帯に始められた。

蝋燭、線香に火を灯して法要をされる。



町内の人たちも手を合わせて拝む。

その時間はほぼ2分間。

待っている方が圧倒的に長かったわ、と話す。

参拝されていた町内のある人は行者堂での法要を済ませた住職を我が家に案内すると云っていた。

そこまで着いていくことはしないが、旧町は、自宅内に地蔵尊を安置している家も何軒かあるようだ。

住職が離れたあとの行者堂の飾り付けである。

お供えはばらして分ける。

笹を下ろして紅白の祝い旗も片づける。

かつては大鍋を炊いて作っていたカントダキもあった。

子どもたちには握ったおにぎりも。

盛夏だからスイカも出して食べていたそうだ。

そのころの行者堂の地蔵盆は賑わった。

いつの間にか、町内から長男は出ていくわ、町内は年寄りが多くなった。

回覧を廻すと同時に町内会の集金もする。

そのときに住民の存在を確認する。

昨今は安否確認のようになってしまったという新地もかつては立山も造っていた。

紐を引っ張ったら動く立山だったと回顧される。

ちなみに行者堂に移して地蔵盆をするようになったのは20年前。

いやもっと前だったかもという人も何人かがおられたことを付記しておく。

自治会長ら参拝者に急なお願いして取材をさせてもらった田原本町新地・行者堂の地蔵盆。

終れば元の祠に戻される。時間帯はすぐではないので、場所だけでもと聞いて探してみればあった。



開いていた扉の奥は空っぽであったから間違いない。

新地は22軒。

昔は遊郭もあった町。

北から南へ繋がる中街道の名もある下ツ道は山上詣りのルートにもなっているという。

室町時代、浄土真宗などの寺院や坊を中心に形成された田原本町

寺院が中心体に集落構成の地域を寺内町と呼ぶ。

寺院信者に商工業を寄せ集めた自治の町を守るための構造は濠に土塁を構築した。

奈良県に見られる寺内町は、ここ田原本町の他に橿原市の今井、大和高田市の高田、広陵町の箸尾、御所市の東御所、下市町の下市、吉野町の飯貝などが知られる。

田原本町のHPによれば田原本町の概要は、水陸交通の要衝の地にあることから、中心旧町になる田原本地区は中世に楽田寺の門前として開け、近世は浄土真宗教行寺の寺内町として発展した、とある。

水陸交通と云えば東に流れる寺川がある。

陸は古代の幹道である下ツ道。

中世は中街道と呼ばれた大動脈であった。

江戸時代は交代寄合(参勤交代を行う格式畑旗本家の平野氏の知行地)であった。

平野氏の陣屋町として栄え“大和の大坂”といわれるほど商業が盛んとなったとある。

陣屋は、文禄四年(1595)の戦い賤ケ岳の七本槍の一人である平野長泰が拝領した田原本村の地に二代目長勝が寛永十二年(1635)に着工したそうだ。

長勝は支配権が対立する軋轢があったことから寺内町形成を進めていた真宗教行寺を田原本町の箸尾に転座させ、陣屋を慶安四年(1648)に竣工、明治四年(1871)の廃藩置県までを代々が継いできた平野家であるが、正式に田原本藩になったのは最期の領主の長裕のわずか3年間であった。

平野家の菩提寺である浄土宗本誓寺は元々八幡町であったが、二代目長勝が正保四年(1647)に教行寺の跡地に移した。

本誓寺南にある浄土真宗浄照寺(創建時は円城寺)もまた二代目長勝が創建である。

いわば、平野家が陣屋、寺院を配置して町を形成してきたかのようである。

当時の寺内町の区域はどこまでか判然としないが、町名をみれば理解しやすい。

三輪町の他に味間町、堺町がある。

三輪は桜井、味間は田原本町旧村の味間に大阪の堺町である。

中心部は本町、市町、魚町、茶町、材木町がある。

大和郡山の城下町でもそうだが、これらの町名でわかるように、また、日本各地にある城下町と同じように本町、市町(※市場)、魚町、茶町、材木町がある。

濠で防御した城下町もまた門がある。

ちなみにかつての郡山城の外堀に九条町大門があった。

外堀の北にあった大門である。

その他、北東に鍛冶町大門、東に高田町大門、南に柳町大門。

4つの大門があった。

田原本町に話しを戻す。

本誓寺、浄照寺に出入する濠に橋を架ける。

その橋に門があった。

いわば関所のようなもので門番がついていた大門中。

その両サイドに大門西、大門東もあれば、殿町もある。

浄土宗本誓寺が元々建っていた八幡町もあれば、祇園町、戎通、廓町もある。

他にも南町、根太口、小室、幸町もある寺内町であるが、本村には江戸時代以前(西暦927年の延長五年以降の創建)より牛頭天王を祀る祇園社だった津島神社もある。

津島神社の創建は寺内町が形成される以前からあった。

明治時代中頃に書写された棟札に天治二年(1125)があったことからわかる創建年代。

津島神社の神宮寺は京都祇園社と同様に感神院があった。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)

材木町・濠水路にある地蔵盆

2018年09月11日 09時52分32秒 | 田原本町へ
田原本町の中心部。

三輪町・南組の地蔵盆を拝見して北組に向かったが、跡形もなかった。

ぐるりと方角を替えて西の筋道に入っても同様。

地蔵尊の祠は多数見られるが、どこもかしこも店仕舞い。

住職の法要をしてもらったら、直ちに仕舞うようだ。

若干は残っているものの撮るとこまではいかない。

車窓から眺める次の筋道に提灯が見えたが、一方通行の道ではハンドルを切れない。

仕方なくそっち方面に行ける道を探して迂回。

ようやく見られた地蔵尊は材木町のようだ。

濠水路にあった地蔵盆は終わっていない。

用意している蝋燭も線香も火点け前。

住職がいつやってくるのかわからない。

訪ねたい家もあるが、車を停車したら人も通れない幅しかない道に置くわけにもいかないからさっさと撮って車を移動する。



後日、撮った画像を、じっくり眺めて見れば仏飯は山盛りだった。

ニンジン、ピーマン、ナスビの盛り椀に乾物のシイタケ、カンピョウ、コーヤドーフにマメをのせたのは愛嬌のようにも見える。

右上の椀は大葉にのせた茹でのコエビ。

左下の椀はキュウリの漬物に黄色いコウコが良い。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)

三輪町・南組の地蔵盆

2018年09月10日 09時27分04秒 | 田原本町へ
何年も前から気になっていた地蔵盆地域がある。

田原本町の中心部。

近鉄電車駅でいえば、田原本駅。

人は云う。田原本町は奈良盆地平坦部の中心地である。

とは云っても奈良県のヘソとまでは言い切る人はいない・・・と、思う。

田原本町の民俗行事は昭和59年3月に田原本町教育委員会が発行した『田原本町の年中行事』が詳しい。

ほぼ、であるが、「ゴウシンサン」若しくは「ダイジングサン」と呼ばれている行事と地蔵盆の行事場が近似する地区である。

かつては、というか、平成20年ころまであった立山は祇園さん行事のときだった。

今では見ることもできない造り物の立山であるが、田原本町の旧町にある地蔵盆にも興味がある。

『田原本町の年中行事』によれば、大門西南組の御膳は二つ切りジャガイモに、串で挿したトマトや太目の曲がりキュウリにコーヤドーフの串挿しが。ピーマン、ナスビの串挿しもあると書いてあった。

串挿しトマトはまるで二見が浦の日の出の情景。

ナスビの串挿しは帆かけ船の様相であると記している。

その地はどこになるのか、一見の価値がありそうだと思って、車を走らせる。

旧町は広い。

ただ、車路は狭いうえに、一方通行道が多く、走行どころか停車に難儀すると思われた。

実際、その通りのところもあるが、ここからと思って入ったところに地蔵盆の飾り付けが目に入った。

地蔵さんに赤白。

目立つ景観に飛びついた。

子どもさんの名前で奉納された祝いの旗立てが壮観である。



御膳にソーメンも供えているここはどこであるのか。

向かいのお家の方に話しを聞けば、三輪町(みわまち)だという。

飾り付けした地蔵さんは南組。

朝の8時に飾り付けをしてお寺さんを待つ。

それから4時間後の12時ころに旧町にある本誓寺住職が法要に来られた。

ほんの数分で終えた住職は次の場に向かっていったという。

ちなみに北に浄照寺もあるようだが、この日に探す時間は持ち合わせていないので、後日としよう。

ここら辺りは南組の他、北組にもあるし、西のところには、ほんま、多いくらいにあちこちでしていると話してくれたので車を移動した。

ちなみに南組の地蔵盆に何をお供えされていたのか。



御膳の椀を覗かせてもらえば、一つは仏飯である。

ご飯粒が立っているように見える仏飯である。

手前左はコーヤドーフの煮たもの。

中央は黄色いコウコ。

その右上はトーフと青菜の汁椀であろうか。

左上の椀はオクラと豆の煮もののようだ。

そしてもう一つのお供えがソーメン束。

カボチャにナスビと昆布であった。

昔はもっと多くの子どもが居た。

笹の飾り付けはこん盛りするぐらいに多かった。

飾り付けにある子どもの名前を手掛かりに、現在は不在していると断定された飾り付けは除外したそうだ。

某学芸員のYさんがお勧めする昭和60年刊の『田原本町の歴史』のある号にゴウシンサンや大神宮燈籠を調査した特集を載せているようだから、一度、田原本町図書館で探ってみたい。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)

矢部・杵都岐神社のさなぶり

2018年07月30日 09時40分36秒 | 田原本町へ
この日はずっと雨だった。

雨の日のさなぶり行事が行われる田原本町矢部の杵都岐神社。

実は12年ぶりの再訪問である。

平成17年は6月26日の日曜日だった。

村の各戸の田植えが終わるころを見計らってさなぶり行事の日程を決める。

前年の平成28年は当初予想よりも早く終わったこともあって第3週目の日曜日。

6月19日に実施された。

そのことを知ったのは一週間後の6月26日

6月の最終日曜日と判断して出かけたが終わっていた。

今年こそはと思って前週の18日に訪れて前自治会長のFさんに確認していたから間違いない。

そういう経緯があって拝見する杵都岐(きづき)神社のさなぶり。

なにが見たいかといえば、苗さんの御供である。

苗さんは一把の苗。

田植えを終えて残りの一把を神さんに供えて、村の田植えが無事にすべてを終えましたと伝えるさなぶり行事である。

伝えるのは祝詞を奏上する神官である。

矢部に出仕する神官は多神社の神職である多宮司であるが、昨今は息子さんの禰宜と数多くある当該地域を振り分けて出仕されている。

その数は兼社。

26社にもなるから手分けせざるを得ないということである。

神事が行われる時間よりずいぶん早めに到着して新任交替された自治会長らにご挨拶をしておきたい。

そう思って早めに着いた杵都岐神社に存じている男性がおられた。

雨天にかかる雨に濡れながらも、予め準備をしていた神饌御供。

すべてではなくある程度の御供を並べていた。男性は矢部のの行事取材でお世話になったNさんだった。

ハツホ講のハツホ参りは平成28年の7月7日

その日の夕刻は祇園祭の燈明灯し

ヨミヤ参りは平成28年10月17日

和服姿の奥さんとともに参拝された。

Nさんと初めてお会いしたのは先に挙げたさなぶり行事を終えた一週間後

残念な日であったが、その日に目にしたカンピョウ干しに話しを伺ったNさんである。

それから1カ月後も拝見したN家のカンピョウ干し撮りの際に他家のカンピョウ干しも教えてもらった。

それから1年後にお会いしたさなぶりの日は新任の自治会長になっていた。

矢部の自治会役員は抽選で決まった5人。

杵都岐神社の年中行事を支える地域の役員さんの任期は2年である。

今年は雨が少なくて水不足に陥っていた。

池の水を足してもらってなんとかしたが、苗が育つかどうか心配していた日々であるが、この日は前夜から大雨状態。

今も降っているのが珍しいくらいだと云いながら並べていた。

一旦は、家に引き上げて再び神社にやってきたNさん。

今度は神饌に捧げる生鯛を持って来られた。

先に供えていると猫が食べてしまうから、神事が始まる直前ぐらいにと思って持って来た。

カボチャ、ダイコン、ニンジン、ホウレンソウ、ナスビにトウモロコシ野菜にコーヤドーフに板カマボコ。

スルメ、昆布にシイタケ。

リンゴ、バナナの果物など。

お神酒横に大きな鏡餅を盛った。

さなぶりに相応しい一把の苗さん。



ピンと育った稲苗の葉が美しい。

そのころに到着した多神社の神職。



鯛は神職の到着をもって供える。

矢部は神職が来られるのを確認してから村全戸に伝えるマイク放送をする。



その合図を聞いた村の人たちがぞろぞろとやって来た。



傘を要するこの日の参拝に、祝儀を役員さんに手渡して拝殿前に立つ。

幣で祓ってくださる祓い清め。



これをシャンコと呼んでいたのはNさんだった。

シャンコの祓いは順番待ち。

行列にはならなかったが、途切れることはない。



拝殿前、少し距離をとって順を待つ。

お一人参拝もあるが、家族単位の参拝も。

祓いを受けた人たちは右へ廻って木戸から入って、本殿向かい正面に立って参拝する。



祓いを受けてから氏神さんに頭を下げる。

矢部のいつもの参拝の仕方である。

待っている人たちも合わせて撮っていた際に声をかけられる。

平成29年2月3日のトシコシ行事の際に撮らせてもらったW婦人である。

先週に立ち寄った際に撮らせてもらった写真を前自治会長にお願いしていた。

お手数をかけますが、写っている人たちにどうぞ、と伝えていた。

その写真が手元に届いたというお礼である。

真っ暗な状況で撮っていただけにお顔ははっきりと認識していなかったが、撮られた方が覚えておられた。

ありがたくも嬉しいお声であった。



それはともかくお祓いをしてもらった参拝者は自治会役員からハクセンコウを受けとる。

この日の祭礼に多神社の神職がもってこられたハクセンコウである。

12年前にも見た同じ光景である。



夏祭りや秋の祭りは参拝者でいっぱいになるが、さなぶり行事の参拝者は農業を営む農家さんである。

この日は雨が降っているので少ないだろうと想定していたが、村全戸が90戸のうち1/3になる31人も参拝された。

もう来ないだろうと、参拝者が途切れたころを見計らって神事が行われる。



今度は役員の皆さん方のための祓えの儀である。

祝詞を奏上されて玉串奉奠。



そうしている間にも参拝者がやってくる。

時間ともなれば多神社の神職も腰をあげなければならない。

次に向かう兼務社のさぶらき行事の時間帯は午後5時。



出仕する兼務社すべてに苗さんを供えているという。

それぞれの神社にはそれぞれの神社役員がおられる。

矢部もそうだが、任期をもって交替する。

役員の引継ぎが上手くできずに継承できなくなればさぶらき行事は御供なしになる。

そういうことにならないように、苗代は必ず準備していただきたいと常々話しているというが、現状は24大字のうち、20大字が苗さんを供えているらしい。

また、神職や自治会役員が伺える範囲によれば、このような矢部の村さなぶり行事はあるとして、ここら付近は各家がする家さなぶりはたぶんになかっただろうという。

確かにここら辺りでは苗代田の水口まつりはまったく見られない。

そのことについては多神社神職も驚くべく現状であった。

(H29. 6.25 EOS40D撮影)

矢部のトシコシ

2017年11月30日 09時47分49秒 | 田原本町へ
田原本町矢部に「トシコシ」と呼ぶ行事があると聞いたのは昨年の平成28年7月7日の祇園祭の燈明灯しの夜だった。

ツナカケの場におられたM婦人が教えてくださった「トシコシ」は2月3日。

夕刻になれば各家めいめいがお参りに来て節分の豆を供える。

その際には必ずローソクを立てて火を灯すと云っていた。

話しの様相から神社行事ではないようだ。

川上村吉野町の行事を取材して矢部に着いた時間は午後6時15分前。

夕陽が落ちて暗闇になりかけていた時間帯だった。

先に杵都岐神社に向かおうとしたが、ツナカケの場には、すでにトシコシのお供えをしていた。

ツナカケは真上。藁で編んだ簾型の注連縄が架かっているその真下である。

火が消えたローソクが2本。

オヒネリに包んだ節分の豆がひと包み。

よく見れば隣の岩にのせていた。

しばらく、その場で状況を撮っていたら、集落中央に鎮座する神社の方から歩いてこられた男女二人。

もし、トシコシをされるなら写真を撮らせてもらってもいいでしょうか、と声をかけたら承諾してくださったW夫妻。

薄っすら残る夕暮れの空の下。

豆御供をしてローソクに火を灯す。

お二人が手を合わせていたトワイライトタイム。

残りの時間帯に駆け回る。



夫妻はツナカケの場の交差点向こう側の祠に安置している地蔵さんにも供えて手を合していた。

夫妻の話しによれば、先に神社に参ってきたというから、急いで神社に向かう。

着いた時間帯は午後6時10分前。あちらこちらにローソクの火が見える。

とにかく急ぐ灯りを求めて三社参り。



右から八王神社、榎木神社、愛宕神社であるが、ここに弁天さんがないぞ、と云ったのは孫さんと連れだって参拝に来られたM夫妻。

名刺をお渡しして許可取りした上で撮らせてもらうが、弁天社はどこにあるのだろうか。

三社のローソク立ては社殿下にある囲いの中。

灯りが浮き上がるような光で神々しく見える。

7月7日の祇園祭の燈明灯しもそうだったが、ローソクの灯りで美しさを感じる。

ずっと撮り続けていたい気もあるが、参拝者の情景も、である。

写真ではわかり難い豆御供の場。

それぞれ三房の注連縄下にある。



M家族が次にローソクを灯したのは杵都岐神社拝殿の真ん前にある踏み石に、である。

三社には囲いがあったからローソクの火は煌々と燃えていた。

拝殿前には風除けがないから、ふっと風が吹いたら消えてしまう。



なんとか火を点けて手を合わせる。

M家族が次にお参りする場は杵都岐神社右にある金比羅さんの石碑。

ここも風が吹き抜けだから思うように灯せない。



午後6時になれば辺りは真っ暗闇。

そこに浮かび上がるローソクの火によって幻想的な情景を醸し出す。

次は観音堂・薬師堂に、である。



両堂に祈りを捧げる観音講がある。

取材した平成22年23年当時は9人であったが、今は若い人4人で継いでいる観音講が営む場が観音堂である。

お堂の前にオヒネリに包んだ豆御供。

ここも同じようにローソク灯し。

手造りのような燭台にローソクを立てて火を灯す。

ここでお別れしたM家族は南の辻にあるツナカケの場に地蔵さん参りは7カ所であった。



そうこうしているうちに参拝者はお一人。

F家から西に住むご婦人も承諾してもらってシャッターを押す。



これまで灯されたローソクの火がいつのまにか増えていた。

風吹きも弱まったので火が消えずに参拝者を待ってくれていたかのようだ。



しばらくはどなたも来られない時間帯にローソクの灯りに照らされていた杵都岐神社全景を撮っておく。

少し離れた位置から撮るローソクの灯りは三カ所。

右手に見える石碑が金比羅さんである。

しばらく佇んでいたが、参拝者が途絶えたころを見計らって帰路についた。

ところで弁天さんはどこにあるのか。ぐぐって検索したネット情報によれば、弁天さんの古墳が見つかった。

(H29. 2. 3 EOS40D撮影)

八田伊勢降神社の特異な門松砂盛り

2017年10月04日 09時39分13秒 | 田原本町へ
天理市の檜垣町から同市の遠田町を経て田原本町の唐古。

さらに北上して大和郡山市に入ろうとする前に拝見しておきたい地がある。

田原本町の八田(はった)である。

神社は伊勢降神社。

春の御田植祭にたばった松苗を立てる苗代祭りも取材した神社行事である。

もしかとすれば簾型の注連縄があるのでは、と思って寄り道する。

期待は空しく、それはなかったが、砂の盛り方がユニークだった。

伊勢降神社は本社殿内にある社は市杵島社、住吉社、多賀社、春日社の四社。

その他に南側に道祖神社と保食社がある。

その間の境内中央に祖霊社を配置する。

本殿・拝殿前の玉垣前に設えていた松、竹、梅の門松に、である。

これまで拝見した県内各地の神社門松を立てる砂盛りとはちょっと違う。

砂盛りは前へ、前へと伸ばす。

これはいったいどういう意図をもっているのだろうか。

見慣れない形式の砂盛りではあるが、逆にユニークさを醸し出す。

その同じ形式で盛った砂盛りは境内社の祖霊社にも見られた。



拝見していたときに参拝者が訪れた。

お声をかけたら地元の女の子の二人連れ。

お正月の参拝に来られなかったので、今日にしたという。

何故にこのような形式にされているのかの問いには答えられなかったが、よくよく聞けば平成27年の2月26日に訪れた際に八田のさまざまな情報をお話してくださった昭和6年生まれのSさんのお孫さんだった。

なんでもこの年は父親が宮守さんを務めるという。

八田の宮守さんは4人。

その中でも一番若いという。

もう一度お会いしたいSさんは富士講でもある。

ずいぶん前にある学者が話しを聞きに来ていたと話していたことを思い出した。

まさかのお孫さんと遭遇するとは思っても見なかった八田の伊勢降神社の出合い。



南側にある道祖神社と保食社の門松立ても見ておく。

ここでは場所柄の関係かどうかわからないが、本社や祖霊社にあったユニークな砂盛りではなく、一般的な形式であった。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)