マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

第27回日本写真作家協会会員展+第14回日本写真作家協会公募展in大阪市立美術館

2017年10月21日 09時32分23秒 | しゃしん
フォトサークルDANを運営されている宮崎壽一郎さんから届いた写真展の案内。

会場は大阪の天王寺公園内に建つ大阪市立美術館だ。

ここで行われる写真展は初めて。

案内がなければ知ることもなかった日本写真作家協会会員展。

会員の宮崎さんも作品を展示している。

宮崎さんが主宰するサークルの写真展は何度か拝見している。

また、所属するJNP日本風景写真協会の奈良第1支部展示会も拝見している。

所属が異なれば作品はどういうものになるのか・・。

案内状に在室日時が書いてあったので、スケジューリングしていた。

何日も前からその日を意識していた。

明日はリハビリ運動で外来棟に行く。

明後日は歯医者で午後が空いている。

たしかこの日だったと思い込み。

自宅を出てJR大和路線に乗車した。

あらためて届いた案内状を見た。

日にちを間違ったことに気がついたが、もう遅い。

電車は快速急行で大阪の天王寺駅はもうすぐだ。

ご本人には会いたいが・・仕方がない。

会場は大阪市立美術館。

平成24年の秋に拝見した葛飾北斎展会場がここであった・・・。

いやもっと前にあった・・・。

そのときはおふくろにかーさんも拝見していた。

招待入場券を貰ったから出かけたまで。

車で出かけたから地下の駐車場を利用したと思う。

今回はJR天王寺駅を降りて地上に出る。

天井下などにある「大阪市立美術館」の文字を見ては真っすぐ、左、下、上へ記す誘導に沿って歩く。

地下から出ればそこは天王寺公園の一角にある「天芝」。

後方にあの有名な・・・タワーが見える。

そこから美術館がどこにあるのか道がわからなくなった。

警備服を着ている男性に道を尋ねた。

あっちで、こっちでも行けば着く。

あっちは狭いから・・・。

じゃ、こっちで行けばいいのですねと云えば、あっちでもこっちでもええ、という。

私はどちらの道を行けば良いのですかといえば、あっちでもこっちでも行ける・・・・。

こういう人の案内は案内でもなく、人を惑わす他ならない。

狭い方は工事をしているから危ないといっていた「あっち」を避けて「こっち」の道を行く。

正面にあった施設は天王寺動物園。

子ども、幼児でもわかるようにひらがなで「てんのうじどうぶつえん」の大きな文字が見える。

その右横のトイレに貼ってあった大阪市立美術館へ向かう→に沿って道を下る。



ようやく見つかった「地下展覧会室」。

受付、記帳を済まして奥の会場へ行こうとしたらその人が席を離れて案内してくださる。

その場は誰でもわかる位置であるにも関わらず案内をしてくれた。

“天芝”にいた警備員とはえらい違い。

警備に案内があるのか、ないのか、知らないが、そうあるべきだと思った次第だ。

手前の室内には絵画の展示会もあったが、本日は時間足らずで断念する。



向かった先の開場前にも受付はあるが、不要ですと云われて廊下奥にある展示室へ・・。

日本写真作家協会会員展は通称、略してJPA展と云えばわかるようだ。

展示作品の一切が撮影禁ズ。

記憶に残るように一枚、一枚、丹念に拝見する。

会の名称は写真作家。英語表記は“Photographers”。

アルベット表記はフォトグラファー。

名刺交換させていただく写真家さんは必ずといっていいほど“Photographer”の文字がある。

カメラマンとフォトグラファーは・・・どう違うねんと思いたくもなる。

ネットをぐぐってみれば商業ベースか、芸術性であるのかの違いとかで、海外では動画鳥のビデオカメラマンがカメラマン、写真撮りはフォトグラファーになるようだ。

では、写真家と写真作家の違いはどうなん、である。

天才写真家を自認する荒木経惟氏は云った言葉があるそうだ。

それによれば、「カメラマンは現実をそのまま切り取ってくる人。写真作家は現実を虚構化し、現実とは違った別のもの(写真作品)に置き換えて表現する人だ」という。

云っている言葉はよくわかる。

写真の原点は記録。

そこに芸術性を加えて表現をもつ。

とらえた人の意思を伝えるのが作品。

つまりは写真と云う道具を使って表現する作家ということなのであろう。

日本写真作家協会会員展を拝見させてもらって感じたことは多様化した芸術性作品である。

えっ、これが写真。

そう思う作品はけっこーな数であった。

写真展示数は204点。

作者一人について一枚の作品を展示しているから写真作家は204人にもなる。

また、新入会員の作品22点も展示してある。

それに加えて日本写真作家協会公募展が併設展示。

入賞・入選合わせて249点。

合計すれば453点。

一枚をじっくり見るとして平均10秒間の拝見であれば4530秒。

時間換算1時間15分にもなる。

立ち止ってしまう驚愕の作品もあればさらりと抜ける作品もある。

立ったままでの閲覧は身体的もよおしもやってくる。

それが限界と思って、駆け巡るように見ていた。

農村風景写真が突然に・・・。

十津川村の内原、滝川、谷瀬や旧西吉野村の永谷で拝見した多段型の稲架けを思い起こす写真のタイトルは「美しい農村」。

撮影地は新潟県の十日町。

夕暮れ近い情景であろう、その場で作業をされている男女は夫婦であろう。

下から刈り取った稲束を投げているのは男性だ。

それを受け取る女性は高所の稲架けに登っていた。

竿に足を絡ませて落ちないようにしている。

前述した十津川村や旧西吉野村の多段型ハダ架けを取材するにあたって他府県の在り方も調べてみた。

だいたいが北陸地方や越後、信州からやや東北で見られる稲架け。

多段型の構造は段数に違いはあってもほぼ同様である。

それを調べていたときに知った新潟県十日町の状況はネットで確認していた。

この作業を農業体験イベント・風物詩として紹介していた。

私は取材した十津川村の内原、滝川、谷瀬や旧西吉野村の永谷のハザ架けを8枚のテーマ組作品としてカメラのキタムラ奈良南店で展示した。

作業にともなう農家の苦労話を中心に構成した。

天候、気候を見据えながら刈り取り、ハダ架け作業に伴う労力。

年齢、体力面から考慮する作業の在り方を短文で書いた。

カメラマンにとっては風物詩。

美しい景観を撮ることに力を入れる。

当然の行為であるが、そこで働く人たちの姿をどうとらえるか、である。

「美しい農村」写真を拝見させてもらって感じたこと。

なんとなく躍動感が物足りないのだ。

投げる方は力強さがいる。

受け取る方は落としてはならないという責任感がある。

一束、一束は大切な稔りの作物である。

私がとらえた作品はローアングルに身を構えてレンズが見上げる二人の動きである。

投げる方は姉さん、受け取る方は弟。

年齢の違いもあるが、喜んでもらえる作品になったと自画自賛してしまう。

「美しい農村」にそれを感じないのは何故だろう。

カメラマンの立ち位置である。

真横から水平に撮っただけでは平面体。

平凡なアングルは平坦。

極端な言い方をすれば・・・申しわけないが、誰でも撮れる。

「美しい農村」でもないように思えた作品は会員作品だった。



すかっとした気分になって表に出た。

会場の大阪市立美術館に青空が映える。

その向こうに高さが300mの近鉄阿倍野に建つあべのハルカスが見える。



帰り道にはどこからでも見えるハルカスであるが、私は一度も入店したことがない。

(H29. 1.11 SB932SH撮影)
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願いは一つ、関係を絶つ

2017年10月20日 08時48分45秒 | むびょうそくさい
通いの病院は年末から年始の期間は休みだ。

リハビリ運動は一週間空いたこの日になった。

年末年始は民俗取材で明け暮れた。

正月三が日はおふくろも来ていたのでお酒の量が増えた。

普段であれば500mlの発泡酒が1本。

続きはサイダー割りの酎ハイが2杯。

いつもそうしている飲酒量。

で、あるが、正月は特別な日。

朔日、二日、三日連続になってしまった発泡酒の本数は倍になった。

それだけで合計が1リットル。

おまけに12月30日、1月1日、2日の服用を失念した。

取材地が遠いわけではないが、何カ所も巡る。

巡ってお昼を食べる。

食べたら昼の薬を服用する。

これが三日もしなかった。

てき面に症状が現れた。

その日は1月4日。

胸は弾けるしお腹が出っ張った膨満状態である。

胸が弾けたのは1月1日だった。

そのころから兆候が出ていた。

体重も増加の傾向にあった。

だいたいが68kg台。

稀に69kgになるがすぐに戻る。

それが1月1日は69.8kg。

2日は70.6kg。

3日は70.6kg。

4日も70.6kgだった。

お昼の服用は胃薬もあるが主役は利尿剤である。

前年の2月3日から増強服用している利尿剤はラシックスにアルダクトンA。

昼食後にそれぞれ1錠を飲む。

調子も良いし脈拍も元に戻りつつあるからやがては少なくなってもと思っていたが、甘かった。

症状が出ていたが取材帰りに家で食べる晦日、正月料理が旨いもんだからついつい増えた発泡酒。

身体が受け付けるということは身体自身が欲しがっているということだ。

それを正常だと思い込んでいたが、突然に受け付けなくなった。

その日は1月4日。

流石に膨満状態になれば受け付けられなくなった。

その夜は一切の酒を断つ。

4日の晩は寝つきが悪い。

症状が出ぱなっしでもなれば緊急性を要する。

明日は行きつけの病院に電話を架けて強制利尿剤をお願いしてみよう。

一昨年の12月はそうしてもらった。

注射をしたとたんに排尿を感じる。

1時間ほどで排出した尿は約1リットル。

発泡酒が2本の量である。

ビールも発泡酒も利尿作用がある。

飲み会で必ず現れる症状。

元気な身体で飲む場合は症状ではないが・・・。

それはともかく胸も腹もそうだが、身体全体が軽くなった。

そうして貰いたいと思いながら寝ついた。

翌朝の症状は落ち着いてはいたものの体重は69.4kg。

もう少しである。

翌日の6日は68.8kg。

7日、8日、9日は68.8kg。

そして、本日。

体重は68.2kgになっていた。

晦日、正月の特別ごちそうの関係もあるが、注意すべきことは毎日の朝、昼、晩に服用する薬を飲み忘れないことである。

肝に銘じて、そう思った。

というようなことがあって本日は新年初めてのリハビリ運動。

リハビリ療法士、循環器内科医師らに年始の挨拶。

「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」を交わすがどことなく可笑しい。

医師・療法士と患者の関係はあるが今年もよろしくでは症状が治らないことを認めたようなものだ。

医師・療法士と患者の関係は絶つに限る。

健康な身体に戻っておめでとうと云われなくてはならない。

私の思いは関係を早く絶てるようになることだ。

毎週のリハリビ運動には治療費がかかる。

1回当たりが2千円ほど。

一年間も通院すれば10万円にもなる。

年金暮らしの身ではほんまに辛い。

そんなあれこれの思いは心の隅に引っ込めたくもないが、目の前にある運動にガンバロウ、である。

苦しくもしんどくもない脈拍はこの日も高めでスタートする。

心電図を装着したときの脈拍は57-58拍。

明日から大寒波が到来する。

心臓病患者にとって大切なことは日々の寒さ対応であるいうリハビリ療法士。

特に入浴におけるヒートショックである。

脱衣場も風呂場も予め温めておくこと。

一般的な家庭であれば温かいリビングと違って風呂場はぐんと低い温度。

急激な温度変化に心臓がショックを受けるということだ。

その話しはまさにその通りだった。

7日は民俗取材だった。

昼間は高気温で良かったが夕暮れともなれば気温はぐんと下がった。

しかも4時間かけて取材は屋外。

すべてが終わって公民館で暖をとる。

身体はすっかり温まっていた。

その場でお礼を伝えて部屋から出た。

そこは外気温と同じぐらいの室温。

急激な変化である。

靴を履こうとして立った。

立った瞬間にふらついた。

ふわーっと倒れる。

意識ははっきりしているが身体が斜めになる。

平衡感覚がなくなったような感じで座り込んだ。

たまたま傍に居た知人が身体を支えてくれた。

たぶんに違いないヒートショックである。

しばらくはその場に座っていた。

頭はすっきりはっきり。

なんともないから目眩でもない。

数分後には立ち上がった。

何事もない。

たぶんに一挙に血圧が上昇したと考えられる。

その値も尋常ではない。

200は遙かに超えていたと思う。

その後はまったく出ないが、毎日を暮らしていると、いつ、突然にやってくる・・・が怖い。

それはともかく準備運動での脈拍は60-61拍。

スクワット運動では63-64拍。

それほどの変化は見られない。

自転車ペダル漕ぎの慣らし運転。

そのときの血圧は113-59。

脈拍は61-62拍だ。

踏み始めて1分後のワークは55。

回転しだしてから1分後の脈拍は67-68拍。

ぐんぐん上昇していく。早い段階での脈拍上昇はこの上ない。

6分後の血圧は133-56。

脈拍は73-74拍。

この日も上向き傾向である。

立ち上がりがいきなりの70拍台は嬉しい。

11分後の血圧は149-59。脈拍は73-74拍。

16分後の血圧は151-55。脈拍は73-74拍。

21分後の血圧は124-55。脈拍は76-77拍。

ようやく汗がでる。

ラスト、26分後の血圧は123-59。

脈拍は73-74拍で終えた。

最後に状態を陰ながら見守っていたK循環器医師が云った。

調子が良いですね、である。

まったくもってその通りであるが、起床時は相も変わらず38拍-39拍。

これが私の現況である。

(H29. 1.10 SB932SH撮影)
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岩屋の山の神

2017年10月19日 08時41分38秒 | 山添村へ
鵜山のオコナイ取材を終えても、日暮れまでの僅かな時間がある。

そんな時間も活用して少しでも山添村の民俗を紹介したい。

この日、同行取材していた写真家Kに見ていただきたい山の神は岩屋である。

ここもまた、1月7日にされている。

どこともそうだがお供えは7日の朝。

翌日は暴風雨。

雨にあたられた鵜山の山の神はクラタテに敷いた半紙が溶けていたし、ミカンもなかった。

岩屋はどうであろうか。

これまで、中出、下出辻の上、下出辻の下の3カ所の山の神御供を拝見したことがある。

一つは平成23年の1月10日

供えてから3日も経っていた日だった。

翌年の平成24年1月7日は写真家仲間を案内して山添村の毛原、岩屋、三ケ谷、菅生の在り方を見て回った。

大字ごと、或いは垣内ごとに祭り方の違いが見られた。

この日はすべてを見るだけの時間はない。

残された時間はとても少ない。

オコナイ行事を取材した鵜山から迂回する山間道路。

帰り道にもなると判断して岩屋に着いた。

撮れる時間は20分しかない。

大慌てで3カ所を見て回る。

まず一つ目は下出の辻の上。

3月になれば真っ赤な花を咲かせる椿の樹の下にクラタテがある。

個数は七つだ。

平成24年は九つであったが、少し減っていた。



無残な姿であるが、仕方がない。

個数確認の記録でもあるので撮っておく。

その場でもわからなくもないが、撮る位置を移動して横から拝見するホウソウ(コナラ)の木で作ったカギヒキ。

中に石を詰めたフクダワラも見える。

二つ目が下出の辻の下。



昔も今も変わらない情景に山の神御供がある。

クラタテをざっとかぞえてみれば10個ぐらいか。

平成24年から比べてみれば1個が減った。

ここもホウソウの木(コナラ)で作ったカギヒキにフクダワラもある。

ホウソウの木にある枯れた葉の形状からコナラであるのがよくわかる。

三つ目に中出を選んだ。

中出の特徴はここにある。

柴垣に囲われた竹林。



その内側にある大岩が山の神である。

いつも綺麗に作られている柴垣が美しい。

手入れをされる日は前年の11月7日

この日もまた、ある意味山の神。

この方角からは1月7日に供えられた山の神の御供は見えない。

向こう側に見える所まで下って降りる。

16個ほど並んだクラタテ。

壮観な景観のどこからとらえてみるか。



道の下にずらりと並ぶ石仏群の由来は知らないが、これもまた壮観なお姿に惚れこんで並べて撮った。



岩屋の山の神の地は5カ所あると聞いているが、残る2カ所は上出にあると思荒れるのだが、どこにあるのか、未だ探せていない。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)
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鵜山・真福寺のオコナイ

2017年10月18日 08時55分18秒 | 山添村へ
山添村の最奥の東に位置する大字に鵜山がある。

同じ大字名の鵜山は名張川を隔てた東の三重県名張市にもある。

両県に跨る同名地の鵜山は明治のころ(と思われる)に行政区割りされ、奈良県と三重県側に二つが存在することになった。

山添村大塩の住民K氏は奈良県側を西鵜山、三重県側を東鵜山と呼んでいる。

三重県側から言えば山添村の鵜山は大和鵜山と呼ぶ東大寺の所領地である。

その地にある寺社は真福寺に八柱神社だ。

当地に始めてやってきたのは平成25年の1月7日だ。

その日にお会いしたご婦人が話してくれた鵜山のオコナイ行事である。

長老が唱える般若心経がある。

オコナイに般若心経では僧侶の姿が見えない。

たぶんにそうであろう。

そのうちランジョーと呼ばれる作法がある。

ハゼノキを縁か何かに叩く。

その間には太鼓も打つ。

ランジョー作法をしているときの各家はどうしているか。

婦人が云うには各家の座敷を掃除するというのだ。

これはどういうことなのであろうか。

一般的にいえばランジョーは村から悪霊を追い出す所作である。

悪霊は家の座敷からも追い出す。

そういうことではないだろうか。

オコナイを終えた村の人は勧請縄を椿の木に架けると云っていた。

同時進行かどうかわからないが、村の初祈祷、つまり修正会にはオコナイにツナカケの両方をしている村がある。

山添村でいえば岩屋である。

興味を持ちづけてから早や5年。

ほぼ時間帯も聞いていたから、とにかく行ってみようということにした。

午後1時前、鵜山に着いてはみたものの誰もいない。

時間帯が違ったのか、それとも日にちが替わったのか不安になる。

どなたかが来られる可能性も捨てきれず、二日前に行われた山の神の痕跡を拝見していた。

前日は暴風雨であった。



雨がいかに激しかったかわかるクラタテに敷いた半紙である。

クラタテは四つ。

いずれも幣を取り付けている竹を四方に立てていた。

その真上にあるカギヒキ。

大木カシにぶら下げていた1本、2本。

いずれも藁で作ったホウゼンもある。

村の戸数は17戸。

山の神の御供は5年前より、また少なくなっていた。

さて、本日に行われるオコナイは真福寺である。

本堂一部の扉を開放していた。



鴨居に注連縄を張っている。

お参りに来られる人のために扉を開放しているのだろう。

賽銭箱があり、その横に松の束もある。

細い注連縄もあり、シキビと思われる葉を挿していた。

そこへ村の人と思われる男性がホンダ製の電動カートに乗ってやってきた。

行事取材のことを伝えたら受け入れてくださった。

男性はこの日に務める話しを堂下(どうげ)さん。

行事進行を手伝う役目にある。

ここ山添村では手伝いさんのことを堂下で呼ぶ地域は多い。

ほとんどと云っていいくらいに多い。

寺の扉を開けるから上がってと云われて入堂した真福寺は村の会所にもなっているようだ。

村の行事を下支えする手伝いの堂下さんの計らいで本尊を安置する場も案内してくださる。

正面は美しい姿の地蔵菩薩立像。

その下にある小像は不動明王であろうか。

右座は弘法大師。

左に阿弥陀仏であろうか。

その並びのさらに右横に役行者に赤鬼、青鬼の二体。



赤鬼、青鬼は前鬼に後鬼であろう。

その右横に架けてある掛図も弘法大師。

同寺は高野山真言宗である。

その弘法大師尊像を描いた掛図は新調されたのか、それとも修復されたのか、真新しい。

もしかとしてと思って掛図の裏面を拝見したら、あった。



表装仕直したときに昔の書を切って貼ったのだろう。

元の書面に寄進されたと思われる講中10人の連名書がある。

寄進年号は享保四亥年(1719)正月□一日。

右写し之講中5人の名もある。

その時代は弘化三年(1846)午六月。

表具云年とあるから表装仕直し。

さらに年月を経た昭和14年は手直し。

続けて平成6年9月に表具とあった。

300年も継承してきた弘法大師尊像の掛図である。

ちなみにお葬式の際にお墓にもっていった傘も残していると話してくれたが、実物を拝見する機会を逃した。

本堂を拝見させてもらって気がつく仏間の清掃時期。

1月はオコナイ行事の前。

3月は春の彼岸前。

5月は月末日。

8月はお盆の前。

秋の9月も彼岸前。

10月は村の祭りの前である。

いずれも掃除をされる人は堂下さん。

行事の日までに清掃されて、美しくしている。

そのような話題提供をしてくれる堂下さんは準備に忙しい。

しばらくすれば区長以下村の人たちもやってきた。

人数が多くなれば準備作業が捗る。

天井に吊っていた太鼓を降ろして床に置く。

太鼓を吊っていたロープを紐解けば緩やかに降りてくる。

手慣れた作業ぶりである。



先に来ていた堂下さんは用意していた注連縄に松葉とフクラソの枝木を挿し込む。

堂下さんが云うには、この注連縄は縄であっても勧請縄だという。

村の入口辺りに生えている太い椿の木がある。

その木に架ける勧請縄は一年間も鵜山の入口に祭られる。

悪霊が村に入ってこないように村を守る勧請縄を架ける地は「カンジョ」の名で呼んでいる。

もう一人は墨を摺る。

おそらくごーさん札の墨書であろう。

そう思った通りの墨書は手書き。

やってくる村の人が一枚一枚書いていく。



書いた文字は右から「牛王 真福寺 宝印」だ。

細筆で書いたものだから文字は細い。

そこに押す朱印は古くから使われてきた宝印。



角がすり減って丸い。



朱肉のベンガラにつけて印を押す。

来られる村の人、それぞれがごーさん札を書いているのが珍しい。

これまで数々のオコナイを拝見してきたが、村の人の各自一人ずつが作るのはおそらくここ鵜山だけではないだろうか。

もう一つの特徴は「蘇民将来」の紙片である。

名前書きの紙片もある。

「蘇民将来」の紙片の文字。

「そうみのしそんなり」の表現もあればカタカナ表記の「ソミノシソンモンナリ」とか「ソミン シソンナリ」というのもあるし、漢字書きの「蘇民生来子孫門也」もある。

何枚かに分けて書かれた紙片は、先を割っためろう竹(女竹)に挟んでいる。

枚数は家族の人数分であろうか、聞きそびれた。

これを見て思い出したのが、隣村になる別れの村の三重県名張市の鵜山・福龍寺で行われたオコナイ行事である。

名張市鵜山のオコナイによく似たものが登場する。

福龍寺本堂の柱に括り付けた紙片がある。

フシの木片の四方に「ソミ」「ノシ」「ソン」「ナリ」の文字がある。

コヨリ捩じりの青、赤色紙を付けて鮮やかな「チバイ」は護符。



紙片には「ソミノシソンナリ」の文字がある。

供えた家族の人数分だという「チバイ」は蘇民将来(そみんしょうらい)の子孫成りというのである。

挟む竹の違いは見られるものの、両鵜山の人たちはいずれも蘇民将来の子孫成り、であった。

平成25年の1月13日に取材させてもらった名張市鵜山のオコナイに感謝したのは言うまでもないが、山添村鵜山の「蘇民将来」の紙片の名称を聞かずじまいだった。

村の人たちはそれら以外に御供する餅2個を持ち寄っていた。

餅は1軒について2個ずつと決まっているそうだ。

もう一つの仕掛りは勧請縄に架ける板書の木札である。

古くから使われてきた木札に文字がある。



右から「記 奉修勧請 天下泰平 村内安全 五穀成就 ☆ 表象 平成二十八年」とあった。

この板書の木札は毎年使ってきたが、年に一度は年号を書き換える。

年号は替わっていないから書き換えるのは年数である。



今年は平成29年であるから、「八」の部分を小刀で削って文字を消す。

消えたら「九」の文字を墨書する。

堂下さんも忙しいが村の人たちもすることがある。

区長も一緒になって朱印を押したごーさん札を竹に挟んでいた。



竹の先っぽは三ツ割。

3カ所の切れ目にごーさん札を挟む。

図で書けばわかりやすいが、文字で説明するには難しい。

三つに割いた2カ所の切れ目に二つ折りしたごーさん札を丸めるように挟むのだ。

挟むと云うか、窄めて丸めて切れ目に入れる感じである。

札は二つ折れのまま二枚重ねで残る切れ目に挟む。

そうすれば抜けることはない。

今では竹挟みになっているが、かつてはハゼウルシの木を三つに割ってそうしていたと推測される。

このごーさん札はオコナイによって初祈祷される。

祈祷されたお札は持ち帰って苗代に立てると云っていた。

時期はいつになるのか聞いていないが、おそらく早植え。

していれば、であるが、JAから苗を購入している場合はおそらく立てることはないと思われる。

こうした準備を整えてもまだ終わらない。

作業は勧請縄作りである。

鴨居にロープを三本垂らす。

それに差し込んでいくモノがある。

松の枝木とフクラソ(フクラシの木)の枝木である。

葉がある松の枝木は2本。

葉はそれぞれが外側になるようにする。



写真でわかると思うが、ロープを一回転させて固定するのは葉側の外のロープだけだ。

中央のロープを拡げて、そこに枝を差し込む。

そうすることで中央のロープに固定する。

その次も同じようにして固定する材はフクラソ(フクラシの木)である。

フクラソは葉っぱ付き。

松と同じように葉が外側になるように固定していく。

上から順に、松、フクラソ、松、フクラソ、松、フクラソのそれぞれを順に三段組み。

それを2セットの一対を作って、間に幣を挟む。



こうして出来上がった勧請縄は壮観に見える。

完成すれば本尊前の祭壇に置いて祈祷する。

女竹に括り付けた「ソミノシソンナリ」のお札にごーさん札も並べる。



お神酒もお餅も供えてオコナイの準備が調った。

堂下さんが下支えされた作業は材料の調達から道具の準備に祭具の調整などに直会後に行われる勧請縄架けまである。

受付が始まった時間は午後1時。

祭具などすべてが調った時間は午後2時半であった。

そうして始まった鵜山のオコナイ。



太鼓打ちを役目する堂下さんも席に着いた。

もう一人の堂下さんは掃き箒を手にした。

太鼓を打つ間に座敷の床を打ち鳴らすダンジョーの所作がある。

かつては内陣であったろう。

今は会所にもなっている場は畳座敷。

畳が傷んでしまってはいけないからと叩かれるめろう竹は横に置く。

叩く木は平成26年までハゼノキであった。

採取するのが難しくなって、翌年の平成27年より市販の丸太材にした。

本尊、祭壇前に座る長老が導師となって般若心経を唱える。

一同も揃って唱える般若心経である。

一同がそれぞれの場に着座されてから始まる。

それぞれの席にはめろう竹と叩く丸太材も並べた。

おりんを打って唱える心経は読本もある。

一字、一字の心経を丁寧に唱えられる。

そのときだ。



大きな声で発せられた「ダンジョー」の合図に太鼓はドドッド、ド・・の連打。

丸太材で叩く人たちもカタカタカタ・・と連打する。



突然に動き出した箒掃きの堂下はせっせと勧請縄を作っていた残骸を掃きだす。

それまで閉めていたお堂回廊側の扉を開放して箒で掃きだす。



このような所作ははじめて見る。

これまで拝見した村行事のオコナイ事例は67行事。

その中でも特筆すべき所作である。

尤も県内事例にオコナイすべてにランジョー所作があるわけではない。

私が取材した範囲であれば42行事。

その中にも類事例は見当たらない。

驚くばかりの箒掃き所作に感動する。

箒掃きは太鼓や丸太材叩きのランジョーが終わるまで掃き続ける。

時間にしてみれば1分間もなかったであろう。

音が消えたらあの喧噪さはどこへいったのだろうと思ってしまうぐらいの静けさの村に戻る。

太鼓や丸太材(かつてはハゼノキ)で叩く音が村内に響き渡る。

その音を聞こえた人も、聞こえなかった人も、聞こえたと想定して、各家に居る婦人たちは家の座敷を箒で掃く。

まるで普段の生活のように座敷を掃除するかのように箒で掃くと堂下さんが話してくれた。



縁側まで掃いて外庭まで掃くような感じで悪霊を追い出したということである。

音も掃除も悪霊を追い出す所作。

板書に書いた「天下泰平 村内安全 五穀成就」の如く、村から悪霊を追い出して村内は安全にと祈祷されたわけだ。

オコナイは未だ終わらない。

ありがたいごーさんの朱印がある。



どこともそうであるが、朱印は額に押して印しを受ける。

ベンガラの朱印だけにベタっとつく。

いくつかの村で押してもらったことのある額押し。

そのまま帰宅したときの家人の驚いた顔が忘れられない。

この額押しを含めた所作が一連のオコナイ行事。

終った時間は午後3時前だった。

それからは直会をしていると聞いていた。

会食を含む直会はだいたいが1時間。

それが終わってから勧請縄架けに行くと話していた。

凡そ1時間と判断して遅くなった昼食を摂る。

鵜山にはスーパーもコンビニエンスストアもない。

何も用意していなかったから近くのスーパーイオン名張店まで。

鵜山からそれほど遠くはないように思えたが、思った以上に時間がかかる。



大急ぎで食べた時間は午後3時半。

落ち着いて食べている場合でもない。

真福寺に戻って直会が終わるのを待っていた。

そこにやってきた堂下さん。

もう済ましたと云うから大慌てだ。

カンジョ場はすぐにわかった。



なるほどここが村の入口。

風景写真家が撮った写真を見たことがある景観であるが、彼らはカンジョ場に架けた勧請縄を知ることはないだろう。

架けた大木は樹齢が何年。



古木のような感じはしないでもない樹木は椿。

3月になれば赤い花を咲かせているのだろうか。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)
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切幡の弓始め

2017年10月17日 09時32分27秒 | 山添村へ
切幡の小正月行事はかつて1月15日だった。

その日は垣内ごとのトンドが終わってからは上出、下出垣内ごとの弓始め行事があった。

今でもしていると思われた弓始めを拝見したくなって、この年の当家がどの家であるのか、教えてもらって行事の家を訪ねる。

小正月行事には違いないが、日にちが替わったのはいつだったろうか。

これははっきりしている。

ハッピーマンデーの施行日である。

週休二日制が全国に浸透し始めたのは平成時代に入ってからであろう。

「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」および「国民の祝日に関する法律及び老人福祉法の一部を改正する法律」が定まって、平成10年に「成人の日」と「体育の日」がハッピーマンデーの月曜日に移った。

「海の日」に「敬老の日」は平成13年になってからだ。

切幡の弓始めがハッピーマンデーの「成人の日」に移行して、早や19年。

月日というものは早いものである。

村の安全や五穀豊穣を願う年初の行事。

初祈祷のオコナイは1月7日の山の神の日。

これは昔も今も替わらない年初の村行事。

7日は山の神行事が終わってからオコナイ行事をされる。

成人の日はトンド行事が終わってから弓始め行事がある。

なんとか間に合うと思われた今年の弓始め行事の場は上出のトンド場の真ん前の家だった。

今、まさに始めようとしていた当家は馴染みのある人だ。

急な撮影にも応じてくださったのが嬉しい。

弓始めは儀式であるが、弓を射る人も当家家族も普段着で行われる山添村切幡の弓始め。

平成22年の1月11日に取材させてもらったときとなんら変わっていない。

射る矢はアマコダケ(ススンボ竹)。

弓は青竹で作ったという。

平成22年に聞いていた弓の材はシンブリの木で弦はフジツルであった。

矢の本数は特に決まっていないが、射る方角は最初に天を。

次が地である。



東、西、南、北に矢を放って最後の〆に鬼を射る。

的の鬼は手書きでなくカラー色の写し。



ダンボール紙に貼り付けていた鬼の絵は平成22年に拝見したときも写しであったが、デザインは違っていた。

矢を射る人は村神主に次年度に村神主を務めるミナライの二人。

打ち終わって二人に問う下出の弓始め。

それについては、今はない、という。

ないというよりも4年前に上出、下出それぞれにあった当家制度を村一本化にした。

そういうことで弓始め場も統合化、ということである。

村行事のあり方は少しずつ変化させてきた。

今後もまた改革することになるだろうと話していた。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)
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切幡のトンド

2017年10月16日 08時12分28秒 | 山添村へ
明日香村の八釣はトンド焼きの翌日に灰を「豊年、豊年」と云いながら畑に撒く。

同村の川原や小山田では灰撒きをしたら田に虫がつかない、と云われていた。

山添村切幡に同じようなことをされている人がいる。

お家で行われている年中行事の数々になにかとお世話になっている。

大字切幡のトンド焼きは平成22年の1月11日に取材したことがある。

あれからもう7年も経っていた。

月日の廻りはとにかく早い。

早いと云っても宇宙の運行は一定であるから、気持ち的に早くなっているだけだ。

かつては小正月の1月15日に行われていた。

15日は成人の日でもあったが、ハッピーマンデー施行によって毎年の日は動く。

トンド日を成人の日で覚えていた人は記憶がこんがらがってしまった人も多い。

いつされているのですか、と問えば、成人の日を応える人もあれば小正月の15日という人も多い。

慣れ親しんできた小正月行事がハッピーマンデー施行によって大きな変革があった。

県内各地のとんど日が変動する成人の日に移した地域があまりにも多くなったから、実にややこしい。

それも慣れてしまえば、覚えられるもの。

慣れとはそういうものだ。

さて、切幡のトンドは垣内単位でされている。

上出、下出、井ノ出谷の他、もっと少ない軒数でされているところもある。

上出は仕掛りはじめ。

調えば火点けをされる。

存知している人が多い地域。

走る車から頭を下げて次の垣内へ向かう。

ここ井ノ出谷は火点けを済ませていた。



ポン、ポンと燃えた竹が爆ぜる音が谷間に拡がる。

もう一カ所は二人だけで行われる小とんど。



以前はもう1軒もあったが、今は村を離れている。

昨夜に降った雨で畑は水浸し。

近くに生えている竹を伐り出して火を点けた。

ここもポン、ポンと音が鳴る。

枯れた竹でも鳴る場合はあるが、青竹であれば必ずや鳴る。

竹の内部に詰まっていた空気が弾ける音を聞くと懐かしい。



火が落ち着けば、家から持ってきた餅を焼く。

竹の先に挿すことなく、網焼きである。

焦げ目がついたら焼き上がり。

ほくほく熱々。

手で転がさないと冷めてくれない。

普段であれば焼いた餅は家で食べる。

今回は特別に焼いた餅をくださってよばれた。



食べ終わってからおもむろに動いた男性は手造りの大型ジュウノ(什能)でトンドの灰を掬う。

灰がジュウノから毀れないように、そのままの状態でもって田んぼに移動する。

豊作を願う灰撒き。



地方では虫が寄りつかないようにというまじないでもある。

田んぼの枚数ごとにこうして灰を撒いている、という男性はかつて味噌を家で作っていた。

焼けた竹を持ち帰って、家にある味噌樽の上にのせておいたら作るのがしくじらんかった、と云う。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)
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ナルカナランカ

2017年10月15日 11時35分53秒 | 山添村へ
O家に寄る前に先に伺ったT家。

庭に長い木を横たえている。

そこに置いてあった小豆粥。



昔は小正月の1月15日にしていたT家の「ナルカナランカ」のお供えであるが、どちらかといえば小正月の小豆粥が色濃い様相である。

これより始まる垣内のトンドの前に伐ってきた木はホウソの木。

ホウの木の名で呼ぶこともあるらしいが、たぶんにコナラの木であろう。

そのホウソの木の本数は家に居る男の人の数を揃える。

お爺さんに息子さんに孫さんにひ孫。

三世帯同居の大家族だ。

長さに決まりはないらしいが、立派な大きさのホウソの木である。

このホウソの木はトンド焼きを終えたら割り木にする。

その割り木は翌年の薪に利用すると話してくれた。

撮らせてもらったときの時間帯は午前9時半。

村にある他の垣内の行事を拝見して戻ってきた午前11時過ぎ。



チェーンソーで切って束ねていた。

間に合わなかった。

山添村でナルカナランカをしているお家は少ない。

聞いているのは先ほど拝見したT家とこれから向かうO家だけだ。

他の村々でも話題に上らなくなったナルカナランカ。

民俗語彙で云えば成木責めである。

編集発行は田原本町教育委員会。

昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に「成木責め」のことが書かれている。

大字矢部のトンド行事に関連する小正月行事の記事に「正月14日に集めた丸太の心棒に藁束。大きなトンドを組んだ翌朝15日の4時に点火する。燃え尽きるころのトンドの火は提灯に移して持ち帰り神棚の燈明に移す。トンドの火はそれだけでなく家で小豆粥を炊く種火にする。炊いた小豆粥は家の神仏をはじめ出入口や井戸にも。宮さんの杵都岐神社に三社、観音堂、薬師堂、ツナカケ場、地蔵尊などにも小豆粥を供える。子どもたちは、トンドで燃え残った竹の棒をもって、家々の成木(※実の成る木で特に柿の木)に向かって、“成るか、成らんか”と声をあげる。次に、それに応えるように“成ります、成ります”と自問自答してあちこち走り回る。これを成木責めという」解説文(※わかりやすいように一部補正して文章化した)がある。

尤も現在は休止中と補足してあることから、昭和59年にはすでに中断している習俗である。

平成3年11月に発刊された中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。

その中に、項目「ナルカナラヌカ」に挙げていた御杖村習俗の解説文に「15日の朝の小豆粥を柿の木に供える。このとき、一人がナタを持っていき、「ナルカナラヌカ ナラントチョンギルゾ」と唱えると、もう一方の一人が「ナリマス ナリマス」と、唱えてから柿の木に粥を供えた」と書いてあった。

「ナラントチョンギルゾ」とは思い切った言い方であるが、同じような台詞を聞いたことがある。

その地は東山中。

奈良市別所町で話してくださったO婦人の体験記憶。

「正月七日の七草の日だった。一人の子どもがカキの木にナタを“チョンしてなるかならんか”と声をあげた。そうすれば、もう一人の子供が“成ります 成ります”と返答した。親から“ナルカナランカをしてこい”と云われたのでそうしていた」という事例の言い方は若干の違いはあるが、まさに同意表現である。

ただ、何をちょん切るのか、曖昧のように思えた。

昭和63年10月、天理市楢町の楢町史編集委員会が発行した『楢町史』がある。

「1月15日の朝、正月の注連縄、門松などを集めてトンドで焼きあげた。トンドの火で焼いた餅を食べると歯が強くなる。“ブトの口も焼こう、ノミの口もシラメの口も焼こう”と云って餅を焼いた。家では小豆粥を炊いて神仏に供えた。また、柿の木にナタでキズをつけて、“この木、成るか、成らんか”と叩いて木責めをして小豆粥を挟むこことある」という記事も注目される。

また、編集・発行が京都府立山城郷土資料館の昭和59年10月に発刊した『京都府立山城郷土資料館企画展-祈りと暮らし-』に、精華町祝園で行われていた成り木責めの習俗が書かれている。

「正月の井戸飾りに使った竹の先に餅をさして、トンドの火で焼いてたべていた。この餅は歯痛のまじないになり、屋敷の乾(戌亥)の方角に立てて蛇除けにした。この他、トンドで餅を焼いた竹で、柿の木を叩いて、成り木責めをしていた」とある。

他にもかつてしていたという地域が多々ある。

天理市苣原町、天理市藤井町、奈良市都祁南之庄町、山添村大塩、山添村毛原、宇陀市菟田野佐倉、宇陀市大宇陀本郷に御所市東佐味などだ。

奈良県内の広い地域に亘って行われていた「ナルカナランカ」は今や絶滅危惧種。

山添村内の一大字で数軒が今尚続けておられたことに感謝する。

先に挙げたT家も昔はナタでキズをつけて「ナルカナランカ」をしていたが、今はそれをしていない。

ただ、ホウソの木に供える小豆粥は今も継承しているのであるが、これから向かうO家はナタでキズをつける「ナルカナランカ」はしている。

両家の在り方を見ることで、一つの事例として記録させていただくのである。

貴重な事例を撮っておきたいと願い出た写真家Kさんの希望を叶えたく訪れた。

O家もT家を同じように伐ってきたホウソ(コナラ)の木を並べていた。



家のオトコシ(男)の数だけ伐ってくるというホウソの木。

「ほんまは4人やけど、今年は5本にした」という。

T家ではここに小豆粥を供えていたが、O家にはそれがない。

これから出かける自前の山。

ご主人が生産している茶畑まで案内されるが、山の上。

急な坂道に軽トラが登っていく。

一面いっぱい広がる茶畑に残り柿がある。

前述した事例のすべては柿の木。

「ナルカナランカ」をするには必須の山の木である。

男性が云うには、ここには柿の木が数種類あるという。

熟しが美味いエドガキにコロガキ、イダリガキがある。



そのうち、一本の柿の木に向かってナタを振り上げる。

カッ、カッと音を立てるナタ振り。

数か所にキズを入れたら小豆粥をおます。

供えるというよりも「おます」の表現の方が合っている。

奈良県人のすべてではないが、供えることを「おます」と云う人は多い。

尤も若い人でなく、高齢者であるが・・・。



小皿に盛っていた小豆粥を箸で摘まんで切り口におます。

キズをつける場所は二股に分かれる部分であるが、この年は幹の数か所にキズをつけた。

キズ口は白い木肌。



そこに小豆粥を少し盛る。

男性は「ナルカナランカ」の台詞を覚えておられないが、おばあさんがおましていたので今でもこうしているという。

「もう一本もしておこう」とすぐ傍にあったカキの木に移動した。

そこでも同じようにナタを振って伐りこむ。

そして、小豆粥をおます。

眺望は山村ならではの地。



美しい風景に思わずシャッターを押した向こう側を高速で走り抜ける車。

眼下を走る道路は名阪国道。

資本経済を運ぶ物流の道でもあるから平日はトラックが多く見られる。

山添村毛原で聞いたトンド焼きがある。

書初めの書も焼くトンド焼きに餅も焼く。

竹の先を割って餅を挟む。

それを火の勢いが落ちたトンドに伸ばして餅を焼く。

焼いた餅は小豆粥に入れて食べる。

餅を焼いた竹は1mほどの長さに切断して持ち帰る。

家にある味噌樽や醤油樽の上にのせておけば、味が落ちないという俗信があった。

焼けたトンドの灰は田畑に撒く。

トンド焼きの前にしていたのが、「ナルカ ナラヌカ」であった。

柿の木の実成り、つまり豊作を願って柿の木の根元辺りの粗い木の皮をナタで削り落として、「ナルカ ナラヌカ」を叫びながら、ナタ目を入れる。

ナタで削った処に持ち帰ったトンドの火で炊いた小豆粥を供えた。

時間帯は早朝だった。

この事例でもわかるように柿の実成りを願う作法なのである。

おます小豆粥はトンドの火で炊く。

二つが揃って成り立っていた「成木責め」は小正月行事であった。

「成木責め」は奈良県特有でもなく、他府県にもあった。

ネットで紐解けば、日本大百科全書どころか、ブリタニカ国際大百科事典や世界大百科事典にも載っている項目である。

なお、同村の知り合いにNさんが居る。

同家も「ナルカナランカ」をしていたが、それはお婆さんが生きて時代だった。

柿の木をナタでキズをつけてアズキ粥を供えていたと云う。



そのときの台詞が「成るか、成らんか 成らんならな、ちょちぎる」だったことを思い出した。

成木責めをもって村起こしをしている長野県飯田市鼎東鼎の事例もある。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)
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天王区の民俗あれこれ

2017年10月14日 09時27分22秒 | もっと遠くへ(大阪編)
「フク」を授かったお家にお札があった。

貼ってあったお札に「城南宮方除御礼」の願文がある。

調べてみれば、方違(ほうちがい)に際する災い除けのお札である。

例えば新築するときなど、その方角の地に建ててはならないという場合に、悪除けにお祓いしてくださるお札である。

我が家も新築する際は、大阪府堺市北三国ケ丘に鎮座する方違神社にお参りして祈祷して貰ったお札を我が家の裏鬼門の柱に貼っている。

それと同じようなものだと思われるお札は京都市伏見区中島鳥羽離宮町に鎮座する方除けの城南宮で授かった「ほうよけのお札」であった。

それにしても、ここ取材させてもらったお家の入母屋破風の開き扇文様も気にかかる。



懸魚(げぎょ)の下にある扇がとても素敵に見えるお家はなんとなく元庄屋宅のような気がしてならない。

民俗は景観にもある。

何年か前から「干す」をテーマに撮り続けている。



これだと思ったら撮らせてもらう「干す」は食べるものもあれば衣服に水田も・・。

いずれも燦々と輝く天の恵み。

その様相に思わずシャッターを押す。

この写真は民家を背景にタオルや衣服を干している情景である。

どちらもそうであるが暮らしの一コマ。

暮らし、営みのすべてが民俗だと思うのだ。

次の一枚は地蔵菩薩立像の足元に供えた正月の鏡餅。

パックに詰められた鏡餅だから日持ちする。



傍には賽銭もある。

信奉する村の人の気持ちは、この一年をお守りくださいということだろう。

さらに視線を落としたところにあったお粥。

葉っぱを添えてあることから七草粥。

そう、この日は1月7日。

家で作ったと思われる七草粥は石仏下にも供えていたこの場は臨済宗妙心寺派巨嶺山長林寺(ごれいざんちょうさんじ)である。



史料によれば毎年の1月8日は「八日薬師のトウ(塔)」の名で呼ばれる行事がある。

史料には「牛王木を作って宮座に配る、苗代に立てる」とあった。

「牛王木」とはその字からしてごーさん杖。お札はごーさんであろう。

その八日薬師のトウをされる場が長林寺とあった。

翌日の9日には新年祭参拝を兼ねた「十九日の宮のトウ(塔)」と呼ばれる行事もある。

場は高皇産霊神社および公民館のようだ。

寺、神社揃う神仏混合の行事に興味がふつふつと湧く。

いつかは取材してみたいものである。

キツネガエリの一行が立ち寄る先々にみられる民俗についつい長居をしてしまう。

先に行ってしまった一行は太鼓打ちにキツネガエリの囃子もある。

静かな村里にこだまするからどこら辺に行っているかは判断がつく。

その合間を狙って天王区の民俗あれこれを記録する。

これは鹿の糞。



山間地もそうだが村里に下りてくる獣たちに悩まされているのは農家さん。

奈良県でもそうであるが、「仕事をいっぱい作らしてくれよんや」という言葉が、大変さを訴えている。

ここ天王区は鹿だけでなくアライグマも出没する。

この日は藁で作ったキツネも出没するが、ほんまもんの獣が食べ物を育てた土地を荒らす。

精魂込めた野菜などは全滅することもある。



なんとか捕まえたいと考案されたドラムカン利用の罠も一つの民俗としてとらえるべきか、悩まされるが、暮らし、生活のすべては民俗。

これもまた、有りである。

昨年の11月には亥の子行事に同行していたから、次の家がどこになるのか、ある程度は予測できる。

しかも、風情のあるお家が多い。

狙って撮っておきたい民家がある。

ここも、あの家もと欲張りなことである。

ここのお家は亥の子のときから気になっていた。

亥の子のときには玄関状枠に見られなかった眼鏡型の注連縄がある。



それは当然であるが、その上にある藁で作った輪っかである。

亥の子のときに聞いた話しでは、それはいつの時代か覚えていないが、家の男性がお正月にかけたもので、なにかのおまじないでは、と云っていた。

あらためて聞いたその輪っか。

答えてくださった婦人は前に話してくれた人ではないようだ。

その人の話しによれば、茅の輪だという。

あるところに行って参った。

そのときに作らせてもらったという。

あるこころと云うのはどうやら岡山県の神社のようだ。

もらったのは10年前と話してくれた。

そうか、この輪っかは茅の輪であったのだ。

キツネガエリの一行の行動範囲は広い。

亥の子のときに見つけておいた祠がある。



そのときはもう暗闇になりかけ時間帯。

何を祀っているのかわからなかったから再訪である。

前回の亥の子時期と違いがある。

祠に立派な手造りの注連縄をかけていた。

長い幣を下げているから遠目であってもわかりやすい。

近くに住まいする昭和17年生まれのYさんの話しによれば、かつて庚申講があったという。

たしかにあった「南無青面金剛」の文字でわかる庚申石。



遠目ではわからなかったが、近づいてみれば注連縄に稲穂をつけた新穀もあった。

「こうしんてい こうしんてい おまいりだりや そわか」と春と秋のかのえさる(庚申)のときは講をしていたという。

ご馳走を食べていたが、茶菓子だけにした。

庚申さんの掛軸も廻していたが、お勤めができなくなったことから京都の庚申さんを祀る本山に戻したという。

(H29. 1. 7 EOS40D撮影)
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行事の取材に冷えた身体

2017年10月13日 09時25分59秒 | むびょうそくさい
ようやく食べられる遅い昼食は市販品の袋詰めのおにぎり。


能勢ショッピングスクエアNOSEBOX、予め立ち寄っておにぎりを買っておいた。

一つは味付けのりおにぎり。

もう一品は明太子おにぎりである。

いずれも税抜き価格で1個が百円。

着ていた服のポケットに入れていた。

食べた時間帯は午後3時半。



冷えた身体に冷えたおにぎりを立ち食いした。

それからの後半も取材し続けたこの日。

丸半日に亘ってキツネガエリをされていた能勢町天王区の皆さん方にお世話になったお礼を述べて、公民館を出ようと靴を履きかけたときのことだ。

すっと立ち上がった途端に身体がフワっとした。

流れるような感じの目眩であるが、このような状態になったのは初めてだ。

目眩であるが、目は廻っていない。

酔いでもない。

冷えたところから暖房の入った座敷で体感がおかしくなったのかもしれない。

平衡的バランスを失って玄関口で座り込んだ。

感覚が緩やかだったから、なんとか座れたが、気が失うほどであれば、完全に倒れているだろう。

たまたま傍に居た知人たちが身体を支えてくれた。

横になろうとも思わないし、目も廻っていない。

心配したこの日同行取材してくれた写真家の二人に心配をかける。

10分も経てばなんとか立てる。

平衡感覚は戻った。

心配するKさんは私の車でと、いうが、大丈夫と反応する。

たぶんに違いないヒートショックである。

身体状況を自分自身で診ながら車に乗る。

運転はできる。

しばらく走って能勢ショッピングスクエアNOSEBOX前のコンビニエンスストアに着くこともできる。

これなら大丈夫だと思って再出発。

ところが途中で足がこむら返り。

やはり足も冷えていたのである。

車を停めて足を温めて再出発。

念のためには阪神高速道路の脇に車を停めて足を温めて待機する。

足がつることもなくなって再出発。

その後は何の問題もなく我が家に着いた。

(H29. 1. 7 SB932SH撮影)
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能勢町天王区のキツネガエリ

2017年10月12日 09時07分26秒 | もっと遠くへ(大阪編)
正月明けの7日に「キツネガエリ(きつね狩り)」をしていると話してくださったのは子供会の会長さんだった。

場所は「亥の子」の行事をしていた大阪府豊能郡能勢町の天王区だ。

「キツネガエリ」に祭具がある。

「亥の子」の祭具は地面を叩くイノコ棒にサンダワラで作る獅子頭であるが、「キツネガエリ」には、まさに狐が登場する。

狐と云っても本物の動物の狐ではなく、藁で作った「キツネ」である。

もう一つの祭具はイノコ棒でなく、竹の棒に挟んだ「フクの神」である。

「亥の子」にも詞章があるが、「キツネガエリ」もある。

村の全戸を巡って玄関前で作法することも同じだが、詞章は異なる。

「亥の子」の詞章は「イノコのもちつき 祝いましょう かーねが湧くやらジンガミさん お神酒を供えて 祝いましょ」であるが、「キツネガエリ」の詞章は「わーれは なーにをすんぞ びんぼうぎつねを追い出して ふくぎつねをよびこーめ」と聞いているが、さてさてどうなるのか。

能勢天王のキツネガエリはかつて1月14日に行われていたという。

つまりは小正月の前日である。

それがどういう理由があったのか、聞きそびれたが、今では1月7日。

子どもたちが藁で作ったキツネをもって各戸を巡る。

玄関前ですることは「亥の子」行事と同じであるが、お家に降りかかる災いを除くとともに、新しき新年を迎える祝福の行事である。

かつては天王地区以外にもあったそうだが、現在は大阪府唯一の伝統行事である。

天王区は旧村全戸で65戸余り。

居住している村人はおよそ百人。

寒さ厳しい大阪最北部の山間地にある小盆地集落である。

杉本尚次氏調査(1970年代)研究ノート・桃山学院大学社会学論集『大阪府の民間信仰』に事例研究の一つに選んだ地区である。

論文にある天王区年中行事に正月8日に行われる寺の薬師さんの「8日トウ」や19日の「宮のトウ」に興味をもった。

「8日トウ」にはハゼノキで作る牛王杖がある。

それは宮衆に配られて苗代に立てると書いてあった。

まさにオコナイ、初祈祷の修正会である。

また、1月11日に7月1日は伊勢講もある。

また、現在は解散されたものの講中の遺産がある。

嘉永七年に建てた愛宕山の灯籠に文政十年の〇金刻印が見られる金毘羅さんの灯籠もある。

いずれも天王区の講中であり、それぞれ愛宕講に金毘羅講の「若中」と呼ばれていた若者組が建てたようだ。

また、5月8日の「ハナオリ」の日には参る習慣があった。

新仏のある家ではオハギ、団子を作って兵庫県三田市にある永沢寺に参ったとある。

永沢寺は秋葉講。

その関係もあったのだろう。

近年には「能勢の文化遺産・再発見」に食文化、住文化、年中行事などの伝統文化に関する調査されてきた関西大学文学部教授(当時)の森孝男のワークショップがある。

森孝男氏と初めてお会いしたのは平成28年11月20日に実施された奈良県立民俗博物館の企画ガイドツアーであった。

住居を専門に調査、論じてこられた森孝男氏の解説に魅了されたことを覚えている。

もう一度、お会いすることがあれば天王区のキツネガエリの調査について詳しくお聞きしたい、と思っている。

杉本尚次氏調査(1970年代)研究ノート・桃山学院大学社会学論集『大阪府の民間信仰』に1月14日の「きつね狩り」行事も書かれており、全文は次の通りだ。

「きつねの藁人形をつけたものを先頭に幣をさした青竹をもち、太鼓を叩いて(天王)神社に集合し、各家をまわる。厄払いである。このあときつねを川に流し、区長宅に引掲げる。菓子を食べ祝金を平等に分配する。小学校4年生以下の子供だが、最近は人員が不足し保育園児も参加する。亥の子よりも古いものと云われている」とあった。

1970代の記録であるが、仮に始めのころであれば、今から45年前の様相である。

それからどのように汎化したのか、それとも変わりなくしているのか興味津々の行事取材である。

昭和39年に撮影された映像記録がある。

平成25年7月10日発行の「三村幸一(※明治36年生まれの写真家)が撮った大阪の祭り―大阪歴史博物館所蔵写真から―」に一部掲載されたPDFがある。

それによれば「天王のきつねがえりは、大阪府内では能勢町天王だけで行われています。1月14日に、男の子たちが集まって藁でキツネを作り、御幣とともに青竹にさし、それを先頭に各家をまわります。最後はキツネの口に賽銭として硬貨を噛ませ、橋の上から川に放り投げます。キツネに象徴される害獣を、集落から追い出して福を招く行事です」とあった。

編集・執筆に関西大学大阪都市遺産研究センター研究員の黒田一充氏。

センターリサーチ・アシスタントに吉野なつこ氏の名が見られる。

良い仕事だけに展示図録があれば、是非とも購入したい「大阪の祭り」映像である。

その映像を見る限り、登場する男児たちの人数規模と当時の服装だけが違っているだけだ。

祭具や所作はまったく今でも同じように見える。

撮られた昭和39年から数えて今年で56年目。

長い年月を経ていても色褪せてはいない写真に感動する。

昼前に参集される天王のキツネガエリ。

亥の子の行事と同じ顔触れの子供たちが集まってきた。

子供会の会長さんもやってきた。

会長が手にしているのは、見た目ですぐわかる動力ヘリコプターのドローン。

村の記録に頭上からとらえる映像ものこしておきたいと買っておいた機械を持ちこんだ。

ドローンは初デビュー。

上手く撮れればいいのだが、電波は難なく届くだろうか。

集合場所は区称が天王神社の高皇産霊神社。

大木などが生い茂る社そうに、樹木よりもっと上からとらえる映像はわかるが、その樹木の下から発信されるコントローラーの電波が気にかかる。

樹木がある場合は見た目よりも電波は届かない。

木々の枝や葉で電波が遮られるのである。

試しに操作されてドローンを飛ばす。

難なく動いたから大丈夫と思われたが・・・。



キツネガエリに登場する主役は藁で作ったキツネ。

昔は子どもたちが作っていたが、今は区長さんの役目だそうだ。

この日までに作っておいた藁製のキツネは立派なものである。

真っすぐ伸びる青竹にきつねの胴体に突きさす。

その上にはこれもまた立派な幣がある。

青竹は手で持つ部分だけを葉付きにしている。

亥の子にもタイショウを務めたSちゃんが出発に役目する。

小さな子どもたちは青竹に挿した小幣を持ってキツネのお伴に就く役目だ。

もう一つの役目は太鼓打ち。

タイショウが囃すキツネガエリの詞章に合わせて太鼓を打つ。

太鼓は新しくもないが。

やや古い太鼓のような感じであるが、年代等の文字は見られない。

まずは練習を兼ねた出陣の一声である。



氏神さんを祀る高皇産霊神社に向かって2回繰り返すキツネガエリの囃子。

「わーれ(我)はなーに(何)をするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーし(寿司)を いくおけ(幾桶)つけて ななおけ(七桶)ながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネ(貧乏狐)をおいだせ(追い出せ) フークギツネ(福狐)おいこめ(追い込め)」である。

昨年の亥の子行事の際に聞いていた台詞は「わーれは なーにをすんぞ びんぼうぎつねを追い出して ふくぎつねをよびこーめ」と聞いていたが、それよりもっと長めの台詞であったし、若干の違いもあったことを知る。

詞章に合わせて、太鼓は「ドン ドン ドン、ドン、ドン」の打ち方で繰り返す。

こうして出陣したキツネガエリの子どもたちにSちゃんのお父さんでもある子供会の会長は付き添いを兼ねて太鼓持ちの役目に就く。

神社から祭具を持って地区南にある橋に向かう。

亥の子には幼児の参加は認められないが、キツネガエリは就くことができるから一緒に着いていって、本来の出発地点になる天王川に架かる小谷橋(別名に寺田橋)に再集合する。



橋上で行われる本来の出陣にお父さんが助っ人する。

下流に向かって「ドン ドン ドン、ドン、ドン」打ちの太鼓に「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」を囃す。

その音頭に合わせて小さな子どもたちは青竹に挟んだ幣を上下に振って、さぁ出発だ。

天王区は65戸の集落。

大きく分けて、集落中央を南北に走る県道173号線の自動車道を挟んで北東の上に南西の下がある。

かつてはその2地区にわけていたが、現在は7組になるようだ。

先に向かったのは北東にある集落。



なだらかな村の里道を歩いていく子どもたち。

幼子は母親が付いていく。

何軒か巡ってはその家に持ちこむ「フク」。

「フク」を持ちこむのはキツネであるが、実は御幣である。

年明けのこの日に、神さんではなく「フク」を家に招き入れるのがキツネガエリ。

玄関先でその作法をしている場合は留守の家。

キツネが内部に入り込んでいる場合は家人が在している場合であっても作法はまったく同じ。

台詞も同じで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」を2回囃し立てる。

キツネも幣振りの子どもたちも裏木戸からは入らずに、門屋の正門から入らせてもらう。



正門が低ければキツネも屈めて潜る。

扉から中に入れば、そこは広がるカドニワ。



広い場所でそれぞれがそれぞれの位置について「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」。

映像でもわかるようにここの家は家人が屋内で待っていた。

キツネは玄関内に入りこんで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。



「フク」を招き入れたキツネ役のタイショウ親子は気持ちよさそうに太陽を仰ぎ見る。

眩しそうであるが、胸を張っている。

やり遂げた感があって撮っている私も気持ちが良い。



役目をこなした幼児も誇らしげ。

意気揚々と門屋から飛び出して走っていく。

この日の午後は晴れ間もあってほどよい温もりを感じるが、実は寒い。

冷えた朝方に凍った池。



鯉は厚く張った氷の下を悠々と泳いでいる。

大阪府中心部の最低気温は1.4度。

最高気温が10.9度。

ところがここ能勢町天王区は大阪府の最北部。

標高は海抜540m。

中心都市部とは5度以上も差があるというからどれほど寒いことやら。

参考までに平成25年に行われた天王区のキツネガエリを取材した朝日新聞社による公開動画の映像は一面が真っ白である。

積雪することが多いと聞いていた天王区。

この日は降雪もなく、車はここまで到達することができたが、例年であればたいがいが積雪。

峠越えすらできない場合が多いと聞いていたから、私にとってはラッキーなキツネガエリ取材の日であった。



天王区の民家の佇まいが美しい。



昔はほとんどが茅葺の民家であったような趣がある。



そのような雰囲気を想定できる民家をバックにキツネガエリの作法をする子どもたちを撮る。

そのときの子どもたちの様相は一定ではない。

それだからこそ思わずシャッターを押してしまう。

今でも農家の佇まいをみせるお家もキツネが持ち込む「フク」。

「フク」は神さんでなく「福」である。

福とくればいわゆる招福である。

出発した時間帯は昼時間。

集落を巡ってまだ半分も行っていない。

まだまだかかる北東の地区である。

小休止する間に撮らせてもらう藁製のキツネ。



まるで生きているかのような姿、形。

目はらんらんと輝く赤い目。

なんの植物であるのか、尋ねた結果はアオイの赤い実だった。

写真ではわかり難いが、ぱっくり開けた、キツネの口には舌がある。

これもまたアオイの葉。

角の尖った葉ではなく、丸い葉を使うそうだ。

亥の子の獅子頭もそうだが、天王区に出没する「フク」や「豊作」招きに自生する花や植物。

場合によったら獅子頭の牙にする干しトウガラシもある。



手造り感もあるが、その姿は美しく躍動するのである。

キツネガエリに随行する子どもたち。

太鼓やキツネ囃子に幣を振る。

勢いよく上下に降る。

その幣は挟んだ青竹から外れてヒラヒラ落ちる。

それが「フク」である。



落ちたヒラヒラを拾い上げてお家の人に手渡して「フク」を授ける。

子どもたちは「フク」をもたらす従者でもあるようだ。

どの家も家人が居るわけでもない。

不在である場合はどうするのか。

見ての通りの郵便受けのポスト。



ポストの口を開けて何枚も何枚も突っ込む。

そんな感じであるが、「フク」はこうして届けているのだ。

何十軒も巡った午後1時であってもまだまだある「フク」を届ける訪問先。

ときにはお家の中で待っている高齢者もおられる。

了解をいただいて屋内でキツネガエリの一行を屋内で高齢の婦人とともに待っていた。

しばらくすれば一行の声が近づいてくる。

玄関の扉を開けて入室するキツネ。



タイショウは男の子に替わっていた。

囃す詞章も大きな声で、「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」。

太鼓は屋外で打っている。

家人が在室している場合のキツネガエリ作法は2回。

不在であれば1回になる。



幣を振っていた次年度のタイショウになると思われる女の子が玄関に入ってきて祝儀を受けとる。

受け取ればたくさんの「フク」を授かる。



あまりにも多いから手から「フク」が毀れそうになるが、授かった高齢の婦人は毀れそうな笑みになっていたのが印象的だった。

授かったヒラヒラの「フク」は神棚などに奉る人が多いように聞く。

ところでキツネガエリは天王区以外にあるのだろうか。

大阪府内では天王区にしか残っていないようだが、ここより北隣村になる兵庫県の丹波篠山の福住にもあるらしい。

そこでも同じようなマツリの様相であるが「福の神」の名で呼ばれる村の伝統行事であるが、近くの福住中・では「福の神・キツネガエリ」の名で呼ばれている。

「きつね狩り」は兵庫県養父市大屋町にもあるようだ。

ここも1月14日の行事日である。

「キツネガエリ」を「きつね狩り」とも称する地域もあれば、「フク」を各家にもたらす「キツネ」を「福の神」と称する地域もあることを知る。

ネットで検索すれば、もっと多くの地域に存在しているようだが、これ以上は当項で述べるつもりはない。

村の各戸をあまねく巡る一行は1時間ほどでどれほどのお家に「フク」をもたらしたのか、一軒、一軒、数えてはいない。

ざっと見渡して、未だ半分もいっていない。



本日の天候は晴れであるが、雪が舞う日であれば、歩きも困難であったろう。

祝ってくれる子供たちに目を細めていた高齢者の眼差し。



作法をされたあとにたくさんの「フク」を貰って一層、目が笑っていた。

そこよりすぐ近く。



アスファルト舗装にキツネが躍っている姿がある。

「こんにちは きつねがえりでーす」の文字で迎えたキツネガエリの一行。

道路に描いたのは子どもさんではなく、ヤッサン一座のだんまるさんだった。

どこかで見たことがある人だと思った。

会話してすぐに思い出した映像は大阪朝日放送の超有名な「探偵!ナイトスクープ」である。

登場していたのはお弟子さんのぼんまるさんであるが・・。

各地で活躍するプロの紙芝居屋である。

一年前に当地に引っ越してきただんまるさん一家。

ぼんまるさんとともに生活しているという。

天王区は素晴らしい村。

ここに惚れこんで移住したという。



村の一員でもあるだんまるさんの家にも「フク」を授けるキツネガエリ。

太鼓を打って、「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。

「フク」の幣は振る勢いもあってお庭に散らばる。

ここらで一服して食べてやと云われて差し出す手造りのおにぎり。



イロゴハンのおにぎりではなく、ふりかけを振ったおにぎり。

味付け海苔を巻いたおにぎりをほうばる子どもたちにとっては「フク」の神。

美味しそうによばれていた。



午後2時ころになってようやく半数の戸数をこなした一行は、集落を南北に貫く県道173号線を跨いで南西下の集落に向かう。

一軒、一軒に「フク」を授けてきた一行の先頭は3人のタイショウたち。

昔は数え年十歳の子どもが「テン」と呼ぶ「大将」を務めていたと子供会の役員が話す。

本来は1月14日であった。

昔は学校も休みにしてくれた。

次の日も休みだった。

男の子だけが行う村の行事だった。

キツネガエリはとにかく一番寒い日だったとことも記憶にあるという。

ちなみに白い幣は青竹に挟んでいるが、その青竹は「キネ(杵)」と呼び、幣を含めて「御幣」の名があるという。

タイショウが3人揃って作法するキツネガエリ。

お家の向こう側に見える建物は平成27年3月末をもって閉校した能勢町立天王小学校だ。

タイショウたちも御幣を振る小学生の子どもたちもみな、平成28年4月創立の小中一貫校の能勢町立天王小・中学校へ学び舎を移した。



不在のお家であっても、同じように作法をするが、一回限り。

散らかした「福の神」を拾い集めて郵便ポストに詰め込んだお家の窓には眼鏡型の注連縄。



ウラジロもある注連縄には緑色の松葉も飾っていた。



それを見届けて先を急ぐ。

前もってお願いしておきた家がある。

亥の子のときもお世話になったH家。

お家は立派に組まれた石垣の家。



門口には自作の松、竹、梅の門松を立てていた。

亥の子のときに撮らせてもらった玄関口をあがった場。

今回のキツネガエリもそうさせていただきたく、お礼を兼ねてお願いしたら了解してくださった。

要件を先に済ませて一行を待つが、やってくる気配を感じない。

今か、今かとやきもきされていた石垣の家の隣家婦人。

そういえば、ある時点になれば、どこかで昼食を摂ると聞いていたことを思い出す。

待つこと40分。



ようやく顔をみせた一行は隊を組んでいるようかに見えた。

待つ位置にやってくる一行をデジカメに撮っておきたいと話していた隣家の婦人にシャッターチャンスを教えていた。

きちんと撮れたかどうかはわからないが、一目散に戻ったお家。



キツネを玄関口から迎える婦人の姿は屋内だ。

太鼓打ちもそうだが、タイショウも次の年代の子どもに交替していた。

そしてやってきた石垣の家。

大急ぎでお家にあがらせてもらってスタンバイ。



キツネは玄関口を入ったところの立ち姿。

太鼓打ちは玄関前。



後方に本来のタイショウたちが並んで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。



祝儀を受け取る子どもはさらに若い幼子。



そして「フク」を授けるタイショウ。

お昼を済ませた後半は役目を入れ替わっていた。

これもまた次世代への引き渡し。

体験することで次の年代へ継承してきたのであろう。

休憩した子どもたちは英気を取り戻していた。



次の家、次の家へと巡ってキツネガエリに台詞を発声する。



どこかの時点で私も一服する時間を設けなければならない。

そうは思っているものの時間も場所も確保できない。

昨年の11月には亥の子行事に同行していたから、次の家がどこになるのか、ある程度は予測できる。

しかも、風情のあるお家が多い。

狙って撮っておきたい民家がある。

ここも、あの家もと欲張りなことである。

眼鏡型の輪っかの正体がわかったところで一息つける。

キツネガエリの子どもたちは子供会の親が運転する車に乗って南部に位置する新興住宅地に向かっていった。

ここより歩いては到底追いつくこともできない遠い地。

亥の子のときもそうだったが、そこまでは、と思ってここで待つことにした。

見送った時間は午後3時15分。

ようやく食べられる遅い昼食。

食べた時間帯は午後3時半。

冷えた身体に冷えたおにぎりを立ち食いした。

一行が再び戻ってくると思われる場で待っていた。

天王川に架かる橋である。

そのすぐ傍にあった建物に窓が開いていた。

どなたかがおられるようで人影が動く。

民家でもないような建物内に器械が見える。

興味のあるものは何でも聞いてしまう民俗収集癖がある。

屋内におられた数人の女性は作業の中休め。

お仕事は中高校の運動用のジャージ縫製であった。

縫製の機械であったのだ。

長年においてこの仕事をしているという女性が云うには「家内工業の規模ですわ」という。

昭和17年生まれのYさんの話しによれば、ここ天王区は凍り豆腐が盛んな土地だったという。

天王区は標高が高いだけに冬場はとても寒い。

この日の朝もマイナス5度になった、という。

ここ天王区は霧が降りない土地。里も篠山になるらしい。

凍り豆腐は天然の畑で干していた。

窓から指さす県道の向こう側の畑。

今ではすっかり消えて面影すらない。

凍り豆腐の製造に適していた天王区に10軒以上の工場があった時代は昭和33年ころ。

但馬の人が凍り豆腐の仕事に就いていた。

父親を亡くした時代になるそうだ。

当時はこんな幅広い県道もなかった。

今から40年も前の昭和38、9年になって開通した新道の県道である。

幅広い県道に天王川に架かっていた橋は下流に移動せざるを得なかった。

一回移してからもう一回下げたという。

その橋の名はキツネ橋。

当時の橋といえば、丸太にトタン板。

垂木で橋にしていた。

話しをしてくれる婦人はここへ嫁入りして50年にもなる、という。



このキツネ橋が架かる辺りに生息しているのがオオサンショウウオ。

地域を定めない生息確認域の天王川、細谷川、奥野々川を所在地とする国指定の特別天然記念物であり、大阪北部農と緑の総合事務所による保護活動がなされている。

Yさんはさらに話してくださる。

お爺さんは板を並べて、凍り豆腐をイデかしていた。

イデかすとは凍らすということだ。

「イデる」は濁音だが、本体は「いてる」である。

「いてる」は「凍てる」である。

「凍てる」が濁音化して「イデる」となったわけだ。

ちなみに凍り豆腐を作っていたお爺さんが云った言葉がある。

アレを川に流したら凍らないという伝えがある。

「アレ」とは何ぞえ。

それは「キツネ」である。

もうすぐ戻ってくるキツネガエリの一行。

戻ってきたら、キツネの口に5円玉を銜えさせて川に投げ込む。

投げ込んだか川の流れにまかされてキツネが流れる。

そうすれば、凍り豆腐は凍らないということである。

そのキツネは昔も今も一匹。

昔は子どもが作っていたが、今は区長が作る。

小学4年生以上の子どもたちが集まってキツネガエリをしていたが、いつまで続けられるか心配される少子化時代である。

ここで凡そ45分も待っていた。

新興住宅地にも「フク」を授けていたキツネガエリの子どもたちが戻ってきた時間帯は午後4時15分。

数年前までの出発時間は午後2時。

すべてを終える時間は夜の時間帯の午後7時。

少子化によって女の子に幼子も入れて継承してきたが、あまりも遅くなっては子どもに危険が及ぶ可能性もあると考えられて、これまで時間よりも2時間早くした。

そのおかげもあって、現在は午後12時から午後5時まで。

日が暮れないうちに終えるようにされた。

残すはあと1軒。



最後の力を振り絞って元気よく声をだす。

「わーれ(我)はなーに(何)をするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーし(寿司)を いくおけ(幾桶)つけて ななおけ(七桶)ながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネ(貧乏狐)をおいだせ(追い出せ) フークギツネ(福狐)おいこめ(追い込め)」の詞章である。

「わーれ」は「我」であるが、「藁」の可能性も拭えない。

奇妙なのは「きーつねのすーし」である。

この「すーし」はお寿司である。

何故にお寿司が詞章にあるのか。

福井県おおい町の川上上方事例に「狐の寿司は七桶八桶 八桶に足らんとて 狐がえりするわ」がある。

同県同町の川上父子事例では「狐がえりがえりよ わら何するど 若宮をまつるとて 狐がえりがえりするぞ 狐のすしは七桶なから 八桶にたらぬとて 狐がえりがえりよ」である

福井県事例から考えるに、天王区の詞章に「寿司」があってもおかしくはない。

しかも天王の詞章に「いくおけ(※幾桶)つけて ななおけ(※七桶)ながら・・」がある。

寿司は七桶であるが、遠く離れた土地に類似性をもつのはまったく不明である。

また、兵庫県美方郡香美町(香住区香住)に町指定無形民俗文化財に「入江きつねぎゃあろ」がある。

同町のHPには「キツネ狩りは播磨・丹波そして但馬の全域、県外では東が福井県の白木半島(三方町)西は鳥取県米子市に至ります。大体兵庫県・京都府北部を中心に、若狭から伯耆[ほうき]に至る山陰地方に広がっており、入江の「キツネ狩り」は嫁の「シリハリ」と習合した形態をもつ伝統行事で貴重な文化財」とあるかた、相当広範囲に亘ってキツネ狩り(キツネガエリ)があるわけだ。

ちなみに兵庫県のわらべ歌に朝来町の「狐狩り」の詞章がある。

その他の地域も多種多様。

鳥追いと同じ意味をもつというのが興味深い。

各地の民俗事例から考えるに、天王区のキツネガエリは、狐追い行事のような気がするのだが・・・どうだろうか。

さて、天王区のキツネガエリは各戸に「フク」を授けて、終わりではなく、最後にキツネの川流しで終える。

場所は出発地点と同じ、天王川に架かる小谷橋の上である。

午後4時半の記念写真。



4時間半にも亘って行ってきたキツネガエリは笑顔で〆た。

そして始まった〆のキツネガエリ囃子。

勢いよく太鼓を打って御幣も振る。

詞章も大きな声で力強い。



そして、「いっせーのっ」とみなが声をかけて放り投げる。



Yさんが話してくれたキツネに銜えさせる5円玉は確認できなかったが、天王区の人たちに「フク」を授けたキツネは流れる川に身を任せるように下流に流れていった。

すべてを終えた一行は天王公民館に集合する。

講堂と思われる場に大きな版画を掲示していた。



「貧乏ぎつね追い出せ 福ぎつね追いこめ」の文字がある版画の背景にある民家は茅葺家。

その前に並ぶ5人の子どもたち。

キツネをもつタイショウの顔はどことなく女の子に見える。

右に並ぶ小さな子どもも女の子。

服装は昔風であるが、この様相から近代になって描かれたものであろう。

かつての情景であるなら、男の子だけのはずだが、作品は素晴らしい。

さて、今年の子どもたちは、といえば、座敷で寛いでいた。

冷えた身体を温めてくれる部屋ストーブ。

薪でもなく電気フアンストーブである。

子供会の会長や役員さんは各家からいただいた祝儀を集計して分配される。



袋のお金はいったいなんぼやろと透かしてみる子どもは中学生。

下の子どもは眼中にないように見えた。

携帯電話に記録された歩数計。

実質の歩行時間は1時間41分。

距離にして5.2kmだったことを付記しておく。

(H29. 1. 7 EOS40D撮影)
(H29. 1. 7 SB932SH撮影)
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