マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

美濃庄の行事を尋ねて

2012年09月30日 08時27分21秒 | 楽しみにしておこうっと
大和郡山市内の旧村の件を調べていた前月のことだ。

旧村のことは昭和41年に発刊された『大和郡山市史』を拝読するに限る。

柳澤文庫専門委員会が調査し編集された市史である。

6年ほど前に拝見したことがある市史は多くの民俗のことも語られている貴重な史料。

13日、14日の両日に亘って調べていた。

そのなかに「八月朔日節句の御湯」があった。

それは美濃庄町山王(権現)神社で行われていた行事である。

御湯が書かれているだけに早期の確認が必要だと思った。



美濃庄町にはその山王(権現)神社と大将軍神社がある。

場所は数百メートルも離れている。

旧村で二社を祀る処は多くない。

これまでにも何度か下見に行ったことがあるが、村人の姿は見られない。

この日に訪れた山王(権現)神社。

ひとっこ一人も姿がない。

仕方なく集落を歩いたが・・・。

やむを得ずとある家を通りがかった。

もしかと思い声を掛けた。

ワンワンと吠える番犬。

不審者と思ってか、吠える、吠える。

家の中から現れたご婦人。

調査趣旨を伝えてお尋ねしたが、御湯のことは聞いたことがないと話す。

ご婦人は法貴寺が出里。

当地に鎮座するいけにますあさぎりきはたひめじんじゃ(池坐朝霧黄幡比賣神社)の名をすらすらという。

一般的には池坐神社と呼ばれているのがすらすらとだ。

子供のときに乗っていたダンジリ。

コンンコンチキチと鉦を叩いていたと話す。

そのダンジリの現在はお蔵の中。

曳行することなく蔵に納められている。

一言、「ヤマモリ」と伝えれば、弁当持って食べていたと思いだされた。

「あんたよう知ってはんな」と云われた。

同神社では今でもオンダ祭が行われている。

そんな話題をすれば懐かしいと返ってきたN婦人の話によれば、山王(権現)神社には十人衆で司っているという。

ということは宮座が現存しているのだ。

そうであればO家を尋ねてはどうかという。

O家は美濃庄で10軒もあるという。

あるO家を訪ねたが、西の方のO家であるという。

あっちこっち訪ねてようやく辿りついたO家。

なんでも最近になって十人衆になったそうだ。

行事のことは入ったばかりで詳しくは判らないという婦人。

御湯は聞いたことがないが、毎月の第一日曜は月次祭を営んでいるそうだ。

十人衆は長老制度。

勤めができなくなったときや引退を申しでるまで勤めているという。

一老は出屋敷に住んでいるという。

10月のマツリは15日であったが、昨今の事情で体育の日の前日に移行したそうだ。

ちなみに山王(権現)神社が鎮座する処は小美濃(こみの)と呼び、北方の大将軍神社がある処は大美濃(おおみの)と呼ぶらしい。

それぞれの神社ごとに祭礼が行われているようである。

(H24. 8. 1 SB932SH撮影)

ススキ提灯と祭文音頭の夕べ

2012年09月29日 09時21分06秒 | 民俗を観る
この日の夕べに催しされた奈良県立民俗博物館の特別催事。

館内での打合せを終えて飛びだした写真家たち。

どこをどうとらえるかが楽しみだ。

催事の会場は大和民俗公園内に寄せられている旧臼井家住居付近。

高取町上土佐に所在していた町家だ。

開演時間も過ぎていた広場。

大和茜会は河内音頭に江州音頭を披露する。

音頭取りのご仁のお顔はS氏。

館内でいつもお世話になっている。

もう一組は田原地区伝統芸能保存会のみなさん。

始まる前は館内で「大和の祭りと芸能」の企画展を拝観中だった。

馴染みの顔ぶれに笑顔が溢れる。

同団体は昭和53年、奇跡的に復活した祭文語りと、これを盆踊りに活かした祭文踊りを披露する。

団体のOさんは出合う度に、産経新聞に載せてくれたんやと私を紹介する。

ありがたいことだが田原を紹介したのは“日本で唯一残る”祭文語りと“香り味わう家庭の味”のホオの葉弁当の2件だ。

Oさんの話によれば80食も作ったホオの葉弁当はあっという間に売り切れたという。

また、団体の一人であるSさんは10月6日から展示される「私がとらえた大和の民俗(2)」写真展にも登場することを付け加えておく。

会場は大勢のお客さんらでひときわ賑わっている。

県内各地でお世話になった人たちも来られていた。

出合う度に久しぶりの歓談。

あっちでもこっちでも出合う度に話をするものだから撮影には気がいかない。

会場の下支えもしていただいている人たちも顔なじみだ。

この日の会場は朝から“そうめん流し大会”が行われていた。

昼からの会場は予定人数を遥かに超えたと聞く。

会場設営は朝からだったそうだ。

夕べの会場もテント内で焼けた笑顔を見せるYさん。

「疲れたなんてことは言えない」と白い歯を見せる。

夕べの催事のトリは御所市鴨都波(かもつば)神社のススキ提灯。

ススキ提灯と呼ばれる大きな竿灯を持つ鴨の宮若衆会。



2本の提灯を操るダイナミックな演技に見惚れる。

同地では夏祭りと秋祭りに登場するススキ提灯。

昭和27年までは夏祭りだけであった。

それだけに秋祭りよりも夏祭りに集まってくる客数が大差の開きと聞いている。

(H24. 7.29 EOS40D撮影)

本庄町八幡神社夏祭りの御湯

2012年09月28日 08時21分00秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市本庄町の八幡神社と熊野神社の二社を祭祀している宮座。

神社の祭り日は時勢に影響されることなくかたくなに守っている宮座は8軒。

宮座の当家を勤めるのは二人。

一人はアニと呼ばれる年長者で八幡さん。

出雲系だとされる熊野神社は年少のオトウト当家が勤める。

それぞれの分霊神さんを家で一年間も祀る。

9月20日は分霊遷し。

マツリの宵宮は10月14日で、翌日の本祭は和装でお渡りをする。

オーコと思われる棒に担ぐのは根付きの稲束だそうだ。

マツリの日程は揺らぐことなく決まっていると話す宮座総代のU氏。

平成23年5月に荒れていた八幡宮を整備された本庄町。

鳥居の建之、二基の大燈籠、拝殿の改築、手水舎などである。

明治3年の築造の本殿を140年ぶりに改築されたのである。

前年の平成22年には境内地の整備もしておいた。

神社の西燈籠には「嘉永五年(1852)二月吉日建之」の刻印が見られる。

他にも文化六年(1809)や寛政八年(1796)の記銘も見られる燈籠がある。

鎮座地の小字は宮ノ坪。

北隣にある天井町の神社の南側は宮ノ前だ。

本庄町の神社庁登記は八幡神社としている。

杉町の八幡神社は本庄町の八幡さんを分社したという。

天井町の八幡宮には延寶六年(1678)に建之された燈籠がある。

その頃であったのかどうか、断定できる史料は残っていない。

なお、八幡神社側の狛犬の台座には「人足中」とある。

寄進者の名だが人足とあるのは珍しい。

この日は座の夏祭り。

筒井菅田神社の二宮宮司と若槻町の巫女さんを迎えて神事が執り行われる。

神事の際には二神とも祓われたそうだ。

かつての巫女さんは城下町内の堺町に住む女性だったそうだ。

引退されたのかどうか覚えてないが、止められたことから若槻の巫女さんに頼むことになった。

それは50年も前のことだと話す。

それを終えれば場を移して境内へ。

斎場には新しい釜を設えている。

沸かす火はプロパンガス。

この点においては効率化が進められている。

御湯の作法は近隣旧村の天井町、杉町、丹後庄町と変わりない。

湯を清めて四神を本庄町に呼び起こす。

お釜の回りを取り囲むように立つ座中と農家組合の人たち。

夏の災いを除けて健康で村中が安穏であるよう祈る御湯の神事。



笹をお釜に浸した湯をかぶるように立ち並ぶ。

清らかな湯で身体堅固。

夏祭りの御湯はこうして終えた。

座中は拝殿に登ってささやかに営む直会。

供えたコンブ、スルメ、マメ(フライビーンズ)を口にしてお神酒をいただく。

祭り後に拝見した神社は三つ巴紋の軒瓦だ。

鬼瓦には三つの牛玉宝印があった。

改修されるにあたって瓦は新しくなったが、古い瓦は大切に残されている。

それにもあった牛玉宝印彫り。

神宮寺が存在していたのではないだろうか。

境内はこんもりとした盛り土がある。

塚のようだと話す一角に「黒照大神」の石碑がある。

村とは直接関係はないが、城下町の岡町で生業していた女郎らが参っていたと伝わる。

(H24. 7.28 EOS40D撮影)

矢田東村権現さんのマツリ

2012年09月27日 06時43分47秒 | 大和郡山市へ
矢田町に権現さんが祀られていると聞いた東村。

古くからそこに存在していたという権現さんはお社は権現堂。

当番の人が供えた野菜。

採れたてのトマトやキュウリにピーマン。

果物にブドウやハランキョもみられる。

ローソクに火を灯して村人を待つ。

一人、一人と参拝にやってきた。

権現堂には一本の石柱がある。

「矢田」、「大正」、「宝前」などの文字がうっすらと見える。

当時住んでいた人が宝前した石柱のようだ。

権現堂がある地はキョウモンザカと呼ばれている。

漢字にすれば経文坂であろう。

そこは村の里道(りどう)を登った処である。

坂名から考えられるのはお寺の存在であるが、その地を示すものはどこにあるのだろうか。

権現堂のヤカタ瓦には三種の紋様がみられる。

西側に巴紋。

東側はオモダカ(沢瀉)だ。

ヤカタ中央の鬼瓦には平四つ目紋。

一つのヤカタに三種の紋のあり様は珍しいとN氏が話す。

氏が話すには持ち主の紋が四つ目結紋で、立ちオモダカ紋は持ち主が偲んだ豊臣秀長公<天正十三年(1585)城主>であったのではという。

三つ巴紋は多武峰の談山と考えられ、後世に入れ替えられたのではと話すが、オモダカ紋で知られるのは水野勝成公<元和4年(1618)城主>或いは福島正則公とも考えられる。

また、多武峰の談山は上り藤である。

かつての持ち主に聞かなければならないが燈籠には「談山権現」の文字が読み取れる。

しかし、これ以上は史料の出現を待たなければならない。

歴史を物語る権現さんのマツリは東村7軒の営み。

お参りを済ませてゴザを敷いた場で供えたお神酒とともに御供をいただく。

(H24. 7.28 EOS40D撮影)

新石切店ラー麺工房薩摩っ子ニンニクらーめん

2012年09月26日 06時43分05秒 | 食事が主な周辺をお散歩
大阪へ行くには早い道で第二阪奈道路。

ゆっくりしたいときは阪奈道路と使い分けている。

時間に制約がなくて費用がかからん選択だ。

この日は石切にある病院への見舞い。

家の雑木の剪定というか、中身的には伐採そのもの。

何年か前もしてもらった人材センターに発注するのだが、高いことは承知の上。

手の施しようがない雑木なんだけど・・・。

で、人材センターで見積もった見積額は3万円。

いつも通りの高額剪定。

それを終えて出発したから昼飯前。

なんとかなるだろうと一路東大阪。外環状線を南下する。

ここら辺りは変化がないようだが、ところどころの店が替っている。

退院直後に入った店もない。入院中の思いが叶って食べたのが寿司。

たったふた切れで満足してしまった。

長期の入院生活で胃袋が大変化していたのだ。

それはともかくシャロンは今でも健在だ。

被服団地前の信号向こうは大きな看板のらーめん。

油っこいのは好まないかーさんは無視。

仕方なく石切に向けて南下する。

この道路にあった食べ物屋。

寿司屋やうどん屋もあったはず。

そんな店はとおに閉店している。

だからないやろ。

信号を越えたところにまたもや大きな看板のらーめん。

ここにするかと駐車した。

お店は「ラー麺工房薩摩っ子」。

ニンニクらーめんの文字が見える。

ドアを開けて入店したが、メニューがない。

席は個室のような作り。

既に12時は過ぎていた。

あっちもこっちもお客さん。

食べているらーめんが香ってくる。

席にもメニューがないと思っていた矢先に店員さんが持ってきたメニューに目が飛び出した。

「えっ」。最低価格が950円。

その名も「らーめん」他にもいろいろあるがそれ以上の価格帯。

最高価格はなんと1550円。

「まるとくチャシューラーメン」とある。

らーめんがどんだけぇやねんと云いたいくらいだ。

昔懐かしい空心町の味と書いてある。

新発売の角切りチャシューラーメン(まるとくらーめん)だそうで、1050円のもある。

店員さんに聞いた。

950円のらーめんと1050円のまるとくらーめんの違いはどこにある。

らーめんは普通のスライスでまるとくらーめんは角切りだという。

同じチャシューだが切り方が異なるというだけだ。

そうであるなららーめんでいい。



しばらくして持ってきたらーめん2杯。

一つはニンニク入りでもう一つはなし。

たっぷり入ったニンニクの香りが眼前に漂ってくる。

食欲をそそる香りだ。

たっぷり入ったモヤシとネギで麺が見えない。

麺はもっちりしている。

出しはと言えばトンコツのショウユ味。

コクはどうなんだろう。

見た目は薄いが味は濃い目。

かーさんは美味いと唸った。

さて、チャシューはどうかな。

分厚く切ったスライスチャシューはトロトロだ。

たぶん三枚バラ肉であろう。

一挙に口へは入らない。

これは美味い。

できればチャシューだけでも買いたいくらいだ。

950円の価値はある。

が、ラーメンってなんでこんなに高いんだろう。

モチモチ麺は中細麺・・だと思う。

コクがあるようでない、出汁は魚介類感じない。

おそらく入っていないと思う。

スープに浮いた細切れニンニク。

これが決め手のラーメンだと思った。

美味いスープは飲みほしてしまう。

底には粒粒のニンニクがとごっている。

さすがにそれだけは勘弁だ。

お店のサブ看板には「元祖ニンニクらーめん」とあるだけに、それが売り物であろう。

ちなみにニンニクなしを注文したかーさんのらーめんは味が異なる。

ショウユが勝っているように思えるほどの辛さ、濃い目だった。

ニンニクを投入することによって味が変化するのであろうか、それとも味付けが違うのだろうか。

数時間後の帰り道。

ニンニクが利いてきた。

ブスブス・・・。

文字では表現し辛い。

ネットで調べてみれば2年前は850円だった。

八尾店では1200円だという。

なんでらーめんがこんなに高いのか・・・。

(H24. 7.27 SB932SH撮影)

白土町浄福寺地蔵盆会

2012年09月25日 08時44分10秒 | 大和郡山市へ
本来ならばこの時期に採れた野菜などをお供えをするのであるがと前置きされた住職。

この日は大和郡山市の旧村の一つである白土町の地蔵盆。

浄福寺境内で営まれる。

かつてはソラマメを甘く炊いたものを供えていた。

供える家の味付けだったようで4、5軒が供えていたそうだ。

地蔵盆を終えればソラマメを少しずつ分けて持ち帰る。

それを「ホウセキ」と呼んでいた。

「ホウセキ」はおやつ。

いつしかお菓子に移り替った。

「南無阿地蔵菩薩」の名を刻む六字名号石は江戸時代に建立された石仏。

どこからか出てきた石仏はお寺で祀るようになったと話す。

古くなった地蔵堂。

お地蔵さんを信心する施主たちが寄進を寄せてお堂を改修された。

平成20年のことだという。

その際に揃えた提灯が左右に立ち並ぶ。

施主は50軒ほどにもなるというから村人のほとんどが協力したそうだ。

日が暮れたころにやってきた村の子供たち。

親とともに参拝する。

提灯に火が灯されて始まった地蔵盆会。

住職が唱える地蔵経に心静かに耳を澄ませる。

お供えをされた人たちの名を詠みあげる。

「なむあみだぶー なむあみだぶつ」の追善供養もされた。

お念仏を終えれば一人ずつ焼香する。

住職が子供のときは同級生が8人もいた。

1クラスが50人だったと話す。

当時の学校グランドは石ころだらけだった。

朝早くから遊んでいた。

「お地蔵さんは、どんなことをしていても子どもたちを見てくれる。ここに来て遊ぶ子は元気な子だ」と集まった子どもたちに話しかける。



地蔵盆会を終えればお楽しみの花火大会。

お寺公認の花火が上がる。

一つ、一つの打上花火を並べては火を点ける住職。

ボンと発する音に驚く子もいるが視線は天空へ。

夜空に打ち上がる花火に見惚れる。



数えてみればおよそ60発。

夏の夜のひとときを楽しんで帰っていった。

(H24. 7.23 EOS40D撮影)

上吐田地蔵尊尼講の地蔵盆

2012年09月24日 07時41分18秒 | 川西町へ
融通念仏を唱える金福寺の住職。

2メートルほどの高さの石仏地蔵尊。

立派な形は舟形光背をもつ。

ゴザを敷いた場に座っているのは上吐田の尼講たち。

「なんまいだぶっ なんまいだぶつ」を唱える地蔵尊の法要だ。

この日は暑かった。

西日が射しこむ時間になっても暑さはかわりない。

団扇で煽ぎながらの法要である。

舟形光背の地蔵尊は東向き。

法要の場の両脇には高張提灯を掲げている。

それはめいめいが持ってきた家の提灯。

ずらりと並ぶ。新しい花を飾ってローソクを灯す。

家内安全、五穀豊穣、除災を願う回向法要である。

上吐田の地蔵尊は大和川の堤防にある。

垣根に囲まれた中だ。

かつてはここより50メートル向こうの西側にあったそうだ。

大和川の堤防工事があった際に移された。

60年以上も前のことだと話す尼講たち。

上流の下永から流るる大和川。

下流にあたる南吐田は田原本町を流れる寺川と合流する。

ここら辺りはかつて水ツキに悩まされてきた。

堤防ができるまでは蛇行を繰り返す大和川であった。

安堵町との行政境界線をみれば明確だ。

かつての大和川に沿っている境界線は蛇行の跡を示す。

それはともかく、数人の欠席があったがこの日に集まったのは8人。

かつては30人の講員からなる大所帯だった尼講。

「若い人が入ってくれんから・・・」とこの先を案じる。

講の当番は二人。月に2回は地蔵尊を清掃しているという。



法要を終えれば般若心経。

続いて唱えるのが西国三十三番のご詠歌だ。

ご詠歌されている間も見られない村人たち。夕日が沈んでいった。

(H24. 7.23 EOS40D撮影)

旧広島町の地蔵盆

2012年09月23日 09時58分22秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市内は城下町。

ところどころに面影の外堀が残っている。

今でも水路として利用しているのだ。

野垣内町・鍛冶町から西観音寺町を流れる外堀。

文禄五年(1596)、ときの城主であった増田長盛によって外堀が普請されたのである。

馬場でもあった旧小川丁の堀はかつて秋篠川であった。

現在の奈良口に架かる大橋。

かつては柳橋と呼ばれていた。

そこでは直角に流れを替えている。

普請によって川は東へと流れを替えて佐保川と合流する。

普請されるまでの秋篠川の流れは真っすぐに南下していたのである。

その川を利用して外堀にした。

10mも越えるほどの堀幅が現存している。



その辺りにあった「お土(どえ)居の松」。

今では消えているが名残を示す案内札が立てられている。

そこから南、そして東へと流れを直角に替える堀は広島池と呼ばれている。

広島池の北側は武家屋敷があった。

旧広島丁だ。

ときの城主である第二次本多家時代から家臣団が増えつつあった。

丁名の広島は広島から連れてこられた家臣団であった居住地であることからその名がついたと住民は云う。

現在の行政地名は西観音寺町。

自治会名称は昔通りの広島町自治会である。

地区の人たちによって守られている地蔵尊がある。

広島池を背にして北向きに祀られた地蔵さんは22の石仏。

平成24年7月20日に建て替えられたお堂(社とも)に納められている。

以前のお堂は建ってから60年以上も経過して朽ちてきた。

浄財を集めて新しくなったお堂は円融寺(矢田町通)の住職によって落慶法要された。

賽銭泥棒が横行する昨今。

「それは地蔵さんの人助けだ」と云ってとやかくは云わないと話す。

この日は旧広島町の地蔵盆。

始めるにあたって郡山中学2年生の男の子が鉦を叩いて町内を巡っていた。

この日の地蔵盆を知らせる鉦の音が町内に響き渡る。

旧広島丁の通りを抜けて蟹川へ。

そこからは西に向きを替えてお土居の松があった小川丁馬場へと向かう。

同学年の女の子も鉦を打ちたいと云って代わってもらい打ち鳴らす。



特に決まりもない鉦打ちはカン、カン、カン・・・・「適当だ」と云う。

道路を渡って鍛冶町に出向いて打ち鳴らす。

地蔵盆は子供の祭り。

多くの子どもが来てくれるようにと呼出鉦を打ち鳴らして巡回する。

郡山北小学校で遊んでいた子どもたちは一体何事なんだろうかというような顔で見ている。

観音寺町、西観音寺町と北鍛冶町を挟む交差点。

そこはかつて大門風呂があったという。

大門の名がつくようだから、そこも城下町の侵入を防ぐ関所があったのであろう。

幹線道路ができてなくなったという。

そこをとおり抜けて戻ってきた鉦叩きの子供たち。

町内を一周するには20分もかかる。

地蔵さんにはお供えをする。

ナス、キュウリ、カボチャ、サツマイモなど季節の野菜にブドウやモモなどの果物も供えている。

他にはコーヤドーフ、シイタケに乾麺も見られる。

地蔵さんは真新しいよだれ掛けがみられる。

真っ赤なよだれ掛けは寄進の心をもった人が前日に着せかえてくれたそうだ。

役目を終えた古いほうのよだれ掛けは燃やした。

灰になったよだれ掛けは東に向けて流れる川に流される。

川は秋篠川に流れる水路だそうだ。

昔からの言い伝えによって灰を流すと話す婦人たち。

それがどういう意味をもつのか判らないという。

そんな話題をしている時間ともなればお参りにくる人もやってきた。

親子揃って地蔵さんに手を合わせる人も少なくない。



揃って手を合わせる子どももいる。

子どもを守ってくれる地蔵さんは地域の守り神なのであろう。

地蔵盆の数珠繰りが始まる前は地域のイベント。

会場には自治会の人たちが用意した金魚すくい、輪投げやビンゴゲーム。

子どもたちと共に親も競って参加する。

子どもの楽しみの一つになる地蔵盆。

来てくれるからやりがいがあるのだと話す自治会の役員たち。

暑い日差しを避けた会場が盛り上がる一時間。

その会場にゴザが敷かれた。

かつては地蔵さんの前で行っていたが角地の家が空いた場所にしたという。

数珠繰りに転じた旧広島町の地蔵盆。



大きく輪になって子どもたちが座る。

15、6人にもなった数珠繰りの輪。

真ん中には鉦を叩く導師が座る。

この導師も子どもである。

県内各地で数々の数珠繰りを拝見してきたが、子どもが導師を勤めるのは聞いたことがない。

珍しい光景が繰り広げられる旧広島町の地蔵盆数珠繰り。

若干の大人も混じって始まった。

「なんまんだぁ なんまんだぶつ」を唱えて鉦を叩く。

昨今は30回ほどになったがれっきとした百万遍数珠繰り。

この年は50回も数珠繰りをした。



その様相に興味を覚えたよちよち歩きの幼児。

仲間に入りたい意思表示が微笑ましい。

こうして終えた旧広島町の地蔵盆。

供えた御供のお下がりを貰って帰る。

(H24. 7.23 EOS40D撮影)

かつやのエビフライ丼

2012年09月22日 09時16分39秒 | 食事が主な周辺をお散歩
この日の筒井の朝はどこからから食欲をそそる香りが漂う。

たいていの場合はカレー粉の香りなのだが・・・この日は違った。

ハウスの工場はフライにしたのか。

なんてことを思った。

仕事を終えて通る今国府の街道には「かつや」がある。

先だってはテイクアウトのトンカツ丼を頼んだ。

家に持ち帰って食べても美味さは感じなかった。

フライのサクサク感がなかった。

汁けを吸ったご飯も美味くない。

店で食べるのがいいのだろうと帰り道に寄った「かつや」。

相変わらずお客さんが多くて満席だ。

席を待っていたら声が掛かった。

以前に勤めていた駐車場で働くNさんだ。

顔見知りの方々とともに食べてはる。

案内されて座った席。

この日の注文はエビフライ丼だ。

手ごろな価格帯の丼はカツ丼と同じだ。



カウンターテーブルにやってきたエビフライ丼。

細いがエビフライが5本も盛ってある。

千切りキャベツが飯を覆う。

マヨネーズもたっぷり載せられてあった丼。

ガツガツ・・・サクサク・何を食べても美味いのだ。

持ち帰りとは大違い。

やっぱり店で食べるのが一番だ。

マヨネーズキャベツだけでも飯が入る。

味はといえば、ソース味。

たっぷり染み込んであと口に残るのはソースとサクサク味。

飯の量が多すぎるくらいだと思ったが満足感に浸った。

(H24. 7.23 SB932SH撮影)

窪之庄の行事2

2012年09月21日 08時41分28秒 | 楽しみにしておこうっと
6月の田植えを終えれば農休み。

農休みを「さなぶり」と呼んでいたと、平成4年4月に編纂発刊された小冊子『語りつごう、くらしの文化』に記されている。

それによれば、アカメシ(赤飯)を荒神(こうじん)さんと呼ばれる竃(かまど)に供えたそうだ。

クロメ、野菜、マメのメシを食べる。

1把の苗はオクドサン(竃)の上にマメのメシを供えるとある。

田植えを終えた奈良市窪之庄に再び訪れた。

お世話になったH家を尋ねていった。

マメの件は聞くことなかったが、田植えを終えたその日に苗一把を炊事場など4か所に供えたという。

いまでもそのようなことをしているのは数軒だという。

ちなみに苗代に挿していた「ゴボウサン(ゴオウサンであろう)」は持ち帰ってとんどで燃やすという。

それを拝見した「ゴボウサン」を挿してある木はイチジクの木だという。

数々のゴオウサンを拝見してきたがイチジクの木は初めて見るものだ。

それらは、ウルシ、フジ、ヤナギなどであったが初見のイチジク。

お許しをいただいてお札を広げてみれば「牛王 八阪神社 宝印」の文字がある。

それには三か所に亘って朱印が押されている。



まさにゴオウサンである。

八阪神社はかつて牛頭天王社と呼ばれていた。

いわゆる「ゴズサン」である。

「ごずサン」と「ゴボウサン」は似ても非なるものである。

おそらく神宮寺があったものと考えられる朱印。

いつしかお寺が廃れて神社行事に移ったものと思われる。

初めて目にしたご夫婦。苗代に立てる意味を始めて知ったという。

そのお札のことは、2年前に訪れた際にSさんに教わった。

八坂神社に牛頭天皇祭がある。

初集会でもある、その日は宮方によって行われる。

めいめいが神社に参拝したあとは公民館に集まる。

そこにお札を並べておく。

集会を終えた氏子たちはそれを持ち帰るということだ。

H夫妻もそう話す。

集会所で行われるのは村の集会で新年会も兼ねているそうだ。

そこには予め作っておいたお札が20本。

それを持ち帰る、或いは配るというのだ。

苗代の水口マツリ、田植え後のナエサン供えをしてきたH家では稲刈りを終えたときにも家の行事をされる。

稲刈りに使ったカマを箕の上に載せているという。

8月13日はオショウウライサン迎え。

ムエンサンにはトーシにドロイモの葉を敷いて食べ物を供える。

そこには二尾のサシサバも置くという。

カラカラに乾いた塩漬けのサバは柔らかめ。

食べればものすごく辛いという。

昨年に伺った山添村のサシサバは堅めだったが、今でもサシサバが窪之庄であるとは思いもよらなんだ。

両親が揃っておれば二尾とするのも同じ有り方だ。

かつて八坂神社のトーヤを勤めたことがあるというH家。

息子のときだった。

授かった御幣は今でも家に残しているという。

不要の判断になったときは神社の樹木に括りつける。

それらの行為をされた分が今でも残る神社だ。

同じことをSさんが話していたことを思い出す。

また、マツリにはキョウと呼ばれるメシを一合枡に詰めて作っていたそうだ。

ウルチ米であったから押してもバラバラになるという。

押し固めるにはモチゴメを少々いれなければならないと話す。

この件は柳生の宮司さんが話していた。

四角いメシ(ムシメシ)や大きなお団子状のメシもあったというからそれであろう。

そのマツリではトーヤが神社へ向けてお渡りをしていた。

辻ごとに発声する詞は「トーニン、トーニン、笑いましょ、ワッハッハ」であったようだ。

(H24. 7.22 SB932SH撮影)